一 チケットは二枚ある
母から電話がかかってきたのは、十月の終わりの水曜日、夜九時を少し過ぎたころだった。
早紀は会社から帰ったばかりだった。コンビニの袋をテーブルに置き、片手でストッキングを脱ぎかけていた。画面に「母」と出たので、片足で立ったまま出た。
「早紀、いま忙しい?」
「忙しくはない。片足で立ってるだけ」
「じゃあ座って聞いて」
母の声は、いつもより半音高かった。早紀はベッドの端に腰を下ろした。
「十一月二十一日の土曜日、空いてる?」
「たぶん空いてる。なに、法事?」
「法事じゃないわよ。ランプ横丁」
一瞬、どこかの商店街の名前だと思った。
「……バンドの?」
「そう。三十周年のツアーで、みなと文化ホールに来るの。十二年ぶりなんだって。チケットが二枚あるの」
ランプ横丁は、早紀が小学生のころから実家の台所で鳴っていたバンドだ。母は冷蔵庫の上にCDラジカセを置き、玉ねぎを刻みながら流していた。早紀にとってその音は、換気扇の音や味噌汁の匂いと同じ、家の背景のひとつだった。
「二枚って、どうやって」
「申し込んだら当たったの」
「お母さんが? スマホで?」
「スマホでよ。私だってスマホくらい使うわよ」
母は先月まで、写真を送ろうとするたびに自分の顔のアップを送ってきていた。早紀はその件には触れなかった。
「それでね。早紀、好きだったでしょう、『木曜のバス』」
「え?」
「高校の文化祭で歌ってたじゃない、クラスで。お母さん、見に行ったのよ。あんた一番前で、ちょっと音を外して」
思い出した。二年生のときのクラス合唱だ。曲はくじで決まった。早紀は前列で、サビの高いところで声が裏返った。
「あれは……」
くじで決まった曲だよ、と言いかけて、口を閉じた。電話の向こうで、母がうれしそうに息を吸う音がしたからだ。
「行こうよ。ね。お母さん、早紀と行きたいの」
早紀は考えた。母は六十三歳だ。夜に都会のホールへ一人で出かけたことは、たぶんない。会場は人が多いし、帰りの電車も混む。実家のある鳩ヶ丘からは電車で五十分かかる。先月、母が乗り換えの駅で反対方向のホームに立っていたと、父から聞いたばかりだった。
きっと母は、娘が好きだったバンドのチケットを娘のために取ったのだ。一人では心細いから、付き添いも兼ねて。
「いいよ。行こう」
「ほんと?」
「ほんと。帰りはうちに泊まりなよ。遅くなるし」
「そうね、そうさせてもらう。お父さんにはカレーを作っておく」
翌週、短いメッセージがいくつか届いた。
〈当日は二時に汐見駅に着きます〉
〈開演、六時半だよ〉
〈グッズは三時からなの〉
〈グッズ?〉
〈タオルとパンフ〉
早紀は少し考えてから〈四時半に会場の前でいい?〉と返した。母からは、親指を立てた絵文字が三つ届いた。
その夜、もう一通来た。
〈早紀、手拍子は大丈夫? お母さんはDVDで練習してる〉
手拍子に練習が要るとは思っていなかった。早紀は〈がんばる〉とだけ返した。
それから三週間、早紀は通勤のたびにイヤホンでランプ横丁を聴いた。
知っている曲は、思っていたより多かった。題名は知らなくても、前奏が鳴った瞬間に台所の床の冷たさまで思い出す曲がいくつもあった。母はいつも、同じところで鍋の蓋をカタンと鳴らしていた。
三枚目のアルバムの七曲目で、早紀の指が止まった。
「製氷機のワルツ」。前奏はコントラバス一本だけだった。弓を使わず指で弾いていて、木の胴が鳴る低い音がする。三拍子が、冷凍庫の奥で氷がころんと落ちるように、ほんの少し遅れて転がっていく。
