誤植のない世界で生きている
四月の終わりは、いつも紙の匂いがした。
芹澤梓の机の上には、常に三種類のものが並んでいる。赤ペン、付箋、そして締め切りまでの残り時間を刻む腕時計。どれひとつとして余分なものはなく、どれひとつとして欠けてはならない。それが梓の仕事場であり、梓の宇宙だった。
「芹澤さん、黒木先生からまた連絡が」
後輩の田所陽菜が、申し訳なさそうに顔を突き出した。デスクに向かったまま梓は赤ペンを走らせ続ける。校正刷りの余白に、細かく整った文字が並んでいく。
「何て」
「あと一週間ください、って」
「先週も一週間いただきましたって伝えて」
「はい……でも先生、体調が」
「陽菜」
梓はようやく顔を上げた。後輩の丸い目と目が合う。
「体調が悪いのは原稿が遅れる理由にならない。作家は書くことが仕事で、私たちは締め切りを守ることが仕事。黒木先生にそう伝えて。それから、三日後に私が直接電話する、とも」
陽菜は小さく「わかりました」と呟き、自分のデスクへ戻っていった。その背中を見送りながら梓は視線をゲラに戻す。赤ペンが走る。走る。走る。
蒼文社の文芸編集部は、出版社の中でも特に静かなフロアだった。営業部の喧騒や雑誌部の慌ただしさとは切り離されたように、ここでは人々がそれぞれの原稿と向き合い、各自の沈黙を守っている。梓はその空気が好きだった。言葉が仕事であるくせに、言葉を交わすことが最小限で済む場所。
午後六時、梓はようやく赤ペンを置いた。
今日の校正作業は終わった。明日の朝一番で版下に戻せる。スケジュール通りだ。何もかもスケジュール通りだ。梓は小さく息を吐き、コートを手に取った。
地下鉄に乗り、乗り換えて、また乗る。梓の通勤は三十四分。乗り換え含めて。いつも同じ。誤差は出さない。電車の中でスマートフォンを取り出し、メッセージを確認する。悠からの着信が一件。
「今日、何時ごろ帰る? 夕飯作るよ」
送信時刻は午後三時だった。梓は今それを見ている。夕飯の時刻はとうに過ぎていた。
「ごめん、遅くなる。先に食べてて」
返信を打ちながら、梓はぼんやりと自分の文章を読み返す。謝罪で始まり、命令で終わる。それが最近の自分の返信のパターンだということに、梓はうっすら気づいていた。気づいていたが、直し方がわからなかった。
帰宅すると、悠はリビングのソファでスケッチブックを広げていた。仕事の続きか、あるいは趣味の落書きか。グラフィックデザイナーという職業柄、彼の手はいつもペンを持っている。梓のそれが赤ペンなら、悠のそれは黒いサインペン。二人の手元だけが似ている、と梓はどこかで思っていた。
「おかえり」
悠が顔を上げた。顔は穏やかで、責めている色はない。それが梓には、時々つかみどころがなく感じられた。
「ただいま。ごめん、連絡遅くて」
「全然。ラップしてあるから、温めて食べて」
キッチンに行くと、皿にラップをかけた夕飯があった。チキンのソテーと温野菜。梓の好物だ。悠はそういう細かいことを覚えている。いつも。梓が疲れていそうな日には消化のいいものを、梓が張り詰めていそうな日には少し手の込んだものを。
電子レンジが鳴る。梓は皿を取り出しながら、何か言わなければと思う。「おいしそう」でも「ありがとう」でもよかった。けれどダイニングに持っていって食べ始めると、言葉はどこかへ行ってしまっていた。
「黒木さんの原稿、また遅れそうだよ」
梓は食べながら言った。悠はソファから「そうなんだ」と答える。
「あの人、もう何度目かな。毎回毎回、こっちの進行が全部狂う」
「大変だね」
「大変っていうか、信頼の問題だと思う。プロとして」
「うん」
会話が続かない。続けようとするたびに、梓は話題を仕事に持っていってしまう。それ以外の話し方を、最近うまくできていない気がした。
「悠は今日どうだった」
「まあ、普通かな。ロゴのリテイクが二件あって」
「ふーん」
今度は梓が短く答える番だった。
