コインの向こう側
水瀬さくらが「何かおかしい」と最初に思ったのは、結婚してまだ間もない頃のことだった。
もっとも、それは確信というほどのものではなく、薄い霧のようなものが心の隅に漂い始めた——そういう種類の感覚だった。霧は晴れることなく、かといって濃くなることもなく、ただそこにあった。さくらはいつしかそれを「気にしないこと」にしていた。気にしないことを、習慣にしていた。
七月の朝、さくらはキッチンでコーヒーを淹れながら、リビングに通じる廊下を眺めていた。夫の航が、いつものように白いワイシャツの袖口のボタンを留めながら玄関へと歩いてくる。灰色のスラックスに、紺のネクタイ。足音はほとんどしない。
「行ってくる」
「行ってらっしゃい」
短い言葉の交換。それで十分だった。航はスーツの上着を羽織り、革靴を履き、黒いビジネスバッグを手に取った。その動作は淀みなく、無駄がなかった。長年かけて染み込んだ「出勤の所作」というものが、こういうものなのだろうと思っていた。
ドアが閉まる。静かな音だった。
さくらはコーヒーカップを両手で包みながら、窓の外を見た。梅雨明けの空は白く霞んでいて、もうすぐ本格的な夏になろうとしていた。蝉の声がまだ遠い。
「真面目な人だよね」——そう、結婚前に母に話したことを、さくらは思い出した。実際、水瀬航という男は、誰が見ても「真面目なサラリーマン」の見本のような人間だった。朝は必ず七時三十分に家を出る。帰宅はだいたい二十時前後。週に一度か二度は残業で遅くなるが、それもごく自然なリズムに見えた。
さくらは出版社に勤める編集者だった。担当は女性向けライフスタイル誌で、取材から入稿まで手広く動き回る毎日だった。自分もまた、残業や休日出勤が珍しくない仕事をしているから、夫の帰りが不規則であることをあまり深く気にする余裕がなかった。それが正直なところだった。
二人が結婚したのは二年前の秋だった。
出会いはマッチングアプリ。プロフィールに「会社員」と書いてあって、三回目のデートで航は「IT系の会社に勤めています」と言った。それ以上詳しく聞いたことはなかった。航は自分のことをあまり話さない人で、さくらも仕事の話を根掘り葉掘り聞くのは野暮だと思っていた。そのまま付き合い、そのまま結婚した。
今思えば、あのときが分岐点だったのかもしれない。
「航さんの会社、何ていうんだっけ」
結婚して半年が経った頃、ふと思い立って聞いたことがある。そのとき航は少し間を置いてから「小さい会社だから、聞いてもわからないと思う」と答えた。
「そうなの? どんな仕事してるの?」
「データの管理とか、分析とか」
「へえ。忙しいの?」
「まあまあ」
それで会話は終わった。さくらも仕事から帰ってきて疲れていたから、それ以上追わなかった。夫は「そういう人」なのだと、どこかで決めてしまっていた。口数が少なくて、自分のことをあまり話さない人。でも家事はよく手伝ってくれるし、誕生日も覚えていてくれるし、優しかった。それで十分だと思っていた。
——でも今、改めて考えると。
航は一度も、自分の職場の名前を口にしたことがない。
さくらはコーヒーを飲み干して、空になったカップを流しに置いた。今日も仕事に行かなければならない。来週の特集記事の入稿が頭を占領していた。夫の話は、また今度でいい。
そう思って、毎朝の霧は晴れることなく、薄いまま積み重なっていった。
水瀬さくらは、几帳面な性格だった。
手帳は紙のものを使い、仕事の予定も家計の収支も、すべてペンで書き込む主義だった。食費、光熱費、通信費——結婚を機に始めた家計簿は二冊目に入り、今では月の収支を一円単位で把握していた。
だから、気づいてしまったのだと思う。
夫の収入が「会社員らしくない」ことに。
毎月決まった日に給与が振り込まれるわけではない。入金の金額も、月によってばらつきがある。多い月は三十万を超えるが、少ない月は十五万程度にとどまることもある。ボーナスと思しき大きな入金が突然入ってくることもあれば、やや長めの間が開くこともある。
「変動報酬制の会社なんだよ。業績によって給与が変わるから」