高校の三年間、早紀は管弦楽部でコントラバスを弾いていた。卒業してからは一度も触っていない。楽器は学校の備品だったし、大学では別のことで忙しかった。
前奏を三回巻き戻したところで、電車が会社の最寄り駅に着いた。慌てて降りて改札を出たところで、自分が少し笑っていたことに気づいた。
付き添いのための予習なのに。そう思って、その日は次の曲に進んだ。
二 一度も外に着ていないTシャツ
当日の昼過ぎ、早紀は洗濯物を畳んでいた。待ち合わせは四時半だから、まだ余裕がある。
一時五十二分、スマホが鳴った。
〈いま汐見駅〉
早紀は靴下を片方持ったまま固まった。
〈早くない?〉
〈グッズは三時からって言ったでしょう〉
〈言ってたけど、本当に三時に並ぶと思わなかった〉
〈本当に並ぶの〉
早紀は靴下を両方はき、押し入れから母用の布団を半分出したまま家を出た。
汐見駅の東口で、母は改札前の柱のそばに立っていた。ベージュの長いコートに、黒い布のトートバッグ。足元は歩きやすそうなスニーカーで、早紀はそれを見て少しほっとした。
「お父さんの双眼鏡、借りてきた」
母がトートの口を開けて見せた。父が日曜ごとに河川敷で鳥を見るときの、緑色の小さな双眼鏡だった。
「それ、鳥を見るやつじゃん」
「鳥も宇佐美さんも、遠くにいるのは同じでしょう」
みなと文化ホールは、駅から海のほうへ十五分ほど歩いたところにある。母はその道を迷わずに歩いた。早紀が「こっち」と言う前に、角を曲がっていた。
「なんで道を知ってるの」
「書道教室の帰りのバスが、このホールの前を通るの。毎週、窓からポスターを見てたのよ」
二時半に着くと、ホールの横の広場にはもう列ができていた。母は列の最後尾に迷わずつき、コートのポケットから小さなメモを出した。〈タオル(紫)、パンフ〉と鉛筆で書いてある。
「ずっと立ってて平気?」
「書道で二時間正座してるのよ。立ってるほうが楽」
海からの風が広場を抜けた。列が少し進んだとき、母がコートのボタンをひとつずつ外した。
中から、紫色のTシャツが出てきた。白い長袖の上に重ねて着ている。胸には黄色い字で〈LAMP YOKOCHO TOUR 1998〉、その下に小さく〈湯気の街〉とあった。色はまったく褪せていない。それどころか、畳みじわが四角く残っていた。
「……それ、いつの?」
「九八年のツアーの。通販で買ったの」
「新品みたいだけど」
「一度も外に着ていないもの」
母は胸の字を指でなでた。
「今日のためにとっておいたわけじゃないのよ。着る場所がなかっただけ。結果的に、今日になったの」
早紀はトートの中のスカーフを思い出した。夜は冷えるから、それに少しはよそ行きらしく見えるようにと思って、ベージュの柔らかいのを一枚持ってきていたのだ。
「寒くない? スカーフ、持ってきたけど」
「巻いたら字が隠れるでしょう」
「隠れるね」
「じゃあ帰りに巻く」
それで決まった。
列の先頭が近づくと、テントの横にもうひとつ小さな机があった。〈会員限定記念品 引き換え〉と札が下がっている。
「先にあっちに行ってくる」
母は財布から一枚のカードを出した。薄い水色の紙で、角が丸くすり減っている。早紀は母の肩越しにのぞいた。
〈ランプ横丁ファンクラブ 会員番号01288 入会1997年〉
カードの裏には、年ごとの更新シールが何枚も重ねて貼られていて、そこだけ厚くなっていた。
「お母さん」
「なに」
「会員なの?」
「そうよ」
「九七年から?」
「九七年の秋から。あんた、五歳だったわね」
母は記念品の缶バッジを受け取り、係の若い人に「ありがとうございます」と頭を下げてから戻ってきた。早紀はまだ同じ場所に立っていた。