二人は同じ空間にいて、それぞれ別の沈黙の中にいる。リビングの時計が九時を告げた。梓は食器を洗い、明日のゲラの段取りを頭の中で組み直し、歯を磨いて、先に寝室に入った。
布団の中で、梓は今日一日のことを反芻する。赤ペン。陽菜の困り顔。遅れてくる原稿。悠の「大変だね」。
全部、過不足なく収まっている気がした。完璧ではないが、管理できている。それで十分だと思っていた。
けれど眠りに落ちる直前、梓はふと思った。
悠が「おかえり」と言った時、自分はちゃんと顔を見ただろうか。
答えが出ないまま、意識が沈んでいった。
翌朝、黒木忍から原稿が届いた。
締め切りの三日前。梓が「三日後に電話する」と言った翌朝に、届いた。これが黒木のやり方だった。圧をかけると動く。動けば書ける。わかっているのにこちらが疲弊するのは、毎回この綱引きに消耗するからだ。
梓はメールを開き、添付ファイルをダウンロードした。長編小説の第三稿、二百四十ページ。黒木忍の新作。タイトルは『余白の声』。
印刷して、ゲラを作る。梓は赤ペンを持ち直した。
黒木の文章は、いつも梓を苛立たせる。誤字が多い。文末の表現が統一されていない。句読点の使い方がまるで一貫性を持たない。けれど不思議なことに、それらの粗さを全部取り除いても、何か残るものがある。芯のようなもの。削れない何か。梓は編集者として、その芯を守りながら文章を整えることに、静かな誇りを持っていた。
赤ペンが走る。最初のページ、二ページ、三ページ。
そして四ページ目で、梓の手が止まった。
おかしな一文があった。
「ねえ、今日は早く帰れる?」
本文の流れとは全く関係のない、唐突な一文。登場人物のセリフでもなく、地の文にも合わない。梓は首を傾げ、赤ペンで丸をつけた。削除、と書く。
先を読み進める。二十ページ。五十ページ。黒木の文章は今回も粗いが、芯は確かにある。梓は黙々と赤を入れ続けた。
八十ページ目に差し掛かったとき、また止まった。
「最近、全然話せてない気がする」
また、本文と無関係な一文。梓は眉をひそめた。黒木の癖か。あるいは原稿の管理ミスで、別ファイルの文章が混入したか。とにかく削除だ。赤ペンで消す。
そのまま読み進め、百二十ページに来た時、梓はゆっくりと赤ペンを置いた。
「ちゃんと俺のこと、見てる?」
三度目だった。本文とは無関係な、誰かのセリフのような一文。
梓はゲラを持ったまま、しばらく動けなかった。
その言葉には、聞き覚えがあった。いや、正確には、聞いた記憶がないのに、聞こえてきそうな声がある。穏やかで、低くて、少し掠れた声。
悠の声に、似ていた。
梓はゆっくり首を振り、赤ペンを取り直した。削除。削除。削除。
それだけのことだ。原稿の中の異物は、取り除けばいい。赤ペンがあれば、何でも直せる。
梓はそう思うことにして、仕事を続けた。
その週末、悠が珍しく早口で話しかけてきた。
「来月、友達の個展があってさ。一緒に行かない?」
梓はノートパソコンの画面から目を離さず、「いつ?」と聞いた。
「十四日の土曜」
「ちょっと待って」と言いながら、スケジュールを確認する。蒼文社の校了日が十三日。十四日は修正対応で潰れる可能性が高い。
「たぶん無理かも。校了が十三日で、翌日は念のため空けておきたい」
悠はそうか、と言った。
「ごめんね」
「ううん、しょうがないよ」
しょうがない。この言葉を最近、悠がよく使うようになった気がした。梓はその言葉の質感が、少し変わってきていることに気づいていた。最初のころのそれは受け入れと優しさだったのに、今はどこか諦めに近い響きがある。
でも梓には、どうしようもなかった。仕事は動かせない。締め切りは動かせない。本は待ってくれない。
完璧に仕事をこなすためには、余分なものを削ぎ落とす必要があった。梓はずっとそうやってきた。余分なものを削いで、削いで、削いで——。
今、何が残っているのかは、あまり考えないようにしていた。
直しても直らないゲラ
ゴールデンウィーク直前、梓は異変に気づいた。
