第一章 位置札は東
正午の鐘が鳴ると、ソラナギ配達局のカウンターの上に、木の冷箱が一つ置かれた。
「宛名、渡り市のドウマ。中身は雨瓶。受取の希望は十四時。遅くとも日没までに、本人の手で封を開けてもらうこと」
局長は、配達票をハルの前に滑らせた。
「お前の初めての一人配達や。ハル」
ハルは、配達票を両手で受け取った。指先が、少し震えていた。見習いになって二年。先輩の後ろについて、荷を運んで、受取の印をもらって、局へ戻る。それを何百回も見てきた。今日は、後ろに誰もいない。
冷箱のふたの小窓から、中が見えた。
手のひらに載るほどのガラス瓶。その中に、灰色の小さな雲が一つ、ふわふわと浮かんでいた。ときどき、雲の底から、細い糸のような雨が一筋落ちて、また雲に戻る。
「雨雲、生きてる」
「生きとる。揺らすな。冷やしとけ。日に当てるな。開けるな」
局長は、指を一本ずつ折った。
「日没を過ぎたら、雨雲は瓶の中で降りきる。そうなったら、ただの水の入った瓶や。ドウマさんの雲苺の苗は、地上の水では根が腐る。雲の雨でないと育たん。今日の夕方の雨がないと枯れる」
ハルは、うなずいた。
「それと、封は宛名の本人の手でしか開かん。誰かに預けて置いてきても、意味がない。本人に会え」
「はい」
ハルは、局の壁の掲示板を見た。
朝、局が出す「市の位置札」が掛かっていた。〈渡り市 本日 東の筏溜まり〉。
ソラナギは、雲の海に浮かぶ港だった。波止場は太い綱で編まれていて、その先に雲の海が広がっている。雲の上を歩くには「雲靴」が要る。ハルは、局の靴棚から自分の雲靴を出して、履き紐を締めた。
雲靴は、四時間ほどで湿って重くなる。走ったり、重い荷を抱えて踏ん張ったりすると、もっと早い。湿りきったまま歩くと、足が雲に沈む。今は正午。何もなければ十六時ごろまではもつ。でも、たぶんその前に、どこかの乾かし台で乾かすことになる。
「行ってきます」
「ハル」
局長が、もう一度呼んだ。
「位置札は、朝の札や」
それだけ言って、局長は次の荷に目を戻した。ハルは、その意味を、深く考えなかった。
ソラナギの昼は、にぎやかだった。
波止場の綱の上を、荷を背負った人たちが、ぽよん、ぽよんと雲を踏みながら行き来していた。雲舟の帆が、白い海の上でふくらんでいた。屋台の雲飴屋から、焦がした砂糖の匂いがした。ハルは、雲飴が好きだった。給金の日には、雲飴を一つ買って、港の灯台に上って、夕日を見る。昇り賃は銀貨一枚。今日のポケットには、銀貨が三枚入っていた。
(配達が終わったら、灯台に上ろう。初めての一人配達の日に)
ハルは、冷箱を両手で胸に抱えて、東へ歩いた。
十二時二十分。東の筏溜まり。
市が、なかった。
雲の海の上に、筏をつなぐための杭が、ぽつぽつと立っているだけだった。屋台も、人も、旗も、何もなかった。
「……え」
ハルは、杭のあいだを歩き回った。杭の一本に、屋台の布の切れ端が引っかかって、風にはためいていた。
風。
ハルは、顔を上げた。朝は東から吹いていた風が、今は、北から吹いていた。
(位置札は、朝の札や)
局長の声が、頭の中で鳴った。
第二章 騒ぐ雨雲
ハルは、杭のそばにしゃがみこんだ。
市は、風で流された。どっちへ。どれくらい。ハルには分からなかった。
胸の冷箱を見た。小窓の向こうで、雨雲が、のんびり浮いていた。
(中、大丈夫かな)
さっき走った。揺れたかもしれない。確かめたほうがいい。
ハルは、冷箱の留め金を外して、ふたを開けた。
昼の光が、瓶に当たった。
雨雲が、びくっと震えた。
次の瞬間、瓶の口の封のすき間から、細い霧雨が、しゅう、と噴き出した。霧雨はハルの手と顔を濡らし、雲の海へ散っていった。
「わっ、待って、待って」
ハルは慌ててふたを閉めようとして、手が滑った。冷箱が傾いた。雨雲が、さらに騒いだ。霧雨が、もう一度、しゅう、と出た。
ハルは、上着を脱いで、冷箱ごと包んだ。杭の陰に入って、しゃがんだまま、じっと動かなかった。
三分。五分。
上着の隙間から、そっと小窓をのぞいた。
