一 予備の息
ハシバの町の焼き場は、坂をいちばん下まで下りたところにある。石を積んだ細長い建物で、表の作業場には大人が三人並んで入れるほどの石窯がひとつ。その奥の厚い壁の向こうに、窯よりずっと大きな竜が一頭住んでいる。
夜明け前の三時、リツは焼き場の鍵を開けた。鍵は親方のサエキさんから昨日の夕方に預かったもので、手のひらの中でまだ少し重く感じた。サエキさんは隣町の粉屋の寄り合いに出かけていて、帰ってくるのは三日後だ。そのあいだの朝窯は、この焼き場に来てもうすぐ一年になるリツが、一人で受け持つ。
作業場に入ると、寝かせ部屋の戸のすきまから、ふくらんだ生地のにおいがした。ゆうべのうちに仕込んでおいた生地が、布をかけた木箱の中で静かに育っている。石切り場の人たちに渡す丸パンが四十。町の人が自分の家でこねて預けていった生地が十八。宿屋に届ける角パンが八本。朝市で売る蜜パンが三十六。
それから、棚のいちばん端に、小さな箱がひとつある。
リツは布を少しだけめくった。くるみと蜂蜜を練りこんだ、こぶし二つぶんほどの丸い生地が六つ、行儀よく並んでいた。くるみは自分の給金で買った。蜂蜜は市場の養蜂家に頼んで、少し安く分けてもらった。
「予備の息があまったら、焼いてもいい」
サエキさんはそう言った。言ったあとで、「あまったら、だよ」と念を押した。
リツが焼きたいのは、皮が鳴るパンだ。窯から出して台に置くと、冷えていく皮がぱちぱちと小さく割れて、耳を近づけると音が聞こえる。そういうパンを、リツは子どものころに一度だけ、旅の市で食べたことがある。あの音を、自分の手で出してみたかった。
ただ、それには焼きはじめの熱がいる。窯に入れた最初のうちはうんと熱く、そのあとはゆっくり。この焼き場の窯は、そういう焼き方に向いていない。
壁の向こうで、重たいものが寝返りをうつ音がした。
リツは作業場の奥の小さな扉をくぐった。竜房と呼ばれる部屋は作業場の倍ほどの広さがあり、床には乾いた麦わらが厚く敷いてある。壁ぎわには、砂を詰めた桶がふたつ。火の粉が飛んだときのためのものだ。
麦わらの山の上で、竜のススが片目を開けた。
鱗は焦げた栗のような赤茶色で、首をのばせば屋根の梁に届く。たたんだ翼は背中に沿った大きな外套のようで、尾は部屋の壁をぐるりと半周している。ススはリツを見て、大きなあくびをした。ずらりと並んだ歯が見えた。
「早いな」
「今日から私の朝窯だから」
「知ってる。だから寝てたかった」
ススはもう一度目を閉じかけ、それから、ふんと鼻を鳴らした。
「……なんか、部屋が寒い」
「ゆうべ、少し空気を入れかえたの。煤のにおいがこもってたから」
「ふうん」
ススは首を持ち上げて、ぶるっと鱗を揺らした。それから、作業場との境の壁にあいた丸い穴――火口に、鼻先を差しこんだ。それがススの朝の定位置だった。
火口は、窯の床石の下にある火室につながっている。ススが息を吹きこむと、その熱が火室を満たして、窯の床石を下から温める。炎そのものは作業場には出てこない。焼き手が触れるのは、熱くなった石だけだ。そういうふうに作られた窯なのだと、リツはこの焼き場に来た日に教わった。
決まりはいくつもあるけれど、大事なものは多くない。
息は長く、まっすぐに吹く。長い息がひとつ、だいたい百数えるあいだ続けば、床石は奥から手前まで同じように温まる。ススは息の前に、鼻歌のような低い音を鳴らす。そうすると息が途中で揺れないのだという。
長い息は、ひと朝に四つまで。それ以上吹くと、ススの喉がかすれて、次の朝まで戻らない。だから焼き場では、仕事に三つ、予備にひとつ。
短く吹く「ひと吹き」もできるが、これは洗った床石を乾かすくらいの熱しかなく、パンは焼けない。