黒木のゲラに赤を入れ、版下に戻し、修正刷りを受け取った。確認作業に入った梓は、百二十ページを開いた瞬間、目を疑った。
「ちゃんと俺のこと、見てる?」
消えていない。
梓は版下のファイルを確認した。データ上では削除されているはずだった。修正指示も、反映済みの印が押されている。それなのに、紙には残っている。
梓は版下の担当者を呼んだ。
「これ、直ってないですよ」
「え? 確認します」と担当者がパソコンで開く。「あ、ちゃんと削除されてます。データでは」
「でもこのゲラにはあります」
担当者が首を捻る。「再出力してみます」
二十分後、新しい修正刷りが届いた。梓はすぐに百二十ページを開いた。
「ちゃんと俺のこと、見てる?」
ある。まだある。
梓は静かに深呼吸した。印刷のミスか、システムの問題か。いずれにせよ、技術的な説明がつく。そう思うことにした。
だが翌日、梓はゲラを最初から読み直し始め、今度は新しい一文を見つけた。これまで気づかなかった箇所だ。十五ページ目。
「最近、笑ってないね」
赤ペンで丸をつけ、削除と書く。
四十ページ。
「もっと話したい」
削除。
七十二ページ。
「俺のこと、怖くないの?」
怖い? 何が? 梓は一瞬、その問いに引っかかる。削除。
九十八ページ。
「終わりって、どっちが決めるんだろう」
梓の赤ペンが止まった。
長い間、その一文を見つめていた。部屋の時計が音を立てる。フロア全体の静けさが、少し重くなった気がした。
削除、と書いた。
線を引いた後も、なぜかその文字は梓の目の裏に残っていた。
悠との会話が、最近ますます少なくなっていた。
少なくなっていた、というより、正確には「梓が減らしていた」のだろう。仕事が立て込んでいるとき、梓は会話を最小限にすることで頭の処理能力を保つ。それは合理的な判断だと梓は思っていた。でも悠の側からすれば、それはどう見えているのだろう。
ある夜、悠が言った。
「梓、最近ごはん一緒に食べてないな」
「ん? 食べてるじゃない」
「俺が先に食べてるか、梓が先に食べてるかのどっちか」
梓はその指摘の正確さに、少し驚いた。「そうかな」と言いながら、確かにそうだと気づく。
「嫌なわけじゃないけど」と悠は続けた。「なんか……一人で食べてる気分になってくる、時々」
これは責めているのか。梓は一瞬そう構える。しかし悠の声には刃がなく、ただ静かに、それを告げていた。
「来週は合わせる」と梓は言った。
悠は「うん」と言って、それ以上は続けなかった。
梓は食器を洗いながら、「来週は合わせる」という自分の返答を反芻する。それは約束だろうか。スケジュール調整の宣言だろうか。悠が求めていたのはそれだろうか。
わからなかった。人の言葉の正しい読み方が、こんなに難しいと思ったことはなかった。原稿の誤植なら赤ペンで直せるのに、会話の誤読はどうやって校正すればいいのか。梓には、その赤ペンがなかった。
ゴールデンウィークが明けた月曜日、梓はまたゲラを確認した。先週の修正が全部反映されているか、念のため確認する。
十五ページを開く。
「最近、笑ってないね」
……ある。
梓は目を閉じた。そして開けた。まだある。
四十ページ。七十二ページ。九十八ページ。全部、消えていない。
いや、消えていないどころか——新しい文章が増えていた。これまで見たことのない箇所、二百十ページ。
「ねえ、聞いてる?」
そして二百三十ページ。
「梓、俺のこと、まだ好き?」
梓はゆっくりゲラを閉じた。
深呼吸する。もう一度、深呼吸する。
これは技術的な問題じゃない。版下の問題でも、印刷のシステムの問題でもない。そんなことは梓にもわかっている。わかっているから怖い。
この文章たちは、黒木が書いたものじゃない。
では誰が書いたのか。
梓はしばらく答えを考え、答えが出ないまま、赤ペンを持った。どこかのページ、誰かが書いた一文に赤線を引く。削除、削除、削除。消えなくても削除と書き続ける。それが梓にできる唯一のことだった。
