第一章 赤い扉を三回
「六時ね。六時に、父さんが迎えに行く」
真柴透がそう言うと、五歳の小春は、トーストを持ったまま指を六本立てようとして、五本で止まった。
「六はね、こっちの手も使う」
透が自分の指を一本貸すと、小春は真剣な顔で、その一本と自分の五本を数えた。
台所から、妻の声がした。
「今日、鐘下に入るんでしょう。何時に出てくる予定?」
「十五時の鐘。歯車が見つからなくても、その前に井戸門を出る。決めてある」
「決めてあるのは知ってる。守るかどうかを聞いてるの」
透は少し考えて、正直に言った。
「……守る予定」
妻は笑って、水筒を透の鞄に押しこんだ。それ以上は何も言わなかった。
鐘下町の鐘楼は、二時間ごとに鳴る。
九時、十一時、十三時、十五時、十七時。
鐘楼の真下に広がる古い街区を、町の人は「迷宮街」と呼ぶ。十二の広場と、それをつなぐ扉でできた街だ。扉は鐘が鳴るたびに行き先を変える。迷った者は鐘を待ち、また迷う。十七時の鐘のあと、出口の井戸門は朝まで閉じる。
透がここへ入るのは、仕事のためだった。
市場の大時計の修理を請け負っている。止まった原因は、脱進機の歯車が一枚、割れていたことだった。四十年前の型で、今はどこにも作っていない。ただ、迷宮街の奥の時計塔広場に、同じ型の時計が打ち捨てられているという話を、古い時計屋の主人から聞いた。
修理代は、来月の店の家賃になる。
井戸門の前で、凪が待っていた。
二十八歳、迷宮街の荷運びの組の頭。日に焼けた腕に、使いこんだ背負い枠をかけている。
凪の組が毎日使っていた通り道は、先月から崩れていた。いつもの扉が、いつもの広場へ通じなくなったのだ。
「時計塔広場まで案内する。その代わり、帰り道を作ってくれ」と凪は言った。三日前、透の店に来たときと同じ言葉だった。「うちの若いのが、毎日使える帰り道」
「毎日、か」
「一回きりの道なら、あたしでも作れる」
透は、そこが一番気になるところだと思った。
一回きりの道は、たぶん誰にでも作れる。毎日使える道は、たぶん、まだ誰も作っていない。
九時の鐘が鳴った。
井戸門が、重い音を立てて開いた。
最初の広場は、石畳の小さな四角だった。
壁に、扉が四つ。どれも古い木の扉で、上に真鍮の丸い文字盤がついている。文字盤には大きな針が一本と、周りに六つの小さな刻み。刻みの一つ一つに、広場の印が彫ってあった。魚、鍵、杯、梯子。
「赤い扉を三回くぐれば外に出られる、って話は聞いたことある?」
凪が、四つのうち一つを顎で示した。赤く塗られた扉だった。
「聞いた。うちの店の客も言ってた。三回目で井戸門の前に出たって」
「で?」
「その人は、一人で入ったって言ってた」
透は、赤い扉の文字盤を見上げた。
「試してもいいか。一回だけ」
「あたしはここで見てる」
凪は石畳に腰を下ろした。透は一人で赤い扉をくぐった。くぐった先の広場の赤い扉を、もう一度。もう一度。
三回目の扉の先は、井戸門ではなかった。水の音のする、知らない広場だった。真ん中に、魚の彫られた噴水があった。
「出ないな」
透は一人でつぶやいた。出ないのはいい。出なかったことが分かったから。
くぐってきた赤い扉を振り返ると、文字盤の大針は、魚の印を指していた。
(……針が指してる印の広場に、出てるのか)
透は、噴水の広場の扉を一つずつ見上げた。四つの文字盤のうち一つが、鐘の印を指していた。最初の広場の壁には、小さな鐘が彫ってあった。
その扉をくぐると、石畳に座った凪が顔を上げた。
「戻ってこれたじゃん」
「針が指す印の広場に出る。だから、戻れた」
透は、最初の広場の残りの扉も見た。鍵を指している扉の先には、鍵の印の広場。杯を指している扉の先は、杯の広場。
「じゃあ、鐘で何が変わる?」
透は鞄からチョークを出した。
最初の広場の四つの扉の文字盤の下に、今の大針の位置を書きこんでいく。
