第一章 帯のついた七巻
夜の十時四十分、野々宮千夏は、ベッドの端で『灯の王国』第七巻の帯に指をかけた。
外さなかった。帯は四年前、書店で買ったときのままだった。〈完結。すべての灯が、ひとつに還る〉。白い帯の金色の文字は、本棚の上で四年分、少しだけ色が褪せていた。
第六巻を読み終えたのは、下の子の蒼太が生まれる二か月前だった。最終巻の発売日に、大きなおなかで書店に行った。帰り道、早く読みたくて、信号待ちのたびに袋の中の重さを確かめた。それから四年。最終巻は、本棚のいちばん上で、ずっと帯をつけたまま待っていた。
その日の夕方、公民館の図書室の入口で、貼り紙を見た。
〈月に一度の小さな読書会 今月のテーマ:あなたの好きな一冊 紹介してください 再来週の土曜十時〜十一時 図書室にて 申込は司書まで〉
蒼太の借りた絵本を返しに来ただけだった。千夏は、貼り紙の前で三分立っていた。それから、カウンターの司書さんに言った。
「あの、読書会、申し込めますか」
言ってから、自分でも少し驚いた。
司書の片桐さんは、名簿に「野々宮」と書いて、「どんな本を紹介されますか」と聞いた。
「長いファンタジーの、最終巻です」
まだ一ページも読んでいない、とは言わなかった。二週間ある。昔の自分なら、一晩で読んだ。
夜の十時四十五分。千夏は帯をつけたまま、表紙を開いた。
見返しの地図。懐かしかった。六つの国と、真ん中の湖。第一巻を読んだのは、大学生のときだった。夜中の三時まで読んで、翌朝の一限に遅刻した。
目次。第一章「湖の朝」。
一ページ目。
〈その朝、湖は灯を失っていた。〉
いい書き出しだ、と思った。二行目を読んだ。三行目を読んだ。
次に気がついたとき、部屋の電気がついていて、横で夫の圭が、千夏の顔から本をそっと持ち上げていた。
「重いよ、これ。鼻に落ちてた」
時計は、十一時二十分だった。
本は三行目のところで開いたまま、圭の手の中にあった。
それから毎晩、挑戦した。
火曜日は、陽菜の宿題の音読を聞いて、蒼太に絵本を二冊読んで、洗濯物を畳んで、十時に本を開いた。三行目を読み返しているところで、蒼太が起きてきて、怖い夢を見たと言った。
水曜日は、三行目の先へ進もうとした。四行目で目が滑って、三行目に戻った。それを三回くり返して、四回目のときには、もう目が閉じていた。
木曜日の夕方、小学三年生の陽菜が、本棚の上を見上げて言った。
「お母さん、あの分厚いの、なに?」
「お母さんの本」
「どんな話?」
千夏は、洗濯物を畳む手を止めた。
「湖がある国の話。湖の底に、灯がいっぱい沈んでてね。その灯が全部ちがう人の、ちがう一日の明かりなの。王女さまが一個ずつ拾って、だれの明かりか当てていくの。六巻までで、四十七個当てたの。お母さん、全部覚えてる。三十一個目の、パン屋さんの灯がいちばん好きでね、それがね——」
気がつくと、陽菜がにやにやしていた。
「お母さん、しゃべるの速い」
「……ごめん」
「で、最後どうなるの?」
「知らないの。まだ読んでないの」
陽菜は、信じられないという顔をした。
千夏も、自分で言って、少しびっくりした。こんなに好きなのに、最後を知らない。
木曜日の夜は、本を開く前に寝た。
金曜日は、本を開いて、第六巻の終わりがどうだったか思い出せないことに気づいた。湖の王女は、最後にどちらの国を選んだんだっけ。思い出せないまま、続きを読むのが怖くなった。
土曜日の朝、千夏は、最終巻を鞄に入れて、図書室へ向かった。
読書会を、断りに行くためだった。
第二章 返却口の二人
図書室は、公民館の二階にある。窓が大きくて、土曜の朝はいつも、新聞を読む年配の人と、宿題をする中学生と、絵本の棚の前の親子がいる。
カウンターには、片桐さんがいなかった。返却口の前で、若い女の人が、一冊の本を返そうか迷うように持っていた。
薄い、青い表紙の本だった。『雨の日の詩集』。
女の人は、千夏に気づいて、一歩よけた。
「あ、すみません。どうぞ」
「いえ、わたし、返しに来たんじゃなくて」
二人とも、本を持ったまま、返却口の前に立っていた。
女の人は、千夏の持っている厚い本を見て、目を丸くした。
「それ、読むんですか。すごい」
「……読めてないんです。だから、読書会、断ろうと思って」