その日の帰り道、梓は地下鉄の中でぼんやりと窓の外を見ていた。トンネルの闇が続き、時々駅のホームが光として現れる。あの光は本当に光なのか、それとも自分が光だと思い込んでいるだけなのか。
スマートフォンが鳴った。悠からメッセージが届いていた。
「今日、話せる? 帰ったら」
梓はその短い文を、長い間見つめた。
話せる?というのは何の話だろう。ごはんのことか。予定の確認か。あるいは——。
「うん」と返した。それだけ。
帰宅すると悠はテーブルに向かっており、珍しくスケッチブックを閉じていた。テーブルの上にはコーヒーが二つ。梓の分まで用意されている。
梓はコートを脱いで、テーブルに着いた。
「何?」
「なんか聞いていい?」
悠の声はいつも通り静かだった。それでも梓は、普段とは違う重さを感じた。
「どうぞ」
「俺たち、うまくいってると思う?」
梓は一瞬、答えを探した。いつもなら「うまくいってるでしょ」と返せた。けれど今は、その言葉がなぜか喉に引っかかる。
「……うまくいってないと思う?」
問い返してしまった。これは校正技法の悪い癖だ、と梓は自分でわかっていた。問いを問いで返すのは、答えを持っていない時のやり方。
「うまくいってるかどうかわからなくなってきた」と悠は言った。「梓が何を考えてるのか、最近読めなくて」
「読めないって、どういう意味」
「仕事の話は聞かせてくれる。でもそれ以外のことは、あんまり……梓がどう感じてるのか、とか。俺のことどう思ってるのか、とか」
梓はコーヒーを両手で包んだ。温かかった。
「言わなくてもわかるでしょ、そういうのは」
「わからないよ」と悠は静かに言った。「わからないから聞いてる」
沈黙が落ちた。時計が音を立てる。梓は何かを言おうとして、何度も言葉を作りかけた。でも何を言っても、何かが足りない気がして、口を開けなかった。
完璧な答えが見つからなかった。だから、言えなかった。
悠はしばらく待ち、それから「そっか」とだけ言って立ち上がった。寝室に向かう背中を、梓は目で追った。
テーブルの上に、悠のコーヒーカップが残っていた。半分以上、残っていた。
赤ペンの届かない場所
黒木忍から電話がかかってきたのは、五月の雨の夜だった。
「芹澤さん、ゲラ読んでくれましたか」
「読んでます。修正の確認を進めてるところです」
「どうですか、今回の話」
梓は少し間を置いた。黒木は締め切りを守らず、原稿は粗く、打ち合わせでは脱線ばかりする。それでも仕上がった本は毎回、読者の心に引っかかるものを残す。梓がこの作家との仕事を続けているのは、その「引っかかり」を信じているからだ。
「テーマは面白いと思います。ただ、三章の密度が薄い。感情の流れが途切れている箇所が数カ所あって」
「それ、意図的です」
「意図的?」
「途切れているのが、本当のことだから」
梓は黙った。
「人の感情って、繋がってないじゃないですか」と黒木は続けた。「綺麗に繋がってるように見せることもできる。でもそれは嘘なんですよね。本当は、ぶつ切りで、脈絡がなくて、それでいて全部自分のものなんです」
梓は受話器を持ったまま、窓の外を見た。雨が地面を叩いている。
「……修正は最小限で検討します」
「ありがとうございます。あと、芹澤さん」
「何ですか」
「ゲラに変なものが混じっていたら、ごめんなさい」
梓の手が止まった。「変なもの?」
「たまに、自分が書いたんじゃないものが混じるんですよね、私の原稿って。不思議なんですけど。書いてる時に、誰かの声が紛れ込んでくるというか」
梓はゆっくりと息を吸った。
「……それは、誰の声ですか」
「さあ。読んだ人が一番よく知ってると思いますよ」
電話が切れた。
梓はしばらく、スマートフォンを手に持ったまま動けなかった。
翌日、梓はゲラをまた開いた。
今度は赤ペンを持たずに読んだ。修正者としてではなく、ただ読む人間として。
二百十ページ。
「ねえ、聞いてる?」
梓は声に出して読んだ。低く、小さく。自分の口から出た言葉を、初めてちゃんと聞いた。
聞いてる?
