A LITTLE STORY BREAK
今日の気分に、
一冊ぶんの余白を。
通勤の途中、眠る前、少しだけ立ち止まりたい夜に。
読み切れる物語を、静かな本棚から選べます。
無料・会員登録不要で読める、短編小説のオンライン文庫。
ほんの少し、
すこしの時間。
68 storiesOUR BOOKSHELF
新着の物語

68作品を公開中
気になる表紙からどうぞ
コロッケは、最後に買う
いちばん好きなものは、最後に。……のはずだった。
四十四歳の校正者・秋津佐和子は、五年ぶりの好物を商店街の食べ歩きの最後に取っておく。けれど後輩の菜央は、朝一番の揚げたてをさっさとひと口。たい焼き、餃子、雨宿りのつくねと寄り道を重ね、予定表の二重丸まで雨でにじんでいく。匂いと会話と揚げたての熱でつづる、秋の一日。
日帰りなのに、歯ブラシ
日帰りなのに、歯ブラシ。その理由は、四十四歳の秘密でした。
四十代の元同僚二人が、海辺の町・潮戸へ日帰りの小旅行へ。大きなトートに歯ブラシまで入れた千景と、小さなバッグ一つの律子。十九年前から行きたかった喫茶店は定休日で、食べ歩きにも思わぬ事情があった。予定を組み直した二人は、潮が引いたときだけ現れる砂の道を歩いていく。
額縁の外の、青い鳥
きのうは右にいた。けさは左にいる。
休みの日に水彩を描いて六年。初めて町の作品展に出した千春の絵で、青い鳥が前日と反対側に止まっていた。熱心に写真を撮っていた隣の出品者を、思わず問い詰めてしまう。けれど彼は、自分の写真を見せて「調べましょう」と言った。絵と額のまわりを普通の観察で確かめる、趣味の楽しさを描く日常ミステリー。
冬眠係の、寝坊した朝
冬眠係、初日から寝坊。迎えに行くのは、峠の巨大な「冬守」。
町の眠りを守る新任のリツが、大事な迎えの日に正午まで寝坊した。眠れないホクトと、冬を見たくて眠りたくないユズハを連れて峠へ急ぐ。けれど巨大な冬守は、凍った鏡池の真ん中で昼寝中。日没までに連れ帰らないと、町は春まで寝不足になる。リツの背負い袋には、誰にも言えなかった冬の楽しみが入っていた。
風見鶏は、北へ行きたい
九十年、北を向いてきた。今日こそ、その先へ歩く。
写真館の屋根から下ろした銅の風見鶏が、屋根屋の鳴海に「一度でいいから北へ行きたい」と頼む。動けるのは風が吹く間だけ、進めるのは風上へだけ。地上では迷ってばかりの鳴海にも、三度引き返した北端の標柱と、買ってみたい燻製りんごがあった。持ち主の許可をもらった二人は、北風の日に町を歩き始める。
兄の結婚式は、平服で
「平服で」と言われた妹、新郎新婦とまさかのおそろいに。
兄から届いた結婚の食事会の案内は、ご祝儀なし、平服で。会場に電話し、食後にボウリングをすると知った妹・衿子は、古着屋で緑のシャツを見つける。ところが当日、新郎新婦もチームシャツ姿だった。「投げる前に一言」の決まりで家族の挨拶がほどけ、兄妹対決も始まる。この二人らしい祝い方の、にぎやかな一日。
マイクは、まだ返さない
間奏は、飛ばさない。
一月の行き先を決めるのは、ゆかりの番。内緒のカラオケは、とっくにミコにばれていた。好きな歌を十四曲メモしたのに、まずは無難な一曲へ逃げてしまうミコ。7分42秒と9分12秒、どちらが先かの譲り合いが始まる。知らない歌も長い間奏も、二人きりの七号室で最後の一音まで楽しむ、ミコシリーズ第16話。
今日は、何もしない予定です
何もしない日は、思ったより忙しい。
