第一章 ほどけた柄
天幕祭の前の夜、広場の上で、星が一つほどけた。
月は、もう東の空の高いところにあった。試しに掛けた星飾りは、月の光を受けて、本番と同じ明るさで光っていた。
強い風が、港のほうから吹き上げてきた。試しに掛けた星飾りが、網の天幕の下で大きく揺れた。リツは、地面から見上げていた。夜色の丸い布に、星糸で縫った金槌の形。柄の付け根のあたりで、糸が一本、ぴん、と跳ねるのが見えた。
次の瞬間、柄の糸が、するすると抜けはじめた。
光る線が、布から外れて、夜の中に垂れ下がった。星糸は、布に張って縫い留めているあいだだけ光る。外れた糸は、垂れながら、ゆっくり暗くなっていった。

「下ろして!」
リツは叫んだ。綴工房の親方のサヨが、滑車の綱を引いた。星飾りが、ゆらゆらと下りてきた。
リツは、布を両手で受け止めた。
金槌の頭は、無事だった。柄が、なかった。柄の付け根の、結び目のあった場所に、糸の端が一本、だらりと垂れていた。
リツは、その結び目を、自分が結んだのを覚えていた。
昨日の夕方。時間がなくて、最後の一か所だけ、手早い仮結びで済ませた。いつもの癖だった。急ぐと、結び目を一つ、軽くする。今まで、それでほどけたことはなかった。
「リツ」
サヨは、何も言わずに、垂れた糸の端を指でつまんだ。それから、リツを見た。
「仮結びやね」
「……はい」
「明日、月の出は二十時十分。わたしは一日、天幕の組み立てで広場におる。工房は、あんたに任せる」
サヨは、それ以上は言わなかった。叱りもしなかった。叱られないほうが、リツには重かった。
港町トワイルの天幕祭は、年に一度の夜だった。
広場の上空に、大きな網の天幕を張る。そこに、町の人が一年に一つずつ頼んだ星飾りを吊るす。星糸は、縫って張れば、工房の灯りの下でもほのかに灯る。けれど、本当に光るのは、月の光を受けているあいだだけだ。祭りの夜、月が昇ると、天幕の星飾りがいっせいに明るくなる。町の夜空に、一晩だけの星が増える。
星飾りを縫うのは、綴工房の仕事だった。
一年前、注文を受けると、工房は糸巻きを一つ、注文主の家に預ける。注文主は、それを一年間、自分の家の窓辺に置く。糸巻きは、夜ごとにその窓から入る光を吸って、星糸になる。だから、一つの注文には、一巻きの星糸しかない。ほかの家の糸は使えない。その家の窓の光でしか、その人の星は光らない。
工房では、縫い終わっても糸巻きに少しだけ星糸を残しておく決まりだった。直しのための、四分の一ほど。
リツが工房でいちばん好きなのは、星糸が光る瞬間だった。
長い銀の星針に糸を通して、夜色の布に刺す。布の裏から引いて、糸をぴんと張る。張りきった瞬間、糸の中に、ふっと小さな光が灯る。月の下で見る光の、何分の一かの、試しの光。それでも、蝋燭に火が移るみたいに、針の通った跡から、次の跡へ。木の丸枠に張った布の上で、一本ずつ、光の線が増えていく。その瞬間を見たくて、リツはこの仕事を選んだ。
ほどけた金槌の星は、鍛冶屋のオルガさんの注文だった。
十年、毎年、同じ金槌の星。工房の棚には、十年前にサヨが描いた完成図が、いつも同じ場所に置いてあった。
リツは、その夜、工房に戻って、完成図を作業台に広げた。
(元に戻す。前と同じに)
リツは、古い完成図をそっくりに縫うのが得意だった。工房に入って四年、それがリツの誇りだった。図の線を一ミリも狂わせずに、昔の星を、今年もそのまま夜空に戻す。
ほどけた糸を、布から抜いた。
指に巻いて、数えた。
柄の糸は、オルガさんの星糸の、三分の一くらいだった。一度ほどけた星糸は、光が半分になる。手の中の糸は、まだかすかに光っていたが、隣に並べた無事な糸と比べると、はっきり暗かった。
糸巻きに残しておいた四分の一の強い糸だけでは、柄の分に足りない。金槌の頭に縫われている強い糸は、布から抜けば、それも光が半分になる。
暗い糸で、柄を縫い直すしかない。
リツは、完成図を見下ろした。金槌の頭は明るく、柄だけが暗い星。
(……それでも、前と同じ形にはなる)
リツは、そう思うことにした。
第二章 遠くから見る目
朝の八時、工房の戸が開いて、ジンが入ってきた。
