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日常

猫の似顔絵は、似ていない

模様は全部合っているのに、知らない猫の顔をしていた。

読了目安
23分
長さ
短編
#くすっと笑える#猫#大人の趣味
猫の似顔絵は、似ていないのイメージ

あらすじ

取扱説明書の図を描く千尋は、画材店の公募展に飼い猫・親方の肖像を出したい。けれど、三晩かけて写真から描いた猫はどう見ても『よその猫』。目の前で描こうとすれば背中を向け、おやつを持てば顔を袋に突っこむ。モデルになる気のない白黒ハチワレと、壁に自分の名前を飾りたい三十六歳の、少し欲張りな趣味の物語。

一 よその猫

鉛筆を置いたのは、夜の十一時を少し過ぎたころだった。

机の上には、猫がいる。白と黒のハチワレで、額の黒い分け目は左にかたより、鼻の左下に小さな黒いぶちがある。黄緑の目はまっすぐこちらを向き、ひげは一本ずつ、写真のとおりの角度で伸びている。色鉛筆で三晩かけた。毛の流れも、耳の内側の薄い桃色も、何度も重ねた。

千尋は椅子の背にもたれ、それから首だけで振り返った。

本物は、ソファの肘掛けに顎をのせて寝ている。背中は黒、四本の足は白、黒い尻尾の先だけが白い。名前は親方という。十一年前、保護団体の譲渡会で、ケージの奥にどっしり座って人間を見下ろしていた。その姿が、土俵の脇に控える親方に見えたのだ。

紙の猫と、ソファの猫を、何度か見比べた。

「……だれ」

声に出てしまった。

紙の猫は整っていた。礼儀正しく、少しおびえて、よその家の玄関で靴をそろえて待っているような顔をしていた。模様は同じだ。ぶちの位置も、分け目のかたよりも合っている。合っているのに、親方ではない。

親方が片目を開けた。右だけ。千尋の声に対する、彼にできる最大限の返事だった。

元にした写真は、スマートフォンの中でいちばんの一枚だ。正面から、両目が開いていて、ぶれていない。何百枚も撮って、ようやく撮れた。撮ったときのことも覚えている。シャッターの音に驚いて、親方が一瞬だけ固まったのだ。

親方はのびをして肘掛けから降り、まっすぐ机に来た。椅子の脇から、ためらいなく飛び乗る。ここ数年、着地の音がずしりと重い。

「あ、待って。それ」

彼は紙の上に座った。描かれた自分の顔の、ちょうど真上だった。

「そこ、あなたの顔なんだけど」

親方は前足をそろえて、窓の外の暗がりを見ていた。降りる気はなさそうだった。千尋は紙の端を指でつまんで、引いてみて、やめた。三晩分の色鉛筆より、六キロ近い猫のほうが強い。

「まあ、いいけど。似てないし」

親方は耳だけをこちらに向け、また窓に戻した。

青葉図版の仕事は、家電の取扱説明書に載せる図を描くことだ。電気ケトルの蓋の開け方。炊飯器の内釜の外し方。掃除機のフィルターを、どちら向きに差しこむか。メーカーから届いた写真を見て、余計な影や映りこみを取り除き、必要な線だけを残す。千尋はそれが得意だった。野々村さんに頼むと写真よりわかりやすい、と営業の人に言われたこともある。

