一 青い缶
日曜の朝、目を覚ますと、天井がいつもより白く見えた。昨日のうちにカーテンを外したせいだ。六年住んだ部屋の光は、遮るものがなくなると遠慮がなかった。
野々村亜紀は寝袋のファスナーを下ろして体を起こした。緑色の寝袋は坂下みのりのもので、キャンプ用に二つ持っているうちの古いほうだ。「アキが使うなら、こっちね」と昨夜渡された。新しいほうの寝袋では、みのり本人がまだ丸くなっている。短く切った髪の先だけが、フードの口からはみ出していた。
大きな家具は昨日、それぞれの引っ越し業者が運んでいった。二人はそれぞれの新しい部屋で荷物を受け取り、夜になってから、この部屋へ戻ってきた。最後の一晩はここで寝よう、と前から決めていたのだ。
亜紀の新しい部屋は、電車で三十分の、駅に近いワンルーム。みのりの部屋は反対方向へ四十分の、楽器相談可の部屋。リビングに残った段ボール七つは昼に宅配便が引き取りに来て、午後三時には管理会社の人が部屋を見に来る。そこで鍵を返せば、終わりだ。
亜紀は台所に立ち、最後まで中身を残しておいた引き出しを開けた。ガムテープ、油性ペン、輪ゴム、どこのものかわからないネジ。それから、青い缶。もとはクッキーが入っていた缶で、入居した日から予備の鍵の置き場所だった。契約のときに鍵を三本受け取って、一本ずつ持ち、残る一本をここに入れた。
蓋を開けると、中は空だった。
亜紀はしばらく缶の底を見ていた。銀色の内側に、自分の顔がぼんやりと映っている。
「……みのり」
「んー」
「予備の鍵、知らない?」
寝袋がもぞもぞ動いて、みのりの顔が出てきた。「缶でしょ」
「缶にない」
「えー」
みのりは寝袋に入ったまま、芋虫のように台所まで這ってきた。缶をのぞきこみ、振って、ひっくり返す。何も落ちてこない。
「ないね」
「ないね、じゃなくて」
「最後に見たの、いつ?」
亜紀は考えた。思い出せなかった。缶はいつもそこにあり、いつもそこにあるものを、わざわざ確かめたりはしない。
「三本そろえて返すんだよね」とみのりが言った。
「足りなかったら、鍵を替える費用を払うことになると思う。たぶん」
「たぶん?」
「たぶん。私も詳しくは知らない。午後に聞けばわかる」
「じゃあ午前中に見つけよ。どうせどっかにあるって」みのりは寝袋から足を抜いて、伸びをした。それから思い出したように言った。「あ、私、二時に出るからね」
缶の蓋を閉めかけた亜紀の手が止まった。
「二時?」
「ピアノ屋さん。新しい部屋の床と入り口の幅、見に来てくれるの。三時半。言ったじゃん」
「聞いてない」
「水曜に送ったよ」
亜紀はスマートフォンを開いた。水曜日のトーク画面は、新居の写真で埋まっていた。みのりの部屋の窓から見える川。亜紀の部屋の、壁に作り付けの細い棚。積み上がった段ボール。その間に、確かに一行あった。
〈日曜、ピアノの採寸15:30になった! 立ち会いアキに任せちゃっていい?〉
その下で亜紀は、川の写真に親指を立てたスタンプを返していた。返事は、それだけだった。
「任せちゃっていい、って聞いてる」
「うん」
「私、返事してない」
「スタンプくれたじゃん」
「あれは川へのスタンプ」
みのりは困ったように笑い、寝袋をくるくると丸めはじめた。「ごめん。でもアキ、そういうの得意でしょ。管理会社の電話もいつもしてくれてたし。私の鍵も預けていくから」
得意。亜紀はその言葉を口の中で転がした。得意なのではなく、やっていたのだ。燃えないゴミの日を覚えていたのも、トイレットペーパーが残り二つになったら買い足したのも、給湯器の点検の知らせに返事をしたのも。頼まれたわけではなかった。気づいたほうがやる。それだけの決まりで、六年間、たいてい先に気づくのが亜紀だった。