「九七年って、お母さん、いくつ」
「三十四」
いまの早紀と同じ年だった。
「なんで言わなかったの」
「聞かれなかったもの」
母は本当に不思議そうな顔をした。それから、今度は母のほうが首をかしげた。
「早紀こそ、好きだったんでしょう。『木曜のバス』」
「あれ、くじで決まった曲」
「くじ」
「クラスで、くじ引いて」
母はしばらく黙った。列が一歩進んで、二人も一歩進んだ。
「じゃあ、なんで来てくれたの」
「お母さんが一人だと心配だったから」
「なにそれ」
母は口をとがらせた。
「私は、あんたが行きたいだろうと思って二枚にしたのよ。一枚だったら一人で来てた」
二人は顔を見合わせた。先に笑ったのは母で、早紀もつられて笑った。前に並んでいた男の人が一度振り返り、また前を向いた。
「お互いのために来てたんだ」
「ばかみたいね」
「ばかみたい」
母は笑いながらも、少しだけしょんぼりした声で言った。
「じゃあ今日、何も知らないで聴くの」
「三週間、予習した」
「何曲?」
「四十曲くらい」
「四十曲」
母は満足そうにうなずいてから、胸を張った。
「お母さんは百六十曲」
「全部じゃん」
「全部よ」
「一個、すごく好きなのがあった。『製氷機のワルツ』」
母の目が、少し大きくなった。
「三枚目の七曲目ね。あれは、ライブではやらないと思う。地味だから」
「地味かな」
「お母さんは好きよ。でも、地味」
物販のテントで、母は紫のタオルとパンフレットを買った。早紀は何も買わなかった。母はタオルを首にかけかけて、やめて、きちんと畳んでトートにしまった。
開場まで時間があったので、駅前の喫茶店に入った。母は卵サンドを頼んだが、半分食べたところで手を止めた。
「おなかいっぱい?」
「胸がいっぱい」
母は残りの半分を見つめてから、皿に戻した。
「終わったら、またおなかがすくかな」
三 二階C列
五時半に開場した。
ロビーに入ると、二階へ上がるエレベーターの前に小さな列ができていた。早紀がそちらに向かいかけると、母が袖を引いた。
「あれは要る人が乗るの。私は要らない人」
母は階段のほうへ歩いていった。赤い絨毯の階段を、手すりを持ってゆっくり上る。早紀はその一段後ろを上った。踊り場で母は一度だけ立ち止まり、壁に貼られたツアーのポスターを見上げた。
「バスの窓から見てたのと同じ」
二階の扉を抜けると、客席が急な角度で下へ広がっていた。ずっと下にステージがあって、まだ幕は上がっていない。
二人の席は、二階C列の二十一番と二十二番だった。前から三列目で、手すりの向こうに一階の客席が丸ごと見下ろせる。
「遠いね」
早紀は言ってから、急いで付け足した。
「でも、二枚取れただけすごいよ。一階は外れちゃったんだね」
「外れてないわよ」
母は座席の背にコートを掛け、Tシャツの字が見えるように裾を整えた。
「二階にしたの。申し込むとき、選べたから」
「わざと?」
「一階はたぶん、みんなずっと立つでしょう。私は座って、全部見たいの。宇佐美さんだけじゃなくて、ドラムの人の背中も、照明も、みんなの手も、全部」
母はステージを見下ろしたまま続けた。
「台所では三十年、立って聴いてたから。今日は座って聴くの」
早紀は返す言葉が見つからず、膝の上で自分のチケットを折りそうになって、やめた。
六時半ちょうどに客席の明かりが落ちた。
暗い中で、母の手が早紀の袖をつかんだ。強くはないが、離さなかった。
一曲目が始まっても、母は動かなかった。背筋を伸ばし、少し口を開けて、ずっと下の小さな光の中を見ていた。宇佐美ヨーコの声が二階まで上がってくると、母の指先が袖の上で一度だけきゅっと動いた。