息のあいだは、窯の扉を必ず閉める。焼き手は床に引いた白い線の後ろまで下がる。熱い空気は火室から床石の縁を伝って、窯の中にも回ってくるからだ。
それから、いちど温まった石は、しばらく熱を抱えている。二窯目、三窯目は、その余熱の上に新しい息を足していく。
「じゃあ、一窯目、お願いします」
リツが言うと、ススは火口に鼻を入れたまま、横目でこちらを見た。
「お願いします、か。サエキはいつも『よし、スス』って言う」
「……よし、スス」
「それはそれで、なんか違うな」
ススは喉の奥で笑い、そして急に顔をしかめた。鼻の穴がひくひく動いた。
「ふ……」
首が大きく後ろに反って、火口から鼻先が抜けた。
「ぶしっ」
ススのくしゃみは、思ったより小さかった。竜房の宙で熱い風がぱっと散り、麦わらが何本か舞い上がった。それだけだった。
「……いまの、何」
「なんでもない」
ススは前足の爪で、器用に、そっと鼻をこすった。
「秋はこうなる。たぶん」
たぶん、とリツは思った。サエキさんの手帳には、そんなことは一行も書いていなかった。
二 白い線の後ろ
一窯目の息は、三時五十分に始まった。
リツは窯の扉を閉め、白い線の後ろに立った。壁の向こうで、ススの低い鼻歌が鳴りはじめる。窯の下のほうから、遠くを渡る風のような音がする。リツは胸の中で数をかぞえた。
三十。四十。五十。
六十を過ぎたところで、鼻歌が途切れた。
「ぶわっしゅん!」
さっきとは比べものにならない音だった。窯全体がどんと鳴り、扉の鉄の縁がかたかたと震えた。屋根の上の煙突から、熱い空気がまとめて吐き出される音がした。
それきり、静かになった。
「スス?」
「……ごめん」
壁ごしの声は、鼻がつまっていた。
「息、止まった。くしゃみが出ると、そこで終わる。続きは吹けない」
「続きは吹けない、って」
「いまの息は、もう使った。数に入る」
リツは扉の覗き窓から中を見た。窯の奥のほう、火口に近い床石が、ほかよりも白っぽく乾いて見える。手前は、まだ温まりきっていない色だった。
床石に、ひとつまみの粉を投げる。サエキさんに教わった確かめ方だ。奥の粉はあっというまに茶色くなり、端から黒く縮れた。手前の粉は、いつまでたっても白いままだった。
奥は熱すぎる。手前はぬるい。
もうひとつ長い息を吹いてもらえば、床石は均される。けれど、それは予備の息だ。予備を使えば、くるみの生地は今日、焼けない。
リツは棚の端の箱を見ないようにして、言った。
「このまま焼く。奥が少し落ち着くのを待って、途中で前と後ろを入れかえる」
「いいのか」
「いい」
本当にいいのかどうか、言ったリツにもわからなかった。
四時二十分、粉の焦げ方が少しゆるやかになったところで、リツは木のへらで丸パンを四十、窯の床に並べた。奥の列には、なるべく小さいものを置いた。扉を閉め、砂時計を返す。
十五分たったら、前後を入れかえる。そう決めていた。四時三十五分、リツは扉を開けた。熱い空気が顔にあたる。へらを差し入れて、奥の列の丸パンをひとつ持ち上げたとき、壁の向こうでススが妙な声を出した。
「待っ……リツ、扉――」
声が、ふっと遠くなった。火口から首を抜いたのだとわかった。
次の瞬間、竜房のほうから、ばふん、と大きな音がした。続いて、ぱちぱちと何かがはぜる音。
リツはへらを放り出して、竜房に飛びこんだ。
ススが首をねじ曲げて、自分の寝床を見下ろしていた。麦わらの山の端から、白い煙が細く上がっている。そのまんなかで、赤い点がいくつか、じわじわと広がりかけていた。
リツは壁ぎわの砂の桶をつかみ、煙の上に中身をあけた。もうひとつの桶もあけた。空の桶の底で砂を広げ、麦わらがすっかり隠れたところで手を止めた。少し離れて、煙が出なくなるまで目をこらした。