そう言われたとき、さくらはそういうものかと思った。IT系のスタートアップなら、そういった給与体系もあるのだろうと。自分も出版社という業界にいるから、業績連動型の給与は珍しいものではない、と納得していた。
でも——変動報酬で、毎月これだけ差があるものだろうか。
(まあ、私が心配することでもない。生活には困っていないし)
そう自分に言い聞かせて、また家計簿を閉じる。そういうことを繰り返していた、結婚二年目のさくらだった。
七月の土曜日、さくらは午前中から仕事が入っていた。
取材の準備資料を作らなければならなくて、自宅でパソコンを開いていた。航は「ちょっと出てくる」と言って、いつものようにスーツを着て出かけた。
「土曜日もスーツ?」
「うん、まあ」
さくらはパソコンの画面から目を上げて夫の背中を見た。航はごく自然な動作で革靴を履いていた。
「仕事?」
「そんなとこ」
「お昼は?」
「外で食べる」
「そう。気をつけてね」
ドアが閉まった。さくらはしばらくパソコンの画面を見つめてから、小さくため息をついた。土曜日にもスーツで出かけるのは、これで三回目だった。
——まあ、仕事熱心な人なんだろう。
そう思って、資料作成に戻った。
お昼を少し過ぎたころ、さくらはコーヒーを入れるためにキッチンへ立った。ちらりとリビングを見ると、航がいつも使っているビジネスバッグが、ソファの脇に置いてある。
(あれ、バッグ忘れていったの?)
仕事に行くのにバッグなしで出かけた——? スマホと財布だけ持っていったのだろうか。
余計なことを考えないようにしながらコーヒーメーカーのスイッチを押して、バッグのほうへ何となく近づいた。別に開けるつもりはなかった。本当に、ただ少し気になっただけだった。
バッグのファスナーが、少し開いていた。中がちらりと見えた。
黒いノートの背表紙。
さくらは足を止めた。
何気なく視線を走らせると、そのノートには表紙に小さく「収支」と書いてあるのが見えた。
(収支ノート……?)
ぎゅっと胸の中で何かが締まった気がした。さくらは自分が几帳面な人間だということを知っている。家計簿をつけていることも、数字に敏感なことも。だから、その二文字が目に入った瞬間、頭の中で何かがカチリと音を立てた。
——触れてはいけない気がした。でも——
コーヒーメーカーがピーッと鳴って、さくらは我に返った。バッグから離れ、コーヒーをカップに注いだ。手が少し震えていた。
それだけのことだった。ノートに触れてもいない。中を見てもいない。なのに、なぜこんなに心臓が早く打っているのだろう。
さくらはコーヒーを飲みながら、資料の文字を追った。でも文字が頭に入ってこなかった。
——あの「収支」は、一体何の収支なのだろう。
夜、航が帰ってきたのは二十時を少し過ぎたころだった。「お疲れ」とさくらが声をかけると「うん」と短く返事をして、洗面所に向かった。バッグを持って出かけていないのに、何か小さい袋だけ提げて帰ってきた。さくらは台所でシチューを温めながら、さりげなく聞いた。
「今日、バッグ忘れていったね」
「あ——うん。大丈夫だった」
「仕事なのに、バッグなしで行くんだね」と言いかけて、さくらはやめた。代わりに「シチュー、できてるよ」と言った。
夕食の間、二人は他愛もない話をした。さくらの職場の話、来週の予定、近所のスーパーに新しい惣菜コーナーができた話。航は穏やかに相槌を打ちながら、シチューを食べた。
デザートのプリンを食べながら、航がふとさくらの顔を見て言った。
「何か気になることある?」
さくらは一瞬、答えに詰まった。
「……ないよ、別に」
「そう」
航はそれ以上何も言わなかった。さくらも言わなかった。
その夜、布団の中で、さくらはずっと眠れなかった。天井を見つめながら、「収支」という二文字が、繰り返し頭の中に浮かんでは消えた。
知りたい気持ちと、知りたくない気持ちが、ちょうど半分ずつあった。
収支ノートの数字たち
八月に入った。