「いいよ」と亜紀は言った。
言ってから、自分の声がずいぶん平らだったことに気づいた。みのりは気づかなかったのか、「助かる!」と明るく返して、寝袋を収納袋に押しこんだ。
「じゃ、鍵探しながら掃除ね。私、お風呂やる」
亜紀はうなずき、空の缶を引き出しに戻した。
新しい部屋のことを考えると、胸のあたりが少しだけ軽くなる。窓際に机を置く。机の上に、ミシンを出しっぱなしにする。この部屋では、ミシンは使うたびに押し入れから出して、終わればしまっていた。リビングの机は二人の食卓でもあったから、布を広げたままにはしておけなかった。夜中に急に裾上げの続きをしたくなっても、ヘッドホンをつけて電子ピアノを弾いているみのりの横で、ガタガタ音を立てるのは気が引けた。
これからは違う。布を広げたまま眠ってもいい。
ただ、その「これから」の手前に、まだ一日が残っていた。
二 だれのドライバー
換気扇のフィルターは、思っていたほど汚れていなかった。去年の暮れに替えたからだ。替えたのは亜紀だった。
そういうことをいちいち数えるのはやめよう、と思いながら、亜紀はコンロの五徳を流しで洗った。数えはじめると、きりがない。そして数えると、たいてい自分のほうが多い。多いと思うと腹が立つ。腹を立てている自分に、また腹が立つ。
浴室からは、みのりの鼻歌と、ブラシのこすれる音が聞こえてくる。曲名は知らない。みのりがここ数か月、毎晩練習していた曲だ。ヘッドホンから漏れるかすかなシャカシャカという音でしか聞いたことがなかったけれど、鼻歌になると案外やさしいメロディだった。
鍵探しは、掃除の合間に続けた。玄関の靴箱の上の段。冬物のコートのポケット。といっても、コートはもう全部箱の中だ。亜紀は自分の箱のガムテープを一度はがしてポケットを探り、何も出てこないのを確かめてから貼り直した。洗面台の下。冷蔵庫の上を見ようとしたが、冷蔵庫は昨日運ばれていって、床に四角い跡が残っているだけだった。
「アキー」
浴室から、みのりが顔を出した。からし色のパーカーの袖をまくり上げ、片手にゴム手袋、もう片方の手に灰色のプラスチックケースを提げている。
「これ、アキの箱に入ってたんだけど」
電動ドライバーのケースだった。亜紀は手を拭いて振り向いた。
「うん。私が持ってく」
「これ、半分こで買ったやつじゃん」
覚えている。入居した最初の週、組み立て式の本棚を二人でねじ一本ずつ回していたら日が暮れて、翌日ホームセンターへ行った。レジの前でみのりが「割り勘ね」と言い、財布を開けたのだった。
「そうだけど。使ってたの、ほとんど私だよ」
「だってアキが、やるって言うから」
「みのりが言わないから」
言ってしまってから、亜紀は口を閉じた。みのりはゴム手袋の指先をつまんで、ぱちんと鳴らした。
「新しい部屋で、カーテンレールの位置変えたいの。あと、ピアノの横に棚つけたい」
「私だって棚つける。ミシンの糸を掛けるやつ」
「じゃあ、どっちもいるじゃん」
二人は電動ドライバーのケースを挟んで、しばらく黙った。ケースの角には、本棚を組み立てたときの油性ペンの印が残っている。「の」と「あ」。どちらの本棚の部品なのかわからなくなって、みのりが書いたのだ。結局、足りなかったのはねじのほうだった。
「……私、新しいの買う」と、みのりが先に言った。
「いいの?」
「うん。そのかわり、脚立は私の。あれ、私が実家から持ってきたやつだからね」
「えっ」
