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商店街コメディ

閉店セールは三回目

今度こそ閉める。返せていないものを、ひとつずつ。

読了目安
25分
長さ
短編
#くすっと笑える#家族#余韻を楽しむ
閉店セールは三回目のイメージ

あらすじ

祖父の金物店を閉めるため、週末ごとに帰省する奈緒。けれど商店街の人たちは、三度目の閉店セールを誰も信じていない。棚卸しで見つかったのは、二年放置された鍋、名前だけの箱、持ち主のわからないやかんのふた。数えて、返して、引き継いで。店を閉める日までの、少しおかしな家族の物語。

第一章 三枚目の閉店幕

「もうちょっと右。いや、奈緒から見て右だ」
「おじいちゃんから見て右なのか、私から見て右なのか、先に決めて」
「店から見て右だ」
「店に目はないでしょう」

脚立の上で、奈緒は結束バンドを一本くわえたまま、横断幕の端を握り直した。白地に赤い字で「閉店売りつくし 十一月二十九日(日)まで」。ネットの印刷所に頼んだら四日で届いた。注文画面の最後に「同じデザインをもう一枚、半額で」と出てきて、奈緒はしばらく指を止めた。もう一枚は要らない。今度こそ要らない。

下の歩道では、祖父の修一が両手を腰の後ろで組んで見上げていた。七十八歳。膝を悪くして脚立に乗らなくなってから、口のほうが倍ほど働くようになった。
「字が小さい」
「これ以上大きくしたら、日付が入らないの」
「日付なんか要らんだろう」
「要るの。前の二回は日付がなかったから、ああなったんでしょう」
修一は聞こえなかったふりをして、店先に立てかけた竹ぼうきの向きを直した。

北村金物店は、中町銀座商店街のちょうど真ん中にある。間口は狭く、奥に長い。軒先には竹ぼうきとバケツと、十月も半ばだというのに蚊取り線香の箱が積まれている。奈緒は高校を出るまでこの通りで育ち、今は電車で二時間ほど離れた街で、物流会社の配車計画を組んでいる。九月の終わりに祖父から電話があった。「店を閉める。手伝え」。用件はそれだけで、電話は四十秒で切れた。

最後の結束バンドを締めて脚立を降りると、買い物袋を提げた女性が足を止めた。紫のカーディガンに、えんじ色の手押し車。
「あら。三枚目ね」
「三枚目、ですか」
「閉店の幕よ。一枚目は青で、二枚目は黄色だったでしょう」
「よく覚えてますね」
「覚えてるわよ。一枚目のとき、最後だと思って圧力鍋を買ったの。そしたら翌月、お店がぴかぴかになって開いてるじゃない」
修一が咳払いをした。
「あれは改装前の売り尽くしだ。嘘は書いとらん」
「閉店って書いてあったわよ」
「改装するには、いっぺん閉めにゃならん」
「そういうのを屁理屈っていうの」
女性は笑いながら、奈緒のほうへ向き直った。
「お孫さん? 大きくなって。あのとき、レジ打ってた子でしょう」
十五年前の春休みだ。奈緒は十七歳で、青い幕の下で一日じゅう千円札を数えていた。最終日の夜、祖父が「来月から内装屋が入る」と言ったとき、奈緒は初めて、あれが改装のための売り尽くしだったと知った。

隣の大庭サイクルのシャッターが半分上がって、大庭が顔を出した。四十六歳、油の染みたエプロンに軍手。奈緒が小学生のころは、空気入れを貸してくれる若いお兄さんだった。
「おっ、出たね、三枚目」
「大庭さんまで」
「二回目のときは俺、蛍光灯を三年分買ったんだよ。おやじさんが最後だって言うから。そしたら翌週の土曜、店の前で『やっぱりやる』って」
「言ったか」と修一。
「言ったよ。商店街の放送でも流れた」
「放送のことは知らん」
「流したの、俺だもん」
大庭は幕を見上げて、日付のところで目を細めた。
「十一月二十九日ね。で、撤回はいつの予定?」
「しない」
「前もそう言ってた」
「前は言っとらん。前は『たぶん』と言った」
奈緒は思わず祖父の顔を見た。たぶん、と言っていたのか。

