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家族

母が買った、青い自転車

赤ペンで何百回も直した鳥の名前を、母は自分の目で見に行く。

読了目安
20分
長さ
短編
#前向き#親子#野鳥観察
母が買った、青い自転車のイメージ

あらすじ

定年退職した芳江は、青い電動自転車を買った。行き先は川向こうの野鳥観察会。かつて会報の校正で何度も直した『コガモ』を、本当に見たくなったのだ。ところが最初の遠出は、帰りの坂で電池が切れてしまう。心配する娘と少し頑固な母が、送迎だけに頼らない新しい約束を探す、可笑しく温かな家族の短編。

一 青いのを、ください

「お母さん、こっち。こっちのほうが絶対に楽だって」

真紀が手のひらで示したのは、後ろに車輪がふたつ付いた三輪の自転車だった。白くて、かごが大きくて、売り場の端にどっしりと構えている。値札の横には「転びにくい」「荷物たっぷり」と手書きのポップが貼ってあった。

「楽なのは分かるのよ」

芳江はそう言って、三輪の前を素通りした。向かった先は、壁際に並んだ電動アシスト自転車の列のまんなかあたりだった。

青い自転車があった。空の青というより、夕方になる少し前の、川面の青だった。フレームは低くて、またぎやすい形をしている。前かごは小さめで、ハンドルの手もとには電池の残りを示す目盛りが四つ並んでいた。

「これがいいの」

「色で選んでるでしょ」

「色でも選んでる」

芳江が答えると、真紀は額に手を当てた。三十八になる娘は、子どものころから困ると額を押さえる。

「近所の買い物に乗るだけなんだから、三輪でいいじゃない。スーパーと郵便局と図書館でしょ」

「近所と、その少し先」

「少し先って、どこ」

芳江はハンドバッグから、四つに畳んだ紙を出した。九月に図書館の掲示板で見つけて、受付の人に頼んで一枚もらってきたチラシだ。

〈水沢遊水地の鳥を見る会 毎月第二日曜 午前九時 公園東口集合 初めての方歓迎〉

真紀はそれを二度読んだ。

「遊水地って、川の向こうじゃない」

「向こうね」

「全然近所じゃない」

「だから、その少し先って言ったでしょう」

「少しの使い方がおかしいんだって」

真紀の声が大きくなりかけたところで、若い店員が近づいてきた。胸の名札には「森下」とある。

「試乗されますか」

「はい」と芳江が言い、「ちょっと待ってください」と真紀が言った。森下は二人を見比べ、それから芳江のほうへ自転車を押して出してくれた。

店の裏の試乗コースを、芳江はゆっくりと一往復した。ペダルを踏むと、背中を誰かにそっと押されるように前へ出る。十年以上乗っていなかったのに、体は思っていたより覚えていた。止まるときに少しふらついて、真紀が「ほら」と言った。

「ほら、じゃないの。止まれたでしょう」

「ふらついた」

「ふらついて、止まれた」

戻ってきた芳江に、森下が事務的な口調で説明した。

「長い距離を走る前の日は、満充電にしておいてください。それと、遊水地方面でしたら、水沢大橋は上りが長いので、川沿いの遊歩道のほうが平らです。下流の中ノ瀬水門には、一般開放された平らな渡り道があって、自転車を押して向こう岸へ渡れます。ちょっと遠回りになりますけど」

「遠回り」と芳江は繰り返した。

聞いていたのは、その言葉だけだった。

鳥が好きなのか、と真紀は帰りの車の中で聞いた。

「好きかどうか、確かめに行くの」

芳江は丸星印刷という小さな印刷会社に、四十年近く勤めた。最初は版下を作り、写植の時代が終わってからは、ずっと校正をしていた。去年の春に定年で辞めるまで、そこで二十年近く担当していた刷り物のひとつが、季刊の会報「水沢の鳥」だった。

会員が書いた観察記を、一字ずつ読む。オオバン、カイツブリ、アオサギ、ヨシガモ。名前の表記が統一されているかを確かめ、カタカナの「ー」が漢字の「一」になっていないかを確かめる。冬の号になると、決まって「コガモ」が何十回も出てきた。

