第一章 七時四十五分の三皿
月曜日の朝七時四十分、戸田結はフライパンの上で、三枚目のフレンチトーストを裏返した。
じゅっ、と音がして、バターの匂いが調理場に広がった。焼き色はきれいな狐色だった。卵と牛乳をたっぷり吸わせた食パンが、ふくらんで、ゆっくりしぼんでいく。
(いい。これは、いい)
結は、皿を三枚並べた。白い、少し縁の欠けた、まかない用の皿。一枚に二切れずつ。粉砂糖を茶こしで振って、最後に、自分で持ってきた小さなミントの葉を一枚ずつのせた。
みずいろ珈琲店で働きはじめて、三週目だった。
先週の土曜日、店主の沖さんに言われた。
「来週一週間、朝のまかない、戸田さんにお願いしていい? 予算は三人で一日六百円。前の日の売れ残りのパンは使っていいよ。仕込み用の材料は使わんでね」
結は、はい、と言った。声が少し大きすぎて、自分で驚いた。
前の職場は、事務だった。昼は自分の席で、コンビニのおにぎりを一人で食べていた。誰かと一緒にごはんを食べる職場に、ずっと憧れていた。
七時四十五分。結は、調理場の奥の小さなテーブルに、三皿とフォークを並べた。
「朝ごはんです!」
最初に来たのは、沖さんだった。五十代の、背の高い人で、焙煎機の火を入れたばかりの手を、エプロンで拭きながら座った。
「わあ、きれいね。ありがとう」
沖さんは、フォークで一切れの角を小さく切って、口に入れた。
「おいしい」
それから、もう一口食べて、フォークを置いた。
「ごめんね。朝は、これくらいで」
結の笑顔が、一瞬、固まった。
「あ、いえ……多かったですか」
「ううん、戸田さんのが多いんじゃないの。わたしが朝、入らんだけ」
沖さんは、ごちそうさま、と手を合わせて、焙煎機のほうへ戻っていった。
結は、調理場のほうを見た。
菓子担当の真壁さんは、ステンレスの台の前で、ボウルに粉を量っていた。三十代半ばの、肩幅の広い人で、話すときに相手の顔より手元を見る。
「真壁さん、朝ごはん、できてます」
「あとで」
真壁さんは、顔を上げずに言った。冷蔵庫から出したバターを、粉の中で手早く刻んでいる。
「冷めちゃいますけど……」
「うん。あとで食べる。ありがとう」
ありがとう、とは言った。でも、手は止まらなかった。
結は、テーブルに一人で座った。
三皿のうち、一皿は二口ぶん欠けていて、一皿は手つかずで、一皿は自分の分だった。
自分の分を食べた。おいしかった。卵がよく染みて、バターが香って、粉砂糖が舌の上で溶けた。おいしかったけれど、一人で食べると、ちょっと甘すぎた。
沖さんの皿の残りも、食べた。もったいなかったからだ。
真壁さんがまかないを食べたのは、九時を少し過ぎてからだった。
結は、店のフロアでナプキンを折っていた。調理場の入口から、ちらりと見えた。
真壁さんは、オーブンの前に立っていた。オーブンの窓の中で、スコーンの一回目がふくらみはじめていた。タイマーを見ながら、空いた左手で、冷えたフレンチトーストをつまんで、立ったまま食べていた。

冷えたフレンチトーストは、たぶん、しっとりを通りこして、ぐったりしていた。
結は、ナプキンを折る手を止めた。
(あれは、わたしの思ってた朝ごはんじゃない)
その日の帰り道、結はスーパーで、生クリームの小さなパックを見て、少し考えた。
冷めても、ふわふわのままにする方法。
明日は、もっとうまくやる。
第二章 仕込みの札
火曜日の朝、結は七時四十分に声をかけた。
「今日は少なめです。冷めてもおいしいように、ふわふわにしました」
フレンチトーストは、一皿一切れずつにした。卵液に、冷蔵庫の生クリームを足した。焼き上がりは、昨日よりずっとふっくらしていた。
沖さんは、一切れを半分食べて、「やわらかいね」と言った。半分は残った。