翌日の午後も、千尋はケトルを描いていた。注ぎ口と蓋と本体を少しずつずらして並べ、どの部品がどこにはまるかを点線でつなぐ図だ。

「休憩しないの」

戸川がコーヒーを二つ持って、隣の机に寄りかかった。千尋より七つ上の先輩で、仕事は速く、言い方は短い。

「これが終わったら」

「昨日言ってた猫は描けた?」

千尋は少し迷ってから、スマートフォンを差し出した。昨夜、親方がどいたあとに撮った写真だ。

戸川は画面を見て、うなずいた。

「上手いね」

「ありがとうございます」

「で、これ誰」

「親方です」

「親方って、あの親方? 前に写真見せてくれた、餅みたいな」

「餅みたいな親方です」

「ずいぶん痩せたね」

「痩せてません。同じ写真から描いたんです」

戸川は画面を指で広げ、縮め、また広げて、首をかしげた。

「なんだろうな。うまく言えないけど、ケトルの図みたいだ」

「褒めてます?」

「ケトルの図としては満点」

千尋はスマートフォンを取り返した。言い返したかったが、言い返す材料が見つからなかった。自分でも、昨夜同じことを思ったのだ。

「で、それ何に使うの」

「ミヤマ画材ってわかります? 駅の向こうの」

「ああ、二階がギャラリーの」

「あそこで、小品の公募展があるんです。テーマが「肖像――人も、動物も、ものも」で、F4以下なら画材は何でもいい。入選すると、二階に二週間飾ってもらえるんです。締切は三週間後」

「出すんだ」

「出します。入りたいんです」

言ってから、思ったより強い声だったことに気づいた。戸川がこちらを見ている。

「専門学校のとき、一回も賞をとったことがなくて」と千尋は言った。「仕事では毎日描いてるじゃないですか。でも説明書のどこにも、わたしの名前は載らない。べつにそれはいいんです。仕事だから。ただ、一回でいいから、壁に名札がついてて、そこに自分の名前が書いてあるのを見てみたい」

戸川はコーヒーを一口飲んだ。

「じゃあ、そのケトル出せば」

「それ、仕事の図です」

「ケトルの肖像」

「出しません」

戸川は笑って自分の机に戻った。千尋は画面のケトルに目を戻した。点線は正確で、部品はどれも正しい位置にあった。正しいのに、と千尋は思った。昨夜の猫も、正しかったのに。

二 描かれる気のない猫

土曜の朝、千尋は写真をやめることにした。

スケッチブックと鉛筆を持って、窓辺のクッションに寝ている親方の正面に、床から座る。日差しが白い腹を温めていて、親方は満足そうに目を細めていた。

「じゃあ、お願いします」

鉛筆を構えたとたん、親方は立ち上がった。

ゆっくり半回転して、こちらに背中を向ける。座りなおし、左の脇腹を舐めはじめた。舐めて、舐めて、ときどき動きを止めて遠くを見て、また舐める。

「顔をね、描きたいの。顔」

親方は舐めるのをやめた。それから前足を顔の下に折りこみ、尻尾で体をくるりと囲んで、丸くなった。顔はもう、どこにもなかった。黒い毛のかたまりの端に、白い尻尾の先がのぞいているだけだ。

千尋は鉛筆を持ったまま、しばらく黙っていた。

台所の引き出しには、ペースト状のおやつが入っている。袋の音を立てれば、親方はどこからでも来る。来て、千尋の前に座り、こちらを見上げるだろう。そのあいだに描けばいい。

ただ、親方は去年の健康診断で太り気味だと言われていて、おやつは一日一本までと決めている。今日はまだあげていない。

千尋は引き出しを開け、袋を一本取り出した。かさ、と鳴らした瞬間、窓辺の毛のかたまりがほどけた。親方は床を鳴らして走ってきて、千尋の膝の前にきちんと座った。黄緑の目が、まっすぐ袋を見ている。

「はい、ちょっと待ってね。いい子だから、そのまま」

左手で袋を差し出し、右手でスケッチブックを押さえる。親方は袋に顔を突っこむようにして舐めた。描こうとしても、見えるのは頭のてっぺんと、高速で動く鼻先だけだった。一本はあっという間に終わった。親方は千尋の指を一度舐め、口のまわりを舐め、くるりと背を向けて、廊下へ歩いていった。尻尾の白い先が、角を曲がって消えた。

スケッチブックには、何も描かれていなかった。

「……そうだよね」

明日も同じことをして、明日の分も、あさっての分も使ってしまえば、親方は今よりもっと餅になる。抱き上げて膝に押さえておく、というのも思いついたが、すぐに消した。親方は抱っこが嫌いだ。抱き上げると体を棒のように伸ばして、床に降りるまで低くうなり続ける。そもそも押さえつけられた猫の顔なんて、描きたくない。