「何百回、赤ペンでコガモって書いたか分からないのよ。それなのに、本物を一度も見たことがないの」

「写真は載ってたんじゃないの」

「白黒で、切手くらいの大きさだったわ」

真紀はしばらく黙って運転していた。信号で止まったとき、ぽつりと言った。

「それなら、最初の日は車で送るよ」

「いやよ」

「なんで」

「行きたいところに、自分で行くために買ったんだから」

会計のとき、真紀は「半分出そうか」と言ってくれた。芳江は首を振り、ハンドバッグから銀行の封筒を出した。退職金が入ったとき、家の口座とは別に、自分のために分けておいたお金だった。封筒の表には、几帳面な字で「わたしの」とだけ書いてある。

ヘルメットは、店の人にも娘にも言われる前に、自分で棚から取った。薄い灰色で、後ろに小さな反射板が付いている。真紀はそれを見て、何か言いかけてやめた。

青い自転車が家に届いた日、夫の修は玄関先でそれを眺めて言った。

「青いな」

「青いのよ」

「そうか」

修の感想は、それで全部だった。長年連れ添って、この人の「そうか」には少なくとも七種類あると芳江は数えている。今日のは、悪くないほうの「そうか」だった。

それから二週間、芳江は近所を走った。月曜はスーパー、水曜は図書館、金曜は郵便局。曲がり角の手前では早めにブレーキを握り、車が来れば左に寄って止まった。目盛りの減り方を気にしたのは最初の三日だけで、四日目にはもう、見もしなかった。

第二日曜の前の晩、真紀から電話があった。

「明日、やっぱり後ろから車でついて行こうか」

「ついて来られたら、行ったことにならないでしょう」

「何それ」

「真紀が免許を取って、初めて一人で高速に乗った日。わたし、ついて行った?」

電話の向こうで、娘が少し笑った気配がした。

「……行かなかった。でも、着いたら電話してって言われた」

「じゃあ、着いたら電話する」

「絶対ね」

「絶対」

電話を切ってから、芳江は早く寝た。充電器は、廊下の隅で抜けたままになっていた。

二 コガモの字

翌朝、目盛りは三つ点いていた。

「三つあれば足りるでしょう」

誰に言うともなく言って、芳江はヘルメットの留め具をぱちんと鳴らした。八時二十分、家を出る。修が新聞から顔を上げ、「気をつけて」と言った。それは、いちばん長い種類の「そうか」と同じ意味だった。

アシストは最初から「強」にした。踏み出しが軽く、景色がすいすいと後ろへ流れていく。自分の足がこんなに遠くまで届くのかと、芳江は少し得意になった。川沿いの遊歩道へ曲がる角を、迷わずに通り過ぎる。遠回りはしない。橋を渡れば早いのだ。

水沢大橋への上りは、車から見ていたのより、ずっと長かった。

歩道には自転車通行可の標識があったが、横を大型のトラックが続けて抜けていくたびに、風でハンドルが揺れた。半分まで来たところで、芳江は自転車を降りた。アシストが付いていても、押して歩くほうが怖くなかった。息が上がる。橋の上に出ると、川は思っていたより広く、朝の光を細かく砕いて流れていた。

下りきったところの交差点で、曲がる方向を間違えた。倉庫ばかりが並ぶ通りをしばらく走ってから、おかしいと気づく。ジョギングをしていた男の人に道を聞き、引き返した。

公園の東口に着いたのは、九時二十五分だった。

集合場所には誰もいなかった。立て看板に、マジックの字で〈観察会 ただいま北の池方面〉と書いた紙が貼ってある。北の池がどちらなのか、芳江には分からなかった。

真紀にメッセージを送ろうとして、すでに三件届いているのに気づいた。〈出た?〉〈着いた?〉〈おーい〉。

〈着いた〉とだけ返して、芳江はスマートフォンをしまった。遅刻したことは書かなかった。

案内板を頼りに歩いていくと、ヨシ原の手前に、木でできた小さな小屋があった。〈観察小屋〉と札が掛かっている。自転車を脇に停めて中をのぞくと、壁に細長い窓が横一列に開いていて、そのひとつの前に、白い髪を短く切った女の人が座っていた。膝にサポーターを巻き、首から双眼鏡を下げている。