脚立は玄関の横に立てかけてある。六年間、電球を替えるときも、エアコンのフィルターを外すときも、亜紀はあれに乗っていた。だから、なんとなく自分のものだと思っていた。
「知らなかった」
「言わなかったもん」みのりは得意げに顎を上げた。「あと、土鍋も私がもらう」
「土鍋は二人で買ったでしょ」
「アキ、土鍋洗うの嫌いじゃん」
それは本当だった。焦げついた底をこするのが面倒で、鍋をした翌朝はいつも、亜紀より先にみのりが流しに立っていた。
「……あげる」
「ありがと。一人じゃ大きいけど」
みのりは笑って浴室へ戻りかけ、途中で振り返った。それからパーカーのポケットを探って、キーホルダーを取り出した。小さなフェルトのクジラがついていて、そこには、見慣れない銀色の鍵が二本増えていた。新しい部屋の鍵だ。
みのりは、そのうちの一本を輪から外した。
「これ、アキに持っててほしいんだ」
差し出された鍵を、亜紀は反射的に受け取った。新品の鍵は手のひらで思ったより軽く、歯の角がまだ鋭かった。
「私、よく鍵なくすじゃん。閉め出されたとき用。あと、調律の人が平日に来るとき、もしかしたら頼むかも」
もしかしたら、と言ったとき、みのりの目はもう浴室のほうを向いていた。決まったことを伝えるときの顔だった。
亜紀は「うん」とも「いや」とも言わずに、鍵をジーンズのポケットに入れた。みのりはそれで満足したように、鼻歌の続きを歌いながらブラシを動かしはじめた。
ポケットの中で、鍵の角が太ももに当たっていた。
十二時四十分に、宅配便の人が来た。段ボールは七つ。亜紀の箱が三つ、みのりの箱が四つ。伝票を二人で一枚ずつ確かめているあいだに、亜紀は自分が借りていた寝袋を丸めて、みのりの箱の一番上に押しこんだ。
「それ、あげるよ。古いほうだし」
「いい。私、キャンプ行かないから」
「行くかもしれないじゃん」
「行くとしても、そのとき借りる」
みのりは「ふうん」と言って、箱のふたを閉じた。ガムテープを伸ばす音が、空っぽの部屋によく響いた。
台車が廊下を遠ざかっていき、エレベーターの扉が閉まると、リビングと玄関に目をやると、二人と、引き出しの中の空っぽの缶と、脚立と、紙袋に入った土鍋だけが残っていた。
予備の鍵は、まだ見つかっていなかった。
三 防災リュック
昼は、駅前のコンビニで買ったおにぎりを、床に座って食べた。テーブルがないと、どこに座っても少し落ち着かない。みのりは窓際の、電子ピアノが置いてあった場所に座った。床には、ピアノの脚の跡が四つ、薄く沈んでいた。
「あと探してないところ、どこ」とみのりが言った。
亜紀は指を折った。玄関、台所、洗面所、浴室、二人の部屋、ベランダ。全部見た。
「押し入れの上の段」
「あそこ、もう何もないでしょ」
「防災リュックがある」
みのりがおにぎりを持ったまま、あ、という顔をした。
押し入れの上の段には、オレンジ色のリュックがひとつ、壁に寄りかかるように置いてあった。三年前の秋、大きな台風が近づいた夜、懐中電灯がどこにも見つからなくて、二人でスマートフォンの明かりを頼りに窓へ養生テープを貼った。その翌週、いつの間にかそこに置かれていたリュックだ。
亜紀は背伸びをして、リュックを下ろした。ずしりと重かった。
「これ、どっちが持ってく?」
「私」とみのりが言った。「私が作ったんだし」
「……そうだっけ」
「そうだよ」
みのりはリュックを床に置き、ファスナーを開けた。水のペットボトル。懐中電灯。電池。ラジオ。軍手。携帯用のトイレ。小さく畳まれたアルミのシート。それから、ビニール袋に入った紙が一枚。中身の一覧が、みのりの丸い字で書いてある。下のほうに日付が縦に並んでいて、どれも三月だった。