煙が消えるまで、ずいぶん長くかかった気がした。
「……扉が開いてたから」
ススが小さな声で言った。
「火口に吹いたら、熱いのがそっちに行くと思った。だから外に向けた」
リツは砂だらけの手を膝について、しばらく息を整えた。ススは、開いた扉の前にいた自分をかばったのだ。そのかわりに、自分の寝床に火を吹いた。もし桶が空だったら。もしリツが作業場の奥まで声の届かないところにいたら。
「ありがとう。でも、寝床に吹くのはだめ」
「わかってる」
「私も、扉を開けるとき、声をかけてなかった」
そのとき、冷たい風が首すじを撫でた。
リツは顔を上げた。竜房の北の窓が開いていた。ゆうべ、煤のにおいを出そうとして自分で開けた窓だ。閉めた覚えはなかった。窓の外は暗い秋の丘で、そこから白くかすむものが、ふわふわと流れこんできていた。
あざみの綿毛だった。

窓の下の麦わらにも、ススの鱗のすきまにも、白い毛がいくつも絡まっている。
「スス。くしゃみ、いつから出てるの」
「……ゆうべ、寝てるとき、なんか鼻がむずむずした」
リツは窓を閉めた。かんぬきをかけて、もう一度確かめた。サエキさんの手帳に書いていなかったのは、書くまでもなかったからだ。きっと、この窓は秋のあいだ開けないものなのだ。
「閉めたから、もう入ってこない」
「鼻の中には、もう入ってる」
ススは情けなさそうに目を細めた。
「朝のうちは、まだ出ると思う。あと何回かは」
作業場に戻ったとき、窯からのにおいは、もう変わっていた。
入れかえるはずだった奥の列は、そのままいちばん熱いところに置かれていた。扉の前でへらを拾い、ひとつずつ取り出して裏返すと、奥の十二個は、底が炭のようになっていた。手前の列は、ちょうどいい色だった。
四時五十五分。四十個のうち、きちんと焼けたのは二十八個だった。
リツは焦げた十二個を、台の端に寄せた。底を削れば、食べられなくはない。でも、それを石切り場の人たちに、朝ごはんとして渡すことはできなかった。
竜房の扉から、ススが首を半分だけのぞかせた。大きな頭が扉の枠いっぱいに詰まって、目だけがこちらを見ている。
「決めごとを、つくろう」
リツは言った。
「くしゃみが来そうになったら、尻尾で床を二回たたいて。そしたら私は扉を閉めて、白い線の後ろに下がる。下がったら『いいよ』って言うから、そうしたら火口に向かってくしゃみして。寝床じゃなくて、火口に」
「二回」
「二回。それと、こらえられるなら、少しだけこらえて。少しだけでいい」
ススは鼻の頭にしわを寄せた。
「こらえると、次が大きくなる。それに、目が痛い」
「……わかった。無理なら、そう言って」
尾が床を、どん、どん、と打った。練習だった。リツは扉を閉めるふりをして、白い線の後ろへ下がった。
「いいよ」
ススは何も出さずに、すまして首を引っこめた。
三 二つの窯と、ひとつの息
一窯目を出すとすぐ、リツは焦げくさい床石を掃き、裏の砂箱から砂をすくって、空になった桶をふたつとも満たし直した。それから五時十分、二窯目の長い息を頼んだ。
鼻歌が始まって半分ほどたったところで、尾が床を二回たたいた。リツはもう扉を閉めて、線の後ろにいた。
「スス、最後まで吹ける?」
返事のかわりに、鼻歌がわずかに震えながら続いた。こらえているのだとわかった。百まで数えたところで鼻歌がやみ、その直後に、
「――いい?」
「いいよ」
窯の奥で、どん、と熱が弾けた。
息は最後まで吹けたから、使ったのは二つ目。そのかわりに、くしゃみのぶんの熱が奥に足された。粉を投げると、やっぱり奥だけが黒くなった。
今度は待った。焦げた十二個のことを思えば、待つしかなかった。
五時半、坂の上で夜明けの鐘が鳴るのと同時に、石切り場のゴンダさんが荷車を引いてやってきた。
