第一章
商店街の事務所に呼ばれたのは、三月の終わりだった。
桜がまだ咲きかけで、僕は理由もわからないまま折り畳み椅子に座らされ、振興会の会長——丸顔に白髪の混じった田代さんという人——から、ぽつぽつと話を聞かされた。
「坂本さんが、春に入院されてね」
坂本さんというのは、この商店街のイベント係を長年やっていたおじいさんだ。正確には、僕は一度しか話したことがない。去年の夏祭りで、神社の境内にテントを立てるとき、張り方を教えてくれた人だった。手際がよくて、無駄なことを言わなくて、でも僕が迷っていると必ず気づいてくれた。
「後任を探しているんだけど。きみ、暇でしょ」
暇かどうかでいえば、そこそこ暇だった。親の仕事を手伝いながら実家の近くをうろうろしている二十六歳に、大した予定はない。断るほどの理由も、断るほどの気力もなかった。
「やってみます」と答えたのは、なんとなくそのほうがよさそうだった、というだけだ。
後から思えば、田代さんはその時点で坂本さんの病状のことをもう知っていたのかもしれない。「入院」という言葉だけを使って、それ以上は何も言わなかった。
坂本さんは五月に亡くなった。
七月の第三土曜、毎年恒例の夏祭りまであと三週間というころになって、僕はようやく神社の境内に足を踏み入れた。
正直に言えば、ずっと先延ばしにしていた。
行けば何かが始まる気がして、どこか踏み出せなかった。何かが終わった場所に、自分が立ち入ることへの遠慮、というのかもしれない。
第二章

神社はこぢんまりとした場所だった。
商店街の外れを曲がった先、住宅街の中に溶け込むように建っている。拝殿と境内の間に小さな石畳の広場があって、その奥に倉庫代わりに使われている木の小屋がある。田代さんから預かった錆びた鍵で扉を開けると、テントのポールや縄のほかに、段ボール箱がいくつか積まれていた。
一番上の箱に「夏祭り用品」と油性マジックで書いてある。開けると、紙の束と、その下に丁寧にビニール袋で包まれた古いレコードが一枚出てきた。
盤面を見ると、タイトルは「港の夜」というムード歌謡だった。知らない曲だ。でも盤は傷ひとつなく、大切に扱われてきたことがわかった。
紙の束は古いノートだった。
表紙に「夏祭り 覚書」とある。開くと、坂本さんの字らしい丸みのある筆跡で、細かく記録が続いていた。
七月第三土曜。天気がよければ参加者は二百人を超える。雨でも百五十はくる。屋台は六軒がちょうどよい。駐車場は道を渡った空き地を借りる。土地の持ち主は桐島さん、連絡先は——。
几帳面な人だったんだな、と思った。
何年分もの記録が積み重なっていた。途中から文字が少し震えていて、それでも書くのをやめた形跡はない。
ノートの最後のページには、短いメモがあった。
新しい係の方へ。お疲れ様です。難しいことはありませんので、楽しんでやってみてください。
小さな嘘だ、と僕は思った。
難しくないわけがない。二百人分の段取りを一人で回して、屋台の業者と交渉して、雨天時のプランも考えて。それを何十年も続けてきた人が「難しいことはない」と書き残した。
怖がらせたくなかったのだろう。
後任のことを案じながら、それでもそう書いたのだろう。
僕はしばらくそのページを見つめてから、ノートをそっと閉じた。
第三章
準備を進める中で、音響のことが引っかかり始めた。
祭りの間、境内に音楽を流す慣習があるらしいのだが、ノートには「音楽については田代さんに相談のこと」とだけある。
田代さんに聞くと、「ああ、坂本さんがいつも用意してくれていたんだけどねえ」と曖昧な顔をした。「スピーカーは倉庫にあるから、何か流せればそれでいいんじゃないかな」
何か、というのが困った。
スマートフォンで繋げばいいかと思い、手頃なプレイリストを探していたころ、坂本さんのお孫さんからメッセージが届いた。遺品を整理していたら、祖父のスマートフォンの中に「境内の夏」というタイトルの保存リストがあったという。音楽アプリの中に、誰にも共有されないままずっと残っていたものだ。
「見てみたら、すごく丁寧に選んであって。おじいちゃん、こんなの作ってたんですね、って家族みんなで驚いて。もしよかったら使ってもらえないかと思って」
送ってもらったリストを開くと、四十曲ほどが並んでいた。昔のムード歌謡が多いが、合間に子どもが好きそうな明るい曲も混じっていて、最後の数曲はゆっくりとしたピアノの曲だった。
打ち上げ花火が終わって、参拝客が帰り始める時間帯に流すつもりだったのかもしれない。
「使っていいですか」と僕が聞くと、お孫さんは「ぜひ」と答えた。「おじいちゃんも、きっと喜ぶと思います」
倉庫のレコードのことも話すと、少し間があってから返事が来た。
「それ、若い頃に好きだった曲らしいんです。お葬式でそんな話が出ました。ずっとそこに置いてたんですね」
誰にも言わずに持ち込んで、何年も倉庫に置いていた。
その人がどんな気持ちで毎年そこを開けていたのか、僕には想像するしかなかった。
第四章

夏祭り当日は、晴れた。
屋台が六軒並び、子どもたちが金魚すくいの桶を覗き込んで、お年寄りが石畳に並べた椅子に腰かけて、境内はそこそこの賑わいになった。
僕は端のほうで折りたたみ机の前に立ちながら、スマートフォンで音楽を流していた。坂本さんの保存リストをそのまま使った。
最初は古めかしいと思っていた曲も、屋台の煙と子どもたちの声の中に混ざり込むと、案外しっくりきた。まるでその場所に最初からあったもののように、音は境内に溶けていった。
日が落ちて、花火が上がった。
境内の隅から空を見上げていると、隣に田代さんが来た。
「うまくやれたじゃないか」
「坂本さんのノートのおかげです」と言うと、田代さんは少し間をおいてから空を見た。
「坂本さんね、最後まで『心配ない、大丈夫だ』って言ってたんだよ。後任のことは誰よりも気にしてたのに、こっちが聞いても、そっちについては一言も言わなかった」
心配ない、大丈夫だ。
ノートの最後の一行と、同じ言葉だった。
花火が終わって、客が引き始めたころ、リストの最後のほうのピアノ曲が流れ始めた。
静かな旋律が境内に広がって、屋台の人たちが後片付けを始めて、提灯の明かりだけが揺れていた。
僕はいつのまにかしゃがみ込んでいた。
ただ、涙が出た。
声は出なかった。誰かに見られたかどうかもわからない。ただ、泣いた。
会ったのは一度きりで、テントの張り方を教えてもらっただけの人なのに。「難しくない」と嘘をついて、丁寧に選んだ四十曲を誰にも見せないまま持っていた人のことを、僕はずいぶん泣いた。
しばらくして、目を拭って立ち上がった。
スマートフォンの画面を見ると、プレイリストの最後の曲が終わるところだった。
来年も、これを流そう。
倉庫に戻って、レコードをビニール袋に包み直した。傷がつかないよう、丁寧に。来年のために、ここに置いておく。
境内はもうすっかり暗くて、蝉の声だけが残っていた。
帰り道、石畳を踏みながら思った。
坂本さんのリストには、まだ聴ききれていない曲が何曲かある。
来年の夏に、ちゃんと最後まで流そう。そのために、もう少しだけ続けてみよう。