千尋は廊下をのぞいた。親方は玄関マットの上で横になり、前足で顔を洗っていた。

顔は描けない。でも、耳なら見える。

千尋はその場に座りこみ、耳だけを描いた。三角の黒い耳が、洗面所で水道管が鳴った方向へ、くっと向きを変える。描き終わる前に向きが変わるので、変わったあとの耳を、隣に描いた。

朝の廊下でスケッチブックを広げる千尋と、玄関マットで背を向けて丸くなる白黒猫の親方。

次に背中を描いた。丸めた背骨の線。次に尻尾。尻尾はいちばん忙しく、床を叩いたり、ゆるく巻いたり、先だけぴくりと動いたりした。ひとつの形を描くのに三十秒もかからない。かからないというより、三十秒以上同じ形でいてくれない。

描いた紙は、どれもひどかった。線は途中で途切れ、形は半分しかなく、耳だけが五つ並んでいるページもあった。

途中で、親方が寄ってきた。千尋が鉛筆を速く動かすと、その先端をじっと見て、前足でぱしりと叩いた。

「ちょっと」

鉛筆の線が紙の端まで伸びた。親方はもう一度、叩こうと構えた。その前足を、千尋はとっさに描いた。白い足先、わずかに開いた指、そのあいだからのぞく爪の先。描き終わるころ、親方は興味をなくしてソファに戻った。

午後、千尋はミヤマ画材に行った。

色鉛筆は、たぶん向いていない。重ねて重ねて、時間をかけるほど、写真に近づいてしまう。もっと速く色を置けるものがいい。ガッシュのチューブを何色かと、練り消しを買うことにした。

レジにいたのは、髪をひとつに結んだ若い女の人だった。胸の名札に「桐生」とある。何度か見かけたことがある。

「公募展、出されるんですか」

桐生は、千尋の手元の申込用紙を見て言った。入口で一枚取ってきたのだ。

「出そうかと思って」

「わたしも出すんです。去年落ちたので、今年はリベンジです」

桐生は袋に絵の具を入れながら、カウンターに置いた千尋のスケッチブックに目をやった。開いたまま置いてしまったのだ。ちょうど、背中ばかり並んだページだった。

「猫ですか」

「うちの猫です。ぜんぜん描かせてくれなくて」

「見てもいいですか」

千尋がうなずくと、桐生はページをめくった。耳の列、尻尾、叩きに来た前足。ある一枚で手を止めて、ふっと笑った。

「この背中、ふてくされてますね」

「それは、あくびの前です」

「あ、ほんとだ。首がこう、ぐっと」桐生は自分の首を少し前に出してみせた。「わかる。猫、あくびの前にこうなる」

千尋は、昨夜の色鉛筆画の写真も見せた。なぜ見せたのか、自分でもよくわからなかった。

桐生は画面をしばらく見ていた。

「上手いですね。上手い。……でもなんか、証明写真みたい」

「やっぱり」

「すみません」

「いえ。先輩には、ケトルの図って言われました」

桐生は笑いをこらえ損ねて、口元を押さえた。

「わたし、祖母を描いてるんですけど、写真から描くとお見合い写真みたいになるんですよ。本人に見せたら、こんなにすました顔しないって怒られて」

「おばあさん、どんな顔なんですか」

「いつも何か食べてる顔です」

二人で少し笑った。桐生は袋の口をテープで留め、千尋に渡した。

「負けませんよ」

「わたしも入るつもりなので」

店を出ると、日が傾いていた。千尋は袋を提げて歩きながら、桐生が止めたページのことを考えた。ふてくされた背中。あくびの前の首。描いた本人よりも先に、他人がそれを猫だとわかった。

