開店前のまかない三人分
三人で同じ朝ごはんを食べたかった。三人とも、朝が違った。
小さな喫茶店で働きはじめて三週目の結は、一週間、朝のまかないを任される。理想は、三人で座って同じ一皿を食べること。ところが店主の沖さんは二口でフォークを置き、菓子担当の真壁さんは「あとで」とオーブンへ向かう。張り切った二日目には、思わぬ失敗まで。予算は一日六百円、作る時間は二十分。結は二人の朝を、もう一度よく見てみることにする。
ほんの少し、
すこしの時間。
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三人で同じ朝ごはんを食べたかった。三人とも、朝が違った。
小さな喫茶店で働きはじめて三週目の結は、一週間、朝のまかないを任される。理想は、三人で座って同じ一皿を食べること。ところが店主の沖さんは二口でフォークを置き、菓子担当の真壁さんは「あとで」とオーブンへ向かう。張り切った二日目には、思わぬ失敗まで。予算は一日六百円、作る時間は二十分。結は二人の朝を、もう一度よく見てみることにする。
四年前に買った最終巻。読めたのは、まだ三行。
大好きだった長編ファンタジーの最終巻を、千夏は四年間、帯をつけたまま本棚に置いている。公民館の図書室の読書会に「好きな一冊」で申し込んだものの、毎晩開いては三行目で眠ってしまう。断りに行った図書室で出会ったのは、詩を三編しか読まない人と、毎日長編を読む厳しい常連だった。
父のプリンは、母のとは全然ちがう。固くて、苦くて、失敗作だと思っていた。
半年ぶりに実家へ帰った葵。冷蔵庫には、父が作ったプリンが三つ。湯のみに入ったそれは、固くて、カラメルが苦い。喫茶店のプリンを四十七軒食べ歩いてきた葵は、父が母のとろとろのプリンを再現しようとして、うまくいっていないのだと思う。卵を減らして、火を弱めて、と口を出す娘。「これがうまいんや」と聞かない父。日曜日の台所に、二人で立つことになる。
届け先の市が、風で流れていった。
雲の海に浮かぶ港ソラナギで、見習い配達人のハルが初めて一人で預かった荷は「雨瓶」。小さな雨雲を閉じこめたガラス瓶を、日没までに渡り市のドウマ婆さんへ届けなければならない。ところが、朝の位置札に書かれた場所に、市はなかった。口の悪い渡し舟の漕ぎ手ロクと、雲鳥を追って空の市を探す、一日だけの配達の冒険。
一時間前に詰めたガレット八枚が、リボンを結んだまま消えていた。
焼き菓子店「こみち」で包装と受渡しを担当する澪は、夕方、予約の箱にカードを添えようとして手を止めた。軽い。リボンをほどくと、中は空っぽだった。一時間ほど前、自分の手で焼きたてのガレットを八枚詰めた箱。結び目は、自分の結び方。店主の「店頭が足りん」という言葉、新人アルバイトの落ち着かない手、予約帳の余白。澪は、箱と帳面とレシートを見比べはじめる。
彗星まで、あと十五分。観測窓を開けるハンドルが、消えていた。
高原の小さな宿・星見荘。千景は、明け方の三十分だけ見える彗星を、宿の観測小屋の望遠鏡で見るために、半年前から予約していた。前の晩、宿の主人と客たちと一緒に望遠鏡を整え、観測ノートに作業を記録した。ところが翌朝、観測窓を開けるためのハンドルが、小屋からなくなっていた。彗星が山の端から出るまで、あと十五分。
荷ほどきの前に、いちばん日当たりのいい部屋は、もう猫のものだった。
鉄道の保線の仕事を定年まで勤めた久雄は、坂の町の古い平屋へ越してきた。日当たりのいい六畳の窓辺に、鉄道模型の線路を敷くのが、いちばんの楽しみだった。ところが段ボールを開ける前に、その陽だまりの真ん中で、大きな鯖白の猫が寝ていた。追い出しても、戸を閉めても、なぜか戻ってくる。猫には、この家での長い午後の習慣があった。
祭りの前の夜、星が一つ、ほどけた。