「あら。会の方?」

「いえ、あの、今日が初めてで。遅れてしまって」

「みんな北の池まで行っちゃったわよ。わたしは膝がこれだから、ここでお留守番」

女の人は自分の膝を軽く叩いて、隣の椅子をすすめた。

「園田です」

芳江は座りかけて、止まった。

「……園田、千鶴さん?」

「あら、どこかでお会いしたかしら」

「『水沢の鳥』の。『十一月の水面』を書かれた」

園田は双眼鏡を下ろし、まじまじと芳江を見た。

「読んでくださってたの」

「読んでいたというか、直していたほうです。丸星印刷で校正をしていました。川端と申します」

「まあ」

園田の顔が、ぱっと明るくなった。

「じゃあ、あれね。いつだったかの冬の号で、わたしの原稿のコガモが、一か所だけコガネになってたのを」

「赤を入れたのは、わたしです」

「危うくコガネムシの会になるところだったのよ」

二人は、小屋の中で声を殺して笑った。窓の外で、何かが水を蹴る音がした。

木造の観察小屋で、双眼鏡を持つ白髪の園田と笑い合う芳江。窓の外に茶色いカモが浮かぶ。

「ちょうどいいわ。ほら、あそこ」

園田が双眼鏡を貸してくれた。言われた方向へ向けると、ぼやけた茶色がいくつか揺れ、指でピントを回すうちに、急に輪郭がくっきりした。小さなカモが、水面に何羽も浮いていた。

「あれがコガモ」

芳江は息をのんだ。そして、少しだけがっかりした。どの鳥も、枯れ草のような茶色をしていた。

「みんな地味ね」

「今はまだね。雄も雌みたいな色なの。エクリプスっていうのよ。夏の間は地味な服を着ていて、秋が深くなるにつれて着替えるの。十一月に入ると、雄の顔にだんだん緑が出てくるわ」

「緑の、目の後ろに長く伸びる模様」

芳江が言うと、園田は目を丸くした。

「そう、それ。どうして知ってるの」

「園田さんの原稿に、何度も出てきましたから」

十一時半ごろ、観察会の人たちが戻ってきた。十人ほどで、世話役の杉本という男の人は声が大きかった。

「おお、新人さん! 遅刻? いいのいいの、鳥は逃げても池は逃げない」

杉本は芳江の青い自転車をほめ、来月も第二日曜だと言った。

「九時に来れば、望遠鏡をのぞけますよ。十一月はいいよ、コガモが着替えるから」

「聞きました」と芳江は答えた。

解散したあと、園田が「お昼、うちで食べていかない?」と誘ってくれた。家は公園から歩いて十五分ほどのところで、芳江は自転車を押して、園田の歩く速さに合わせた。

園田の家の居間には、壁一面の本棚があった。その一段がまるごと、製本された「水沢の鳥」だった。一年分ずつ厚紙の表紙でまとめられていて、背に西暦が手書きされている。

「ぜんぶ、うちで刷ったものです」

「知ってるわ。奥付に書いてあるもの」

うどんをごちそうになり、そのあと二人で会報を一冊ずつめくった。ここの句読点で揉めた、この号は締め切りが三日遅れた、この写真は上下が逆になりかけた。園田は書いた側の話をして、芳江は直した側の話をした。同じ紙の表と裏を、ようやく二人で眺めているような気がした。

壁の時計を見たら、四時五分だった。

玄関で自転車の目盛りを見ると、一つしか点いていなかった。

「その目盛り、一つでしょう」と、後ろから園田が言った。「自転車はうちのカーポートに置いていきなさいよ。バス停まで送るから」

「大丈夫です。行きも平気でしたから」

本当は、平気ではなかった。坂では押したし、道も間違えた。それでも、ここで自転車を置いていったら、明日誰かに取りに来てもらうことになる。その「誰か」が誰なのかは、考えなくても分かった。

