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日常

帰りの電車でパンを割る

全員の希望を入れた行程表で、わたしだけ、何も見ていなかった。

読了目安
15分
長さ
短編
#ほっこり#旅#友だち
帰りの電車でパンを割るのイメージ

あらすじ

大学の同期三人が、三年ぶりに港町へ日帰り旅行に出かける。幹事の環は、分刻みの行程表を作った。早紀は名物のパン屋に並びたい。千尋は岬に座って絵を描きたい。全員の希望を一つ残らず入れたはずの一日は、パン屋の七十分待ちから少しずつずれていく。環が急かすたびに、千尋は黙っていく。帰りの特急は、十七時五十二分。

第一章 行程表

七時四十分の特急が動き出すと、野々村環は、スマートフォンの画面を二人のほうへ向けた。

「はい、今日の行程表」

表計算のマス目が、縦にずらりと並んでいた。九時十分、潮見駅着。九時二十分、「麦の灯」に並ぶ。十時二十分、岬。十一時、路地散策。十二時、海鮮食堂(予約済み)。十三時半、市場。十四時半、二軒目のパン屋。十五時半、展望台。十六時半、岬もう一回。十七時五十二分、帰りの特急。

「……細かっ」

向かいの席で、早紀が、ゆで卵の殻をむきながら笑った。

「三年ぶりなんやけん。全部入れたかったの」

環は、胸を張った。総務課長として、社内旅行の行程を八年組んできた。トイレ休憩の場所まで決めて、遅れた人を一人も出さなかったのが、ひそかな自慢だった。

「早紀の『麦の灯』は、開店の四十分前から並ぶ。千尋の岬は二回入れた。わたしの路地は、三十分」

一か月前、三人のグループのメッセージで、環は聞いた。〈行きたいところ、一人一つ挙げて〉。早紀は、すぐに返した。〈麦の灯のカンパーニュ!〉。千尋は、一日たってから返した。〈岬に、二時間くらい座って描きたい〉。

環は、その「二時間」を、三十分ずつ二回に分けて行程表に入れた。二時間も一か所にいたら、ほかが入らない。三人で来たのだから、三人とも満足して帰らせたい。全員の希望が一つ残らず入った行程表を見たとき、環は、満足した。これで、成功だと思った。

自分の路地は、最後に、余ったところへ三十分だけ入れた。

窓際の千尋は、行程表をのぞきこんで、少し黙った。それから、「ありがとう」と言った。鞄の口から、黒い表紙のスケッチブックが、半分のぞいていた。

三人は、大学の同じゼミだった。卒業して十七年。最初の十年は、毎年どこかへ行った。この三年は、誰かの子どもの熱、誰かの異動、誰かの引っ越しで、流れ続けた。

「環、覚えとる?」と早紀が言った。「四年のゼミ旅行で、あんた一人で路地に入って、迷子になって、集合に二十分遅れたやん。先生が駅で青い顔して」

「覚えてない」

「覚えとるやろ」

環は、窓の外を見た。覚えていた。知らない町の、知らない路地を、地図を見ずに歩くのが好きだった。曲がった先に何があるか分からないのが、楽しかった。あの日、遅れて駅に着いたとき、先生に怒られながら、環はまだ、路地の奥で見た古い井戸のことを考えていた。

今は、迷う暇がない。幹事は、迷ってはいけない。

「今日は、遅れないよ。行程表、作ったし」

千尋が、窓の外の海を見ながら、言った。

「環が遅れんのは、知っとる」

それが褒め言葉なのかどうか、環には、分からなかった。

第二章 七十分と三十分

潮見は、小さな港町だった。

駅を出ると、潮の匂いがした。坂の多い町で、駅前から海まで、細い道がいくつも下っていた。

「麦の灯」は、駅から五分の、坂の途中にあった。九時二十分。店の前には、もう二十人以上が並んでいた。

「……四十分待ちの見込みやったよね」と早紀が言った。

「去年の口コミでは」

環は、行程表を見た。十時十分に買い終えて、十時二十分に岬。

列は、ゆっくりしか進まなかった。一人で五つも六つも買っていく人がいた。焼き上がりを待つ時間もあった。早紀は、少しも苦にしていないようだった。前の人の袋の中身をのぞいて、「あれ、何やろ」と言い、ガラス越しに見える窯の火に見とれた。