港町トワイルの天幕祭の夜、広場の上空には、町の人が一年に一つずつ頼んだ星飾りが光る。仕立て屋の見習いリツは、前の晩の試し掛けで、鍛冶屋オルガさんの「金槌の星」をほどいてしまった。一度ほどけた星糸は、光が半分になる。十年前の完成図どおりに縫い直そうとするリツに、縫うのが下手な相棒のジンは「遠くから見たら、塊にしか見えない」と言う。月の出は、二十時十分。
お茶当番四年目。二十四年ぶりに、グラブをはめた。
日曜日の朝は、ずっと息子の少年野球のお茶当番だった典子。高校のソフトボール部では三年間補欠で、公式戦の打席に一度も立てなかった。地域の女子ソフトボールチームに誘われて、二十四年ぶりにグラブをはめると、フライは額に当たり、同じ日に入った年下の片山さんのほうが先に上達していく。地区大会まで四週間。典子は、日曜の朝六時半のグラウンドへ通いはじめる。
全員の希望を入れた行程表で、わたしだけ、何も見ていなかった。
大学の同期三人が、三年ぶりに港町へ日帰り旅行に出かける。幹事の環は、分刻みの行程表を作った。早紀は名物のパン屋に並びたい。千尋は岬に座って絵を描きたい。全員の希望を一つ残らず入れたはずの一日は、パン屋の七十分待ちから少しずつずれていく。環が急かすたびに、千尋は黙っていく。帰りの特急は、十七時五十二分。
九時四十分には、白い前足の猫だった。
自分が「読んでよかった」と思った六冊を手放す、一日だけの本の交換会。主人公の夏帆は、朝の光で六冊を撮り、新しい持ち主の手に渡る瞬間も全部写真に残すつもりだった。ところが開場して三十分、右端の一冊が、同じ題名の違う本に替わっていることに気づく。
鐘が鳴るたび、扉の行き先が変わる。ただし、でたらめではない。
二時間ごとに鐘が鳴り、扉の行き先が変わる迷宮街。時計修理屋の真柴透は、仕事に必要な古い歯車を探しに、荷運びの組の頭・凪と街へ入る。凪の依頼は「うちの若いのが毎日使える帰り道」。言い伝えを試し、文字盤を記録し、透は扉の規則に近づいていく。
「どこでもいいよ」と返したら、候補が七つになって返ってきた。
大学時代の友達・ゆかりから「土曜、会わん? どこ行きたい?」とメッセージが来た。ミコは「どこでもいいよ」と返す。ゆかりと会えるなら、本当にどこでもよかった。ところが、ゆかりから届く候補は三つ、そして七つに増えていく。
「似合ってます」に「ありがとうございます」と言うたび、買う人になっていく。
会社の冷房よけに、夏の羽織りを探しに来たミコ。小さな服屋の店員・安田さんは、試着するたびに「似合ってます」と言い、色違いまで持ってきてくれる。どれも素敵だった。でも、どれも探しているものとは少し違った。親切にしてもらったあとで、「今日は買いません」と言えるだろうか。
十二ページの手順書に、いちばん大事な一行が書いてなかった。
中途で入った瀬戸さんに、半日だけ、毎週の備品発注を見せることになったミコ。前の晩に作った手順書は十二ページ。読み上げても、瀬戸さんはうなずくだけで、質問を一つもしてこない。わかっているのか、わかっていないのか。今度は自分が、誰かを緊張させる側にいた。
隣の包丁が速すぎて、わたしの仕事がなくなっていく。
単発の料理教室で、初対面の古賀さんと二人一組になったミコ。にんにく一かけの皮をむいているあいだに、古賀さんの包丁は玉ねぎもピーマンもなすも刻み終えてしまう。返事は短く、顔も上げない。気づけばミコの手には、たたんだ布巾しか残っていなかった。
道は知っている。足が知っている。口が知らない。
梅雨の晴れ間の土曜日、駅前で熊本から来た姉妹に道を聞かれたミコ。行き先の小さな資料室は、毎週前を通る道にある。知っているはずなのに、説明しようとすると「いつも曲がるところ」に名前がない。地図は南が上。目印のたい焼き屋は、シャッターが下りていた。