三曲目の前奏で、一階から大きな歓声が上がった。「木曜のバス」だ。早紀にも分かった。サビの手前で客席から手拍子が起こった。
母も叩いた。
大きな音だった。よく練習してきたのが分かる、迷いのない手拍子だった。ただ、会場全体の手拍子と、半拍ずつずれていた。みんなの手が鳴る間に、母の手が鳴る。
斜め前の女の人が、ほんの少しだけ顔を横に向けた。
早紀は母の耳元に口を寄せた。
「お母さん、ちょっと、ずれてる」
母の手が空中で止まった。母は周りを見た。前の列の手、隣の列の手、一階の何百もの手が、自分とは違う拍で上下していた。
母はゆっくりと両手を膝に下ろした。そのまま、曲が終わるまで動かなかった。暗くても、耳が赤くなっているのが分かった。
曲が終わって拍手が起こったとき、母は早紀にだけ聞こえる声で言った。
「DVDでは合ってたのに」
「どこで練習したの」
「台所。換気扇の前」
早紀は笑いそうになって、笑えなかった。言わなければよかったのかもしれない。そう思っても、もう遅い。
次の曲でも、その次の曲でも、母は膝に手を置いたままだった。顔はステージを向いているが、さっきまでの開いた口が閉じていた。早紀は何か言おうとして、言葉を探しているうちに曲が終わった。
宇佐美ヨーコが短く話した。
「次は、あんまりやらない曲です」
客席が静かになった。照明が一本だけ残り、ステージの右端を照らした。
岸辺透が、大きな木のベースを抱えて立っていた。
最初の一音が鳴ったとき、早紀は息を止めた。
「製氷機のワルツ」の前奏だった。イヤホンで聴いていたのと同じ音で、でも全然違った。低い音が、床と椅子の脚を伝って上がってくる。耳で聴くより先に、背中で聴いていた。三拍目のあとのほんの少しの遅れが、ホールの天井まで転がっていって、そこからまた降りてくる。
二階まで、こんなに届くのか。
早紀は気づくと、前の席の背もたれのほうへ身を乗り出していた。指の腹が膝の上で勝手に動いた。高校のとき、弦を押さえていた形だった。
隣で何かが動いた。母が黙って、緑色の双眼鏡を早紀の手に押しつけてきた。
レンズをのぞくと、岸辺さんの左手が大きく見えた。弦の上を、急がずに移っていく。右手の二本の指が、弦を弾いたあと一瞬だけ止まる。あの止まり方であの遅れが出るのだと、早紀は分かった。

曲が終わっても、早紀はしばらく双眼鏡を下ろせなかった。
拍手の中で、母が言った。
「口、開いてた」
「開いてた?」
「開いてた。お母さんと同じ顔」
母の声は、もう沈んでいなかった。双眼鏡を返すと、母は受け取ってレンズを自分の袖で拭いた。
「やらないと思ってたのにね」
「地味だから?」
「地味だから」
母はうれしそうにそう言った。
「二階、低い音がよく来るね」
早紀が言うと、母は「そうなの?」と聞き返し、耳に手を当てて首をかしげた。
本編の終わり近く、ドラムが四つ打ちを始めると、母の肩がぴくりと動いた。
「台所の惑星」。冷蔵庫の上で、一番たくさん鳴っていた曲だ。早紀の体のどこかがそれを覚えていた。
客席の手拍子がまた始まった。母は両手を胸の前まで上げて、そこで止めた。叩きたいのに、叩けずにいる手だった。
早紀は母の膝に、自分の指を置いた。
「ドラムじゃなくて、下の音を聴いて。岸辺さんの」
母がこちらを見た。
「ぼん、ぼん、って鳴ってるでしょう。あれの、次」
早紀は母の膝を、指先で小さく叩いた。ベースが鳴る。その次の空いたところで、とん。また鳴る。とん。
母は目を閉じた。早紀の指の動きと、二階まで上がってくる低い音を、しばらく黙って聴いていた。