六年前、二回目の閉店セールのとき、奈緒は就職して四年目で、一度も手伝いに来られなかった。電話で「やっぱり続ける」と聞いて、正直なところ、ほっとしたのを覚えている。理由は聞かなかった。

今回は違う、と奈緒は思っている。祖父の膝は、階段を一段ずつしか上がれなくなった。先月の帳面を見せてもらったら、売上が一万円を超えた日は四日しかなかった。ホームセンターは駅の向こうに二軒あり、ねじ一本でもスマートフォンで頼めば翌日に届く。修一は九月のうちに、問屋へ取引終了の連絡を入れていた。四十秒の電話をかける前に、それだけは済ませていたのだ。

「まあ、俺は十二月に再開に一票」
大庭はそう言って、自分の店に戻っていった。

棚卸しは、昼食のあとから始めた。

奈緒の計画では、売り場の品を棚ごとに数え、スマートフォンの表に品名と数量と値段を入れていく。値段が決まれば、売りつくしの割引率も決められる。会社で毎週やっていることと同じだ。数えて、並べて、決める。

一段目の引き出しを開けたところで、計画は止まった。
「おじいちゃん。このねじ、いくら」
「一本十円」
「こっちは」
「十五円」
「どこが違うの」
「見りゃわかる」
「わからないから聞いてるの」
修一は老眼鏡をずらして引き出しをのぞきこみ、ねじを一本つまみ上げて、また戻した。
「頭の溝が違う。長さも違う。だいたい、ねじは見て選ぶもんだ。客は自分の欲しいのを持ってくる。こっちは顔を見て値段を言う」
「顔を見て値段が変わるの?」
「変わらん。変わらんが、言う」

値札がついている品もあるにはあった。ただ、どれも黄ばんで、字がかすれている。ステンレスのボウルには「¥680」とあり、その下からもう一枚、「¥580」の札が透けて見えた。いつ値上げしたのかはわからない。銅の卵焼き器には、達筆で「時価」と書いてあった。
「時価って」
「銅は相場が動くんだ」
「お寿司屋さんじゃないんだから」

午後三時の時点で、奈緒の表は百二十行になった。そのうち値段の欄が埋まったのは三十八行で、残りの八十二行には「要確認」と入っている。確認の相手は祖父しかいないのに、祖父は一行ごとに「それは昔、渡辺さんとこの若い衆が」と前置きを始める。前置きが本題より長い。

値札用のシールを探しに、奈緒は二階の物置へ上がった。修一はもう二階へ行かない。行けないのではなく、行かないことにしている、と本人は言う。

物置の奥、段ボール箱の上に、ビニールの巻物が二本横たわっていた。一本は青、一本は黄色。広げなくても、何なのかわかった。青いほうは日に焼けて、端が白っぽくなっている。黄色いほうは巻き方が雑で、内側の面が少しのぞいていた。

裏に、黒い字が書いてある。

マジックで、縦に何行も。いちばん上に見えたのは「四月二日」という日付で、その先は巻き込まれていて読めない。何本か、上から線を引いて消した跡もある。

「奈緒、シールあったか」
階段の下から祖父の声がした。
「あった。ねえ、黄色い幕の裏に何か書いてある」
少し間があった。
「ああ。裏紙だ」
「裏紙って、幕でしょう」
「広くて書きやすかったんだ。それより、シール持ってこい。日が暮れる」

奈緒は黄色い幕を巻き直し、シールの箱を抱えて階段を下りた。表の行は、まだ八十二行が「要確認」のままだった。

店の外では、三枚目の幕が夕方の風を受けて、一度だけ大きくふくらんだ。

第二章 売ってはいけない在庫

次の土曜日、奈緒は朝九時の電車で帰ってきた。

改札を出たところで、会社から電話がかかってきた。月曜の配送便が一台、車検で使えなくなったという。奈緒は駅前のベンチで十五分かけて三台分の行き先を組み直し、新しい表を送ってから商店街へ向かった。週末のあいだに片づけられる問題には限りがある。片づけられないほうの問題は、こうして平日の顔をして追いかけてくる。

