一 洗い日の朝
雲棚町の木曜日は、朝から白い。
町じゅうの屋根の上で、洗われる前の雲が、もくもくと順番を待っているからだ。煙突の煙を吸ってすすけた雲。雷の夜をくぐって、灰色にくたびれた雲。市場の日除けとしてひと夏働き、端がぼろぼろになった雲。そういう雲を竿付きの荷車で集めて回るのが水曜日で、洗って干すのが木曜日だ。
ナナツ洗い場は、町のいちばん上の段にある。七本の物干し綱が、崖の縁から物見塔まで斜めに張られていて、その向こうにはもう空しかない。
朝七時、綿貫ミオは空水の桶に、肘まで腕を沈めていた。
空水は山の上の泉から引いている。さわると冷たいのに、指のあいだを抜けるときだけ、ほんのり温かい。ここに灰色の雲を浸して櫂でとんとん叩くと、すすがゆっくり底へ沈んでいく。
「ミオ、それ三回目でしょ。もういいって」
隣の桶から、鷺沼トモエが声を張った。トモエは三十四歳で、洗い場ではミオの八年先輩になる。声が大きくて、櫂を振る腕も太い。頭に巻いた手ぬぐいは、なぜか毎週ちがう果物の柄で、今日は梨だった。
「この子、裾のところにまだ灰が残ってるんです」
「裾って。雲に裾はないよ」
「ありますよ。ほら、ここ。ちょっとだけ垂れてるところ」
ミオが持ち上げてみせると、雲はぼたぼた水を落としながら、たしかに片側だけ長く垂れていた。トモエは「それは裾じゃなくて、だらしないって言うの」と鼻を鳴らして、自分の桶に戻った。
洗った雲は絞り車にかける。木の円筒二本のあいだに雲を通して、取っ手をぐるぐる回すと、水が溝を伝って流れ落ちる。絞りすぎると雲がちぎれるし、ゆるいと乾くまで一日かかる。ミオは取っ手を回しながら、雲が出てくる口に手のひらを当てていた。ちょうどいい重さになったところで止める。三年やって、ようやく手がそれを覚えた。
絞った雲の切れ端が、ミオの濡れた袖にぺたりと貼りついた。
つまんでも、指にまとわりついて離れない。腰の乾いた手ぬぐいでこすると、今度はあっけなく取れた。
「湿ってるものどうしって、仲がいいんですね」
「何の話?」
「なんでもないです」
ミオは切れ端を桶に戻した。
今日の仕事は、市場通りの日除け雲が十二枚。十二軒の店先に浮かべる、ふかふかの白い雲だ。午後三時の鐘までに届ける約束になっている。
それとは別に、木曜日には一本だけ、職人が自分の雲を干していい綱がある。いちばん端の七番綱だ。
十一時半、ミオは昼休みを少し前借りして、自分の雲を桶から引き上げた。
ほかの雲とちがって、色がついている。
柿の皮を三日煮つめた汁と、染め屋の裏でもらってきた藍の残り水。それを空水に少しずつ溶かして、六週間、木曜日ごとに染め重ねてきた。橙と紺のあいだの、日が沈む五分前みたいな、まだ名前のない色。
今日の夕方は、風揚げの祭りだ。
町の人がそれぞれ自分の雲を広場に持ち寄って、五時の鐘で一斉に夕方の風へ放す。雲は町の上をゆっくり流れていき、日が沈むころに山の向こうへ消える。毎年見物する側だったミオが、今年はじめて出す側に回る。四時半までに広場の受付で名前を書けばいい。
「おお、いい色じゃん」
トモエが肩ごしに覗きこんだ。
「まだ濡れてるから濃いんです。乾いたら、もうちょっと明るくなるはず」
「はず?」
「乾かしきったこと、ないので」
六週間、染めては半分乾かし、また染めた。最後まで乾かすのは今日が初めてだった。
雲が乾いたかどうかは、手の甲で押せばわかる。押したところがふわっと戻れば乾いている。へこんだまま戻らなければ、まだ湿っている。いつもの大きさの白い雲なら、風にあてて三時間。染めた雲は重いぶん、もう少しかかる。どのくらい余分にかかるのかは、ミオにもわからない。
