第一章 陽だまりの先住者
引っ越しのトラックが坂の下で帰っていくと、笹井久雄は、平屋の玄関に一人で立った。
六十三歳。鉄道の保線の仕事を、四十一年。線路の上を歩いて、レールのゆがみを確かめ、枕木のボルトを締めて、夜明け前に最初の列車を通す。定年のあと、二年だけ嘱託で残って、この春、本当に辞めた。社宅を出て、坂の町の古い平屋を借りた。
一人暮らしは、三十年目になる。若いころに一度結婚して、穏やかに別れた。それきりだった。寂しいと思ったことは、ないわけではない。でも、一人の夜にラジオの将棋中継を聞きながら、小さな線路の上に一本の列車を走らせる時間は、久雄にとって、誰にも分けたくない時間だった。
この家を選んだのは、南の六畳のためだった。
縁側に面した、日当たりのいい六畳。内見のとき、窓辺に午後の光が斜めに差しこんで、畳の上に四角い陽だまりができていた。ここに、畳一枚ぶんの模型の台を置く。窓の外の光で、線路が光る。久雄は内見の帰り道、その光景を、もう組み立てていた。
段ボールのあいだをすり抜けて、久雄は六畳の襖を開けた。
陽だまりの真ん中に、猫がいた。
大きな猫だった。背中は灰色の縞で、腹と四本の足先が白い。体を丸めると、座布団ほどの大きさがあった。赤い布の首輪。尾が短くて、先が少し曲がっていた。左耳の先に、小さな切れ込みがあった。
猫は、片目だけ開けて久雄を見た。
それから、また閉じた。
「……おい」
久雄は言った。
猫は、耳だけ、こっちに向けた。
どこから入ったのか。
縁側のガラス戸が、一枚、十センチほど開いていた。引っ越し業者が、荷物を入れるときに開けたのだろう。
久雄は、猫を抱え上げようとして、やめた。重そうだった。それに、知らない猫だ。引っかかれたら、明日の荷ほどきに差し支える。
「ほら。出なさい」
縁側の戸を大きく開けて、手で追い払う真似をした。
猫は、ゆっくり起き上がった。大きく伸びをして、前足をそろえて、あくびをした。それから、のっそりと縁側へ出て、庭へ下り、垣根の下をくぐっていった。
久雄は、戸を閉めた。鍵をかけた。
段ボールを一つ開けて、時計を出して、壁に掛けた。
三十分後、六畳に戻ると、猫は、また陽だまりの真ん中で寝ていた。
縁側の戸は、閉まっていた。鍵もかかっていた。
久雄は、家じゅうを見て回った。台所の窓。風呂場の小窓。北の四畳半の、建てつけの悪い窓が、閉まりきらずに、指二本ぶん開いていた。
(線路の点検と同じだ。一か所でも見落とすと、そこから狂う)
久雄は、その窓を力いっぱい閉めた。
六畳に戻ると、猫は、相変わらず陽だまりで寝ていた。
追い出す気力は、もう残っていなかった。久雄は、段ボールを一つ、猫から一番遠い壁ぎわで開けた。
「……今日だけだ」
猫は、返事をしなかった。陽だまりが動くのに合わせて、少しずつ、少しずつ、窓のほうへ移っていった。
夕方の五時。陽だまりが壁を上りきって、畳の上から消えた。
猫は、むくりと起き上がった。縁側のガラス戸の前まで歩いていって、座った。久雄の顔を、じっと見た。
久雄が戸を開けると、猫は振り返りもせずに庭へ下りて、垣根の下をくぐり、坂の下のほうへ帰っていった。
(時間が来たら、帰るのか)
久雄は、戸を閉めながら、少し感心した。列車の時刻表みたいだった。
第二章 二軒隣の人
翌日の午後、玄関のチャイムが鳴った。
小柄な、七十代くらいの女の人が立っていた。手に、小さな紙袋を提げていた。
「二軒隣の岩下です。引っ越しのご挨拶、遅くなって」
紙袋の中身は、町の和菓子屋の最中だった。久雄が礼を言うと、岩下さんは、首を伸ばして、久雄の肩越しに、家の奥をのぞいた。
「あの……うちのゴンタ、来とりませんか」
「ゴンタ」
「猫です。灰色の縞で、足が白い、大きいの。赤い首輪の」
久雄は、黙って六畳のほうを指さした。
陽だまりの中で、ゴンタが、仰向けに腹を出して寝ていた。
「やっぱり、ここ」
岩下さんは、ほっとしたように笑った。
それから、話しはじめた。