三 こぼれた水

月曜から、千尋は夜に描くのをやめた。代わりに、見ることにした。

親方の夕食は六時半だ。千尋が六時すぎに帰ると、親方は玄関まで出迎えには来ない。ソファから顔を上げて、帰ってきたことを確認するだけだ。

ところが、六時二十分を過ぎると、様子が変わる。

親方はソファから降り、台所の戸口まで歩いていって、そこに座る。座る向きは、台所のほう。千尋には背を向けている。黒い背中と、床に置かれた白い尻尾の先。そして、ときどき肩越しに振り返る。振り返るとき、目は両方開かない。右目だけを細め、左目でこちらを見る。

まだなのか、という顔だった。

「あと十分」

親方は前を向く。少しして、また振り返る。今度はさっきより目が細い。

六時半を一分でも過ぎると、親方は短く鳴く。

「ぶにゃ」

鳴くと、鼻の左下の黒いぶちが、くいっと持ち上がる。口の端が引っぱられるからだ。千尋はそれを、十一年間見ていたはずだった。でも、ぶちが動くことには、今まで気づいていなかった。

ほかにも見つけた。寝ているときでも、冷蔵庫がぶうんと鳴りはじめると、右耳だけがそちらを向く。千尋がソファに座ると、隣に来るが、くっつかない。体ひとつ分あけて、背中を向けて座る。テレビの音が大きくなると、尻尾の先が床をとん、とんと叩く。

金曜の夜、千尋は例の写真をもう一度開いた。

正面。両目が開いている。ぶれていない。ひげがぴんと前に張り、耳が少し後ろに倒れている。

これは驚いた顔だ、と千尋は思った。

シャッターの音に、親方は固まった。固まって、目を見開いて、まっすぐこちらを見た。正面から、両目で、じっと。親方がそんな顔をするのは、知らない音を聞いたときか、知らない人が来たときだけだ。千尋は何百枚も撮って、いちばん親方らしくない一瞬を選び、三晩かけて丁寧に描いたのだった。

「そりゃ、よその猫になるよね」

親方は体ひとつ分あけた場所で、背中を向けて寝ていた。

それでも、千尋はすぐには猫を描かなかった。

先に、りんごを描いた。テーブルにりんごをひとつと、白いマグカップを置いて、昼の光でガッシュを塗った。りんごは動かない。マグカップは振り返らない。二時間ほどで、きちんとした絵ができた。赤は赤く、白は白く、影は正しい方向に落ちていた。

保険だ、と自分に言い訳した。猫がうまくいかなかったときのための。

それから、F4の水彩紙を出した。

台所の戸口に座る親方を、少し後ろの、床に近い高さから見た絵にする。黒い背中、白い足、肩越しの片目。土曜と日曜の夜を使って、鉛筆で下描きをし、背中の黒を置いた。描いているあいだ、親方は隣の椅子で寝ていた。

日曜の夜十時すぎ、千尋はトイレに立った。

戻ってくると、机の上に親方が座っていた。

その足元で、筆洗の紙コップが横倒しになっていた。灰色の水が紙の上に広がって、机の端からぽたぽた落ちている。描いたばかりの黒い背中は輪郭を失い、白い足のほうへ流れ出していた。

「なんで今!」

親方は動かなかった。濡れた紙の上で、前足をそろえ、こちらを見た。驚いた顔ではなかった。いつもの、少し退屈そうな顔だった。

千尋はまず、絵の具のチューブを見た。蓋は全部閉まっている。パレットは机の反対側だ。それから親方の前足を見た。白い足先が、灰色の水で濡れていた。

「待って、舐めないで」

洗面所からタオルを持ってきて、ぬるま湯で湿らせ、親方の前足を一本ずつ拭いた。指のあいだまで拭くと、親方は体を引いて、低く鳴いた。

「ぶにゃ」

「わかってる。ごめん。でも拭かせて」

もう一本。親方は耳を後ろに倒し、拭き終わるとすぐに机から飛び降りて、廊下へ行ってしまった。タオルを見ると、薄い灰色がついていた。チューブには触っていない。けれど、筆洗の水にも絵の具は混じっている。千尋は親方が机から離れたのを確かめ、濡れた筆とパレットも片づけた。

