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日常

開店前のまかない三人分

三人で同じ朝ごはんを食べたかった。三人とも、朝が違った。

読了目安
15分
長さ
短編
#ほっこり#朝ごはん#仕事仲間
開店前のまかない三人分のイメージ

あらすじ

小さな喫茶店で働きはじめて三週目の結は、一週間、朝のまかないを任される。理想は、三人で座って同じ一皿を食べること。ところが店主の沖さんは二口でフォークを置き、菓子担当の真壁さんは「あとで」とオーブンへ向かう。張り切った二日目には、思わぬ失敗まで。予算は一日六百円、作る時間は二十分。結は二人の朝を、もう一度よく見てみることにする。

第一章 七時四十五分の三皿

月曜日の朝七時四十分、戸田結はフライパンの上で、三枚目のフレンチトーストを裏返した。

じゅっ、と音がして、バターの匂いが調理場に広がった。焼き色はきれいな狐色だった。卵と牛乳をたっぷり吸わせた食パンが、ふくらんで、ゆっくりしぼんでいく。

(いい。これは、いい)

結は、皿を三枚並べた。白い、少し縁の欠けた、まかない用の皿。一枚に二切れずつ。粉砂糖を茶こしで振って、最後に、自分で持ってきた小さなミントの葉を一枚ずつのせた。

みずいろ珈琲店で働きはじめて、三週目だった。

先週の土曜日、店主の沖さんに言われた。

「来週一週間、朝のまかない、戸田さんにお願いしていい? 予算は三人で一日六百円。前の日の売れ残りのパンは使っていいよ。仕込み用の材料は使わんでね」

結は、はい、と言った。声が少し大きすぎて、自分で驚いた。

前の職場は、事務だった。昼は自分の席で、コンビニのおにぎりを一人で食べていた。誰かと一緒にごはんを食べる職場に、ずっと憧れていた。

七時四十五分。結は、調理場の奥の小さなテーブルに、三皿とフォークを並べた。

「朝ごはんです!」

最初に来たのは、沖さんだった。五十代の、背の高い人で、焙煎機の火を入れたばかりの手を、エプロンで拭きながら座った。

「わあ、きれいね。ありがとう」

沖さんは、フォークで一切れの角を小さく切って、口に入れた。

「おいしい」

それから、もう一口食べて、フォークを置いた。

「ごめんね。朝は、これくらいで」

結の笑顔が、一瞬、固まった。

「あ、いえ……多かったですか」

「ううん、戸田さんのが多いんじゃないの。わたしが朝、入らんだけ」

沖さんは、ごちそうさま、と手を合わせて、焙煎機のほうへ戻っていった。

結は、調理場のほうを見た。

菓子担当の真壁さんは、ステンレスの台の前で、ボウルに粉を量っていた。三十代半ばの、肩幅の広い人で、話すときに相手の顔より手元を見る。

「真壁さん、朝ごはん、できてます」

「あとで」

真壁さんは、顔を上げずに言った。冷蔵庫から出したバターを、粉の中で手早く刻んでいる。

「冷めちゃいますけど……」

「うん。あとで食べる。ありがとう」

ありがとう、とは言った。でも、手は止まらなかった。

結は、テーブルに一人で座った。

三皿のうち、一皿は二口ぶん欠けていて、一皿は手つかずで、一皿は自分の分だった。

自分の分を食べた。おいしかった。卵がよく染みて、バターが香って、粉砂糖が舌の上で溶けた。おいしかったけれど、一人で食べると、ちょっと甘すぎた。

沖さんの皿の残りも、食べた。もったいなかったからだ。

真壁さんがまかないを食べたのは、九時を少し過ぎてからだった。

結は、店のフロアでナプキンを折っていた。調理場の入口から、ちらりと見えた。

真壁さんは、オーブンの前に立っていた。オーブンの窓の中で、スコーンの一回目がふくらみはじめていた。タイマーを見ながら、空いた左手で、冷えたフレンチトーストをつまんで、立ったまま食べていた。

オーブンの前でタイマーを確認しながら、左手のフレンチトーストを食べる真壁と、入口から見ている結。

冷えたフレンチトーストは、たぶん、しっとりを通りこして、ぐったりしていた。

結は、ナプキンを折る手を止めた。

(あれは、わたしの思ってた朝ごはんじゃない)

