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ミステリー

焼き菓子店の空っぽの箱

一時間前に詰めたガレット八枚が、リボンを結んだまま消えていた。

読了目安
15分
長さ
短編
#謎解き#お菓子#お仕事
焼き菓子店の空っぽの箱のイメージ

あらすじ

焼き菓子店「こみち」で包装と受渡しを担当する澪は、夕方、予約の箱にカードを添えようとして手を止めた。軽い。リボンをほどくと、中は空っぽだった。一時間ほど前、自分の手で焼きたてのガレットを八枚詰めた箱。結び目は、自分の結び方。店主の「店頭が足りん」という言葉、新人アルバイトの落ち着かない手、予約帳の余白。澪は、箱と帳面とレシートを見比べはじめる。

第一章 青いリボンの箱

十四時四十分。吉野澪は、白い小箱の底に敷き紙を一枚敷いて、焼きたてのガレットを並べた。

二列に四枚ずつ、八枚。

丸くて厚い、塩バターのガレット。表面には格子の模様がついていて、焼き色の濃いところに、砂糖の粒がきらきらと光っていた。まだ少し温かかった。箱のふたを閉める前に、澪は一度だけ鼻を近づけた。バターと、焦がした砂糖の匂い。

白い小箱に、格子模様の丸い焼き菓子を二列に並べる手元。

(いい焼き色)

ふたを閉めて、青いリボンをかけた。

焼き菓子店「こみち」で包装と受渡しを担当して、三年になる。リボンを結ぶのが好きだった。蝶結びの輪を少しだけ右上がりにする。結び目の下に、注文した人の名前札を、表向きに挟む。箱を受け取った人が、最初に自分の名前を見るように。

札には、澪の字で〈岡本様〉。

澪は、箱を受渡し棚に置いた。隣には、同じ岡本様の札をつけたクッキー缶が一つ。十六時の受け取りだった。

棚の箱は、これで最後だった。

十四時に受け取りの坂田様の箱(フィナンシェ六個、白い小箱、青いリボン)は、もう坂田様が持って帰った。十五時の野口様の箱(マドレーヌ六個、白い中箱、赤いリボン)は、一時間前に澪が詰めて結んで、棚の端に置いてある。

予約は三件。全部、そろった。

今朝の九時、澪はいつものように、レジの下の予約帳を開いた。

今日の見開きには、三件。一行目に坂田様、二行目に野口様、三行目に岡本様。二行目と三行目のあいだの狭い余白に、青い小さな字で一行、〈追加 ガレット8〉と書き足してあった。名前はなかった。三行目の線に、くっつきそうなほど下に寄っていた。

(岡本様の追加か)

澪はそう読んで、岡本様用の小箱を一つ、余分に組んだ。クッキー缶は箱に入れずに渡すので、ガレットのための箱だった。

誰が受けた電話なのか、確かめようとは思わなかった。三行目の上にあるのだから、三行目の分だと思った。

「店頭のガレットが、足りん」

厨房から、店主の中原さんの声がした。

中原さんは、四十八歳の、口数の少ない菓子職人だった。焼き上がったガレットの天板を見下ろして、腕を組んでいた。

「今日は十四枚しか焼けんかった。予約で八枚取ったら、店頭は六枚。いつもは十枚並べるのに」

「予約、多かったですもんね」

「ガレットの予約なんか、めったに入らんのに」

中原さんは、天板の残り六枚を、店頭の木の籠に移しに行った。

澪は、その背中を見ながら、少しだけ思った。

(岡本様、クッキー缶と、ガレット八枚。けっこう買うなあ)

今朝、予約帳を見て、そう読んだのだった。

十五時、澪は休憩に出た。

エプロンを外しながら、レジのほうを見た。杉本くんが、電話の横の青いボールペンで、レシートの控えに何か書き足していた。こみちでは、厨房のペンは黒、電話とレジの横の一本だけが青い。電話を受けたら、それでメモを取る決まりだった。

向かいのコーヒースタンドで、いちばん小さいカップのコーヒーを買って、店の前のベンチで飲んだ。十五分。店の中では、アルバイトの杉本くんがレジに立っていた。

杉本くんは大学生で、働きはじめて二週目だった。真面目で、言われたことはきちんとやる。昨日の閉店後、「リボン、どうやって結んでるんですか」と聞かれたので、澪は自分の結び方を教えた。輪を右上がりにするところまで。杉本くんは、三回練習して、三回目にはきれいに結べた。