湿ったままの雲が綱を離れると、ほどけてしまう。糸のように細くなって、ばらばらに漂ってしまう。それは洗い場に来た最初の週に教わったことだ。散る前に糸を集められれば、隅の糸車で紡ぎ直せる。ただし、取り戻せた量より大きくはならない。
ミオは七番綱のいちばん端、物見塔のすぐそばに雲をかけた。昼すぎからいちばん風が通る場所で、いちばん早く乾く。
新しい雲ばさみの箱は日除け雲に使っていたので、棚の奥から古い箱を出した。木のばねが少しゆるんでいるけれど、六つ留めれば足りるだろう。
「三時間と、ちょっと。三時には乾く」
ミオは雲の端をぽんと叩いた。雲はちょっとだけ揺れた。
二 風門をふた目盛り
昼ごはんは、物見塔の日陰で食べた。ミオは握り飯をふたつ。トモエは握り飯を四つと、ゆで卵をふたつ。
「一番綱の三枚目がさ、乾きが遅いんだよね」
トモエが卵の殻を指でむきながら言った。
「あれ、いちばん汚れてた子ですよね。煙突の真上に浮いてた」
「そう。洗いすぎて水をしこたま吸っちゃった。このままだと三時に間に合わないかも」
トモエは卵をまるごと口に放りこんで、崖の縁の風門を見た。
風門は、谷から吹きあがる風を物干し場に入れるための木の鎧戸だ。取っ手の横に目盛りが刻んであって、ふだんはひと目盛りだけ開けておく。
「ふた目盛りにしよう」
「ふた目盛りは、親方が嵐のあとにしか開けないやつですよ」
「親方は祭りの会合でいないし。だいじょうぶ、日除け雲はみんないい子だから」
ミオは握り飯の最後のひと口を噛みながら、七番綱の端を見た。
橙と紺の雲が、かすかにふくらんだり、しぼんだりしている。
風が強くなれば、あの雲も早く乾く。早く乾けば、受付まで余裕をもって行ける。
「……そうですね」
そう言った自分の声が、思っていたよりずっと軽かった。
一時十分、トモエが取っ手を押しこんだ。かたん、かたん、と鎧戸が二段ぶん開いて、谷の風がどっと入ってきた。十二枚の日除け雲が一斉に綱の上で胸を張る。洗い場の空気がいっぺんに冷たくなって、ミオの前髪が額から持ち上がった。
「ほら、乾く乾く」
トモエは満足そうに腕を組んだ。
ミオは七番綱まで歩いていって、自分の雲を手の甲で押してみた。
へこんで、ゆっくり半分だけ戻った。
まだだ。でも、さっきよりは戻りが早い。
一時四十分、ミオが六番綱の雲を裏返していたときだった。
谷の底から、ごう、と低い音が上がってきた。
振り向くより先に、背中を押された。風に、だ。物干し場の七本の綱が、いっぺんに弓なりに反った。
ぱちん。
小さな音がした。
ぱちん、ぱちん。
七番綱の端で、古い雲ばさみが一つずつ弾けとんでいた。橙と紺の雲は、帆みたいにふくらんで、残りのはさみ二つにしがみついていた。
「待って」
ミオは走った。綱のあいだを縫って、手を伸ばした。
指先が雲の端にさわった、と思った瞬間、最後のはさみがはずれた。
雲は、ふわりと浮いた。
そして、空中でほどけた。
毛糸玉を落としたときのように、ひとかたまりだったものが細い糸になって、ばらばらに散っていく。橙の糸、紺の糸、そのあいだの色の糸。何百本もの細い糸が、風に乗って物干し場の上を流れていった。
ぱちん、とまた音がして、今度は六番綱から白い日除け雲が二枚はずれた。二枚とも、浮かんだそばからほどけて、白い糸になってミオの色の糸に混ざっていく。
「うそでしょ!」
トモエが叫んで、風門に飛びついた。取っ手を引き戻すと、かたん、かたん、と鎧戸が閉まって、風がすっと弱まった。
物干し場の上には、白と橙と紺の糸が、うすい靄みたいに漂っていた。綱に引っかかったもの、塔の壁にまとわりついたもの、段の下の家々の屋根へ流れていくもの。
「六番の二枚、古いはさみ使ってたんですか」
「新しいのが足りなくてさ、ちょっと借りた。……あんたの古い箱から」
二人はしばらく、黙って空中の糸を見上げた。
