一 番号札は四番
雨は十七時四十分にやんだ。
間宮澄子がそれを分単位で知っているのは、ちょうどバス停の時刻表と腕時計を見比べていたからだ。次のバスは十七時五十二分。それを逃せば十八時十二分。どちらに乗っても、夕飯には間に合う。かばんには、バス停前のコンビニで買った鮭おにぎりが一つ入っている。明日の昼のぶんだ。
四十五歳。旅行会社で日帰りバスツアーの行程を組むようになって、もうすぐ二十年になる。渋滞しやすい道、トイレが混むサービスエリア、紅葉の見頃が一週間ずれたときの差し替え先。澄子の頭の中には、いつも二本目と三本目の道がたたんでしまってある。
だから、濡れた歩道を一匹の猫が横切ったときも、まず考えたのは「十二分ある」ということだった。
白と黒のハチワレだった。口に、丸めた紙をくわえていた。猫は、クリーニング店とシャッターを下ろした文房具店のあいだへ、すいと消えた。
そこに路地なんかない。このバス停を八年使っている澄子は知っていた。知っていたのに、目の前には幅一メートルほどの石畳の路地があった。雨に洗われた石が、街灯の光を一枚ずつ抱えていた。
「十二分だけ」
声に出してから、澄子は路地に入った。
二十歩ほど行くと、壁に木の掲示板が打ちつけてあった。手書きの、少し傾いた字だった。
人間の方へ
一、屋根の道は、夜だけつながります。入口は、月の映った水たまりです。
二、屋根の道を歩くには、木の札がいります。
三、屋根の道では、札を持つあなたの足音は猫の足音になります。落ちません。
四、帰りたくなったら、札に行き先を書いてください。
五、夜が明けると、木の札はどこにあっても、この入口へ戻ります。町に残っている人も戻ります。
「落ちません」のところだけ、字がほかより太かった。誰かが念を押したのだろう。澄子は写真を撮ろうとしてスマートフォンを向け、黙った。画面の掲示板のところだけ、雨粒がにじんだようにぼやけている。
路地の奥に、二階建ての建物があった。人間の家の玄関くらいの扉があって、そのまわりに猫の背丈ほどの小さな扉がいくつも並んでいる。看板にはこうあった。
ねこ市役所
本日開庁(ただいま昼寝中)
澄子は笑った。笑ってから、腕時計を見た。十七時五十分。今から走れば五十二分のバスに間に合う。
澄子は走らなかった。十八時十二分がある。二本目があるのだから、一本目は見送っていい。いつもの澄子の考え方だ。ただ、見送る理由だけがいつもと違っていた。
建物の中は、思ったより明るかった。板張りの床に、窓から斜めに入った夕方の名残りの光が、猫が三匹寝られるくらいの四角を落としていた。実際、そこで三匹寝ていた。
窓口は三つあった。
一番窓口「住民」では、茶トラが箱の中で丸くなっている。
二番窓口「落とし物」では、灰色の猫が起きて座り、前足を丁寧になめている。
三番窓口「通行」では、大きな三毛猫が仰向けで寝ている。お腹の下にスタンプ台が敷かれていた。
壁際に、人間用らしい長椅子がひとつあった。背もたれには「人間の方はこちら(めったに来ません)」と貼り紙がしてある。
入口の横に番号札の機械があって、肉球の形のボタンが、押してくれと言わんばかりに光っていた。澄子が押すと、紙が一枚、もったりと出てきた。
4
天井から下がった表示板には「ただいま 1番の方」と出ていた。その「1」が、ゆっくり点いたり消えたりしている。まばたきみたいだ、と澄子は思った。それも眠たそうなまばたきだ。
澄子は、まず壁の大きな地図を見た。仕事柄、地図があると見ないではいられない。
猫の町の地図では、地面の道が茶色の線、屋根の道が銀色の点線で描かれていた。点線の横には小さく「夜のみ」とある。点線はあちこちの屋根から伸びて、町の真ん中にある一つの丸に集まっていた。
丸の中には、何も描かれていなかった。「月の広場」と書いてあるだけで、その下にもっと小さな字が添えてあった。
(見た人に聞いてください)
澄子は、その白い丸からしばらく目を離せなかった。
