第一章 青いリボンの箱
十四時四十分。吉野澪は、白い小箱の底に敷き紙を一枚敷いて、焼きたてのガレットを並べた。
二列に四枚ずつ、八枚。
丸くて厚い、塩バターのガレット。表面には格子の模様がついていて、焼き色の濃いところに、砂糖の粒がきらきらと光っていた。まだ少し温かかった。箱のふたを閉める前に、澪は一度だけ鼻を近づけた。バターと、焦がした砂糖の匂い。

(いい焼き色)
ふたを閉めて、青いリボンをかけた。
焼き菓子店「こみち」で包装と受渡しを担当して、三年になる。リボンを結ぶのが好きだった。蝶結びの輪を少しだけ右上がりにする。結び目の下に、注文した人の名前札を、表向きに挟む。箱を受け取った人が、最初に自分の名前を見るように。
札には、澪の字で〈岡本様〉。
澪は、箱を受渡し棚に置いた。隣には、同じ岡本様の札をつけたクッキー缶が一つ。十六時の受け取りだった。
棚の箱は、これで最後だった。
十四時に受け取りの坂田様の箱(フィナンシェ六個、白い小箱、青いリボン)は、もう坂田様が持って帰った。十五時の野口様の箱(マドレーヌ六個、白い中箱、赤いリボン)は、一時間前に澪が詰めて結んで、棚の端に置いてある。
予約は三件。全部、そろった。
今朝の九時、澪はいつものように、レジの下の予約帳を開いた。
今日の見開きには、三件。一行目に坂田様、二行目に野口様、三行目に岡本様。二行目と三行目のあいだの狭い余白に、青い小さな字で一行、〈追加 ガレット8〉と書き足してあった。名前はなかった。三行目の線に、くっつきそうなほど下に寄っていた。
(岡本様の追加か)
澪はそう読んで、岡本様用の小箱を一つ、余分に組んだ。クッキー缶は箱に入れずに渡すので、ガレットのための箱だった。
誰が受けた電話なのか、確かめようとは思わなかった。三行目の上にあるのだから、三行目の分だと思った。
「店頭のガレットが、足りん」
厨房から、店主の中原さんの声がした。
中原さんは、四十八歳の、口数の少ない菓子職人だった。焼き上がったガレットの天板を見下ろして、腕を組んでいた。
「今日は十四枚しか焼けんかった。予約で八枚取ったら、店頭は六枚。いつもは十枚並べるのに」
「予約、多かったですもんね」
「ガレットの予約なんか、めったに入らんのに」
中原さんは、天板の残り六枚を、店頭の木の籠に移しに行った。
澪は、その背中を見ながら、少しだけ思った。
(岡本様、クッキー缶と、ガレット八枚。けっこう買うなあ)
今朝、予約帳を見て、そう読んだのだった。
十五時、澪は休憩に出た。
エプロンを外しながら、レジのほうを見た。杉本くんが、電話の横の青いボールペンで、レシートの控えに何か書き足していた。こみちでは、厨房のペンは黒、電話とレジの横の一本だけが青い。電話を受けたら、それでメモを取る決まりだった。
向かいのコーヒースタンドで、いちばん小さいカップのコーヒーを買って、店の前のベンチで飲んだ。十五分。店の中では、アルバイトの杉本くんがレジに立っていた。
杉本くんは大学生で、働きはじめて二週目だった。真面目で、言われたことはきちんとやる。昨日の閉店後、「リボン、どうやって結んでるんですか」と聞かれたので、澪は自分の結び方を教えた。輪を右上がりにするところまで。杉本くんは、三回練習して、三回目にはきれいに結べた。
(飲み込みが早い)
澪は、コーヒーの最後の一口を飲んで、店に戻った。
十五時十五分。棚の端の、野口様の赤いリボンの箱は、なくなっていた。
「野口様、来た?」
「はい。さっき」
杉本くんは、レジの横を布巾で拭いていた。顔を上げなかった。
十五時四十五分。客足が途切れた。
澪は、手書きのカードを一枚書いた。〈本日はありがとうございます。焼きたてのガレットです。湿気の少ないところで、三日以内に〉。岡本様の箱に添えるつもりだった。
受渡し棚から、岡本様の青いリボンの箱を取った。
軽かった。
澪は、手を止めた。
軽すぎた。ガレット八枚は、焼き菓子の中でも重いほうだ。この箱は、空の箱と同じくらいの重さしかなかった。