店に着くと、修一は作業台の前の丸椅子に座って、茶をすすっていた。
「遅かったな」
「仕事の電話。今日は奥の棚をやるからね」

奥の棚というのは、売り場の突き当たりにある作業場の、さらに奥の壁一面のことだ。売り物ではない物が置いてある、と祖父は言う。売り物でないなら片づけるだけだから楽だろうと、奈緒は先週思っていた。

最初に出てきたのは、アルミの片手鍋だった。取っ手が外され、本体だけが新聞紙にくるまれていた。新聞の日付は二年前の三月。鍋の底には、マスキングテープで「サワイ」と貼ってある。
「これは?」
「沢井さんの鍋だ。取っ手が割れてな」
「二年前の新聞だけど」
「部品が廃番になってな。合うのを探しとった」
「二年も?」
「探しとるあいだに、二年たった」

次は、小さなプラスチックの引き出しが十二段ある棚だった。どの段にも、細かいねじがぎっしり詰まっている。棚の横には油性ペンで大きく「大庭」と書いてあった。
「これも売り物じゃないの?」
「売り物だ。ただ、大庭のとこにしか売らん」
古い自転車のなかには、今では手に入りにくいインチ規格のねじを使っているものがあるのだと、修一は言った。普通の店には置いていない。大庭の店に古い自転車が修理に来ると、大庭はこの棚から合うねじを持っていく。代金は月末にまとめて払う。
「取り置きってこと?」
「取り置きだ。二十年くらいの」

それから、箱が出てきた。

菓子の空き箱、靴の箱、輪ゴムで留めた紙袋。全部で十一個。どれにも名前だけが書いてある。「ヨシダ」「井上」「ミヤウチ」「二丁目のおくさん」「ぼうしの人」。電話番号は一つもない。預かった日付もない。
「ぼうしの人って、誰」
「帽子をかぶっとる人だ」
「冬はみんなかぶってるよ」
「夏もかぶっとる人だ」

奈緒は箱を作業台に並べ、一つずつ開けた。物干し竿の受け金具、柄の抜けた金づち、蝶番の外れた小さな木の踏み台、ねじの頭がつぶれた折りたたみ椅子の部品。直したものもあれば、直す前のものもある。直したかどうかは、箱を開けるまでわからない。祖父に聞くと、半分くらいは「直した」と言い、残りは「直したと思う」と言った。

最後に、棚のいちばん奥から、手のひらに載るくらいの小箱が出てきた。白い紙の箱で、ふたの角に紐が一本ついている。紐の先には何もない。名前札を通していたらしい結び目だけが、紐の端に残っていた。

開けると、やかんのふたが入っていた。ステンレスで、真ん中の黒いつまみだけが新しい。

古い金物店の作業台に置かれた、名前札のない小箱と、黒いつまみを交換したやかんのふた。

「これは誰の?」
修一は老眼鏡を外して、小箱をしばらく見ていた。
「……誰のだったかな」
「覚えてないの」
「覚えとる。覚えとるが、名前が出てこん」

奈緒はスマートフォンの表に新しいシートを作り、「預かり物」と名前をつけた。鍋と、ねじの棚と、十一個の箱と、名前のない小箱。十三行だと思って打ちこんでいったら、十四行あった。奈緒は自分の数え方を一度疑い、それから箱をもう一度数えた。十四で合っていた。

「期限を決めよう」と奈緒は言った。「十一月二十二日の日曜日。閉店の一週間前。それまでに取りに来てもらって、来なかったものは処分する」
「処分はいかん」
「じゃあどうするの。閉店したあとも、ここに置いておくの?」
「置いとけばいい」
「誰が渡すの。おじいちゃん、二階にも上がらないのに」
修一は返事をしなかった。

「そもそも、どうして預かり票を書かなかったの。名前と電話番号と日付。それだけでいいのに」
「顔を見ればわかる」
「顔を見てないから、二年も置いてあるんでしょう」
修一は茶碗を持ち上げて、空だったので、また置いた。