一月も終わりに近い日曜日。ミコはカレンダーにまで「何もしない」と入れて、読みかけの本と音楽、窓の光の四角、おもちを楽しみにしていた。けれど頭の中の五人は時間割を作り、本は行方不明、ようやく座ると雲がやってくる。食器はあしたの係にして、光を追って座布団ごと引っ越す、少し欲張りな一人の午後。ミコシリーズ第17話。
ひよりの席は、まだ決まらない
「わたしの席」だと思っていたのは、わたしだけだった。
坂の上シネマで初めて映画を見てから五週間。高校二年の宮下ひよりは、自分のおこづかいで選んだ映画を見に、土曜の二回目へ出かける。ところが、「わたしの席」と思っていたD列の左端には予約の印が。常連の柴田さんと予約の主を推理するうちに、ひよりは、この映画をどこで見たいのかを自分で確かめはじめる。坂の上シネマ第4話。
同じ映画で、笑えなくても
いちばん好きな映画で、となりの人は笑わなかった。
坂の上シネマの売店係・灯は、休みの日に前の職場の先輩・七海を、自分が何度も笑った映画にさそう。赤いソファが玄関を通らないだけの、とびきりのコメディ。ところが隣の七海は、ソファの場面で笑わない。灯は図まで描いて「笑いどころ」を説明し、もう一回見ようとまで言い出してしまう。好みのちがう二人の、坂の上と坂の下の一日。坂の上シネマ第5話。
大人のお子さまランチ
旗を立てたいのは、ライス? それとも、プリン?
校正の仕事をしている44歳の千景は、休日に友人3人と「大人のお子さまランチ」を作る。ノートには、自分で描いた一枚の皿の設計図。丸いチキンライスに旗を立てて、写真を撮って食べるはずだった。ところが、旗はプリンに立つもの、新幹線のお皿、おもちゃこそ本体、と4人の記憶はばらばら。崩れるドームと傾く旗の、おいしいコメディ。
母の初ライブは、二階席
付き添いのつもりだった。母のほうが、ずっと先輩だった。
63歳の母からライブに誘われた34歳の早紀。娘が好きだったからチケットを取ってくれたのだろう、一人では心細いのだろう。そう思って付き添いを引き受けた。ところが当日、母が着ていたのは1998年のツアーTシャツ。財布から出てきたのは、更新シールの重なった会員カードだった。二階席で始まる、母と娘それぞれの初めてのライブの夜。
雨なのに、乾いた傘
雨の夜、貸し出した傘が、一度も開かれずに戻ってきた。
港町の宿・汐見屋で夜番をする27歳の透。楽しみは、初めて送ったメールが深夜のラジオで読まれること。その夜、灯台へ出かけた客に渡した七番の傘が、いつの間にか傘立てへ戻っていた。外ではずっと雨樋が鳴っているのに、傘は折り目の奥まで乾いている。空欄の返却帳、靴跡、向きの変わったスリッパ。乾いた傘が残した、小さな夜の謎。
雲を干す、木曜日
六週間かけて染めた雲。空に出せるのは、半分としましま。
空に近い町・雲棚町で、雲を洗って干す職人のミオ。六週間かけて染めた自分の雲を、夕方の祭りに出すつもりだった。ところが乾ききる前の雲が突風でほどけてしまう。先輩のトモエと二人、三時の鐘までに町じゅうへ散らばった糸雲を集めなければならない。取り戻せた雲は小さくなり、色もしましまに。それでもミオは、広場へ向かう。
猫の市役所は、昼寝中
窓口は昼寝中。案内係は寄り道中。それでも、月の広場へ行きたい。
バスツアーの行程を組んで20年の澄子は、雨上がりの路地で猫だけの市役所を見つける。壁の地図には、何も描かれていない「月の広場」の丸。行ってみたいと思って通行申請書を書くが、窓口の三毛猫は昼寝中。案内係の白黒猫も、蛾を追い、紙袋に入り、寄り道ばかり。段取りが通じない町を、自分の好奇心で歩く、ふしぎな夜の冒険。
うちの猫には、推しがいる
私のことは半目。隣の人には「んるる」。
