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ミステリー

二度鳴った、閉館のチャイム

閉館のチャイムは一日に一度だけ。なのに『二回聞いた』と言う中学生がいる。

読了目安
22分
長さ
短編
#謎解き#音#あったかい
二度鳴った、閉館のチャイムのイメージ

あらすじ

町の資料館で、閉校した小学校の特別展を任された千晴。毎日十六時五十分、その学校の楽器を録音した閉館チャイムが流れる。ところが常連の中学生が『昨日は二回鳴った。二回目はもう外にいた』と言い出した。音を聞いた場所、鍵の行き来、毎朝撮る展示の写真。いつもと同じ合図を聞き直す、温かな日常の謎。

一 録音された音

朝九時、久住千晴は第二展示室のガラスケースの前でスマートフォンを構えた。

ケースの中には、木箱に四本の金属の板を並べた卓上チャイムがある。板は長いものから短いものへ順に並び、手前にフェルトを巻いたばちが一本、横向きに置いてある。フェルトの頭は左、壁のほう。開館前にここを一枚撮っておくのが、展示を任されてから千晴が自分に課した決まりだった。

写真を確かめて、千晴は首をかしげた。ばちの角度が、ほんの少しだけ窓のほうへ開いている気がする。昨日の写真と並べると、指一本ぶんほどの違いだった。

(県道のトラックかな)

資料館の正面は県道に面していて、大型車が通ると床がかすかに震える。前にも二度ほど、同じくらいずれていたことがあった。千晴はケースの鍵を開け、白手袋の指でばちを元の向きに戻した。

有沢町郷土資料館は、町役場の分庁舎だった古い二階建てを使っている。一階に受付と事務室、常設展示室。その奥の渡り廊下の先に、平屋の第二展示室がある。千晴はそこで開かれている特別展「東雲小学校の音と道具」のために、半年契約で雇われた臨時の展示係だった。前の職場は印刷会社で、図録の校正ならしたことがある。けれど展示を一から組むのは初めてだ。

東雲小学校は坂の上にあった小さな学校で、一九九八年の三月に閉校した。展示室には木の机、足踏みオルガン、手書きの時間割、給食の献立表が並んでいる。中でも千晴が気に入っているのが、このチャイムだった。

キャプションは何度も書き直した。

〈卓上チャイム 東雲小学校放送室で使用
時報の機械が古くなってからは、閉校まで、この四本の音板を手で打って授業の始まりと終わりを知らせていました。当館の閉館チャイムは、閉校の年にこのチャイムを録音したものです。
※下から二本目の音板に細いひびがあるため、現在は打っていません〉

最後の一行を書いたとき、千晴は少し悔しかった。本当は展示の最終日に、これを一度だけ鳴らす催しをしたかったのだ。けれど県の資料保存の担当者に状態を見てもらった報告書には、「打鍵しないこと」とはっきり書いてあった。ひびが広がるかもしれない、と。

だからこの展示室で本物の音を聞けるのは、毎日十六時五十分に天井のスピーカーから流れる録音だけだ。音の展示なのに、展示室はいつも静かだった。

録音の記録カードは収蔵庫で見つけた。〈一九九八年三月 最終下校時 打鐘 森本フミ(用務員)〉。打った人の名前まで残っているのが嬉しくて、キャプションに書こうか迷った。けれど本人に確かめないまま名前を出していいのか分からず、結局その一行は入れていない。

午後四時を過ぎると、いつもの中学生が来た。野々宮湊という二年生で、肩に細長い黒いケースを掛けている。吹奏楽部で打楽器をやっていて、中身はスティックだと最初の日に教えてくれた。部活のない日に来ては、チャイムのケースの前でノートにスケッチをしていく。

「今日も音板?」

「はい。四本の長さがちょっとずつ違うのを、ちゃんと描きたくて」

湊は鉛筆を止めずに言った。「これ、叩いたらどんな音がするんですかね」

「閉館のときに流れるのが、それ」

「録音じゃなくて、今の音です」

千晴は笑って首を振った。「今のは、誰も知らない」

「もったいないなあ」

「わたしもそう思う」

十六時五十分、天井のスピーカーが咳払いのような小さな雑音をたてて、チャイムが鳴った。四つの音で上がって下がる、学校で誰もが聞いたあの節を、二回り。千晴は常設展示室から順に「閉館十分前です」と声をかけて回った。トイレの前も、渡り廊下の物陰ものぞく。客は湊を入れて三人で、年配の女性二人はすぐに帰っていった。