真壁さんは、今日も「あとで」と言った。それから、生地をまとめる手を止めずに言った。
「戸田さん、それ、何入れた?」
「生クリームです。ふわっとするかなと思って」
真壁さんの手が、止まった。
真壁さんは、冷蔵庫の扉を開けた。中段に、計量カップに入った生クリームがあった。カップには、マスキングテープの札が貼ってあった。
〈仕込み スコーン 200ml〉
カップの中身は、半分になっていた。
結の顔から、血の気が引いた。
札は、昨日の夕方、真壁さんが自分で量って、貼って入れておいたものだった。結は、冷蔵庫を開けたとき、札を見ていなかった。見えていたかもしれないが、読んでいなかった。
「……すみません」
真壁さんは、何も言わずにカップを見ていた。それから、牛乳とバターを出して、計量を始めた。
「百足りない分、牛乳とバターで合わせる。ちょっと配合が変わるけど、まあ、いける」
「わたし、買ってきます。今から」
「今から行って戻ってきたら、生地が温まる。いい」
真壁さんの声は、怒鳴ってはいなかった。でも、いつもより低かった。
「仕込みの冷蔵庫の札のついたもんは、使わんで。それだけ頼む」
「はい」
結は、それ以上何も言えなかった。
その日、スコーンの一回目は、いつもより十分遅れてオーブンに入った。焼き上がりは、少しだけ表面が平らだった。開店には間に合った。客の誰も気づかなかった。真壁さんだけが、一つ割って、中を見て、何も言わずにもう一つ割った。
開店の少し前、真壁さんが、割ったスコーンの半分を結のほうへ差し出した。
「食べてみて」
結は受け取った。まだ温かかった。口に入れると、外はさくっとして、中はやわらかかった。おいしかった。
「……おいしいです」
「いつもより、層が一枚少ない」
真壁さんは、残りの半分を自分で食べながら言った。
「生クリームで、ここの、ほろっと崩れるとこを作っとる。牛乳とバターやと、ちょっと詰まる。お客さんには分からん。でも、俺には分かる」
怒っている声ではなかった。ただ、結が使った百ミリリットルが、どこに行くはずだったのかを、真壁さんは手のひらの上で見せていた。
結は、スコーンの断面を見た。言われてみれば、たしかに、層が一枚少なかった。
昼休み、結は沖さんに言った。
「生クリームの分、わたしが払います」
沖さんは、レジの横の小さな帳面を開いた。経費の帳面だった。
「払わんでいいよ。ここに書いとく」
沖さんは、ボールペンで一行書いた。
〈火 まかない 生クリーム百ml 仕込みから流用 以後、確認〉
「まかないの失敗も、店の失敗。わたしが戸田さんに任せたんやけん。次から、確認して」
それだけだった。叱るでも、なぐさめるでもなかった。結は、帳面の一行を、しばらく見ていた。
自分の失敗が、店の帳面に、店の言葉で残っていた。
その夜、結は家の台所で、ノートを開いた。
月曜、フレンチトースト三皿。沖さん二口。真壁さん九時過ぎ、立って。
火曜、フレンチトースト三皿(少なめ)。生クリーム。真壁さんの仕込み。
(わたし、二日間、二人に何を食べたいか、一回も聞いてない)
聞いていなかった。
自分が出したいものを、自分が食べてほしい時間に、出していた。
結は、ノートの次のページに、「水曜:作らない」と書いた。
第三章 手元を見る
水曜日の朝、結はまかないを作らなかった。
「今日は、ないんです。すみません。そのかわり、見てていいですか」
沖さんは、少し不思議そうな顔をして、「どうぞ」と言った。真壁さんは、顔を上げずに「うん」と言った。
結は、野菜を洗いながら、二人の手元を見た。
七時半。真壁さんは、エプロンを締めるより先に、冷蔵庫からバターを出した。粉を量り、バターを刻み、指先で粉とすり合わせる。窓から入る朝の光の中で、手の動きは迷いがなかった。
「真壁さん、なんで、来てすぐなんですか」