(飲み込みが早い)

澪は、コーヒーの最後の一口を飲んで、店に戻った。

十五時十五分。棚の端の、野口様の赤いリボンの箱は、なくなっていた。

「野口様、来た?」

「はい。さっき」

杉本くんは、レジの横を布巾で拭いていた。顔を上げなかった。

十五時四十五分。客足が途切れた。

澪は、手書きのカードを一枚書いた。〈本日はありがとうございます。焼きたてのガレットです。湿気の少ないところで、三日以内に〉。岡本様の箱に添えるつもりだった。

受渡し棚から、岡本様の青いリボンの箱を取った。

軽かった。

澪は、手を止めた。

軽すぎた。ガレット八枚は、焼き菓子の中でも重いほうだ。この箱は、空の箱と同じくらいの重さしかなかった。

リボンをほどいた。

ふたを開けた。

敷き紙だけが、白く、箱の底に残っていた。

ガレットは、一枚もなかった。

第二章 足りない店頭

澪は、空の箱を両手で持ったまま、しばらく動けなかった。

(詰めた)

詰めた。一時間ほど前、確かに自分の手で、八枚。焼き色も、砂糖の粒も、温かさも、覚えている。

リボンを見た。ほどいたばかりの青いリボンには、まだ結び目の形の癖が残っていた。蝶結びの輪が、右上がり。

(わたしの結び方)

じゃあ、詰め忘れたのか。詰めたと思いこんで、空の箱にリボンを結んだのか。

澪は、敷き紙をそっと持ち上げた。

丸い油じみが、八つあった。二列に四つずつ。紙の上に、砂糖の粒が、ぱらぱらと残っていた。

(入ってた)

詰め忘れたんじゃない。入っていた。入っていたものが、なくなった。

澪の頭に、さっきの声がよみがえった。

〈店頭のガレットが、足りん〉

澪は、店頭の木の籠の前に立った。

ガレットが、並んでいた。一枚、二枚、三枚——六枚。

六枚。

中原さんは、予約用の八枚を除いて、店頭に六枚出した。十四時半に。その後、ガレットは一枚も売れていない。籠の中は、六枚のままだった。

もし中原さんが、予約の八枚を店頭に回したなら、籠は十四枚になっているはずだ。十四枚の籠を、澪は見ていない。

(中原さんじゃない)

澪は、少しほっとして、すぐに、ほっとした自分が嫌になった。一瞬でも、中原さんを疑った。三年間、一緒に働いてきた人を。

「杉本くん」

レジの杉本くんは、また布巾でカウンターを拭いていた。さっきからずっと、同じところを拭いていた。

「十五時から十五時十五分のあいだに、受渡し棚、誰か触った?」

杉本くんの手が、止まった。

「……野口様の箱を、渡しました」

「それだけ?」

「中原さんが、厨房から出てきて、棚の缶を補充してました」

澪は、棚を見た。クッキー缶の段は、たしかに朝より缶が増えていた。岡本様の札がついた缶は、隣にそのままあった。

「中原さん、ガレットの箱、触ってた?」

「……分かりません。僕、レジにいたので」

杉本くんは、また布巾を動かしはじめた。

澪は、坂田様のことも考えた。でも坂田様は、十四時に来て、十四時に帰った。澪がガレットを詰めたのは、十四時四十分だった。

野口様は、カウンターの外側にいた。受渡し棚は、カウンターの内側にある。それに、野口様は、澪の結び方を知らない。

澪の結び方を知っているのは、澪と、昨日教わった杉本くんだけだった。

(……でも、なんで)

杉本くんが、ガレットを持っていく理由が、分からなかった。食べたのか。まさか。八枚も。

澪は、空の箱をもう一度見た。

それから、ほどいたリボンの下から、名前札を拾い上げた。

〈岡本様〉。

澪は、札を見て、眉を寄せた。

自分の字だった。でも、さっきほどいたとき、この札は、裏返しだった。白い面が上で、〈岡本様〉の字が、箱のふたのほうを向いていた。

澪は、三年間、一度も、札を裏向きに挟んだことがなかった。

第三章 余白の一行

澪は、レジの下の棚から、予約帳を出した。

今日の見開き。三件。

一行目は、澪の字。〈坂田様 14:00 フィナンシェ6〉。
二行目は、中原さんの字。〈野口様 15:00 マドレーヌ6〉。
三行目は、また澪の字。〈岡本様 16:00 クッキー缶1〉。