雨雲は、静かになっていた。でも、さっきより、小さかった。たぶん、二割くらい。
ハルは、上着で包んだ冷箱を抱えたまま、しばらく顔を上げられなかった。
開けるな。
局長は、そう言った。四つ目に、そう言った。
渡し場には、雲舟が三艘つながれていた。
一艘の舟べりに、若い男が寝そべって、昼寝をしていた。日に焼けた顔に、つぎの当たった帽子をのせていた。帆は、端が破れて、糸で仮に縫ってあった。
「あの。渡り市まで、乗せてもらえますか」
男は、帽子を少し持ち上げて、片目でハルを見た。
「市は、どこにある」
「……分からないんです。位置札は東だったんですけど、なくて」
男は、体を起こした。
「位置札は、朝の札や」
「それ、さっきも言われました」
男は、ロクと名乗った。渡し舟の漕ぎ手で、ハルより三つ上だった。
「市は、北風で南に流れとる。たぶん、南の雲溜まりのへん。そこまで、銀貨一枚。近道するなら、三十分で着く」
「近道?」
「霧溜まりを抜ける。揺れるけど、速い」
ハルは、上着に包んだ冷箱を見た。
「揺れるのは、だめなんです。雨瓶なので」
「雨瓶?」
ロクは、眉を上げた。
「霧溜まりを避けたら、一時間はかかる。遠回り。銀貨一枚じゃ割に合わん」
「じゃあ、一枚半」
「二枚」
「……一枚半で、揺れないほう」
ロクは、しばらくハルを見ていた。それから、ふん、と鼻を鳴らした。
「一枚半で、遠回り。その代わり、俺の言う通りに雲鳥を追う。お前の位置札は、もう信じん」
ハルは、うなずくしかなかった。
雲舟は、ゆっくり進んだ。ロクの漕ぎ方は、口の悪さに似合わず、丁寧だった。白い海の上を、舟は滑るように動いた。冷箱は、ほとんど揺れなかった。
ロクは、ときどき空を見上げた。白い羽の雲鳥が、何羽も、同じ方向へ飛んでいた。
「雲鳥は、食い物の匂いについていく。市の焼き魚と、雲飴と、パンの匂い。あいつらが群れとる下に、市がある」
「そんな読み方、局では習わなかった」
「局は、札で読む。俺らは、鳥で読む」
ロクは、ちょっと得意そうだった。
ハルは、冷箱を抱えたまま、雲鳥を見上げた。
(札より、鳥か)
札は、朝に書かれる。鳥は、今、飛んでいる。
十三時四十分。南の雲溜まりの向こうに、色とりどりの旗が見えた。焼き魚の煙と、焦がした砂糖の匂いが、風に乗ってきた。
渡り市だった。
第三章 綱橋の番人
渡り市は、何十枚もの雲の筏を、太い綱でつないだ市だった。
筏の上に屋台が並び、人が筏から筏へ、綱の橋を渡って行き来していた。焼き魚、雲飴、干した星の実、鍋や靴の修理屋。ハルは、冷箱を胸に抱えて、屋台のあいだを歩いた。
「ドウマさんの屋台、知りませんか。雲苺の苗の」
焼き魚屋の主人が、串を返しながら言った。
「ドウマ婆さんなら、昼の風で、西の端の筏に移ったよ。苗は風に弱いけん、風の当たらん端っこへ」
「西の端」
「綱橋を二つ渡ったところ。ただ、今日は風が強いけん、チサが渡さんかもな」
西の端へ渡る綱橋の前に、女の人が一人、腕を組んで立っていた。四十代くらいで、腰に太い綱の束を下げていた。筏番のチサだった。

「今は、渡れん」
チサは、ハルの顔も見ずに言った。
「風が強い。見習いの札じゃ、通せん。荷物持っとるなら、なおさら」
「配達なんです。雨瓶で、日没までに本人の手で開けないと」
「日没まで、まだ三時間半ある。風が落ちるまで待ち」
チサの目は、綱橋の向こうの、揺れる筏を見ていた。綱が、ぎし、ぎし、と鳴っていた。
ハルは、冷箱を見た。それから、チサの手元を見た。
チサは、綱を結び直していた。ほどいて、締めて、また別の綱をほどく。一人で、何本も。その手が、一瞬止まって、東の方角をちらりと見た。
「……あの、何か、手が離せない用事がありますか」
チサは、初めてハルの顔を見た。
「なんで」
「さっきから、東のほう、何回も見てるので」
チサは、しばらく黙っていた。それから、腰の小袋から、結び紐のついた木の札を一枚出した。
「東の端の筏に、弟が屋台を出しとる。今日の帰りの舟の時間を変えたって、伝えなあかん。でも、わたしはここを離れられん」