さくらの職場は夏の特集号の最終調整で、連日残業が続いていた。村田陽子——同期入社で、今は別のページを担当している同僚——と一緒に会社を出るのが二十一時を回ることも珍しくなかった。
「さくら、最近顔色よくないよ」
帰り道、駅前のコンビニでアイスを買いながら陽子に言われた。
「そう? 睡眠不足かな」
「仕事だけ?」
さくらは少し考えてから「うん、まあ」と答えた。陽子は「無理しないでね」と言って、にっこり笑った。こういう踏み込み方と引き方のバランスが、陽子の好きなところだった。
実のところ、さくらの頭の中には、あのノートのことがずっと引っかかっていた。
「収支」という文字。読んでいない。触れてもいない。でも、あれは何だったのだろう。
夫の「仕事」が何なのかを、さくらは正確に知らない。二年間、知らないままでいた。
——それは怠慢だったのだろうか、それとも思いやりだったのだろうか。
電車の窓に流れる夜の景色を見ながら、さくらは考えた。ホームの光が流れ、トンネルに入り、また光が流れる。知らないままでいることを、この二年間「お互いへの礼儀」だと思っていた。でも本当にそれでよかったのだろうか。
その日がやってきたのは、お盆前の水曜日のことだった。
帰宅すると、航はまだいなかった。「今日は遅くなる」とLINEが入っていた。さくらはシャワーを浴びて、夕食を一人で済ませた。リビングのソファに座ってテレビをつけたが、内容が頭に入ってこなかった。
ソファの横に、バッグが置いてある。
今日は平日だ。航は普段、あの黒いビジネスバッグを持って出かける。なのによく見ると、これはサブバッグだった。普段使いのものではなく、もう少し小さめの、ナイロン製のトートバッグ。おそらく、仕事に関係するものを入れて持ち歩いているのだろう。
さくらは立ち上がってキッチンへ行き、水を飲んだ。
戻ってきて、バッグの前でまた立った。
——何をしているんだろう、私は。
夫のバッグを開けようとしている自分が、みっともなく思えた。信頼関係というものがあって、夫婦とはそれで成り立っている。疑うなら直接聞けばいい——でも、聞けなかった二年間があった。
さくらはゆっくりと手を伸ばした。ファスナーに触れた。一呼吸置いて、開けた。
中には財布と、スマートフォンの充電器と、タオルハンカチ——そして、あの黒いノートがあった。
A5サイズの、方眼紙のノート。表紙の中央に、小さな文字で「収支」と書いてある。
さくらはノートを手に取った。手の中で、それはずっしりと重かった。
——ページを開いていいのか。
逡巡は三秒ほどだった。さくらは表紙をめくった。
最初のページに、日付と数字がびっしりと書き込まれていた。
7/1 −3,2007/2 +18,6007/3 +41,5007/4 休7/5 −12,4007/8 +67,8007/9 +23,100
数字の羅列。その横に、機種名らしき記号が並んでいる——「北斗 B」「ジャグラー A」「リゼロ C」。
さくらの頭の中で、何かがゆっくりとつながり始めた。
北斗——ジャグラー——リゼロ。聞き覚えのある名前だった。パチンコ、あるいはスロットの台の名前だ。以前、雑誌でギャンブル依存症に関する記事を担当したときに、台の名前をいくつか覚えた。
さくらはページをめくり続けた。収支は月ごとにまとめられていた。七月の最終行に合計が書いてある。
+208,400
六月のページを開くと——+312,000。五月——+189,500。四月——+276,000。
さくらは、しばらくその数字を見つめていた。
——これは、利益の記録だ。
スロット台の機種名と、毎日の収支。月単位でプラスになっている。それも、さくらの月収をゆうに超える金額で。
頭の中がくらくらした。
夫は——スロットで稼いでいる?
プロ、という言葉が浮かんだ。スロットプロ。そういう人が存在することは知っていた。確率や機械の特性を研究して、期待値を計算して、長期的にプラスを出し続ける人たち。でも、まさか夫が——
さくらは震える手でノートを閉じた。元の場所に戻した。バッグのファスナーを閉めた。
ソファに座り直して、正面の壁を見つめた。
——私の夫は、スロットプロなの?