聞いていたか? 自分は、悠の言葉を。声のトーンを。「しょうがないね」の中に滲んでいた何かを。「話せる?」の前に積み重なっていた何週間かを。
梓はゲラを読みながら、自分の一年間を思い返した。
同棲を始めた時、悠は「梓の仕事が好きだ」と言っていた。本に向き合う真剣な目が好きだと。梓はその言葉を誇りとして受け取り、仕事に磨きをかけた。それが悠への誠実さだと思っていた。
でも、それは違ったのかもしれない。
悠が好きだと言ったのは「梓の仕事」ではなく「梓が仕事に向き合う目」だったのかもしれない。その目が、自分にも向けられることを、もしかしたら悠はずっと待っていたのかもしれない。
梓はゲラの余白を見た。赤ペンで引かれた無数の線。削除の指示。修正の記号。完璧な本を作るために消した、無数の何か。
消したものの中に、何があったのだろう。
その日の夜、帰宅した梓を出迎えたのは、いつもと違う気配だった。
悠がリビングにいない。スケッチブックも、いつものサインペンも、テーブルの上にない。
「悠?」
声をかけると、寝室から返事がした。
「ちょっと待ってて」
しばらくして、悠が出てきた。その手には、小さいバッグがあった。出張用の。
「……どっか行くの?」
「うん」と悠は言った。「少しの間、実家に帰ろうと思って」
梓の胸に、冷たいものが落ちた。
「なんで」
「ちょっと、考えたいことがあって」
「考えたいことって、何を」
悠はゆっくり梓を見た。その目は責めてもいなかった。ただ、疲れていた。長い間、何かをずっと持ち続けた人の、静かな疲れ。
「俺たちのこと。俺と梓が、これからどうしていくか」
梓は何も言えなかった。
「喧嘩したいわけじゃない。責めたいわけでもない」と悠は続けた。「ただ梓と話しても、梓は答えを出せないし、俺もどう言えばいいかわからなくなってきて。少し離れて、整理したい」
「いつ帰ってくる」
「わからない」
それだけが、梓にとって一番怖い答えだった。スケジュールが決まっていない。戻る日付がない。校了日も締め切りもない、白紙の未来。
悠は「ごめんね」と言って、玄関に向かった。
「待って」
梓は声を出した。自分でも驚くくらい、素直な声が出た。
「何?」
「……行かないで、とは言わない。ただ」
言葉が続かなかった。続けたかったのに、続け方がわからなかった。
「ただ、ちゃんと帰ってきてほしい」
悠は少しの間、梓を見ていた。それから「うん」と言った。一言だけ。でもそれは、梓が今まで聞いた悠の「うん」の中で、一番重かった。
玄関が閉まった。梓はその音を、リビングのど真ん中で聞いた。
悠がいなくなった部屋は、静かだった。
いつも静かだった、とも言える。梓は一人でも黙々と仕事ができる人間で、むしろ人の気配があると集中が乱れることもある。だから悠が留守にしていても、仕事はできる。
できるのに。
梓はソファに座り、何もしなかった。
スマートフォンも手に取らない。ノートパソコンも開かない。赤ペンも持たない。ただ座って、悠がいつもいる場所を見ていた。
スケッチブックが、棚に一冊残っていた。悠が置いていったものだ。梓は立ち上がり、それを手に取った。開かないまま、しばらく持っていた。
表紙の右下に、悠のサインペンで小さく書かれた文字がある。日付と、一言。
「梓と一緒に見た海、描けてない」
梓は、その字を指でなぞった。
二人で海に行ったのは、いつだっただろう。去年の秋だったか、一昨年の夏だったか。梓は思い出せなかった。悠はその日のことを、まだスケッチブックに残そうとしていた。描けていないまま、覚えていた。
梓の目が、熱くなった。