それから、母は小さく手を叩いた。音はほとんど出ていない。一度、二度。三度目で、隣の列の手と重なった。
母は目を開けた。
二番のサビに入るころには、母の手拍子ははっきりした音になっていた。会場全体と同じ拍で鳴っていて、その中に紛れていた。母は手を叩きながら、ずっと下のステージを見ていた。照明が客席に向いて、一階の何百もの手が白く光った。
母は叩きながら、早紀のほうへ顔を寄せた。
「みんなの手、全部見える」
四 座ったままのアンコール
本編の最後の曲が終わり、メンバーが手を振って袖へ消えた。八時五十分だった。
客席の明かりはまだ点かない。アンコールの手拍子が、一階からゆっくり起こり始めた。
早紀はバッグの中でスマホの画面をつけた。
本当は、計画があった。アンコールの一曲目が終わったら、母を連れて先に出る。九時十二分の電車に乗れば、終演後の人の波に巻き込まれずに済む。母を階段で押されるような目に遭わせたくなかった。三週間前、そう決めていた。
アンコールの手拍子の中で、母は誰よりも楽しそうに手を叩いていた。もうずれていない。
早紀は画面を消して、スマホをバッグの奥にしまった。
メンバーが戻ってきた。一階の客席が一斉に立ち上がり、二階でも前の列から順に人が立っていった。C列もみんな立った。
母は座ったままだった。
「立つ?」
早紀が聞くと、母は首を振った。
「私は座ってる。決めてたの」
母は早紀の背中を軽く押した。
「あんたは立ちなさい。立ったら岸辺さん、もっと見えるでしょう」
早紀は少し迷ってから立ち上がった。
立つと、ステージの奥まで見えた。岸辺さんがベースのネックを肩に預けて、ドラムの人と何か目で合図している。下の階では、何百もの頭が同じ波で揺れていた。低い音が、さっきよりもっとまっすぐ胸に来た。
ふと見下ろすと、母は座席に深く腰を下ろし、両手を膝に置いて目を閉じていた。眠っているのではない。唇がかすかに動いていた。一緒に歌っているのだと分かった。
宇佐美ヨーコがマイクを持った。
「今日、ランプ横丁のライブが初めての人、どのくらいいますか」
あちこちで手が上がった。
早紀は手を上げた。それから隣を見た。
母が、座ったまま、胸の高さまでおずおずと手を上げていた。紫のTシャツの〈1998〉の字の横で、手のひらがステージのほうへ開いていた。
入会から二十九年たった会員番号01288が、初めてのライブで手を上げていた。早紀は、それを誰かに言いたくてたまらなくなった。でも周りは知らない人ばかりで、言う相手は隣の母しかいなかった。
「初めてだって」
早紀が言うと、母は「初めてよ」と、少しだけ得意そうに言った。
最後の曲は「おやすみ、街灯」だった。ゆっくりした曲で、二階の人たちは途中から一人、また一人と座った。早紀も座った。母と並んで最後まで聴いた。
終わったのは九時十分過ぎだった。駅までは歩いて十五分ある。九時十二分の電車には、もう間に合わなかった。
五 帰り道の卵サンド
ロビーは人でいっぱいだった。階段を下りる列はゆっくり進み、母は手すりを持ったまま、一段ずつ下りた。急ぐ人はいなかった。みんな今夜のことを話していて、誰も急いでいなかった。
外に出ると、物販のテントがまだ開いていた。
「お母さん、ちょっと待ってて」
「なに買うの」
「『白い湯気』。CD」
「三枚目? うちにあるわよ」
「自分のが欲しい」
母は少し驚いた顔をしてから、「並んでらっしゃい」と言って、広場の脇のコンビニを指さした。
「おなかすいたから、卵サンド買ってくる。戻ったら、あそこのベンチね」