「バターが温まる前にやりたい。七時半の調理場がいちばん涼しい」
「座って食べたら?」
「座ったら、十五分、手が止まる。その十五分で、バターが柔らかくなる」
真壁さんは、それだけ言って、また手を動かした。
八時五十五分。真壁さんはスコーンの一回目を天板に並べ、オーブンに入れて、扉を閉めた。タイマーを十五分に合わせた。
そして、ふっと肩の力を抜いた。
左手で、作業台の隅に置いてあった前日のバゲットの端をつかみ、かじった。右手は、オーブンの扉の取っ手にかかっていた。窓の中のスコーンから、目を離さなかった。
(ここだ)
結は思った。
真壁さんが食べられる時間は、ある。九時前後の、この十五分だ。座ってではなく、片手で。
九時半。沖さんは、カウンターの端に、小さな白いカップを三つ並べた。
三種類の豆を、少しずつ挽いて、湯を注ぐ。スプーンで表面をすくって、音を立ててすする。口の中で転がして、吐き出す。メモを取る。三つとも。
それが終わると、沖さんは、湯を一杯だけ、ゆっくり飲んだ。
「沖さん、朝ごはん、いつ食べるんですか」
「十一時ごろかな。お客さんが落ち着いたら、トースト半分」
「朝は、本当に何も……」
「何も入れたくないんよ。口の中に何か残っとると、豆の味が分からんごとなる。それに、わたし、昔から朝は胃が起きるのが遅いと」
沖さんは、笑った。
「戸田さんのフレンチトースト、おいしかったよ。十一時やったら、二切れ食べた」
結は、少し考えて、聞いた。
「じゃあ、九時の前後で、何か一口だけなら、食べられるものってありますか。味見に邪魔にならないもの」
沖さんは、意外そうな顔をした。それから、カップを洗いながら、しばらく考えた。
「……温かいもの、かな。薄い汁物、ちょっとだけ。味見の二十分前までやったら、水で口を戻せる」
結は、カップを片づける沖さんに、もう一つ聞いた。
「あの、味見を、もう少し早くすることって、できますか。九時とかに。そしたら、みんなで——」
「できん」
沖さんは、はっきり言った。笑ってはいたが、迷いはなかった。
「九時半は、豆が落ち着く時間で決めとるの。朝焼いた豆は、ちょっと寝かせんと本当の味にならん。お客さんに出す前の、いちばん大事な十分やけん。ごめんね、そこは動かさん」
「……すみません」
「謝らんでいいよ。聞いてくれてよかった」
沖さんは、そう言って、焙煎機のほうへ戻っていった。
結は、自分の口から出かけた「みんなで」を、飲みこんだ。みんなで、のために、沖さんのいちばん大事な十分を動かそうとしていた。
その日の帰り際、結は真壁さんにも聞いた。
「真壁さん、朝、何が好きですか」
真壁さんは、少し考えた。
「卵。焼いたやつ。甘くないやつ」
「……フレンチトースト、甘かったですね」
「甘かった。うまかったけど」
真壁さんは、それだけ言って帰っていった。
木曜日。結は、聞いた答えで、作ってみた。
真壁さんには、片手で食べられるホットサンド。前日の食パンの端に、卵とハムとチーズとトマトを挟んで焼いた。
九時、オーブンの扉が閉まった瞬間に差し出した。
真壁さんは、少し目を丸くして、受け取った。かじった。
トマトの汁が、真壁さんの手首を伝って落ちた。チーズが糸を引いて、作業台に垂れた。真壁さんは、慌てて布巾でふいた。
「……うまい。けど、具が多い。片手で持つと、こぼれる」
沖さんには、玉ねぎとキャベツの芯で作ったスープを、湯のみに一杯。
沖さんは、一口飲んで、少し眉を寄せた。
「おいしい。でも、ちょっと塩が強いね。舌に残る。このあと味見があるけん」
どちらも、惜しかった。
結は、ノートに書いた。
真壁さん:具を減らす。こぼれないもの。卵とチーズだけ。
沖さん:塩を半分。三口で終わる量。
それから、もう一行書いた。
わたし:どこで食べる?
