第一章 お茶当番の誘い
日曜日の朝八時、坂下典子は、少年野球のグラウンドの隅で、紙コップに麦茶を注いでいた。
十二個。小学生の数だけ。注ぎ終わると、保冷バッグから氷を一つずつ落とす。グラウンドでは、五年生の息子の大翔が、ベンチの端でグラブを膝に置いていた。今日も、たぶん出番はない。大翔は補欠だった。
典子は、お茶当番を、もう四年やっていた。
「坂下さん、ちょっといい?」
声をかけてきたのは、大石さんだった。五十代で、隣の地区に住んでいて、息子さんが昔、このチームにいた。日に焼けた顔で、大きなスポーツバッグを肩にかけていた。
「うちのソフトボールのチーム、人が足りんのよ。日曜の朝の七時から九時。来月、地区大会があるんやけど、今、ちょうど九人しかおらんで、一人休んだらもう試合ができん。坂下さん、高校でソフトやってたって、前に言いよったよね」
典子は、麦茶のやかんを持ったまま、固まった。
言ったことは、ある。四年前、このグラウンドで、何かの話の流れで。
「やってました。……三年間、補欠でしたけど」
「補欠でええ。補欠がおらんのよ」
大石さんは、笑った。
典子は、グラウンドを見た。大翔が、ベンチで、退屈そうに足をぶらぶらさせていた。
高校の三年間、典子はベンチにいた。夏の大会の最後の試合も、ベンチから見ていた。一度も、公式戦の打席に立たなかった。そのことを、二十四年間、ほとんど思い出さなかった。
今、急に思い出した。
「……やります」
言ってから、自分でも驚いた。
最初の練習は、散々だった。
河川敷のグラウンドに、黄色いシャツの女の人たちが集まっていた。ソフトボールチーム「ひまわり」。二十代から六十代まで、九人。そこに、典子ともう一人が加わって、十一人になった。典子は、押し入れの奥から出してきた高校時代のグラブを左手にはめた。革が固くなっていた。
キャッチボールで、三球に一球、落とした。
ノックで、ライトに上がったフライを追いかけて、目測を誤って、ボールを額で受けた。黄色いゴムのボールは、思ったより重かった。
「坂下さん、大丈夫?」
「……大丈夫です」
額が、じんじんした。グラウンドの端で、ほかのメンバーが、笑いをこらえていた。
同じ日に入ったもう一人がいた。
片山茜さん。二十八歳。会社員で、一人暮らし。高校まではバドミントン部で、ソフトボールは初めてだと言った。
片山さんは、最初のノックで、三本のうち二本を捕った。走るのが速かった。落下点に、迷わずに入っていった。
「すごいですね」と典子が言うと、片山さんは、少し照れたように言った。
「シャトルのほうが、落ちてくるの遅いんで。ボール、速くてびっくりしました」
典子は、額をさすりながら、笑い返した。
笑いながら、胸の奥に、小さく、固いものができていた。
(わたし、経験者なのに)
第二章 四週間
地区大会まで、四週間あった。
大石さんは、二回目の練習のあとで言った。
「大会の先発は、今の九人で行く。坂下さんと片山さんは、控え。代打と守備固めで、出番はあると思っといて」
典子は、うなずいた。当然だった。入ったばかりだ。
うなずきながら、「あると思っといて」の「思っといて」のところで、胸がちくりとした。
その夜、典子は、夫の浩二に言った。
「来週から、日曜の朝、六時半にグラウンドに行く。自主練習」
浩二は、少し驚いた顔をした。
「大翔の野球は?」
「お茶当番、あなたが代わって。四週間だけ」
浩二は、少し考えて、うなずいた。
「やかん、どれ」
「台所の、大きい赤いの。氷は前の晩に作っとく」
浩二は、それ以上何も聞かなかった。翌週の日曜日、浩二は、赤いやかんと保冷バッグを持って、大翔と一緒に少年野球のグラウンドへ行った。紙コップの数を、出がけに典子に二回確かめた。
日曜の朝六時半。河川敷のグラウンドに行くと、もう一人、来ていた。
片山さんだった。
「坂下さんも?」
「片山さんも?」
二人で、少し笑った。
それから四週間、日曜の朝六時半から七時まで、二人でフライの練習をした。片山さんがノックを打って、典子が捕る。交代して、典子が打って、片山さんが捕る。