二年間、スーツを着て「仕事」に出かけていた夫。会社の名前を教えてくれなかった夫。変動報酬制と言っていた夫。すべてのピースが、ゆっくりと、一枚の絵を形作り始めていた。

さくらはその夜も眠れなかった。
航は日付が変わる頃に帰ってきた。「遅くなってごめん」と言いながら、そっとさくらの額に触れた。さくらは眠ったふりをしながら、夫の体温を感じていた。規則正しい呼吸。温かい手。この人が嘘をついているとは、今もなお実感が持てなかった。
——怒っているのかな、と自問した。
怒り、という感情は確かにある。二年間、本当のことを言ってくれなかった。でも、それ以上に戸惑いが大きかった。驚き——それが一番大きい。
あの穏やかな、真面目そうな顔をした男が。毎朝白いワイシャツのボタンを几帳面に留めて、革靴を磨いて出かけていく夫が——スロットホールで台に向かい合って、データを取り、コインを投入し続けているというのか。
想像できなかった。想像しようとすればするほど、夫の顔が浮かんで、それがまたうまく重ならなかった。
——直接聞けばいい。そう思う。思うのだが——なぜか怖かった。怒るのではなく、ただ怖かった。この人が自分に何かを隠していたという事実が、突き付けられたときに、自分がどう受け止めていいかわからなくて。
さくらは目を閉じて、夫の呼吸の音を聞いた。
(この人は一体、何を考えて生きているんだろう)
朝が来るまで、さくらは眠れなかった。
次の日の昼、さくらは陽子をランチに誘った。
選んだのは、会社から少し離れた小さなパスタ屋だった。陽子はカルボナーラを頼みながら「で? なに? 顔が死んでるけど」と開口一番に言った。
さくらはペペロンチーノをフォークで巻きながら、昨夜のことを話した。陽子はずっと黙って聞いていた。話し終えると、少し間を置いてから言った。
「……スロットプロ。マジで?」
「たぶん」
「旦那さんが」
「うん」
「毎朝スーツで」
「うん」
陽子はカルボナーラを一口食べてから、ゆっくりと言った。「さくら、それ絶対聞いたほうがいいよ。本人に」
「怖い」
「怖い?」
「答えを聞いて——どう反応したらいいかわからない」
陽子はしばらく考えてから「私だったら、まず笑うか怒るかの二択」と言った。「でも、さくらは笑いも怒りもしないで、ずっとモヤモヤしてそうなんだよね。だから聞けないんじゃないかな」
さくらは黙った。そうかもしれない。怒る資格があるのかどうかもわからなかった。生活が成り立っていた。航は家に帰ってきていた。浮気でも借金でもない——たぶん。むしろそのお金で、二人の生活は成り立っていたはずで。
「でも、二年間黙ってたのは事実で」
「そうだね」と陽子は言った。「それはちゃんと言っていい。『なんで言ってくれなかったの』って。怒っても、泣いても、笑っても、どれでもいいと思う。でも、知らないまま次の二年を過ごすのは——きつくない?」
さくらはパスタを一口食べた。思ったより美味しかった。
「きつい」と、素直に言った。
ホールの背中
お盆が明けた。
さくらは仕事の取材で外に出ていた。特集記事のための商業施設の取材で、駅前の大型ショッピングモールを一回りして、帰り道に地図アプリを見ながら最寄り駅への近道を探した。細い路地を曲がると、見慣れない通りに出た。
路地の先に大きなビルが見えた。
「SLOT & PACHINKO — MAX WING」
ネオンが昼間だというのに灯っていた。建物の入り口には電光掲示板が煌めいている。
さくらは立ち止まった。
——スロットホール。
夫が、毎日来ているかもしれない場所。ノートの数字が、ここで生まれているのかもしれない場所。
足が自然と吸い寄せられていた。「ちょっとだけ」と心の中で言い訳をしながら、さくらはガラスドアを押し開けた。
中に入った瞬間、独特の空気に包まれた。
音が多い。コインの音、電子音楽、効果音、遠くから聞こえる機械のフラッシュ音。煙草の匂いが薄く漂っている。照明は少し暗めで、台の光が賑やかに点滅していた。天井が高く、思っていたより広かった。
さくらは圧倒されて、しばらく入口近くに立ち尽くした。
思っていたより、人がいる。年配の男性、若い男性、女性の姿もちらほら。それぞれが台に向き合って、真剣な顔をしていた。誰もさくらのことを見ていなかった。みんな、自分の台だけを見ていた。
見回しながら、さくらはゆっくりと奥へ歩いた。仕事柄、観察する目は持っている。こういう場所を取材で訪れたときと同じように——と思いながら歩いていると。
ふと、足が止まった。
——あの、背中。
通路の奥、スロット台が並ぶ一角。右から三番目の台に座っている男性の後ろ姿。グレーのスーツ。肩幅。うなじのあたりに生えた髪の線。
さくらは瞬きを忘れた。
——航?