泣いたのは、いつ以来だろう。仕事で泣いたことはない。泣くことが仕事の役に立ったことがない。だから泣かなかった。そうやって削ぎ落としてきたものの中に、泣くという行為も含まれていたのかもしれない。
梓はスケッチブックを胸に抱えて、泣いた。声を出さずに、ただ涙だけが出た。
赤ペンでは、この涙を直せない。
削除と書いても、なくならない。
この感情は、校正できないのだ。
未完のまま、声になる
翌朝、梓は出社前にゲラを開いた。
いつもの赤ペン。いつもの机。けれど昨日と何かが違う気がして、梓は赤ペンをすぐには持たなかった。
ゆっくり、最初のページから読み直す。
黒木忍の文章は、今日は違って見えた。粗さは同じ。誤字も同じ。でもその粗さの隙間から、何かが呼吸しているのが、今日は聞こえる気がした。
主人公は一人の女性だ。孤独を選んで、選んだと思っていたけれど、本当は選ばれ方がわからなかっただけの女性。物語の中で彼女は、何かを失いながら、失った場所に初めて光を見つける。
梓は静かに読み進んだ。
三章の「途切れた感情」の箇所。昨日まで「ここは直すべきだ」と思っていた場所。今日読むと、その途切れが、なぜかちゃんと届いた。繋がっていないからこそ、本物に見えた。連続した感情の中に潜む、ぽっかりとした穴。その穴に梓は、自分の穴を重ねた。
「感情は繋がってない。でも全部自分のものだ」
黒木の言葉が、今日になって理解できた。
梓は赤ペンを持ち、ゲラに向かった。今日の赤は、昨日までと違う。削除ではなく、問いかけるような赤。「ここはこれでいいのか」ではなく「ここには何があったのか」を探す赤。
そして二百三十ページを開いた時、梓はそこに例の一文を見つけた。
「梓、俺のこと、まだ好き?」
今日は削除と書かなかった。
長い間、その一文の隣に余白を持たせたまま、梓は座っていた。
答えは、決まっていた。最初から決まっていた。ただ、自分で口に出すことを、あるいは紙に書くことを、梓は怖がっていた。完璧な言葉でなければ言えない、と思っていた。でも完璧な言葉なんて、どんな辞書にも載っていない。
梓は赤ペンで、その一文の隣の余白に書いた。
小さく、崩れた字で。
「好き」
それだけだった。それだけで、十分だった。

昼休み、梓は田所陽菜を昼食に誘った。
「え、珍しいですね!」と陽菜は目を丸くした。「芹澤さんがご飯誘ってくれるの初めてじゃないですか」
「そう?」
「絶対そうです。いつもデスクでおにぎり食べてるじゃないですか」
二人でビルの下のカフェに入った。梓は窓際の席を選び、ランチメニューを開いた。
「陽菜って、彼氏いるの?」
「え」と陽菜がまた目を丸くした。「急ですね。います、一応。大学の時から付き合ってる人が」
「長いんだ」
「そうですね。でも最近けっこう喧嘩して」
「何で」
「私が彼の話をちゃんと聞いてないって言われました」陽菜はパスタを混ぜながら笑う。「確かにそうなんですよね。聞いてるつもりで、内容入ってない時ある。仕事のことで頭がいっぱいで」
梓は、その言葉をそのまま自分に当てはめた。
「それ、直せた?」
「直すっていうより……気にするようにした、みたいな感じですかね。完全に直ったとは思わないけど。でも気にしてるの伝わるから、向こうも待ってくれてる、みたいな」
「気にしてるの伝わる」
「うん。言葉じゃなくても、なんか伝わるじゃないですか。ちゃんと聞こうとしてるって」
梓はコーヒーを一口飲んだ。
「陽菜は、完璧じゃなくても大丈夫?」
「完璧なわけないですよ私」と陽菜は笑った。「芹澤さんこそ、何でも完璧にやりすぎじゃないですか。仕事もそうだけど、なんか……全部うまくやろうとして、うまくやれない部分を見ないようにしてる感じ、します」