「何してんの」
「十一時の鐘で、針がどう動くか見る。全部一つずつ進むのか、ばらばらなのか」
「二時間待つの?」
「待つあいだに、時計塔のほうへ進めばいい。戻りにまた見る」
文字盤の下の端に、すすをかぶった小さな針がもう一本あるのに、透は気づいた。
指の爪ほどの長さで、黒く汚れていて、目盛りもよく見えない。
「これは?」
「さあ。飾りじゃない?」
透も、そう思った。
本当は、少しだけ気になった。でも、今は大針のほうが先だった。
第二章 七つ目盛りの扉
十一時の鐘が鳴ったとき、二人は最初の広場に戻ってきていた。
透は、チョークの印と大針を見比べた。
四つの扉のうち、二つは一目盛りも動いていなかった。
赤い扉は、一つ進んでいた。
鍵の扉は、二つ進んでいた。
「全部一つずつ、じゃないな」
透は、どの扉を通ったかを、頭の中で並べた。
動かなかった二つは、誰も通っていない扉。
一つ進んだ赤い扉は、透が一人でくぐった扉。
二つ進んだ鍵の扉は、時計塔のほうへ向かうとき、透と凪が並んで——いや、凪が先で、透が後から、一回ずつくぐった扉だ。
「通った人数だけ、進む」
透は、声に出していた。
「誰も通らなかった扉は、鐘が鳴っても変わらない。通った分だけ、針が回る」
凪が、少し目を細めた。
「それ、うちの組の道が崩れたのと関係ある?」
「ある、と思う。先月から、ほかの組がこのへんを通るようになったって言ってたろ。通る人数が変われば、いつもの扉の行き先も変わる」
凪は、黙って文字盤を見上げた。
「……そういう仕組みだったのか」
「たぶん。まだ一回しか見てない」
そう言いながら、透は、自分の声が少し弾んでいるのを感じていた。
四十二にもなって、文字盤一つでこんなに楽しいのか、と自分で思った。
そこから先は、数えながら歩いた。
どの扉を、誰が何回くぐったか。透は手帳に、広場の印と扉の数を書いていった。帰りは十三時の鐘をまたぐ。そのとき、自分たちが通った扉がどこを指すかは、今の大針に通った人数を足せば分かる。
帰路を、設計できる。
「なあ、透さん」
杯の広場を抜けるとき、凪が言った。
足元を、灰色の猫が一匹、するりと通り抜けていった。
「猫の通る扉は、信じるな」
「何で?」
「知らん。うちの組の決まり。猫がよく通る扉は、行き先が読めなくなる」
透は、猫の消えた扉を見た。
「それ、何回くらい確かめた?」
「確かめたことはない。昔からそう言われてる」
「じゃあ、まだ決まりってほどじゃないな」
透は、そう言った。言ってから、少し言い方がきつかったかと思ったが、凪はとくに気にした様子もなく、背負い枠を揺すり上げただけだった。
時計塔広場の手前の広場で、透は足を止めた。
壁の扉の一つに、変わった文字盤がついていた。
刻みが、七つあった。
ほかの扉はみんな六つなのに、この扉だけ七つ。よく見ると、六つには広場の印が彫ってあり、七つ目――梯子と鐘のあいだだけが、印のない小さな点だった。大針の根元のあたりから、かすかに、かち、かち、と不規則な音がしていた。
「透さん」と凪が言った。「時計塔、もうそこだよ」
「うん。……ちょっとだけ」
透は、鞄から細いドライバーを出した。
文字盤の縁のねじを二本ゆるめると、真鍮の蓋が少しだけ開いた。中に、小さな歯車が三つ噛みあっていた。そのうちの一枚に、歯が一枚欠けていた。
透は、大針を指先でそっと押してみた。
針は梯子の印から鐘の印へ移ろうとして、欠けた歯のところで、かくん、と一度、印のない点の上に引っかかった。
「……普段は、この点を飛び越えて、六つの印のあいだだけを回るようにできてるんだ。でも、欠けた歯のところに来ると噛み損ねて、点で一回止まる」
「止まったら?」
「点には、行き先の印がない。開けても、たぶん、どこにも通じない」
凪が、扉の前から一歩下がった。
透は針を元の印に戻した。
透は、欠けた歯車の歯を数えた。四十八。