典子は、フライの目測が苦手だった。高校のときから、ずっと。ボールが上がった瞬間に前に出て、頭の上を越されるか、下がりすぎて前に落とすか。
片山さんが言った。
「わたし、バドミントンで、最初の一歩だけ後ろに下がるって習いました。シャトルが上がったら、まず一歩下がって、それから前に出る。頭の上を越されて後ろへ追いかけるより、前に出るほうが、ずっと楽なんで」
典子は、試してみた。ボールが上がる。一歩、下がる。落ちてくるのを見る。二歩、下がる。それから、一歩、前。
三週目に、十本のうち七本、捕れるようになった。
その日の七時からの全体練習で、典子は、ライトの森さんが、一本、フライの目測を誤るのを見た。前に出すぎて、頭の上を越された。森さんは、何事もなかったように拾って返した。誰も何も言わなかった。典子も、言わなかった。
練習のあと、典子は、ボールを片づけている大石さんのところへ行った。
心臓が、ばくばくしていた。お茶当番の四年間、誰かに「わたしを使ってください」と言ったことは、一度もなかった。
「大石さん。大会、どこかで、使ってもらえますか」
大石さんは、ボールの袋の口を縛りながら、典子を見た。
「使いたいよ。でも、今の坂下さんやったら、まだ、どこで使うか決められん」
大石さんは、指を二本立てた。
「フライが、十本中八本捕れるようになったら、ライトの守備固め。下手投げの速い球に、三球に一回、前に飛ばせるようになったら、代打。どっちも、わたしが練習で見て決める」
典子は、うなずいた。八本。今は七本。
格好悪いと思った。四十一歳で、二十八歳の片山さんと並んで、条件を出されている。でも、条件を出されたことが、少しだけ、うれしかった。
木曜日の夜は、一人で、駅前のバッティングセンターに行った。
いちばん奥の二打席だけ、ソフトボール用の下手投げのマシンがあった。二十球、三百円。
高校のときから、典子は、下手投げの速い球に振り遅れた。ボールが、下から浮き上がってくるように見える。目で追っているうちに、もう、キャッチャーのミットに入っている。
四週目の木曜日、隣の打席に、片山さんがいた。
「……坂下さん、ここ来てたんですね」
「片山さんも」
片山さんの打球は、ほとんど前に飛ばなかった。足は速いのに、バットに当たらない。
典子は、少しだけ、ほっとした。それから、ほっとした自分が、嫌になった。
「足を、ボールが来る前に、先に踏み出すといいよ。わたし、ボールを見てから足を出してたら、いつも遅れてた」
言ってから、自分が教えていることに驚いた。片山さんは、言われた通りにやってみた。三球目に、マシンの横のネットに、ぱしん、と当たった。
「当たった」
片山さんが、うれしそうに振り返った。

帰りに、自動販売機の前で、片山さんが言った。
「わたし、会社で、ほとんど声を出さないんです。電話とメールばっかりで。日曜の朝だけ、大声出していいから、ソフトボール、やめられないんですよね。……だから、試合、出たいです」
「わたしも出たい」
「知ってます」
片山さんは、缶のスポーツドリンクを一本、典子に渡した。
典子は、笑った。笑いながら、また、胸の奥が、固くなった。
(教えなきゃよかった)
そんなことを、一瞬、思った。
大会の前の日曜日の朝、典子は、十本のうち八本を捕った。七時からの全体練習で、大石さんは、バックネットの横からそれを見ていた。
打撃は、最後まで、三球に一回には届かなかった。五球に一回。片山さんは、最後の木曜日に、三球に一回、マシンの球を前へ飛ばしていた。
大石さんは、何も言わなかった。典子も、聞かなかった。聞かなくても、分かった。
第三章 六回の落球
地区大会の一回戦は、十月の最後の日曜日だった。
相手は「あおば」。去年の準優勝チーム。エースの千田さんは、五十代の、下手投げのとても速い投手で、この大会を最後に引退するという噂だった。
典子と片山さんは、ベンチの端に、並んで座った。黄色いシャツ。紺の帽子。典子のグラブの親指のところには、高校のとき、マジックで書いた「必勝」の文字が、かすれて残っていた。