物見塔の大時計は、一時四十五分を指していた。
「三時の鐘で、雨になっちゃう」
ミオが言った。空に漂ったままの糸雲は、午後の風向きが変わる三時の鐘で形を保てなくなって、霧雨になって落ちる。雨になってしまったら、もう戻らない。それはトモエも知っている。
「鐘までに集めたら、紡ぎ直せる」
トモエは手ぬぐいを頭からむしり取って、ぎゅっと握った。
「行こう。全部は無理でも、集められるだけ」
三 物干し場を走る
最初は素手で追いかけた。
三番綱に引っかかっている白い糸に飛びついて、両手でつかむ。つかんだはずなのに、指のあいだから、するりと抜けていく。四番綱の糸も、五番綱の糸も同じだった。乾いた手は、糸雲には煙をつかむのと変わらない。
「なにこれ、全然つかめない!」
トモエが空をつかんでは、からっぽの手のひらを見つめている。
ミオは自分の袖を見た。
朝、濡れた袖に貼りついた切れ端。乾いた手ぬぐいでこすったら、あっけなく取れた。
ミオは洗い場に駆け戻って、雲包み布を一枚、空水の桶に突っこんだ。雲を運ぶときに使う大きな木綿の布だ。水をしたたらせたまま引き上げて、三番綱の糸に向かって振った。
糸が、布にくっついた。
するする、ぺたり。布の表面に、白い糸が蜘蛛の巣のように貼りついていく。四番綱の下でもう一度振ると、今度は橙の糸がまとめて寄ってきた。
「なにそれ!」
「濡れてるものに、くっつくんです。たぶん」
「たぶんって、それ、どこで習ったの」
「朝、袖で」
トモエは口をあけて、それから頭に手ぬぐいを巻き直し、自分も桶に布を突っこんだ。
二人で布を振りながら、物干し場を端から端まで走った。綱の下をくぐって、絞り車をまたいで、干してある日除け雲の脇をすり抜ける。濡れた布は重くて、振るたびに肩が抜けそうになった。けれど布の上で、糸はどんどん厚くなっていった。
物干し場の糸があらかた片づいたころ、ミオは段の下を見て息をのんだ。
橙と紺の糸がひとかたまり、ゆっくり下の段へ流れていく。その先には粉屋の大きな煙突があって、いまちょうど、白い湯気をもうもうと吐いていた。
「あっちはだめ。温かい風に乗ったら、上がっちゃう」
ミオは布を抱えて石段を駆けおりた。トモエが後ろから、どすどすとついてくる。
粉屋の裏庭に飛びこむと、子どもが一人、虫取り網を振り回していた。粉屋の子のペタだ。九つで、いつも何かを捕まえようとしている。
「ミオちゃん! 空がしましまだよ!」
「ペタ、それ捕まえられる?」
「まかせて!」
ペタは跳びあがって網を振った。網に入ったのは、追いついてきたトモエの頭に巻いた、梨柄の手ぬぐいだった。
「わたしの手ぬぐい!」
「あ、ごめん!」
トモエは網から手ぬぐいを取り戻し、今度は首に巻いた。
ミオは庭の隅の水樽にペタの網を突っこんだ。
「濡らしてから。こう」
網から水がしたたっているうちに、ペタはもう一度跳んだ。今度は網の中に、橙の糸がふわっと吸いこまれた。
「とれた! とれたとれた!」
ペタは網をかかげて、裏庭をぐるぐる走り回った。
けれど、かたまりの半分は間に合わなかった。煙突の湯気に触れた糸が、すうっと持ち上がっていく。ミオは布を振りあげたけれど、届かない。糸は湯気といっしょに屋根を越え、物見塔の高さも越えて、空の青に溶けていった。
六週間ぶんの色の、どこかの部分だった。
ミオは、それが見えなくなるまで見上げていた。
「ミオ!」
トモエの声で我にかえった。トモエは裏庭の塀の上に片足をかけて、隣の家の屋根を指さしている。
「あっちに白いのがいる! 大きいのが!」
トモエは塀を乗り越えて、屋根の上の白いもくもくに向かって布を振りかぶった。そして、そのもくもくが隣の家の台所の窓から出ている湯気だと気づいたのと、足を滑らせたのが、ほとんど同時だった。