ゴンダさんは石切り場の頭で、毎朝四十個の丸パンを取りにくる。肩幅が戸口ほどもあって、口数は少ない。
「二十八個です。十二個、焦がしました」
リツは焦げたパンの山も見せた。隠しても、数は合わない。
ゴンダさんは焦げたパンを一つ裏返し、しばらく眺めてから、元に戻した。
「焦げは要らない」
「はい。お代は、二十八個ぶんだけいただきます」
「十二人、昼まで腹がへるな」
ゴンダさんは怒鳴らなかった。慰めもしなかった。二十八個を荷車の籠に移し、代金を台に置いて、黙って坂を上っていった。リツは帳面に「丸パン 四十のうち二十八渡し。十二焦げ」と書いた。書きながら、ペン先が少し震えた。
それから、また粉を投げた。
いつもより二十分ほど遅い五時五十分、ようやく奥の粉がゆっくり色づくようになった。リツは町の人の預かりパン十八個と、宿屋の角パン八本を窯に入れた。
預かりパンには、それぞれの家の名前を焼き印した小さな木札がついている。粉屋の家の雑穀パン。洗濯屋の家の平たいパン。いちばん大きいのは、シノさんの家の編みパンだった。三つ編みにした生地の上に、けしの実がたっぷり振ってある。今日は孫の誕生日なのだと、ゆうべ生地を預けにきたシノさんが言っていた。
リツは編みパンを、窯のまんなかに置いた。
六時十五分、裏口が開いて、トキが入ってきた。朝市の売り場を受け持つ十六歳で、毎朝ここで蜜パンを籠に詰め、坂の上の広場まで運ぶ。
「なにこのにおい。焦げ?」
「一窯目で、ちょっと」
「ちょっとのにおいじゃないじゃん」
トキは台の端の黒い山を見て、それから竜房の扉の前に散らばった砂を見た。リツがかいつまんで話すと、トキは口をへの字にした。
「北の窓? あれ、秋に開けちゃだめなやつだよ。去年、サエキさんが言ってた」
「……去年は、いなかった」
「そっか。リツが来たの、冬だっけ」
トキはそれ以上は言わず、蜜パンの生地の箱を確かめた。三十六個。ふくらみはちょうどいいが、あまり待たせると、だれてくる。
「市は八時だよ。蜜パン、何時に出る?」
「三窯目の息が六時半。そのあと待って、焼いて、七時半には出せると思う」
「思う、ね」
六時半、二窯目が焼けた。
リツは息を詰めて、ひとつずつ窯から出した。預かりパンは、どれもきれいな色だった。シノさんの編みパンは、奥に向いていた端が少しだけ濃くなっていたが、けしの実は焦げていなかった。角パンは型からすっと抜けた。
リツはようやく、肩の力を抜いた。
「三窯目。スス、お願い」
「よし、リツ」
壁の向こうで、ススがそう言った。リツは少し笑った。
鼻歌が始まった。二十。三十。四十――尾が、どん、どん、と鳴った。
リツは扉を閉めて、線の後ろにいた。
「こらえられる?」
「むり」
ほとんど泣き声だった。さっきこらえたぶん、もう目が痛いのだ。
「いいよ」
窯が、これまででいちばん大きく鳴った。覗き窓の向こうで、奥の床石が一瞬、明るく光ったように見えた。
長い息は、三つ目を使った。残りは、予備のひとつだけ。
リツは粉を投げた。奥の粉はあっというまに焦げ茶色になり、縁だけが黒く縮れた。手前の粉は、ほとんど白いままだった。
蜜パンを焼くには、この床は使えない。予備の息で均してもらうしかない。そうすれば七時過ぎには蜜パンが焼きあがって、八時の市に間に合う。くるみの生地は焼けない。
リツは、奥の床を見た。
いまの奥は熱い。ものすごく熱い。けれど、くしゃみの熱は短いのだと、これまで二度、窯の中で見てきた。ふつうの息よりずっと熱くなって、そのかわり、思ったより早く落ち着いていく。
焼きはじめはうんと熱く、そのあとはゆっくり。
「トキ」
リツは振り返った。