これまで何百枚という行程表を作ってきた。展望台も棚田も、夜景の見える峠も、写真で見て、下見に行って、所要時間を書き込んできた。どれも、行く前からどんな景色かわかっている場所だった。
地図の上で何も描かれていない場所を見たのは、たぶん初めてだった。
行きたい、と澄子は思った。誰かを連れていくためではなく、自分が行きたかった。
三番窓口の前に記入台があり、申請書が束になって置いてあった。
通行申請書
お名前
しっぽ(ある・ない・気分による)
行き先
用件
好きな日なた
澄子は手帳に挟んであったボールペンを出して、ていねいに書いた。名前は間宮澄子。しっぽは、ない。行き先、月の広場。用件、見学。好きな日なたで少し迷ってから、「冬の午前中の、電車の窓際」と書いた。書いてみて、自分がそういう場所を好きだったことを思い出した。
申請書を三番窓口の受付箱に入れた。三毛猫は寝ていて、お腹がゆっくり上下している。
窓口の前には、ハンカチでぐるぐる巻きにされた呼び鈴があった。横に貼り紙がある。
寝ている職員を起こさないでください。
起こした方の申請は、起こした分だけ後回しになります。
「起こした分だけ」
澄子は口の中で繰り返した。どれだけ後回しになるのか、単位が書いていない。行程表なら真っ先に赤を入れるところだ。
澄子は二番窓口へ行った。灰色の猫が、前足をなめるのをやめて顔を上げた。
「すみません。三番の方は、何時ごろ起きますか」
「起きたときです」
「目安で結構なんですが」
「起きたときです」
灰色の猫の声は低くて、意地悪な響きはまったくなかった。本当にそれ以外の答えを持っていない、という声だった。
澄子は一度うなずいて、別のことを聞いてみた。
「では、あちらの箱は」
壁に、郵便受けほどの木箱が取りつけてあった。
迷子札 ご自由にどうぞ(迷子の方だけ)
のぞいてみると、箱は空だった。
「迷子でないと出ません」と灰色の猫が言った。
「ああ、それなら」澄子は少しほっとした。「私は迷子じゃないので。ちゃんと申請して、待ちます」
灰色の猫は何か言いかけたような顔をして、また前足をなめはじめた。
二 寄り道は案内に含まれます
十八時五分になっても、表示板は「1」をまばたきさせたままだった。
十二分のバスも、たぶん見送ることになる。澄子は長椅子に座って、この時間をどう使うか考えた。待つのは嫌いではない。ただ、待つなら待つ理由と、いつ終わるかの見当がほしい。
「お急ぎですか」
灰色の猫が、窓口から声をかけてきた。
「急いではいないんです。でも、夜にならないと屋根の道はつながらないんですよね。それまでに札をいただけたらと思って」
「東の出張所なら、起きているかもしれません」
「かもしれない」
「かもしれません。案内係をつけます」
灰色の猫は、窓口の下の小さな扉に向かって「ナツメ」と呼んだ。
出てきたのは、さっきバス停で見たハチワレだった。丸めた紙はもうくわえていない。顔の真ん中で白と黒がきっぱり分かれていて、片方の耳の先だけ、筆でちょんと付けたように黒かった。
「案内係のナツメです」とハチワレは言った。「案内します。寄り道は、案内に含まれます」
「含まれるんですか」
「含まれます」
それが規則なのかナツメの考えなのか、澄子にはわからなかった。
猫の町の道は、人間がぎりぎり歩ける幅で、それがどこまでも続いていた。家々の扉は猫の大きさなのに、窓はちょうど人間の目の高さにある。のぞくと、中で猫が丸くなっていた。軒先には小さな座布団が何枚も干されていて、雨上がりの湿った匂いに、乾いた布の匂いが混じっていた。
角に、瓶詰めを並べた店があった。瓶には「日なた 午前」「日なた 午後」「日なた 縁側」と札が貼ってある。中身はどれもただの光にしか見えなかったが、「縁側」だけが売り切れていた。
澄子は手帳を開いて、通った道を書きとめた。右、まっすぐ、瓶の店の角を左。ツアーの下見でいつもやっていることで、手が勝手に動く。
ナツメが急に止まった。
白い蛾が一匹、植木鉢の上をふらふら飛んでいた。ナツメの目が丸くなり、腰が低くなって、しっぽの先だけが別の生き物みたいに揺れた。
「ナツメさん」