それから、机を見た。

紙は波打ち、真ん中がふくらんでいた。乾いても平らには戻らないだろう。黒は流れて、背中のまわりに灰色のもやを作っていた。応募には使えない。

千尋は椅子に座りこんで、しばらくその紙を眺めた。腹が立った。週末の夜をふたつ使ったのに。締切まで、もう一週間もないのに。

眺めているうちに、変なことに気づいた。

にじんだ背中は、動いて見えた。輪郭が流れているせいで、今まさに振り返ろうとしているように見える。片目のあたりにはまだ色を置いていなかったのに、灰色のもやの中に、細めた目があるような気がした。

「……ずるい」

千尋はつぶやいて、紙コップを捨てた。代わりに、空になった重いジャム瓶を洗って、筆洗にした。親方を部屋から出す、ということは考えなかった。彼は隣の椅子で寝るものだ。倒れにくいものを使おう。席を離れるときには蓋を閉める。それは、猫ではなく自分が変えられることだった。

月曜、千尋は昼休みに戸川に二枚の写真を見せた。りんごと、にじんだ猫。

「りんご、上手いね」

「ありがとうございます」

「こっちは?」

「猫が水を倒しました」

戸川は笑いかけて、やめて、画面を見なおした。

「でも、これは親方っぽいな。見たことないけど」

「見たことないのに」

「写真の親方より、っぽい」

「でも応募できないんです。紙がだめになったので」

「じゃあ、どっち出すの」

「入選しそうなほう」

「じゃあ、りんごだ」

「……ですよね」

戸川はそれ以上何も言わず、自分の弁当に戻った。千尋はりんごの写真を見た。きちんとしていて、正しくて、どこにも文句のつけようがなかった。たぶん、入る。店の二階の、壁のどこかに。

そのりんごの横に自分の名前があるところを、千尋は想像してみた。

うれしいはずだった。

四 締切の夜

締切の二日前の夜、千尋は冷蔵庫の前に立っていた。

りんごの絵は、マグネットで冷蔵庫の横に貼ってある。机の前の壁には、にじんだ猫の絵がテープで留めてある。波打ったまま乾いて、紙の真ん中が少しふくらんでいる。

りんごで入選したら、と千尋は考えた。

自分は二階に見に行くだろう。名札を見て、写真を撮って、たぶん一回で満足する。りんごの前に立っても、言うことがない。上手くできたね、と思うだけだ。

猫で入選したら。

毎日でも見に行く、と思った。昼休みに、仕事帰りに。名札の横にいるのが親方なら、見知らぬ誰かがその前で足を止めるたびに、うちの猫です、と言いたくなるだろう。言わないけれど。

どうせ入るなら、そっちで入りたい。

それは、猫のためではなかった。親方は絵が壁にかかっても何とも思わない。自分のためだった。欲張りな、自分のための選択だった。入選しやすいほうを捨てるのではなく、どうしても欲しいほうを、欲しいもので取りにいく。落ちたら悔しいだろう。りんごにすればよかったと思うかもしれない。それでも、りんごで入った自分を、二階で見上げているところは想像できなかった。

千尋は新しいF4の紙を出した。

写真は開かなかった。スマートフォンは寝室に置いてきた。

下描きは短くした。戸口に座る背中の線。土曜の朝、廊下で何十回も描いた丸い背骨を、手が覚えていた。首は、あくびの前ほどではなく、少しだけ前に。肩越しに振り返る角度。右目は細く、左目でこちらを見ている。鼻の左下のぶちは、鳴く直前に、ほんの少し持ち上げた。

黒を置くとき、にじんだ絵を思い出した。輪郭をきっちり閉じず、背中の端だけ、筆を軽く抜いた。尻尾は床に置かれ、白い先がわずかに浮いている。いまにも床を叩きそうな高さだ。

隣の椅子では、親方が背中を向けて寝ていた。筆洗のジャム瓶は、彼から遠いほうに置いた。ときどき冷蔵庫が鳴ると、右耳がそちらを向いた。千尋はそのたびに手を止めて、見た。