どぼん。
トモエは、隣の家の雨水樽に腰から落ちた。
「トモエさん!」
樽から顔を出したトモエは、頭からつま先まで、びしょ濡れだった。前髪から水がしたたって、さっきまで手にしていた布も樽の底に沈んでいる。
「……今のわたし、いちばん役に立ってないよね」
そう言いながら樽から這い出たトモエの肩に、ふわりと白い糸がとまった。続いて腕に、背中に、橙の糸が、紺の糸が、次々に寄ってきて貼りついた。濡れた服にくるまれたトモエは、あっという間に、糸だらけになった。
ミオは思わず吹き出した。
「いちばん役に立ってます」

「うれしくない!」
トモエは両腕を広げて、屋根と屋根のあいだの路地を歩いた。歩くだけで、糸が勝手に寄ってくる。ペタが後ろからついていって、トモエの背中にくっつききれなかった糸を網で拾った。
大時計が二時四十分を指したとき、ミオは物見塔を見上げた。
塔の壁に沿って、最後の大きなかたまりが、ゆっくり上へ昇っていた。橙と紺が濃い。ミオの雲のいちばん真ん中の部分だ。
ミオは塔の螺旋階段を駆けあがった。百段と少し。途中で布を一度、壁の水受けに浸しなおした。息が切れて、膝が笑った。
塔のてっぺんの見張り台に出ると、かたまりは手すりの外、腕を伸ばしても届かないところに浮かんでいた。
下からトモエが叫んでいる。
「無理しないの! 落ちたら雲より先にあんたが雨だよ!」
「わかってます!」
手すりに身を乗りだせば、届くかもしれない。でも、届かないかもしれない。ミオは手すりを握ったまま、一度、深く息をした。
それから階段の途中まで駆けおりて、ペタを呼んだ。
「ペタ、網、貸して!」
ペタが階段を半分まで駆けあがって、網を差しだした。ミオは網の柄の先に、濡れた布の角を固く結んだ。見張り台に戻り、手すりの内側に足をしっかり踏んばったまま、柄を外へ伸ばす。
布の先が、かたまりの端にふれた。
糸が、布へ流れこんだ。紺の糸、橙の糸、そのあいだの色の糸。ミオはゆっくり柄を引き寄せた。布が重くなっていく。
そのとき、ちょうど風がひと吹きした。かたまりの三分の一ほどが布からはがれて、手すりの向こう、何もない空のほうへ流れていった。
ミオは柄を握りしめたまま、それを見送った。
ごーん。
足もとの大鐘が鳴った。三時の鐘だった。
風が、くるりと向きを変えた。物見塔の高さから見下ろすと、町じゅうの屋根の上に残っていた糸が、ほろほろと細かくなって落ちていくのが見えた。市場通りのあたりに、うすい霧雨がさあっと降った。まだ明るい午後の日差しの中で、その雨はほんの少しだけ、橙色に光っていた。
店先の人たちが、不思議そうに空を見上げていた。
四 紡ぎ直し
洗い場の床に、集めてきた糸だらけの布と、ペタの網と、トモエの服から引きはがした糸の山を並べた。
白と橙と紺が、どれもこれも、すっかり絡みあっていた。
糸車は、洗い場の隅に一台だけある。ふだんは、裂けた雲を繕うときにしか使わない。糸を湿ったまま車にかけて巻いていけば、また雲に戻る。ただし、集めた量より大きくはならない。
ミオは糸の山に指を入れて、白い糸を一本、引き抜こうとした。橙の糸が三本、いっしょについてきた。もう一本引くと、今度は紺の糸が五本ついてきた。
これをきれいに分けようとしたら、明日の朝までかかる。
「白っぽいところと、色っぽいところで、だいたいで分けましょう」
ミオは言った。
「だいたいで?」
「白っぽいほうは日除けの二枚に。色っぽいほうは、わたしのに」
トモエはしばらく糸の山を見て、うなずいた。
二人で山を二つに分けた。白っぽい山のほうが、ずっと大きかった。
先にトモエが白い糸を車にかけた。取っ手を回すと、糸がからからと巻きとられて、車の向こう側から、少しずつ雲になって出てくる。二枚ぶん紡ぎ終わると、日除け雲は朝より少し小さくなっていて、ところどころに橙の点が散っていた。