ゴンタは、岩下さんの飼い猫で、九歳になる。朝ごはんを食べると、町を一周して、午後はいつも、この家の縁側で昼寝をしていた。前の住人の、八十いくつのおじいさんが、縁側の戸を午後じゅう開けていてくれたからだ。おじいさんは、ゴンタの寝る縁側に、座布団まで敷いてくれていた。
「そのおじいさんが、この春、娘さんのところへ移られてね。それで、ゴンタ、どうするかなと思ってたら、やっぱり来とった」
久雄は、縁側を見た。
縁側の板の、東から三枚目のあたりに、日焼けしていない四角い跡が、うっすら残っていた。座布団の跡だった。
「笹井さんも、縁側、開けといてくれたら、うれしいんやけど。わたし、膝が悪くてね。坂を上り下りして探すの、きつくて。ここにおると分かっとったら、安心やから」
岩下さんは、そう言って、少し照れくさそうに付け足した。
「それと、月に一回、町内のお茶会があるんです。おじいさんも、よう来てくれよった。笹井さんも、よかったら」
久雄は、少し間を置いた。
「お茶会は、遠慮します」
岩下さんの笑顔が、一瞬、止まった。
「縁側は……考えます。わたしも、あの部屋は、使うつもりなので」
「そうよね。ごめんなさいね、急に」
岩下さんは、ゴンタを抱えて帰っていった。七キロはありそうな猫を、膝をかばいながら、坂の下まで。
久雄は、その後ろ姿を、玄関で見送った。言い方がきつかったかもしれない、と思った。でも、言ったことは、本当だった。
その日の夕方、ゴミ出しの場所を確かめに外へ出ると、裏の家の庭先で、三十代くらいの女の人が、畑の土を直していた。
「こんにちは。裏に越してきた笹井です」
「あ、浅見です。どうぞよろしく」
浅見さんは、軍手を外して頭を下げた。礼儀正しい人だった。それから、畑の、土が掘り返されたところを見て、ため息をついた。
「猫が、掘るんです。灰色の、大きい子。せっかく種まいたのに」
「……ゴンタ、ですか」
「名前、知らないんですけど。たぶん、あの子です。前の住人の方が縁側で寝かせてたから、このへん、通り道になってて」
浅見さんは、それ以上は言わなかった。岩下さんの名前も、出さなかった。
久雄は、坂の上と下の家のあいだに、自分の家がはさまっていることに気づいた。
その夜、久雄は、北の四畳半で、模型の箱を一つだけ開けた。
中から、黄色い車両を一両、取り出した。保線用の、線路を点検する車。実物は、夜中にだけ走る。久雄が四十一年、何百回も乗った車両だった。模型のそれは、手のひらに載るほど小さくて、屋根の黄色が、少しだけ色褪せていた。
ラジオをつけた。将棋の、夜の再放送をやっていた。
久雄は、黄色い車両を手のひらに載せたまま、布団の上で、解説者の声を聞いた。明日、台を組む。窓辺に、線路を敷く。この車両を、最初に走らせる。
第三章 駅舎と押し入れ
火曜日、久雄は模型の台を組んだ。
畳一枚ぶんのベニヤ板に、脚をつけて、六畳の窓辺に置いた。その上に、線路を一周敷いた。小さな縮尺の、指の幅ほどの線路。継ぎ目を一つずつ、指先で確かめた。曲線の外側が、髪の毛一本ぶん高くなるように、紙を一枚はさんだ。保線の仕事と、同じことをしていた。
それから、駅舎を置いた。
二十年前に、紙と木で作った駅舎だった。屋根は薄い板を一枚ずつ貼って、窓には透明な下敷きを切って入れた。ホームのベンチには、爪楊枝を削って作った小さな駅員が一人、座っていた。
木を十二本、植えた。
窓からの光が、線路を、細く光らせた。
久雄は、しばらく、何もせずに、台の前に座っていた。内見の帰りに組み立てた光景が、そこにあった。
ゴンタは、その日は来なかった。縁側の戸を、閉めていたからだ。
水曜日の午後、久雄は、駅前のホームセンターへ、線路の留め具を買いに行った。
出がけに、縁側の戸を、少しだけ開けた。六畳が、閉め切ると暑かったからだ。十センチ。猫は、通れないだろうと思った。
ゴンタは、七キロの体で、十センチを通った。
一時間後、久雄が帰ってくると、模型の台の上で、ゴンタが寝ていた。
線路の真ん中で、丸くなって。陽だまりが、ちょうど台の上に落ちていた。
