第一章
案内所の引き出しの奥に、手書きの地図がある。
観光客に配る印刷物とは別に、自分だけのために何度も書き直してきた地図だ。おすすめの定食屋、干潮のときだけ現れる岩場、バスの窓から見える夕焼けのポイント。小さな丸印が紙のあちこちに増えていく。
でも、海辺の北の端にある灰色のベンチだけは、三年間ずっと白いままにしていた。
十二月の朝、案内所の窓口に白いコートの老女が立った。
「あの北の外れに、何かいいものはありますか」
少し面食らった。あのあたりは砂が舞うだけで、観光客が立ち寄るような場所ではない。
「特には……」と答えかけた私に、老女は小さく笑って紙袋をカウンターに置いた。
「よかったら食べてください。レモンケーキです。毎年この季節に来るんですよ。ここの冬の匂いが好きで」
それだけ言って、老女は出ていった。
ガラス越しに見送ると、白いコートは海のほうへ向かって、すぐに見えなくなった。
包みを開けると、ケーキの下に薄い紙が一枚。鉛筆の、小さな字。
行けなくなった場所に、もう一度行ける日がくる。

第二章
仕事が終わって、私は保温ポットに珈琲を詰めて外へ出た。
夕暮れの海沿いを歩いて、北の端まで向かう。風は冷たくて、手がかじかんだ。それでも足は止まらなかった。
三年前の十二月、私はあのベンチで母を待っていた。
二人で一度だけ旅をしようと決めて、先に着いていた。だが母は来なかった。電話もつながらないまま夜が明けて、翌々日に母の訃報が届いた。心臓だった。突然のことで、私にできることは何もなかった。
それからずっと、この海辺の町に残っている。ここにいれば母と会えそうな気がした。そんな気がしただけで、もちろん会えはしなかったけれど。
灰色のベンチに座って、珈琲を飲んだ。一杯目を飲み終えて、二杯目を注いだとき、潮の音がいつもより近く聞こえた。
波が満ちてきているのかもしれなかった。
冬の匂いが漂っていた。砂と海草と、どこかの台所から流れてくる夕飯の香り。
母の好きな匂いだった。そう思ったとき、泣くかと思ったが、泣かなかった。ただ、静かだった。
温かい珈琲と、波の音と、冬の匂い。それだけがあった。
案内所に戻って、地図を広げた。北の端のベンチに、小さな丸をひとつ書き入れた。
何もない場所じゃなかった、と気づいたから。
メモ欄に、一行だけ書き添えた。
二杯目の珈琲が飲める場所。