それから、ふと、手を止めた。
四十八枚歯、真鍮、この厚さ。
探している大時計の歯車と、同じ型だった。
「透さん」
凪の声が、少し低くなっていた。
「さっきから、十五分たってる」
透は、蓋を閉めて、ねじを締めた。
十五分。自分では、三分くらいのつもりだった。
時計塔広場には、倒れた時計の筐体が、草に埋もれて転がっていた。
透は筐体の裏蓋を外し、中をのぞきこんだ。脱進機は、錆びてはいたが、割れていなかった。四十八枚歯の歯車を、慎重に外した。
布に包んで、鞄の内ポケットにしまった。
歯車の横に、青いガラス玉が一つ、転がっていた。
時計の飾りが外れたものらしかった。親指の先くらいの、澄んだ青だった。
透はそれを拾い、ズボンのポケットに入れた。
小春の六本目の指の代わりに、ちょうどいい大きさだった。
「十二時四十分」と凪が言った。「帰ろう」
第三章 小さな針
十三時の鐘が鳴ったとき、二人は、透の設計では「鍵の広場へ通じるはず」の扉の前にいた。
鐘の音が石畳に響いて、扉の上の大針が、かちり、と動いた。
透は手帳を見た。
この扉は、透と凪が一回ずつ通った。今の大針に二つ足すと、鍵の印になる。
大針は、鍵の一つ先、梯子の印を指していた。
そういえば、と透は思い出した。杯の広場で、灰色の猫がこのあたりの扉へ走っていくのを見た気がする。
気がする、だけだった。手帳には書いていなかった。
「……一つ、多い」
透は、扉を開けた。
その先は、鍵の広場ではなかった。見たことのない、細長い広場だった。壁が高く、空が細かった。
「透さん、数え間違えた?」
「いや」
透は手帳を見直した。二回。間違っていない。
間違っていないのに、一つ多い。
背中に、いやな汗が流れた。
ここから先の帰路は、全部、この扉が鍵の広場へ通じる前提で組んでいた。一つずれれば、その先も全部ずれる。
「十五時の鐘まで、二時間ない」と凪が言った。声は落ち着いていたが、背負い枠の紐を握る手に力が入っていた。
透は、細長い広場の扉を見回した。四つ。どれも、見覚えのない印を指していた。
(寄り道の十五分がなければ、十三時の鐘の前に、この扉を越えていた)
そう思ったが、口には出さなかった。言っても、扉は戻らない。
「戻ろう。一つ前の広場へ」
凪が言った。
「どの扉が戻るか、分からない」
「分かる」
凪は、四つの扉の前を順に歩き、扉の隙間に顔を近づけた。
三つ目の扉の前で、立ち止まった。
「この向こう、水の音がする。さっき通った噴水の広場の、隣の広場。あそこは、いつも水が鳴ってる」
透は、扉に耳を当てた。
かすかに、水の落ちる音がした。
「記録より、耳か」
「記録がないときは、耳」
凪が扉を開けた。
その先は、たしかに、さっき通った広場の隣だった。壁の苔の模様に、見覚えがあった。
透は、息を吐いた。
「……ありがとう」
「礼はいい。道を直して」
戻った広場で、透はさっきの扉を、こちら側から見上げた。
この扉を、誰が通ったのか。
透と凪で、二回。それ以外に——
足元を、灰色の影が走った。
さっきの猫だった。
猫は透の足のあいだをすり抜けて、まっすぐ、その扉をくぐっていった。
そのとき、透は見た。
文字盤の下の端の、すすをかぶった小さな針が、かすかに、一つ動いたのを。
透は、親指で、小さな針のすすを拭った。
すすの下から、細い目盛りが現れた。零から六まで。小さな針は、今、「三」を指していた。
鐘のあと、透と凪が一回ずつ、この扉をくぐった。それで二。それから、今の猫で、三。
「凪さん」
透の声は、自分でも驚くほど大きかった。
「この扉、数えてる。今も、猫を数えた。十三時の鐘の前も、たぶん同じだ。俺たちが二回、猫が一回。だから三つ進んだ」
凪が、文字盤を見上げた。
「……猫の通る扉は、信じるな」
「信じるな、じゃなかった。数えてたんだ、扉は。猫も」