奈緒は画用紙に「お預かり品のあるお客様へ」と書き、期限の日付を大きく書いた。処分という言葉は、少し迷ってから「ご相談ください」に変えた。書きながら、自分が先週から「処分」を何度口にしたか数えそうになって、やめた。

ガラス戸に貼り紙をしていると、大庭が通りかかった。立ち止まって、店の中をのぞく。
「お、棚卸し進んでる?」
「ぜんぜん。大庭さん、奥のねじの棚、知ってるよね」
「知ってるも何も、うちの命綱だよ」
大庭は笑ってから、作業場の隅に目を止めた。奈緒が先週、幕を張るのに使った脚立が立てかけてある。
「あれ、うちの脚立じゃない?」
奈緒は脚立を見た。アルミの脚の内側に、かすれた白いペンキで「オオバ」と書いてあった。
「三年前に貸したやつだ」
「借りた覚えはある」と修一が奥から言った。
「返した覚えは?」
「ない」
「だろうね」
大庭はそれ以上何も言わずに、脚立をかついで帰っていった。奈緒は預かり物の表に一行足そうとして、それが預かり物ではなく借り物だと気づき、別のシートを作った。「借りたまま」。一行目は「脚立(大庭さん) 返却済」。二行目があるのかどうかは、まだ怖くて聞けなかった。

午後になって、紫のカーディガンの女性がまた来た。今度は手押し車に何も載っていない。
「貼り紙見たのよ。私、何か預けてたかしらと思って」
「お名前を伺ってもいいですか」
「沢井です」
奈緒は作業台の上の新聞紙を開いた。沢井さんは鍋を見て、それから修一を見た。
「あら、まだ直ってなかったの」
「部品が廃番でな」
「言ってよ。もう新しいの買ったわよ、二年前に」
「言おうとは思った」
「思っただけでしょう」
沢井さんは鍋の底を指で叩いた。いい音がした。
「直らないなら、このままでいいわ。持って帰って、鉢植えの受け皿にするから」
「直る」と修一が言った。「閉店までに直す」
奈緒は口を開きかけて、閉じた。閉店まであと五週間。二年かけて直らなかった鍋が、五週間で直るのか。けれど、期限を決めたのは奈緒だ。期限までに直すと言われたら、反対する理由はない。

夕方、奈緒は名前のない小箱をレジの横に置いた。見覚えのある人が来るかもしれない、という理由だった。修一はレジの横を通るたびに、その小箱を見た。見るだけで、触らなかった。

第三章 閉めると言ったでしょう

十一月七日の週末、奈緒は帰れなかった。会社の倉庫の棚卸しが土曜に入ったからだ。数えて、並べて、合わない数字を探す一日を、商店街ではなく会社の倉庫で過ごした。夜に祖父へ電話すると、「こっちはこっちでやっとる」とだけ言われた。何をやっているのかは聞きそびれた。電話は今度も一分とかからずに切れた。

翌週の土曜日、十一月十四日。奈緒が昼前に店へ着くと、作業台の前に先客がいた。七十歳くらいの男性で、網戸の戸車を手のひらに載せている。
「だからね、北村さん、年が明けてからでいいんだよ。急がないから」
「おう。持ってこい。戸車くらい、家でもすぐだ」
「ちょっと待って」
奈緒はコートも脱がずに割って入った。
「おじいちゃん、何の話」
「宮内さんの網戸だ。戸車が割れとる」
「年が明けてから?」
「年が明けてからでいいと、宮内さんが言っとる」
「お店、閉めるんだよ。十一月二十九日に」
「店は閉める。家は閉めん」
宮内さんが、二人の顔を交互に見た。奈緒は宮内さんに頭を下げ、「少しだけ、待っていただけますか」と言って、祖父を作業場の奥へ引っぱった。

