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コメディ・日常

電話が怖い、コートが大きい

電話一本が、コートよりずっと重かった。

読了目安
14分
長さ
中編 8,000〜12,000字
#前向き#くすっと笑える
電話が怖い、コートが大きいのイメージ

あらすじ

ネット通販で届いたコートは、ミコには明らかに大きすぎた。交換期限はあと一日、問い合わせ窓口は電話だけ。42個の想定質問、自動音声、12分の保留を前に、頭の中の小人たちと臆病なミコの長い一日が始まる。

第一章

箱を開けた瞬間、ミコは自分の目が壊れたのかと思った。

紺色のウールコート。写真で見たときは、たしかに「ちょっと大人っぽくて、でも重すぎない」絶妙なやつだった。

いま床に広げられているそれは、どう見ても、身長百八十センチくらいの人が着るものだった。

袖を通してみる。手が出てこない。

肩の線が、二の腕のあたりまで落ちている。裾は膝下を通り越して、ふくらはぎの真ん中で止まった。

鏡の中に、コートに食べられた二十八歳がいた。

「……えっ」

ミコはその場にへたり込んだ。

頭の中で、五人が一斉に目を覚ました。

『これは着られない』

最初に立ち上がったのは、シンパイだった。灰色の作業着みたいな服を着た、いつも眉間にしわを寄せている小人だ。

『着られない、ということは、交換しないといけない、ということだ』

『まあ交換すればいいじゃん!』

ダイジョブは能天気に言った。黄色いパーカーを着た、いつも自信満々な小人だ。

『向こうも仕事だから、サイズ違いの交換とか、慣れてるって!』

まっとうな発言だった。ダイジョブにしては、めずらしく正しい。

ミコの心が「あ、そうか」と少し持ち直しかけた、そのとき。

『……向こうがそう思ってるかどうかは、わからないよね』

シンパイが静かに、しかし確実にダイジョブを踏みつぶした。

『「またこの人か」って思われるかもしれない。「面倒な客だな」って。「もう二度とこの店で買わせないようにしよう」って、ブラックリストに載るかもしれない』

『ブラックリストって、そんな』

『わからないよ。わからないから、怖いんだよ』

ダイジョブが黙った。シンパイの必殺技は、いつも「わからない」を武器にすることだった。わからないから、最悪を想像していい。想像していいから、いくらでも怖くなれる。

そこへ、キオクがすっと手を挙げた。眼鏡をかけた、物静かな小人だ。

『思い出した』

『やめて』とミコが小さく言ったが、もう遅い。

『小学二年生の頃。近所のアイス屋さんで、チョコ味を頼んだつもりが、渡されたのは絶対に違う色のミント味だった』

『言えばよかったのに』とダイジョブ。

『言えなかったんだよ、あのときは。「あの、これ違います」の「あ」まで出かかって、消えた。お店の人が笑顔だったから、なんか、悪い気がして』

『それで?』

『それで、ミント味を、全部、食べた。最後の一口まで』

部屋の空気が、しん、とした。

あの日の、歯の裏側に張りつくようなミントの後味を、ミコは今でも覚えている。

「……そうだよ、わたし、昔からそうだったんだ」

ミコはコートの袖の中で、拳をぎゅっと握った。

二十八歳になった今も、根っこのところは、あのアイス屋の前に立っていた七歳と、たぶん何も変わっていない。

サイトを開く。商品ページの下の方、豆粒みたいな文字で「返品・交換について」というリンクがある。

タップすると、こう書いてあった。

『商品到着後、7日以内にご連絡ください』

「……7日」

ミコはスマホをそっと置いた。

箱の中で、値札のタグがまだ揺れていた。SサイズのはずなのにLLサイズの服についていた、小さな紙。それが、なんだか申し訳なさそうにミコを見上げている気がした。

こうして、七日間のうちの一日目が、何もしないまま終わった。

正確には、何もしなかったわけではない。ミコは布団の中で「電話をかける自分」を三十回くらいシミュレーションし、そのすべてで失敗し、疲れて眠った。

頭の中では、ネムイがいちばん早くいびきをかき始めていた。

二日目、三日目は、「よくある質問」との格闘に費やされた。

ミコは、サイトの中にある「Q&A」というページを、隅から隅まで読んだ。送料について。支払い方法について。会員登録について。ポイントの有効期限について。関係のあるものもないものも、片っ端から読んだ。