千尋は、列の横の石垣に腰かけて、スケッチブックを開いた。店の看板を、鉛筆でさらさらと描きはじめた。

早紀は、前に並んでいる地元の年配の女の人と、いつのまにか話しこんでいた。「あんたら、どこから?」「市内からです」「ほんなら、カンパーニュは一個までよ。去年から限定になった」。早紀は、五分で、町の魚屋の場所と、市場の干物の店の名前まで聞き出していた。

環は、列の脇の、細い路地の入口を見ていた。

店の横から、坂の下へ、人ひとりぶんの石段が続いていた。両側の家の軒先に、植木鉢が並んでいた。石段の途中で、茶色の猫が一匹、こっちを見ていた。その先は、曲がっていて、見えなかった。

(曲がった先、何があるんやろ)

環は、一歩、そっちへ足を向けかけて、やめた。列を離れたら、戻ってこられないかもしれない。行程表がある。

環は、時計を見た。それから、二分おきに、時計を見ていた。

買えたのは、十時半だった。七十分。

早紀は、塩パンを三つと、大きな丸いカンパーニュを一つ買った。カンパーニュは一人一個の限定だった。

「これは、家族のお土産。旦那と子どもたちに」

早紀は、カンパーニュを両手で抱えて、いとおしそうに紙袋にしまった。塩パンを一つずつ、二人に配った。

「歩きながら食べよ」

塩パンは、外がぱりっとして、中から溶けたバターがじゅわっと出た。環は、かじりながら、時計を見た。十時三十二分。岬まで、二十分。行程より、三十分遅れていた。

(路地の三十分を削れば、取り戻せる)