その日の帰り道、結はスーパーで、生クリームの小さなパックを見て、少し考えた。
冷めても、ふわふわのままにする方法。
明日は、もっとうまくやる。

第二章 仕込みの札

火曜日の朝、結は七時四十分に声をかけた。

「今日は少なめです。冷めてもおいしいように、ふわふわにしました」

フレンチトーストは、一皿一切れずつにした。卵液に、冷蔵庫の生クリームを足した。焼き上がりは、昨日よりずっとふっくらしていた。

沖さんは、一切れを半分食べて、「やわらかいね」と言った。半分は残った。

真壁さんは、今日も「あとで」と言った。それから、生地をまとめる手を止めずに言った。

「戸田さん、それ、何入れた?」

「生クリームです。ふわっとするかなと思って」

真壁さんの手が、止まった。

真壁さんは、冷蔵庫の扉を開けた。中段に、計量カップに入った生クリームがあった。カップには、マスキングテープの札が貼ってあった。

〈仕込み スコーン 200ml〉

カップの中身は、半分になっていた。

結の顔から、血の気が引いた。

札は、昨日の夕方、真壁さんが自分で量って、貼って入れておいたものだった。結は、冷蔵庫を開けたとき、札を見ていなかった。見えていたかもしれないが、読んでいなかった。

「……すみません」

真壁さんは、何も言わずにカップを見ていた。それから、牛乳とバターを出して、計量を始めた。

「百足りない分、牛乳とバターで合わせる。ちょっと配合が変わるけど、まあ、いける」

「わたし、買ってきます。今から」

「今から行って戻ってきたら、生地が温まる。いい」

真壁さんの声は、怒鳴ってはいなかった。でも、いつもより低かった。

「仕込みの冷蔵庫の札のついたもんは、使わんで。それだけ頼む」

「はい」

結は、それ以上何も言えなかった。

その日、スコーンの一回目は、いつもより十分遅れてオーブンに入った。焼き上がりは、少しだけ表面が平らだった。開店には間に合った。客の誰も気づかなかった。真壁さんだけが、一つ割って、中を見て、何も言わずにもう一つ割った。

開店の少し前、真壁さんが、割ったスコーンの半分を結のほうへ差し出した。

「食べてみて」

結は受け取った。まだ温かかった。口に入れると、外はさくっとして、中はやわらかかった。おいしかった。

「……おいしいです」

「いつもより、層が一枚少ない」

真壁さんは、残りの半分を自分で食べながら言った。

「生クリームで、ここの、ほろっと崩れるとこを作っとる。牛乳とバターやと、ちょっと詰まる。お客さんには分からん。でも、俺には分かる」

怒っている声ではなかった。ただ、結が使った百ミリリットルが、どこに行くはずだったのかを、真壁さんは手のひらの上で見せていた。

結は、スコーンの断面を見た。言われてみれば、たしかに、層が一枚少なかった。

昼休み、結は沖さんに言った。

「生クリームの分、わたしが払います」

沖さんは、レジの横の小さな帳面を開いた。経費の帳面だった。

「払わんでいいよ。ここに書いとく」

沖さんは、ボールペンで一行書いた。

〈火 まかない 生クリーム百ml 仕込みから流用 以後、確認〉

「まかないの失敗も、店の失敗。わたしが戸田さんに任せたんやけん。次から、確認して」

それだけだった。叱るでも、なぐさめるでもなかった。結は、帳面の一行を、しばらく見ていた。

自分の失敗が、店の帳面に、店の言葉で残っていた。

その夜、結は家の台所で、ノートを開いた。

月曜、フレンチトースト三皿。沖さん二口。真壁さん九時過ぎ、立って。
火曜、フレンチトースト三皿(少なめ)。生クリーム。真壁さんの仕込み。

(わたし、二日間、二人に何を食べたいか、一回も聞いてない)

聞いていなかった。
自分が出したいものを、自分が食べてほしい時間に、出していた。

結は、ノートの次のページに、「水曜:作らない」と書いた。

第三章 手元を見る

水曜日の朝、結はまかないを作らなかった。

「今日は、ないんです。すみません。そのかわり、見てていいですか」

沖さんは、少し不思議そうな顔をして、「どうぞ」と言った。真壁さんは、顔を上げずに「うん」と言った。

結は、野菜を洗いながら、二人の手元を見た。

七時半。真壁さんは、エプロンを締めるより先に、冷蔵庫からバターを出した。粉を量り、バターを刻み、指先で粉とすり合わせる。窓から入る朝の光の中で、手の動きは迷いがなかった。

「真壁さん、なんで、来てすぐなんですか」

「バターが温まる前にやりたい。七時半の調理場がいちばん涼しい」

「座って食べたら?」

「座ったら、十五分、手が止まる。その十五分で、バターが柔らかくなる」

真壁さんは、それだけ言って、また手を動かした。

八時五十五分。真壁さんはスコーンの一回目を天板に並べ、オーブンに入れて、扉を閉めた。タイマーを十五分に合わせた。

そして、ふっと肩の力を抜いた。

左手で、作業台の隅に置いてあった前日のバゲットの端をつかみ、かじった。右手は、オーブンの扉の取っ手にかかっていた。窓の中のスコーンから、目を離さなかった。

(ここだ)