隣の部屋まで、三歩半。いちばん遠い三歩半だった。
四月の土曜の朝、突然の宅配便に慌てたミコは、隣の部屋宛ての荷物を受け取ってしまう。中身は「なまもの・掘りたてのたけのこ」。お隣の中園さんとは、会釈しかしたことがない。インターホンまで、たった三歩半。頭の中の五人が、今日も全員会議を開く。
来年の議事録に、自分の字で「全会一致で廃止」と書いてあった。
町内会の書記を押しつけられた森下航は、議事録帳の白いはずのページに、来年一月の会議の記録を見つける。書いてあるのは自分の字で、「夏祭りを全会一致で廃止」。続けたい人もいるのに、なぜ全会一致になるのか。未来の一文を変えようとした航は、会議に来られない人や、断れない人の事情にぶつかっていく。
今度こそ閉める。返せていないものを、ひとつずつ。
祖父の金物店を閉めるため、週末ごとに帰省する奈緒。けれど商店街の人たちは、三度目の閉店セールを誰も信じていない。棚卸しで見つかったのは、二年放置された鍋、名前だけの箱、持ち主のわからないやかんのふた。数えて、返して、引き継いで。店を閉める日までの、少しおかしな家族の物語。
頭の中は大混乱。でも、幹事は待ってくれない。
極度の臆病者・齋藤ミコが、断れないまま会社の忘年会幹事を任されてしまった。店選び、電話予約、集金、乾杯、締めの挨拶。頭の中の小人たちが大騒ぎするなか、意外なひとりが初めて頼れる英雄になる。
届かない場所に、母は言葉を残していた。
母の葬儀から半年。遺品整理を続ける奈津は、古い日記に繰り返し記された駅ビル三階のベンチを訪ねる。誰にも届かないはずの掲示板に、母が残していた言葉とは。すれ違った十年を静かにたどる、苦さと温かさの残る物語。
電話一本が、コートよりずっと重かった。
ネット通販で届いたコートは、ミコには明らかに大きすぎた。交換期限はあと一日、問い合わせ窓口は電話だけ。42個の想定質問、自動音声、12分の保留を前に、頭の中の小人たちと臆病なミコの長い一日が始まる。
病院に行くだけで、今日は大勝利。
三週間続く咳を不安に思いながらも、内科の予約を入れた齋藤ミコ。受付、問診票、名前の訂正、診察、薬局での質問、そしてコンビニの「袋いりますか」まで、ひとつひとつの小さな場面に心の本部が大騒ぎする。完璧ではなくても、ちゃんと行けた一日を描く短編。
美容室は、ミコにとって小さな戦場だった。
三ヶ月ぶりに美容室を予約したミコ。確認電話、押すか引くかわからないドア、髪型の注文、施術中のトイレ申告、次回予約の断り方。ひとつひとつは小さな出来事なのに、ミコの心の本部では大事件ばかりが起きていく。全部うまくできたわけではないけれど、帰り道のミコは少しだけ軽くなっていた。
怖いまま、ドアだけ開けてみる。
初めての店に入るのが苦手な齋藤ミコは、気になるカフェの前で何度も足を止める。頭の中ではシンパイ、ダイジョブ、キオク、ハラヘッタ、ネムイたちが全員会議を開き、入店をめぐって大騒ぎ。過去の失敗や不安に揺れながらも、ミコはついに扉の取っ手に手を伸ばす。
ほどけない悲しみに、秋の香りが触れる。
祖母を亡くして二週間、うまく泣けないまま街を歩いていた葛城みつきは、金木犀の香りに導かれるように古い喫茶店へ入る。壁に並ぶ写真、静かな老店主、金木犀入りのほうじ茶。過去と現在のあわいで、みつきの胸に固まっていた悲しみが少しずつほどけていく。
古いフィルムに残っていた、祖母の夏。
商店街の奥にある辻写真館へ、岸本さくらは祖母の遺品から見つかった古いフィルムを持ち込む。店主の辻義雄は、写るかどうか分からないと告げながらも現像を引き受ける。一週間後、現れた写真には、若き日の祖母が海辺で笑う姿が残されていた。夕焼けと温かなスープの中で、さくらは知らなかった祖母の時間にそっと触れる。
一枚のコインが見つけた、毎日の大冒険。