湊が出たのは十六時五十五分ごろだった。

「裏の坂から帰ります。バス停、そっちのほうが近いんで」

「暗くなるの早いから、気をつけて」

十七時、千晴は事務室の壁の鍵掛けから点検用の鍵束を外して、ボランティアの戸川澄子さんに渡した。第二展示室の部屋の鍵とケースの鍵が、ひとつの輪に付いている。戸川さんは東雲小学校で教えていた元先生で、水・金・土・日の週四日、受付と案内を手伝ってくれている。閉館後の第二展示室の点検は、戸川さんのいる日は戸川さんの仕事だった。

鍵掛けの下の引き出しには、ケースを入れ替えたときの古い鍵が何本か残っていた。今のケースに合うものがあるかどうか、千晴はまだ確かめていなかった。

「窓と照明、見てきますね」

「お願いします」

千晴は正面に回り、のぼり旗を抜いて玄関脇にしまった。それから玄関のシャッターを下ろす。古いシャッターは、下ろすたびにがらがらと派手な音をたてる。ちょうど大型トラックが県道を通り過ぎて、その音と混じり合った。

事務室に戻ると、早瀬館長が受話器を肩に挟んで、教育委員会と来月の予算の話をしていた。千晴は入館者数を日誌に書きこみ、明日の展示解説の紙を十枚刷った。

十七時十二分、戸川さんが鍵束を返しに来た。

「異常なしです」

鍵束を受け取るとき、指先が触れた。外から戻ってきた人のような、冷たい手だった。

「寒くなりましたね」と千晴が言うと、戸川さんは「ほんとうにね」と笑って、マフラーを巻いた。

二 五時すぎの四つ

翌朝の写真を見て、千晴はしばらく画面から目を離せなかった。

ばちの向きが逆になっていた。フェルトの頭が、壁ではなく窓のほうを向いている。トラックの振動くらいで、ばちが半回転するはずがない。

昨日の閉館後に誰かがケースを開けたのなら、それは鍵束を持っていた人だ。そう考えかけて、千晴はいったんその考えを脇へどけた。昨日の朝、写真を撮ったあとで自分がうっかり触ったのかもしれない。確かめられないことで人を疑うのは嫌だった。ばちを戻して、写真をもう一枚撮った。

木曜日は、戸川さんの来ない日だった。

午後、湊は部活の帰りに寄ったらしく、少し息を切らして受付に来た。

「昨日って、チャイム、二回鳴りましたよね」

千晴は帳簿から顔を上げた。「閉館のは、四時五十分の一回だけだよ」

「それは中で聞きました。そのあと、外でもう一回」

「外で?」

「裏の坂の角の自販機で、ジュース買って飲んでたんです。そしたら五時に町の音楽が鳴って、そのあと、たぶん五分くらいしてから、上から聞こえました。資料館のほうから」

千晴が最初に思い浮かべたのは、まさにその町の音楽だった。夕方五時に防災無線のスピーカーから流れる、ゆっくりした童謡。けれど湊は先回りするように首を振った。

「町のは別の曲です。あれとは違って、四つの音のやつ。昨日、中で聞いたのと同じ節でした」

「同じ節なら……」

同じ録音がもう一度鳴った、ということになる。千晴がそう言いかけると、湊は少し困った顔をした。

「同じ節なんですけど、なんか違ったんです。全体がゆっくりで。あと、ひとつの高さの音だけ、出てくるたびに詰まったみたいに小さかった」

「ひとつの高さだけ?」

「三番目に高い音……だと思います。そこだけ、ぽこって」

打楽器をやっている子の耳だ、と千晴は思った。自分なら同じ節が聞こえた時点で「閉館チャイムだ」と思って、それ以上は考えない。実際、昨日の千晴は二回目を聞いてもいなかった。