親方の甥で、十九歳。工房に来て一年になるが、仕立ては、はっきり言って下手だった。星針を持たせると、三針に一回は指を刺す。糸を持たせると、絡ませる。それでも毎日工房に来るのは、サヨに言われているからで、本人がやりたいのは、仕立てではなかった。
ジンは、天幕全体の、どこにどの星を吊るすかを描く「天幕図描き」になりたかった。毎晩、広場の鐘楼に上って、天幕を見下ろしている。
「昨日の金槌、ほどけたって?」
「仮結びがほどけた。わたしの」
リツは、星針に暗い糸を通しながら言った。
「柄だけ暗い糸で縫い直す。形は、完成図どおり」
ジンは、作業台の上の完成図と、布を見比べた。何か言いかけて、やめた。
リツは、本番の布に縫う前に、端切れの布を小さな丸枠に張った。暗い糸を一本、柄の長さだけ縫って、その隣に、強い糸を一本、同じ長さだけ縫った。本番で失敗して、ほどき直すわけにはいかない。ほどけば、暗い糸は、もっと暗くなる。
張る。光は灯る。でも、強い糸の線と並べると、暗い糸の線は、ぼんやりと沈んで見えた。
リツは、丸枠を少し離して見た。
強い糸の線が、明るく光っていた。その隣の暗い線は、作業台の上でさえ、線というより、暗い隙間のように見えた。
(……近くで見ても、これ)
リツは、その考えを、頭の中から押し出した。完成図どおりの形なのだから、これでいい。
十時、オルガさんが来た。
五十八歳。日に焼けた、太い腕の人だった。去年までは、工房に来るとき、いつも鍛冶場の煤の匂いがした。今日は、しなかった。少し、足を引きずっていた。
リツは、布と完成図を見せて、説明した。
「前と同じ金槌に、縫い直します。ほどけたところの糸は、光が半分になってしまったので、柄の部分だけ、少し暗くなります。すみません。わたしの結び方の失敗です」
オルガさんは、布を見た。それから、完成図を見た。
「……それで、ええよ」
そう言った。
でも、言いながら、オルガさんの目は、完成図から、すっとそれた。窓のほうを見た。窓の外の、港のほうを。
リツは、それに気づいた。気づいたけれど、聞かなかった。
「今夜までに、間に合わせます」
「頼むね」
オルガさんは、ゆっくり帰っていった。
昼の十二時。ジンが、鐘楼から戻ってきた。手に、去年の天幕図の写しを持っていた。
「リツ、ちょっと見て」
ジンは、天幕図を作業台に広げた。広場の上の網に、小さな丸がたくさん描いてある。それぞれの丸に、星の形が、小さく。
「オルガさんの金槌は、ここ。網の、東の端」
ジンは、一つの丸を指さした。
「下から見上げると、すごく遠いんだ。鐘楼から見ても遠い。去年、ここから見たら、金槌の形、分からなかった。中まで糸で埋めてあるから、光の塊にしか見えなかった」
「……完成図は、塊じゃない」
「近くで見たらね。遠くから見たら、塊。それで、今年は柄だけ暗いんだろ。遠くから見たら、塊の横に、穴があいてるように見えると思う」
リツは、針を置いた。
「じゃあ、どうしろっていうの」
「線だけで縫ったら? 中を埋めないで、形の線だけ。線なら、遠くからでも形が分かる。糸も少なくて済む」
リツは、ジンを見た。
「ジンは、縫えないでしょ」
言ってから、しまったと思った。
ジンは、少し黙った。それから、天幕図を丸めて、言った。
「縫えないよ。だから、見てるんだ」
ジンは、工房の隅の椅子に座った。それきり、何も言わなかった。
リツは、完成図を見た。十年前のサヨの線。一ミリも狂わせずに縫ってきた線。
それから、窓の外を見た。
さっき、オルガさんが見ていた方向。港のほう。
港の手前に、鍛冶場がある。
第三章 金槌はもう持たん
十三時。リツは、鍛冶場へ行った。
鍛冶場の炉には、火が入っていた。金床の前で、若い男の人が、赤く焼けた鉄を叩いていた。カン、カン、と高い音が響いた。火花が、四方に散った。
オルガさんは、鍛冶場の入口の丸椅子に座って、それを見ていた。
「弟子のトーマ。この春から、鍛冶場はあの子のもの」
オルガさんは、リツが聞く前に言った。
「膝がね。金床の前に一日立てんようになった。だから、譲った」