「閉めると言ったでしょう」
声が思ったより大きく出た。
「言った」
「じゃあ、どうして修理を引き受けるの。閉店したあとも修理するなら、それは閉店じゃないよ。幕を外しただけで、店をやってるのと同じ」
「宮内さんは、ほかに頼むところがない」
「ホームセンターがあるでしょう」
「宮内さんは車がない」
「そうやって一個ずつ引き受けて、一月には二個になって、春には十個になって、気がついたら四回目の閉店セールをやるんでしょう。一回目も二回目もそうだった。おじいちゃんの『最後』は、もう誰も信じてないよ。大庭さんなんか、十二月に再開するほうに一票入れてるんだから」
言い終えてから、言いすぎたと思った。修一は丸椅子に腰を下ろし、膝に手を置いた。しばらく何も言わなかった。

「閉める」と、修一は言った。「今度は閉める」
それだけだった。

奈緒が戻ると、宮内さんは戸車をハンカチに包み直していた。
「いいんだよ、無理言って悪かったね」
「いえ、こちらこそ」
宮内さんが帰ったあと、店の中はひどく静かになった。

そこへ大庭が入ってきた。古い自転車を一台、押している。黒い実用車で、荷台が大きい。
「おやじさん、悪い、またインチのやつ。泥よけの金具のとこ」
修一は黙って奥のねじの棚を指さした。大庭は慣れた手つきで三段目の引き出しを開け、ねじを二本選び、作業台のノートに「大庭 二本」と書いた。そこで手が止まった。
「……なあ、これ、閉店したらどうなんの」
誰も答えなかった。
「いや、俺、本気にしてなかったからさ。考えてなかった。これがなくなると、こういう自転車、うちで直せなくなるんだよな」
大庭はねじを手のひらで転がした。
「通販で探せばあるのかもしれないけど、規格が細かいんだよ。おやじさんに見せれば一発だったから。……そうか。本当に閉めるのか」
「閉める」と修一が言った。
大庭は少し笑った。笑ったが、目は笑っていなかった。

奈緒は外の自動販売機で温かい缶コーヒーを三本買った。一本を祖父に渡し、店先のベンチに座ると、大庭が隣に来た。
「さっきの、聞こえてた」と大庭は言った。「四回目のくだり」
「……ごめんなさい。大庭さんのことまで言った」
「いいよ、一票入れてるのは本当だし」
大庭は缶のプルタブを開けて、しばらく通りを見ていた。
「二回目のときさ。おやじさんが撤回したの、気が変わったからって言ってたろ」
「うん」
「最後の日の夜、おやじさん、店の奥で預かり物を全部並べてたんだよ。俺、シャッター閉めるのを手伝いに来てて、見たんだ。返せてない物が山ほどあって、誰のかわからないのもあって。おやじさん、それ見ながら『これじゃ閉められん』って言ってた」
奈緒は缶を握ったまま、黙っていた。
「まあ、半分は寂しかったんだと思うよ。本人もそう言ってたし。でも半分は、あれだった。……奈緒ちゃん、二回目のとき、いなかったもんな」
「いなかった」
「責めてるんじゃないよ。俺だって、今日まで本気にしてなかったんだから」

奈緒は二階へ上がり、黄色い幕を抱えて下りてきた。

六時を過ぎてシャッターを下ろしてから、売り場の床に新聞紙を敷いて、その上に幕を裏返しに広げた。マジックの字が、床いっぱいに並んだ。

六年前の、預かり物の一覧だった。いちばん上が「四月二日」で、そこから下へ、日付と、品物と、名前が続いている。名前のかわりに「二丁目のおくさん」「ぼうしの人」と書いてある行もある。三分の二ほどは、上から線が引かれていた。返したもの、なのだろう。線の引かれていない行を、奈緒は一つずつ指でたどった。「ヨシダ 踏み台」「井上 金づち」「ミヤウチ 椅子の部品」。奥の棚の箱と、ほとんど同じだった。六年前に返せなかったものが、六年間そのまま残っていた。

いちばん下の行に、こう書いてあった。

「六月十四日 やかんのふた 美容師の兄ちゃん」

線は引かれていない。

「これ、レジの横の小箱?」
修一は床の幕の端にしゃがむことができないので、丸椅子をそばまで引いてきて座っていた。
「そうだ。二回目のセールの、最後の週に持ってきた。つまみが取れたと言ってな。来週取りに来ると言って、来なかった」
「名前は」
「聞いた。聞いて、札に書いて、箱につけた。札はどこかへやった。幕のほうは、名前を書く前に電話が鳴ってな」
「……それで、美容師の兄ちゃん」
「髪がよかったんだ」
奈緒は笑いそうになって、こらえた。
「おじいちゃん。二回目に閉めなかったのは、これのせい?」
修一は幕の字をしばらく眺めていた。
「半分はな」と言った。「あと半分は、閉めたくなかった。それだけだ」

