第一章 冷蔵庫の三つ
半年ぶりに実家の玄関を開けると、煮物の匂いがした。
醤油と砂糖と、少し焦げかけた里芋の匂い。宮坂葵は、靴を脱ぎながら、台所のほうへ声をかけた。
「ただいま」
「おう。手、洗え」
父の誠一は、コンロの前から振り向かずに言った。六十九歳。母が亡くなって三年、父は台所に立つ人になった。最初の年は、電話のたびに「肉じゃがの砂糖は何杯や」と聞いてきた。二年目には聞かなくなった。三年目の今、父は鍋のふたを少しずらして、菜箸で里芋を一つ刺し、火を弱めた。迷いのない手つきだった。
「焦げかけてない?」
「焦げかけとるのがうまいんや」
葵は笑って、手を洗った。
台所は、半年前より片づいていた。調味料の瓶に、白いテープが貼ってあった。「砂糖」「塩」「みりん」。父の字だった。印刷所で四十年、活字を拾っていた人の字は、手書きでも、まっすぐで、四角かった。冷蔵庫の横には、厚紙を切ったカードが何枚も、洗濯ばさみで吊るしてあった。〈肉じゃが 砂糖大二〉〈ぶり大根 しょうが多め〉〈里芋 焦げる手前〉。
夕飯は、里芋と鶏の煮物、ほうれん草のおひたし、味噌汁、それから白いごはん。父の味噌汁は、母のより少しだけ濃かった。葵は何も言わずに、おかわりをした。
「デザートあるぞ」
父が冷蔵庫を開けた。
中段に、白い湯のみが三つ並んでいた。ラップがかかっている。湯のみの中に、薄い黄色のプリン。
「プリン? お父さんが作ったの?」
「金曜に四つ作った。一つ食べた」
父は湯のみを二つ出して、一つを葵の前に置いた。
自分の分は、湯のみを皿の上で逆さにした。とん、と底を叩くと、プリンが湯のみの形のまま、すとんと皿に落ちた。カラメルが、プリンの頭から、ゆっくり流れた。崩れなかった。少しも。
葵は、自分の湯のみに、スプーンを入れた。
固かった。
スプーンが、ぷつ、と音を立てて入った。すくうと、四角い角が立った。口に入れると、卵の味が濃くて、舌の上でほどけるのに少し時間がかかった。カラメルは苦かった。苦くて、ほとんど甘くなかった。
「……固いね」
言ってから、少ししまったと思った。
父は、自分のプリンを大きくすくって、口に入れた。
「これがうまいんや」
それだけ言って、黙って食べた。
葵の鞄の中には、小さな手帳が入っている。
表紙に、自分で「プリン帳」と書いた。大阪の喫茶店のプリンを、休みの日に一軒ずつ食べて、記録している。店の名前、値段、器、固さ、カラメルの色。四十七軒。いちばん上に丸をつけているのは、とろとろの、スプーンですくうと揺れるのだった。
母のプリンが、そうだった。
小さいころ、日曜日の午後になると、台所から甘い匂いがした。冷蔵庫で冷えたプリンを、小さなスプーンですくうと、ふるん、と揺れた。口に入れると、すぐに溶けた。葵のとろとろ好きは、たぶん、あそこから始まっている。
その夜、葵は自分の部屋の布団で、手帳を開いた。四十八番目のページは、まだ白かった。
(お父さん、お母さんのプリン、作ろうとしてるんだ)
そう思った。
湯のみのプリンは、固くて、苦くて、母のとは全然違った。父は、母の味を思い出しながら、一人で作って、うまくいっていないのだ。
(教えてあげなきゃ)
葵は、四十七軒分の記録をめくった。卵の量、生クリームの割合、蒸すときの温度。とろとろにする方法なら、知っている。
第二章 卵を一個へらす
日曜日の朝、台所に行くと、父がコーヒーを飲んでいた。
皿の上に、最後の湯のみのプリンが、逆さに出されていた。半分、もう食べてあった。
「朝からプリン?」
「日曜はプリンや。今日も作る」
「じゃあ、わたしも手伝う」
葵は、椅子に座って、手帳を開いた。
「お父さん、昨日のプリンね。卵、何個入れた?」
「四つで、卵三個と、黄身一個」
「それ、多いと思う。一個減らして、牛乳を少し生クリームに替えて、火をもっと弱くすると、とろとろになるよ。お母さんのみたいに」
父は、コーヒーのカップを置いた。
「ならんでいい」
「え?」
「とろとろにせんでいい」