「そう?」と園田は言った。それ以上は何も言わなかった。

橋への上りに差しかかったところで、ハンドルの目盛りが消えた。

その瞬間、背中を押していた手がふっと離れた。自転車が急に重くなる。電動アシストの車体は、電池が切れると、ただの重い鉄の塊だった。芳江は降りて押した。一歩ずつしか進まない。行きに通り過ぎたトラックが、今度は正面から風を連れてくる。

空が橙色になりはじめていた。

坂の途中で、芳江は止まった。ハンドルを握ったまま、ゆっくり考える。このまま橋の上まで押す。下りはブレーキを握りっぱなしで下りる。そこから先は、まだ長い道を、重い自転車で漕ぐ。だんだん暗くなる中を、すっかり疲れた足で。

校正で一番大事なのは、自分が読み違えているかもしれないと疑うことだった。芳江は四十年、毎日それをやってきた。

ブレーキを握りながら、ゆっくりと坂を下った。来た道を戻り、園田の家の前で、スマートフォンを出す。四時五十分だった。

「真紀? ごめん。迎えに来てもらえる?」

三 電池だけ、持って帰る

真紀の車が園田の家の前に停まったのは、五時二十分ごろだった。後部座席には颯太が乗っていて、窓に額をくっつけていた。

園田が門まで出てきてくれた。真紀は運転席から降りると、きちんと頭を下げた。

「母がご迷惑をおかけしました」

「迷惑なんかじゃないわ。楽しかったのよ、わたしが」

園田はそう言い、真紀は「はあ」と答えた。娘の「はあ」にも何種類かあることを、芳江は知っている。これは、言いたいことをいったん引き出しにしまう「はあ」だった。

自転車は、園田のカーポートの奥に入れさせてもらった。隣には、灰色の覆いを掛けた何かが置いてあった。

芳江はしゃがみ込み、サドルの下の鍵を回して、電池を引き抜いた。

「電池だけ、持って帰る」

「え、それ外れるの」と後ろの窓から颯太が言った。「ばあばの自転車、ロボットみたい」

「ロボットは、電池が切れたら動かないの。ばあばと同じ」

「ばあばも切れたの?」

「切れたわね」

車の中は、しばらく静かだった。

膝の上の電池は、思っていたより重かった。芳江はそれを両手で抱えるように持っていた。

「ばあば、遠足だったの?」と颯太が聞いた。

「そう。遠足」

「迷子になった?」

「迷子にはなってないの。電池がなくなっただけ」

「電池がなくなるのは、迷子とほとんど同じでしょ」と真紀が前を見たまま言った。

「同じじゃないわ。道は分かってたもの」

「行きは間違えたんじゃないの」

芳江は黙った。九時二十五分のことは、誰にも言っていなかった。

「……どうして分かったの」

「着いたって返事が、九時半だったから」

赤信号で、車が止まった。真紀はハンドルに両手を置いたまま、小さく息を吐いた。

「鍋、火を止めて飛び出してきたんだからね。カレー、たぶんまだ半煮え」

「ごめんなさい」

芳江はそれを、言い訳をつけずに言った。真紀の肩が、少しだけ下がった。

「だから、車で送るって言ったのに」

「それは、いや」

「なんでよ」

「送ってもらったら、帰りも迎えに来てもらうでしょう。そうしたら、わたしは真紀の都合のいい日しか鳥を見られない」

真紀は答えなかった。信号が青に変わった。

「ママ、青だよ」と颯太が言った。

家に着くと、修が玄関に出てきた。芳江が抱えた電池を見て、言う。

「自転車は」

「電池だけ、帰ってきた」

「そうか」

真紀はカレーの鍋が気になると言って、上がらずに帰っていった。車が角を曲がるまで、颯太が窓から手を振っていた。

その夜、芳江は電池を充電器に差し込み、緑のランプが点滅するのを確かめた。それから台所のテーブルに便箋を一枚広げ、定規を当てて線を引いた。

〈第二日曜 行程〉

七時五十分、出発。川沿いの遊歩道。橋は渡らない。

中ノ瀬水門で休む。水を飲む。

九時前、東口。

四時までに帰り始める。

帰る前に、目盛りを見る。二つ以下なら、自転車は預けてバス。

連絡は、出発・水門・到着・帰宅の四回。