言ってしまった。
女の人の顔が、ぱっと明るくなった。
「読書会! わたしも申し込んでるんです。柚木です。来週の」
柚木さんは、二十代の半ばくらいに見えた。歯医者さんで働いていると言った。通勤の電車で、五分だけ本を読む。
「わたし、この詩集、二週間借りて、三編しか読んでないんです。好きな三編だけ、何回も読んでて。残り、読んでなくて。そんなの紹介していいのかなって」
千夏は、思わず笑った。
「わたし、三行です」
「三行?」
「最終巻の。四年前に買って、毎晩開いて、三行目で寝て」
柚木さんも、笑った。
「わたし、一冊を最後まで読んだこと、あんまりないです。本好きって言えるのかなって、いつも思う」
千夏は、少しだけ肩の力が抜けるのを感じた。
(読み終えてきた人だけの会だと、思ってたの、わたしだけかも)
そのとき、窓際の席から、低い声がした。
「紹介するなら、読んでからにしたほうがいい」
二人は振り向いた。
窓際の、いちばん日当たりのいい席に、白髪の男の人が座っていた。七十を過ぎたくらいで、分厚い単行本を開いていた。机の上に、ほかに二冊、図書室の本が積んであった。
「すみません、聞こえてしまって。増田です。わたしも来週の会に出ます」
増田さんは、本を閉じて、栞を挟んだ。

「昔、別の読書会に出ていたことがありましてね。読んでいない人が、帯の言葉とあらすじだけで感想を言う。それを聞いていると、本に失礼な気がしてね。あの会は、わたしがやめました」
千夏の手の中で、最終巻の帯が、急に重くなった。
〈完結。すべての灯が、ひとつに還る〉
「……そうですよね」
千夏は言った。
「だから、断りに来たんです」
増田さんは、少し困ったような顔をした。
「いや、あなたを責めたわけじゃない。ただ、わたしはそう思う、という話です」
柚木さんが、詩集を胸に抱えたまま、黙っていた。
カウンターの奥から、片桐さんが戻ってきた。三人の顔を見て、少しだけ首をかしげた。
「野々宮さん、どうされました?」
千夏は、口を開いた。断ります、と言うつもりだった。
でも、口から出たのは、別の言葉だった。
「……少し、考えてから、また来ます」
第三章 貼り紙を書き直す
その夜、子どもたちが寝たあと、千夏は台所のテーブルで、最終巻を前に座った。開かなかった。
圭が、麦茶を二つ持ってきて、向かいに座った。
「読書会、断った?」
「断れなかった」
千夏は、図書室でのことを話した。三編だけ読む柚木さん。読んでからにしたほうがいいと言う増田さん。
「増田さんの言うことも、分かるんだよね。読んでないのに、読んだみたいに話されたら、わたしも嫌だもん。湖の王女のこと、帯の言葉だけで分かったみたいに言われたら」
「じゃあ、読んでないって言えばいいんじゃない」
「言って、何を紹介するの」
「読みたい理由とか」
圭は、麦茶を飲みながら、何気なく言った。
千夏は、少し黙った。
(読みたい理由)
四年前、大きなおなかで書店から帰った道。信号待ちのたびに確かめた重さ。第六巻の最後で、王女が湖に灯を沈めた場面。そこまでは覚えている。その先を、自分の目で見たい。誰かに教えられるのではなく。
「……読み終えてない本の話をする会って、変かな」
「変かどうかは、その会の人に聞いたら」
圭は、それ以上は言わなかった。代わりに、カレンダーを見て言った。
「それと、読む時間な。夜は無理やろ。三行で寝るんやから」
「三行は言わないで」
「土曜の朝、九時から十時。俺が二人を公園に連れて行く。その一時間、家じゃなくて、どっかで読んだら。行き帰り入れても、三十分は読めるやろ。家にいると、洗濯機が呼ぶやろ」
千夏は、圭の顔を見た。
「三十分だけ?」
「行き帰り入れて、一時間。それ以上は、俺の土曜がなくなる」
圭は、正直だった。千夏は、それがいいと思った。
月曜日の昼休み、千夏はパートの事務所で、メモ帳に書いた。
〈今月の会、もう一つの形の提案〉
〈読み終えていない本を持ってくる〉
〈どこまで読んだか、正直に言う〉
〈なぜ読みたいのか、話す〉
火曜日の夕方、子どもたちを迎えに行く前に、図書室へ寄った。片桐さんにメモを見せた。
片桐さんは、メモを読んで、しばらく考えていた。