ハルは、札を見た。それから、言った。
「届けます。その代わり、風が少しでも落ちたら、わたしを渡してください」
チサは、ハルの冷箱を見た。
「その荷、置いて行くんか」
「持って行きます。揺らさないように、歩いて」
チサは、ふっと息を吐いた。
「……風が落ちたら、な。落ちんかったら、渡さん。それでもええなら」
「はい」
東の端の筏は、遠かった。
ハルは、冷箱を抱えて、揺らさないように、ゆっくり歩いた。ロクは、舟で待つと言った。「俺の仕事は舟や」と。
十四時二十分。東の端の筏の、鍋の修理屋の屋台に、チサによく似た顔の男がいた。ハルが札を渡すと、男は札を読んで、「姉ちゃん、また心配性やな」と笑った。
戻る途中、足が重くなってきた。
雲靴が、湿りはじめていた。踏むたびに、足が雲に少しずつ沈む。まだ十四時半過ぎなのに。局で思ったとおりだった。朝から走って、冷箱を抱えて、慎重に歩いて、ずっと足に力が入っていた。
市の真ん中の乾かし台で、雲靴を脱いだ。二十分。乾かし台の火の前で、ハルは裸足で、冷箱を膝に抱えて座った。
(二十分)
日没まで、三時間を切っていた。
乾いた雲靴を履き直して、綱橋に戻ったのは、十五時二十分だった。
風は、さっきより、少しだけ弱くなっていた。
チサは、綱を一本引いて、張り具合を確かめた。それから、黙って、綱橋の入口の縄を外した。
「真ん中で止まるな。下を見るな。荷は胸」
ハルは、綱橋を渡った。
第四章 瓶のそばに残る
西の端の筏には、屋台が一つだけあった。
木の台の上に、小さな鉢が何十も並んでいた。鉢の中で、雲苺の苗が、細い葉を垂れていた。葉の先が、少し茶色くなっていた。乾いていた。
屋台の中には、誰もいなかった。
台の上に、紙が一枚、石で押さえてあった。
〈局へ雨瓶を聞きに行く すぐ戻る ドウマ〉
ハルは、紙を持ったまま、立ちつくした。
すれ違った。
ハルが東の筏溜まりで立ちつくし、南の雲溜まりを探し、綱橋で交渉しているあいだに、ドウマ婆さんは、来ない雨瓶を心配して、自分で港の局へ向かったのだ。
十五時三十五分。
日没は、十七時半。
ハルは、冷箱を台の上に置いて、考えた。
局まで戻る。冷箱を抱えて、綱橋を二つ、雲の海を舟で。行きに一時間かかった。帰りも同じくらい。局でドウマ婆さんに会えても、そこから苗のあるここまで戻る時間がない。雨雲は、苗の上で開けなければ意味がない。
それに、冷箱を抱えて急げば、雨雲がまた騒ぐ。もう二割減っている。これ以上は。
ロクに瓶を預けて、局まで運んでもらう。
だめだ。封は、ドウマ婆さんの手でしか開かない。舟で揺られた瓶を、また苗のところまで運び直すことになる。
ハルは、苗を見た。茶色くなった葉の先を見た。
瓶は、ここにあるべきだ。苗のそばに。動かすべきなのは、瓶じゃない。
人だ。
綱橋を戻って、渡し場の舟まで走った。冷箱は、ドウマ婆さんの屋台の日陰に、上着をかけて置いてきた。封は本人にしか開けられない。誰かが持っていっても、何にもならない。それでも、置いてくるとき、背中が冷たかった。
ロクは、舟べりで、雲飴をかじっていた。
「ロクさん。局まで行って、ドウマさんを乗せて、西の端の筏まで連れてきてほしいんです」
ロクは、雲飴をくわえたまま、ハルを見た。
「俺の仕事は、お前を運ぶことやった」
「分かってます。追加で、頼みます」
「局まで近道で行って、婆さんを乗せて戻ったら、四十分はかかる。その間、俺は別の客を乗せられん」
ロクは、帆の破れた端を、ちらりと見た。
「帆の修理に、銀貨が要るんや。今日の稼ぎで、帆布を買うつもりやった」
ハルは、ポケットに手を入れた。
銀貨が三枚。一枚半は、行きの舟賃として、もう渡す約束になっていた。残りは、灯台の昇り賃だった。初めての一人配達の日に、灯台の上で夕日を見るための。
ハルは、銀貨を三枚、全部出した。
「行きの一枚半と、迎えの分です。これで全部です。帆布、足りますか」
ロクは、銀貨を見た。それから、ハルを見た。