まさか、と思った。でも足は勝手に前へ進んでいた。通路を歩きながら、男性の横顔が見える角度に移動した。
——水瀬航だった。
夫が、そこにいた。スロット台に向き合って、静かに座っていた。その姿は、さくらが毎日一緒に生活している夫のものだったけれど——何かが、違った。
顔の表情が違う。
普段の航は穏やかで、どこかぼんやりしているようにも見える。微笑んでいるのかいないのかわからない、あいまいな表情をしている。でも今、台に向き合っている航の顔は——真剣だった。
目が違う。一点を見つめる目が、静かで、深くて、全く揺れていなかった。
手元のデータ機器らしきものに視線を落とし、また台に戻し、コインを投入する。その一連の動作が、ひとつも無駄なく、機械のように正確だった。隣の台で人が歓声を上げても、後ろを人が歩いても、航はまるで気づいていないかのように、台だけを見ていた。
さくらは呼吸を忘れた。
夫が——こんな顔をするとは、知らなかった。
二年間、毎日顔を見て、隣で眠ってきたのに。こんな目をする人だとは、知らなかった。
五分ほど、さくらは離れたところからそっと夫を見ていた。
航はさくらの存在に全く気づいていなかった。周囲の音も、人の動きも、まるで入ってきていないかのように、台だけを見ていた。小さなメモ帳に何かを書き込む。データ機器を確認する。台のリールの動きを見つめる。
——これが、仕事なのだ。
その言葉が、さくらの胸にすとんと落ちた。
怒りや戸惑いよりも先に、一種の驚嘆があった。
(この人は本当に、仕事をしている)
スーツを着て、データを分析して、感情を抑えて、淡々と判断を重ねて——これがこの人の仕事なのだと、さくらは理解した。冗談みたいな話だと思っていた。でも目の前で見ると、冗談には見えなかった。
この集中力は、誰にでも出せるものではない。
さくらはそっと踵を返して、ホールの外に出た。
外の空気は、中よりずっと明るかった。
さくらは駅に向かいながら、自分の心の中を確かめるように歩いた。
怒り——ある。二年間、本当のことを言ってくれなかった。不安——少し。これからの生活は、これで本当に成り立っていくのだろうか。
でも——それ以上に大きかったのは。
ちゃんと知りたい、という気持ちだった。
あの背中の男の話を。あの目をする男の話を。
——今夜、聞こう。
さくらは携帯を握り直して、足を速めた。
その夜、さくらは早めに夕食の準備を済ませて、航の帰りを待った。
鶏の照り焼き、味噌汁、ほうれん草のおひたし。航の好きなものを並べた。自分でも「何をしているんだろう」と思ったが、それが自然な行動だった。戦いに備えるのではなく、ただ、ちゃんと向き合うための準備をしていた。
航は十九時過ぎに帰ってきた。「あれ、珍しく早いね」と言いながら、いつものようにネクタイを緩めた。
「今日は早く上がれたから」とさくらは答えた。
夕食を食べながら、航はさくらの顔をちらりと見た。「何かある?」
「……なんで?」
「表情が、いつもと違う」
さくらは箸を置いた。茶碗と箸を、テーブルの上にきちんと並べてから、航を見た。
「聞きたいことがある」
航はしばらくさくらを見ていた。それから静かに「うん」と言った。
「今日、取材の帰りに——ホールに入った」
一秒の沈黙。
「MAX WINGっていう、駅の近くの」
さくらは航の顔から目を離さなかった。航は表情を変えなかった。でも、そのまなざしが少しだけ変わったように見えた。
「……見た?」
「見た。あなたの背中を」
航はゆっくりと息を吐いた。
「そうか」
それだけ言って、しばらく黙った。テーブルの上の照り焼きが、もう冷めていた。二人の間の沈黙だけが、部屋の中に満ちていた。
コインの向こう側
「怒ってる?」
静寂を破ったのは、航だった。