奈緒は、昼間に自分が言ったことを思い出した。気がついたら四回目をやるんでしょう。祖父が何を抱えているのか、一度も聞かないまま、そう言った。

奈緒はノートパソコンを作業台に置いた。
「一覧にしよう。全部。今ある預かり物と、借り物と、ねじの棚と、宮内さんの戸車も。それで、三つに分ける。持ち主に返すもの。持ち主が要らないと言ったもの。誰かに引き継ぐもの。引き継ぐのは、相手がいいと言ったものだけ」
「引き継ぐ相手がおらん」
「探す。でも、勝手に決めない。私が勝手に決めると、また『処分』って書いちゃうから」
修一が奈緒の顔を見た。奈緒は画面のほうを向いたまま、表の見出しを打ちこんだ。返却。辞退。引き継ぎ。

二人で、幕の行と棚の箱を一つずつ照らし合わせた。修一は名前を見ると顔を思い出し、顔を思い出すと、その人の家のある場所と、たいてい余計な話を一つ思い出した。今度は奈緒も止めなかった。余計な話のなかに、電話番号の代わりになる手がかりが混じっていたからだ。「ヨシダは、角のクリーニング屋の妹だ」「井上は、町内会の会計をやっとる」「ぼうしの人は、日曜の朝に川べりを歩いとる」。

翌日の日曜、奈緒は朝から電話をかけ、商店街を歩いた。クリーニング屋で吉田さんの連絡先を聞き、町内会の掲示板で井上さんの名前を見つけた。井上さんは金づちについて「もう新しいのがあるので、そちらで処分してください」と言った。辞退、と奈緒は打ちこんだ。初めての辞退だった。自分から言い出すのと、相手に言ってもらうのとでは、同じ言葉でも重さが違った。

宮内さんの戸車のことは、隣町の丸八金物に電話をした。三代目だという女性の店主は、話を最後まで聞いてから、「網戸の戸車なら、うちで受けますよ。宮内さんにも、うちの場所をお伝えください」と言った。奈緒は宮内さんの家まで歩いていき、事情を話した。宮内さんは「バスで二駅か」と少し考えてから、うなずいた。

そこで修一が口をはさんだ。いつの間にか、宮内さんの家の前までついてきていたのだ。
「バスに乗るなら、一緒に行く。丸八なら道はわかる」
「それは修理じゃないの?」と奈緒は聞いた。
「修理じゃない。ついていくだけだ」
奈緒は少し考えた。修理を引き受けるのと、知り合いのバスに付き添うのは、たしかに別のことだった。
「それは、おじいちゃんの勝手だね」
「勝手だ」
宮内さんが笑った。

大庭は、ねじの棚を引き出しごと引き取ると言った。代金は仕入れ値で、問屋の連絡先と、規格の早見表をつけること。早見表は修一の頭の中にしかないので、閉店までの二週間、大庭が毎晩店に来て書き取ることになった。
「引き継ぎ、相手の同意あり」と、奈緒は声に出しながら打ちこんだ。
「同意っていうか、懇願だよ」と大庭が言った。

夕方、帰りの電車の時間が近づいたころ、大庭がふと言った。
「奈緒ちゃんが継げば、全部解決なんだけどな」
「継がない」と奈緒は即答した。「私には私の仕事があるし、ねじの溝も見分けられない」
「だよな」
修一は何も言わなかったが、少しだけ、うなずいたように見えた。