「……行きの分は、一枚でええ。遠回りは、俺も嫌いじゃなかった。迎えが二枚。それで三枚や」
ロクは、三枚とも受け取って、腰の袋に入れた。舟の綱をほどいた。
ハルのポケットは、空になった。灯台の昇り賃も、一緒に消えた。
「ドウマ婆さんの顔、俺、知っとる。苺の苗、うちのばあちゃんも買いよる」
「ほんとですか」
「早よ戻れ。お前は瓶のそばにおれ。瓶を独りにするな」
舟が、白い海の上を、まっすぐ港のほうへ滑っていった。霧溜まりを抜ける、近道の方向だった。
ハルは、西の端の筏に戻った。
冷箱は、上着の下で、静かだった。小窓をのぞくと、雨雲は小さいまま、じっと浮いていた。
ハルは、屋台の日陰に座って、冷箱を膝に抱えた。揺らさないように。光に当てないように。
待った。
風が、少しずつ落ちていった。西の空が、ゆっくり、薄い桃色になりはじめた。
十六時二十五分。
白い海の向こうから、雲舟が一艘、帆をふくらませて近づいてきた。舟の上に、ロクと、小柄な、白い髪を布で包んだお婆さんが乗っていた。
舟が筏に着くと、お婆さんは、ロクの手を借りて、筏に上がった。それから、ハルを見て、冷箱を見て、言った。
「あんたが、雨瓶の子かい」
「はい。遅くなって、すみません」
ドウマ婆さんは、何も言わずに、冷箱の前にしゃがんだ。
ハルは、冷箱のふたを、そっと開けた。夕方の光が、ガラス瓶に当たった。雨雲が、少しだけ震えた。
ドウマ婆さんが、皺の多い手を、瓶の封に当てた。
封が、ほどけるように開いた。
小さな雨雲が、瓶の口から、ふわりと浮かび上がった。ドウマ婆さんが手招きすると、雲は苗の鉢の並んだ台の上まで、ゆっくり流れていった。
そして、雨が降った。

細い、やさしい雨だった。苗の葉に、土に、ぽつぽつと落ちた。茶色くなりかけた葉の先が、水を吸って、少しずつ持ち上がっていった。
「……少し、小さいね」
ドウマ婆さんが、雲を見上げて言った。
ハルの喉が、詰まった。
「すみません。途中で、冷箱を開けてしまって。雲が騒いで、二割くらい、減りました」
ドウマ婆さんは、しばらく、黙って雨を見ていた。
「今日の分には、足りる」
それだけ言った。許すとも、許さないとも言わなかった。
「次の雨は、三日後に頼む。そのときは、開けんで持ってきな」
ハルは、深く頭を下げた。
ドウマ婆さんは、配達票に親指で印を押した。それから、鉢の一つを、ハルの手に押しつけた。小さな雲苺の苗が、一本。
「礼じゃない。三日後、この苗が元気か、あんたが見て、局に報告しな」
局に戻ったのは、十七時半、日没の鐘とほとんど同時だった。
局長は、配達票を受け取って、ドウマ婆さんの指印を見た。それから、ハルの報告を聞いた。位置札を信じたこと。冷箱を開けたこと。雨瓶が二割減ったこと。ロクに迎えを頼んだこと。
局長は、配達票の指印を、指でとんとんと二回叩いた。
「配達完了。希望の十四時から、二時間半の遅延。二割減。受取人の迎えを、自分の金で手配」
一つずつ、声に出して言った。それから、ハルを見た。
「一人札は、まだや」
ハルは、うなずいた。分かっていた。
「ただ、三日後の雨瓶は、お前が行け」
局長は、それだけ言って、次の荷に目を戻した。
局を出ると、港はもう夕焼けだった。
灯台の上には、行けなかった。昇り賃の銀貨は、もうポケットになかった。あったとしても、灯台の昇り口は、もう閉まる時間だった。
ハルは、波止場の綱の端に座って、雲苺の苗の鉢を膝に置いた。
雲の海が、夕日で、桃色から橙に変わっていった。
灯台のてっぺんに、明かりがともった。誰かが、上で、大きなランプに火を入れていた。夜の雲舟のための明かりだった。
(あの仕事も、あるんだ)
ハルは、明かりを見上げた。配達局の見習いになる前は、知らなかった。灯台には、夕日を見る人だけじゃなく、夜のために火をともす人がいる。
遠くの渡し場で、帆に新しい布をあてがっているロクの姿が見えた。
ハルは、苗の葉に触れた。少し、湿っていた。
三日後。
今度は、開けずに持っていく。