リツは、オルガさんの隣に立った。トーマが鉄を叩くたびに、火花が散った。
「オルガさん。金槌の星、今年も、前と同じでいいですか」
オルガさんは、しばらく黙っていた。
「……工房の人に、そんなこと聞かれたの、初めてやね」
「ほどけたので」
「そうか」
オルガさんは、膝をさすった。
「十年、金槌を頼んできた。最初の年は、自分の鍛冶場を持った年でね。それから毎年、祭りの夜は、鍛冶場の窓から、東の端の金槌を見よった。一年分の仕事が、あそこに光っとると思って」
オルガさんは、鍛冶場の小さな窓を指さした。窓の向こうに、広場の天幕の端が見えた。
「わたしの仕事やったけん。でも、今年は、金槌は、もう持たん」
それから、少し笑った。
「何がいいか、って言われてもね。分からんのよ。花やら鳥やら、柄じゃないし。わたしは鍛冶屋やったし、もう鍛冶屋やない。何の星を掛けたらええのか」
リツは、何か言いたくなった。
(じゃあ、こうしたらどうですか)
頭の中に、いくつも形が浮かんだ。リツは美しいものを見るのが好きだった。オルガさんに似合う、きれいな星を、いくらでも思いつけた。
でも、言わなかった。
オルガさんの夜空に何を掛けるか、それは、リツが決めることではなかった。
「試しに、二つ、縫ってみます。小さく。見てもらえますか」
「……ええよ」
工房に戻ると、ジンが、まだ隅の椅子に座っていた。
「ジン。手、貸して」
ジンは、顔を上げた。
「縫えないよ」
「縫わなくていい。丸枠を持ってて。それと、できたら、遠くから見て、言って」
リツは、小さな布切れを二枚、丸枠に張った。
一つ目は、金槌。線だけで。中を埋めずに、形の輪郭だけを、光の強い糸で一本ずつ。
ジンが丸枠を持って、工房の端まで下がった。目を細めた。
「……見える。金槌だって、分かる」
二つ目を縫いはじめた。
さっき、鍛冶場で見た形だった。金床の上で、四方に散る、火花。真ん中から、細い線が八本、外へ向かって伸びる。線の先が、少しだけ曲がる。
途中で、ジンが丸枠を持ち替えようとして、垂れていた糸に指を引っかけた。
糸が、絡まった。
リツは、息を止めた。絡まった糸を、ほどくしかなかった。ほどけた星糸は、光が半分になる。指一本ぶんの長さの強い糸が、暗くなった。
「……ごめん」
ジンが、小さな声で言った。
リツは、何か言いそうになって、こらえた。
「線、一本減らす。七本にする」
火花の線は、七本になった。
ジンは、もう一度、工房の端まで下がった。長いあいだ、黙って見ていた。
「……こっちのほうが、遠くで光ると思う。線の先が曲がってるのが、いい。揺れて見える」
十五時半。リツは、二つの試作を持って、鍛冶場に戻った。
オルガさんは、一つ目の金槌を見て、すぐに首を横に振った。
「これは、嘘になる。金槌は、もう持たんのやけん」
二つ目を見た。
オルガさんは、長いあいだ、黙っていた。
金床の前で、トーマが、また鉄を叩いた。火花が散った。オルガさんは、試作の布と、本物の火花を、何度も見比べた。
「……火花、か」
それから、言った。
「わたしの火花やないね。トーマの火花やね」
リツは、どきっとした。押しつけたのかもしれない、と思った。
オルガさんは、試作の布を、指でそっと撫でた。
「でも、わたしが三十年見てきた火花や。……火花で、ええ」
そこで終わりかと思ったら、オルガさんは、続けた。
「それと、端に、小さく、金槌を一本。暗い糸で。ほどけたほうの糸で、ええけん」
リツは、目を丸くした。
「暗い糸で、いいんですか」
「ええ。もう持たん金槌やけん。暗いくらいで、ちょうどええ」
オルガさんは、そう言って、自分で笑った。
第四章 二十時十分
十六時から、リツは縫った。
最初に、布に残っていた金槌の頭の糸を、一本ずつ抜いた。抜いた糸は、手の中で、光が半分になった。十年続いた形が、布の上から消えていった。
夜色の丸い布を、大きな丸枠に張り直す。火花は、真ん中から七本の線。糸巻きに残しておいた強い糸だけで。試作とジンの絡ませた分で、もう、七本ぶんしか残っていなかった。線の先を、ほんの少しだけ曲げる。中は埋めない。