リボンをほどいた。
ふたを開けた。
敷き紙だけが、白く、箱の底に残っていた。
ガレットは、一枚もなかった。
第二章 足りない店頭
澪は、空の箱を両手で持ったまま、しばらく動けなかった。
(詰めた)
詰めた。一時間ほど前、確かに自分の手で、八枚。焼き色も、砂糖の粒も、温かさも、覚えている。
リボンを見た。ほどいたばかりの青いリボンには、まだ結び目の形の癖が残っていた。蝶結びの輪が、右上がり。
(わたしの結び方)
じゃあ、詰め忘れたのか。詰めたと思いこんで、空の箱にリボンを結んだのか。
澪は、敷き紙をそっと持ち上げた。
丸い油じみが、八つあった。二列に四つずつ。紙の上に、砂糖の粒が、ぱらぱらと残っていた。
(入ってた)
詰め忘れたんじゃない。入っていた。入っていたものが、なくなった。
澪の頭に、さっきの声がよみがえった。
〈店頭のガレットが、足りん〉
澪は、店頭の木の籠の前に立った。
ガレットが、並んでいた。一枚、二枚、三枚——六枚。
六枚。
中原さんは、予約用の八枚を除いて、店頭に六枚出した。十四時半に。その後、ガレットは一枚も売れていない。籠の中は、六枚のままだった。
もし中原さんが、予約の八枚を店頭に回したなら、籠は十四枚になっているはずだ。十四枚の籠を、澪は見ていない。
(中原さんじゃない)
澪は、少しほっとして、すぐに、ほっとした自分が嫌になった。一瞬でも、中原さんを疑った。三年間、一緒に働いてきた人を。
「杉本くん」
レジの杉本くんは、また布巾でカウンターを拭いていた。さっきからずっと、同じところを拭いていた。
「十五時から十五時十五分のあいだに、受渡し棚、誰か触った?」
杉本くんの手が、止まった。
「……野口様の箱を、渡しました」
「それだけ?」
「中原さんが、厨房から出てきて、棚の缶を補充してました」
澪は、棚を見た。クッキー缶の段は、たしかに朝より缶が増えていた。岡本様の札がついた缶は、隣にそのままあった。
「中原さん、ガレットの箱、触ってた?」
「……分かりません。僕、レジにいたので」
杉本くんは、また布巾を動かしはじめた。
澪は、坂田様のことも考えた。でも坂田様は、十四時に来て、十四時に帰った。澪がガレットを詰めたのは、十四時四十分だった。
野口様は、カウンターの外側にいた。受渡し棚は、カウンターの内側にある。それに、野口様は、澪の結び方を知らない。
澪の結び方を知っているのは、澪と、昨日教わった杉本くんだけだった。
(……でも、なんで)
杉本くんが、ガレットを持っていく理由が、分からなかった。食べたのか。まさか。八枚も。
澪は、空の箱をもう一度見た。
それから、ほどいたリボンの下から、名前札を拾い上げた。
〈岡本様〉。
澪は、札を見て、眉を寄せた。
自分の字だった。でも、さっきほどいたとき、この札は、裏返しだった。白い面が上で、〈岡本様〉の字が、箱のふたのほうを向いていた。
澪は、三年間、一度も、札を裏向きに挟んだことがなかった。
第三章 余白の一行
澪は、レジの下の棚から、予約帳を出した。
今日の見開き。三件。
一行目は、澪の字。〈坂田様 14:00 フィナンシェ6〉。
二行目は、中原さんの字。〈野口様 15:00 マドレーヌ6〉。
三行目は、また澪の字。〈岡本様 16:00 クッキー缶1〉。
そして、二行目と三行目のあいだの、狭い余白に、一行。
〈追加 ガレット8〉
青いボールペンの字だった。
ほかの行は、全部、黒だった。澪も中原さんも、厨房の黒いペンで書く。青いペンは、レジの横に一本だけ置いてある。電話の横の。
名前は、書いていなかった。
今朝、澪はこの一行を、三行目の上にあるから、岡本様の追加だと読んだ。だから、岡本様の箱を用意した。
でも、二行目の下にあるとも、読めた。
澪は、指で、余白の一行をなぞった。
字は、三行目の線にくっつきそうなほど、下に寄っていた。書きはじめは、二行目のすぐ下。書いているうちに、だんだん下へずれていったような字だった。
(野口様の、追加?)