「面白いと思います。ただ、今月の会は、参加者の方に『好きな一冊』で案内しています。形を変えるなら、参加者の方に聞かないと」
片桐さんは、名簿を開いた。今月の参加者は、千夏を入れて四人だった。千夏、増田さん、柚木さん、それから、図書室によく来る中学生の湊くん。
「増田さんは、今日も来ていますよ。窓際に」
千夏は、窓際を見た。
増田さんは、今日も、日当たりのいい席で本を読んでいた。
「読み終えていない本の、会」
増田さんは、千夏のメモを、老眼鏡を額に上げて、もう一度読んだ。
「わたしは、反対です」
千夏は、うなずいた。
「そうだと思いました」
「でも、条件次第では、出てもいい」
千夏は、顔を上げた。
増田さんは、指を一本立てた。
「一つ。読んだふりは無し。どこまで読んだか、ページで正直に言う。三行なら三行」
千夏は、少し顔が熱くなった。先週の返却口での話は、窓際の席まで、ちゃんと聞こえていたらしかった。
「二つ。結末を知っている人がいても、言わない。知らない人の楽しみを、取らない」
それから、少し間を置いて、増田さんは言った。
「三つ目は、わたしの事情です。わたしも、一冊持っていきます」
「増田さんも?」
「三十年前に、途中でやめた本があるんですよ。長い本でね。第二部の途中に、まだ栞が挟まったまま、家の本棚にある」
増田さんは、少し笑った。
「毎日、図書室で人の本ばかり読んで、自分の本棚の一冊から、三十年逃げてる。読んでからにしたほうがいい、なんて言えた立場じゃないですな」
次の日、片桐さんから電話があった。
「柚木さんから伝言です。『わたしの三編だけでいいなら、出します。三編しか読んでないって、最初に言います』とのことです。湊くんは、『全部読んでない本でいいなら、むしろ出たい』と」
千夏は、電話を持ったまま、少し笑った。全員が、自分の都合と言い分を持って、それぞれの理由で出ると言っていた。千夏のためではなかった。それが、うれしかった。
片桐さんが、貼り紙を新しく作った。
千夏は、題を書く欄の前で、ペンを止めた。
「なんて書きましょう」
片桐さんは、千夏にペンを渡した。
「野々宮さんの会なので」
千夏は、少し考えて、書いた。
〈読まない読書会〉
その下に、小さく書き足した。
〈今月は、読み終えていない本の話。会のあいだは読みません。話します。どこまで読んだか正直に。結末は言わない〉
増田さんが、横から貼り紙をのぞきこんで、言った。
「『読まない』は、ちょっと誤解されますな」
「……ですよね」
「でも、まあ、来た人には分かるでしょう」
増田さんは、それで納得したらしかった。
第四章 九ページ
土曜日の十時。図書室の奥の小さな部屋に、椅子が五つ、丸く並んだ。
千夏は、最終巻を膝に置いていた。帯は、まだつけたままだった。
柚木さんは、『雨の日の詩集』。返却期限は今日だと言った。
湊くんは、中学二年生で、分厚い図鑑のような科学読み物を抱えていた。
「全部読むと、たぶん三年かかります。今、恐竜のとこです」
増田さんは、日に焼けた古い単行本を持っていた。『砂の都の年代記』。背表紙が少し割れていた。真ん中より少し後ろに、色の褪せた栞が挟まっていた。
片桐さんが言った。
「では、どこまで読んだか、からお願いします」
湊くんは、二百十二ページ。恐竜の骨の数え方が面白い、と三分話した。
柚木さんは、詩集の三編の題を読み上げた。三編だけ、何回も読んだこと。残りは、読むのがもったいなくて、とっておいてあること。
「もったいない?」と増田さんが聞いた。
「好きな三編が、ほかの詩に薄まる気がして。全部読んだら、三編がただの三編になっちゃうかなって」
増田さんは、しばらく黙っていた。それから、言った。
「……わたしは、全部読まないと気が済まない。でも、その読み方は、知らなかった」
柚木さんは、照れたように笑った。
増田さんは、栞の挟まったページを開いた。
「第二部、三百四十一ページ。三十年前に、ここでやめました。主人公の弟が、都を出ていく場面です。その頃わたしは仕事で忙しくて、弟が出ていくのが、なんだか自分のことを言われているようで、腹が立ってね。閉じたまま、三十年」
「続き、読むんですか」と湊くんが聞いた。
「読みます。たぶん。今日、ここで言ったので」