CDの列には二十分ほど並んだ。早紀は手の中のジャケットを見た。湯気の立つやかんの写真。七曲目に「製氷機のワルツ」とある。曲名の横を、親指で一度なぞった。
ベンチに戻ると、母は一人ではなかった。
隣に、赤い毛糸の帽子をかぶった七十歳くらいの男の人が座っていた。その人のジャンパーの前が開いていて、中に母と同じ図柄のTシャツが見えた。ただし、色は紫ではなかった。洗いすぎて、ほとんど灰色になっている。字の黄色は、ところどころ欠けていた。
母は膝の上で、買ったばかりの卵サンドの包装を開いていた。ひと切れはもう食べたらしく、半分が残っていた。
「坂口さん。九八年の湯気の街、同じのなんですって」
母が紹介すると、坂口さんは帽子に手をやって会釈した。
「僕のは、これで四十何回目のライブです。で、こちらは何回目かと聞いたら」
「一回目です」
母が卵サンドを持ったまま言った。
「そのTシャツで、一回目」
坂口さんは、母の紫と自分の灰色を何度も見比べた。
「二十八年、寝かせました」
母がそう言うと、坂口さんは声を上げて笑った。母も笑って、卵サンドを一口かじった。

「同じ年に買ったのにねえ」
「着たか着ないかの差ですね」
「ほんと」
二人はしばらく、TシャツとTシャツを並べて笑っていた。早紀はCDの袋を持って、少し離れて立っていた。台所で一人で聴いていた母に、こういう相手がいたことは一度もなかったのだと思った。
坂口さんが帰ったあと、母は卵サンドの最後のひとかけを口に入れた。
「やっとおなかがすいた」
広場の時計は十時に近かった。駅へ向かう道は、ホールから出た人たちでゆるやかに流れていた。
「タクシー拾おうか」
早紀が言うと、母は首を振った。
「歩きたい。みんなの話、聞きながら」
二人は人の流れの後ろについて歩いた。前の若い二人組が「製氷機、やると思わなかった」と話していて、母が早紀の脇腹を肘でつついた。早紀も肘でつつき返した。
海からの風が冷たくなった。母は立ち止まり、トートの中を探した。
「スカーフ、貸して」
早紀が渡すと、母は首にふわりと巻いた。紫のTシャツの字が、ベージュの下に隠れた。
「帰りに巻くって言ったでしょう」
「言った」
信号を待ちながら、早紀は言った。
「ほんとはね、アンコールの途中で出ようと思ってたの。九時十二分の電車に乗るつもりで」
「知ってた」
「え」
「あんた、暗いところでスマホの時計を三回見たもの。光るから分かるのよ」
「……ごめん」
「でも、しまったでしょう」
母は前を向いたまま言った。
「しまったところも見てた」
信号が青になった。
駅の改札の前で、母のスマホが鳴った。画面に「お父さん」と出ていた。
「もしもし。……うん。終わった。……どうだったって」
母は少し考えた。
「帰ってから話す。明日の夜までかかるわよ。……え? ああ、そう。よかった」
電話を切ると、母は言った。
「カレー、おいしかったって」
「それだけ?」
「それだけ。お父さんらしいでしょう」
電車は空いていた。二人は並んで座った。早紀はCDの袋を膝に乗せ、母は首のスカーフを少しゆるめた。窓の外で、ホールの屋根の明かりが小さくなっていった。
「お母さん」
「なに」
「次もあったら、また二枚取ってよ」
母は窓のほうを見たまま、少し間を置いた。
「いいわよ。でも、席は私が選ぶ」
「二階?」
「二階。あんた、低い音がよく来るって言ってたじゃない」
早紀は笑って、うなずいた。
電車が揺れた。母は膝の上で、音を立てずに手を叩き始めた。早紀の頭の中ではまだ、「台所の惑星」のベースが鳴っていた。ぼん、と鳴る。その次の空いたところで、母の手のひらがそっと合わさる。
ぴったり、合っていた。


