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コメディ・日常

うちの猫には、推しがいる

私のことは半目。隣の人には「んるる」。

読了目安
23分
長さ
短編
#くすっと笑える#猫#ご近所
うちの猫には、推しがいるのイメージ

あらすじ

校正係の古賀頼子は、四歳の茶トラ猫あられと二人暮らし。ある朝、あられが隣の坂巻さんにだけ、聞いたことのない甘い声で鳴くのに気づく。通路の「点検」、キャットタワーの模様替え。大人げない作戦はどれも空回りして、とうとう隣人へ手紙を出してしまう。猫の好みも自分の嫉妬もそのまま抱えて続く、小さな暮らしのコメディ。

一 七時四十分の窓

七時三十八分になると、あられは食べかけのカリカリを残して立ち上がる。

古賀頼子はトーストをくわえたまま、その背中を目で追った。濃い橙と薄い橙の縞が、台所の床を横切っていく。尻尾はまだ下がっている。リビングの窓ぎわに置いた三段のキャットタワーを、一段目、二段目と迷わずのぼり、いちばん上の丸い台に座る。

窓の外は、コーポ柳町の共用通路だ。一〇一号室の頼子の部屋の前を通り、隣の一〇二号室の玄関まで続く、幅一メートルほどのコンクリートの道。

「まだ誰も来ないよ」

頼子が言っても、あられは振り向かない。

七時四十分。通路の端で、スニーカーの音がした。きゅ、きゅ、と、ゴム底が少しだけ鳴る歩き方。

あられの尻尾が、すっと立った。

まっすぐ立って、先だけがくるりと曲がる。前足をそろえたまま腰を浮かせ、窓ガラスに額を押しつける。目は細く、ひげは前へ。そして喉の奥から、頼子が三年八か月いっしょに暮らして一度も聞いたことのない高さの声が出た。

「んるる」

ガラスの向こうを、隣の坂巻さんが通っていく。紺色のリュックを背負った、二十代後半くらいの女性だ。八月に越してきて、まだ二か月とすこし。ゴミ置き場で会えば挨拶はするけれど、下の名前は知らない。

坂巻さんは窓の前で歩みをゆるめ、こちらへ小さく頭を下げた、ように見えた。頼子はトーストをくわえたまま固まっていたので、確かめられなかった。

足音が遠ざかる。あられはしばらくガラスに額をつけたまま、坂巻さんの消えた方角を見ていた。それからタワーを降りて、カリカリの残りへ戻ってきた。頼子の足もとを通るとき、尻尾は床すれすれまで下がっていた。

「ねえ」

頼子はトーストを皿へ置いた。

「今の声、なに」

あられはカリカリを噛んでいる。

三年と八か月前の二月、保護団体の譲渡会で、生後六か月の茶トラの雌を引き取った。帰りの電車を降りたら霰が降ってきて、キャリーの中の子猫が一度だけ鳴いた。それで名前が決まった。茶トラの女の子は少ないんですよ、と団体の人が言っていた。少ない子が、うちに来たのだ。

それから頼子は、あられのことはたいてい知っているつもりでいた。朝のカリカリは必ず少し残す。午後は北側の押し入れの前で寝る。掃除機が鳴ると洗面所へ避難する。頼子が仕事から帰ると、廊下のまんなかで一度だけ尻尾で床をとんと叩いて、目を半分閉じる。

それが、あられの最大級の歓迎だと思っていた。

「んるる、は聞いてないよ。私、聞いてない」

皿を洗いながらもう一度言うと、あられは前足をなめはじめた。

八時十五分、頼子が玄関で靴をはいても、あられは押し入れの前で丸くなったままだった。いつものことだ。いつものことなのに、今朝はそれが、なんだか引っかかった。

「行ってきます」

尻尾の先が、一回だけ動いた。

地域情報誌の編集部で、頼子は校正を担当している。来月号の「秋の商店街めぐり」の初校を前に、赤ペンのキャップを外したり、はめたりしていると、向かいの席の後輩が顔を上げた。