「ほかの日は?」

「先週の日曜も、たぶん。そのときは気のせいかと思いました。火曜は聞いてないです。火曜も坂から帰りましたけど」

それから、湊は思い出したように付け足した。

「あと、向かいの家のおばあさんが縁側にいました。毛布かけて。寒いのにな、って思った」

湊が帰ったあと、千晴は事務室で早瀬館長に話した。館長は眼鏡を額に押し上げて、壁際の放送盤を指さした。古い灰色の箱で、丸いタイマーの文字盤の、鳴らしたい時刻のところへ小さなピンを差しこむ仕組みになっている。ピンは一本だけ、十六時五十分のところに刺さっていた。その横に、手で押す再生ボタンがある。

「タイマーで鳴るのは一回だけだね。ボタンを押せば何回でも鳴るけど、昨日の五時過ぎ、ぼくはずっとここで電話してたから」

「誰かが押した、ということは」

「事務室に入らないと、ここには来られないよ。ぼくの座ってた場所の、すぐ後ろだからね」

館長はそれから、少し照れくさそうに言った。

「実を言うとね、五時過ぎに鳴ったような気はしたんだ。でも毎日聞いてるから、頭の中で鳴ってるんだと思った」

「館長」

「年をとると、そういうことがあるんだよ」

千晴は笑いかけて、やめた。館長の言葉が、自分の頭のどこかに引っかかったからだ。

もうひとつ、嫌な考えも浮かんだ。閉館のとき、客が誰か中に残っていたのではないか。けれど昨日の閉館前、千晴は全部の部屋を回っている。トイレも、渡り廊下の物陰も。客は三人で、三人とも出ていくのを見た。少なくとも、誰かを閉じこめたわけではない。そこだけは、はっきりしていた。

閉館後、千晴は館長に頼んで、放送盤の再生ボタンを押してもらうことにした。自分は外の坂に立つ。

資料館の裏手には、建物に沿って細い坂道が下っている。第二展示室の窓は、その坂に面した側にひとつだけある。坂をはさんだ向かいに、縁側のある古い平屋。その少し下の角に自販機があり、坂を下りきるとバス停だ。

十七時二十分、窓の下から手を振って合図すると、建物の中でチャイムが鳴った——らしかった。千晴の耳に届いたのは壁の向こうのくぐもった響きだけで、窓の真下でようやく、何か鳴っていると分かる程度だった。自販機の角まで下りてもう一度鳴らしてもらうと、今度はほとんど何も聞こえなかった。

三回目は、館長に第二展示室の窓を開けてもらった。今度は坂の途中まで、ちゃんと届いた。天井のスピーカーから出る、少し平べったい録音の音。湊の言う「詰まった音」はなかった。四つの高さの音は、どれも同じように伸びていた。

資料館の裏の坂で、開いた窓から届く音に耳を澄ます千晴。向かいに縁側、坂下に自販機がある。

窓を閉めて出てきた館長に、千晴は言った。

「窓が閉まっていると、外にはほとんど聞こえません。湊くんが自販機のところで聞いたなら、窓が開いていたはずです。それに、録音にはひとつだけ小さい音なんてありませんでした」

「じゃあ、彼が聞いたのは何だったんだろうね」

千晴はすぐには答えなかった。答えはもう、キャプションに自分で書いてあった。

三 当番表

その夜、千晴はアパートの台所でやかんのお湯が沸くのを待ちながら、自分が何を取り違えていたのかを考えた。

あの節が聞こえたら、閉館チャイムが鳴った。昨日まで、千晴にとってそれはひとつのことだった。館長もそうだったのだろう。毎日同じ音を聞いているうちに、音と出来事がくっついて離れなくなっていた。

でも、あの音は録音だ。録音されたもとの楽器は、今も第二展示室のケースの中にある。同じ音がするのは当たり前だった。もとが同じなのだから。

湊の聞いた二回目には、ひとつの高さだけ詰まったような音があった。チャイムの音板を低いほうから数えれば、ひびのあるのは二本目。高いほうから数えれば三本目だ。録音は一九九八年の、ひびが入る前のもの。だから録音には詰まった音がない。今あの楽器を叩けば、三番目に高い音だけが短く、小さく鳴るはずだった。

それに、ばちの向き。

お湯が沸いて、千晴は火を止めた。カップ麺にお湯を注いで蓋を閉めると、今月の写真を一枚ずつさかのぼった。ばちが少しずれていた朝は、前にも二度ある。日付を確かめる。先週の土曜と、今週の火曜。土曜の前の日は金曜で、火曜の前の開館日は日曜だった。どちらも戸川さんのいた日だ。そして今朝の、半回転。ずれていない朝もある。けれど、ずれていた朝の前の日は、全部戸川さんの日だった。