書き終えて読み返し、「帰り始める」の「始」の字の払いが気に入らなくて、もう一度清書した。修が湯呑みを持って通りかかり、肩越しにのぞいて言った。

「刷り物みたいだな」

「刷り物の人だったもの」

翌朝、芳江は真紀にメッセージを送った。

〈今日、バスで園田さんの家に行って、自転車を取ってきます。帰りは川沿い。橋は渡りません〉

返事は十分後に来た。

〈中ノ瀬水門で待ってる。昼休みに。会社から車で五分だから〉

芳江は画面を見たまま、しばらく考えた。断ることもできた。けれど、これは「送る」ではなかった。同じ場所で待ち合わせるだけだ。

〈じゃあ、水門で。十二時すぎ〉

バスを降りると、園田がカーポートの前で待っていてくれた。灰色の覆いを掛けたものは、昨日と同じ場所にあった。芳江は充電した電池をはめ込み、ハンドルの目盛りが四つとも点くのを見届けた。

「今日は、遠回りで帰ります」

「それがいいわ。来月、待ってるわね」

川沿いの遊歩道は、森下の言ったとおり平らだった。左手に水沢川がゆったり流れ、右手には土手の草が風に寝ている。浅瀬に白いサギが一羽立っていて、芳江が近づいても動かなかった。アシストは「標準」にした。急ぐ理由がなかった。

中ノ瀬水門では、自転車を降り、渡り道を押して対岸へ渡った。ベンチに着いたのは、十二時五分だった。駐車場に真紀の車はなかった。

芳江はベンチに座り、自販機で買ったお茶を飲んで、娘を待った。待つというのは、こういう気持ちだったのか、と少し思った。

十二時十五分、真紀の車が入ってきた。コンビニの袋を提げて降りてきて、ベンチに座っている母を見ると、真紀は一瞬だけ立ち止まった。

「……先に着いてる」

「遠回りでも、着くのよ」

真紀はおにぎりを二つ出して、ひとつを芳江に渡した。

芳江はハンドバッグから便箋を出した。真紀はそれを、保険の契約書でも読むような顔で上から下まで読んだ。

「校正、入れていい?」

「どうぞ」

真紀は胸ポケットからボールペンを出し、いちばん下に〈雨なら行かない〉と書き足した。

水門のベンチでおにぎりを持つ母と娘。娘が行程表にペンを入れ、隣に青い自転車が停まっている。

「雨なら、バスで行くわ」と芳江が言った。

真紀は少し考えてから、自分の書いた一行に二本線を引いた。芳江は、それを見て笑った。

「訂正の仕方は、合ってる」

「褒められても嬉しくない」

水門の向こうで、水がゆっくり落ちていた。真紀はおにぎりの包みを剥がしながら、川のほうを見て言った。

「わたしさ、お母さんが一人でどこかへ行くのに、慣れてないんだよ。いつも、家にいる人だったから」

「家にいたのは、仕事から帰ってきてたからよ」

「それは、そうなんだけど」

「わたしだって、行ったことのないところに行くのには、慣れてないわ」

真紀は小さく笑った。それから、少しだけ真面目な顔になった。

「三輪のほうがよかったって、わたし、まだ思ってるからね」

「知ってる」

「思ってていい?」

「いいわよ。わたしは青いのがいいって思ってるから」

昼休みが終わる時間になり、真紀は車に戻っていった。窓を下ろして、「帰ったら連絡」と言った。

芳江が家に着いて〈帰宅〉と送ると、少しして、猫が丸をつけているスタンプが返ってきた。

四 十一月の水面

十一月の第二日曜は、よく晴れた。

七時五十分。〈出発〉と送ると、すぐに〈了解〉と返ってきた。

川沿いの道には、先月より色の薄くなった草が揺れていた。中ノ瀬水門のベンチでお茶を飲み、〈水門〉と送る。しばらくして、真紀から続けて二通届いた。

〈颯太が「ばあばがんばれ」だって〉

〈あと、わたしも〉

芳江はその画面を、少し長く眺めた。

東口に着いたのは、八時五十分だった。立て看板の前には、もう何人か集まっている。杉本が手を振った。

「おお、今日は間に合った!」

そこへ、後ろから軽い音が近づいてきた。振り向くと、白い電動の三輪自転車が、ゆったりと入ってくるところだった。かごが大きくて、後ろに車輪がふたつ。乗っているのは園田だった。