梓は少し驚いて、後輩の顔を見た。
「そんなふうに見える?」
「見えます。でもそれって、梓さんが怖いからだと思うんですよね」陽菜は少し真面目な顔になった。「うまくできなかったら、って。失敗したら、って。だから最初から完璧にしようとする。でもそれってなんか、先に諦めてるみたいじゃないですか。試さないうちに」
梓はしばらく黙っていた。
「……そうかもしれない」
「あ、言い過ぎましたか?」
「ううん」と梓は言った。「ちゃんと聞こえた」
その夜、梓は悠に電話をかけた。
呼び出し音が三回鳴って、繋がった。
「梓?」
「うん、私」
「どうした、急に」
「話したくて」
短い沈黙があった。それから悠が「うん」と言った。
「聞いてる」
梓は窓の外を見た。五月の夜、東京の光が広がっている。この街は夜になっても眠らず、どこかで誰かが仕事をしていて、どこかで誰かが泣いていて、どこかで誰かが電話をかけている。梓は今夜その中の一人で、窓の外の光を見ながら、初めて言うべき言葉を探していた。
完璧な言葉を探すのをやめた。
「悠のこと、ちゃんと見てなかったと思う」
「……」
「仕事のことばかりで。あなたが何を言ってるのか、言葉は聞いてたけど、ちゃんと聞いてなかった。海に行った日のこと、私、日付も覚えてなかった」
「梓」
「悠はスケッチブックに書いてた。描けてないって。私、それ見て初めて気づいた。あなたはずっと覚えてたのに、私は」
声が少し震えた。梓は気づいたけれど、止めなかった。
「謝りたい。ちゃんと向き合えなかったことを」
悠は少しの間、沈黙していた。それから、静かに言った。
「俺も、うまく言えなかった。梓が怖くて、言いたいことがあっても整理してから言おうとして、そうするうちに言えなくなって」
「怖い? 私が?」
「怖いっていうか……梓はいつも正しいから。正しいことを言われると、俺が感情で言ってることが全部間違いみたいに見えて」
梓は、その言葉を受け取った。正しいことが武器になっていたのか。赤ペンが、誰かを傷つけていたのか。
「ごめん」
「俺も、ごめん」
沈黙が続いた。でも今夜の沈黙は、これまでとは違った。どこかに余白があった。言葉が入ってくる隙間のある、沈黙。
「帰ってきてほしい」と梓は言った。「完璧じゃなくていいから。喧嘩してもいいから。ちゃんと向き合いたい」
悠が少し笑う気配がした。電話越しに聞こえる、かすかな息遣い。
「明後日、帰る」
「待ってる」
電話が終わった後、梓は少しの間、スマートフォンを持ったまま座っていた。
完璧ではなかった。うまい言葉でも、整った会話でもなかった。でも確かに、届いたと思った。
翌日、梓は黒木のゲラを最終確認した。
問題の一文たちは、今日はもう気にならなかった。直す必要があるかどうかよりも、その言葉が何のためにそこにあったのかを、梓は今なら少しわかる気がした。
ゲラは完成に近かった。いくつかの誤字が残り、表現の揺れが数カ所ある。でも黒木が「意図的」と言った場所は、梓はもう直さないことにした。その途切れが、本物だから。
赤ペンを走らせながら、梓は思った。
完璧な本なんて、存在しないのかもしれない。すべての誤植を消し、すべての揺れを統一し、すべての余白を言葉で埋めても、それが完璧かどうかは読んだ人が決める。編集者にできるのは、その本の中に「ちゃんと届く何か」を守ることだけだ。
完璧に直すことと、ちゃんと届けることは、違う。
梓はそれを、初めて知った気がした。
『余白の声』の校了は、予定より一日遅れた。