校正係の古賀頼子は、四歳の茶トラ猫あられと二人暮らし。ある朝、あられが隣の坂巻さんにだけ、聞いたことのない甘い声で鳴くのに気づく。通路の「点検」、キャットタワーの模様替え。大人げない作戦はどれも空回りして、とうとう隣人へ手紙を出してしまう。猫の好みも自分の嫉妬もそのまま抱えて続く、小さな暮らしのコメディ。
手加減しないって、言ったから
予習してきたゲームで負けて、知らないゲームで勝った土曜日。
「次はミコの番」の約束を果たすため、ミコは友人のゆかりをボードゲームの店へ誘う。時刻を書いたしおりを用意して、電車の遅れや冷たい風まで謝ってしまうミコ。けれど本気のゆかりは、手加減してくれない。しおりにないゲーム、十秒のタイマー、取れない延長。くやしくて、楽しくて、少し疲れた一日。ミコシリーズ第14話。
タンバリンは、まだ鳴らない
鳴らさないあいだも、曲はちゃんと進んでいる。
十二月の合奏体験に、自分で申し込んだミコ。目立たないように「小さな打楽器」を選んだはずが、渡されたのはいちばんにぎやかなタンバリンだった。一回目は早すぎ、二回目は待ちすぎ。頭の中の五人まで拍子を数えはじめて——。音の残り方と待つ楽しさを見つける、ミコシリーズ第15話。
ポップコーンは、塩から
映画館の売店に入ったばかりの灯は、自分の大好きな「スパイス黒糖」で人気投票に勝つつもりだった。
坂の上の小さな映画館で売店に入った三浦灯は、夜ごと自分の部屋で作り込んできたスパイス黒糖のポップコーンを、館の新しい味にしたい。新作の初日、キャラメルとの人気投票に挑むが、静かな場面の多い映画の暗がりで、甘く辛い匂いと黄色い指は音のようにはまぎれなかった。負けた灯が選んだのは、自分の味を薄めることではなく、売る場所と時間を変えること。そして、地味だと思っていた塩から始めることだった。
最前列に、だれも座らない
予約帳には親子の名前。映写室の窓から見下ろす最前列には、だれもいない。
坂の上の小さな映画館で受付と映写を担当する河合悠は、映写室の小窓から客席の頭の動きを見るのが好きだった。ある土曜の最終回、いちばん前の席を予約した親子が確かに入ったはずなのに、窓から見る最前列には頭ひとつない。数えると、売れた券より二人足りない。もぐりこんだ客か、それとも自分の目か。翌朝、同僚と客席を試した河合は、窓からは見えない場所と、そこで起きていた小さな迷惑を知る。
エンドロールの、つづき
四十三年通った映画館の案内役。持ち時間は五分。話したい思い出は、便箋八枚ぶんあった。
坂の上の小さな映画館に四十三年通う柴田澄江は、はじめて来る人のための回で、上映前の案内を頼まれた。うれしくて書いた思い出は、予行で二十分を超えてしまう。はじめて館に入る高校生のひよりが知りたかったのは、お手洗いの場所と、途中で出てもいいのかと、映写室の中だった。古い半券に残る姉の字から、澄江は自分の「いつもの席」の理由を思い出す。案内のあと、客席に座ったひとりの客として、澄江はこの作品の最終上映を楽しむ。
母が買った、青い自転車
赤ペンで何百回も直した鳥の名前を、母は自分の目で見に行く。
定年退職した芳江は、青い電動自転車を買った。行き先は川向こうの野鳥観察会。かつて会報の校正で何度も直した『コガモ』を、本当に見たくなったのだ。ところが最初の遠出は、帰りの坂で電池が切れてしまう。心配する娘と少し頑固な母が、送迎だけに頼らない新しい約束を探す、可笑しく温かな家族の短編。
竜のくしゃみと、朝のパン
竜の息で焼くパン屋の、いちばん長い朝。