湊が二回目を聞いたのは先週の日曜と昨日の水曜で、聞かなかったのは火曜。これも、戸川さんの当番表とぴったり重なる。

「……でも」

声に出して、千晴は自分の声に少し驚いた。

でも、なぜ。戸川さんはひびのことを知っている。キャプションを一緒に読んで、「書いておいてよかったわね」と言ってくれた人だ。閉館後にわざわざ窓を開けて、いったい誰に聞かせるために。

湊の言葉がよみがえった。向かいの家のおばあさんが、縁側にいました。毛布かけて。

カップ麺はすっかり伸びてしまったが、千晴はそれを最後まで食べた。

翌朝、千晴は早めに出勤して、収蔵庫で記録カードをもう一度見た。〈打鐘 森本フミ(用務員)〉。

事務室で新聞を広げていた館長に、なるべく何気なく聞いた。

「裏の坂の向かいのお宅って、どなたが住んでるんですか」

「森本さんだよ。九十を過ぎたおばあちゃんが、娘さんと二人でね。昔、小学校の用務員さんだったって聞いたな」

館長は新聞から顔を上げた。「どうして?」

千晴は、まだ答えなかった。答えれば館長はきっと戸川さんに電話をする。戸川さんは今日来る。その前に、自分の目で確かめたかった。

誰かを責めたくて確かめるんじゃない、と千晴は自分に言い聞かせた。あれは千晴の展示で、ひびの入ったチャイムは千晴が預かっている資料だ。ただ、それだけのことだった。

四 窓のすき間

金曜日の戸川さんは、いつも通りだった。受付で入館者に挨拶をして、小学生の兄弟に足踏みオルガンの踏み方を手ぶりで見せ、「本物には触らないでね」と笑った。千晴は何度か話しかけようとして、そのたびにやめた。

十七時、千晴は鍵掛けから鍵束を外した。戸川さんが手を出す前に言った。

「今日は、わたしが第二展示室を見ます」

戸川さんは一瞬だけ手を止めて、それから「そう、ありがとう」と言った。それだけだった。

千晴は鍵束をポケットに入れ、先に正面ののぼり旗をしまってから、裏口を出て坂に回った。日はもう沈みかけて、空が薄い橙色になっている。

向かいの家の縁側に、小柄な人が座っていた。膝に毛布をかけて、少し背中を丸めて、資料館のほうを見上げている。千晴と目が合うと、その人は会釈をした。誰かを待っている人の顔だった。

そのとき、頭の上で窓の鍵の外れる音がした。

見上げると、第二展示室の窓が手のひら一枚ぶんだけ開いていた。カーテンの影が揺れている。

千晴は裏口から駆け戻った。鍵束は自分のポケットにある。けれど、第二展示室の扉には鍵をかけていなかった。点検のときに自分でかけるつもりで、閉館前の見回りのあとは開けたままにしてあったのだ。部屋には入れる。でも、ケースの鍵は——。

渡り廊下を抜けると、戸川さんがケースの前に立っていた。白い綿の手袋をはめて、片手にばちを持っている。ケースのガラスの蓋は、半分持ち上がっていた。

「戸川さん」

戸川さんは振り向いた。驚いた顔はしていなかった。

「やっぱり、あなたは気がつくのね」

「ケースの鍵は」

「合鍵。去年ケースを入れ替えたとき、古い鍵が事務室の引き出しに残っていてね。それがこのケースにも合ったの。さっき、出してきた」

戸川さんは、ばちを元の場所に置いた。フェルトの頭を、きちんと壁のほうへ向けて。それからケースの蓋を、そっと下ろした。

「フミさんにね、聞かせたかったの」

窓の外を見ながら、戸川さんは話した。展示が始まってすぐ、森本フミさんから電話があった。戸川さんは東雲小に七年いて、そのあいだ毎朝、フミさんの打つチャイムで一日を始めていた。フミさんは、あの音をもう一度聞きたいと言った。けれど坂を上って資料館まで来るのは、もう難しい。録音なら閉館前に鳴っているけれど、窓は閉まっているし、そもそもあれはスピーカーの音でしょう、と戸川さんは思った。