「でも、お母さんのは、とろとろだったでしょう。ふるんってなる。スプーンで揺れる」
父は、葵の顔を見た。何か言いかけて、やめた。
「俺のは、俺のでいい」
「お父さんのは、固すぎるんだって。卵の味ばっかりで、口の中でほどけないの。カラメルも苦すぎる。わたし、四十七軒食べてるから分かるけど——」
「四十七軒も食べとるんか」
「食べてる」
「暇やな」
葵は、むっとした。
「暇じゃないよ。楽しいからやってるの」
「俺も、楽しいからやっとる」
父は、そう言って立ち上がり、カップを流しで洗いはじめた。背中が、話は終わりだと言っていた。
葵は、手帳を閉じた。
(頑固)
母が生きていたころから、父はこうだった。テレビのチャンネル。風呂の湯の温度。車の道順。母は笑って、「はいはい」と言っていた。葵は、母みたいに笑えなかった。
十一時過ぎ、玄関のチャイムが鳴った。
父の囲碁仲間の今村さんだった。父と同じくらいの年で、手に紙袋を提げていた。
「誠一さん、これ、この前の湯のみ返しに来た。プリン、うまかった」
紙袋の中に、洗った白い湯のみが一つ入っていた。
「固いやつ、最高やな。うちのかみさんのは、とろとろで、どうも頼りない」
今村さんは、葵を見て、「あ、娘さん。どうも」と頭を下げた。
葵は、頭を下げ返しながら、少し混乱していた。
(固いのが、最高?)
父は、湯のみを受け取って、何でもない顔で言った。
「また作ったら持っていく」
「頼むわ。固いの、二つな」
今村さんが帰ったあと、葵は自分の部屋に戻った。手帳を開いた。四十七軒の中に、固いプリンの店も、いくつかあった。葵は、その店に、全部、丸をつけていなかった。
第三章 湯のみと小瓶
午後一時。二人で台所に立った。
結局、葵は「わたしは、わたしのを作る」と言い、父は「勝手にせい」と言った。それで、作るものが二つになった。
父は、冷蔵庫から卵のパックを出した。十個入りが、まるごと残っていた。
「俺のは三個と黄身一個。お前のは?」
「二個と、黄身一個」
二人で、七個使う。黄身だけ使う卵の白身は、父が「明日の卵焼きにする」と小さな器に取っておいた。父は、パックを葵のほうへ押した。
カラメルを先に作ることになった。父が小鍋に砂糖と水を入れて、火にかけた。葵は、器を探しに戸棚を開けた。
父の湯のみは、水切りかごに並んでいた。白い、厚手の、縁が少し欠けた湯のみ。金曜の四つと、今村さんから戻ってきた一つで、五つ。
葵のプリンは、湯のみじゃないほうがいい。もっと小さい、薄い器がいい。
戸棚の奥に、四角い菓子の缶があった。ふたを開けた。
新聞紙にくるまれて、小さなガラスの瓶が三つ、入っていた。
葵の手が、止まった。
ジャムの空き瓶くらいの大きさで、口が少し広い。ガラスは、ところどころ細かい傷で曇っていた。一つの瓶の底に、子どもの字で、油性ペンの「あおい」。
「……これ」
「ああ、それか」
父が、カラメルの鍋を揺すりながら、振り向いた。
「母さんが、お前らのプリン作るとき使いよった瓶や」
「わたしたちの?」
「お前と、兄ちゃんと、予備で一個。三つ」
父は、鍋の火を止めた。カラメルは、焦げ茶色の、苦そうな色になっていた。
「母さんは、二種類作りよったんや。お前らには瓶で、卵少なめで、生クリーム入れて、弱い火で、とろとろの。俺には、湯のみで、卵多めで、固いのを。カラメルも、俺のは焦がして、お前らのは焦がさんで」
葵は、瓶を持ったまま、立っていた。
「……知らなかった」
「お前、自分の瓶しか見とらんかったやろ。日曜の午後は、いつも瓶の前に座って待っとった」
父は、少し笑った。
「母さんは、俺のは固すぎるって、いつも文句言いながら作りよった。最初の年はな、俺が、とろとろの瓶のほうを再現しようとしたんや。お前が帰ってきたら出そうと思って」
「……そうなの?」
「全然できん。す、が立つか、固まらんか、どっちかや。三か月やって、やめた」
父は、湯のみを並べた。