竜の息で石窯を温める町の焼き場。新人のリツは初めて朝の窯を任された。相棒の竜ススが吹ける長い息は、ひと朝に四つまで。予備が残れば、自分のくるみパンも焼けるはずだった。ところが長い息の途中でくしゃみが出て、窯の熱が乱れてしまう。限られた息、待っている客、ずっと焼きたかったパン。失敗と選択を描く、おいしい相棒ファンタジー。
二度鳴った、閉館のチャイム
閉館のチャイムは一日に一度だけ。なのに『二回聞いた』と言う中学生がいる。
町の資料館で、閉校した小学校の特別展を任された千晴。毎日十六時五十分、その学校の楽器を録音した閉館チャイムが流れる。ところが常連の中学生が『昨日は二回鳴った。二回目はもう外にいた』と言い出した。音を聞いた場所、鍵の行き来、毎朝撮る展示の写真。いつもと同じ合図を聞き直す、温かな日常の謎。
猫の似顔絵は、似ていない
模様は全部合っているのに、知らない猫の顔をしていた。
取扱説明書の図を描く千尋は、画材店の公募展に飼い猫・親方の肖像を出したい。けれど、三晩かけて写真から描いた猫はどう見ても『よその猫』。目の前で描こうとすれば背中を向け、おやつを持てば顔を袋に突っこむ。モデルになる気のない白黒ハチワレと、壁に自分の名前を飾りたい三十六歳の、少し欲張りな趣味の物語。
合鍵を返す、日曜日
二人で借りた部屋の鍵は、二人で返したい。
六年一緒に住んだ亜紀とみのりが、部屋を明け渡す最後の日曜日。予備の鍵が見当たらず、退去の立ち会いはいつの間にか亜紀ひとりの役目になっていた。割り勘の電動ドライバー、持ち主を知らなかった脚立、みのりが差し出す新居の合鍵。荷物と役割を分け直し、それぞれの楽しみに向かう、大人の友情の短編。
その写真には、わたしもいる
「撮るほうが落ち着く」も、本当だったけど。
卒業して六年。大学のゼミ同期六人が、昔よく通った洋食屋に集まることになった。ゆかりも来る。気づけばミコは五台のスマートフォンを順番に預かり、いつもの撮る係に。撮るのは好きだし、みんなも楽しそうだ。でも、持ち寄った学生時代の写真には、自分の影しか写っていなかった。次の集合写真には、わたしも入りたい。言い出すまでと、そのあとが、どちらも大事件になる日曜日。
勝ちたいって、言っていい
「すみません」と言ったけど、すみませんとは、少しも思っていなかった。
仕事帰りの第二会議室で、手作りの果物カードゲームに誘われたミコ。勝っても負けてもいいつもりだったのに、先輩が待っていた札を取る指が、なんだか軽い。最後の一手を前に、親切に見える手と、自分が勝ちたい手のあいだで迷う。相手は、何を考えているのか読めない後輩の瀬戸さん。頭の中の五人も予想していなかった、小さな負けず嫌いの発見。
開店前のまかない三人分
三人で同じ朝ごはんを食べたかった。三人とも、朝が違った。
小さな喫茶店で働きはじめて三週目の結は、一週間、朝のまかないを任される。理想は、三人で座って同じ一皿を食べること。ところが店主の沖さんは二口でフォークを置き、菓子担当の真壁さんは「あとで」とオーブンへ向かう。張り切った二日目には、思わぬ失敗まで。予算は一日六百円、作る時間は二十分。結は二人の朝を、もう一度よく見てみることにする。
読まない読書会
四年前に買った最終巻。読めたのは、まだ三行。
大好きだった長編ファンタジーの最終巻を、千夏は四年間、帯をつけたまま本棚に置いている。公民館の図書室の読書会に「好きな一冊」で申し込んだものの、毎晩開いては三行目で眠ってしまう。断りに行った図書室で出会ったのは、詩を三編しか読まない人と、毎日長編を読む厳しい常連だった。
父のプリンはすこし固い
父のプリンは、母のとは全然ちがう。固くて、苦くて、失敗作だと思っていた。