そして、二行目と三行目のあいだの、狭い余白に、一行。

〈追加 ガレット8〉

青いボールペンの字だった。

ほかの行は、全部、黒だった。澪も中原さんも、厨房の黒いペンで書く。青いペンは、レジの横に一本だけ置いてある。電話の横の。

名前は、書いていなかった。

今朝、澪はこの一行を、三行目の上にあるから、岡本様の追加だと読んだ。だから、岡本様の箱を用意した。

でも、二行目の下にあるとも、読めた。

澪は、指で、余白の一行をなぞった。

字は、三行目の線にくっつきそうなほど、下に寄っていた。書きはじめは、二行目のすぐ下。書いているうちに、だんだん下へずれていったような字だった。

(野口様の、追加?)

澪は、レジの中のレシートの控えを出した。十五時二分。

〈マドレーヌ 6 1,800円〉

それだけだった。ガレットは、打たれていなかった。

十六時ちょうどに、扉のベルが鳴った。

岡本様だった。六十代くらいの、背筋の伸びた女の人で、いつも缶のクッキーを買っていく常連だった。

「予約の、岡本です」

澪は、クッキー缶を棚から取った。それから、少しだけ迷って、聞いた。

「岡本様。今日のご注文、クッキー缶と……ほかに、何か、ございましたか」

岡本様は、きょとんとした。

「缶だけですよ。いつもの」

「……ガレットの追加は」

「ガレット? いいえ。あれ、硬くて、わたしの歯にはちょっと」

岡本様は、笑って、缶を受け取った。

澪は、頭を下げて見送った。

扉のベルが鳴りやむと、店の中が、急に静かになった。

なくなったのは、岡本様のガレットではなかった。

岡本様は、ガレットを頼んでいなかった。

澪は、杉本くんのほうを向いた。

杉本くんは、カウンターの端に立って、布巾を握っていた。もう、拭いてはいなかった。

澪は、予約帳を開いたまま、カウンターに置いた。

「この青い一行、杉本くんの字だよね」

杉本くんは、黙っていた。

「昨日の夕方、野口様から電話があって、ガレットの追加を受けた。ここに書いた。二行目の下に書くつもりで、ちょっと下にずれた。わたしは、それを今朝、岡本様の分だと思った」

澪は、自分で言いながら、自分の見落としに気づいていた。名前のない一行を、確かめずに、勝手に読んだのは、澪だった。

「十五時に、野口様が来て、ガレットは? って言われた。わたしは休憩でいなかった。中原さんは厨房で、ミキサーが回ってた」

杉本くんの肩が、小さく震えた。

「それで、岡本様の箱を開けて、ガレットを野口様に渡した。それから、空になった箱に、昨日教えたリボンを結び直した」

澪は、名前札を、カウンターの上に置いた。

「でも、札だけ、裏向きだった」

第四章 説明する人

杉本くんは、長いあいだ、黙っていた。

それから、布巾をカウンターに置いて、言った。

「……すみません」

声が、かすれていた。

「野口様に、ガレットは? って言われて、自分が電話で受けたのを思い出して。予約帳を見たら、変なところに書いてて。吉野さんが、それを岡本様の箱に入れてるのが、棚に見えて」

杉本くんは、自分の手を見た。

「中原さんに聞こうとしたけど、ミキサーの音で聞こえなくて。野口様を待たせたくなくて。岡本様の箱を開けて、ガレットを透明の袋に四枚ずつ入れて、野口様に渡しました」

「お金は」

「……値段が、分からなくて。レジにガレットのボタンはあるけど、予約の値段なのか、店頭と同じなのか分からなくて。聞けなくて。マドレーヌだけ打ちました」

杉本くんの目が、赤くなっていた。

「箱は、空のまま置いておくと、吉野さんがびっくりすると思って。リボン、結び直しました。……隠そうと、思いました。吉野さんが休憩から戻ったら言おうと思ってたけど、お客さんが続いて、言えなくて。言えなくなって」

澪は、黙って聞いていた。

怒りは、思ったより、湧いてこなかった。ただ、空の箱を開けたときの、あの軽さを思い出した。一時間ほど前に自分が詰めた八枚が、ないと分かったときの、足元が抜けるような感じ。