「それで、俺のを作ることにした。俺の好きなやつを。母さんのとは違う。母さんの固いのより、俺のはもっと固い。カラメルも、もっと苦い。俺の好きなようにしとる」
葵は、瓶の底の「あおい」を、指でなぞった。
母のプリンの味は、一つだと思っていた。とろとろの、ふるんと揺れる、瓶のプリン。でも、同じ日曜日の同じ台所で、母はもう一つ、父のために固いのを作っていた。葵は、それを一度も食べたことがなかった。たぶん、見てもいなかった。
(お父さんは、失敗してたんじゃなかった)
自分の好きなものを、作っていた。
「瓶、使っていい?」
「使え。そのためにとってある」
葵は、三つの瓶を洗った。
二人で、それぞれの卵液を作った。父は、卵を三個と黄身一個、牛乳、砂糖。泡立て器を使わず、菜箸で、白身を切るように混ぜた。葵は、卵二個と黄身一個、牛乳と生クリーム、砂糖を少なめ。茶こしで、二回こした。
父の焦がしたカラメルを、湯のみの底に。
「わたしの瓶のカラメルは、焦がさないのにして」
「面倒くさいな」
そう言いながら、父はもう一つ小鍋を出した。今度は、少し早めに火を止めた。明るい琥珀色だった。
蒸し器に、湯のみ三つと瓶三つを並べた。

「火は?」と葵が聞いた。
「俺のは強め。お前のは弱め。一緒には無理や」
「じゃあ、どうするの」
父は、少し考えた。
「最初、強めで五分。お前の瓶だけ先に出して、俺のは残して、もう少し強めで」
「瓶、五分で出したら固まらないよ。弱火で十五分」
「……じゃあ、最初は弱火で十五分。お前のを出して、俺のは強めにして、追加で五分」
「それ、お父さんのは、最初が弱すぎるんじゃない」
「やってみな分からん」
父は、引き出しから古いキッチンタイマーを出した。白いプラスチックの、ねじを回す型だった。母が使っていたものだった。
「十五分」
じりじりじり、とねじを回す音がした。
「それ、まだ動くんだ」
「鳴る。うるさいくらい鳴る」
二人は、蒸し器の前に並んで立った。
タイマーが、じりりりり、と台所じゅうに鳴った。本当に、うるさかった。
葵は瓶を三つ取り出した。軽く揺らすと、表面がふるんと揺れた。
父は、火を強めた。
五分後、湯のみを出した。
一つの表面に、細かい穴が、ぽつぽつと開いていた。す、が立っていた。
「……強すぎたな」
父は、穴の開いた湯のみを、しばらく見ていた。
「それ、わたしの言った通りじゃない?」
「うるさい」
父は、穴の開いた湯のみを、自分の前に置いた。
第四章 冷やす時間
粗熱をとって、冷蔵庫に入れたのは、二時少し前だった。
冷やすのに、二時間半。
葵の帰りの電車は、十八時十分だった。家を出るのは、十七時五十分。
待つあいだ、父は居間で、囲碁の本を広げた。葵は、居間のこたつの向かいで、手帳を開いた。
しばらくして、父が、本の下から、薄い大学ノートを一冊出した。
「お前のその手帳、見せてみ」
葵は、少し迷ってから、プリン帳を渡した。父は老眼鏡をかけて、ぱらぱらとめくった。
「……よう書いとるな」
それから、自分のノートを、葵のほうへ滑らせた。

表紙には、何も書いていなかった。開くと、日付と、数字と、短い言葉が、四角い字でびっしり並んでいた。
〈三年前 五月 瓶 卵二 黄身一 弱火十五分 固まらん〉
〈同 六月 瓶 卵二 黄身一 弱火二十分 す〉
〈同 八月 瓶 やめる〉
〈同 九月 湯のみ 卵三 黄身一 強火十分 固い うまい〉
〈同 十月 湯のみ カラメル焦がしすぎ 苦い うまい〉
〈二年前 一月 湯のみ 今村○〉
〈同 三月 湯のみ 強火十二分 す 今村△〉
三年分あった。日曜ごとに、一行ずつ。
「……お父さんも、記録してたんだ」
「記録せな、同じ失敗をする」
父は、当たり前のように言った。
葵は、ページをめくった。〈す〉という字が、ところどころにあった。〈固すぎ〉もあった。〈今村×〉もあった。でも、いちばん多いのは、〈うまい〉だった。父の字で、自分の作ったものに、うまいと書いてあった。
「今日のは、何て書くの」
父は、少し考えた。