半年ぶりに実家へ帰った葵。冷蔵庫には、父が作ったプリンが三つ。湯のみに入ったそれは、固くて、カラメルが苦い。喫茶店のプリンを四十七軒食べ歩いてきた葵は、父が母のとろとろのプリンを再現しようとして、うまくいっていないのだと思う。卵を減らして、火を弱めて、と口を出す娘。「これがうまいんや」と聞かない父。日曜日の台所に、二人で立つことになる。
雲の港ではじめての配達
届け先の市が、風で流れていった。
雲の海に浮かぶ港ソラナギで、見習い配達人のハルが初めて一人で預かった荷は「雨瓶」。小さな雨雲を閉じこめたガラス瓶を、日没までに渡り市のドウマ婆さんへ届けなければならない。ところが、朝の位置札に書かれた場所に、市はなかった。口の悪い渡し舟の漕ぎ手ロクと、雲鳥を追って空の市を探す、一日だけの配達の冒険。
焼き菓子店の空っぽの箱
一時間前に詰めたガレット八枚が、リボンを結んだまま消えていた。
焼き菓子店「こみち」で包装と受渡しを担当する澪は、夕方、予約の箱にカードを添えようとして手を止めた。軽い。リボンをほどくと、中は空っぽだった。一時間ほど前、自分の手で焼きたてのガレットを八枚詰めた箱。結び目は、自分の結び方。店主の「店頭が足りん」という言葉、新人アルバイトの落ち着かない手、予約帳の余白。澪は、箱と帳面とレシートを見比べはじめる。
星見荘の開かない朝
彗星まで、あと十五分。観測窓を開けるハンドルが、消えていた。
高原の小さな宿・星見荘。千景は、明け方の三十分だけ見える彗星を、宿の観測小屋の望遠鏡で見るために、半年前から予約していた。前の晩、宿の主人と客たちと一緒に望遠鏡を整え、観測ノートに作業を記録した。ところが翌朝、観測窓を開けるためのハンドルが、小屋からなくなっていた。彗星が山の端から出るまで、あと十五分。
猫が先に引っ越してきた
荷ほどきの前に、いちばん日当たりのいい部屋は、もう猫のものだった。
鉄道の保線の仕事を定年まで勤めた久雄は、坂の町の古い平屋へ越してきた。日当たりのいい六畳の窓辺に、鉄道模型の線路を敷くのが、いちばんの楽しみだった。ところが段ボールを開ける前に、その陽だまりの真ん中で、大きな鯖白の猫が寝ていた。追い出しても、戸を閉めても、なぜか戻ってくる。猫には、この家での長い午後の習慣があった。
夜空の仕立て屋とほどけた星
祭りの前の夜、星が一つ、ほどけた。
港町トワイルの天幕祭の夜、広場の上空には、町の人が一年に一つずつ頼んだ星飾りが光る。仕立て屋の見習いリツは、前の晩の試し掛けで、鍛冶屋オルガさんの「金槌の星」をほどいてしまった。一度ほどけた星糸は、光が半分になる。十年前の完成図どおりに縫い直そうとするリツに、縫うのが下手な相棒のジンは「遠くから見たら、塊にしか見えない」と言う。月の出は、二十時十分。
日曜日の補欠たち
お茶当番四年目。二十四年ぶりに、グラブをはめた。
日曜日の朝は、ずっと息子の少年野球のお茶当番だった典子。高校のソフトボール部では三年間補欠で、公式戦の打席に一度も立てなかった。地域の女子ソフトボールチームに誘われて、二十四年ぶりにグラブをはめると、フライは額に当たり、同じ日に入った年下の片山さんのほうが先に上達していく。地区大会まで四週間。典子は、日曜の朝六時半のグラウンドへ通いはじめる。
帰りの電車でパンを割る
全員の希望を入れた行程表で、わたしだけ、何も見ていなかった。
大学の同期三人が、三年ぶりに港町へ日帰り旅行に出かける。幹事の環は、分刻みの行程表を作った。早紀は名物のパン屋に並びたい。千尋は岬に座って絵を描きたい。全員の希望を一つ残らず入れたはずの一日は、パン屋の七十分待ちから少しずつずれていく。環が急かすたびに、千尋は黙っていく。帰りの特急は、十七時五十二分。