喫茶ベルーガのパチスロ機二番台に住むベテランコインのベル。新入りのピコ、無口な古株ドン、騒がしいリール三兄弟、投入口のおじさんとともに、投入、払い出し、床への落下、そして大ボーナスを経験していく。小さな機械の中で繰り返される一日が、ベルたちにとってはかけがえのない冒険になる、にぎやかで温かな超短編。
古いコインが見つけた、最後の大当たり。
古い遊技台「喫茶ベルーガ2号機」の中で長く過ごしてきた一枚のコイン、べる。隣に新台「777ロマンス」が入り、新入りコインのロマと出会ったことで、静かだった日々は少しずつ色づいていく。けれど、喫茶ベルーガの撤去が決まり、残された時間は七日間。最後の一回転を前に、べるはロマへ伝えたい想いを抱える。
失った味覚を、土と雨がほどいていく。
料理人として十二年を過ごした麻衣は、ある日突然「おいしい」が分からなくなり、東京を離れて香川の山あいの集落へ移住する。台所に立てないまま眠る日々の中、隣人のひさ、はるこ、とよと畑で過ごし、土に触れ、不格好な野菜を食べるうちに、麻衣の中の小さな感覚が戻り始める。評価ではなく、自分の体が感じる「おいしい」を取り戻す再生の物語。
消せない誤植が、愛の余白を照らす。
文芸編集者の芹澤梓は、完璧な校正と締め切りを守ることにすべてを捧げていた。けれど黒木忍の新作ゲラに、本文とは無関係な一文が現れる。「ちゃんと俺のこと、見てる?」。消しても消えない言葉は、同棲相手・悠とのすれ違いを映し出していく。赤ペンでは直せない感情と向き合う、静かな再生の恋愛短編。
閉店する喫茶店。彼は何を追い求めていたのか
商店街の喫茶コトノハが閉店する。そこで最後の数ヶ月だけ働いた青年、水上慶。彼は閉店後の店裏で何をしていたのか。オーナー、常連客、元同僚…彼らの証言から浮かび上がる慶の姿は、それぞれが少しずつ違う。古い地図、片方の手袋、そして冬の灯油のにおい。彼が探していたもの、残したものは何だったのか。閉店後の喫茶店を舞台に、人々の記憶が織りなす、どこか寂しくも温かい物語。
嘘の裏側に、真面目な愛があった。
出版社で働く水瀬さくらは、会社員だと思っていた夫・航の収入や行動に小さな違和感を抱いていた。ある日、夫のバッグから見つけた収支ノートをきっかけに、航がスロットで生計を立てていることを知る。戸惑いながらもホールで夫の真剣な姿を見たさくらは、隠されていた夫の“もう一つの顔”と向き合っていく。
受け継いだのは、夏を待つやさしい音楽。
商店街の夏祭り係を引き継いだ二十六歳の僕は、亡くなった坂本さんの覚書と古いレコードを見つける。準備に戸惑いながら、彼が残した音楽リストを使って祭りを迎えた夜、僕は一度しか会ったことのない人の思いやりに静かに涙する。
開かない鍵が、夕暮れの味を連れてくる。
町を撮り続ける奏は、亡き祖母から託された真鍮の古い鍵を見つめながら、台所で野菜のスープを作り始める。夕暮れの路面電車、湯気、醤油の隠し味。祖母の記憶に触れながら、奏は失われた場所ではなく、これから自分が誰かへ手渡せる温かさに気づいていく。
片方だけの手袋が、春の光を連れてくる。
父の遺した楽器店を片付けていた琴葉は、古いジャケットのポケットから真鍮の鍵と片方だけの青い手袋を見つける。閉店間近の和菓子屋「月見堂」を訪れた琴葉は、練り切りの甘さに父との記憶をよみがえらせる。蓮子さんの言葉をきっかけに、父が残していたもう一つの贈り物へとたどり着く、静かな再生の物語。
空白だった場所に、冬のしるしを。
海辺の案内所で働く私は、自分だけの手書き地図に町の小さな名所を書き足していた。しかし、三年前に母を待ち続けた北の端の灰色のベンチだけは、ずっと空白のままだった。ある冬の朝、白いコートの老女が残したレモンケーキと一枚のメモをきっかけに、私は珈琲を持ってその場所へ向かう。