芳江は、こらえきれずに吹き出した。

「なによ」

「それ、カーポートの覆いの」

「そうよ。膝が悪くても、これなら来られるの」

「娘が、わたしにそれを勧めたんです」

「いい娘さんじゃない。楽よ、これ」

「わたしは、青いのがいいんです」

「知ってるわよ」

園田は三輪を停め、芳江の青い自転車の隣に並べた。白と青が、朝の光の中で並んだ。

北の池のほとりで、杉本が三脚を立て、筒の長い望遠鏡を据えた。会の人たちが順番にのぞいていく。芳江の番になった。

「片目でね。もう片方は、つぶらなくていいから」

言われたとおりにのぞくと、最初は水のきらめきしか見えなかった。杉本が筒の向きを少し直す。

いた。

小さなカモが一羽、水面に浮いていた。頭は濃い栗色で、目のまわりから首の後ろへ、深い緑の帯が流れている。光が当たるたびに、その緑が濡れたように色を変えた。体の灰色には細かな模様が並び、尾の下には、クリームがかった黄色い三角がくっきりと見えた。

先月の茶色い鳥が、着替えを済ませていた。

芳江は、息をするのを忘れていた。

何百回も赤ペンで直した三文字が、いま、水の上で動いている。首をかしげ、くちばしで羽を整え、すっと横へ滑っていく。白黒の、切手ほどの写真ではなかった。原稿用紙のマス目の中にいたものでもなかった。

「どう?」と、後ろから園田が聞いた。

「緑でした」

自分でも間の抜けた返事だと思った。けれど園田は、それで十分だという顔でうなずいた。

杉本に頼んで、望遠鏡のレンズにスマートフォンを当て、一枚だけ撮らせてもらった。画面に写ったのは、丸い光の中の、にじんだ茶色い粒だった。

それでも、真紀に送った。

〈コガモ〉

返事はすぐに来た。

〈どれ?〉

〈まんなか〉

〈茶色い点にしか見えない〉

〈緑のところ〉

〈見えない。でも、よかったね〉

芳江はひとりで笑った。続けて、もう一通届いた。

〈そういえば来月の第二日曜、颯太の発表会なんだけど。ピアノの〉

芳江は画面から顔を上げ、池を見た。それから聞き返した。

〈何時から?〉

〈午後二時〉

手帳を出して、頁をめくる。来月の第二日曜の欄は、もう〈鳥〉と書いて埋まっていた。

〈鳥は午前だけにする。二時なら間に合う。行程表、作り直します〉

少し間があいて、返事が来た。

〈どっちも行くの〉

〈どっちも行く〉

〈じゃあ、颯太に言っとく。ばあば、鳥のあと来るって〉

〈鳥のあと、って言っておいて〉

会の人たちは、ヨシ原の道を奥へ歩いていった。芳江は少し迷ってから、園田と一緒に観察小屋へ戻った。急ぐ理由はなかったし、ここからでも水面はよく見えた。

細長い窓の向こうで、コガモが何羽も、小さな波を立てながら行き来していた。まだ茶色いのも混じっている。着替えの途中の鳥もいるのだと、園田が教えてくれた。

「来月は?」

「来ます。午前だけ」

芳江は手帳の〈鳥〉の横に、小さく〈午前〉と書き足した。その下に、〈二時 颯太〉と書く。一つの日に、予定が二つ並んだ。

小屋の外では、青い自転車が手すりに寄りかかるように停まっていた。目盛りは三つ点いている。平らな道を帰るなら、十分だった。それでも、帰る前にもう一度見ようと思った。行程表にそう書いたのは、自分なのだから。

水面に、昼前の光が細かく散っていた。一羽のコガモが顔を上げ、緑の帯が、きらりと光った。

「コガモ」

芳江は小さく声に出した。今度は、誰の原稿の中の言葉でもなかった。