六冊目の、行き先
九時四十分には、白い前足の猫だった。
自分が「読んでよかった」と思った六冊を手放す、一日だけの本の交換会。主人公の夏帆は、朝の光で六冊を撮り、新しい持ち主の手に渡る瞬間も全部写真に残すつもりだった。ところが開場して三十分、右端の一冊が、同じ題名の違う本に替わっていることに気づく。
帰路の設計図
鐘が鳴るたび、扉の行き先が変わる。ただし、でたらめではない。
二時間ごとに鐘が鳴り、扉の行き先が変わる迷宮街。時計修理屋の真柴透は、仕事に必要な古い歯車を探しに、荷運びの組の頭・凪と街へ入る。凪の依頼は「うちの若いのが毎日使える帰り道」。言い伝えを試し、文字盤を記録し、透は扉の規則に近づいていく。
「どこでもいい」の、つづき
「どこでもいいよ」と返したら、候補が七つになって返ってきた。
大学時代の友達・ゆかりから「土曜、会わん? どこ行きたい?」とメッセージが来た。ミコは「どこでもいいよ」と返す。ゆかりと会えるなら、本当にどこでもよかった。ところが、ゆかりから届く候補は三つ、そして七つに増えていく。
試着だけで、帰っていい
「似合ってます」に「ありがとうございます」と言うたび、買う人になっていく。
会社の冷房よけに、夏の羽織りを探しに来たミコ。小さな服屋の店員・安田さんは、試着するたびに「似合ってます」と言い、色違いまで持ってきてくれる。どれも素敵だった。でも、どれも探しているものとは少し違った。親切にしてもらったあとで、「今日は買いません」と言えるだろうか。
教える係は、教わる顔をしている
十二ページの手順書に、いちばん大事な一行が書いてなかった。
中途で入った瀬戸さんに、半日だけ、毎週の備品発注を見せることになったミコ。前の晩に作った手順書は十二ページ。読み上げても、瀬戸さんはうなずくだけで、質問を一つもしてこない。わかっているのか、わかっていないのか。今度は自分が、誰かを緊張させる側にいた。
二人一組の、みじん切り
隣の包丁が速すぎて、わたしの仕事がなくなっていく。
単発の料理教室で、初対面の古賀さんと二人一組になったミコ。にんにく一かけの皮をむいているあいだに、古賀さんの包丁は玉ねぎもピーマンもなすも刻み終えてしまう。返事は短く、顔も上げない。気づけばミコの手には、たたんだ布巾しか残っていなかった。
目的地まで、あと二つ
道は知っている。足が知っている。口が知らない。
梅雨の晴れ間の土曜日、駅前で熊本から来た姉妹に道を聞かれたミコ。行き先の小さな資料室は、毎週前を通る道にある。知っているはずなのに、説明しようとすると「いつも曲がるところ」に名前がない。地図は南が上。目印のたい焼き屋は、シャッターが下りていた。
インターホンまで、三歩半
隣の部屋まで、三歩半。いちばん遠い三歩半だった。
四月の土曜の朝、突然の宅配便に慌てたミコは、隣の部屋宛ての荷物を受け取ってしまう。中身は「なまもの・掘りたてのたけのこ」。お隣の中園さんとは、会釈しかしたことがない。インターホンまで、たった三歩半。頭の中の五人が、今日も全員会議を開く。
町内会の議事録に、来年のことが書いてある
来年の議事録に、自分の字で「全会一致で廃止」と書いてあった。
町内会の書記を押しつけられた森下航は、議事録帳の白いはずのページに、来年一月の会議の記録を見つける。書いてあるのは自分の字で、「夏祭りを全会一致で廃止」。続けたい人もいるのに、なぜ全会一致になるのか。未来の一文を変えようとした航は、会議に来られない人や、断れない人の事情にぶつかっていく。
