第一章 コトノハのこと
商店街の外れにある喫茶コトノハが閉店する、という話は、十一月の冷え込みとともに町に広まっていった。
創業から三十年。オーナーの田辺さんが腰を悪くしたこと、息子夫婦が別の町にいること、そういう事情は、近所の人なら誰でも知っていた。
あの店には、定食屋の代わりに入ったような顔で来る常連が何人もいた。カウンターで新聞を読む人、奥のテーブルで編み物をする人、雨の日だけ来てコーヒーを飲む人。
閉店の知らせが貼り出されてからも、しばらくの間、コトノハはいつもと同じように営業を続けた。
その店で、最後の数ヶ月だけ働いていた若者がいた。
名前は水上慶。二十二歳。
彼について、この町の何人かが、少しずつ違うことを覚えている。
*田辺さん(コトノハ オーナー)の証言*
「ハローワークで紹介してもらったんです。うちはもう閉めるつもりだから、短期でいいよって言ったんだけど、慶くんは『それで構いません』って言って。
若いのにえらいなあって思ったんだけど、あとで聞いたら、実家に帰る前の時間つぶしみたいなもんやったみたいで。
でも、本当によく働いてくれましたよ。閉店後に必ず椅子を逆さまにして、床を丁寧に拭いてね。誰が来るわけでもないのに。
一度、古い地図を持ってきてるのを見かけたんです。うちの店の近辺が書いてある昔の地図。何に使うのかなって思ったけど、聞きそびれちゃって」
*木村さん(スーパーのパート、六十二歳)の証言*
「うちのスーパーの裏口のところで、何度か彼を見かけましたよ。閉店後にね。あのコンクリートの段差があるじゃないですか。そこに腰かけてね。
最初は不審に思って、声をかけようかなって思ったんですけど、全然怪しい感じじゃなくて。ただぼうっとしてるみたいで。
冬やから、周りに灯油のにおいがするでしょ。あのにおいの中で、じっと座ってるんですよ。
あ、そういえば、手袋を片方だけはめてたんですよ。右手だけだったかな、左手だけだったかな。なんで片方だけなんやろって思ったけど、声かけそびれてしまって。
二週間くらいの間に、三回か四回は見かけましたかねえ」
第二章 裏口のそばで

*上田くん(中学二年生)の証言*
「俺、自転車で通ったとき見たことある。夜の七時くらいかな。
その人、段差に座ってなんか見てたんだよね。紙みたいなの。地図かな、よくわかんないけど、なんか広げてた。
声かけようかと思ったけど、なんか邪魔したらいけない感じがして。怖いとかじゃなくて、その人が一人でいなきゃいけないみたいな、そういう感じ。
でも次の日、コトノハでホットチョコレート飲んだとき、そのお兄さんが出してくれてね。カップにちっちゃい猫みたいな絵を描いてくれた。すごい上手くて。今でも覚えてる」
*北川さん(元郵便配達員、七十四歳)の証言*
「わしはあのスーパーの裏を夕方によく散歩するんですよ。犬の散歩がてらね。
ある晩、若い子が段差に腰かけてるのを見ましてね。最初はゴミでも出しに来たのかと思ったんだが、そうじゃないみたいで。
声をかけたんですよ。『寒くないかい』って。
そしたら彼、ちょっとびっくりした顔してから、『大丈夫です』って言って。
でもなんか思ったより寂しそうな顔しとったから、わしも少し話しかけてね。
地図を持っとったんで、なんの地図か聞いたら、『昔この辺にあった川の跡を探してる』って言うんですよ。今は暗渠になっとる、地下に埋まってしまっとる川を。
面白い趣味やなあって思って、わしも話しましたよ。昔はこっちに用水路があったとか、あの銭湯の裏手が湿地みたいだったとか。
彼、すごく真剣に聞いてましたね。メモもとって。
また来てくれるかと思ったんですが、それっきりだったかなあ」
*川瀬さん(コトノハの元アルバイト、十九歳)の証言*
「私、コトノハで慶さんと二ヶ月ちょっとだけ一緒に働きました。
慶さん、本当に静かな人で。忙しいときでも声を荒げたりしなくて、常連さんの顔を全部覚えてて。
一度、閉店後の片付けを一緒にしてたとき、聞いたんですよ。『なんでここで働こうと思ったんですか』って。
そしたら慶さん、少し考えてから、『なんか、好きだったんですよね、こういう店』って言いました。
もう少し聞こうとしたら、外から灯油のにおいがして、『あ、寒くなったなあ』って慶さんが言って。
そのまま話が終わっちゃって。
あと、片方だけ手袋してるのは私も気になってたんですよ。聞いたら『もう一方、どっかでなくしちゃって』って笑ってたんですけど、でも、全然新しいの買う気がなさそうで。
なんでかなあって、今でも時々思います」
第三章 最後に残ったもの
コトノハが閉まったのは、十二月の二十日だった。
最終日、田辺さんは午後三時に暖簾を下ろし、ドアに「長い間ありがとうございました」と書いた紙を貼った。
常連客の何人かが花を持ってきた。誰かがケーキを持ってきた。最後の一時間は、もはや営業なのか、ただの集まりなのか、わからない時間になった。
水上慶は最後まで厨房にいて、来た人にコーヒーを出し続けた。
田辺さんが「もういいよ」と言っても、「もう少しだけ」と言って、椅子を拭き、カウンターを拭き、最後にガスの元栓を閉めた。
それきり、誰も彼のことを見ていない。
*田辺さんの、もう一つの証言*
「一個だけ、言ってなかったことがあって。
閉店の日の夜、私が忘れ物をして店に戻ったんです。そしたら、もう慶くんはいなくなってるはずなのに、スーパーの裏の方から灯油のにおいがして。
見に行ったら、誰もいなかったんですよ。
段差のところに、片方だけの手袋が置いてあって。
そして、古い地図がね、石で押さえられて、広げたまま置いてありました。
この辺一帯の、昔の水路が書いてある地図でした。
持って帰ろうかと思ったんですが、なんか、そのままにしておいた方がいいような気がして。
翌朝、また行ったら、なくなってました。
慶くんが取りに来たのか、別の誰かが拾ったのか、それは私にはわかりません。
あの子、今どこにいるんでしょうね。
元気ならいいですけど」
スーパーの裏口には今も、段差がある。
冬になると、どこからか灯油のにおいが漂ってくる。
誰かが置いていったのか、もともとそこにあったのか、それさえも定かではないが、春になる少し前、古い地図の切れ端が一枚、風に吹き寄せられてあの段差のそばに落ちているのを見た、と町の誰かが言っていた。
それが本当かどうか、確かめた人はいない。