表の最後の行は、空欄のままだった。「やかんのふた 美容師の兄ちゃん」。返却の欄にも、辞退の欄にも、引き継ぎの欄にも、まだ何も入っていない。

第四章 最後のお客は、明日来る

十一月二十九日、日曜日。閉店の日は、朝から曇っていた。

開店前、奈緒はガラス戸の貼り紙を新しくした。期限の十一月二十二日を過ぎて、預かり物の表は十四行のうち十三行まで行き先が決まっていた。吉田さんは踏み台を受け取りに来て、ついでに十円のねじを四本買っていった。「ぼうしの人」は、日曜の朝に川べりで奈緒に声をかけられ、本当に帽子をかぶったまま店まで来た。残ったのは一行だけで、新しい貼り紙にはそれだけを書いた。

「お名前のわからないお預かり品があります。やかんのふた(つまみ交換済み)。六年前の六月にお預かりしました。お心当たりの方はお声がけください」

十時に開店した。行列はなかった。

最初の客は近所の主婦で、売りつくしの札を見て菜箸を二膳買った。次の客は通りすがりの学生で、店の中を一周して、何も買わずに出ていった。昼までに来たのは十一人。そのうち四人は、買い物ではなく挨拶だった。

「三回目、本当に閉めるのね」
沢井さんは、手押し車に鍋を載せて帰っていった。取っ手は、修一が知り合いの問屋に頼みこんで見つけた汎用品で、元の黒とは違う茶色だった。
「受け皿にするつもりだったのに」
「鍋は鍋として使え」
「はいはい」
沢井さんは取っ手を握ったり離したりして、「軽いわね」と言った。それが褒め言葉なのかどうか、奈緒にはわからなかった。修一にもわからなかったらしく、二人で顔を見合わせた。

売上は、午後三時の時点で二万一千四百円だった。売りつくしにしては少ない。棚には、売れ残りがまだ残っていた。風鈴が四十二個。十一月に風鈴を買う人はいない。ねずみ取りが十六個。蚊取り線香が九箱。
「風鈴は、どうするの」
「来年の夏に、町内会の夏祭りで配る。それまで店の隅に置いとく」
「店の隅」
「店じゃなくなっても、隅は隅だ」

四時を少し過ぎたころ、小柄な女性がガラス戸の前で立ち止まった。貼り紙を読んで、もう一度読んで、それから戸を開けた。
「すみません、そのやかんのふたのことなんですけど」
奈緒はレジの横の小箱を見た。
「お心当たりが?」
「たぶん、うちの息子のです。坂巻といいます。息子は美容師で」
修一が丸椅子から腰を浮かせた。
「美容師の兄ちゃんか」
「そうです、そうです。あの子、六年前にこちらに預けて、取りに来る前に転勤が決まって。ばたばたしてるうちに、あのときも閉店セールの最後の週だったでしょう、もうお店は閉まったものと思いこんでたんです」
奈緒は祖父を見た。祖父は天井を見ていた。
「それでね、ずっとお皿でふたしてるんですよ。小皿がちょうどいい大きさだったとかで。私、こっちの通りにはめったに来ないんですけど、今日、バスを降りたら閉店の幕が見えて。あら、まだあったのね、と思って」
坂巻さんはその場で息子に電話をかけた。短いやりとりのあと、スマートフォンを耳から離して言った。
「今日は日曜でお店を抜けられないそうなんです。月曜が休みなので、明日の朝なら来られるって。車で二時間かかるんですけど」
明日。閉店の翌日だ。

「開けりゃいい」と修一が言った。「明日、一日くらい」
「開けたら、四回目になる」
奈緒がそう言うと、修一は口を閉じて、それから吹き出した。
「そうだな。四回目になるな」
奈緒は坂巻さんに向き直った。
「明日、お店は開けません。でも私たち、朝十時に店の前で幕を外します。そのときにお渡しできます。十時で間に合いますか」
坂巻さんがまた電話に向かって何か言い、うなずいた。
「十時に来るそうです」
奈緒はスマートフォンの表を開き、最後の行の「返却」の欄に「十一月三十日 十時 店の前」と打ちこんだ。明日の月曜日は、もともと有給休暇を取ってあった。幕を外すために一日だけ。それ以上は取れない。取れないから、十時でちょうどよかった。