返事はなかった。ナツメは植木鉢の山へ飛び込んだ。鉢が二つ転がったが、蛾はとっくに屋根の向こうへ行っていた。それでもナツメは三分ほど、蛾のいた場所をじっと見つめていた。
「行きましょうか」
「行きます」
何事もなかったように、ナツメはまた歩きだした。
二つ目の寄り道は、道に落ちていた紙袋だった。
ナツメは紙袋を見つけるなり、迷わず中に入った。そして出てこなかった。袋はナツメの形にふくらんだまま、しんとしている。
澄子はしゃがんで、袋の口に話しかけた。
「出張所は、この先ですか」
「この先です」と袋が答えた。
「どれくらい先ですか」
「この先です」
腕時計は十八時二十四分を指していた。澄子は立ち上がって手帳の地図を見た。瓶の店から東へ二本。自分がどこにいるかは、まだはっきりわかる。わからないのは出張所の場所だけだ。
袋から出てきたナツメは、耳に紙くずをひとつ付けていた。澄子が取ってやると、ナツメは「どうも」と言った。
三つ目の寄り道は、自動販売機だった。
猫の町の自動販売機は人間の腰くらいの高さで、上のほうに「ぬくもり」と書いてあった。ボタンも取り出し口もない。ナツメはひらりとその上に乗って香箱を組み、目を細くした。
「それは、何を売っているんですか」
「上に乗るところです」
「売っているんですか」
「乗ると温かいです」
澄子はとうとう笑ってしまった。笑いながら、手帳の隅に小さく「ぬくもり(上に乗る)」と書いた。書いてから、何のための記録だろうと思った。誰を案内するわけでもないのに。
ポケットでスマートフォンが震えた。画面は、こういうときだけちゃんと映る。娘の環からだった。十八時三十一分。
『今日の夕飯なに』
澄子は少し考えてから打った。
『遅くなるかも。冷凍のぎょうざ、焼いといてくれる?』
『いいけど。お母さん今どこ』
「猫の市役所」と打って、消した。
『寄り道中』
『めずらしい』
既読がついたあとに、もう一通来た。
『お母さんの寄り道って、行程表に書いてあるやつでしょ』
澄子は返事をせずに、画面を伏せた。図星だったからではない。図星ではないことが、少しうれしかったからだ。
出張所に着いたのは十八時五十分だった。
小さな平屋の扉に、木の札がかかっていた。
出張所 本日は出張中
澄子はその札を三回読んだ。
「出張所なので」とナツメが言った。
「出張所なので、出張中」
「出張所なので」
怒る気にもなれなかった。澄子は扉の前で声を出して笑った。行程表に赤を入れたいところが多すぎて、どこから直せばいいのかわからない。もしかしたら直さなくていいのかもしれない、という考えが、ちらりと頭をかすめた。
振り向くと、ナツメがいなかった。
出張所の横に、段ボール箱が五つ積んであった。どれかに入ったのだろう。澄子は一つずつ声をかけた。
「ナツメさん」
どの箱も返事をしなかった。そのうち一つから、かすかに寝息が聞こえる。けれど、どの箱なのかはわからなかった。
三 迷子になる練習
澄子は手帳を開いた。瓶の店の角、紙袋のあった場所、ぬくもりの自販機。書きとめた道を逆にたどれば、市役所に戻れるはずだ。
実際、戻れた。
右、まっすぐ、瓶の店の角を右。迷いようがなかった。十九時二分、澄子は市役所の扉を開けた。
三毛猫は、まだ仰向けで寝ていた。表示板の「1」は相変わらずまばたきしている。受付箱をのぞくと、澄子の申請書の上で子猫が一匹丸くなっていた。ちょうど「好きな日なた」の欄に、子猫のお腹が乗っている。
「そこ、日なたじゃないですよ」
澄子が言うと、子猫は耳だけ動かした。
灰色の猫が、二番窓口からこちらを見た。
「出張所は」
「出張中でした」
「出張所なので」
灰色の猫は、それを当たり前のことのように言った。澄子は長椅子に腰を下ろした。
窓の外が、少しずつ青くなっていく。
澄子はもう一度、地図の白い丸を見た。見た人に聞いてください。ナツメに聞けばよかった、と思った。ナツメは行ったことがあるのだろうか。あったとしても、途中で寄り道ばかりして、着いたかどうか覚えていないかもしれない。