浩二と大翔が、観客席の端にいた。大翔は、典子が出ないのに、少年野球のチームの帽子をかぶって座っていた。
一回表、あおばは二死一・二塁から二塁打で、いきなり二点を取った。
二回裏、ひまわりは、野口さんの四球と盗塁、吉岡さんの左前安打で一点を返した。ソフトボールでは、走者はピッチャーがボールを離すまで塁を離れられない。野口さんは、千田さんの手からボールが離れた瞬間に、二塁へ走った。ベンチが沸いた。
四回表、ソロ本塁打で、三対一。
五回裏、堀さんの中前安打、吉岡さんの二塁打で、二・三塁。佐々木さんの当たり損ねの投ゴロが内野安打になって、一点。小池さんの右前安打で、もう一点。三対三。
ベンチの全員が、立ち上がって声を出した。典子も、片山さんも、声を出した。声を出しながら、典子は、自分が試合に出ていないことを、ほんの一瞬だけ、忘れていた。
六回表。一死一塁。
あおばの打者が、高いフライを打ち上げた。ライトへ。
ライトは、森さんだった。六十歳。チームの最年長で、守備が自慢だった。練習でも、典子の額にボールが当たったとき、森さんだけは笑わなかった。
森さんが、前に出た。
典子は、ベンチから見ていた。前に出るのが、少し早かった。
ボールは、森さんのグラブの先を越えて、後ろに落ちた。
一塁の走者が三塁へ。打者は二塁へ。一死二・三塁。
次の打者の犠牲フライで、一点。左前安打で、もう一点。五対三。
六回表が終わって、森さんは、ライトから、ゆっくりベンチに戻ってきた。帽子を目深にかぶっていた。誰も、何も言わなかった。森さんは、ベンチのいちばん奥に座って、グラブを膝の上に置いた。
典子は、そのグラブを見た。
自分が額でボールを受けた日、森さんは笑わなかった。今、何か言うべきなのか、言わないべきなのか、典子には分からなかった。
六回裏、ひまわりは、大石さんの右飛と野口さんの四球のあと、堀さんの遊ゴロが併殺になって、無得点だった。
六回裏が終わったところで、大石さんが、ベンチの前に立った。
「七回、守備を替える。ライト、森さんに代わって坂下さん」
典子は、顔を上げた。
「それと、七回裏、九番に回ったら、代打は片山さん」
典子の顔が、動いた。自分でも分かった。
代打。
打席に立つのは、片山さんだった。
(わたしは、守備)
守備固め。打つためではなく、捕るために出る。
典子は、うなずいた。うなずいたけれど、顔は、たぶん、うなずいていなかった。片山さんが、隣で、典子の顔を見ていた。
ベンチの奥から、森さんが立ち上がった。グラブを、ぎゅっと握っていた。
「坂下さん」
森さんは、典子の前に来て、低い声で言った。
「ライト、太陽が一塁側の上にある。七回は、まだ低い。上がったら、帽子のつばで隠して」
それだけ言って、森さんは、ベンチの奥に戻っていった。
第四章 一歩下がって、一歩前
七回表。典子は、ライトの守備位置に立った。
二十四年ぶりの、公式戦のグラウンドだった。足元の芝が、思ったより柔らかかった。
一死一塁。
あおばの打者が、ボールを打ち上げた。
ライトへ。
高い。
典子は、一歩、下がった。
ボールが、太陽の方向に入りかけた。森さんの言葉を思い出した。帽子のつばを、少し下げた。黄色いボールが、つばの陰から、また見えた。
二歩、下がった。
落ちてくる。
一歩、前。
グラブを、顔の前に出した。
ぱすっ、と音がした。
グラブの中に、黄色いボールがあった。
二死一塁。
ベンチから、大きな声がした。大石さんの声だった。片山さんの声も混じっていた。観客席の端で、大翔が立ち上がっていた。
典子は、ボールを内野に返した。手が、少し震えていた。
次の打者は、遊撃へのゴロで、七回表が終わった。
七回裏。五対三。ひまわりは、二点を取らなければならない。
先頭の七番、吉岡さんが四球を選んだ。無死一塁。
八番。
典子だった。
森さんの打順に入っていたことを、典子は、ネクストバッターズサークルに立ってから、ようやく実感した。打席に立つ。ライトの守備固めで入った人間が、打席に立つ。
