第一章 自分の字で書かれた一月
一月十四日(木)。
そう書かれたページを、森下航は三回読んだ。三回とも、自分の字だった。
右上がりで、「木」のはらいだけが妙に長い。小学校の担任に「森下くんの木は、いつも風に吹かれてるね」と言われた字だ。その字で、まだ来ていない一月の日付が書いてあり、ページの下には「書記 森下航」と署名まで入っていた。
机の上には、町内会の議事録帳が開いている。緑の布張りで、表紙に金色の箔押しで「議事録」とある。三丁目町内会が十数年前にまとめ買いしたうちの、最後の一冊だそうだ。前の書記の久米さんが六十三ページまで書いて、九月に娘さんの住む町へ引っ越していった。
航が書記になったのは、十月八日の定例会だった。集会所の板の間に長机を二つ並べ、折りたたみ椅子を八脚出す。座布団を敷くかどうかで毎回少し揉め、結局、膝の悪い人の分だけ敷く。議題は防犯灯の電球交換、ごみ集積所のネットの補修、赤い羽根募金の集計と続き、最後に「書記の後任について」があった。誰も手を挙げないまま、四分が過ぎた。壁の時計の秒針の音が、その四分のあいだだけ、やけに大きく聞こえた。会長の沼田ふみ子さんが、湯飲みを置いて言った。
「森下さん、お家でお仕事でしょう」
航は在宅で、会議の録音を文字に起こす仕事をしている。家にいるというのは、町内会では時間があるという意味になるらしい。
「あ、はい」
「あ」のところまでは、断るつもりだった。
その十月の分を、航は十日遅れで清書していた。パソコンで打てば十分で済むのに、会長が「パソコンは消えるから」と手書きを譲らない。ボールペンで一行ずつ書きながら、航は手元のメモを整えていく。
会計の柏木さんは、祭りの話題のときにこう言った。「やるならやるで、予算をどこから持ってくるのか、具体的に示してもらわないと」。航はそれを「一部意見あり」と書いた。会長の「来年も、まあ、やるんでしょうねえ」は、「来年度も継続の方向で異議なし」になった。
言いよどみを削り、言い直しをまとめ、話がぶつかっているところは角を落とす。仕事では「整文」と呼ぶ作業だ。揉めない文章が、いい議事録だと航は思っている。誰も読み返して嫌な気持ちにならないのだから。
六十四ページと六十五ページを書き終えて、残りが何ページあるか確かめようと紙をめくった。そこで手が止まった。
六十六ページに、「十一月十二日(木)第八回定例会」とあった。
出席者の数、議題、決議。どれも航の字だった。議題二には、こう書いてある。「集会所の湯沸かしポット故障につき、柏木会計が購入した新品(三千九百八十円)の支出を承認した」。
六十八ページは十二月十日の第九回定例会で、「来年度夏祭りについて意見交換。一部意見あり」とあった。自分が書きそうな一文だ、と航は思い、その考えにぞっとした。
そして七十ページが、一月十四日だった。
「第十回定例会。出席九名、委任状三十三通。議題一 来年度夏祭りについて。来年度の夏祭りを廃止することを、全会一致で決議した」
七十一ページと七十二ページには報告事項が並び、最後の行の「以上」で、帳面は終わっていた。その先は裏表紙だった。
航は椅子の背にもたれ、天井を見て、もう一度帳面を見た。字は消えていなかった。
スマートフォンで撮ってみた。画面に写ったのは、罫線だけの白いページだった。次に、鉛筆で余白に「継続」と書こうとした。芯が、油を塗った板の上のように滑って、跡が一つも残らなかった。一月の文字の上を消しゴムでこすってみても、一画も薄くならなかった。
廃止か、と航は思った。正直に言えば、最初に来たのは安堵だった。祭りがなければ、来年の夏、実行委員会の記録係をやらなくて済む。八月の炎天下で、テントの配置図を書かなくて済む。
それから、議題二を読んだ。
「廃止に伴う備品(テント、提灯、やぐら部材)の処分は、書記 森下航が担当する」