結は、まだ一度も、二人と一緒に食べていなかった。月曜は一人で、火曜も一人で、水曜は食べず、木曜は二人に渡したあと、フロアで一人で食べた。
七時四十五分に三人で座る。
それは、もう、ない。
でも、九時の前後に、真壁さんはオーブンの前にいて、沖さんは味見の前にいて、結自身は、その時間なら、ナプキンを折る手を止められる。
第四章 九時五分のカウンター
金曜日の朝、結は七時半に冷蔵庫を開けた。
最初に、中段の札を読んだ。
〈仕込み スコーン 200ml〉
〈仕込み バター 季節のジャム用〉
札のついたものに、手を触れなかった。
まかないの段にあるのは、前日の食パンの端と、卵のパックと、スライスチーズ。野菜室に、キャベツの芯と、使いかけの玉ねぎ半分。
八時半。サラダの野菜を洗い終えた結は、まかないに取りかかった。二十分。
食パンの端を二切れ、薄く揃える。卵を一個、薄く焼いて、半分に折る。チーズを一枚。パンで挟んで、フライパンで押しながら焼く。具は、それだけ。焼けたら、紙で包む。持つところだけ紙が残るように。
鍋では、玉ねぎ半分とキャベツの芯を、水からゆっくり煮ていた。塩は、昨日の半分。味見をして、少し足りないと思った。
(足りないくらいで、いい)
結は、塩の瓶を戻した。
最後に、自分の皿。食パンを一枚トーストして、目玉焼きを一つ。サラダの端の葉を、少し。
八時五十分。二十分で、終わった。結は火を止めて、ナプキンを折りに戻った。
八時五十五分。
オーブンの扉が閉まった。真壁さんが、タイマーを十五分に合わせた。
九時五分。
結は、鍋のスープを温め直して、湯のみに一杯、自分のマグカップに一杯よそった。それから、調理場のカウンターに、三つのものを並べた。
紙で包んだ、薄いホットサンド。
湯気の立つ、小さな湯のみ。
白い皿のトーストと目玉焼きと、マグカップのスープ。
形も、量も、ばらばらだった。
「九時五分です」と結は言った。「五分だけ、ここで、食べませんか」
真壁さんは、オーブンの窓を見たまま、ホットサンドを取った。左手で。
かじった。何もこぼれなかった。
「……うまい。これなら、持てる」
沖さんは、カウンターの端に来て、湯のみを両手で持った。焙煎機の熱で、頬が少し赤かった。
一口。二口。
「ちょうどいい」
沖さんは、三口で飲み終えて、湯のみを置いた。それから、水を一杯飲んで、口を戻した。
結は、皿を持ったまま、カウンターに立っていた。
座りたかった。本当は、テーブルに座って、三人で同じ皿を囲みたかった。それは、まだ少しだけ、思っていた。
でも、カウンターに立つと、真壁さんの左手と、沖さんの湯のみと、自分の皿が、同じ朝の光の中にあった。
トーストをかじった。目玉焼きの黄身が、少し垂れた。
「戸田さん、それ、こぼれとる」と真壁さんが言った。
「わたしのは、こぼれていいんです。座らないけど、皿なので」
真壁さんが、少しだけ笑った。真壁さんの笑った顔を、結は初めて見た。

沖さんが、湯のみを流しに置きながら言った。
「今日のまかない、いくら?」
結は、ポケットからメモを出した。
「卵二個とチーズ一枚と玉ねぎ半分で、二百十円です。パンの端とキャベツの芯は、無料の分です」
「安いね」
「月曜のフレンチトーストは、四百八十円でした」
「あれは、あれで、おいしかったよ。十一時やったらね」
沖さんは、帳面を開いて、一行書いた。何を書いたのか、結には見えなかった。
「来週も、六百円と二十分は変わらんよ」
「はい」
「それと、スープ。玉ねぎ半分って、どこから出たと?」
結は、少しどきっとした。
「野菜室の、使いかけです。仕込みの札は、ついてませんでした。ちゃんと見ました」
沖さんは、ふっと笑った。
「うん。知っとる。見とったけん」
タイマーが鳴った。
真壁さんが、ホットサンドの最後の一口を口に入れて、紙を丸めてポケットに入れ、オーブンの扉を開けた。スコーンの焼ける、甘い匂いがあふれた。
結は皿を洗いに行き、沖さんは三つの小さなカップを並べに行った。
九時十分。五分は、ちゃんと五分で終わった。
その日の閉店後、結が帰り支度をしていると、真壁さんが調理場から声をかけた。
「戸田さん、来週もまかない、やるん?」
「沖さんが、来週は真壁さんの番だって」
「……そうか」
真壁さんは、少し考えて、言った。
「来週、九時五分。三人分、やってみる。俺のは、たぶんおにぎり」
「おにぎりですか」
「片手で持てる」
「沖さんのは?」
「……それを、月曜までに考える」
真壁さんは、真面目な顔で言った。結は笑いそうになって、こらえた。
帰り際、結はレジの横の帳面をちらりと見た。火曜日の一行の、少し下に、沖さんの字があった。
〈金 まかない 二百十円 九時五分 三人〉
結は、その一行を指でなぞりたくなって、やめた。帳面は、店のものだった。
来週の金曜日は、自分が当番ではない。
でも、自分が座りたいなら、そのときは、皿を持って、カウンターの隅の丸椅子を一つ、自分で運んでくればいい。
結は、そう思いながら、店の扉の鍵を閉める沖さんを待った。