「強火五分、す。……あとは、食べてからや」
四十七軒の中で、丸をつけなかった固いプリンの店のページを、もう一度読み直した。
〈固い。卵が強い。カラメル苦い。わたしの好みではない〉
同じ言葉を、四回書いていた。
葵は、その横に、小さく書き足した。
〈→今村さんは、最高と言いそう〉
それから、少し考えて、四十八番目のページを開いた。何も書かずに、閉じた。
四時半。冷蔵庫を開けた。
湯のみ三つと、瓶三つ。
父は、穴の開いた湯のみを取った。葵は、「あおい」と書いてある瓶を取った。
台所のテーブルに、向かい合って座った。
父は、湯のみを皿の上で逆さにした。とん、と底を叩いた。す、の立ったプリンが、少しだけ形を崩しながら、皿に落ちた。苦いカラメルが流れた。
葵は、瓶にスプーンを入れた。
ふるん、と揺れた。すくうと、明るい琥珀色のカラメルが、とろりとついてきた。口に入れると、すぐに溶けた。
(これだ)
母の瓶の味に、近かった。同じではないと思う。でも、近かった。
父も、自分のを食べていた。穴の開いたところを、スプーンですくって、少し顔をしかめた。
「……ざらっとする」
「す、が立ってるからね」
「分かっとる」
葵は、自分の瓶を、父のほうへ少し押した。
「一口、食べる?」
父は、少し迷ってから、スプーンを伸ばした。一口すくって、口に入れた。
しばらく、何も言わなかった。
「……甘い」
「甘いよ」
「頼りない」
「今村さんの奥さんのと、同じこと言ってる」
父は、ふっと笑った。それから、自分の皿を、葵のほうへ押した。
「お前も、食べ」
葵は、す、の立っていないほうの端を、スプーンですくった。
固かった。ぷつ、と音がした。卵が濃くて、カラメルが苦くて、ほとんど甘くなかった。
昨日と同じ味だった。
でも、昨日とは違って、葵はそれを、母のプリンの失敗作だとは思わなかった。父のプリンだった。父が、自分の好きなように作った、固くて苦いプリン。
「……固い」
「固いやろ」
「でも、カラメルは、これはこれで、おいしい。コーヒーと合いそう」
「合う。朝に食べる」
「知ってる。今朝見た」
二人は、それぞれのプリンを、最後まで食べた。
父は、居間からノートを持ってきて、今日の日付の下に書いた。
〈湯のみ 弱火十五分+強火五分 す ざらっとする〉
少し考えて、その下に一行足した。
〈瓶 卵二 黄身一 生クリーム 弱火十五分 甘い 頼りない 葵○〉
葵は、その「○」を見て、何も言わなかった。言うと、父が消しそうな気がした。
五時半。葵は、帰り支度をした。
父が、台所で、何か包んでいた。
保冷剤を二つ。それから、瓶を一つと、湯のみを一つ。ラップをかけて、輪ゴムで留めて、小さな保冷バッグに入れた。
「持って帰れ。電車で二時間半なら、もつ」
「湯のみも?」
「湯のみも。俺の固いのも、持って帰れ」
葵は、保冷バッグを受け取った。重かった。
冷蔵庫の中には、湯のみが一つと、瓶が一つ、残っていた。
「お父さん、その瓶、食べる?」
「食べる。甘いのも、たまにはええ」
それから、父は、少し間を置いて言った。
「正月、帰るんか」
「帰る」
「ほんなら、正月は、俺がお前の瓶のを作る。卵二個と黄身一個、生クリーム入れて、弱火で十五分やな」
「覚えてるじゃん」
「さっき見とった」
父は、そっぽを向いた。
「お前は、俺の湯のみのを作れ。卵三個と黄身一個。強火で——」
「強火は、す、が立つよ」
「……そこは、正月までに考えとく」
葵は笑った。父も、少しだけ笑った。
「カラメルは?」と葵が聞いた。
「俺のは、苦いまま。それは変えん」
帰りの電車で、葵は手帳を開いた。
四十八番目のページに、書いた。
〈父のプリン。湯のみ。固い。卵が強い。カラメルは苦い。今村さんいわく、最高。わたしの好みでは、ない。でも、朝のコーヒーには、たぶん合う〉
少し考えて、その下に、もう一行足した。
〈次は正月。わたしが、湯のみのほうを作る〉
膝の上の保冷バッグの中で、湯のみと瓶が、こつん、と小さくぶつかった。