「本物を、一回だけ。そう思っていたのが、何回か続いてしまって」

「先週の金曜から、ですか」

「金、土、日、それと水曜。今日はやめようと思ったのよ、あなたにああ言われて。でも、縁側にフミさんが見えたら、どうしてもね」

戸川さんは少し笑った。「そっと打ったのよ。ひびのことは、あなたのキャプションで読んでいたから」

「そっとでも、です」

思ったより強い声が出て、千晴は一度息を吸った。

「あのひびは、そっと打つかどうかで決まるものじゃないって、報告書に書いてありました。窓だって、閉館後に開けたまま鍵をかけ忘れたら、誰も気づきません。それに、もし何かあったら、このケースを預かっているのはわたしです」

「あなたに背負わせたくなかったの。言えば、あなたは駄目って言わなきゃいけなくなるでしょう」

「言ってもらえなかったから、わたしは知らないまま背負っていました」

戸川さんは黙った。それから手袋を外して、きちんと畳んだ。

「ごめんなさい。そうね。あなたの言う通りだわ」

窓の外で、縁側の人がまだこちらを見上げていた。今日は鳴らない。それを伝えに行かなければ、と千晴は思った。そしてもうひとつ、戸川さんに言わなければならないことがあった。

「戸川さん。閉館のチャイムの録音、誰が打ったか知っていますか」

「教育委員会の誰かでしょう。わたしは九五年に転任したから、閉校の年のことは知らないの」

「記録カードに名前があります」

千晴は言った。「森本フミさんです。閉校の年の三月、最後の下校のチャイムをフミさんが打って、それを録音したんです」

戸川さんは目を見開いたまま、しばらく何も言わなかった。

「……毎日、鳴っていたの? ここで、フミさんの音が」

「毎日、四時五十分に。窓が閉まっていたから、外に届かなかっただけです」

窓を閉める音を聞きつけて渡り廊下に出てきた早瀬館長に、千晴は全部を話した。戸川さんも自分の口で、もう一度同じことを話した。館長は長いこと腕を組んでいて、それから事務室に戻り、引き出しから戸川さんが返した古い鍵を取り上げた。

「これは、ぼくが預かる。それと、点検の鍵束からケースの鍵は外そう。閉館後の点検で、ケースを開ける用事はないからね」

戸川さんはうなずいた。千晴もうなずいた。

「それで、久住さん。何か考えがありそうな顔だね」

千晴は、第二展示室のほうを振り返った。

「土曜日だけ、展示の会期中、四時四十五分に第二展示室の窓を開けさせてください。職員が窓のそばに立って、チャイムが鳴り終わったらすぐ閉めます。開館中で、館長もいる時間です。本物は打ちません。録音を、外へ届けるだけです」

館長は少し考えてから言った。

「森本さんのところと坂のお隣さんには、ぼくが声をかけておこう。急に音が聞こえたら驚くだろうから」

そのあと千晴は坂を渡って、縁側の人に頭を下げた。今日は鳴りません、と言うと、フミさんは「そうでしょうね」と、なぜか可笑しそうに言った。

「澄子先生、昔から決まりを破るのが下手な人だったもの。窓を開ける手が、毎回ふるえてたの」

五 ひと息、待つ

土曜日の十六時四十分、千晴は向かいの家の縁側に座っていた。

窓のそばに立つ役は、戸川さんが自分から申し出た。「最後まで見届けさせて」と言われて、千晴は館長と相談して任せることにした。開館中で、館長も事務室にいる。窓を開けて、鳴り終わったら閉め、鍵をかける。それだけを二人で何度も確かめた。

フミさんは膝に毛布をかけ、湯のみを両手で包んでいた。娘さんが千晴にもお茶を出してくれた。縁側から見上げると、資料館の白い壁と第二展示室の窓は、思っていたよりずっと近かった。

「あの子は来ないの? 打楽器の子」

「湊くんは部活の帰りに寄って、今日は中で聞くそうです」

湊には昼、部活へ行く前に寄ったときに、短く話してあった。閉館後に職員が窓を開けて、本物のチャイムを鳴らしていたこと。もうしないこと。湊は「やっぱり三番目でしたか」と、そこにだけ嬉しそうな顔をした。

