第一章 二十二時の記録
ナギサ彗星は、明日の朝、四時四十分から五時十分までの三十分だけ、東の山の端から顔を出す。
その三十分のために、柚原千景は、半年前にこの宿を予約した。
高原の小さな宿、星見荘。客室は三つ。宿から坂道を三十メートル上がったところに、丸屋根の観測小屋があって、中に口径二十センチの望遠鏡がある。宿の予約ページの、いちばん下の小さな写真。千景は、その写真を、半年間、スマートフォンの待ち受けにしていた。
中学生のころから、星を見るのが好きだった。詳しいわけではない。ベランダで双眼鏡をのぞいて、名前の分かる星を一つずつ数えるくらい。彗星を、望遠鏡で、自分の目で見たことは、一度もなかった。
「柚原さん、双眼鏡、そうやって持つと、ぶれますよ」
夕食のテーブルで、隣の席の村瀬くんが言った。
二十六歳の大学院生で、写真の研究をしていると言っていた。夕方、千景が重い鞄を宿の階段で引きずっていると、何も言わずに持ち上げて、部屋の前まで運んでくれた。
「両肘を、体にくっつけるんです。で、息を止めずに、ゆっくり吐く。吐き終わりで見る」
千景が言われた通りにすると、窓の外の暗い山の稜線が、ぴたりと止まって見えた。
「わ、ほんとだ」
「明日、それで尾を探すといいですよ。望遠鏡の前に、双眼鏡で場所を決めとくと、早い」
向かいの席では、戸川さん夫妻が、山菜の天ぷらを食べていた。夫の正之さんは七十一歳で、元は機械工だったという。妻の美代子さんは、「この人、どこへ行っても機械ばっかり見るの」と笑った。それから、「わたしは眠りが浅くてね。部屋が玄関の真上だから、夜中に誰か出入りしたら、たぶん全部聞こえちゃう」と、少し申し訳なさそうに言った。
宿の主人の立花さんが、温かいお茶を配りながら言った。
「今夜は冷えますよ。零時前から霜が降ります。外へ出るなら、足元に気をつけて」
二十一時。五人で、観測小屋へ上がった。
全員、玄関に並んだ宿の木のサンダルを履いた。小屋までの坂道は、砂利と短い草で、夜露で少し湿っていた。玄関の土間には、それぞれの靴が並んでいた。千景のスニーカー、戸川さん夫妻の革靴、それから、村瀬くんの登山靴。靴底の格子が深い、重たそうな靴だった。
小屋の扉は、外側の南京錠で閉まっていた。立花さんが鍵で開けた。
中は、思ったより狭かった。真ん中に、白い鏡筒の望遠鏡。丸い屋根の一か所に、細長い観測窓があって、今は閉まっていた。
「窓は、これで開けます」
立花さんが、扉の内側のフックから、鉄の棒を一本取った。L字に曲がった、クランクハンドル。先が四角い軸になっていて、それを壁の歯車の穴に差しこんで回すと、屋根の窓が、ぎい、ぎい、と開いていく。
「ほう」と正之さんが、歯車をのぞきこんだ。「いい歯車ですな。昔の、削り出しだ」
二十二時まで、五人で望遠鏡を整えた。
鏡筒の向きを、明日の彗星が出る東の山の端に合わせる。村瀬くんが手際よく、千景が教わりながら。正之さんが三脚のねじを締め、美代子さんが懐中電灯で手元を照らした。

最後に、立花さんが、観測ノートを開いた。小屋の机に置いてある、表紙の擦り切れた大学ノートだった。
「明日の朝の順番を、書いておきましょう。望遠鏡は一台なので」
千景は、四時四十分から四時五十五分。村瀬くんは、四時五十五分から五時十分。戸川さん夫妻は、二人とも寝坊する自信があるから、起きたら双眼鏡で、と笑った。
それから、立花さんは、今夜の作業を一つずつ書かせた。
窓を閉めたのを確かめたのは、千景だった。ハンドルを回して、屋根の窓がぴたりと閉まるのを見て、ノートに書いた。
〈スリット閉 確認 柚原〉
ハンドルをフックに戻したのは、村瀬くんだった。
〈ハンドル フックへ 村瀬〉
千景は、村瀬くんがハンドルをフックに掛けるのを、扉のそばで見ていた。L字の鉄の棒が、フックに揺れていた。
最後に、立花さんが書いた。
〈施錠 22:00 立花〉
全員が小屋を出ると、立花さんが南京錠を閉めた。宿に戻って、玄関の横の木の鍵箱に、鍵を掛けた。鍵箱の扉は、開けると、ちょうつがいが、きいっと鳴った。