「は?」
声に出していた。テントの処分の仕方など知らない。提灯が何個あるのかも知らない。それが全会一致で、自分に決まるらしい。
帳面を閉じようとして、裏表紙の内側に気づいた。鉛筆の、細く薄い字があった。
「先のページは、読みすぎないように。 久米」
全会一致。会議でいちばん楽な四文字だと、航はずっと思っていた。
第二章 ポットは三千九百八十円
十月の終わり、回覧の印刷をしに集会所へ行くと、会長が一人で長机を拭いていた。
集会所は児童公園の横に建つ平屋で、畳の部屋と板の間が一つずつある。板の間の棚に、湯飲みが二十四個、伏せて並んでいる。その横に、花柄の電気ポットがあった。たぶん、航が生まれる前からある。
「森下さん、お茶飲む?」
会長はポットを押した。湯は勢いよく出た。
「このポット、調子どうですか」
「元気よ。私より元気」
会長は布巾を絞り、また机を拭き始めた。七十四歳。この町内会で、祭りを二十年支えてきた人だと聞いている。拭き方に迷いがない。机の脚の内側まで拭く。
「来年の夏祭りって、どうなりそうですか」
「やりますよ」
返事は早かった。早くて、そのあとに小さなため息がついてきた。会長は右の手首を、左手でさすった。
「テントの骨、毎年私が数えてるの。数えないと、なくなるから」
「もし、ですけど」と航は言った。「やめるって話になったら」
「誰がそんなこと言うの」
「いや、仮にです」
「仮にでも言わないの、そういうことは」
会長は笑ってそう言ったが、布巾を持つ手は止まっていた。
「……まあ、みんながそう言うなら、仕方ないけどね」
航は印刷機を回しながら、ポットを何度も見た。ポットは静かで、壊れる気配はなかった。
十一月十一日、水曜日の夜九時過ぎに、柏木さんから電話があった。
「ポットが死んだ」
「え」
「沸かないんだよ。ランプはつくのに、湯がぬるい。明日の定例会、お茶が出せん」
翌朝、柏木さんは駅前の家電量販店に開店と同時に入り、昼前にまた電話をかけてきた。
「特売で三千九百八十円だった。税込みだぞ、税込み」
航は電話を持ったまま、しばらく黙っていた。
十二日の定例会で、航が帳面の六十六ページを開くと、そこは白紙になっていた。罫線だけが、何事もなかったように並んでいる。航はボールペンを持ち、柏木さんの報告を聞き、会長の「では承認ということで」を聞いて、書いた。
「集会所の湯沸かしポット故障につき、柏木会計が購入した新品(三千九百八十円)の支出を承認した」
先に読んだ文と、一字も違わなかった。自分の手が、自分の書くはずの文を、そのとおりに書いていった。新しいポットで淹れたお茶は熱すぎて、誰もすぐには飲めなかった。
そのあとの議題は、年末の夜回りの順番だった。拍子木を誰が持って帰ったかで十五分かかり、結局、集会所の押し入れの、座布団の下から出てきた。
議題がすべて終わったのは、八時五十分だった。会長が「ほかに何かありますか」と言ったとき、航は手を挙げた。
「来年度の夏祭りですが、継続ということで、異議ありませんね」
ほかの七人が、いっせいに航を見た。そして、壁の時計を見た。
「そうね」と会長が言った。
「継続するなら、予算を——」と柏木さんが口を開いた。
「はい、ご意見として承ります」
四班の班長の戸部さんは、腕を組んだまま目を閉じていた。眠っているのか、考えているのか、わからなかった。
「では、異議なしということで」
航は「来年度夏祭りの継続について、異議なし」と書いた。誰も止めなかった。九時前に会議が終わるなら、誰も止めない。
その夜、家で七十ページを開いた。
「来年度の夏祭りを廃止することを、全会一致で決議した」
一字も変わっていなかった。備品処分の担当も、森下航のままだった。