「……ごめん」
トモエが、車を回していた手を止めて言った。
「風門。ふた目盛りは、やりすぎだった」
ミオは首を振った。
「わたし、止めなかったんです。早く乾くなら、それでいいやって思って。古いはさみを使ったのも、いちばん風の強い端っこを選んだのも、わたしです」
「あんた、そういうの、ちゃんと言うよね」
「言わないと、来週も同じことしそうなので」
トモエは濡れた前髪をかきあげて、笑った。
「じゃあ、半分ずつだ」
三時十五分、トモエは乾いていた十枚の日除け雲を荷車に積んで、市場通りへ走っていった。紡ぎ直したほうの二枚は、まだ湿っている。今日中には乾かない。
「二枚は明日でいいか、パン屋さんたちに聞いてくる。怒られたら、あんたの分も怒られとく」
荷車の音が坂の下へ遠ざかっていった。
ミオは自分の山を車にかけた。
取っ手を回す。からから、からから。橙と紺の糸に、白い糸が混ざって巻きとられていく。車の向こう側から出てきた雲は、ミオの両腕でかかえられるくらいだった。朝、七番綱にかけたときの、ちょうど半分ほど。
色も、ちがった。
橙と紺のあいだの、あの色はちゃんとある。でもところどころに、白い筋が入っていた。全体が、朝よりずっと淡い。そして片側だけ、ほんの少し長く垂れていた。
三時三十分。ミオは雲を膝にのせて、しばらく黙っていた。
これを出すのか、と思った。
六週間、木曜日ごとに染めた色は、いまはこのくらいしか残っていない。広場には、きっと立派な雲が並ぶ。染め屋の大きな藍の雲や、町長の、なぜか毎年きゅうすの形の雲。その横に、この半分の、しましまの雲を浮かべるのだ。
ミオは雲を手の甲で押してみた。
へこんで、そのまま戻らなかった。まだ、ぐっしょり湿っている。
受付の締め切りは四時半。放すのは五時。放すまでに乾いていれば、ほどけない。小さくなったぶん、乾くのは早いはずだ。でも、一時間半で乾くかどうかは、やってみないとわからない。
ミオは風門を見た。
それから首を振って、棚の上の新しいはさみの箱を下ろした。
物干し竿を一本、肩にかついだ。竿の先に雲をかけ、新しいはさみを八つ、ぎっちり留める。竿を立てると、雲は竿の先で旗のようにふくらんだ。
風門を開けなくても、風なら町じゅうに吹いている。
五 風揚げ
三時四十分、ミオは雲を竿の先に掲げて、洗い場の門を出た。
雲棚町の坂道は、段と段のあいだを、ジグザグに折れながら下っていく。角を曲がるたびに、谷からの風が顔に当たった。ミオは風の吹いてくるほうへ竿を傾けて、ゆっくり歩いた。雲は竿の先で、ぱたぱたと揺れた。
「ミオちゃん、雲のおさんぽ?」
八百屋の前で、おかみさんが笑った。
「乾かしてるんです。歩きながら」
「へえ。そういうやり方もあるんだねえ」
本当にあるのかどうかは、ミオも知らない。今、思いついた。
坂の途中の風が強い角では、少し立ち止まった。風がない路地では、早足で抜けた。洗濯物を取りこんでいた人が、二階の窓から竿の先の雲を見上げた。猫が一匹、塀の上からずっと目で追ってきた。
四時十分、ミオは途中で一度だけ雲を手の甲で押した。
へこんで、ゆっくりだけれど、半分以上戻った。
四時二十一分、広場に着いた。受付の机で、係のおじいさんが帳面を広げていた。
「出すのかい」
「はい」
ミオは帳面に、綿貫ミオ、と書いた。書き終わると、手が少し震えていたことに気がついた。
広場には、もう雲がいくつも浮かんでいた。染め屋の雲は、やっぱり藍色の大きな鯨の形をしていた。町長の雲は、今年もきゅうすだった。子どもたちが持ってきた、手のひらくらいの小さな雲が、杭に結ばれてぴょこぴょこ揺れている。