透は、小さな針を指さした。
「これ、飾りじゃない。通った数を、その場で数えてる。鐘が鳴ると、この数だけ大針が進んで、こっちは零に戻る」
透は、隣の扉の小さな針も拭った。「二」を指していた。その隣は「零」。
「大針と小針を足せば、次の鐘のあと、この扉がどこに通じるか分かる。誰が数えなくても。俺がいなくても」
凪は、しばらく黙って、小さな針を見ていた。
それから、言った。
「それ、うちの若いのにも読める?」
「読める。足し算だけだ」
「……猫の言い伝え、半分当たってたってことね」
「半分以上当たってた。俺が、確かめてないって切り捨てた」
透は、手帳の「猫の通る扉は信じるな」の横に、「=猫も数える」と書き足した。
それから、少し考えて、その上に一本線を引き、凪の言葉のほうを残した。
第四章 四十八枚の歯
十四時半。
大針と小針を読みながら、二人は回り道をして、時計塔広場の手前、七つ目盛りの扉のある広場まで戻ってきていた。
井戸門へ戻る道は、どう組み直しても、この扉を通る。
透は、七つ目盛りの扉の小針を拭った。「零」。大針は、井戸門の方角の広場を指している。
透一人なら——いや、凪と二人なら、出られる。
今、この扉をくぐって、あとは大針と小針を読んで歩けば、十五時の鐘の前に井戸門に着く。今日の二人は、それで帰れる。歯車は鞄の中にある。十五時の鐘の前に井戸門を出るという、自分で決めた約束も守れる。
でも。
「凪さん。この扉、欠けた歯があるって言ったろ」
「さっきの寄り道のやつ」
「そう。鐘のとき、ときどき印のない点に引っかかって、予定の印まで進まない。いつ引っかかるかは、歯の位置しだいで、外からは読めない」
凪の顔が、少し硬くなった。
「読み方を教えても、この扉だけは外れるってこと?」
「一日に何回かは、外れる」
透は、扉を見上げた。
自分一人なら、外れても戻ってこられる。耳もいい凪もいる。でも、凪の組の若い運び手が、重い荷を背負って、十七時の鐘の前にこの扉で外れたら。
「とりあえず、読み方は書いておく。この扉には『ときどき外れる、注意』って」
凪が、すぐに首を横に振った。
「だめ」
「だめ?」
「『ときどき外れる』って書かれた道を、うちの若いのに毎日歩かせられん。注意って、どう注意すればいいの。外れたら、耳で戻れって? あたしは戻れても、あの子らはまだ戻れん」
透は、何か言い返そうとした。
言い返せる理屈を、探した。見つからなかった。
凪の言うことのほうが、筋が通っていた。
透は、鞄の内ポケットに手を入れた。
布に包んだ、四十八枚歯の歯車。
市場の大時計の、替えのきかない歯車。来月の家賃。
(これを、あの扉に入れれば)
欠けた歯車を外して、これに替えれば、扉は規則どおりに動く。大針は六つの印のあいだだけを回り、印のない点は飛び越える。大針と小針の足し算だけで、誰でも読める帰路が完成する。
その代わり、大時計は直らない。依頼主には、詫びに行かなければならない。代わりの歯車を、どこかで見つけるか、作るかしなければならない。
それから、時間。
歯車を替えたあと、本当に規則どおりに動くか、一度は鐘で確かめなければならない。凪の言うとおりだ。確かめていない道を、人に歩かせることはできない。確かめるには、十五時の鐘を、この扉の前で待つことになる。
自分で決めた十五時の限界を、破ることになる。
「透さん」
凪が言った。
「無理なら、いい。今日は帰り道の読み方だけで、十分助かる。この扉は、あたしらで何とかする」
透は、首を横に振った。
「何とかする方法が、ここにある」
鞄から布の包みを出した。
「十五時の鐘で一回だけ確かめて、それから出る。十七時の鐘には、間に合わせる」
「確かめて、だめだったら?」
「元の欠けた歯車に戻して、注意って書いて、出る。だめだったことが分かるのも、一つの結果だ」
凪は、透の顔を見た。
それから、黙って、背負い枠を下ろした。
