← 本棚へ戻る
ミステリー

雨なのに、乾いた傘

雨の夜、貸し出した傘が、一度も開かれずに戻ってきた。

読了目安
22分
長さ
短編
#謎解き#ほっこり#雨の夜
雨なのに、乾いた傘のイメージ

あらすじ

港町の宿・汐見屋で夜番をする27歳の透。楽しみは、初めて送ったメールが深夜のラジオで読まれること。その夜、灯台へ出かけた客に渡した七番の傘が、いつの間にか傘立てへ戻っていた。外ではずっと雨樋が鳴っているのに、傘は折り目の奥まで乾いている。空欄の返却帳、靴跡、向きの変わったスリッパ。乾いた傘が残した、小さな夜の謎。

一 八本の傘

汐見屋の玄関には、傘立てがひとつある。檜の板に八つの穴をあけた、腰の高さほどの箱だ。穴の縁には一から八までの数字が焼きつけてあり、そこへ同じ紺色の傘が八本、竹の持ち手を上にして刺さっている。持ち手の付け根には真鍮の小さな札が紐で結ばれていて、紐の色が一本ずつ違う。一番が赤、二番が橙、三番が緑。七番は黄色だ。

三好透は夜番に入ると、まずこの八本を数える。夜番について三年目の、二十七歳の習慣だった。数え終えたら、一本ずつ留め紐を確かめる。透の巻き方は決まっていて、生地を二回巻き、真鍮の札が表に来る側でスナップを留める。そうしておけば暗い玄関でも、お客さんに番号を見せながら渡せる。

「透くん、おでん、鍋ごと置いとくからね」

配膳室から、女将の汐見房江が顔を出した。六十八歳で背筋の伸びた人だ。エプロンの紐を結んだまま、帳場まで歩いてくる。

「大根は三つ。卵は二つ。ちくわぶも入れといた。一時でしょう、あれ」

「一時五分からです。読まれるかどうかは、わかんないですけど」

「読まれなくても、おでんは食べなさい」

透が楽しみにしているのは、土曜の深夜に始まるラジオ番組『午前一時の天気図』だった。気象予報士でもあるパーソナリティのナギさんが、全国から届く「うちの町の空」の便りを読む。透は先週、生まれて初めてそこへメールを送った。ラジオネームは「傘立て係」。書いたのは、汐見屋に伝わる小さな言い伝えのことだ。

――貸し傘が八本ぜんぶ揃った夜は、明くる朝が晴れる。

言い出したのは女将で、根拠はない。それでも透は、夜番をしながら八本が揃うのを見るのが好きだった。その話をナギさんの声で聞いてみたい。今夜の勤務の楽しみは、ほとんどそれだけと言ってよかった。帳場の隅には透の小さなラジオが置いてある。音量は、お客さんの邪魔にならない二目盛りにしてあった。

八時五十分、階段がきしんで、五号室のお客さんが降りてきた。

久住晴臣。宿泊カードには二十九歳とある。チェックインは昼番の時間だったので、透が顔を合わせるのは初めてだった。くせのある髪を後ろで短く結び、薄手のマウンテンパーカーを着て、小さな鞄を斜めにかけている。

「すみません、傘をお借りできますか。予報だと九時半から降るって」

「どうぞ。お出かけですか」

「御崎灯台です。今夜、灯室まで上がれる夜間公開があって」

そこで、久住さんの声が少し弾んだ。

「十時半までなんです。年に二回しかやってなくて。点灯しているレンズを内側から見られるなんて、ほんとに滅多にないんですよ」

「港の白い灯台ですよね。坂を下りて十五分くらいの」

「そうです。……あ、三脚は部屋に置いていきます。中は三脚禁止なので」

聞かれてもいないのに、久住さんは鞄を軽く叩いてみせた。カメラが入っているらしい。

「雨が途中で止んでくれたら、帰りに堤防から光の筋を撮りたいんですけどね。雨上がりの湿った空気だと、灯台の光がちゃんと線になって見えるんです」

「止むといいですね」

透は七番を穴から抜き、黄色い紐の札が見えるように持ち手を向けて渡した。帳場の内側にある貸出帳に、日付と部屋番号、傘の番号、貸出時刻を書く。〈五号 七番 20:50〉。返却の欄は空けておく。汐見屋では、返却時刻はスタッフが傘を受け取ってから書く決まりになっている。