そして、その原因の半分は、名前のない一行を確かめずに読んだ、自分にあった。

「杉本くん」

澪は言った。

「ガレットは、なくなってなかった。ちゃんと、頼んだ人のところに行った。それは、よかった」

杉本くんが、顔を上げた。

「でも、野口様は、ガレットの分を払ってない。それと、箱を黙って開けて、結び直したことは、なかったことにはできない。中原さんに、言いに行こう」

「……僕が、ですか」

「杉本くんが、説明する。わたしも、一緒に行く。わたしが一行を読み違えたことも、わたしが言う」

厨房で、中原さんは、明日の生地を仕込んでいた。

二人の話を、ボウルから手を離さずに聞いた。杉本くんが、予約帳の青い一行のこと、十五時のこと、リボンのこと、レシートのことを、つっかえながら話した。澪が、朝の読み違いのことを足した。

中原さんは、しばらく何も言わなかった。

それから、手を洗って、予約帳を受け取った。余白の一行を見た。

「野口様に、電話」

中原さんは、杉本くんを見た。

「お前がかけろ。ガレット八枚、二千二百四十円。次に来たときでいいって、頼め。それと、箱の中にカードを入れ忘れたことも謝れ。予約のガレットには、いつも吉野がカードをつけとる」

杉本くんは、うなずいた。

「自分で、払います。その二千——」

「払わんでいい」

中原さんは、短く言った。

「電話の受け方を、教えとらんかった俺の失敗でもある。予約帳の書き方も、決めとらんかった。お前が払ったら、次も誰かが黙って払う」

それから、澪を見た。

「吉野。予約帳、明日から変えてくれ。一件一行。追加は、その行の横に『追加』の欄を作って、同じ行に書く。電話で受けたら、名前と品物と数を、相手に読み返す」

「はい」

「それと」

中原さんは、少し言いにくそうに、続けた。

「店頭が足りんって言ったとき、お前、俺を疑ったやろ」

澪は、どきっとした。

「……籠の枚数、数えました」

「数えたなら、ええ」

中原さんは、それだけ言って、また生地に戻った。

杉本くんは、レジの横の電話で、野口様に電話をかけた。

澪は、少し離れて、それを聞いていた。

「……はい、こみちの杉本です。本日はありがとうございました。あの、ガレットの追加の件で、お詫びがありまして……」

電話の向こうで、野口様が何か言った。杉本くんが、何度も頭を下げた。電話なのに。

「……はい。はい。次回で、大丈夫です。ありがとうございます。はい、とてもおいしいです。あ、いえ、僕が焼いたんじゃなくて……」

電話を切ると、杉本くんは、受話器を両手で持ったまま、大きく息を吐いた。

「野口様、ガレット、もう二枚食べたそうです。次に来たとき、払うって。それと、袋が透明で、ちょっとさびしかったって」

澪は、思わず笑った。

閉店後。

澪は、空の箱から敷き紙を取り出した。八つの丸い油じみ。砂糖の粒。それを捨てて、新しい敷き紙を敷き、箱を棚に戻した。

店頭の籠には、ガレットが三枚残っていた。夕方に三枚売れて、三枚。

中原さんが、厨房から出てきて、籠を見た。

「三枚か」

中原さんは、一枚ずつ、三人の手のひらに載せた。

「売れ残りや。食え」

杉本くんは、ガレットを持ったまま、少し泣きそうな顔をした。澪は、杉本くんの肩を、軽く叩いた。

かじった。

さくっ、と音がした。塩バターの香りが、口の中いっぱいに広がった。焦がした砂糖が、歯の裏で、かりっと溶けた。

「……おいしい」

杉本くんが、小さな声で言った。

「野口様、これを、透明の袋で」

「さびしいね」と澪は言った。

それから、澪は、白い小箱と、青いリボンを一本出した。

「杉本くん。もう一回、リボン」

杉本くんは、少し驚いた顔をした。

「隠すためじゃなくて、渡すための結び方。昨日、一つ教え忘れてた」

澪は、名前札を一枚書いた。〈杉本くん〉。

「札は、結び目の下に、表向き。箱を受け取った人が、最初に自分の名前を見るように」

杉本くんは、リボンを結んだ。輪を右上がりに。それから、札を、表向きに挟んだ。

閉店後の焼き菓子店のカウンターで、若い男性が小箱にリボンを結び、女性が札を指さしている。

自分の名前が、上を向いていた。

「……これ、空ですけど」

「空でいいの。練習だから」

澪は、ガレットの最後の一口を食べた。

明日の予約帳は、一件一行。追加の欄。電話の横の青いペンは、そのまま置いておく。杉本くんが、明日、電話を受けるかもしれないから。