「古賀さん、それ九回目です」

「数えないで」

「数えちゃうんですよ。古賀さんがペンをいじってると、どこかにとんでもない誤植があるのかと思って」

「誤植じゃない」

頼子はペンを置いた。

「うちの猫が、隣の人に、私に出さない声を出した」

後輩は三秒ほど黙っていた。

「……それは、けっこう大きい誤植ですね」

「でしょう」

頼子は初校に目を落とした。〈老舗の和菓子屋〉の「舗」が「補」になっている。すぐに赤を入れた。誤植なら、直せばいい。直し方がわからないものは、困る。

昼休み、スマホの待ち受けを開く。プロボウラーの三輪早苗が、投げ終わった右腕をまっすぐ前へ伸ばしている写真だ。頼子は毎週木曜の夜、柳町ボウルの女子リーグに出ている。アベレージは百四十二、自己ベストは百九十一。今シーズンのうちに一度、二百を出したい。それが今の頼子の、自分だけの楽しみだった。

待ち受けの三輪プロを見ても、今日はあまり元気が出なかった。

「んるる」

小声でまねしてみて、後輩に聞かれていないか、あたりを見回した。

二 三つの仮説

翌朝、火曜日は燃えるゴミの日だった。

ゴミ置き場のネットを持ち上げていると、きゅ、きゅ、と足音がして、坂巻さんが袋を一つさげて来た。

「おはようございます」

「おはようございます」

並んで袋を置いたとき、ふっと柑橘の匂いがした。柚子だ。坂巻さんの手からだった。

「あの」

坂巻さんが言いかけて、腕時計を見た。

「あっ、すみません、バス……。あの、窓のところの、茶色い子、かわいいですね」

「……ありがとうございます」

坂巻さんは会釈して、小走りで通りへ出ていった。頼子はネットを持ち上げたまま、柚子の匂いが薄れていくのをかいでいた。

これだ、と思った。

仕事帰りにドラッグストアへ寄り、ハンドクリームの棚の前で十分迷った。柚子の香りは三種類あった。いちばん「柚子です」と主張しているチューブを選んだ。六百八十円。レジで、自分が何をしているのか一瞬わからなくなったが、払った。