駅舎が、ゴンタの腹の下で、ぺしゃんこになっていた。屋根の板が、何枚も、ばらばらに散っていた。木が三本、倒れていた。爪楊枝の駅員は、台の端から落ちて、畳の上に転がっていた。

久雄は、しばらく、声が出なかった。
ゴンタは、目を開けて、久雄を見た。それから、ゆっくり伸びをして、台の上から下りた。下りるとき、後ろ足で、もう一本、木を倒した。
「出ろ」
久雄の声は、自分でも驚くほど低かった。
ゴンタは、縁側から、庭へ下りていった。
久雄は、縁側の戸を閉めた。鍵をかけた。六畳の窓も、全部閉めた。台所の窓も、風呂場の小窓も、北の四畳半の建てつけの悪い窓も、力いっぱい閉めた。
それから、六畳に戻って、つぶれた駅舎の板を、一枚ずつ拾った。
二十年前、保線の主任になった年の冬に、作った駅舎だった。実家の近くの、小さな無人駅を思い出しながら。屋根の板は、夜勤明けの朝に、一枚ずつ貼った。百二十枚。窓の下敷きは、文房具屋で一番薄いのを選んだ。
板は、半分くらい折れていた。駅員は、無事だった。久雄は、駅員を、台の端に座らせた。駅員は、駅のない場所で、ホームのベンチもなく、ただ座っていた。
拾いながら、押し入れの戸が、半分開いているのに気づいた。午前中に、予備の布団を出し入れしたままだった。
久雄は、それを閉めた。中を見ずに。
夜の九時過ぎ、玄関のチャイムが鳴った。
岩下さんだった。懐中電灯を持っていた。息が切れていた。
「笹井さん、ゴンタ、来とりませんか。夕方から帰ってこんのです。いつもは、六時には帰るのに」
「来てません。……昼に、追い出しました」
久雄は、正直に言った。駅舎のことも言いかけて、やめた。
岩下さんは、少しのあいだ、久雄の顔を見ていた。それから、「そうですか」とだけ言って、懐中電灯で庭を照らしながら、坂の上へ上っていった。膝をかばう歩き方だった。
久雄は、玄関を閉めた。
北の四畳半で、布団に入った。眠れなかった。坂の上のほうから、ときどき、「ゴンター」と呼ぶ声が聞こえた。十時。十一時。声は、だんだん小さくなって、聞こえなくなった。
木曜日の朝、久雄は、六畳の押し入れを開けた。
予備の布団を、干そうと思ったのだ。
布団の上で、何かが、もぞりと動いた。
灰色の縞の、大きな背中。布団のあいだから、短くて先の曲がった尾が、少しだけ出ていた。
ゴンタだった。
ゴンタは、片目を開けて久雄を見た。それから、大きなあくびをした。
久雄は、昨日の自分を、思い出していた。家じゅうの窓を閉めた。鍵をかけた。一か所も見落とさないように。
押し入れだけ、中を見ずに閉めた。
(線路の点検と同じだ。一か所でも見落とすと、そこから狂う)
自分で言ったことだった。
第四章 縁側の東の端
久雄は、ゴンタを抱えた。重かった。七キロどころじゃないかもしれなかった。ゴンタは、暴れなかった。久雄の腕の中で、ぐるる、と喉を鳴らした。
坂を二軒ぶん下りた。
岩下さんの家のチャイムを押すと、岩下さんは、目の下にくまを作って出てきた。久雄の腕の中のゴンタを見て、その場に、しゃがみこんだ。
「……どこに」
「うちの押し入れに、いました。昨日、わたしが閉めたとき、中にいたんだと思います。気づかなかった。すみません」
久雄は、頭を下げた。
岩下さんは、ゴンタを受け取って、顔をうずめた。それから、少し笑った。
「押し入れ。……この子、前のおじいさんのところでも、一回やったんよ。冬に、布団の中に」
岩下さんは、ゴンタを抱えたまま、膝をさすった。
「ゆうべ、坂、三往復しました。膝が、もう、笑っとる」
久雄は、もう一度、頭を下げた。
それから、言った。
「実は、昨日の昼、ゴンタが、わたしの模型の台に乗って、駅舎をつぶしました。二十年前に作ったやつです。それで、腹が立って、窓を全部閉めました」
岩下さんは、目を丸くした。
「まあ。……ごめんなさい」
「いえ。縁側を開けたのは、わたしです」
ちょうどそのとき、裏の道から、浅見さんが、ゴミ袋を持って通りかかった。岩下さんの腕のゴンタを見て、少しだけ顔を曇らせた。
「あ、その子……岩下さんの猫だったんですね。畑、掘られてて」