議事録の写しは、月曜日に各班の班長へ一部ずつ配った。班ごとの回覧に挟んでもらうためだ。火曜日の昼、航の家の郵便受けに、そのうちの一部が戻ってきていた。航の書いた「異議なし」の横に、赤いボールペンで書き込みがあった。
「継続とは聞いていない 戸部」
その夜、柏木さんから電話があった。今度はポットの話ではなかった。
「森下さん。俺は異議なしなんて言ってないぞ。継続するなら予算の出どころを示せと言ったんだ。それを『ご意見として』で切ったのは、あんただ」
「すみません、あの、時間が」
「時間がないなら、次回に回せばいい。十年前もな、議事録に『異議なし』と書かれて、祭りが赤字になったとき、俺が賛成したことになってたんだ」
電話は、航が謝り終える前に切れた。
第三章 全部やります
十一月十八日の水曜日、航は会長の家を訪ねた。
謝るつもりだった。それと、もう一つ、言うことを決めていた。未来の議事録で、自分の名前の横に「処分」と書かれているのを、どうしても消したかった。
「僕が、実行委員長をやります」
玄関先で航が言うと、会長は目を丸くした。
「準備も、当日も、片づけも、僕がやります。だから、来年もやりましょう」
会長はしばらく航の顔を見ていたが、やがてサンダルをつっかけて外へ出た。
「ちょっと、ついてきて」
集会所の裏に、プレハブの倉庫がある。会長が鍵を開けると、ほこりと防虫剤の匂いが流れ出た。
奥まで、ぎっしり詰まっていた。たたまれたテントが三つ。段ボールに「提灯」と書かれた箱が六つ。やぐらの部材が、番号を書いた紙を貼られて壁に立てかけてある。空気の抜けたヨーヨー釣りのプール。延長コードを巻いたドラムが四つ。
「これをね、毎年、前の週の水曜日から出すの」
会長は箱の一つを軽く叩いた。
「手伝うって言ってくれる人はいるのよ。でも、当日の朝に来て、お昼には帰るの。片づけは、だいたい私と、あと二、三人。去年はね、片づけのあと、二日寝込んだの」
「二日……」
「誰にも言ってないわよ」

会長は倉庫の電気を消した。暗くなったほうが、話しやすそうだった。
「森下さん。全部やりますって、それ、去年まで私が言ってたのよ」
航は何も言えなかった。会長は少し笑って、鍵をかけた。
「でも、ありがとう。頼むわね」
その言い方が、ほかの言い方を知らない人のものに聞こえた。
その夜、帳面を開くと、七十ページが変わっていた。
「来年度の夏祭りを開催することを、全会一致で決議した。実行委員長は書記 森下航が務める」
処分の一文は、消えていた。航は小さく声を上げ、それから、少し引っかかった。開催になっても、全会一致は全会一致のままだった。
金曜日の夕方、いちばん大きな取引先からメールが届いた。来年度の年間契約の打診だった。六月の株主総会の時期だけで二十社分。六月は、文字起こしの仕事がいちばん集中する月だ。総会の録音は一社で二時間から三時間ある。それを何社分も並行して起こし、整え、先方の確認を待つあいだに次の会社へ移る。二十社を抱えれば、六月は朝から夜までそれで埋まる。
去年、同じ打診を断った。体調を崩した直後で、自信がなかったのだ。そのあと半年、仕事は目に見えて細った。通帳の残高を見ながら、家賃の引き落とし日を二回数え直した秋のことを、航はまだ覚えている。
祭りは八月だ。六月が終われば、七月がある。なんとかなる、と航は思った。思ってから、なんとかなる、は会長の「やりますよ」と同じ音をしている気がしたが、その考えは脇へ置いた。土曜の朝、契約を受けるとメールを返した。
日曜の朝、帳面を開いた。
「来年度の夏祭りを廃止することを、全会一致で決議した」
戻っていた。その下に、前にはなかった一行が加わっていた。
「なお、書記 森下より、実行委員長を辞退したい旨の申し出があった」