「二十二時以降は、小屋は使いません。夜露と、暗い坂道が危ないので。明日は四時二十分に、わたしが開けます」
立花さんは、そう言って、離れへ帰っていった。
寝る前に、千景は談話室で、立花さんが出してくれた温かいミルクを飲んだ。暖炉の火が小さく燃えていて、壁の棚に、歴代の客が書いた星見ノートが何十冊も並んでいた。一冊抜くと、二十年前の夏の夜に〈流れ星 十二個 娘と数えた〉と書いてあった。
村瀬くんが、カメラのバッテリーを充電器に差しながら、言った。
「柚原さんの四時四十分から、いちばんいい時間ですよね。山の端から出た直後で、空がまだ真っ暗で」
「そうなんですか」
「五時を過ぎると、空が明るくなって、尾が溶けはじめるんです。長時間露光には、ちょっと厳しい」
村瀬くんは、笑って言った。千景は、少しだけ申し訳なくなった。順番は、立花さんが予約の早い順に決めたのだった。
「明日、もし早く終わったら、少し早めに替わりますね」
「いいですよ。柚原さんの時間ですから」
村瀬くんは、そう言って、二階へ上がっていった。
千景は、部屋の布団に入って、目覚ましを四時十五分に合わせた。
窓の外で、星が、こぼれそうなほど光っていた。
第二章 四時二十五分
四時二十分。千景は、玄関で立花さんと落ち合った。
外は、まだ真っ暗だった。息が白い。サンダルを履いて玄関を出ると、足元の草が、白く光っていた。
霜だった。
坂道の砂利も、草も、一面、うっすらと白かった。懐中電灯の光の中で、霜の結晶がきらきらと光った。
小屋の前で、立花さんが南京錠に鍵を差した。かちり、と開いた。
扉を開けて、立花さんは、内側のフックに手を伸ばした。
その手が、空を切った。
「……ない」
フックには、何も掛かっていなかった。
立花さんは懐中電灯で、小屋の中を照らした。床、机の下、望遠鏡の三脚のまわり。棚。窓の下の歯車のそば。
クランクハンドルは、どこにもなかった。
「ハンドルがないと、窓が開きません」
立花さんの声が、硬かった。
千景は、屋根を見上げた。観測窓は、閉まっていた。
四時二十五分。
彗星が山の端から出るまで、十五分。
千景は、宿へ走って戻った。
玄関の物音で、戸川さん夫妻が起きてきた。それから少し遅れて、村瀬くんも、ジャケットを羽織りながら階段を下りてきた。髪に寝ぐせがついていた。
「ハンドルが、ないんです」
千景が言うと、正之さんが眉を上げた。村瀬くんは、一瞬、何か言いかけて、口を閉じた。
「昨夜、たしかにフックに掛けましたよね」と千景は言った。「村瀬くんが掛けるの、わたし、見ました」
「……はい。掛けました」と村瀬くんは言った。
立花さんが、腕を組んだ。
「わたしが、何か勘違いを……いや、ノートには書いてある。フックへ、と」
美代子さんが、正之さんの顔を見た。
「あなた、ゆうべ、夜中に下りていったわよね」
全員の視線が、正之さんに集まった。
正之さんは、ばつが悪そうに、頭をかいた。
「眠れなくてね。零時半ごろ、ポーチで一服しただけですよ」
「歯車、ずいぶん気に入ってたでしょう」と美代子さんが、半分冗談、半分本気の顔で言った。
正之さんが、むっとした顔をした。
千景は、正之さんを見た。元機械工。クランクの歯車を褒めていた。夜中に下へ降りていた。
(でも)
千景は、時計を見た。四時二十八分。
疑うだけなら、いくらでも疑える。誰でも。でも、彗星は待ってくれない。誰がやったかより先に、ハンドルがどこにあるかを知りたかった。
「立花さん。小屋の前、もう一度見せてください。懐中電灯、貸してください」
第三章 霜の足跡
坂道の霜は、懐中電灯の光を斜めに当てると、踏まれたところだけが、くっきりと浮かび上がった。
千景は、しゃがみこんだ。
足跡が、たくさんあった。
宿のサンダルの跡。木の底の、平たい、四角い跡。行きと帰りで、何人分も重なっている。昨夜二十一時から二十二時に、五人で往復した跡だ。
その上に、別の跡があった。
靴底に、深い格子の模様のある跡。行きと帰りの、一組。サンダルの跡を、ところどころ踏みつぶしていた。サンダルの跡より、後からついた跡だった。