(打席が、回ってきた)
バットを握った。手のひらが、汗ばんでいた。
打席に入った。マウンドの千田さんが、典子を見た。五十代の、日に焼けた、穏やかな顔だった。でも、ボールを持った手は、少しも穏やかではなかった。
一球目。下手投げの速い球が、下から浮き上がってきた。
見送った。ストライク。
二球目。振った。遅れた。空振り。
ツーストライク。
ベンチから、「坂下さん、足!」と声がした。片山さんの声だった。
典子は、木曜日のバッティングセンターを思い出した。ボールが来る前に、足を出す。見てからじゃ、遅い。
三球目。千田さんの腕が回った。
典子は、千田さんの手からボールが離れる前に、左足を踏み出した。
バットを振った。
かきん、と高い音がした。
手のひらに、重い感触が残った。黄色いボールが、三塁と遊撃のあいだへ、低く、強く、転がっていった。
典子は、走った。
一塁まで、十八メートル。高校のとき、何百回も走った距離。
遊撃手が、横っ飛びにボールを止めた。倒れたまま、一塁へ投げた。
典子は、ベースを踏んだ。
一塁手のミットに、ボールが入る音がした。
ほとんど、同時だった。

「アウト!」
一歩、足りなかった。
典子は、一塁ベースの向こうで、膝に手をついた。息が、切れていた。二塁で、吉岡さんが、ガッツポーズをしていた。走者は、二塁へ進んでいた。
一死二塁。
九番、宮田さんに代わって、代打の片山さん。
片山さんは、ネクストバッターズサークルから打席へ歩くとき、一塁から戻る典子とすれ違った。
「足、先に出しました?」と片山さんが聞いた。
「出した」
片山さんは、うなずいて、打席に入った。
二球目を、打った。高く上がった。遊撃の頭の上。遊撃手が、二歩下がって、捕った。
二死二塁。
一番の佐々木さんが、三振した。
試合が、終わった。五対三。
整列して、礼をした。
あおばのベンチに戻りかけた千田さんが、足を止めて、ひまわりのベンチのほうへ来た。典子の前で、止まった。
「最後の、三遊間の当たり。強かった。あれ、抜けとったら、危なかった」
典子は、何と答えていいか分からなかった。
「……ありがとうございます」
「わたし、今日が最後のつもりで投げよったけど、あと一年やろうかな。あんな当たり、まだ打たれるなら」
千田さんは、笑って、自分のベンチへ戻っていった。
ベンチの片づけをしていると、森さんが、典子の横に来た。
「ナイスキャッチ」
それだけ言った。
「……つばの話、助かりました」
森さんは、少しだけ笑った。それから、自分のグラブを見下ろした。
「来月のリーグ戦は、わたし、ライトで先発するけんね。譲らんよ」
「わたしも、譲りません」
言ってから、典子は、自分が何を言ったのか、気づいた。
森さんは、声を出して笑った。
片山さんが、バットケースを肩にかけて、近づいてきた。
「坂下さん。わたし、来週も六時半、行きます」
「わたしも行く」
「次は、わたしが先発です」
「わたしがする」
二人で、少しにらみ合って、それから、笑った。
家に帰ると、大翔が、玄関で待っていた。
「お母さん、アウトだったね」
「アウトだった」
「でも、あの当たり、ショートが飛ばんかったら抜けてた」
大翔は、少年野球の帽子を、まだかぶっていた。
浩二が、台所から、赤いやかんを洗いながら言った。
「どうやった」
典子は、靴を脱ぎながら、少し考えた。
「悔しい」
言ってみると、思っていたより、ずっと悔しかった。二十四年分くらい、悔しかった。
それから、言った。
「来週の日曜も、六時半から、グラウンド行く。お茶当番、また代わって」
浩二は、やかんを拭きながら、うなずいた。
「氷は、前の晩やな」
典子は、居間の壁のカレンダーを見た。来月の第二日曜日に、典子は、大石さんから聞いたその日、自分で赤い丸をつけていた。リーグ戦。
打順は、まだ、決まっていない。
典子は、玄関に置いた高校時代のグラブを、もう一度手に取った。革が、四週間で、少しだけ柔らかくなっていた。