「くるみのパン、いまこの奥で焼きたい。六つなら奥の一列に入る。四十分くらいかかる。そのあとで予備の息を吹いてもらって、蜜パンを焼く。そうすると、蜜パンが出るのは八時。市に着くのは、八時過ぎになる」
トキはすぐには答えなかった。台に手をついて、窯の覗き窓とリツの顔を見くらべた。
「朝いちばんの客、逃すよ。仕事に行く人がまとめて買ってく時間だもん。遅れたら、いつもの半分くらいしか売れないかもしれない」
「わかってる」
「わかってるなら、いいけど」
トキは顎で生地の箱をさした。
「でも、蜜パンの生地、あと一時間以上待たせて、だいじょうぶなの?」
リツは布をめくって、指で生地をそっと押した。押したあとが、ゆっくり戻る。冷たい棚に移して窓ぎわに置けば、ふくらみすぎはしばらく抑えられる。
「だいじょうぶ。たぶん」
「たぶん、多いね今日」
壁の向こうから、ススが言った。
「おれのくしゃみで焼くんだろ。なら、いちばんはおれだ」
「いちばん?」
「焼けたやつの、いちばん最初の一個。サエキはいつも最初のを割って中を見るから、おれには冷めた耳しか来ない。くしゃみのパンなら、くしゃみをしたやつが一番に食う」
リツは思わず笑った。笑ってから、もう一度粉を投げた。奥の粉は、さっきよりほんの少しゆっくり色づいた。
六時三十五分、リツはくるみの生地を六つ、窯の奥の一列に並べた。表面に刃物で浅く切れ目を入れ、扉を閉めた。蜜パンの箱は、窓ぎわの冷たい棚に移した。
四 鳴る皮
二十分ほどたったところで、リツは一度だけ扉を開け、へらでくるみのパンをひとつ持ち上げた。底は濃い色だったが、黒くはなっていなかった。扉を閉めて、また待った。
七時、坂の上で鐘が鳴るころ、預かりパンを取りにきた町の人たちが、焼き場の戸口に並んだ。リツは木札を一枚ずつ読み上げて、パンを渡した。シノさんは編みパンを両手で受けとり、濃くなった端をしげしげと見た。
「ここだけ、ちょっと色が強いね」
「すみません。今朝は奥の熱が落ち着かなくて」
「いや、いい。孫は、端っこが好きなんだ」
シノさんはそう言って帰っていった。そういうこともある、とリツは思った。そういうことばかりではないことも、帳面の焦げの一行が知っている。
宿屋の角パンは、トキが走って届けにいった。
七時十五分、リツは窯の扉を開けた。
熱い空気と一緒に、くるみの焼けるにおいがあふれ出した。蜂蜜が少し焦げたような、甘くて香ばしいにおい。六つのパンは切れ目のところが大きく開き、皮はこげ茶色で、切れ目のふちだけが濃い。底を指で叩くと、乾いた軽い音がした。
リツは六つを台に並べ、すぐに扉を閉めた。
「スス。最後の息、お願い」
ススの鼻歌は、少しかすれていた。リツは線の後ろで、尾の音を待った。来なかった。百まで数えても、鼻歌はまっすぐ続いて、すっと終わった。
「出なかった」
ススが、自分でも驚いたように言った。
「窓を閉めてから、もう二時間以上たつから」
「そうか。……喉がからからだ。今日はもう、吹かない」
「吹かなくていい。ありがとう」
床が落ち着くのを待つあいだに、それが聞こえた。
ぴし。
ぱち、ぱち。
台の上で、冷えていく皮が細かく割れていく音だった。走って戻ってきたトキが、台に耳を寄せて目を丸くした。
「鳴ってる」
「鳴ってる」
リツは、ほかに言うことが見つからなかった。
「おい」
竜房の扉から、ススの首がにゅっと作業場にのびてきた。頭が枠に詰まって、それ以上は入ってこられない。鼻の穴がふくらんでいる。
リツはいちばん端のひとつを厚い布で包んで、持っていった。鼻先に差し出すと、ススはそれを前歯でそっとくわえた。大きな口の中で、パンは木の実ひと粒のように見えた。

ススは目を閉じて、しばらく動かなかった。
ばりっ、と皮の割れる音が、竜の口の中から聞こえた。
「……熱い」
「焼きたてだから」
「うまい」