久住さんは上がり框で宿のスリッパを脱ぎ、下駄箱の五番の棚から自分のスニーカーを出した。スリッパには部屋番号の刺繍がある。久住さんは片手に七番を下げ、引き戸を開けて、まだ乾いている坂へ出ていった。

九時二十分には、二号室の菅野さん姉妹が降りてきた。姉のことねさんと妹のみさきさんは四十代の二人連れで、町の銭湯を巡る旅の途中だという。

「松の湯って、十一時までよね?」

「はい。最終の受付は十時半です」

「よかった。瓶のフルーツ牛乳があるって聞いてきたの」

みさきさんが手提げから小さな手帳を出して見せた。銭湯のスタンプが十いくつも押してある。透は三番の、緑の紐の傘を渡し、〈二号 三番 21:20〉と書いた。傘立てに残ったのは六本だ。

九時半、女将がエプロンを外して帳場へ来た。女将の住まいは宿の裏の母屋で、夜はそちらへ帰る。

「今夜のお客さんは三組ね。一号の古川さんご夫婦はもうお休み。五号さんと二号さんがお出かけ」

「はい。傘は二本出てます」

「それと、表の樋」

女将は顎で玄関の外を示した。汐見屋の玄関脇には、上の坂から雨を集めてくる古い雨樋がある。継ぎ目がずれていて、雨が降ると下の庇のトタンに水を落とし、たたた、たたたた、と派手に鳴る。

「あれね、雨が止んでも三十分は鳴りっぱなしなの。上の坂の水がぜんぶ下りてくるまで。止んだかどうか知りたいときは、音じゃなくて外を見なさい」

「直すって、去年も言ってましたよね」

「十年言ってる」

女将は笑って、それからもうひとつ付け足した。

「夜中にお客さんの携帯へ電話していいのは、命にかかわるときか、忘れ物のときだけ。それ以外は待つ。わかってるわね」

「わかってます」

女将が裏口から出ていったのが九時三十二分。それから三分ほどして、玄関の磨りガラスに最初の雨粒が当たった。間を置かずに樋が鳴りはじめる。たたた、たたたた。透はラジオの音量を一目盛り上げた。

二 鳴りやまない樋

十時ちょうど、ラジオが時報を打った。短いニュースのあとに天気予報が始まる。透がそちらへ耳を寄せたのと、玄関の引き戸が開いたのは、ほとんど同時だった。

「ただいまぁ。降られた降られた」

菅野さん姉妹だった。三番の傘に二人で入ってきたらしく、ことねさんの右肩とみさきさんの左肩が、きれいに半分ずつ濡れている。傘の先から落ちた雨水が、土間の石に小さな水たまりを作った。

「お帰りなさい。タオル、お使いください」

「ありがとう。フルーツ牛乳、あったわよ。冷えてておいしかった」

ことねさんがタオルで肩を押さえながら言い、みさきさんは手帳を開いて新しいスタンプを見せた。松の湯の煙突の絵だった。

「この煙突、本物より太いのよ」

「そうなんです。昔の煙突の形なんですって」

そんなやりとりをしているうちに、ラジオの天気予報は終わっていた。

〈――このあと二十二時過ぎから一時間弱、雨の止み間がある見込みです。ただ、そのあと再び降りだして、雨は明け方まで続くでしょう〉

そのうち透の耳に残ったのは、最後の「明け方まで続くでしょう」だけだった。

三番の傘を受け取り、貸出帳の返却欄に〈22:05〉と書く。濡れた傘は傘立てに戻さず、土間の隅で開いて干す。これも汐見屋の決まりだ。帳場の前には、女将の字で貼り紙がしてある。〈傘は濡れたままお戻しください。乾かすのは宿の仕事です〉

姉妹が二階へ上がってから、透は土間をモップで拭いた。十時十分。三番から落ちた水を拭い、玄関マットの位置を直し、上がり框のスリッパを並べ直す。五号室のスリッパも、つま先を内側に向けてきちんと揃えた。透は自分の並べ方が好きだった。揃っていれば、誰がまだ外にいるのか一目でわかる。

傘立てには六本。空いているのは三番と七番の穴だ。三番は土間で骨を広げているから、あとは七番さえ戻れば、八本ぜんぶの居場所がはっきりする。

――ナギさんに読まれる夜に、ちゃんと八本。

そう考えると、少し得意な気分になった。樋は相変わらず、たたた、たたたた、と鳴っている。

十時半、透は配膳室へ移った。帳場の奥にある細長い部屋で、窓はない。ガス台の上には女将が置いていったおでんの鍋がある。透はラジオを持ち込んで、鍋を弱火にかけた。大根が三つ、卵が二つ、ちくわぶ。鍋の蓋には女将の字のメモが貼ってあった。