航は長いあいだ、その一行を見ていた。一月の自分は、みんなの前で、これを言うことになっているらしい。六月に二十社分の書き起こしを抱えて、七月から祭りの実行委員長をする自分を、一月の自分はもう信じていない。議題二の備品処分の担当も、元どおり森下航になっていた。
航はメールの画面を開き、契約を断る文面を途中まで打った。断れば、七十ページはまた「開催」に戻るのかもしれない。そう考えたところで、指が止まった。
帳面の文面に合わせて、自分の仕事を決めるのか。来年の家賃を、一行の「開催」と引き換えにするのか。それで祭りが開かれたとして、その夏、通帳を見るたびに、自分は誰のせいにするのだろう。
航は打ちかけの文面を消した。
紙は、言ったことではなく、できることを書くのだ。全部やります、と言うのは簡単だった。会長も二十年、簡単に言ってきた。言えてしまうから、言った人のところに全部が積もる。
第四章 委任状の四角
出席九名、委任状三十三通。
航はその数字を、メモ帳に書き写した。三丁目町内会の加入世帯は四十二。九と三十三を足すと、ちょうど四十二になる。全員が賛成したのではない。全員が、どこかに数えられたのだ。
集会所の書類棚に、過去の委任状の束があった。去年の総会の分を一枚抜くと、四角が二つしかなかった。
「□出席します □欠席します(議事は議長に一任します)」
欠席に印をつければ、議長に一任したことになる。議長は会長だ。会長が一票を入れれば、三十三通がそのまま後についてくる。そして会長は、みんながそう言うなら仕方ない、と言う人だった。
「誰も、選んでないんだ」と航はつぶやいた。
つぶやいてから、自分の書いた十月と十一月のページを思い出した。四角が二つしかない紙と、「異議なし」しか書かない書記。どちらも、選ばなかった人を、選んだことにしてしまう。違うのは、紙は十数年前に誰かが刷ったもので、書記の文は先月、航自身が書いたものだということだけだった。
その週のうちに、航は柏木さんの家を訪ね、玄関で頭を下げた。
「十一月の議事録、次の回覧で訂正を出します。柏木さんの発言は『継続するなら予算の出どころを示す必要がある』。戸部さんは『継続とは聞いていない』です」
柏木さんは老眼鏡の上から航を見た。
「一字一句か」
「一字一句です」
柏木さんは鼻を鳴らし、奥から分厚いファイルを持ってきた。表紙に「備品台帳」とある。
「いいか。やるならやるで、数字の合う祭りにしろと言ってるんだ」
柏木さんは台帳をめくった。
「提灯、百二十個。そのうち点くのが九十七。テント三張り。そのうち一張りは骨が一本足りないから、二・八張り」
「二・八張り」
「立てると傾く。祭りの予算は去年、四十一万円。町内会費の収入は、加入世帯が十年で六十一から四十二に減ったから、そのぶん減ってる。発電機のレンタルが二万。焼きそばの鉄板は、手入れする人がいなくて錆びてる」
柏木さんは台帳を閉じた。
「それとな。会長がつぶれかけてるのは、一人で八役やってるからだ。準備、受付、会計の立て替え、片づけ、ほかにもいろいろ。やるなら、一人二役までにしろ。あんたもだぞ」
二人で、新しい意見票を作った。四角は二つではなく、こうした。
「□賛成 □反対 □条件つき( ) □決定に従う
できること( )
できないこと( )」
柏木さんの家の電話から会長にかけて読み上げると、会長は少し黙った。
「そんなに書かせたら、角が立つわ」
「角が立つのが会議だ」と、電話の横から柏木さんが言った。
「……一回だけね」と会長は言った。
意見票を挟んだ回覧板は、航の家から隣の三浦さんの家へ回る順番だった。
木曜日の夜、十時四十分。航が回覧板を持って門の前に立っていると、自転車のライトが近づいてきた。三浦涼子さんは、防犯灯の下で自転車を止めた。ジャンパーの下から、介護施設の名前が入ったポロシャツがのぞいていた。
「回覧板ですか。ポストに入れといてくれたらいいのに」
「今回のは、ちょっと説明したくて」