「水、入れ替えてたの?」
「毎年。三月に」
「三月になると水を箱で買ってくるの、それだったんだ」
「なんだと思ってたの」
「……水を、すごく飲む季節なのかなって」
みのりが吹き出した。亜紀もつられて少し笑った。笑いながら、胸の奥がゆっくり冷えていくのがわかった。毎年、目の前でやっていたことを、自分は知らなかった。
みのりはリュックの前ポケットのファスナーを開けた。手を入れて指先で何かを探り、それから動きを止めた。
「あ」
引き抜いた手の中に、小さなジッパー袋があった。中に鍵が一本。袋にはマスキングテープが貼ってあって、「予備 ここ」と書いてあった。

「……私だ」
みのりは鍵を見つめたまま言った。
「作ったとき、入れたんだ。避難して、もし自分の鍵をなくして戻ってきたら困るなって。で、アキに言おうと思って……」
「言われてない」
「忘れてた。ごめん」
亜紀は袋を受け取った。古い鍵だった。六年分、自分のポケットで擦れてきた鍵と同じ形をしているのに、こちらにはほとんど傷がなかった。
「よかった」と亜紀は言った。本当にほっとしていた。それなのに、言葉の続きが出てこなかった。
みのりはリュックの口を閉じ、膝を抱えた。窓の外で、どこかの子どもが自転車のベルを鳴らしている。
「アキ」
「なに」
「私、なんにもしてないと思われてたでしょ」
亜紀は答えなかった。答えないことが答えになるのはわかっていた。
「ほとんどアキがやってたのは、ほんと。でも、私がやってたこともあるの。で、アキはそれを知らないの」みのりは膝の上で顎を動かした。「それと、もう一個ほんとのこと言うと、アキが先にやっちゃうから、私、気づかないことにしてたとこある。楽だったから」
「……知ってる」
「知ってたの」
「なんとなく」
二人とも、それからしばらく何も言わなかった。
亜紀はジーンズのポケットに手を入れた。指先に、新しい鍵の角が当たった。取り出して、二人のあいだの床に置いた。クジラのついていないその鍵は、床の上でひどく小さく見えた。
「これ、返す」
みのりが顔を上げた。
「なんで」
「これを持ってたら私、調律の人が来る日に、仕事を休んでみのりの部屋に行くと思う。頼まれる前に。ついでにトイレットペーパーが残ってるか見て、なかったら買って帰ると思う」
「頼まないよ、そんなこと」
「頼まれなくても、たぶんやる。やりたくてやる。でもそれを、新しい部屋に引っ越してまで続けたくない」
言ってしまうと、思っていたほど声は震えなかった。みのりは床の鍵を見ていた。
「閉め出されたら、どうするの。私」
「管理会社に電話する。新しいとこの番号、スマホに入れてある?」
みのりは少し黙った。「……入れてない」
亜紀はこらえきれずに笑った。みのりも、怒ったような顔のまま、口の端だけで笑った。
「入れて。今」
「アキが入れてよ」
「やだ」
みのりは「けち」と言いながら自分のスマートフォンを取り出し、契約書の控えを撮った写真を拡大して、番号を一つずつ打ちこんだ。亜紀はそれを、手を出さずに見ていた。見ているだけというのは、思っていたより難しかった。
登録が終わると、亜紀はもうひとつ言った。
「それと、三時、いてほしい」
「でも、ピアノ屋さんが……」
「わかってる。でも私、この部屋の最後に、一人で鍵を返したくない。二人で借りたんだから、二人で返したい」
みのりはスマートフォンを持ったまま亜紀を見た。それから画面に目を落とし、電話をかけた。