澪は、レジの中のレシートの控えを出した。十五時二分。
〈マドレーヌ 6 1,800円〉
それだけだった。ガレットは、打たれていなかった。
十六時ちょうどに、扉のベルが鳴った。
岡本様だった。六十代くらいの、背筋の伸びた女の人で、いつも缶のクッキーを買っていく常連だった。
「予約の、岡本です」
澪は、クッキー缶を棚から取った。それから、少しだけ迷って、聞いた。
「岡本様。今日のご注文、クッキー缶と……ほかに、何か、ございましたか」
岡本様は、きょとんとした。
「缶だけですよ。いつもの」
「……ガレットの追加は」
「ガレット? いいえ。あれ、硬くて、わたしの歯にはちょっと」
岡本様は、笑って、缶を受け取った。
澪は、頭を下げて見送った。
扉のベルが鳴りやむと、店の中が、急に静かになった。
なくなったのは、岡本様のガレットではなかった。
岡本様は、ガレットを頼んでいなかった。
澪は、杉本くんのほうを向いた。
杉本くんは、カウンターの端に立って、布巾を握っていた。もう、拭いてはいなかった。
澪は、予約帳を開いたまま、カウンターに置いた。
「この青い一行、杉本くんの字だよね」
杉本くんは、黙っていた。
「昨日の夕方、野口様から電話があって、ガレットの追加を受けた。ここに書いた。二行目の下に書くつもりで、ちょっと下にずれた。わたしは、それを今朝、岡本様の分だと思った」
澪は、自分で言いながら、自分の見落としに気づいていた。名前のない一行を、確かめずに、勝手に読んだのは、澪だった。
「十五時に、野口様が来て、ガレットは? って言われた。わたしは休憩でいなかった。中原さんは厨房で、ミキサーが回ってた」
杉本くんの肩が、小さく震えた。
「それで、岡本様の箱を開けて、ガレットを野口様に渡した。それから、空になった箱に、昨日教えたリボンを結び直した」
澪は、名前札を、カウンターの上に置いた。
「でも、札だけ、裏向きだった」
第四章 説明する人
杉本くんは、長いあいだ、黙っていた。
それから、布巾をカウンターに置いて、言った。
「……すみません」
声が、かすれていた。
「野口様に、ガレットは? って言われて、自分が電話で受けたのを思い出して。予約帳を見たら、変なところに書いてて。吉野さんが、それを岡本様の箱に入れてるのが、棚に見えて」
杉本くんは、自分の手を見た。
「中原さんに聞こうとしたけど、ミキサーの音で聞こえなくて。野口様を待たせたくなくて。岡本様の箱を開けて、ガレットを透明の袋に四枚ずつ入れて、野口様に渡しました」
「お金は」
「……値段が、分からなくて。レジにガレットのボタンはあるけど、予約の値段なのか、店頭と同じなのか分からなくて。聞けなくて。マドレーヌだけ打ちました」
杉本くんの目が、赤くなっていた。
「箱は、空のまま置いておくと、吉野さんがびっくりすると思って。リボン、結び直しました。……隠そうと、思いました。吉野さんが休憩から戻ったら言おうと思ってたけど、お客さんが続いて、言えなくて。言えなくなって」
澪は、黙って聞いていた。
怒りは、思ったより、湧いてこなかった。ただ、空の箱を開けたときの、あの軽さを思い出した。一時間ほど前に自分が詰めた八枚が、ないと分かったときの、足元が抜けるような感じ。
そして、その原因の半分は、名前のない一行を確かめずに読んだ、自分にあった。
「杉本くん」
澪は言った。
「ガレットは、なくなってなかった。ちゃんと、頼んだ人のところに行った。それは、よかった」
杉本くんが、顔を上げた。
「でも、野口様は、ガレットの分を払ってない。それと、箱を黙って開けて、結び直したことは、なかったことにはできない。中原さんに、言いに行こう」
「……僕が、ですか」