仕事でいちばん好きな瞬間なら、澄子にははっきりわかっていた。下見のバスが予定していなかった角を曲がって、急に海が見えたりする、あの瞬間だ。運転手さんが「ここ、抜け道なんですよ」と言うと、窓の外がぱっと開ける。
そして澄子は、その抜け道を次の行程表に書き込む。十四時二十分、車窓より海。お客さんはそこで「わあ」と言う。言ってくれると、うれしい。
けれど、行程表に書かれた海を見るお客さんの「わあ」と、何も知らずに見た自分の「わあ」は、たぶん少し違う。澄子はずっとそれを知っていて、知らないことにしていた。
迷子札の箱に目をやった。空っぽだった。
「迷子でないと出ません」と灰色の猫が言った。澄子がまだ何も聞いていないのに。
「迷子って、なろうと思ってなれるものですか」
「なれる方もいます」
「私はなれない気がします」
「そういう方もいます」
それでも澄子は、試してみることにした。
市役所を出て、目についた角をとにかく曲がる。右、左、左、右。地図は見ない。手帳もかばんにしまった。
五分歩いて、澄子は立ち止まった。頭の中に、勝手に地図ができあがっていた。右、左、左、右。瓶の店は北東に三本、市役所は真西。数えるのをやめようとすると、やめようとしていることまで数えてしまう。
「職業病」
澄子はつぶやいた。二十年かけて身についたものは、五分では外れない。
帰ろうか、と思った。正確に言えば、市役所に戻って三毛猫が起きるのを待とうか、と思った。それがいちばん確実で、いちばんいつもの澄子らしかった。
そのとき、音がした。
ぽろん、と、ガラスを指で弾いたような音。少し間があって、もう一つ、さっきより低い、ぽろん。
その音は、澄子の頭の地図にない路地から聞こえてきた。家と家のあいだに植木鉢が段々に積んであって、その奥へ細い道が下っている。人間なら横向きになってやっと通れるくらいの幅だった。
澄子は路地の入口に立った。
ここに入ったら頭の地図は崩れるだろうか、とまず考えた。崩れたら迷子になれるだろうか、とも考えた。それから、どちらもどうでもいいことに気がついた。
澄子が知りたいのは、あの音が何なのか、それだけだった。
澄子は体を横にして、路地に入った。
路地を抜けると、一段低い通りに出た。軒先に、空き瓶でできたランプが吊るしてあった。中に灯りはないのに、瓶の底にたまった雨の名残りが空の青さを映して光っている。
ぽろん。
音のするほうへ行く。角を曲がる。曲がったことは覚えているが、どっちに曲がったかはもう覚えていない。床屋があった。小さな椅子に猫が座り、別の猫に耳の後ろをとかしてもらっている。とかされている猫は半分眠っていた。
ぽろん。
もう一つ角を曲がって、階段を下りる。洗濯ひもに小さな座布団が並んで干してあり、そのあいだをくぐった。
雨樋の下に、音の正体があった。
雨樋の口から落ちる雫が、並べた瓶の上に順番に落ちていた。瓶は大きさがまちまちで、入っている水の量もそれぞれ違う。雫が落ちるたびに、ぽろん、ぽろん、と少しずつ違う音がした。
その前に年寄りの黒猫が座っていて、前足で瓶を一つずつ、少し右へ、少し左へと動かしていた。
「調律ですか」と澄子は聞いた。
「雨が上がったので」黒猫は振り向かずに言った。「上がると、音がずれます」
雫が落ちて、ぽろんと鳴った。黒猫は小さな瓶を、前足の幅ひとつぶん奥へずらした。次の雫は、さっきより少し澄んだ音になった。
澄子はしばらくそれを聞いていた。何分だったのかはわからない。腕時計を見なかったからだ。
ふと気がつくと、澄子は自分がどこにいるのか、まったくわからなくなっていた。
来た道を振り返る。座布団の洗濯ひもは見える。でも、その向こうの階段がどの階段だったのか思い出せない。床屋は右だったか、左だったか。瓶の店は、市役所は、どっちだろう。
胸の奥が、すうっと冷たくなった。四十五年間でほとんど覚えのない感覚だった。小学生のころ、デパートで母の手を離してしまったとき以来かもしれない。
それから、掲示板の五番目を思い出した。夜が明けると、木の札はどこにあっても、この入口へ戻ります。町に残っている人も戻ります。ここは帰れなくなる町ではない。いちばん悪くても、朝にはあの路地の入口に立っている。