水曜日は在宅勤務の日だ。頼子は朝、ハンドクリームのチューブを手に取り、窓を見た。

窓ガラスは、毎朝きちんと閉まっている。

「……匂い、関係ないんじゃない?」

あられはカリカリを噛んでいた。

頼子はチューブを開けずに、猫の届かない棚へしまった。六百八十円。自分が何をしているのかは、一晩たってもよくわからなかった。

仮説その一、柚子。試す前に、不採用。

七時三十五分、頼子はサンダルをつっかけて外へ出た。

仮説その二は、時間だ。七時四十分ごろ、ちょうど東からの光が通路に差しこんで、窓の前がいちばん明るくなる。明るいところを歩くものなら、誰でもいいのかもしれない。

アパートの端までいって、通りに出て、くるりと向き直る。七時三十九分。頼子は通路へ入り、自分の部屋の窓の前を、なるべく自然に歩いた。

キャットタワーのいちばん上に、あられがいた。

目が合った。

あられは、目を半分閉じた。尻尾は、台の上に平らに伸びたままだった。

「でしょうね」

頼子は窓の前で立ち止まった。その背中で、きゅ、きゅ、と音がした。

「あ、おはようございます……」

振り向くと、坂巻さんがリュックの肩ひもを握って立っていた。通路は狭い。頼子が窓の前にいると、坂巻さんは通れない。

「おはようございます。あの、これは」

頼子は口を開けて、閉じた。

「通路の、点検を」

「点検」

「ひびとか」

「ああ……」

坂巻さんはコンクリートを見下ろした。ひびはなかった。頼子は壁に背中をつけて、体を薄くした。坂巻さんが「すみません」と言いながら前を通る。

窓の向こうで、あられが立ち上がった。尻尾がまっすぐ立ち、先がくるりと曲がり、額がガラスにつく。

「んるる」

ガラス越しでも聞こえた。頼子の肩のすぐうしろで。

坂巻さんは窓に向かって、ちょこんと頭を下げた。今度は、はっきり見えた。それから小走りに通りへ出ていった。

仮説その二、光と時間。不採用。

細い共用通路で壁へ背中を寄せる女性の前を、紺のリュックの隣人がすり抜ける。閉じた窓の中で茶トラ猫が隣人を見ている。

その日の在宅勤務は、あまりはかどらなかった。

木曜日の朝、頼子は早起きして、キャットタワーを窓ぎわから本棚の横へ移した。高さ百二十センチ、重さもそれなりにあって、引きずると床が鳴った。あられは洗面所へ逃げた。

「模様替えだからね」

洗面所に向かって言った。

「季節の変わり目だから。ほら、秋だし」

仮説というより、これは作戦だった。見えなければ、んるるも出ない。出ないものは、なかったのと同じだ。校正者としてはまったく同意できない理屈だったが、朝の頼子は同意した。

七時三十八分。あられはカリカリから顔を上げ、リビングへ歩いていって、タワーがあった場所の床に座った。

窓の下だ。窓は腰の高さにあって、床からでは空しか見えない。あられは座ったまま、窓を見上げていた。

本棚の横のタワーには、見向きもしなかった。

七時四十分。きゅ、きゅ。

あられが鳴いた。

「なーう」

低くて長い声だった。これも、頼子の知らない声だった。抗議の声だということだけは、わかった。

足音が遠ざかっても、あられは窓の下から動かなかった。八時十五分に頼子が出かけるときも、まだそこにいた。

「行ってきます」

尻尾は一度も動かなかった。

その夜の柳町ボウルで、頼子は一ゲーム目に百二十一、二ゲーム目に百八を出した。

「どうしたの。手首?」

チームメイトの浜田志保が、ドリンクホルダーにレモンサワーの缶を置いた。同い年で、このリーグでいっしょに投げて二年になる。

「猫」

「猫が手首?」

「猫が、隣の人に夢中なの」

頼子は説明した。七時四十分、んるる、柚子、点検、なーう。志保はレモンサワーを一口飲むごとに笑い、最後には咳きこんだ。

「推しじゃん」

「は?」

「猫に推しができたんでしょ。毎朝同じ時間に窓で待って、通ったら声出して、見えなくなったら抗議。推しだよそれ」

「推しなんて、そんな軽いものじゃないから」

「推しは軽くないよ。あんたの待ち受けだって三輪プロでしょ」

「それとこれとは」

頼子は言いかけて、レーンへ立った。三ゲーム目の一投目は、ヘッドピンの左をかすめて七本だった。

その夜、帰ってすぐ、頼子はキャットタワーを窓ぎわへ戻した。床がまた鳴った。あられは押し入れの前から、それを見ていた。

「戻したからね」

あられは何も言わなかった。

三 通路の通行についてのお願い

金曜日の夜、頼子はテーブルに便箋を広げた。

最初はこう書いた。

〈朝の通行の際、窓の前を通らないでいただけますか〉

読み返して、二重線を引いた。そんな頼み方があるか。通路は共用だ。

〈恐れ入りますが、朝の時間帯は駐輪場側からお回りいただけますと幸いです〉

駐輪場側の道は、アパートの裏を回って、砂利の上を四十メートルほど余分に歩く。街灯が一本切れている。頼子は「朝の時間帯は」を丸で囲んだ。朝なら暗くない。それならいいのではないか。