三浦さんは航の顔を見て、少し考えてから言った。
「書記さん? あの、いつも『異議なし』って書く人」
航は笑おうとして、うまく笑えなかった。
「……そうです」

三浦さんは防犯灯の下で、意見票を読んだ。
「これ、私が書いていいの? 書記さんがまとめるんじゃなくて」
「僕がまとめると、丸めちゃうので」
三浦さんは小さく笑った。
「定例会、木曜の七時でしょう。その時間、私、利用者さんの晩ごはんの介助してるの。遅番は一時から十時まで。祭りの土曜も、たいてい仕事」
「はい」
「欠席に丸つけると、議長に一任ってなるでしょう。一任なんかしてないのよ。四角が二つしかないから、そっちにつけてるだけ」
三浦さんは自転車のハンドルに意見票を載せて、続けた。
「正直に言うとね、祭りがなくなっても、うちは困らない。息子はもう中二だし、去年も友達と行って、三十分で帰ってきた。でも、なくなるならなくなるで、ちゃんと聞かれてからにしてほしい」
「できることは、ありますか」と航は聞いた。
三浦さんは航を見た。それから意見票に目を落とした。
「それは、ここに書く。あなたに言うと、あなたの言葉になっちゃうから」
「……そうですね」
「明日の朝書いて、回しておく」
三浦さんは回覧板を抱えて、玄関に入っていった。
翌朝、回覧板はもう、次の家の門に掛かっていた。
第五章 三人目の空欄
十二月十日の定例会には、十一人が来た。いつもより三人多かった。
新しいポットで淹れたお茶が、二十四個の湯飲みのうち十一個に注がれた。航は帳面の六十八ページを開いた。白紙だった。
「始める前に、訂正があります」と航は言った。「十一月の議事録で、来年度夏祭りの継続について『異議なし』と書きましたが、誤りでした。柏木さんの発言は『継続するなら予算の出どころを示す必要がある』。戸部さんは、継続とは聞いていない、とのことでした」
戸部さんが腕を組んだまま、「ふん」と言った。柏木さんは、湯飲みを持ち上げて、一口飲んだ。
意見票は、今夜来られない世帯から十七通が戻っていた。
「まとめずに、そのまま読みます」と航は言った。
焼きそばがないなら行かない。太鼓がうるさい、でも年に一回ならまあいい。子どもが大きくなったので、どちらでもいい。どちらでもいいと書ける欄があってよかった。
読みながら、航の頭は勝手に整文を始めようとした。似た意見を束ね、言い回しをそろえ、「多様な意見あり」の一行にしたがった。航はそのたびに、票を一枚ずつ、指で押さえて読んだ。
十七枚目は、三浦さんの票だった。
「当日は仕事で出られません。祭りがなくなっても、うちは困りません。でも、日曜の朝なら片づけに出られます。前の週の水曜の午前なら、テントを干せます。夜の会議には出られません。出られないことと、どうでもいいことは、違います。 三浦」
読み終えると、板の間が静かになった。ポットが、かすかに保温の音を立てた。
会長が湯飲みを置いた。
「私はね、続けたいの」
みんなが会長を見た。
「でも、準備と片づけは、もうやりません」
言ってから、会長は自分の言葉に驚いたような顔をした。誰もすぐには何も言わなかった。最初に口を開いたのは柏木さんだった。
「それでいい」
柏木さんは台帳を開き、縮小案を出した。夜店はやめて、夕方四時から七時までの「夕涼み会」にする。明るいうちに終わるから、発電機は借りない。提灯は点く九十七個だけを飾る。テントは、ちゃんと立つ二張り。焼きそばはやめる。予算は十二万円。
会長は、湯飲みの縁を指でなぞった。
「昔はね、提灯が通りの端から端まで並んだのよ」
それだけ言って、反対はしなかった。
「一人二役まで」と柏木さんは言った。「会長は当日の受付だけ」
「太鼓は叩きたいわ」と会長が言った。
「受付と太鼓で二役だ」
「じゃあ、それで」