「何、手伝う」
「扉を押さえててくれ。蓋を開けると、針が少し動く」
真鍮の蓋を開け、欠けた歯車を外した。
自分の歯車を、そっと噛みあわせた。指先の感覚で、歯が一枚ずつ噛んでいくのが分かった。
ねじを締めた。かち、かち、という不規則な音が消えて、かすかな、規則正しい音に変わった。
「二人で三回ずつ、この扉をくぐって向こうの広場へ出て、向こうの扉から戻ってくる。この扉が数えるのは、出ていくときだけだ。それで小針が六になる。十五時の鐘で、大針が六つの印を一つずつ進んで、ちょうど一周して今の印に戻れば、成功」
「一周させるの?」
「一周しなかったら、井戸門への道が変わる。それに、欠けた歯のままなら、どこかで点に引っかかって、今の印の一つ手前で止まるはずだ」
二人は扉をくぐり、向こうの広場の扉から戻ってきた。三回ずつ。
透は小針を拭った。「六」。
十五時まで、二十分あった。
その二十分のあいだに、凪は、この広場の扉の文字盤を、一つずつ拭いて回った。すすを落とした小針の横に、チョークで「大+小」と書いていく。
透は、手帳の帰路の図を書き直した。扉の名前ではなく、読み方の図にした。どの広場で、どの文字盤を見て、何を足せばいいか。

十五時の鐘が鳴った。
二人は、七つ目盛りの扉の文字盤を見上げた。
大針が、かちり、と動いた。
一つ、二つ、三つ。
四つ、五つ、六つ。
止まった。
元の印だった。印のない点は、一度も踏まなかった。小針は、零に戻っていた。
凪が、長い息を吐いた。
透は、自分が笑っているのに気づいた。声は出ていなかったが、たぶん、少年みたいな顔をしていた。
「……完成?」と凪が聞いた。
「俺がいなくても、読める。それが完成の条件なら」
透は、外した欠けた歯車を布に包んで、鞄にしまった。
こっちは、持って帰る。直せるかどうか、店で試してみる価値はある。
そこから井戸門までの扉は、一つずつ、凪が拭いて、透が読んで、凪がチョークで書いた。
二人で歩けば一時間かからない道に、一時間五十分かかった。
井戸門を出たのは、十六時五十分だった。
外は、夕方の光だった。透は、凪に読み方の図を渡した。
「明日の朝、若いのに読ませてみて。分からなかったら、それは図が悪い」
「図が悪かったら、言いに行く」と凪は言った。「直すのは、そっちね」
「……仕事が増えた気がする」
「増えたね」
凪は、初めて声を出して笑った。
透は走った。
鐘下町の坂を下り、市場を抜け、保育所の門に着いたのは、十七時五十分だった。
小春が、先生の横で、靴を履いて待っていた。
「父さん、六時?」
「六時の、十分前」
透は、指を五本立てて、もう片方の手で一本足した。それから、ズボンのポケットから、青いガラス玉を出した。
「おみやげ。六本目の指の代わり」
小春はガラス玉を夕日にかざして、目を丸くした。
それから、透の手を取った。いつもと同じに、何も言わずに。
翌朝、店の戸に、紙が一枚はさまっていた。
〈三人と猫一匹で、通れた。図は、ちょっと読みにくい。 凪〉
透は、紙を作業台の上に置いた。
大時計の依頼主への詫びの手紙を書いた。歯車の入手が遅れること、代わりの方法を探すこと。
書き終えると、欠けた歯車を拡大鏡の下に置いた。欠けた一枚の歯を、新しく削り出して植えられないか。できれば、大時計にも使える。できれば、ほかの欠けた扉にも——
気づくと、手帳の新しいページに、図が一枚増えていた。
台所から、妻の声がした。
「十五時の鐘、守った?」
透は、少し考えて、正直に言った。
「……守らなかった。でも、確かめてから出た」
妻は何も言わず、小春のガラス玉と同じ色の空を、窓の向こうに見ていた。
それから、透の手帳を一回だけのぞきこんで、言った。
「また、仕事増やしてる」
透は、笑った。
笑いながら、図の端に、凪の「ちょっと読みにくい」を書き写した。