ミオは広場の端の、いちばん風が通る角に陣取って、竿を立てた。
「しましまだ」
通りがかった小さな女の子が、ミオの雲を指さした。
ミオは、少し笑った。
「しましまになっちゃったの」
「かわいい」
女の子は、そう言うと母親に手を引かれて行ってしまった。
四時四十分、トモエがペタといっしょに広場に駆けこんできた。トモエの服はまだ半分湿っていて、手には焼きとうもろこしを二本持っていた。
「二枚は明日でいいって。パン屋さん、さっきの霧雨で店の前の植木が助かったって、なんか喜んでた。怒られなかった」
「よかった」
「で、乾いた?」
四時五十分。ミオは息を止めて、雲を手の甲で押した。
押したところが、ふわっと戻った。
「乾いた」
ミオが言うと、トモエが焼きとうもろこしを一本、ミオの手に押しこんだ。ペタは「やった!」と叫んで、網を振り回した。何も捕まらなかった。
ミオは竿から雲をはずした。新しいはさみが、ぱちん、ぱちんと気持ちよく開いた。雲を両腕にかかえると、朝の濡れた重さとはまるでちがう、ふかふかの軽さだった。
ごーん。
五時の鐘が鳴った。
広場じゅうの人が、一斉に腕を上げた。鯨が浮かび、きゅうすが浮かび、小さな雲たちがぴょこぴょこと浮かんだ。
ミオも腕を開いた。
雲は、ほかの雲よりゆっくり、少し迷うように浮かびあがった。高くは上がらなかった。鯨やきゅうすが空の高いところを悠々と流れていくなか、ミオの雲は屋根より少し上くらいの低いところを、ふらふらと、町の段々に沿って昇っていった。
その方向に、ナナツ洗い場がある。
「ミオ、追っかけな」
トモエが言った。
ミオは焼きとうもろこしを持ったまま、走りだした。
坂道を駆けのぼる。さっき竿をかついで下りてきた道だ。雲はミオの頭の少し先を、まるで道を知っているみたいに、ジグザグに流れていく。後ろからトモエのどすどすという足音と、ペタの笑い声がついてくる。
いちばん上の段に着いたとき、ちょうど日が山の稜線にかかった。
夕日が、雲を真横から照らした。
ミオは足を止めた。
淡くなっていた橙と紺のところは、夕日を受けてほんのり濃くなった。そして白い筋のところに、夕日の色がまっすぐ染みこんで、きらきら光った。橙でも紺でもない、そのあいだの、日が沈む五分前の色が、白い筋の中にだけ、はっきり浮かんでいた。

六週間、ミオが出したかった色だった。
それが、ミオが染めたところではなく、混ざってしまった白い筋の中に光っていた。
「……ずるい」
ミオは声に出して笑った。笑いながら、焼きとうもろこしをかじった。甘くて、熱くて、少し焦げていた。
雲は七本の物干し綱の上をゆっくり越えていった。片側だけ少し長く垂れた裾が、物見塔の先をかすめた。
「裾、あるじゃん」
追いついたトモエが、息を切らせながら言った。
「だから、あるって言ったじゃないですか」
雲は崖の縁を越えて、稜線のほうへ流れていった。三人は物干し場のいちばん端、七番綱のそばに並んで、それを見送った。
「あの色、なんて名前なの」
ペタが聞いた。
ミオは少し考えた。
「木曜日の色」
「木曜日って、色あるの?」
「今日から、ある」
雲は稜線の上で、最後にもう一度だけ白い筋を光らせて、その向こうへ消えた。
空が、ゆっくり紺色になっていった。
「来週もやる?」
トモエが聞いた。
「やります。はさみ、新しいのにして。それから」
ミオは七番綱を見上げた。
「白いの、最初から少し混ぜてみます。わざと」
トモエは、ふうん、と言って、焼きとうもろこしの芯を見つめた。
「わたしも一本、出そうかな。来年」
「何色にするんですか」
「梨色」
「梨って、何色ですか」
「それを、来週から考える」
風門の鎧戸が、夕方の風に吹かれて、かたん、と小さく鳴った。ひと目盛りぶんだけ開けてあった。