さくらはしばらく考えてから「怒ってる、というより——戸惑ってる」と言った。「それと、なんで言ってくれなかったのって、思ってる」
航は小さく頷いた。「そうだな」と言ってから、立ち上がって台所へ行き、缶ビールを二本持って戻ってきた。さくらの前にひとつ置いて、自分は椅子に座り直した。
「どこから話せばいいか」
「最初から」
航がスロットを始めたのは、大学二年生のときだった。
友人に連れられてホールに行き、試しにやってみたら——面白くて、というよりも、ゲームの構造に興味を持った。確率と期待値の計算、データの蓄積と分析、機種ごとの特性の研究。理系の頭を持つ航にとって、スロットは「解析できるゲーム」だった。
「パチンコは運の要素が大きいけど、スロットは違う。台ごとのクセ、設定、データ——これを正確に読めれば、長期的にはプラスを出せる。それを証明したくて、始めた」
「じゃあ、就職は?」
「就職した。普通に。でも、仕事しながらも続けてた。副業みたいな感じで」
「で、辞めたの?」
「三年前に」
「なんで」
「スロットのほうが稼げると、わかったから」
さくらは黙った。
「それだけ?」
「それだけじゃないけど——大きい理由はそれ」
「でもなんでスーツ着て出かけるの」
航は少し間を置いてから「習慣」と答えた。「それと——気持ちの問題」
「気持ち?」
「スーツを着ていったほうが、仕事モードになれる。ホールで台に向き合うとき、これは仕事だって意識が保てる。あと——」
航は少し言いにくそうにした。
「あと?」
「さくらに、ちゃんとした格好で出かけるとこ見せたかった。惨めな感じを、出したくなかった」
さくらは、その言葉の重さをゆっくりと受け取った。
——この人なりに、考えていたのだ。
怒りが消えたわけではない。でも、何かが柔らかくなった気がした。
「なんで言ってくれなかったの」
「言いにくかった」
「私が怒ると思って?」
「怒るより——軽蔑するかと思って」
さくらは驚いた。
「軽蔑?」
「スロットで生活してるって言ったら、まともな仕事もしないで博打で食ってる人間だと思われると思った。さくらはしっかりした人だから」
「しっかりしてるから、軽蔑すると思ったの?」
「そう」
さくらはしばらく黙った。缶ビールを両手で包んで、テーブルの木目を見つめた。
「それは——ちょっと違う、と思う」
「うん」
「私がしっかりしてても、あなたのことを軽蔑するかどうかは別の話」
「……そうだな」
「ちゃんと稼いで、ちゃんと帰ってきて、ちゃんと生活してたのに。それを言ってくれなかったのは、もったいなかった」
航は少し驚いたような顔をした。
「怒らないの?」
「怒ってるよ」とさくらは言った。「でも——今日、ホールであなたの横顔見たから」
「横顔?」
「すごく真剣な顔してた。ああいう顔するんだって、知らなかった」
航は黙った。
「あの目は——誤魔化してないって、わかった」
それから二人は、長い時間かけて話した。
スロットとはどういうゲームか。なぜ長期的にプラスが出せるのか。どういうふうにデータを取って、どういう機種を選ぶのか。収支ノートのこと、月々の生活費の管理のこと。
航が話す内容は、さくらが想像していたよりずっと緻密で、論理的だった。感情で打つのではない。データが示す期待値に従って、淡々と判断を重ねていく。負けが続いても動揺しない。それが「仕事として成立させる」ために最も大切なことだと言った。
「感情を入れると、判断がぶれる」
「それ、私の仕事でも同じことを言われる」
「そうでしょ」
さくらは笑った。初めて、この話題で笑えた。
「でも——これからは、ちゃんと話して」
「うん」
「何で食べてるのか、夫婦で知っていなきゃ」
「そうだな」
「あと、その収支ノート——今度見せて」
航は少し驚いた顔をしてから「見た?」と聞いた。さくらは正直に「少しだけ」と答えた。