ススはそれだけ言って、首を竜房に引っこめた。
二つ目を割って、リツとトキで半分ずつ食べた。皮は薄くて硬くて、歯を入れると崩れるように割れた。中はしっとりしていて、くるみの渋みのあとから、蜂蜜の甘さが遅れてやってくる。子どものころに旅の市で食べたパンと同じ味かどうかは、もうわからなかった。でも、音は同じだった。
「これ、売ろうよ」
トキが言った。
「四つしかないけど」
「四つでいいよ。蜜パンと一緒に持ってく」
七時四十分、粉を投げると、床は奥から手前まで同じ色に染まった。リツは蜜パン三十六個を窯に入れた。生地は少しだけ緩んでいたが、形は崩れなかった。八時、焼きあがった蜜パンを、トキが冷める間もなく籠に詰めた。くるみのパン四つを布でくるんで、いちばん上にのせた。
「行ってくる」
トキは籠を抱えて、坂を駆け上がっていった。
その朝、蜜パンは昼までに二十二個売れた。いつもなら、九時前に半分はなくなる。トキが広場に着いたのは八時十五分で、仕事へ向かう人たちの波は、もう過ぎていた。残った十四個は、昼すぎに半値にして、八個だけ売れた。
くるみのパンは四つとも、並べて少しのうちに売れた。
最初に買ったのは、杖をついたおばあさんだったと、トキは言った。
「これは何のパン、って聞かれたからさ」
「なんて答えたの」
「竜のくしゃみパン、って」
リツは帳面から顔を上げた。
「……くしゃみは入ってないよ」
「入ってるようなもんじゃん」
その日の夕方、リツは帳面を前に、長いあいだ座っていた。
丸パン、十二個焦げ。蜜パン、八個半値、六個売れ残り。くるみのパンの売上を全部足しても、穴は埋まらなかった。くるみと蜂蜜は自分の給金で買ったものだったが、リツはその売上も焼き場の箱に入れ、そう書いた。焦げの理由も書いた。北の窓のこと。予備の息を惜しんで、一窯目を均さずに焼いたこと。扉を開けるとき、声をかけなかったこと。竜房の寝床が燃えかけて、砂で消したこと。
サエキさんが帰ってきたら、これを全部読むことになる。
書き終えてから、リツは息の欄を見た。そこには毎朝四つの丸を書きこむ欄があって、その上に「竜窯」と印刷してある。
リツは「竜窯」の横に、小さく「スス」と書きたした。
竜房では、ススが新しい麦わらの山の上で丸くなっていた。燃えかけた麦わらは、昼のうちにトキと二人で外へ出して、乾いたものと取りかえてあった。
「くしゃみパン、明日も焼くのか」
ススが目を閉じたまま聞いた。
「焼けないよ。窓は閉めたし、もうくしゃみは出ないでしょう」
「出ないな。たぶん」
ススは片目を開けた。
「……短くて、強い息。練習してみてもいい」
「できるの?」
「わからん。ひと吹きは弱いし、鼻歌なしで強く吹くと、たぶん揺れる。でも、くしゃみの前の、あのむずむずした感じは覚えてる」
それから、ススは大きなあくびをした。
「明日じゃない。明日は寝たい。そのうちだ」
次の朝、三時五十分。
一窯目の息は、まっすぐに最後まで続いた。リツは床に粉を投げ、手前から奥まで同じ色になるのを確かめてから、丸パンを四十並べた。五時半の鐘と一緒に来たゴンダさんは、四十個をひとつずつ数えて籠に移し、そのうちのひとつを裏返した。
底は、きれいな狐色だった。
ゴンダさんはそれを籠に戻して、「今日のは、白いな」と言った。焦げていない、という意味だとリツが気づいたのは、荷車が坂の途中まで上ってからだった。
予備の息は、その朝、使わなかった。
仕事を終えて竜房をのぞくと、ススが火口から少し離れたところで、鼻先を壁に向けていた。
「ふっ」
ぽふ、と小さな熱い風が、リツの前髪を揺らした。
「……いまのは、練習?」
「見るな」
ススは首を麦わらに埋めた。リツは笑いをこらえて、北の窓のかんぬきを、もう一度確かめた。