千景は、昨夜の玄関の土間を思い出した。宿のサンダルに履き替えたとき、並んでいた靴。スニーカー、革靴が二足、それから、靴底の格子が深い、重たそうな登山靴。
昨夜、小屋へ上がったとき、全員がサンダルだった。千景は、それを覚えていた。登山靴で上がった人は、いなかった。
(二十二時のあとに、誰かが、登山靴で、小屋に行った)
千景の胸が、冷たくなった。
小屋の中に入って、千景は、もう一度屋根を見上げた。
観測窓は閉まっている——と、さっきは思った。
懐中電灯の光を、窓の合わせ目に当てた。
指一本ぶんくらいの、細い隙間があった。そこから、まだ暗い空が、細い線になってのぞいていた。
その真下の、望遠鏡の白い鏡筒に、霜がついていた。鏡筒の上側だけ、隙間の幅に沿って、白く。
千景は、ノートを開いた。昨夜の自分の字。
〈スリット閉 確認 柚原〉
確認した。ハンドルが止まるまで回して、屋根の合わせ目がぴたりと重なるのを、懐中電灯で照らして見た。閉まりきるとき、がちん、と歯車の止まる音もした。隙間は、なかった。
朝の鏡筒の霜は、その隙間から夜のあいだに入った冷えの跡だった。二十二時には、まだ霜は降りていなかった。
(誰かが、夜中に窓を開けた。それで、閉めきれなかった)
四時三十分。
宿の玄関に戻ると、四人が待っていた。
千景は、美代子さんに聞いた。
「美代子さん。ゆうべ、夜中に、何か音を聞きませんでしたか。玄関のあたりで」
美代子さんは、少し考えた。
「聞いたわよ。わたし、眠りが浅いの。部屋がちょうど玄関の真上だから。きいっ、て。あの鍵箱の音ね。二回」
「二回」
「一回目が、十一時四十分ごろ。時計を見たの。二回目が、零時二十分ごろ。それから、主人が下りていったのが、零時半。主人が下りていったときは、きいっ、は鳴らなかった」
正之さんが、うなずいた。
「ポーチに出るのに、鍵はいりませんからな。鍵箱は開けてない」
千景は、鍵箱を見た。昨夜、立花さんが鍵を掛けたとき、きいっと鳴った。鍵箱を開けるときにしか、鳴らない音。
十一時四十分に、誰かが鍵を取った。零時二十分に、誰かが鍵を戻した。
正之さんがポーチに出たのは、その十分後。それに、正之さんは、宿のサンダルで出た。坂道に、サンダルの跡は、昨夜の五人分しかなかった。後から霜の上についた跡は、格子の靴底の一組だけ。
千景は、ゆっくり、顔を上げた。
村瀬くんが、玄関の柱にもたれて、立っていた。ジャケットの前を、片手でぎゅっと押さえていた。
土間には、靴底に、溶けた霜の泥のついた登山靴が、一足、置いてあった。
第四章 双眼鏡の彗星
四時三十二分。
千景は、村瀬くんの前に立った。
本当は、言いたくなかった。夕食で、双眼鏡の持ち方を教えてくれた人だった。何も言わずに、鞄を運んでくれた人だった。
「村瀬くん」
声が、少し震えた。
「坂道に、格子の靴底の跡が、一組だけあります。サンダルの跡の上に。昨夜は全員サンダルで上がりました。玄関に、格子の靴底の靴は、村瀬くんの登山靴だけです」
村瀬くんは、黙っていた。
「観測窓に、指一本ぶんの隙間があって、その下の鏡筒に霜がついてます。わたしは二十二時に、窓が閉まるのを確認しました。夜中に、誰かが開けて、閉めきれなかった」
千景は、鍵箱を見た。
「鍵箱が、十一時四十分と、零時二十分に鳴りました。鍵を取って、戻した人がいます」
村瀬くんの指が、ジャケットの前で、ぎゅっと縮んだ。
「ハンドル、どこですか」
長い沈黙があった。
それから、村瀬くんは、ジャケットの内ポケットに手を入れた。
出てきたのは、L字の鉄の棒だった。クランクハンドル。先の四角い軸が、少し、曲がっていた。
「……試し撮り、したかったんです」
村瀬くんは、ハンドルを両手で持ったまま、言った。
「論文に、彗星の長時間露光の写真を使いたくて。本番の十五分で、ピントを合わせて、露出を決めて、撮るのは、無理だと思って。夜のうちに、星で、ピントだけ合わせておこうと思った」
「二十二時以降は使わない決まりでした」と立花さんが言った。声は低かった。
「知ってました。知ってて、行きました」
村瀬くんは、うつむいた。