その夜は背中と尻尾まで描いた。次の夜、仕事から帰って、顔と足と、戸口の床を描いた。六時二十分になると本物の親方が椅子を降り、台所の戸口に座ったので、千尋は筆を置いてそれを見た。右目が細い。左目がこっちを見ている。

「ちょっと待ってね。いま、あなたを描いてるから」

六時半を少し過ぎた。

「ぶにゃ」

ぶちが持ち上がった。千尋は笑って、親方の皿にごはんを入れた。それから机に戻り、絵の中のぶちを、ほんの少しだけ直した。

題は、すぐに決まった。「親方、六時二十五分」。ごはんの五分前だ。

夜のうちに乾かし、翌朝もう一度見た。きれいではなかった。ケトルの図のように正しくもなかった。背中の端はぼやけていて、床は大ざっぱで、戸口の柱は少し傾いていた。

でも、そこには親方がいた。

締切の日、千尋は定時で会社を出た。絵は板に挟み、紙袋に入れて、朝から机の下に置いてあった。戸川が「出すの?」と聞いたので、「出します」とだけ答えた。どっちを、とは聞かれなかった。

ミヤマ画材に着いたのは、六時四十分ごろだった。閉店は七時だ。レジには桐生がいた。

「来ましたね」

「来ました」

桐生は受付票を出し、千尋が名前と題を書くあいだに、紙袋から絵を出して確認した。板を外し、絵を見て、少し黙った。それから、ふっと笑った。

「これ、ごはん前ですね」

千尋は受付票から顔を上げた。

「わかります?」

「わかります。うちの実家の猫も、この顔で台所にいます」桐生は題の欄をのぞきこんだ。「六時二十五分。あ、ほんとにそうなんだ」

「三十分がごはんなので」

「最高です」桐生は絵を丁寧に板に戻した。「わたしは月曜に出しました。祖母、何か食べてる顔にしました」

「お見合い写真じゃなくなった?」

「おせんべい持たせました」

二人でまた笑った。千尋は控えの紙を受け取り、店を出た。紙袋は軽くなっていた。駅の向こうの空はもう暗く、家に帰ると、親方はソファで体ひとつ分あけた場所に寝ていた。

りんごの絵は、冷蔵庫の横に貼ったままにした。

五 似ていない

はがきが届いたのは、二週間後の夕方だった。

郵便受けから取り出して、玄関で裏返した。「入選のお知らせ」と書いてあった。下に、千尋の名前と、「親方、六時二十五分」の題があった。

「入った!」

声が思ったより大きく出た。ソファにいた親方が飛び起き、廊下の奥へ走っていった。

「ごめん。ごめんね。でも入った」

廊下の暗がりから、黄緑の目がふたつ、こちらを見ていた。正面から、両目で、まん丸に。驚いた顔だった。千尋は笑ってしまった。あの写真と同じ顔だ。

会社で伝えると、戸川は「おお」と言った。

「どっち出したの」

「猫です」

戸川は少しのあいだ千尋を見て、それからうなずいた。

「見に行く」

展示が始まって最初の土曜、千尋はミヤマ画材の二階に上がった。

白い壁に、小さな絵が並んでいた。二十点ほど。どれもF4以下の大きさで、肖像というテーマのわりに、人の顔は半分くらいしかなかった。

大賞の札がついていたのは、使いこんだ黒い長靴の絵だった。かかとがすり減って、片方が少し傾いている。作者の名前の横に、年齢が書いてあった。七十三歳。題は「相棒」。

千尋は長靴の前で、しばらく動けなかった。上手い、と思った。傾いた長靴は、たしかに誰かの相棒の顔をしていた。うれしい気持ちのすみで、小さく、しっかりと悔しかった。

大賞、欲しかったな。

自分でも驚くほど、はっきりそう思った。入選すればいいと思っていたのに。名札がつけば満足すると思っていたのに。

桐生の絵は、窓際にあった。小柄なおばあさんが、両手でおせんべいを持って、口を半分開けている。入選の札がついていた。目が合ったような気がして、千尋は少し笑った。

親方は、階段を上がってすぐの壁にいた。

戸口に座った黒い背中。白い足。床に置かれた尻尾の、白い先。肩越しに、右目を細めて、左目でこちらを見ている。下の白い札に、「親方、六時二十五分 野々村千尋 ガッシュ」と書いてあった。