環は、自分の分を、行程表から消した。誰にも言わずに。

岬は、町の東の端にあった。

坂を下りて、漁港を抜けて、松林の中の細い道を上る。林が切れると、急に視界が開けて、海が広がった。岬の先に、白い小さな灯台。崖の下で、波が白く砕けていた。

十時五十分。

千尋は、何も言わずに、岬の先の草の上に座った。スケッチブックを膝に置いて、鉛筆を出した。

早紀は、写真を撮った。環も、一枚撮った。

それから、環は、時計を見た。

行程表では、岬は三十分。十二時の食堂の予約に間に合うには、十一時二十分にはここを出なければならない。

十一時十五分。

「千尋、あと五分ね」

千尋は、返事をしなかった。鉛筆が、紙の上を動いていた。灯台の形が、少しずつ、紙の上に立ち上がっていた。

十一時二十分。

「千尋。行こう。食堂、予約しとるけん。それに、午後にもう一回、岬入れとるから」

千尋の鉛筆が、止まった。

千尋は、スケッチブックを、ゆっくり閉じた。描きかけの灯台が、表紙の中に消えた。

「……うん」

千尋は、立ち上がった。それきり、食堂に着くまで、一言も喋らなかった。

第三章 予約の席

海鮮食堂は、漁港の前の、二階建ての古い店だった。十一時五十五分。窓際の予約席に、三人で座った。

刺身定食が、三つ運ばれてきた。ぶりとかんぱちとアジ。肉厚の切り身が、氷の上でつやつやしていた。

早紀が、「うまっ」と言った。

千尋は、箸を持ったまま、何も言わなかった。

環は、行程表を開いた。

「えっとね、午後は、遅れた分を詰めるね。市場は十三時から三十分。二軒目のパン屋は十三時四十分。展望台は——」

「環」

千尋が、箸を置いた。

「わたし、メッセージで言ったよね。岬で、二時間、座って描きたいって」

環は、画面から顔を上げた。

「言ってた。だから、二回入れたよ。午前と午後で、合わせて一時間」

「二回に分けたら、二時間にならんのよ。描きかけで閉じたら、光が変わる。午後に戻っても、同じ灯台は描けん」

「……でも、三人で来たんやけん。三人で、いろいろ見たほうが」

「三人で同じものを見るのは、楽しいよ。でも、わたし、最近、一人で描くのが好きなんよ。一人で、二時間、黙って座っとるのが」

環は、言葉に詰まった。

「前は、そんなこと言わんかったやん」

言ってから、しまったと思った。

千尋の顔が、少し、こわばった。

早紀が、ぶりを一切れ口に入れて、飲みこんでから、言った。

「前は前やん。環」

それから、少し笑って、続けた。

「でも、朝の七十分は、わたしのせいやね。ごめん。あそこで、千尋の二時間、半分食べたわ」

「早紀のせいじゃない。わたしの見込みが甘かった」と環は言った。

「見込みとかじゃなくてさ」

早紀は、箸で、環の行程表の画面を、ちょん、と指した。

「環、今日、何か見た?」

環は、黙った。

麦の灯の窯の火も、岬の灯台も、刺身のつやも、見た。見たけれど、全部、時計と一緒に見ていた。次の予定までの残り時間と一緒に。

それに。

「路地、消したやろ。行程表から」

早紀は、ちゃんと見ていた。

三人とも、しばらく黙って、刺身を食べた。アジは、生姜醤油で食べると、甘かった。

環は、湯のみのお茶を飲み干して、言った。

「……午後、別々にしよっか」

二人が、環を見た。

自分で言いながら、環は、胸の奥が少しだけ、きゅっとなるのを感じた。三人で同じ景色を見るために、行程表を作った。それを、自分で捨てようとしていた。

「千尋は、岬で、二時間でも三時間でも描いて。早紀は、市場と、二軒目のパン屋。わたしは——」

「路地」と早紀が言った。

「……路地」

それから、環は、いつもの声に戻った。総務課長の声。

「集合は、十七時二十分。駅前の、木のベンチ。帰りの特急は、十七時五十二分。それを逃したら、乗り換え二回で、帰りが二時間半になる。それだけは、守って」

千尋が、初めて、少し笑った。

「環らしい」

それから、千尋は、少し小さな声で言った。

「……ごめん。空気、悪くして」

「悪くしたのは、わたし」と環は言った。「千尋の二時間を、勝手に半分にした」

「それと」と環は言った。「途中で、写真とか送ってこなくていいけん。わたしも送らん」

「え、送らんの?」と早紀が目を丸くした。

「送ったら、たぶん、わたし、全部の予定を気にしはじめるけん」

早紀が、声を出して笑った。千尋も、笑った。

第四章 帰りの特急

食堂の前で、三人は、三つの方向に分かれた。

千尋は、漁港を抜けて、松林のほうへ。早紀は、坂の上の市場のほうへ。

環は、どっちにも行かなかった。食堂の裏の、細い路地に入った。

地図は、見ないと決めた。

路地は、人ひとりがやっと通れるくらいの幅だった。両側に、古い木造の家が並んでいた。二階の窓から窓へ、物干し竿が渡されていて、白いシャツとタオルが、海風に揺れていた。

角を曲がると、猫が二匹、石段の上で寝ていた。

もう一つ曲がると、古い写真館があった。ショーウィンドウに、色の褪せた家族写真が何枚も飾ってあった。何十年も前の、知らない家族。七五三の女の子。

もう一つ曲がると、行き止まりだった。

環は、笑った。一人で。

戻って、別の角を曲がった。坂を下りた。家と家のあいだの、肩幅くらいの隙間から、急に、海が見えた。青い、平たい海。その端に、白い小さな灯台。

岬の、灯台だった。

環は、立ち止まって、その隙間から、灯台を見た。今ごろ、あの下のどこかで、千尋が描いている。

古い家の並ぶ細い路地で、女性が家と家のあいだの隙間から、遠くの海と白い灯台を見ている。

環は、スマートフォンを出して、一枚だけ写真を撮った。家と家のあいだの海と、小さな灯台。

送らなかった。

それから、また歩いた。小さな銭湯の煙突があった。煙が、細く上っていた。どこかの家から、魚を焼く匂いがした。

何も買わなかった。誰にも会わなかった。

気がつくと、空が、少しだけ橙色になっていた。

時計を見た。十七時十分。

(駅、どっち)

環は、地図を開いた。駅は、思っていたのと、反対の方向にあった。

十七時二十三分。駅前の木のベンチに、環が走って着いたとき、千尋と早紀は、もう座っていた。

港町の駅前の木のベンチに二人の女性が座り、そこへもう一人が手を振りながら走ってくる。

「遅い」と早紀が言った。

「三分」

「大学のときは、二十分やった。成長したね」

千尋は、何も言わずに、くすくす笑っていた。

環は、駅の売店で、缶のお茶を三本買った。三人で、十七時五十二分の特急に乗った。

特急が動き出して、潮見の町が窓の外を流れはじめると、早紀が、紙袋を膝の上に出した。

朝の、カンパーニュだった。

「それ、家族のお土産やろ」と環が言った。

「家族には、こっち」

早紀は、もう一つの小さな紙袋を見せた。中に、細いバゲットが一本入っていた。

「二軒目の『しおかぜ』で買った。あそこのおじいさんがね、麦の灯の主人の、昔の師匠なんやって。修業時代に、毎朝、生地を叩かれよったって。バゲット、こっちのほうが、うちの子たちの好みやと思う。カンパーニュは、硬いけん、子どもたち、たぶん残す」