〈理由〉と書きかけて、ペンが止まった。

理由。うちの猫が、あなたに、私の知らない声を出すので。

頼子はしばらく便箋をにらんでから、〈飼い猫が興奮してしまうため〉と書いた。興奮、は少し違う。でも、んるる、と書くわけにもいかない。

三枚目でようやく清書した。誤字はなかった。頼子は二回読み、封筒には入れずに四つ折りにして、二十三時十分、一〇二号室の郵便受けに入れた。

ことん、という音がした。

布団に入ってから、頼子は天井を見ていた。

〈幸いです〉

幸いじゃない、と思った。四十メートル。砂利。切れた街灯。毎朝。自分が坂巻さんで、隣の四十四歳からこれを受け取ったら、どう思うだろう。

一時を過ぎて、頼子は起きあがり、玄関を出て、一〇二号室の郵便受けの前に立った。ダイヤル錠がついていた。投入口から指を入れてみたが、紙には届かなかった。

部屋に戻ると、あられがキャットタワーのいちばん上で丸くなっていた。真夜中の窓の外は、誰も通らない。

「わかってるよ」

頼子は言った。

「大人げないのは、わかってる」

土曜日の朝、七時二十五分にインターホンが鳴った。

ドアを開けると、坂巻さんが立っていた。リュックを背負い、片手に四つ折りの便箋を持っている。歯科医院の受付の制服の上に、紺のカーディガンをはおっていた。

「すみません、朝から。あの、これ」

坂巻さんは便箋を両手で持ち直した。

「私、何かしてましたか」

声が小さかった。怒られるのを覚悟した顔というものを、頼子は久しぶりに正面から見た。

「いえ、あの」

「窓の前で、立ち止まったりとか、してたかなって。気をつけてたつもりなんですけど。猫を飼ったことがないので、どうしたらいいのかわからなくて」

「……どうしたら、というのは」

「目が合うんです。毎朝」

坂巻さんは、少しうつむいた。

「最初の週に目が合って、無視するのも悪いかなと思って、お辞儀したんです。そしたら次の日も窓にいて。だから毎朝、行ってきますって言ってから行くようにしてて。小さい声で。おこげさんに」

「おこげさん」

「あっ」

坂巻さんの顔が赤くなった。

「すみません、名前を知らなかったので、勝手に……色が、ごはんのおこげの、いちばんおいしいところみたいだなと思って。ほんとにすみません」

頼子は玄関で、ドアノブを握ったまま立っていた。

毎朝、行ってきますを言われていたのだ。あられは。自分の知らない名前で。そして毎朝、んるる、と返していた。頼子が八時十五分に言う行ってきますには、尻尾の先を一回動かすだけなのに。

悔しさが喉もとまで上がってきた。それと同じくらいの速さで、四つ折りの便箋が恥ずかしくなった。

「あの、それは」

頼子は便箋を指さした。

「回収させてください」

「えっ」

「私の、校正ミスです」

「校正……」

「仕事が校正なんです。誤植を直す仕事。それは、出してはいけない原稿でした。坂巻さんは何も悪くないです。窓の前を、いつもどおり通ってください。お辞儀も、行ってきますも、してもらって……かまいません」

最後の「かまいません」で、声が少しだけ裏返った。

坂巻さんは便箋を差し出しかけて、手を止めた。

「でも、裏から行けって言われたら、行けますよ。四十メートルくらいですよね」

「行かないで」

言ってから、頼子は咳払いをした。

「いえ、行かなくていいです。あの子、裏に回られたら、たぶん窓の下で抗議するので」

「抗議」

「なーう、って」

坂巻さんが、ふふ、と笑った。頼子も、つられて少し笑った。便箋が頼子の手に戻ってきた。

「あの子、あられっていいます」

「あられさん」

坂巻さんは口の中で繰り返した。

「あられさん。……あ、霰の」

「うちに来た日に降ったので」

「かわいい。おこげより、ずっと」

坂巻さんは腕時計を見て、「あっ、もう」と言った。七時三十八分だった。

「行ってきます。すみませんでした、ほんとに」

「こちらこそ」

ドアを閉めて、頼子はそっとリビングへ戻り、キッチンの陰から窓を見た。

キャットタワーのいちばん上で、あられが立ち上がっていた。

通路を、坂巻さんが歩いてくる。窓の前で足をゆるめて、ちょこんと頭を下げる。

「行ってきます、おこ……あられさん」

「んるる」

名前は、関係なかった。

頼子はキッチンの陰で、便箋を小さく、小さく折りたたんだ。

その日の昼、頼子は窓の外から、ためしに頭を下げてみた。仮説その三、お辞儀。あられはあくびをした。夕方には、部屋の中から「おこげ」と呼んでみた。仮説その四、名前。あられは耳を片方だけこちらへ向けて、もう片方は窓へ向けたままだった。