なぜなら――もしかしたら、どこかに「交換はメールでも受け付けます」という一文が隠れているかもしれないから。

電話をかけずに済む道が、一本くらいは、あるかもしれないから。

「あった……!」

四日目の夜、ミコはついに、それらしき文章を見つけた。

『お問い合わせ内容によっては、メールでのご対応も可能です』

小人たちが色めき立った。

『よし! メールだ! メールなら書き直せる! 送信ボタンを押す前に、何度でも読み返せる!』

ダイジョブが快哉を叫んだ。ミコもその気になって、問い合わせフォームのページを開く。

しかし、その一番下に、こう書いてあった。

『※サイズ交換・返品に関するご連絡は、迅速な対応のためお電話でお願いしております』

「……あ」

サイズ交換だけは、電話。ピンポイントで、いちばん避けたかった扉だけが、避けられないようにできていた。

ミコはスマホを持ったまま、ソファに沈み込んだ。

窓の外はもうすっかり暗く、コートの入った箱は、部屋の隅で静かにミコを見ていた。

七日のうち、四日が過ぎていた。

第二章

五日目。ミコは覚悟を決めた。

電話をかける。かけるからには、失敗したくない。失敗したくないなら――台本を書けばいい。

「よし。台本を書く」

声に出して言うと、頭の中の小人たちが、それぞれの持ち場についた。今日は「台本作成会議」の日だった。

議長席には、なぜかダイジョブが座った。

『では、第一回・電話台本会議を始めます! まず、ミコが最初に言うべきセリフから』

『「お世話になっております」でいいんじゃない?』とキオク。

『いや待って』シンパイが挙手する。『相手が「はい、○○です」って名乗ったあとに、こっちが名乗るタイミング、いつ?』

『名前は先? あと?」

『先じゃない? でも先に言いすぎると食い気味になるかも』

『食い気味って何。普通に話せば?』

『普通に話す、が、いちばん難しいんだよ……』

議論は白熱した。

ミコはノートを広げ、ペンを走らせた。

「お世話になっております、注文番号は」まで書いて、線で消す。「あの、すみません、コートのサイズが」まで書いて、また消す。

便箋三枚分を消しては書き、書いては消した。

『もし「なぜすぐに気づかなかったんですか」って聞かれたら?』

『もし「返品理由を詳しく教えてください」って言われたら?』

『もし「本当にお客様の採寸ミスではないですか」って言われたら?』

『もし、もし、もし……』

小人たちの「もし」は、止まらなかった。

想定質問は、気づけば四十二個にまで膨れ上がっていた。ノートは、ミコの字で埋め尽くされ、ところどころ涙のシミなのか汗のシミなのかわからない丸い跡がついていた。

「……もう、無理かも」

六日目の夜、ミコはくしゃくしゃになったノートを見つめて、つぶやいた。

四十二個の「もし」に、四十二通りの答えを用意しようとして、結局どれも中途半端なまま、時間だけが過ぎていた。

そのとき、ずっと部屋の隅で丸くなっていたネムイが、むくりと起き上がった。あくびをしながら、こう言った。

『ぜんぶ、覚えなくていいんじゃない?』

『え?』

『台本、忘れても。忘れたら、その場で考えればいいし。……ねむい』

言うだけ言って、ネムイはまた丸くなった。

身も蓋もない発言だったが、なぜか、その一言でミコの肩から少しだけ力が抜けた。

完璧な台本なんて、たぶん、この世に存在しない。

ミコはノートの最後のページに、たった三行だけ書いた。

『注文番号を伝える』
 『サイズが違うことを伝える』
 『交換したいと伝える』

それだけ。あとは、なんとかなる――と、思いたかった。

七日目の朝が来た。返品期限、ラストの日。

ミコはスマホを両手で持ち、画面に表示された電話番号を、何度も何度も見つめた。

「……いくよ」

誰にともなく言って、通話ボタンを押した。

第三章

コール音は鳴らなかった。

代わりに、機械的な女性の声が流れてきた。

『お電話ありがとうございます。ご用件に応じて番号をお選びください。ご注文内容の確認は――』

早口だった。ミコの頭の中で、シンパイが悲鳴を上げた。

『は、早い! 何番だっけ! 交換って何番だった!?』

『待って待って、メモしてなかった!』

ダイジョブも一緒に慌てだす。キオクが必死に耳を澄ませたが、「返品・交換に関するお問い合わせは3番」というアナウンスが流れた直後、緊張のあまり誰も指を動かせなかった。