〈卵はふたつ。ひとつは夜ふかしのお客さん用〉

女将はいつもこうだ。夜中に眠れないお客さんが帳場に降りてくると、たいてい何かを食べさせてしまう。

ラジオでは、深夜番組の前の、古い歌謡曲の時間が流れていた。透は好きな曲に合わせて音量を上げ、鍋の前で、もし自分のメールが読まれたらナギさんは何と言うだろうと考えた。「傘立て係さん、いいお仕事ですね」だろうか。「今夜は揃いそうですか」だろうか。考えているうちに、鍋の縁がぐつぐつ言いはじめた。

十時四十五分ごろ、玄関の鈴が、ちりん、と鳴った。

汐見屋の引き戸には、開け閉めで鳴る鈴がついている。ただ、風の強い晩には戸が揺れて、ひとりでに鳴ることもあった。透は火を弱めようとした手を止め、配膳室ののれんから首だけを出した。帳場の向こうの玄関には、誰もいない。磨りガラスの外で、樋が鳴っている。

「風かな」

そう言って首を引っ込めたとたん、鍋が吹きこぼれた。

「わ、わ、わっ」

透は急いで火を止め、ふきんでガス台を拭いた。汁が跳ねたラジオの脚も拭いた。大根がひとつ鍋の縁から飛び出しかけたのを、菜箸で救い出す。それから五分ほど、透は配膳室で後始末に追われた。歌謡曲はちょうど盛り上がりの部分で、ラジオの音量は上げたままだった。それが何を意味していたのか、透はあとで知ることになる。

三 乾いた七番

十一時は玄関を施錠する時刻だ。外出中のお客さんがいるときも鍵は閉め、帰ってきたらインターホンで開ける。透は帳場へ戻り、いつものように傘立てを見た。

七番の穴に、傘が刺さっていた。

黄色い紐の、真鍮の札。間違いなく七番だった。空いている穴は、土間で干している三番のところだけ。八本ぜんぶの居場所が、いつの間にかはっきりしていた。

「……え」

貸出帳を見る。〈五号 七番 20:50〉の返却欄は空いたままだった。下駄箱の五番の棚を見ると、スニーカーはない。久住さんは、まだ外にいる。

透は七番を穴から抜いた。乾いている。持ち手の竹も、紺の生地も、触ればさらりとしていた。

最初に浮かんだのは、嫌な想像だった。久住さんは本当は七番を持って出なかったのではないか。それなら、いまごろ傘なしで雨の中にいることになる。

けれど、それは違うと透にはわかっていた。七番は自分の手で、黄色い札を見せて渡した。久住さんがそれを提げて引き戸を出ていくのも見ている。それに十時十分にモップをかけたとき、七番の穴は確かに空いていた。だから七番は、十時十分から十一時までのあいだに戻ってきたことになる。

透は留め紐を見た。生地が二回巻いてあって、スナップは札が表に来る側で留まっている。透の巻き方だった。

スナップを外して、生地の折り目を指で開いてみる。いちばん奥まで乾いていた。お客さんが使ったあとにタオルで拭いてくれることはときどきあるが、そういう傘は、たいてい折り目の奥がしっとりしている。巻き方もお客さんそれぞれの癖になる。石突きの先にも、水気はなかった。傘立ての七番の穴の下の板には、水の跡ひとつない。三番が戻ったときには、あれほどの水たまりができたのに。

「開いてない、のかもしれない」

七番は、二十時五十分に透が巻いたときのまま、一度も開かれずに戻ってきたのではないか。

では、誰が戻したのか。灯台の係の人が忘れ物を届けてくれたのかもしれない。通りがかった誰かかもしれない。透は帳場の明かりを強くして、土間にしゃがんだ。

十時十分に拭いた石の上に、うっすらと靴の跡が残っていた。溝の細かい、運動靴らしい跡が、引き戸から上がり框まで続いている。その上に重なるように、同じ跡が框から引き戸へ戻っていた。入って、出た。一往復だけだ。

跡は湿っていたが、水たまりにはなっていない。濡れた道を歩いてきた靴の跡だ。それだけで、歩いている間に雨が降っていたかどうかまではわからない。けれど、傘の先から落ちたような水の跡は見当たらなかった。