航は「そうか」と言って、今度はゆっくり笑った。この人が笑うと、表情が少しだけほぐれて、全体がやわらかくなる。さくらはその顔が好きだった。
「来週の土曜日——一緒に来てみる?」
さくらは一瞬迷った。でも、ほんの少しだけ考えてから「行く」と言った。
土曜日の朝、さくらは初めて夫と一緒にホールへ行く準備をした。
「何着ていけばいいの」
「普通でいいよ」
「スーツじゃなくていいの?」
「さくらはスーツじゃなくていい」
「あなたは?」
「私はスーツ」と航は答えて、いつものようにシャツのボタンを留めた。
さくらは「律義だね」と言って、コーヒーを飲んだ。
ホールに入るのは、あの日以来二度目だった。今日は夫の隣にいるから、入り口で戸惑いはなかった。でも、音と光の密度に、やはり少し圧倒された。
「大丈夫?」と航が聞いた。
「大丈夫」とさくらは答えた。
航は迷いなく奥へ歩いた。台のデータ機器を確認して、いくつかの台の前で立ち止まり、数字を見る。さくらはその隣に立ちながら、じっと夫を観察した。
「この台はどうして選ばないの?」
「設定が入ってないから」
「設定って?」
「台の出方を決めてるパラメーター。高い設定のほうが出やすい。データを見れば、ある程度推測できる」
「どこで見るの?」
航はデータ機器の画面をさくらに向けた。回転数、ビッグボーナス回数、レギュラーボーナス回数——数字が並んでいる。
さくらはのぞきこんで「なんとなくわかる気がする」と言った。
「さくらなら読めると思ってた」と航は言った。
「なんで?」
「家計簿、すごく細かくつけてるから」
「見てたの?」
「見てた」
さくらは少し複雑な気持ちになった。「見てたならなんで言わなかったの」と聞いた。
「言うタイミングを見失った」
「……それは、私もそうかもしれない」
二人は顔を見合わせて、少し笑った。
航が台を選んで座った。さくらはすぐ隣の台の椅子に腰を下ろした。
「やってみる?」
「やっていいの?」
「教えるよ」
さくらはしばらくためらってから「じゃあ、少しだけ」と言った。航がコインを入れてくれた。リールが三つ、並んでいる。
「あのボタンを押す。三つ、順番に」
「どの順番?」
「左、中、右」
さくらは恐る恐るボタンを押した。左、中、右——カシャ、カシャ、カシャ。リールが止まる。
「何でもなかった」
「最初はそんなもん」
もう一回やってみる。今度も外れた。三回目、四回目——リールの感触が、だんだん手になじんでくる。ボタンの固さが、少しずつわかってくる気がした。
五回目。
リールが揃った。ランプが点滅した。
「あっ」
「小役」と航が言った。「ちょっとだけコインが増えた」
「なんか嬉しい」
「そういうもんだよ」
さくらは光っているリールを見た。あのノートの数字が、今は少しだけ実感を伴って見える気がした。この台で毎日座って、データを取って、判断して、コインを入れて——それが夫の仕事。
「ねえ」とさくらは言った。
「うん」
「最初に——なんで私に言えなかったの。本当のところ」
航はリールを見たまま、少し考えてから答えた。
「好きな人に、格好よく見られたかった」
さくらは手元を見た。
「スロット打ってる人が、格好よくないとでも思ってたの?」
「思ってた。自分で」
「——馬鹿だね」
「うん」
「でも」とさくらは言った。「今日のあなたは、格好よかったよ。あの台の選び方と、データの見方と——あの顔」
航が、さくらのほうを見た。
さくらは照れくさくなって、正面のリールに視線を戻した。
「ありがとう」と航が言った。
静かな声だった。ホールの喧騒の中で、その言葉だけが、すぐ近くから聞こえた気がした。
それからしばらく、二人は隣り合って台に向き合った。航は淡々とデータを取りながら、時々さくらに話しかけた。「この演出が出たら期待できる」「今の停止目は何でもない」。さくらはわからないながらも、夫の説明を聞きながら、ボタンを押し続けた。
