第一章
路地の角を曲がったとき、空気が変わった。
甘くて、少し切ない香り。
葛城みつきは足を止め、顔を上げた。細い石畳の路地の奥、くすんだ煉瓦の塀に沿って、古びた木造の建物が静かに立っている。
窓の外に小さな鉢植えが並び、濃紺の暖簾が秋風にゆっくりと揺れていた。
「喫茶 金日」
かすれかけた墨文字の看板が、そう読める。
みつきは今日、会社を半日休んだ。理由はうまく説明できない。ただ、一人でどこかを歩きたかっただけだ。祖母が旅立ってから、もう二週間が過ぎようとしているのに、まだ何かが胸の奥に引っかかっていた。うまく泣けなかった。うまく笑えなかった。毎朝の通勤電車の中で、ただ窓の外を眺めていた。
引き寄せられるように、みつきは暖簾に手を伸ばした。
ドアを開けると、細いベルの音がした。
店内は狭かった。カウンターに四席、窓際に二人掛けのテーブルが二つ。照明は温かみのある橙色で、年季の入った木の床がかすかにきしんだ。客は誰もいなかった。
カウンターの向こうで、老人がゆっくりとこちらを向いた。白いエプロンをつけた、背の低い男性だった。年は七十を過ぎているだろうか。静かな目をしていた。
「いらっしゃい」
それだけ言って、老人は微笑んだ。
第二章
みつきはカウンター席に腰をおろした。
正面の壁には、額に入った写真が何枚も飾られていた。白黒の写真、セピア色の写真、色あせたカラー写真。年代はばらばらで、映っている人物も風景もさまざまだった。
その中の一枚に、みつきの目が止まった。
若い女性が一人で立っている。川べりか、あるいは庭の木の下か。背景はぼやけていてよくわからないが、女性は柔らかく笑っていた。着物の衿元が少し乱れている。なんでもない瞬間を切り取ったような、でも、それだからこそ息をしているような写真だった。
なぜだろう、その笑い方が、どこかで見たことがあるような気がした。
「何にしますか」
老人の声に、みつきは視線を戻した。
「あの、温かいものを。なんでも」
「じゃあ、ほうじ茶にしましょうか。今日はちょうど、金木犀を少し入れてあるんです」
老人は迷いなく言った。みつきが頷くより先に、すでに手を動かし始めていた。
ゆっくりとお湯が注がれる音。茶葉が蒸らされる静かな時間。
みつきはまた、壁の写真に目をやった。着物の女性の隣に、建物の前で大勢が並んだ集合写真がある。日付らしき数字が隅に白く焼きついていた。ずいぶん昔のものだ。
「あの写真は、この辺りで撮ったものですか?」
「そうです。この路地のすぐそこで。もう何十年も前になりますね」
老人は静かに答えた。
「今はだいぶ変わりましたが、あのころはまだ、銭湯も豆腐屋もありました。朝になると豆腐売りが声を出して回っていて、子どもたちが路地でいつも遊んでいた」
みつきは目を細めて聞いた。話し方が、祖母に似ていると思った。

第三章
ほうじ茶が出された。
小さな湯呑みに注がれた薄橙色のお茶が、細い湯気を立てている。鼻先に、ほのかに甘い香りが漂った。金木犀だ。
思わず目を閉じた。
どこかに連れて行かれるような気がした。夢の中のような、遠い記憶の中のような。
祖母の家の縁側。秋の午後。
濡れ縁に腰かけて、二人でお茶を飲んでいた。庭の隅に金木犀の木があって、毎年この時期になると、小さな橙色の花が咲いた。祖母はいつも決まって、「これが咲くと、もう冬が来るよ」と言った。
寂しいな、とみつきが言うと、祖母は笑った。
「寂しくないよ。また来年も咲くんだから」
その声を、みつきはもう一度聞きたかった。ただそれだけのことが、二週間ずっと、胸の奥に溜まり続けていた。
みつきはゆっくりと目を開けた。
店内には変わらず、橙色の光が満ちていた。カウンターの向こうで、老人がカップを磨いている。その手つきが静かで、見ていると不思議と落ち着いた。
「あの写真の女性は、どなたですか」
みつきは、着物の女性の写真に目をやりながら聞いた。
老人は少し間を置いた。
「家内です。もう随分前に逝きまして」
「……そうでしたか」
「よく、あそこに立っていたんですよ。庭と家の境目のあたりが好きで。どこか行くわけでもなく、ただぼんやりしていた」
老人は話しながら、微かに目を細めた。
「外でも内でもない場所が、居心地がよかったんでしょうな」
みつきは何も言えずに、湯呑みを両手で包んだ。温かかった。
第四章
「実は」と老人が言った。
「今月いっぱいで、この店を閉めることにしたんです」
みつきは顔を上げた。
老人は穏やかに続けた。
「体がそろそろ、言うことを聞かなくなってきまして。息子に言ったら、もうやめなさいと。まあ、そうだろうと思っていましたよ」
「残念です」
みつきは正直に言った。
「来たばかりなのに」
「ありがとうございます」老人は笑った。「でも、不思議なことがあってね。閉めると決めてから、しばらく来ていなかったお客さんが戻ってくるんですよ。今日みたいに、ふらりと」
「呼ばれたのかもしれないですね」
みつきがそう言うと、老人はしばらく考えてから、「そうかもしれないですね」と静かに頷いた。
外からまた、金木犀の香りが漂ってきた。
みつきは湯呑みを口に運んだ。温かいほうじ茶が、するりと喉を通っていく。甘い。ただ甘いのではなく、少し苦くて、それがちょうどよかった。
二週間、胸の中で固まっていたものが、そっとほどけていく気がした。
悲しみが消えたわけではない。でも、もう少し、この重さと一緒に歩いていける気がした。
壁の写真の女性が、相変わらず柔らかく笑っている。外でも内でもない場所で、どこへ行くわけでもなく、ただそこに立っている。
みつきは、その笑顔がほんの少しだけわかった気がした。
「また来ていいですか」
気づくと、そう言っていた。
老人は一瞬、目を細めた。
「今月中なら、いつでも」
暖簾をくぐって外に出ると、石畳の路地に秋の光が斜めに差していた。金木犀の香りはまだそこにあって、みつきは立ち止まらなかった。ただ、少しだけゆっくり歩いた。
来年もこの香りは来る。
祖母が言っていたように、また来年も咲く。
それだけのことが、今日はなぜか、ちゃんと信じられた。