梓の判断で、三章の「途切れ」を残したことが原因だった。部長に理由を説明すると、部長は少し不思議そうな顔をして、「芹澤らしくないな」と言った。
「そうですね」と梓は答えた。「でも、この本はこれでいいと思います」
部長はしばらく梓を見てから、「まあ、お前がそう言うなら」と言って、校了のハンコを押した。
陽菜が「なんか、芹澤さん今日雰囲気違いますね」と言ってきた。
「そう?」
「なんか、柔らかい。いつもはもっとピリピリしてるのに」
「そうかな」
「顔が違います。赤ペン持ってても怖くない」
梓は笑った。声に出して、少し。
陽菜が目を丸くした。「え、笑った!」
「笑いますよ、普通に」
「普通じゃないですよ! 初めて見ました!」
大げさな後輩の反応に、梓はまた少し笑った。それから赤ペンを持ち直して、次の仕事に向かった。
悠が帰ってきた夜、二人は夕飯を一緒に食べた。
悠が作り、梓が食器を並べた。たったそれだけのことが、なぜか胸に温かかった。
「海、また行こうよ」と悠が言った。
「うん」と梓は答えた。「今度は私も覚えてる」
「俺もちゃんと描く」
「スケッチブック、持ってて。そっちの棚に置いてあったから」
悠が振り返り、棚を見た。スケッチブックが一冊、梓が動かさずにそこに残してある。
「……見た?」
「表紙だけ」
「描けてないやつ、描いてもいい?」
「描いて」と梓は言った。「私も一緒に見てるから」
悠は笑った。久しぶりに見る、飾らない笑い。梓はその笑顔を、今日はちゃんと見た。
夕飯のあと、二人でソファに並んだ。悠がスケッチブックを開き、梓はその隣で本を読んだ。黒木の『余白の声』。今日、梓の手元に届いた見本刷り。まだ世に出ていない本を、梓は静かにめくっていく。
ページをめくるたびに、赤ペンで消した跡が脳裏に浮かんだ。でも今の本文にはその跡はなく、代わりに黒木の言葉だけが並んでいる。削除の指示も、修正の記号も、消えている。
残ったのは、文章だ。
梓が守ろうとした、芯だけが。
三章の「途切れ」の場所を読んだ時、梓はそこで少し止まった。
「うまく言えなくても、言おうとすることが、届くのだと思った」
黒木の文章が、静かに言っていた。
梓は本を閉じ、悠の横顔を見た。悠はスケッチブックに、細い線を引いている。何を描いているのかはまだわからない。完成していない絵が、そこにある。
完成していないけれど、それがどこへ向かっているのかは、なんとなくわかる気がした。
海かもしれない。光かもしれない。あるいは、ここにいる誰かの横顔かもしれない。
梓はそっと、悠の肩に頭を預けた。悠は少しびっくりしたようだったけれど、スケッチブックを持ったまま、肩の力を緩めた。二人の重心が、少しだけ交わった。
完璧じゃない夜だった。
言えなかった言葉がまだいくつもあり、解決していないことが山ほどあり、明日の仕事のことも頭の片隅で動いていた。でもそれでよかった。未完でいい。未完のまま、続いていく。
窓の外に、夜の東京が広がっている。
この街はいつも動いていて、どこかで誰かが原稿を書いていて、どこかで誰かが締め切りと戦っていて、どこかで誰かが隣の人の肩に頭を預けている。
梓は目を閉じた。
赤ペンは、机の上に置いてある。
明日になれば、また持つ。また走らせる。また誤植を探し、余分を削り、芯を守る仕事をする。でもそれだけじゃない。校正できないものの中にこそ、大切なものがある。それを梓はもう知っている。
消えない誤植が、教えてくれた。
直しても直らない文章が、届けてくれた。
余白には、言葉の代わりに何かが宿る。
未完のままでいい、と梓は思った。
未完のままだから、続けられる。