千尋はスマートフォンを出して、札の写真を撮った。絵ではなく、札を撮った。名前の字が、思っていたより小さかった。それでも、たしかに自分の名前だった。

「ああ、これか」

振り返ると、戸川が立っていた。

「来てくれたんですか」

「見に行くって言った」戸川は絵の前に立って、腕を組んだ。「親方だ」

「会ったことないですよね」

「ない。でも、写真の親方より親方だ」戸川は少し考えてから言った。「ケトルの図じゃない」

「ありがとうございます」

「褒めてる」

「わかってます」

戸川は長靴の絵を見に行き、千尋はもう少し自分の絵の前に残った。

年配の女性が、隣に来て足を止めた。小さな手提げを持っていて、千尋の絵をしばらく眺めた。

「この猫、似てないわね」

千尋は女性の顔を見た。

「え」

「うちの猫に。うちのは茶色いの。顔もこんなに大きくないし」女性はそう言ってから、絵に少し顔を近づけた。「でもね、うちのもごはんの前、こういう背中するのよ。こっち見ないの。見ないくせに、ちらっと見るの」

「……そうなんですね」

「いやねえ、猫って」

女性は笑って、次の絵へ移っていった。千尋は名乗らなかった。名乗る必要はなかった。

そのあと、親に手を引かれた小さな男の子が絵の前で立ち止まり、「猫、怒ってる」と言った。

怒ってないよ、ごはん待ってるだけだよ、と千尋は心の中で言った。でも、たしかに怒っているようにも見える。それも、親方だ。

帰り道、千尋は駅の向こうの空を見ながら、写真の親方のことを思い出していた。両目でまっすぐこちらを見て、ひげがぴんと張った、礼儀正しい猫。あの色鉛筆画は、引き出しにしまってある。捨ててはいない。よその猫として、あれはあれでよく描けている。

今日の絵は、あの写真にはまったく似ていない。

それでいい、と千尋は思った。

家に帰ったのは、六時十五分だった。親方はソファから顔を上げ、千尋を確認して、また顔を下ろした。

テーブルの上に、入選のはがきが置いてある。千尋が手を洗って戻ってくると、親方はテーブルに上がって、はがきの上に座っていた。

「そこ、あなたの絵のことが書いてあるんだけど」

親方は窓の外を見ていた。

六時二十分を過ぎると、彼はテーブルから降り、台所の戸口まで歩いていって、そこに座った。黒い背中。白い足。床に置いた尻尾の、白い先。

千尋は机の引き出しから、新しいスケッチブックを出した。

来年もある。たぶん、あの公募展は来年もやる。次は大賞が欲しい。長靴に負けない絵が描きたい。何を描くかは、まだ決めていない。でも、また親方を描くかもしれない。ちっとも描かれる気のない、この猫を。

親方が肩越しに振り返った。右目を細め、左目でこちらを見る。

台所の戸口で背を向けて座り、肩越しにちらっと振り返る親方。白い尾先と、手前に千尋のスケッチブックが見える。

千尋は鉛筆を走らせた。背中、首、振り返る角度。三十秒で形が変わる。変わったら、隣に描く。

六時半になった。

「ぶにゃ」

ぶちが持ち上がった。

「あと三十秒」

「ぶにゃ」

親方は前を向き、尻尾の白い先で床をとん、と叩いた。

似ていない、と千尋は思った。紙の上の線は、まだぜんぜん親方に追いついていない。

でも、こっちを見ないで、ちらっと見る、その顔だけは、もう知っている。

千尋はスケッチブックを閉じ、親方の皿にごはんを入れた。