ホールの音は相変わらず賑やかで、煙草の匂いも漂っていた。でも、最初ほどの圧迫感はなかった。夫がいる、というだけで、こんなに違うのかと思った。
お昼を少し回ったころ、さくらはコインが増えたり減ったりするのを眺めながら「ねえ」と言った。
「なに?」
「一日中ここにいるの?」
「私はそう。さくらは途中で帰っていいよ」
「じゃあ、お昼ご飯したら戻る」
「うん」
「何食べる?」
「さくらの選んだもの」
さくらはそれを聞いて、小さく笑った。
——この人はいつも、こういうことを言う。
決めてくれない、というわけではない。さくらに委ねることを、好んでいる。それが面倒なときもあったけれど、今は少し、そういう夫の性格が好きだと思った。
お昼ご飯を食べに出て、また戻ってきた。
午後のホールは午前よりも少し混んでいた。さくらは再び隣の台に座りながら、航の手元を見ていた。メモ帳に数字を書き込む夫の手。あの収支ノートも、この手で書かれていたのだ。
「聞いていい?」
「何?」
「月に何日くらい来てるの?」
「波があるけど——平均で、二十日くらいかな」
「休みの日は?」
「データ研究したり、情報収集したり」
「つまり、年中無休で仕事してるじゃない」
「まあ」
「……真面目だね」
さくらがそう言うと、航は少し間を置いてから「そうかな」と答えた。
「そう。誰より真面目だと思う」
さくらは正直にそう言った。
スーツを着て、データを取って、感情を抑えて、淡々と仕事をする。やっていることの形が違うだけで、この人は自分が思っていた通りの人だった。
真面目なサラリーマンだと思っていた夫が、実はスロットプロだった。でも——真面目なのは、本当だった。
ホールを出たのは、夕方の五時過ぎだった。
「今日の結果は?」
「まあまあ。プラスで終われた」
「いくら?」
「三万ちょっと」
「一日で?」
「いい日はもっといくし、悪い日はマイナスになる」
さくらはそれを聞いて「大変だね」と言った。
「大変だけど——好きなことで食えてるから」
「好き? スロットが?」
「うん」
さくらは夫の横顔を見た。夕暮れの光の中で、航の顔はいつもの穏やかな顔に戻っていた。でも今のさくらには、その顔の奥に「あの真剣な目」が見える気がした。
「来週も来ていい?」と、気づいたら言っていた。
航が驚いたように「え?」と言った。
「来週も、一緒に来てもいい?」
「好きにしていいよ」と航は言ったが、その声は、少し嬉しそうだった。
「教えてよ、いろいろ。データの見方とか、台の選び方とか」
「素人が来ても邪魔なだけ」
「邪魔でいい」
「……変なの」
「あなたが変なんだよ」とさくらは言った。「毎朝スーツ着て、スロットホールに行く人のどこが普通なの」
「言い返せない」
「でも——」とさくらは続けた。「それでいいと思う。変でも、この人らしいって思ったら——なんか、いいなって思う」
航はしばらく黙ってから「ありがとう」と、また言った。今度は少し低い声だった。
さくらは「どういたしまして」と答えて、夫の腕に手をかけた。
夕暮れの駅前を、二人で並んで歩いた。ネオンが灯り始めた街の中で、ホールの電光掲示板がまだ光っていた。
さくらはそれを見ながら思った。
——来週、もう少し上手にボタンを押せるようになろう。
きっとあの人は教えながら、やっぱり淡々とした顔をするだろう。でも声は、少し嬉しそうになるはずだ。
それで、十分だと思った。
コインは、表と裏がある。
どちらが出るかは、確率が決める。
でも——どちらが出ても、コインはコインだ。
水瀬さくらはそのとき初めて、
夫という人間の「裏側」を見た気がした。
そしてそれは——
表側と同じくらい、あるいはそれ以上に、
好きな顔だった。