気づけば、アナウンスは『お電話ありがとうございました』と言って、切れていた。

「……あ」

沈黙。

ミコはしばらく画面を見つめたあと、もう一度、通話ボタンを押した。

今度は、メモ用紙にでかでかと「3」と書いて、握りしめておいた。

二回目のアナウンスが流れ、「3番」と言われた瞬間、震える指でボタンを押す。

保留音が流れ始めた。

軽やかなオルゴール調のメロディが、ループしている。

一分。二分。三分――

時計を確認するたびに、時間の進みがやけに遅く感じられた。

六分を過ぎたころ、ハラヘッタが唐突に言い出した。

『これ、どこかで聞いたことあるメロディじゃない?』

『いま関係ある?』とシンパイ。

『いや、なんか、給食の時間の放送で流れてた曲に似てて』

『集中して。もうすぐ出るかもしれないのに』

『あ、お腹すいた』

『いま!?』

どうでもいい話題のおかげで、逆にみんなの肩から力が抜けていくのが、ミコにも伝わってきた。緊張しすぎた糸は、変なところで少し緩む。

九分。十分。

ネムイが、いつのまにかまたうとうとし始めていた。保留音の心地よさに負けたらしい。

十二分が経過したところで――

『――お電話代わりました、オペレーターの田中と申します』

その声が聞こえた瞬間、ネムイが弾かれたように飛び起きた。

『息を吸えーーー!!』

その一言で、ミコは危うく忘れかけていた呼吸を、慌てて取り戻した。

同時に、六日間かけて書いて消してを繰り返した「第一声」が、頭の中から、きれいさっぱり消え去っていた。

「あ、あの、えっと」

用意していたはずの言葉は出てこず、口から出たのは、ただの音の羅列だった。

シンパイが青ざめる。『どうしよう、何も出てこない』

だが、電話の向こうの声は、思っていたよりずっと穏やかだった。

『大丈夫ですよ、ゆっくりで。ご注文番号か、お名前とお電話番号、どちらかわかりますか?』

その声のトーンに、ミコの体からふっと力が抜けた。

怒っていない。急かしていない。ただ、待ってくれている。

「あ、注文番号、わかります。えっと……」

ノートに書いた三行を見ながら、一つずつ、伝えていく。

注文番号。サイズが合わなかったこと。交換してほしいこと。

言葉はところどころつっかえたし、順番も入れ替わったけれど、伝えたいことは、ちゃんと伝わったらしかった。

『かしこまりました。それでは交換のお手続きをいたしますね』

あっけないほど、あっさりと、話は進んでいった。

四十二個も用意した「もし」の質問は、ほとんど飛んでこなかった。オペレーターはただ、必要なことを一つずつ、優しく聞いてくれるだけだった。

『では、返送用の伝票をお送りしますので、ご住所を確認させてください』

「はい。福岡市……」

自分の住所なのに、いつも書き慣れているはずのそれなのに、緊張のあまり、番地の途中で舌を噛んだ。

「す、すみません、もう一回言います」

『大丈夫ですよ、焦らなくて平気です』

電話の向こうで、田中さんが小さく笑ったのが、声の空気でわかった。

その笑い方には、悪意のかけらもなかった。

第四章

電話を切ったあと、ミコはしばらくソファに座り込んだまま、動けなかった。

達成感というより、大きな仕事をひとつ終えたあとの、抜け殻のような感覚だった。

『……終わった』

シンパイがぽつりと言った。声から、さっきまでの張りつめた響きが消えている。

『終わったね』とキオクも頷く。

『ほら見て! 全然大丈夫だったじゃん!』

ダイジョブが胸を張った。

『それ、さっきまで一番びびってたのお前じゃん』とハラヘッタ。

『……忘れて』

ネムイだけは、もう役目を終えたとばかりに、早々に寝息を立て始めていた。

数日後、コンビニから発送する日がやってきた。返送用の伝票と、コートを詰め直した箱を持って、ミコは近所のコンビニへ向かった。

レジで箱を差し出すと、店員さんが「発送ですね」と伝票を受け取ってくれた。

ここまでは順調だった。

問題は、次だった。

「これ、伝票どこに貼ります?」

その一言が、言えなかった。

箱を渡したあと、店員さんが伝票を貼る作業に入るのを、ミコはただ、レジの前で突っ立って見ていた。頭の中では、また新しい「もし」が生まれかけていた。

『もし、勝手に貼っていいのか聞いたら、逆に「そんなの見ればわかるでしょ」って思われたら』

シンパイの声が、また蘇りかけた。

だが、今日のミコは、少しだけ違った。

電話一本、乗り越えたあとだった。あの十二分の保留音を耐えたあとだった。

「あ、あの……このまま、それで大丈夫ですか?」

小さな声だったけれど、ちゃんと言葉になって出てきた。

「はい、こちらで貼っておきますね」

店員さんは、なんでもないことのように答えてくれた。

拍子抜けするくらい、簡単なことだった。

箱がベルトコンベアの奥に消えていくのを見送りながら、ミコは小さく息を吐いた。

頭の中で、シンパイがぼそっと呟いた。

『……今回は、まあ、楽勝だったな』

『え、さっきまであんなに騒いでたのに?』とキオク。

『気のせいだよ、気のせい』

シンパイは、なかったことにしようとしているらしかった。ダイジョブも、ハラヘッタも、うんうんと頷いて、その空気に乗っかっている。

六日間かけて書いたぐしゃぐしゃの台本メモは、もう役目を終えて、机の引き出しの奥にしまわれることになるだろう。

数日後、新しいコートが届いた。

箱を開けて、袖を通す。

今度は、ちゃんと肩の位置に、肩がある。裾は膝のあたりで、きれいに揃っている。

鏡の前に立って、ミコはくるりと一回転した。

悪くない。むしろ、いい。

小さく、しかし確かに、ミコは胸を張った。

その隣で、頭の中の小人たちも、なんとなく誇らしげな顔をしていた。

まるで、自分たちが何もかもうまくやったかのように。

実際にいちばん頑張ったのは、六日間、電話一本のために台本を書き直し続けた、ミコ自身だったのだけれど。