閉店セールは三回目
今度こそ閉める。返せていないものを、ひとつずつ。
祖父の金物店を閉めるため、週末ごとに帰省する奈緒。けれど商店街の人たちは、三度目の閉店セールを誰も信じていない。棚卸しで見つかったのは、二年放置された鍋、名前だけの箱、持ち主のわからないやかんのふた。数えて、返して、引き継いで。店を閉める日までの、少しおかしな家族の物語。
ミコ、忘年会の幹事になる
頭の中は大混乱。でも、幹事は待ってくれない。
極度の臆病者・齋藤ミコが、断れないまま会社の忘年会幹事を任されてしまった。店選び、電話予約、集金、乾杯、締めの挨拶。頭の中の小人たちが大騒ぎするなか、意外なひとりが初めて頼れる英雄になる。
三階の、誰も座らないベンチ
届かない場所に、母は言葉を残していた。
母の葬儀から半年。遺品整理を続ける奈津は、古い日記に繰り返し記された駅ビル三階のベンチを訪ねる。誰にも届かないはずの掲示板に、母が残していた言葉とは。すれ違った十年を静かにたどる、苦さと温かさの残る物語。
電話が怖い、コートが大きい
電話一本が、コートよりずっと重かった。
ネット通販で届いたコートは、ミコには明らかに大きすぎた。交換期限はあと一日、問い合わせ窓口は電話だけ。42個の想定質問、自動音声、12分の保留を前に、頭の中の小人たちと臆病なミコの長い一日が始まる。
三週間目の、白い待合室
病院に行くだけで、今日は大勝利。
三週間続く咳を不安に思いながらも、内科の予約を入れた齋藤ミコ。受付、問診票、名前の訂正、診察、薬局での質問、そしてコンビニの「袋いりますか」まで、ひとつひとつの小さな場面に心の本部が大騒ぎする。完璧ではなくても、ちゃんと行けた一日を描く短編。
ドアひとつぶんの全員会議
怖いまま、ドアだけ開けてみる。
初めての店に入るのが苦手な齋藤ミコは、気になるカフェの前で何度も足を止める。頭の中ではシンパイ、ダイジョブ、キオク、ハラヘッタ、ネムイたちが全員会議を開き、入店をめぐって大騒ぎ。過去の失敗や不安に揺れながらも、ミコはついに扉の取っ手に手を伸ばす。
金木犀がほどけるまで
ほどけない悲しみに、秋の香りが触れる。
祖母を亡くして二週間、うまく泣けないまま街を歩いていた葛城みつきは、金木犀の香りに導かれるように古い喫茶店へ入る。壁に並ぶ写真、静かな老店主、金木犀入りのほうじ茶。過去と現在のあわいで、みつきの胸に固まっていた悲しみが少しずつほどけていく。
光の残像
古いフィルムに残っていた、祖母の夏。
商店街の奥にある辻写真館へ、岸本さくらは祖母の遺品から見つかった古いフィルムを持ち込む。店主の辻義雄は、写るかどうか分からないと告げながらも現像を引き受ける。一週間後、現れた写真には、若き日の祖母が海辺で笑う姿が残されていた。夕焼けと温かなスープの中で、さくらは知らなかった祖母の時間にそっと触れる。
喫茶ベルーガ大冒険記
一枚のコインが見つけた、毎日の大冒険。
喫茶ベルーガのパチスロ機二番台に住むベテランコインのベル。新入りのピコ、無口な古株ドン、騒がしいリール三兄弟、投入口のおじさんとともに、投入、払い出し、床への落下、そして大ボーナスを経験していく。小さな機械の中で繰り返される一日が、ベルたちにとってはかけがえのない冒険になる、にぎやかで温かな超短編。
最後の一回転、きみに賭ける
古いコインが見つけた、最後の大当たり。