冷たさが、少しずつ別のものに変わっていった。くすぐったいような、何かが始まる前のような感じに。
角に、木箱があった。市役所で見たのと同じ、郵便受けほどの箱だった。
迷子札 ご自由にどうぞ(迷子の方だけ)
ふたを開けた。
からん、と乾いた音を立てて、木の札が一枚落ちてきた。手のひらに収まるくらいの大きさで、首にかけるための麻ひもがついている。表には、焼きごてで押したような字があった。
迷子札
人間 一名
行き先 (まだ)
澄子は札を持ったまま、しばらく動けなかった。それから声を出して笑った。笑い声が狭い通りに響いて、床屋で半分眠っていた猫が片目を開けた。
「迷子ですか」と、調律の黒猫が初めて振り向いた。
「迷子です」
自分でも驚くくらい、誇らしげな声が出た。

通行札は窓口でもらうものだと思っていた。迷子札は子どものためのものだと思っていた。どちらも、そう思い込んでいただけだった。
四 水たまりの月
十九時半を少し過ぎたころ、雲が切れた。
通りのあちこちに残った水たまりに、一つずつ月が映った。黒猫の瓶の水にも映った。雫が落ちるたびに瓶の中の月が揺れて、ぽろんと鳴った。
澄子は札を首にかけた。
階段の下に、ひときわ大きな水たまりがあった。月と、まわりの家々の屋根が、さかさまに映っている。よく見ると、屋根と屋根のあいだに銀色の細い道が通っていた。実際の屋根を見上げても、そんな道はない。水たまりの中にだけある道だった。
人間の方へ。一、屋根の道は、夜だけつながります。入口は、月の映った水たまりです。
澄子は、水たまりの中の月につま先を置いた。
冷たくなかった。靴も濡れなかった。足の裏で、何かがやわらかく裏返った。
気がつくと、澄子は銀色の道の上に立っていた。
屋根の道は、思っていたよりずっと広かった。人間が二人並んで歩けるくらいの幅があって、雨に濡れた瓦のように、ところどころ月を映して光っている。道の両側には町じゅうの屋根が、波のように重なってどこまでも続いていた。
足もとを見ても、怖くはなかった。道の下は水たまりの底のようにぼんやりと明るく、落ちるという考えがどこからも入りこんでこない。胸の上で、札がほんのり温かかった。
歩いても、足音がしなかった。いや、よく聞くとしていた。ごく小さく、とん、とん、と。猫の足音だった。四十五年分の体重がそのまま猫の重さになったみたいで、澄子はおかしくてしかたなかった。
屋根の道を、猫たちが行き交っていた。小さな灯りを口にくわえた猫。どこかで拾ったらしい王冠を背中にのせた猫。すれ違うたびに、猫たちは「こんばんは」と言った。澄子も「こんばんは」と返した。澄子を珍しがる猫はいなかった。札を首にかけていれば、ここではただの迷子らしい。
道しるべが立っていた。
月の広場 → こっち(たぶん)
「たぶん」と澄子は読み上げた。
「たぶんです」
煙突の陰から、ナツメが出てきた。耳の先に、また紙くずを付けている。
「案内の続きです」
「箱の中で寝てたでしょう」
「寝てました」ナツメは悪びれもせずに言った。それから、澄子の首の札に目をとめた。「迷子になりましたか」
「なりました。札が出ました」
「おめでとうございます」
ナツメは本当にそれだけ言って、道しるべの指すほうへ歩きだした。と思ったら、すぐに立ち止まって澄子を見上げた。
「寄り道しますか」
澄子は腕時計を見なかった。
「します」
最初の寄り道は、屋根の上の物干し台だった。物干しざおから、月の光が洗濯物のように何本も垂れ下がっている。触るとひんやりして、指先が白く光った。光はすぐに消えたけれど、指の匂いをかぐと、晴れた日のシーツの匂いがした。
二つ目は、ナツメがしたかった寄り道だった。屋根の端に小さなくぼみがあって、ナツメはそこにぴったり収まり、しばらく出てこなかった。澄子は隣に座って待った。いつ終わるか見当もつかないのに、さっきまでとは違って、待つのが少しも苦ではなかった。
くぼみから出てきたナツメと歩いていくと、道が二手に分かれていた。