端に、小さな金槌。ほどけて光が半分になった糸――前の夜にほどけた柄の糸と、今抜いた頭の糸で。柄も頭も、線だけで。暗い糸は、余るほどあった。
結び目は、全部、本結びにした。一つも、仮結びにしなかった。一つ結ぶたびに、指で引いて、確かめた。時間がかかった。いつもの倍くらい。
三本目の線を張ったとき、光が灯らなかった。
張りが、足りなかった。糸が、ほんのわずかにたるんでいた。
リツの手が、止まった。ほどいて張り直せば、その糸は光が半分になる。それはできない。
リツは、布の裏に回って、たるんだ糸の途中に、一針だけ、小さな留め縫いを足した。糸を、そこで引き上げる。張りが戻った。
ふっ、と三本目が光った。
「今の、何?」とジンが聞いた。
「ほどかずに直すやり方。親方に習った。四年で、二回しか使ったことない」
リツは、額の汗を手の甲で拭った。
ジンは、縫わなかった。丸枠の向こう側を持って、布がたるまないように支えていた。ときどき、工房の端まで下がって、「三本目、もう少し右」「金槌、あと指一本ぶん外へ」と言った。
リツは、その言葉どおりに、線を置いた。最初は、少しだけ悔しかった。途中から、悔しくなくなった。
十九時半。最後の結び目を締めた。
リツは、星針を置いて、十年前の完成図を見た。作業台の端で、図は、今朝と同じ場所にあった。
使わなかった。
一ミリも狂わせずに縫ってきた線。それを、今年は縫わなかった。
リツは、図を丁寧に巻いて、棚に戻した。捨てはしなかった。
十九時四十五分。広場。
天幕の下で、サヨが滑車の綱を握っていた。リツが星飾りを渡すと、サヨは、布を一度だけ広げて見た。
火花と、小さな暗い金槌。
サヨは、何も言わなかった。少しだけ、片方の眉を上げた。
「オルガさんが、決めました」
「そう」
サヨは、綱を引いた。星飾りが、網の天幕の東の端へ、ゆっくり上がっていった。
「仮結びの件は、明日から一か月、結びの練習」
「はい」
リツは、うなずいた。
広場には、もう人が集まりはじめていた。屋台の灯り。子どもたちの声。網の天幕には、町じゅうの星飾りが、ずらりと吊るされていた。どれも、屋台の灯りに紛れてしまうくらいの、ほのかな試しの光のままだった。
広場の端に、オルガさんがいた。トーマと並んで、丸椅子に座っていた。
二十時十分。
東の海の上に、月が顔を出した。
天幕の星飾りが、一つ、また一つと、光りはじめた。町の人が一年間、窓辺に置いた光が、網の上に戻ってくる。魚の形、舟の形、パンの形、名前の頭文字。広場から、小さな歓声が上がった。
東の端で、オルガさんの星が、光った。
七本の線が、真ん中から外へ。線の先が、少しだけ曲がっていた。風が吹くと、星飾りがわずかに揺れて、線の先が、ちらちらと震えた。
火花だった。遠くからでも、ちゃんと、火花に見えた。
その端に、小さな金槌が、ほのかに光っていた。火花よりずっと暗く、でも、消えずに。

リツは、首が痛くなるまで、見上げていた。
きれいだった。
十年前の完成図の金槌より、きれいだと思った。それは、リツが一人で決めた形ではなかった。オルガさんが選んで、ジンが遠くから見て、リツが縫った。それでも、最後の結び目を締めたのは、リツの指だった。
広場の端で、オルガさんが、トーマに何か言っていた。トーマが、星を見上げて、頭をかいた。
リツは、鐘楼を見上げた。
鐘楼のてっぺんに、小さな人影があった。ジンだった。天幕図の写しを手に持って、天幕全体を、見下ろしていた。
ジンは、リツに気づいて、片手を上げた。それから、天幕の東の端を指さして、親指を立てた。
リツも、親指を立て返した。
いつのまにか、オルガさんが、膝をかばいながら、リツの横に来ていた。
「ちゃんと、見えるね。鍛冶場の窓からも、見えるやろか」
「東の端なので、たぶん」
「トーマが、来年は自分で頼みたいって言いよった。火花を」
オルガさんは、星を見上げたまま言った。
「わたしは、来年は、何を頼もうかね。まだ分からん。一年あるけん、窓辺で考えるわ」
「糸巻き、明日、お届けします」
「頼むね」
それから、もう一度、自分の縫った火花を見上げた。
月が沈むまで、まだ、たっぷり時間があった。