十六時四十五分、窓が開いた。戸川さんの手がのぞいて、こちらに小さく振られた。

「澄子先生、手なんか振って」

フミさんは笑った。それから湯のみを置いて、千晴のほうを向いた。

「あなた、毎日あれを聞いてるんでしょう。どんな音?」

「少し平べったい音です。スピーカーが古いので」

「そう。わたしが打ってたころも、放送室のマイクが古くてね。教室で聞くと、いつも平べったかったのよ」

坂の下をバスが通り過ぎて、音が消えた。娘さんがフミさんの毛布を直した。千晴は腕時計を見るのをやめて、窓を見上げた。

天井のスピーカーの小さな雑音が、窓から坂へこぼれてきた。

チャイムが鳴った。

四つの音で上がって、四つの音で下がる、あの節。千晴が毎日聞いている、少し平べったい録音の音だ。それが窓を抜けて、夕方の坂の空気の中で、思っていたよりずっと柔らかく広がった。

フミさんは目を閉じていた。

膝に毛布をかけたフミと千晴が縁側で音を聞く。坂向かいの資料館の窓に戸川が立っている。

二つ目の音のあと、録音はほんの少しだけ間をあけた。千晴はそのとき初めて、その間に気がついた。毎日聞いていたのに、一度も気にしたことがなかった。

鳴り終わると、フミさんはゆっくり目を開けた。

「あら、わたしだわ」

「分かるんですか」

「分かるわよ。二つ目のあとで、ひと息待つの。わたしの癖」

フミさんは窓を見上げた。窓は、ちょうど閉まるところだった。

「休み時間の終わりにはね、子どもらが廊下で遊んでるでしょう。いきなり全部鳴らすと、聞いてない子がいるの。だから二つ鳴らして、ひと息待って、みんなが顔を上げたところで残りを鳴らす。最後の日も、いつもと同じように打ったのよ。最後だからって特別にしたら、子どもらが泣くでしょう」

「わたし、それを毎日聞いていたのに、ただの閉館の合図だと思っていました」

「合図だもの。それでいいのよ」

フミさんは千晴の顔を見て、少し首をかしげた。

「澄子先生が鳴らしてくれたのも、嬉しかったけどね。三番目が、かわいそうな音になってた。あれは、もう休ませてあげて」

「はい」

千晴は、ここへ来るまで言おうかどうか迷っていたことを口にした。

「キャプションに、フミさんのお名前を書いてもいいですか。録音を打った人として」

フミさんはすぐには返事をしなかった。湯のみを持ち直し、ひと口飲んでから言った。

「名前は、書いてもいいわ。でも、それより、待つことを書いて。二つ目のあとで待ってたって。そのほうが、聞く人が楽しいでしょう」

閉館の少し前、千晴は坂を渡って戻った。第二展示室の窓は閉まり、鍵もかかっていた。戸川さんはケースの前で、触らずに、ただチャイムを見ていた。

「フミさん、何て?」

「わたしだわ、って」

戸川さんは、ふふ、と笑って、それから少しだけ目元を押さえた。

渡り廊下から、湊が顔を出した。今日の最後の客で、もう帰るところだった。

「中で聞きました。二つ目のあと、ちょっと待つんですね。ずっと待ってたのに、気づかなかった」

「わたしも」と千晴は言った。

湊はそれで満足したらしく、肩のケースを掛け直して出ていった。今日は正面から、県道沿いの道で帰るそうだ。

翌週、キャプションに一段落が加わった。

〈当館の閉館チャイムは、閉校の年の三月、用務員の森本フミさんがこのチャイムで打った最後の下校の合図を録音したものです。二つ目の音のあとの、短い間に耳をすませてみてください。廊下で遊ぶ子どもたちが顔を上げるのを、フミさんはそこで待っていました〉

ひびのことを書いた最後の一行は、そのまま残した。

日曜日の朝、千晴はいつものようにケースの写真を撮った。ばちのフェルトの頭は、壁のほうを向いている。昨日と同じ。一昨日とも同じ。

十六時五十分、天井のスピーカーが鳴った。千晴は常設展示室で客に閉館を告げて回りながら、二つ目の音のあとで、つい足を止めた。ひと息。顔を上げる。残りの音が鳴る。

同じ音でも、鳴らした手が違うことがある。同じ手でも、鳴らした日が違う。来週の土曜も、その次の土曜も、千晴は窓のそばで、それを確かめることにしている。