最後が、千夏だった。
千夏は、最終巻を両手で持った。
「三行です」
湊くんが、目を丸くした。柚木さんが、口元を押さえた。増田さんは、黙ってうなずいた。
「四年前に買って、毎晩開いて、三行目で寝ます。この本の一巻目を読んだのは、大学生のときで、夜中の三時まで読んで、一限に遅刻しました。六巻目を読み終えたのは、下の子が生まれる前で、湖の王女が、灯を湖に沈めたところで終わってます。そこまでは、覚えてます」
千夏は、帯を見た。
「その先を、自分で読みたいんです。誰かのためじゃなくて。子どもの絵本は毎晩読むけど、それは子どもの本で、これは、わたしの本なので」
言ってから、少し恥ずかしくなった。
増田さんが、腕を組んだまま、言った。
「三行で、なぜ、その本がそんなに好きだと分かるんです」
責める声ではなかった。本当に知りたい、という聞き方だった。
千夏は、少し考えた。
「三行で分かったんじゃなくて、六冊分で分かってるんです。四十七個の灯の話、全部覚えてます。三十一個目のパン屋さんの灯が好きで……でも、正直に言うと、六巻の最後が、ちょっと曖昧です。王女が灯を沈めたのは覚えてるけど、そのとき誰の名前を呼んだのか、思い出せなくて。それで、続きを読むのが怖くなったのもあります」
増田さんは、しばらく黙っていた。
「それも、正直でいいですな」
それから、少しだけ口の端を上げた。
「わたしも、三十年前の第一部の終わりなんて、半分しか覚えていない。読み直すか、そのまま進むか、迷っているところです」
増田さんが、言った。
「結末は、わたしは知りません。読んでいないので」
「よかった」と千夏は言った。本当に、ほっとした。
湊くんが、手を挙げた。
「僕、知ってます。兄ちゃんが読んでたから」
全員が、湊くんを見た。
湊くんは、慌てて手を下ろした。
「言いません! 言いません、絶対」
みんなが笑った。千夏も、声を出して笑った。
会が終わったのは、十一時だった。
誰も、自分の本を一ページも読まなかった。話しただけだった。それでも、帰り際、柚木さんは詩集をもう一度借り直していた。増田さんは、栞のページを開いたまま、窓際の席へ移っていった。
千夏は、帰り道、帯をつけた最終巻の重さを、信号待ちのたびに確かめた。
四年前と同じだ、と思った。
翌週の土曜日、朝九時。
圭が、陽菜と蒼太を連れて、公園へ出かけていった。蒼太はボールを抱えて、陽菜は縄跳びを持っていた。
「十時な」と圭が言った。
「十時」
千夏は、最終巻を鞄に入れて、図書室へ向かった。
窓際の席には、増田さんがいた。『砂の都の年代記』を開いていた。千夏に気づくと、小さく会釈をして、また本に目を戻した。
千夏は、隣の隣の席に座った。
九時十二分だった。家から図書室まで、歩いて十分。公園までは、図書室から五分。
スマートフォンのタイマーを、三十分に合わせた。
それから、帯を外した。
四年間ついていた帯は、外すと、ほんの少しだけ、本の形の癖がついていた。千夏はそれを、栞の代わりに、表紙の裏に挟んだ。
一ページ目を開いた。
〈その朝、湖は灯を失っていた。〉
二行目。三行目。
四行目。
(四行目だ)
千夏は、誰にも聞こえないくらい小さく、息を吐いた。
ページをめくった。湖の朝の匂い。王女の濡れた髪。知らない国の言葉で呼ばれる、新しい名前。
窓から、土曜の朝の光が入っていた。隣の隣の席で、増田さんが、ページをめくる音がした。
タイマーが鳴ったとき、千夏は九ページ目の最後の行を読んでいた。

最後まで読んでから、本を閉じた。帯の栞を、九ページと十ページのあいだに挟んだ。
九ページ。
この調子だと、最終巻を読み終えるのは、たぶん、来年の春になる。
千夏は、鞄に本をしまって、公園へ向かった。蒼太が、ボールを持って走ってくるのが見えた。
ベンチの横で、圭が縄跳びの数を数えていた。陽菜が三十二回目で引っかかった。
「何ページ?」と圭が聞いた。
「九」
「三行から九ページ。多いやん」
「多いでしょう」
千夏は、胸を張った。陽菜が、「最後どうなった?」と聞いた。
「まだ。湖の朝。王女さまの髪が、まだ濡れてる」
「遅っ」
陽菜は笑って、また縄跳びを回しはじめた。
来週の土曜日、九時。
十ページ目から。