役割を一つずつ決め、決めたことを、航はそのまま書いた。柏木さんは会計と片づけ。航は記録と、土曜の朝の準備。三浦さんは前の週の水曜の午前にテント干しと、日曜の朝の片づけ。
「三浦さんには、明日、僕から確認します。本人が書いた以上のことは書きません」
片づけには三人が要る、と柏木さんは言った。名前が入ったのは二人だった。
「縮小するくらいなら、一回休んだほうがいい」
戸部さんが、腕を組んだまま言った。
「半端にやって、あれもない、これもないと言われるのは、会長だぞ」
航は書いた。反対、戸部さん、縮小するなら休むべき、と。言葉は丸めなかった。
今夜の挙手は、あくまで暫定の意向確認だった。賛成五、反対二、保留三。会長は、議長だからと手を挙げなかった。
「一月は、私も一票入れていいのよね」と会長が言った。
「会長の家も一世帯だ」と柏木さんが言った。
段取りも決めた。縮小案と役割の分け方と片づけの条件を一枚にまとめ、新しい意見票と一緒に、年内にもう一度回す。今夜読んだ十七通は縮小案が出る前の意見だから、一月の数には入れない。一月の定例会で、出席した人の挙手と、改めて戻ってきた票とで決める。会長もそこで一票を入れる。それまでに片づけの三人目が見つからなければ、来年度は休む。航はそれも書いた。六十八ページと六十九ページが、反対と保留と条件で埋まった。「一部意見あり」とは、どこにも書かなかった。
その夜、航は七十ページを開いた。
「第十回定例会。出席十一名、意見票十七通、未提出十四世帯。議題一 来年度夏祭りについて。規模を縮小し、夕涼み会として開催する案を、賛成十九、反対五、保留四で可決した。反対意見 縮小するなら休むべき(戸部)、昔のやり方で続けたい(沼田)、ほか。条件 片づけ担当三名の確保。現在、柏木、三浦、( )。一月末日までに確保できない場合は休止とする」
航は二度読んだ。
意見票十七通。十二月と同じ数だが、年内に回す新しい票のことだ。同じ十七世帯とは限らないし、同じ答えとも限らない。今夜の十七通を読み上げたときの、指で押さえた紙の感触を、航は思い出した。
それから、反対意見の二つ目に目が止まった。
会長が、反対している。
準備も片づけもしないと言った人が、小さくなった祭りには反対票を入れる。わがままにも見えるし、筋が通っているようにも見える。どちらにしても、それは会長が自分で選んだ一票だった。二十年、「やりますよ」としか言わなかった人の、初めての反対だった。
備品処分の一文は、どこにもなかった。全会一致の四文字も、どこにもなかった。
そして、片づけ担当の三人目は、空欄のままだった。
まだ誰も決めていないのだ、と航は思った。明日の夜に開けば、誰かの名前が入っているかもしれない。入っていないかもしれない。毎晩開いて確かめれば、誰に頼めばいいのかも、頼まなくていいのかも、わかるのかもしれない。
航は裏表紙の鉛筆書きを指でなぞった。先のページは、読みすぎないように。
帳面を閉じて、机の引き出しにしまった。
翌日の昼、航は紙を一枚書いた。「夏祭り(夕涼み会)片づけ担当 一名募集。祭りの翌朝、八時から十時まで。二時間だけです。書記 森下」。印刷はせず、手で書いた。木のはらいは、やはり風に吹かれていた。
紙を持って、航は四班のほうへ歩いた。回覧板を待たずに、一軒目の門の前で止まった。表札に「戸部」とある。
インターホンを押すと、少しして、低い声がした。
「はい」
「書記の森下です。夏祭りの片づけのことで」
「俺は反対したぞ」
「はい。議事録にも、そう書きました」
インターホンの向こうが、しばらく黙った。
「……一字一句か」
「一字一句です。反対のままで結構です。片づけを、二時間だけ手伝っていただけませんか」
また沈黙があった。今度の沈黙は、さっきより短かった。
「何時から何時までだ」
航は手の中の紙を見なかった。
「八時から、十時までです」