「杉本くんが、説明する。わたしも、一緒に行く。わたしが一行を読み違えたことも、わたしが言う」
厨房で、中原さんは、明日の生地を仕込んでいた。
二人の話を、ボウルから手を離さずに聞いた。杉本くんが、予約帳の青い一行のこと、十五時のこと、リボンのこと、レシートのことを、つっかえながら話した。澪が、朝の読み違いのことを足した。
中原さんは、しばらく何も言わなかった。
それから、手を洗って、予約帳を受け取った。余白の一行を見た。
「野口様に、電話」
中原さんは、杉本くんを見た。
「お前がかけろ。ガレット八枚、二千二百四十円。次に来たときでいいって、頼め。それと、箱の中にカードを入れ忘れたことも謝れ。予約のガレットには、いつも吉野がカードをつけとる」
杉本くんは、うなずいた。
「自分で、払います。その二千——」
「払わんでいい」
中原さんは、短く言った。
「電話の受け方を、教えとらんかった俺の失敗でもある。予約帳の書き方も、決めとらんかった。お前が払ったら、次も誰かが黙って払う」
それから、澪を見た。
「吉野。予約帳、明日から変えてくれ。一件一行。追加は、その行の横に『追加』の欄を作って、同じ行に書く。電話で受けたら、名前と品物と数を、相手に読み返す」
「はい」
「それと」
中原さんは、少し言いにくそうに、続けた。
「店頭が足りんって言ったとき、お前、俺を疑ったやろ」
澪は、どきっとした。
「……籠の枚数、数えました」
「数えたなら、ええ」
中原さんは、それだけ言って、また生地に戻った。
杉本くんは、レジの横の電話で、野口様に電話をかけた。
澪は、少し離れて、それを聞いていた。
「……はい、こみちの杉本です。本日はありがとうございました。あの、ガレットの追加の件で、お詫びがありまして……」
電話の向こうで、野口様が何か言った。杉本くんが、何度も頭を下げた。電話なのに。
「……はい。はい。次回で、大丈夫です。ありがとうございます。はい、とてもおいしいです。あ、いえ、僕が焼いたんじゃなくて……」
電話を切ると、杉本くんは、受話器を両手で持ったまま、大きく息を吐いた。
「野口様、ガレット、もう二枚食べたそうです。次に来たとき、払うって。それと、袋が透明で、ちょっとさびしかったって」
澪は、思わず笑った。
閉店後。
澪は、空の箱から敷き紙を取り出した。八つの丸い油じみ。砂糖の粒。それを捨てて、新しい敷き紙を敷き、箱を棚に戻した。
店頭の籠には、ガレットが三枚残っていた。夕方に三枚売れて、三枚。
中原さんが、厨房から出てきて、籠を見た。
「三枚か」
中原さんは、一枚ずつ、三人の手のひらに載せた。
「売れ残りや。食え」
杉本くんは、ガレットを持ったまま、少し泣きそうな顔をした。澪は、杉本くんの肩を、軽く叩いた。
かじった。
さくっ、と音がした。塩バターの香りが、口の中いっぱいに広がった。焦がした砂糖が、歯の裏で、かりっと溶けた。
「……おいしい」
杉本くんが、小さな声で言った。
「野口様、これを、透明の袋で」
「さびしいね」と澪は言った。
それから、澪は、白い小箱と、青いリボンを一本出した。
「杉本くん。もう一回、リボン」
杉本くんは、少し驚いた顔をした。
「隠すためじゃなくて、渡すための結び方。昨日、一つ教え忘れてた」
澪は、名前札を一枚書いた。〈杉本くん〉。
「札は、結び目の下に、表向き。箱を受け取った人が、最初に自分の名前を見るように」
杉本くんは、リボンを結んだ。輪を右上がりに。それから、札を、表向きに挟んだ。

自分の名前が、上を向いていた。
「……これ、空ですけど」
「空でいいの。練習だから」
澪は、ガレットの最後の一口を食べた。
明日の予約帳は、一件一行。追加の欄。電話の横の青いペンは、そのまま置いておく。杉本くんが、明日、電話を受けるかもしれないから。