「あ、もしもし、本日三時半にお願いしている坂下です。すみません、時間なんですけど、もう少し遅くしていただくことって……はい。……五時。大丈夫です。はい、すみません、ありがとうございます」
電話を切ると、みのりは息を吐いた。
「五時にしてもらった。日曜は六時までやってるんだって」
「ごめん」
「謝るとこじゃないでしょ」みのりはスマートフォンをポケットにしまった。「私、知ってたもん。アキからちゃんとした返事が来てないの。来てないのに、いいよって言われたことにしてた」
亜紀は何か言おうとして、やめた。かわりに引き出しから青い缶を取り出して、自分のトートバッグに入れた。
みのりは床の鍵を拾い、しばらく手の中で転がしてから、防災リュックの前ポケットに入れた。さっきまで予備の鍵が入っていた場所だった。
「ここに入れとく。今度は、自分で覚えとく」
「書いとけば」
「書くよ。マスキングテープ、まだある?」
亜紀はガムテープの横からマスキングテープを出して、渡した。それくらいは、いいと思った。
四 三本の鍵
三時ちょうどに、管理会社の河合さんがやってきた。紺色のジャケットを着た、亜紀たちより少し年上に見える女の人で、六年前にこの部屋の鍵を渡してくれたのと同じ人だった。
「ずいぶんきれいにしてくださって」
河合さんはそう言いながら、部屋を一つずつ回った。壁を見て、床を見て、窓の桟に指を滑らせ、手元の用紙に何か書きこんでいく。亜紀とみのりは、その後ろを少し離れてついて歩いた。授業参観の親みたいだ、と亜紀は思った。
浴室の扉を開けた河合さんは、少し眉を上げた。
「鏡、曇りがないですね」
「それ、私です」とみのりが言った。
亜紀は横を見た。みのりは、ほんの少しだけ胸を張っていた。
リビングの窓際で、河合さんはしゃがみこみ、床の四つのへこみを指でなぞった。
「家具の跡ですね。費用のことは確認して、後日書面でお知らせします」
みのりの肩が、少し縮んだのがわかった。亜紀は「大丈夫」とは言わなかった。大丈夫かどうかは、亜紀にもわからなかった。そのかわり、隣に立っていた。
確認が終わると、河合さんは台所のカウンターに用紙を置いた。
「では、鍵をお願いします。お預けしたのは三本でしたね」
亜紀は自分のキーケースから一本を外した。六年分、角の丸くなった鍵。カウンターに置くと、かちん、と小さな音がした。
みのりがクジラのキーホルダーから一本を外して、その隣に置いた。
最後に、亜紀はジッパー袋から予備の鍵を出した。マスキングテープの「予備 ここ」を見て、河合さんが少し笑った。
「ちゃんと保管されてたんですね」
「はい」と、みのりが答えた。
三本の鍵が、カウンターの上に並んだ。河合さんは一本ずつ手に取って用紙と照らし合わせ、うなずいた。
「三本、確かにお預かりしました。こちらに、お二人ともサインをいただけますか」
亜紀が先に書き、ペンをみのりに渡した。並んだ二つの名前を見て、六年前の契約書にもこうして並んで書いたのだと思い出した。あのときどちらが先に書いたのかは、覚えていなかった。
玄関で靴を履き、廊下に出た。脚立はみのりが肩に担ぎ、土鍋の紙袋は亜紀が持った。防災リュックはみのりの背中にあり、電動ドライバーのケースは亜紀のトートバッグの底にあった。
河合さんが、受け取ったばかりの鍵の一本で扉を閉めた。
鍵の回る音は、六年間毎日聞いていた音と同じだった。ただ、それを回しているのが自分たちの手ではないというだけで、まったく知らない音に聞こえた。
「お疲れさまでした。新しいお住まいでも、お元気で」
河合さんがエレベーターで降りていったあとも、亜紀とみのりは、閉まった扉の前に少しのあいだ立っていた。