それから、上がり框のスリッパに目が行った。十時十分に、つま先を内側にして揃えた列の中で、五号室の刺繍のある一足だけが向きを変えていた。片方は少し斜めになっている。誰かがここで靴を脱いでこのスリッパを履き、また脱いで靴を履いたのだ。外の人が、わざわざ五号室のスリッパを履くとは思えない。

「久住さん、一度帰ってきたんだ」

あの鈴は、風ではなかったのだ。

框の端に、小さな黒いものが落ちていた。拾い上げてみると、親指の先ほどのゴムのキャップだった。底がすり減っていて、内側は筒になっている。傘の石突きにかぶせるには細すぎた。何かの脚の先についているような形だ。

宿の土間にしゃがんだ紺の制服の夜番が、小さな黒いゴムの部品を手に、湿った靴跡と向きの違うスリッパを見ている。

――三脚は部屋に置いていきます。

――止んでくれたら、帰りに堤防から。

透は顔を上げた。樋はたたた、たたたた、と鳴っている。九時三十五分から、ずっと鳴っている。だから雨もずっと降っていたのだと、透は思い込んでいた。

でも、七番が一度も開かれずに灯台から帰ってこられる理由は、ひとつしか思いつかなかった。灯台からここまでは港の坂道で、アーケードも屋根つきの通路もない。十五分も歩けば、閉じた傘を握っていてもずぶ濡れになる。それなのに足跡は湿っているだけで、傘は乾いていた。

そのとき階段がきしんで、ことねさんが降りてきた。浴衣に宿の羽織をはおり、小銭入れを手にしている。

「ごめんなさいね、お茶を買いに。自販機、そこよね」

「はい、ロビーの奥です」

ことねさんはペットボトルのお茶を買い、帳場の前で立ち止まった。

「さっきね、十時半ごろかしら。部屋の窓を開けたら雨がやんでて、雲の切れ目から月が少し見えたのよ。港のほう、きれいだった。また降ってきちゃったけど」

「え、でも」

透は思わず言いかけた。でも、樋はずっと鳴っていましたよ。

言いかけて、口を閉じた。

――音じゃなくて外を見なさい。

九時三十五分から今まで、透は一度も外を見ていなかった。磨りガラス越しに樋の音を聞き、窓のない配膳室でラジオを聴いていただけだ。

「……止んでたんですね」

「止んでたわよ。三十分くらい? 静かだったもの」

ことねさんは不思議そうな顔をしてから、透の手もとを見た。

「その傘、どうかしたの?」

「乾いてるんです。雨の夜に、外へ持っていった傘なのに」

透は、話していいことだけを話した。お客さんの名前も行き先も言わずに、外に出た傘が乾いて戻ってきたこと、留め紐まで渡したときのままだったことだけを。ことねさんは、ふうん、とお茶のキャップをひねった。

「止んでるあいだに帰ってきたなら、差さないわよね」

「はい。で、たぶん、そのあとまた出かけてます」

「雨なのに?」

「雨が止んだらやりたいことがあるって、言ってたので」

ことねさんは笑った。

「いいわね。わたしたちなんて、銭湯の煙突しか追いかけてないのに」

ことねさんが二階へ戻ると、透は筋道をもう一度並べてみた。

十時十五分ごろに雨が止む。久住さんは灯台の公開が終わる十時半に外へ出て、止み間の坂を、七番を閉じたまま歩いて帰ってきた。十時四十五分ごろに鈴を鳴らして入ってくると、七番を七の穴へ戻し、五号室のスリッパで二階へ上がる。三脚を取って降りてきて、框で靴を履くときに、脚のゴムがひとつ外れた。そして堤防へ向かう。雨が降りだしたのは、たぶんちょうどそのころだ。

わからないことが、ひとつ残った。久住さんはなぜ七番を置いていったのか。別の傘を持っているのか。持っていないのか。

磨りガラスの向こうで、雨の音は強くなっていた。樋の音に、ときどき風の唸りが混じる。透は帳場の電話に手を伸ばしかけて、止めた。

宿泊カードには久住さんの携帯の番号がある。でもいまは忘れ物の連絡ではない。命にかかわるときかといえば、まだそうとは言えない。灯台が好きで、雨上がりの光を撮りたいと言っていた大人が、自分で選んで出かけていったのだ。

透は時計を見た。十一時十八分。

「零時までは待つ。零時を過ぎても戻らなくて、風がこのままだったら電話する」

声に出して決めると、少し落ち着いた。透は五号室の戸を叩きに行くこともしなかった。靴はないし、叩いたところで、わかることは何もない。

代わりに、乾いたバスタオルを二枚出して帳場に置いた。電気ポットに水を足し、玄関の外灯を一番明るくする。それから土間の三番の横を空けた。濡れた傘がもう一本来ても、干せるように。