結は思った。

真壁さんが食べられる時間は、ある。九時前後の、この十五分だ。座ってではなく、片手で。

九時半。沖さんは、カウンターの端に、小さな白いカップを三つ並べた。

三種類の豆を、少しずつ挽いて、湯を注ぐ。スプーンで表面をすくって、音を立ててすする。口の中で転がして、吐き出す。メモを取る。三つとも。

それが終わると、沖さんは、湯を一杯だけ、ゆっくり飲んだ。

「沖さん、朝ごはん、いつ食べるんですか」

「十一時ごろかな。お客さんが落ち着いたら、トースト半分」

「朝は、本当に何も……」

「何も入れたくないんよ。口の中に何か残っとると、豆の味が分からんごとなる。それに、わたし、昔から朝は胃が起きるのが遅いと」

沖さんは、笑った。

「戸田さんのフレンチトースト、おいしかったよ。十一時やったら、二切れ食べた」

結は、少し考えて、聞いた。

「じゃあ、九時の前後で、何か一口だけなら、食べられるものってありますか。味見に邪魔にならないもの」

沖さんは、意外そうな顔をした。それから、カップを洗いながら、しばらく考えた。

「……温かいもの、かな。薄い汁物、ちょっとだけ。味見の二十分前までやったら、水で口を戻せる」

結は、カップを片づける沖さんに、もう一つ聞いた。

「あの、味見を、もう少し早くすることって、できますか。九時とかに。そしたら、みんなで——」

「できん」

沖さんは、はっきり言った。笑ってはいたが、迷いはなかった。

「九時半は、豆が落ち着く時間で決めとるの。朝焼いた豆は、ちょっと寝かせんと本当の味にならん。お客さんに出す前の、いちばん大事な十分やけん。ごめんね、そこは動かさん」

「……すみません」

「謝らんでいいよ。聞いてくれてよかった」

沖さんは、そう言って、焙煎機のほうへ戻っていった。

結は、自分の口から出かけた「みんなで」を、飲みこんだ。みんなで、のために、沖さんのいちばん大事な十分を動かそうとしていた。

その日の帰り際、結は真壁さんにも聞いた。

「真壁さん、朝、何が好きですか」

真壁さんは、少し考えた。

「卵。焼いたやつ。甘くないやつ」

「……フレンチトースト、甘かったですね」

「甘かった。うまかったけど」

真壁さんは、それだけ言って帰っていった。

木曜日。結は、聞いた答えで、作ってみた。

真壁さんには、片手で食べられるホットサンド。前日の食パンの端に、卵とハムとチーズとトマトを挟んで焼いた。

九時、オーブンの扉が閉まった瞬間に差し出した。

真壁さんは、少し目を丸くして、受け取った。かじった。

トマトの汁が、真壁さんの手首を伝って落ちた。チーズが糸を引いて、作業台に垂れた。真壁さんは、慌てて布巾でふいた。

「……うまい。けど、具が多い。片手で持つと、こぼれる」

沖さんには、玉ねぎとキャベツの芯で作ったスープを、湯のみに一杯。

沖さんは、一口飲んで、少し眉を寄せた。

「おいしい。でも、ちょっと塩が強いね。舌に残る。このあと味見があるけん」

どちらも、惜しかった。

結は、ノートに書いた。
真壁さん:具を減らす。こぼれないもの。卵とチーズだけ。
沖さん:塩を半分。三口で終わる量。

それから、もう一行書いた。

わたし:どこで食べる?

結は、まだ一度も、二人と一緒に食べていなかった。月曜は一人で、火曜も一人で、水曜は食べず、木曜は二人に渡したあと、フロアで一人で食べた。

七時四十五分に三人で座る。
それは、もう、ない。

でも、九時の前後に、真壁さんはオーブンの前にいて、沖さんは味見の前にいて、結自身は、その時間なら、ナプキンを折る手を止められる。

第四章 九時五分のカウンター

金曜日の朝、結は七時半に冷蔵庫を開けた。

最初に、中段の札を読んだ。

〈仕込み スコーン 200ml〉
〈仕込み バター 季節のジャム用〉

札のついたものに、手を触れなかった。
まかないの段にあるのは、前日の食パンの端と、卵のパックと、スライスチーズ。野菜室に、キャベツの芯と、使いかけの玉ねぎ半分。

八時半。サラダの野菜を洗い終えた結は、まかないに取りかかった。二十分。

食パンの端を二切れ、薄く揃える。卵を一個、薄く焼いて、半分に折る。チーズを一枚。パンで挟んで、フライパンで押しながら焼く。具は、それだけ。焼けたら、紙で包む。持つところだけ紙が残るように。