六時に、シャッターを下ろした。

店の前には、大庭と、クリーニング屋の吉田さんと、沢井さんがいた。拍手というほどでもない、手を二、三回叩く音がした。修一はシャッターの取っ手から手を離して、少し照れくさそうに頭をかいた。
「俺の予想、外れたな」と大庭が言った。
「外れてよかったとは言わんぞ」
「言わなくていいよ」
大庭は、今夜も早見表を書き取りに来ると言った。閉店しても、まだ三十種類ほど残っているらしかった。

翌朝、十時五分前に、白い軽自動車が商店街の入口に停まった。

降りてきたのは、四十歳くらいの男性だった。髪は短く、横を刈り上げて、上のほうだけ少し長い。修一が「やっぱりいい髪だ」と小声で言った。男性は片手にやかんを提げていた。ふたの代わりに、白い小皿が載っている。
「坂巻です。六年も、すみません」
「こっちこそ、名前をなくした」
修一が小箱を差し出した。坂巻さんはやかんの小皿を外して、箱から出したふたを載せた。ふたは、かちん、と小さく鳴って収まった。新しい黒いつまみが、まっすぐ上を向いていた。
「あ、これだ」
坂巻さんはふたを外して、また載せた。もう一度、かちん、と鳴った。
「お代は」
「六年前にもらった」
「え、そうでしたっけ」
「前払いだった。名前は書かなかったが、金は受け取った」
奈緒は思わず祖父を見た。そういうことだけは、覚えているのだ。
坂巻さんは小皿をポケットに入れかけて、少し迷ってから、やかんの横に重ねて持った。
「この皿も、けっこう役に立ってくれたんですけどね」
そう言って笑い、深く頭を下げて帰っていった。

奈緒はスマートフォンを開き、最後の行に「返却済」と入れた。十四行が、全部埋まった。

それから、幕を外した。

大庭に借りた脚立を、奈緒が店先に立てた。今回は、借りる前に借りると言い、使い終わったら返すと言ってある。修一は脚立の下に立って、両手で支柱を押さえた。膝が悪いので、しゃがめない。かわりに、腕に力を入れて立っていた。
「揺れるか」
「揺れない」
奈緒はニッパーで、結束バンドを一本ずつ切った。右上、右下。脚立を降りて左へ移し、また上る。左上、左下。最後の一本を切ると、幕の端がふわりと垂れ下がって、修一がそれを片手で受けた。

二人で歩道に幕を広げた。赤い字が上を向いている。閉店売りつくし、十一月二十九日(日)まで。
「字が小さかったな」と修一が言った。
「日付は入ったでしょう」
「入った」

端と端を持って、半分に折った。赤い字が内側に隠れた。もう半分に折ると、修一の持つ側が少しずれた。奈緒が直した。さらに半分。修一が膝をかばいながら腰をかがめ、幕の上に手のひらを置いて空気を押し出した。ビニールが、しゅう、と小さく鳴った。

折りたたんだ幕のいちばん外の、白い裏の面に、奈緒はマジックで書いた。
「十一月二十九日 閉店 預かり物十四件 全件済」
書き終えてペンを渡すと、修一はその下に一行足した。
「十一月三十日 やかんのふた 坂巻さん 返却」
名前は、今度はちゃんと書いてあった。

閉店した金物店の前で、白い閉店幕を一緒に折り畳む奈緒と祖父の修一。

「明日、何するの」と奈緒は聞いた。
「宮内さんと丸八へ行く。バスで二駅だ」
「戸車、持っていくの」
「宮内さんが持っていく。俺は、ついていく」
「それは、おじいちゃんの勝手だね」
「勝手だ」

奈緒は午後の電車で帰る。明日の火曜日は朝から会社で、片づけられなかったほうの問題が、平日の顔をして待っている。来週は来ない。たぶん、その次の週も来られない。奈緒はスマートフォンのカレンダーを開いて、毎週土曜日の朝九時に、予定を一つだけ入れた。「おじいちゃんに電話」。四十秒で切られても、かけることはできる。

幕を抱えて二階へ上がると、物置の奥に、青と黄色の巻物が並んでいた。奈緒は三枚目の幕を、その上にそっと載せた。前の二枚よりも少しだけ小さく、きちんとたたまれていた。