「……行こっか」
「うん」
駅までの道は、六年間で何百回も歩いた道だった。商店街のクリーニング屋。日曜だけ閉まっている角の文房具屋。いつも吠える犬のいる家。今日は、犬は寝ていた。
「ピアノ、いつ来るの」と亜紀が聞いた。
「来週の土曜。中古のアップライト。ちゃんと鳴るやつ」
「ヘッドホンなしで弾けるんだ」
「そう。夜は無理だけど。アキは? ミシン」
「窓のとこに机置く。出しっぱなしにする」
「いいな」
「いいでしょ」
信号が赤になって、二人で立ち止まった。亜紀は土鍋の紙袋を持ち替えた。
「これ、重い」
「だから私がもらうって言ったのに」
「もらうんだから、自分で持ってよ」
「脚立持ってるもん」
信号が青になった。みのりは脚立を担ぎなおし、横断歩道を渡りながら言った。
「鍋の季節になったらさ。来るなら、連絡して。私が開けるから」
亜紀は少し考えた。いつでも来て、とは、みのりは言わなかった。それが、ちょうどよかった。
「うん。みのりも、うちに来るときは連絡して。私が開ける」
「ミシンどけてくれる?」
「どかさない。床で食べて」
「ひど」
改札を抜けると、二人の乗る電車は反対のホームだった。階段の下で、亜紀はみのりに土鍋の紙袋を渡した。みのりは脚立を壁に立てかけて、両手で受け取った。
「割らないでよ」
「割らないよ」
それで、別れの言葉は終わりだった。みのりは右の階段を、亜紀は左の階段を上った。
ホームに出ると、線路を挟んだ向こう側にみのりが立っていた。脚立と、土鍋と、オレンジ色のリュック。どう見ても大荷物で、まわりの人が少し避けて歩いていた。みのりはこちらに気づくと、土鍋を持っていないほうの手を上げた。亜紀も手を上げた。

声の届かない距離だった。届かないので、何も言わなかった。
先に入ってきたのは、みのりの側の電車だった。車両がホームを埋めて、みのりの姿が見えなくなった。扉が閉まり、電車が動き出す。窓のどこかにみのりがいるはずだったけれど、亜紀には見つけられなかった。
電車が去ったあとの向こう側のホームは、さっきより広く見えた。
三分後に、亜紀の電車が来た。
新しい部屋の鍵は、昨日受け取ったばかりだった。二本のうち一本はキーケースにつけたが、もう一本にはまだ決まった場所がなかった。
扉を開けると、昨日業者が置いていった段ボールと、窓際に据えた机が、夕方の光の中で待っていた。部屋は静かだった。浴室から鼻歌は聞こえてこないし、隣の部屋のヘッドホンから、シャカシャカという音が漏れてくることもない。静けさはずっと欲しかったもののはずなのに、亜紀はしばらく玄関に立ったまま、その静けさを聞いていた。
トートバッグから青い缶を出し、蓋を開けて、新しい部屋のもう一本の鍵を入れた。缶は、台所の、まだ何も入っていない引き出しにしまった。
自分で覚えておく。誰かに言う必要は、今はない。
スマートフォンが震えた。みのりからだった。写真が一枚。新しい部屋の入り口の扉に、作業着の人がメジャーを当てている。
〈入る!!〉
亜紀はトートバッグから電動ドライバーのケースを出して机の上に置き、写真を撮って送った。
〈棚、明日つける〉
すぐに既読がつき、親指を立てたスタンプが返ってきた。
〈それ何へのスタンプ〉
〈棚へのスタンプ〉
亜紀は小さく笑って、スマートフォンを置いた。それから段ボールのひとつを開けてミシンを取り出し、机の上に置いた。カバーを外し、コードをつなぎ、糸立てに、この前まで使っていた紺色の糸を差した。
窓の外が、ゆっくりと暗くなっていく。
その夜、亜紀はミシンをしまわずに眠った。