鍋では、玉ねぎ半分とキャベツの芯を、水からゆっくり煮ていた。塩は、昨日の半分。味見をして、少し足りないと思った。

(足りないくらいで、いい)

結は、塩の瓶を戻した。

最後に、自分の皿。食パンを一枚トーストして、目玉焼きを一つ。サラダの端の葉を、少し。

八時五十分。二十分で、終わった。結は火を止めて、ナプキンを折りに戻った。

八時五十五分。

オーブンの扉が閉まった。真壁さんが、タイマーを十五分に合わせた。

九時五分。

結は、鍋のスープを温め直して、湯のみに一杯、自分のマグカップに一杯よそった。それから、調理場のカウンターに、三つのものを並べた。

紙で包んだ、薄いホットサンド。
湯気の立つ、小さな湯のみ。
白い皿のトーストと目玉焼きと、マグカップのスープ。

形も、量も、ばらばらだった。

「九時五分です」と結は言った。「五分だけ、ここで、食べませんか」

真壁さんは、オーブンの窓を見たまま、ホットサンドを取った。左手で。

かじった。何もこぼれなかった。

「……うまい。これなら、持てる」

沖さんは、カウンターの端に来て、湯のみを両手で持った。焙煎機の熱で、頬が少し赤かった。

一口。二口。

「ちょうどいい」

沖さんは、三口で飲み終えて、湯のみを置いた。それから、水を一杯飲んで、口を戻した。

結は、皿を持ったまま、カウンターに立っていた。

座りたかった。本当は、テーブルに座って、三人で同じ皿を囲みたかった。それは、まだ少しだけ、思っていた。

でも、カウンターに立つと、真壁さんの左手と、沖さんの湯のみと、自分の皿が、同じ朝の光の中にあった。

トーストをかじった。目玉焼きの黄身が、少し垂れた。

「戸田さん、それ、こぼれとる」と真壁さんが言った。

「わたしのは、こぼれていいんです。座らないけど、皿なので」

真壁さんが、少しだけ笑った。真壁さんの笑った顔を、結は初めて見た。

調理場のカウンターに立つ三人。一人はサンドイッチ、一人は小さな湯のみ、一人は皿を持っている。

沖さんが、湯のみを流しに置きながら言った。

「今日のまかない、いくら?」

結は、ポケットからメモを出した。

「卵二個とチーズ一枚と玉ねぎ半分で、二百十円です。パンの端とキャベツの芯は、無料の分です」

「安いね」

「月曜のフレンチトーストは、四百八十円でした」

「あれは、あれで、おいしかったよ。十一時やったらね」

沖さんは、帳面を開いて、一行書いた。何を書いたのか、結には見えなかった。

「来週も、六百円と二十分は変わらんよ」

「はい」

「それと、スープ。玉ねぎ半分って、どこから出たと?」

結は、少しどきっとした。

「野菜室の、使いかけです。仕込みの札は、ついてませんでした。ちゃんと見ました」

沖さんは、ふっと笑った。

「うん。知っとる。見とったけん」

タイマーが鳴った。

真壁さんが、ホットサンドの最後の一口を口に入れて、紙を丸めてポケットに入れ、オーブンの扉を開けた。スコーンの焼ける、甘い匂いがあふれた。

結は皿を洗いに行き、沖さんは三つの小さなカップを並べに行った。

九時十分。五分は、ちゃんと五分で終わった。

その日の閉店後、結が帰り支度をしていると、真壁さんが調理場から声をかけた。

「戸田さん、来週もまかない、やるん?」

「沖さんが、来週は真壁さんの番だって」

「……そうか」

真壁さんは、少し考えて、言った。

「来週、九時五分。三人分、やってみる。俺のは、たぶんおにぎり」

「おにぎりですか」

「片手で持てる」

「沖さんのは?」

「……それを、月曜までに考える」

真壁さんは、真面目な顔で言った。結は笑いそうになって、こらえた。

帰り際、結はレジの横の帳面をちらりと見た。火曜日の一行の、少し下に、沖さんの字があった。

〈金 まかない 二百十円 九時五分 三人〉

結は、その一行を指でなぞりたくなって、やめた。帳面は、店のものだった。

来週の金曜日は、自分が当番ではない。
でも、自分が座りたいなら、そのときは、皿を持って、カウンターの隅の丸椅子を一つ、自分で運んでくればいい。

結は、そう思いながら、店の扉の鍵を閉める沖さんを待った。