十一時二十分、ラジオのニュースが天気に触れた。

〈先ほどまで一時的に止んでいた雨は、再び強まっています。沿岸部では風も強くなっていますので――〉

「止んでたんだ」

透は、今度は全部を聞いた。

四 裏返った折りたたみ

十一時四十分、インターホンが鳴った。

モニターに映っていたのは、三脚を肩に担いだ久住さんだった。透が鍵を開けると、引き戸の外から雨と一緒に転がりこむように入ってくる。マウンテンパーカーのフードはぐっしょり濡れ、ズボンは膝から下の色が変わっていた。手には黒い折りたたみ傘を握っている。ところが傘は風で裏返ったまま、骨が二本、あらぬ方を向いていた。

それなのに、久住さんの顔は笑っていた。

「すみません、遅くなりました。いや、すごかったです」

「お帰りなさい。タオル、どうぞ」

透は一枚目のバスタオルを渡し、二枚目を三脚の下に敷いた。久住さんは頭を拭きながら、傘立てに目をやった。

「七番、戻してくださってたんですね」

透が言うと、久住さんはタオルの中から顔を出して、申し訳なさそうに眉を下げた。

「勝手に戻しちゃってすみません。声はかけたんですよ、すみませーんって二回。でも奥でラジオの音がしてたから、お仕事中かなと思って」

「……ラジオ、大きくしてました。そのとき、おでんが吹きこぼれてて」

久住さんは吹き出した。透もつられて笑った。

「僕が帰ってきたの、十時四十五分ごろだったと思います。灯台を出たら雨が止んでて、係の方が、今のうちに帰りなさいって。だから傘は差さずに、そのまま坂を上がってきました」

「やっぱり、閉じたまま」

「はい。で、どうしても堤防から撮りたくなって。そうしたら係の方に、あそこは風が抜けるから傘なんて一発で裏返るよって言われてたのを思い出したんです。こんなきれいな傘、しかも番号の札までついてるのを壊したら申し訳ないなと思って」

久住さんは、裏返った折りたたみ傘を持ち上げてみせた。

「で、部屋に戻ったら、スーツケースにこれが入ってたんです。持ってきてたのを忘れてて。最初からこっちを使えばよかったんですけど」

「それで三脚と、この傘を持って」

「そうです。堤防で撮りはじめて五分くらいしたら、また降ってきて、釣りの人が使う小屋みたいなところで粘りました。……見ます?」

久住さんはカメラを出し、背面の画面を透のほうへ向けた。

黒い海の上に、白い光の線が斜めに伸びていた。一本ではない。灯台がゆっくり回るたびに、湿った空気の中へ光の帯が引かれて、それが何枚も続いている。雨粒が光を受けて、帯のふちで細かく光っていた。