古い遊技台「喫茶ベルーガ2号機」の中で長く過ごしてきた一枚のコイン、べる。隣に新台「777ロマンス」が入り、新入りコインのロマと出会ったことで、静かだった日々は少しずつ色づいていく。けれど、喫茶ベルーガの撤去が決まり、残された時間は七日間。最後の一回転を前に、べるはロマへ伝えたい想いを抱える。
土の味
失った味覚を、土と雨がほどいていく。
料理人として十二年を過ごした麻衣は、ある日突然「おいしい」が分からなくなり、東京を離れて香川の山あいの集落へ移住する。台所に立てないまま眠る日々の中、隣人のひさ、はるこ、とよと畑で過ごし、土に触れ、不格好な野菜を食べるうちに、麻衣の中の小さな感覚が戻り始める。評価ではなく、自分の体が感じる「おいしい」を取り戻す再生の物語。
赤ペンの余白
消せない誤植が、愛の余白を照らす。
文芸編集者の芹澤梓は、完璧な校正と締め切りを守ることにすべてを捧げていた。けれど黒木忍の新作ゲラに、本文とは無関係な一文が現れる。「ちゃんと俺のこと、見てる?」。消しても消えない言葉は、同棲相手・悠とのすれ違いを映し出していく。赤ペンでは直せない感情と向き合う、静かな再生の恋愛短編。
誰かが灯りをともしていた
閉店する喫茶店。彼は何を追い求めていたのか
商店街の喫茶コトノハが閉店する。そこで最後の数ヶ月だけ働いた青年、水上慶。彼は閉店後の店裏で何をしていたのか。オーナー、常連客、元同僚…彼らの証言から浮かび上がる慶の姿は、それぞれが少しずつ違う。古い地図、片方の手袋、そして冬の灯油のにおい。彼が探していたもの、残したものは何だったのか。閉店後の喫茶店を舞台に、人々の記憶が織りなす、どこか寂しくも温かい物語。
コインの向こう側
嘘の裏側に、真面目な愛があった。
出版社で働く水瀬さくらは、会社員だと思っていた夫・航の収入や行動に小さな違和感を抱いていた。ある日、夫のバッグから見つけた収支ノートをきっかけに、航がスロットで生計を立てていることを知る。戸惑いながらもホールで夫の真剣な姿を見たさくらは、隠されていた夫の“もう一つの顔”と向き合っていく。
引き継いだ夏
受け継いだのは、夏を待つやさしい音楽。
商店街の夏祭り係を引き継いだ二十六歳の僕は、亡くなった坂本さんの覚書と古いレコードを見つける。準備に戸惑いながら、彼が残した音楽リストを使って祭りを迎えた夜、僕は一度しか会ったことのない人の思いやりに静かに涙する。
古い鍵と、夕暮れのスープ
開かない鍵が、夕暮れの味を連れてくる。
町を撮り続ける奏は、亡き祖母から託された真鍮の古い鍵を見つめながら、台所で野菜のスープを作り始める。夕暮れの路面電車、湯気、醤油の隠し味。祖母の記憶に触れながら、奏は失われた場所ではなく、これから自分が誰かへ手渡せる温かさに気づいていく。
真鍮の春
片方だけの手袋が、春の光を連れてくる。
父の遺した楽器店を片付けていた琴葉は、古いジャケットのポケットから真鍮の鍵と片方だけの青い手袋を見つける。閉店間近の和菓子屋「月見堂」を訪れた琴葉は、練り切りの甘さに父との記憶をよみがえらせる。蓮子さんの言葉をきっかけに、父が残していたもう一つの贈り物へとたどり着く、静かな再生の物語。
冬の地図に、しるしをひとつ
空白だった場所に、冬のしるしを。
海辺の案内所で働く私は、自分だけの手書き地図に町の小さな名所を書き足していた。しかし、三年前に母を待ち続けた北の端の灰色のベンチだけは、ずっと空白のままだった。ある冬の朝、白いコートの老女が残したレモンケーキと一枚のメモをきっかけに、私は珈琲を持ってその場所へ向かう。



































