右には大きな道しるべがあった。「月の広場 → こっち(だいたい)」。猫たちもほとんどが右へ行く。
左は、ナツメが行きたそうにしている道だった。ナツメの鼻が、左に向かってひくひく動いている。
そして澄子の目には、もう一本見えていた。分かれ道の真ん中に、瓦の継ぎ目に沿って、糸のように細い銀の筋がまっすぐ上へ伸びている。道というより、道になりかけているものだった。そこだけ月の映り方が違って、光がほかより少し青い。
「あれは?」
「あれは、道ではないです」とナツメが言った。
「でも、道になりかけてますよね」
「なりかけてます」
澄子は右の道しるべを見た。だいたい、こっち。行程表なら迷わず右を選ぶ。大勢が行く道は、たいていちゃんと着く。
それから、細い筋を見た。
どこに着くかはわからない。どこにも着かないかもしれない。それでも、あの青い光がどこから来ているのか知りたかった。さっき、ぽろんという音の正体を知りたかったのと同じくらいに。
「あっちに行ってみます」
ナツメは左の道と澄子の顔を見比べた。それから、ふうん、という顔をして、澄子の後ろについてきた。案内係が、案内されるほうに回ったのだ。
細い筋は、澄子が足をのせると少し広がった。もう一歩のせると、もう少し広がった。歩くたびに道になっていく。振り返ると、澄子とナツメの小さな足跡が、銀色に光って残っていた。
五 四番の方
細い道は最後に、屋根と屋根のすきまをくぐっていた。
くぐり抜けたところで、澄子は足を止めた。
月の広場は、丸かった。
町じゅうの屋根の道が、ここで一つに集まっていた。広場の床は浅い水たまりでできていて、その一枚一枚に月が映っている。何百という月が、足もとに敷きつめられていた。
本物の月は、広場の向こう側の縁に、低く大きく浮かんでいた。手を伸ばせば届きそう、というほど近くはない。それでも、空のいちばん高いところに貼りついているいつもの月とはまるで違った。屋根の一つに腰をおろして、こちらと同じ高さから町を眺めているみたいだった。
澄子たちが出たのは、広場の裏側だった。表の入口には猫たちが並び、順番に入ってきている。裏側からは、月と広場と入ってくる猫たちが、全部いっぺんに見渡せた。
「ここ、いちばんいい席ですね」と澄子は言った。
「知らなかったです」とナツメが言った。
広場では、猫たちが思い思いの場所に座っていた。月のほうを向いて香箱を組んでいる猫がいる。隣の猫と、拾ったものを取り替えっこしている猫もいる。ボタン、ビー玉、瓶の王冠、どこかの家の鍵。値段はついていない。見せて、見てもらって、気が向いたら取り替える。それだけだった。
澄子は広場の縁の、乾いた瓦に腰をおろした。
おなかが鳴った。
かばんの中には、バス停前のコンビニで買った鮭おにぎりが一つ入っている。明日の昼のつもりだったものだ。澄子は包みを開けた。海苔がぱりっと鳴った。
まわりの猫たちが、いっせいにこちらを向いた。
「これは、私のです」
と澄子は言った。
「知ってます」
隣にいた太った白猫がそう言って、また月のほうを向いた。ナツメもおにぎりを一度ちらりと見ただけで、すぐに前足をなめはじめた。
月を見ながら食べる鮭おにぎりは、少し冷えていて、塩が効きすぎていて、これまで食べたどのおにぎりよりもおいしかった。どの行程表にも書けない味だった。

「四番の方」
声がした。
「四番の方、いらっしゃいますか」
広場の表の入口から、大きな三毛猫がのそのそと歩いてきた。三番窓口の、あの三毛猫だった。首からスタンプを下げ、口には澄子の申請書をくわえている。申請書の真ん中が、子猫のお腹の形に少ししわになっていた。
三毛猫は大きなあくびをして、もう一度言った。
「四番の方」
澄子はポケットを探った。紙の番号札が、くしゃっと指に触れた。
「はい」
澄子は手を上げた。
三毛猫は澄子の前まで来て、申請書を瓦の上に置いた。前足でしわを二回のばしてから、ゆっくり読み上げた。
「お名前、間宮澄子。しっぽ、ない。行き先、月の広場。用件、見学」