「止み間の最後の五分と、降りだしてからの十分くらいです。降ってからのほうが、線がはっきり出たんですよ」

「……きれいですね」

透は本当にそう思った。宿の玄関で樋の音ばかり聞いていた夜に、坂の下ではこんな光が回っていたのだ。

「あ、そうだ」

透はポケットから、黒いゴムのキャップを出した。

「これ、框のところに落ちてました」

「あっ」

久住さんは三脚を手もとに引き寄せ、三本の脚の先を見比べた。一本だけ、金属がむき出しになっている。

「どうりで、堤防でずっとガタガタしてると思った。ありがとうございます」

キャップをはめ直すと、三脚はまっすぐ立った。

透は帳場へ回り、貸出帳を開いた。〈五号 七番 20:50〉の返却欄にペンを当てる。

「返却時刻、十時四十五分でよろしいですか。受け取ったのは僕じゃないので、確認させてください」

「はい、たぶんそのくらいです」

透は〈22:45〉と書き、横に小さく〈ご本人確認〉と添えた。それから裏返った折りたたみ傘を、両手で受け取った。

「これ、干しておきます」

「え、僕のですよ」

「濡れたままで大丈夫です。今夜は、乾かすのも宿の仕事にします」

透は骨をそっと元の向きに戻し、曲がった二本はそれ以上無理をしないで、土間の三番の横に広げた。紺の大きな傘の隣に、黒い小さな傘が少し傾いて並んだ。

五 午前一時の天気図

零時半ごろ、樋の音の向こうで、雨の気配が変わった気がした。

透は帳場を出て、引き戸を開けた。庇の下から首を出して、上を見る。

雨は止んでいた。坂の上の雲が切れて、星が三つ四つ見えていた。樋だけが、たたた、たたた、と忙しそうに鳴っている。

「ほんとに鳴りっぱなしだ」

透は小さく笑って、戸を閉めた。

一時少し前、着替えた久住さんがロビーに降りてきた。

「すみません、目が冴えちゃって。写真を見てたら眠れなくなりました」

「お茶、淹れますね」

透は配膳室の鍋をもう一度温めた。今度は火のそばを離れなかった。卵がふたつ。蓋のメモを見せると、久住さんは声を出して笑った。

「女将さん、予言者ですね」

「夜ふかしのお客さんが来ない夜もあるんですけど、そういう夜は僕がふたつ食べることになってます」

帳場の横の小さなテーブルに、卵をひとつずつ、大根をひとつずつ。ちくわぶは、透がきちんと自分の皿に確保した。ラジオの音量は二目盛りに戻した。

一時五分、聞き慣れたピアノのジングルが鳴った。

〈こんばんは、午前一時の天気図です。今夜は全国的に雨の夜でしたね〉

ナギさんの声は、低くて、ゆっくりしている。久住さんが「いい声ですね」とささやき、透はうなずいた。一通目は北の町からの便りで、初霜のことだった。二通目は雨の中を自転車で帰った高校生から。透は大根を箸で割りながら、自分の手が少しだけ固くなっているのに気づいた。

〈続いては、港町の宿で夜番をしている、ラジオネーム、傘立て係さん〉

透の箸が止まった。

〈「うちの宿には八本の貸し傘があります。女将が言うには、八本ぜんぶ揃った夜は、明くる朝が晴れるそうです。根拠はありません。今夜はどうでしょう」……いいですねえ。根拠はありません、のところが特にいい〉

久住さんが、透の顔と傘立てを交互に見た。透は口を半分開けたまま、何も言えなかった。

深夜の宿で二人がおでんを前に小さなラジオを聞く。奥には紺の大きな傘と黒い折りたたみ傘が並んで干されている。

〈気象予報士として申し上げますと、明日の朝、太平洋側の港町はおおむね晴れの予報です。だから傘立て係さん、もし今夜八本揃っていたら、言い伝えは当たります。揃っていますか?〉

透はゆっくり立ち上がり、傘立ての前へ行った。一、二、四、五、六、七、八。土間には三番が骨を広げ、その隣に久住さんの黒い折りたたみ傘が傾いている。

「揃ってます」

ラジオに向かって、透は小さく言った。

「一本は干してますけど」

「僕のも干してもらってるので、九本ですね」

久住さんが言い、透は吹き出した。ナギさんはもう次の便りを読みはじめていて、二人の返事は誰にも届かない。それでよかった。

その夜、透はちくわぶを最後までとっておいて、二時の見回りの前に食べた。

朝の七時、夜番の終わりに、女将が裏口から入ってきた。空はすっかり晴れて、坂の下の海が光っていた。樋は、ようやく黙っていた。

「おはよう。どうだった」

「メール、読まれました」

「あら」

「それと、五号さんが帰ってきたの、見落としました。樋が鳴ってたから、ずっと雨だと思ってて」

透は貸出帳の〈22:45 ご本人確認〉を見せ、夜のことを順番に話した。乾いた七番のこと、巻き方のこと、足跡と、スリッパと、脚のゴムのこと。女将は黙って最後まで聞いてから、玄関の外の樋を見上げた。

「音じゃなくて外を見なさいって、言ったでしょう」

「言われました。零時半は、ちゃんと外を見ました」

「そう」

女将はそれ以上何も言わなかった。けれど口の端が、少しだけ上がっていた。

七時五分、久住さんが三脚とスーツケースを持って降りてきた。七時十分のバスで、半島の先のもうひとつの灯台へ向かうのだという。土間で一晩干した折りたたみ傘を、透は畳んで渡した。曲がった骨は曲がったままだったが、生地はすっかり乾いていた。

「次の灯台、晴れててよかったですね」

「はい。……傘立て係さん、また雨の夜に泊まりに来ます」

久住さんが坂を下りていくのを見送ってから、透は土間の三番を閉じた。生地を二回巻き、真鍮の札が表に来る側でスナップを留め、三の穴に刺す。

八つの穴が、朝の光の中でぜんぶ埋まった。