「窓を閉めるとき、ハンドルが歯車から滑って。焦って、無理に回したら、軸が曲がって。窓が、最後まで閉まらなくなった。部屋に持って帰って、工具で直して、朝、立花さんが四時二十分に開ける前に戻すつもりでした。目覚ましも、三時半にかけてて。……直らなくて。そのうち、寝てしまって。目覚ましは、止めたのも覚えてないです」
正之さんが、ハンドルを受け取って、軸を見た。
「……これは、万力がないと戻らんな。ここで力任せにやったら、折れる。歯車も傷む」
元機械工の正之さんでも、すぐには直せなかった。
四時三十八分。
望遠鏡は、使えなかった。
千景は、自分の手を見た。半年間、待ち受けにしていた写真。口径二十センチの望遠鏡で、自分の目で見るはずだった彗星。
それは、もう、ない。
悔しかった。泣きたいくらい、悔しかった。村瀬くんに、何か言ってやりたかった。でも、言いたいことは、もう全部、さっき言っていた。
立花さんが、棚から双眼鏡を一つ持ってきた。
「柚原さん。坂の上からなら、山の端が見えます。双眼鏡でも、尾は見えるはずです」
千景は、双眼鏡を受け取った。
村瀬くんが、何か言おうとした。千景は、首を横に振った。
「……持ち方は、覚えてます。ゆうべ、教わったので」
四時四十分。
千景は、霜の坂道を上がって、小屋の前に立った。
東の空が、ほんの少しだけ、群青色に薄くなりはじめていた。山の稜線が、黒く浮かんでいた。
双眼鏡を構えた。
両肘を、体にくっつける。息を止めずに、ゆっくり吐く。吐き終わりで、見る。
山の端の、少し上。
ぼんやりとした、白い光の点があった。その点から、細い、細い、刷毛でひと撫でしたような白い筋が、斜め上へ伸びていた。
尾だった。
望遠鏡で見るはずだった姿とは、違った。小さくて、薄くて、すぐに夜明けの青に溶けてしまいそうだった。
でも、自分の目で、見ていた。
千景は、息を吐ききったところで、もう一度、見た。
後ろで、霜を踏む音がした。美代子さんと正之さんが、宿の双眼鏡を一つずつ持って、上がってきていた。

「どこ?」
「山の端の、少し上です。左に、二本指くらい」
「……あ、ほんとだ。あなた、見える?」
「見える。……細いな」
三人で、並んで見た。
坂の下の玄関の灯りの中に、村瀬くんが一人、立っていた。上がってはこなかった。
五時十分。尾は、空の青に溶けた。
朝食のあと、立花さんは、村瀬くんに言った。
「ハンドルの修理代と、歯車の点検代は、請求します。それと、残りの滞在中、小屋は使わないでください」
村瀬くんは、深く頭を下げた。
村瀬くんのカメラには、夜中の試し撮りの一枚だけが残っていた。ピント合わせのための、名前もない星の写真。彗星は、写っていなかった。
立花さんは、千景にも言った。
「柚原さんには、申し訳ないことをしました。宿代の一部、お返しします」
千景は、少し考えてから、首を横に振った。
「返金じゃなくて、次の新月の夜に、小屋の予約を取らせてください。望遠鏡で、何か一つ、見たいので」
立花さんは、少し驚いた顔をして、それから、カレンダーを持ってきた。
チェックアウトの前に、千景は、観測小屋へもう一度上がった。
霜は、朝日で、ほとんど溶けていた。坂道の足跡も、もう分からなかった。
小屋の机の観測ノートを開いた。今朝の欄は、空いていた。
千景は、自分の字で書いた。
〈4:40 双眼鏡で確認 山の端の左上 尾は細い 柚原〉
ペンを置こうとしたとき、扉のところに、村瀬くんが立っていた。立花さんに、ハンドルを渡しに来たらしかった。
村瀬くんは、ノートをのぞきこんで、少し迷ってから、ペンを取った。千景の行の下に、書いた。
〈夜間の無断使用とハンドルの破損 申し訳ありませんでした 村瀬〉
それから、千景を見た。
「……双眼鏡、ぶれませんでしたか」
千景は、少しだけ、黙った。
「ぶれませんでした」
それだけ言って、ノートを閉じた。許したわけではなかった。でも、ぶれなかったのは、本当だった。
帰りのバスの窓から、丸屋根の小屋が、小さく見えた。屋根の観測窓には、ハンドルが直るまで、指一本ぶんの隙間が残ったままだった。