早紀は、丸いカンパーニュを、両手で持った。

それから、ぐっと力を入れて、半分に割った。ぱりっ、と皮が鳴った。朝に焼けたパンは、もうすっかり冷めていた。それでも、割ったところから、小麦の匂いが、ふわっと車内に広がった。

半分を、さらに割った。大きいのと、小さいのができた。

「はい」

大きいのを千尋に、半分を環に、小さいのを自分に。

「早紀、それ、小さすぎん?」

「わたし、市場で四つ食べたけん。干物と、たこ焼きと、いか焼きと、しおかぜの揚げパン」

環と千尋は、顔を見合わせて、笑った。

「で、千尋は?」と早紀が言った。

千尋は、鞄からスケッチブックを出した。

一枚目のページは、ぐしゃぐしゃだった。

「風でめくれた。二本目の線で、ページが三枚まとめて飛んで、鉛筆が全部の上を走った」

二枚目。

灯台だった。

岬の先の、白い小さな灯台。崖。その下の、白く砕ける波。午後の光で、灯台の影が、草の上に長く伸びていた。鉛筆だけの絵なのに、潮の匂いがしそうだった。

絵の隅に、小さく字が書いてあった。〈ねこの鼻〉。

「漁師のおじいさんが、通りかかって教えてくれた。あの岬、昔は『ねこの鼻』って呼ばれよったって。上から見たら、猫が鼻を海に突っこんどる形に見えるけん、って」

「……猫の鼻」と環は言った。

「三時間、描いた。三時間、誰とも喋らんかった。おじいさん以外」

千尋は、絵を見ながら、少しだけ照れたように笑った。

「楽しかった」

環は、その絵を、しばらく見ていた。

それから、自分のスマートフォンを出した。一枚だけ撮った写真。家と家のあいだの、肩幅の隙間から見えた、海と、小さな灯台。

「わたし、これ」

二人が、のぞきこんだ。

「路地で迷っとったら、家のあいだから、見えた。たぶん、その時間、千尋がこの下におった」

千尋は、自分の絵と、環の写真を、並べて見た。同じ灯台が、違う場所から、違う大きさで、そこにあった。

「……同じの、見とったね」と千尋が言った。

「違うとこからね」と環は言った。

前は、そんなこと言わんかったやん、とは、もう言わなかった。

三人で、カンパーニュをかじった。

皮が固くて、噛むと、ばりっと音がした。中はもっちりしていて、噛むほど、小麦の甘い味がした。缶のお茶で流しこむと、ちょうどよかった。

早紀が、市場の干物の話をした。試食のあじの干物が、生まれてから食べた中で一番うまかったこと。しおかぜのおじいさんの、修業時代の話。麦の灯の主人は、昔、しおかぜで、毎朝生地を叩かれて泣いていたこと。

環は、路地の話をした。物干し竿の白いシャツ。石段の上の猫。古い写真館の、七五三の女の子。行き止まり。銭湯の煙突。迷って、地図を見たら、駅が反対だったこと。

千尋は、ほとんど喋らなかった。でも、ずっと、楽しそうに聞いていた。

窓の外が、暗くなってきた。

環は、スマートフォンを開いて、新しい表を作った。

「次の旅の行程表」

「もう?」と早紀が言った。

「もう」

環は、マス目を打ちこんだ。七時四十分、出発。九時十分、着。十二時、昼食。

その下の、十三時から十七時までのマスを、空欄のままにした。

「午後は、空けとく」

「行き先は?」と千尋が聞いた。

「早紀は?」

「温泉」

「千尋は?」

「山。描きたい稜線がある」

「環は?」

環は、少し考えた。

「……まだ言わん。言ったら、二人とも、わたしに合わせようとするけん」

「合わせんよ」と早紀が言った。

「合わせん」と千尋も言った。

三人で、笑った。

カンパーニュは、最後にひとかけらだけ残った。

三人が同時に手を伸ばして、三人の指が、パンの上でぶつかった。

「……割る?」と早紀が言った。

「もう、小さすぎるよ」と千尋が言った。

環は、少し考えて、言った。

「じゃんけん」

特急は、暗い海沿いを、市内のほうへ走っていた。到着まで、あと一時間二十分あった。