三毛猫は顔を上げて、澄子を見た。それから広場を見回して、また澄子を見た。
「お待たせしました」
「もう、来てます」
「そうですね」
三毛猫は前足でスタンプを押さえ、申請書にぽんと押した。肉球の形をした朱色の印だった。その横に、小さな字が浮かび上がった。
許可 さかのぼって有効
「よかったですね」
そう言うと、三毛猫はその場で横になった。広場の水たまりの月の上で仰向けになり、たちまち寝息を立てはじめた。
澄子は申請書を手にしたまま、しばらく黙っていた。それから、こらえきれずに笑いだした。ナツメもなぜか、しっぽをぴんと立てた。
「出張所なので、出張中」
澄子がそう言うと、ナツメが続けた。
「窓口なので、昼寝中」
澄子は涙が出るほど笑った。
笑いがおさまってから、澄子は広場の縁から下を眺めた。
銀の道のずっと先に、人間の町の灯りが見えた。バス停の街灯、クリーニング店の看板、ゆるい坂の途中に建つ四階建てのマンション。その三階の、右から二番目の窓に灯りがついている。
環が、ぎょうざを焼いているはずだ。
腕時計を見た。二十時四十五分だった。
もっと見ていたかった。広場の表の入口のほうにはまだ行っていないし、取り替えっこの輪にも入っていない。ああいう細い道がほかにもあるのか、確かめてもいない。
それでも澄子は、今夜の話を、焼きたてのぎょうざが冷めないうちに環に聞かせたいと思った。それもまた、澄子が自分のために欲しいものだった。
人間の方へ。四、帰りたくなったら、札に行き先を書いてください。
澄子はボールペンを出して、迷子札の「(まだ)」の横に書き足した。
家。ぎょうざ。
書き終えると、札がほんのり温かくなった。広場の縁の水たまりの一つに、月ではなく、あの石畳の路地が映った。
「案内は、ここまでです」とナツメが言った。
「寄り道ばっかりでしたね」
「寄り道は、案内に含まれます」
ナツメは最初と同じことを言った。それから、ちょっとだけ首をかしげた。
「また、迷子になってください」
「なります」
澄子は、水たまりに映った路地につま先を置いた。
足もとが、やわらかく裏返った。
澄子は、あのバス停の横に立っていた。雨の名残りの石畳に、街灯の光。振り返ると、クリーニング店と文房具店のあいだに、もう路地はなかった。壁と壁がぴったりくっついているだけだった。
二十一時十分。澄子はバスに乗らず、歩いて帰った。足音は、もう人間の足音に戻っていた。
ぎょうざは、片面が少し焦げていた。
「ひっくり返すの、遅れた」と環は言った。高校二年生の娘は、フライパンを持ったまま母親の顔をじろじろ見た。「で、どこ行ってたの」
「猫の市役所」
「は?」
澄子は全部話した。番号札、昼寝中の窓口、出張中の出張所、紙袋、ぬくもりの自販機、ぽろんという音、迷子札、屋根の道、月の広場、さかのぼって有効。環ははじめ笑いながら聞いていたが、途中から笑うのも忘れて聞き入っていた。
「証拠は」
澄子はテーブルに、番号札と迷子札を並べた。番号札には「4」。迷子札には、焼きごての字と澄子の字。家。ぎょうざ。
環は迷子札を手に取って裏返し、また表に戻した。
「お母さんが行程表なしで遅くなったの、初めてじゃない?」
「そうかも」
「どうだった、月の広場」
澄子は焦げたぎょうざを一つ口に入れて、少し考えた。
「地図には、なんにも描いてなかった」
「うん」
「行ってみたら、描けなかった」
環は「なにそれ」と言ったが、うれしそうな顔をしていた。
次の朝、冷蔵庫に磁石でとめておいた迷子札は、なくなっていた。夜が明けると、木の札はどこにあっても、この入口へ戻ります。掲示板に書いてあったとおりだった。
番号札の「4」だけが残っていた。人間の押した機械から出た、人間の紙だったからかもしれない。
澄子は手帳を開いて、次の日曜日の欄に書いた。
雨上がり。予定なし。
それをのぞきこんだ環が言った。
「その猫の町、私も迷子になれる?」
澄子は手帳を閉じた。
「なれるよ。あなた、方向音痴だから」
環は怒ったふりをしてから、窓の外の空を見た。天気予報では、日曜日の午後に少し雨が降ることになっていた。