岩下さんの顔が、こわばった。
久雄は、二人のあいだに立っていた。
前の住人のおじいさんなら、たぶん、ここで、二人のあいだを取り持ったのだろう。縁側を開け放して、座布団を敷いて、お茶会に出て。
久雄は、そうしなかった。
「浅見さんの畑のことは、岩下さんと、浅見さんで、話してください。わたしは、猫の飼い主じゃないので」
二人が、久雄を見た。
「わたしが決められるのは、わたしの家のことだけです。それは、決めます」
二人は、しばらく黙っていた。
それから、岩下さんが、ゴンタを抱え直して、浅見さんのほうを向いた。
「……畑、ごめんなさいね。ネット、張ったら、ましになるかしら。うちに古いのがあるけん」
浅見さんは、少し驚いた顔をした。それから、小さくうなずいた。
「助かります。種、まき直すので」
二人の話は、それで終わりではなさそうだった。でも、久雄は、そこで坂を上って、自分の家へ戻った。続きは、二人の話だった。
金曜日、久雄はホームセンターへ行った。
模型の台と同じ大きさの、透明なアクリル板を一枚。蝶番を二つ。細い角材を少し。
家に帰って、台の縁に角材を立て、アクリル板を蝶番で留めた。蓋になった。閉めると、線路も駅も木も、透明な板の下に収まった。開けると、手が入る。猫が乗っても、板がしなるだけで、中は無事だ。たぶん。
土曜日、久雄は、自分の古い座布団を一枚出した。紺の、角が少しほつれた座布団。
縁側に置いた。
前の住人の座布団の跡――東から三枚目の、日焼けしていない四角い跡――ではなく、いちばん東の端に。六畳のガラス障子の前ではなく、四畳半の窓の前でもない、縁側の角の、午後の日がいちばん長く当たる場所。
岩下さんの家に寄って、言った。
「縁側の戸は、午後の二時から五時まで、開けておきます。東の端に、座布団を一枚置きました。そこまでは、ゴンタが来てもいいです。六畳との間の障子は、閉めます。餌はやりません。岩下さんの猫なので」
岩下さんは、少し考えてから、うなずいた。
「十分です。五時になったら、わたしが迎えに行ってもええかね」
「坂を上るの、膝がきついなら、五時に戸を閉めれば、自分で帰ると思います」
岩下さんは、笑った。
「お茶会は?」
「行きません」
「やっぱり」
岩下さんは、それ以上は誘わなかった。
日曜日の午後二時。
久雄は、縁側の外の戸を開けた。風が、すうっと入ってきた。六畳との間のガラス障子は、閉めたままにした。
二時十五分。垣根の下から、灰色の縞の背中が現れた。
ゴンタは、庭を横切って、縁側に上がった。前の住人の座布団の跡のところで、一度立ち止まって、においをかいだ。それから、東の端の、紺の座布団まで歩いていって、ぐるりと一回まわって、丸くなった。
久雄は、六畳に戻った。
ラジオをつけた。将棋中継が始まっていた。解説者の、のんびりした声。
模型の台のアクリルの蓋を開けた。駅舎は、まだ作り直している途中だった。今は、空き箱を一つ、仮の駅舎として置いてある。木は、倒れた四本のうち三本を植え直した。一本は、幹が折れていた。それは、駅舎と一緒に、これから作る。
線路の上に、黄色い保線用の車両を一両、置いた。コントローラーのつまみを、ゆっくり回した。
小さな黄色い車両が、ことことと音を立てて、窓辺の線路を走りだした。
陽だまりの中で、線路が、細く光った。
ガラス障子の向こうで、ゴンタが、頭を上げた。
座布団の上から、首だけ伸ばして、ガラス越しに、走る列車を目で追った。右へ。左へ。曲線で少し傾く車体を、じっと。尾の先が、ぴく、ぴく、と動いた。

久雄は、つまみを少しだけ戻して、列車をゆっくりにした。
ラジオの中で、誰かが、長考に入った。
五時になったら、戸を閉める。ゴンタは、坂を下りて、自分の家に帰る。それまでの三時間、六畳は久雄の部屋で、縁側の東の端はゴンタの場所で、そのあいだに、ガラス障子が一枚ある。
それで、ちょうどよかった。
黄色い車両が、仮の駅舎の前を、ゆっくり通過していった。点検するみたいに、ゆっくりと。