どちらも、不採用だった。

四 近すぎる推し

日曜日の午後三時、坂巻さんが頼子の部屋に来ることになった。

言い出したのは頼子だった。土曜日の夜、ゴミ置き場の前でもう一度顔を合わせたとき、「お詫びに、お茶でも。あられにも近くで会ってみますか」と口が先に動いた。坂巻さんは「いいんですか」と目を丸くした。

お詫びの気持ちは本当だった。ただ、それだけではなかった。

窓越しだから、いいのかもしれない。

近くで会えば、坂巻さんはただの人になる。靴下の匂いもするし、くしゃみもする。窓の向こうのきらきらした誰かが、部屋の中ではごく普通の二十代の受付さんだとわかれば、あられの、んるるの回数も減るかもしれない。

自分がそんなことを考えているのを、頼子は日曜の午前中、掃除機をかけながら何度も打ち消した。打ち消すたびに、また考えた。あられは掃除機の音で洗面所にこもっていた。

駅前のケーキ屋でモンブランを二つ買った。坂巻さんがモンブランを好きかどうかは知らなかった。自分が好きなものを買った。

三時ちょうどにインターホンが鳴った。

その瞬間、あられはリビングを横切り、寝室のベッドの下に消えた。

「お邪魔します……」

坂巻さんは紙袋を差し出した。百円ショップの袋だった。中には羽のついた猫じゃらしが一本入っていた。

「何がいいのか、わからなくて。食べ物は、怖くて」

「ありがとうございます。あ、今ちょっと、ベッドの下で」

「ベッドの下」

「インターホンが鳴ると、だいたい」

坂巻さんは寝室の方を見て、それから、なぜか少しほっとした顔をした。

二人でモンブランを食べた。坂巻さんはモンブランが好きだった。頼子は少しうれしかった。坂巻さんは駅の向こうの歯科医院で受付をしていて、出身は山形で、この町にはまだ友だちがいないと言った。頼子は校正の仕事のことと、木曜のボウリングのことを話した。

「ボウリング、リーグってあるんですね」

「あるんです。木曜の夜。アベレージ百四十二」

「それって、すごいんですか」

「普通。普通の上のほう、と思いたい」

二十分たったころ、寝室の戸口から、茶色い顔がのぞいた。

坂巻さんが息を止めたのがわかった。頼子も止めた。

あられは、ゆっくり出てきた。低い姿勢で、ひげを前に出して、坂巻さんの足もとまで歩いていく。紺の靴下に鼻を寄せる。一回。二回。

それから顔を上げ、坂巻さんの顔を見た。

坂巻さんは、窓の外でするように、ちょこんと頭を下げた。

あられは、くるりと向きを変えた。尻尾は下がったまま。そのまま部屋の隅の、先週届いた通販の空き箱へ入って、縁にあごをのせて目を閉じた。

「……」

「……」

坂巻さんが、猫じゃらしを箱の前でそっと揺らした。羽がふわふわ動いた。あられは片目だけ開けて羽を見て、また閉じた。

段ボール箱で眠る茶トラ猫に羽のおもちゃを揺らす若い女性と、複雑な顔で見守る飼い主。人用のテーブルにはモンブランが二つある。

「あの、いつもこうですか」

「お客さんが来ると、だいたい」

そう答えながら、頼子は自分の胸の中に、小さな、恥ずかしい喜びが湧いているのを感じた。ほら、やっぱり。近くで見れば、ただの人なのだ。

湧いたのと同時に、坂巻さんの顔が目に入った。猫じゃらしを持ったまま、がっかりしたような、それでいてどこか安心したような顔をしていた。

「よかった」

坂巻さんが言った。

「よかった?」

「嫌われてなくて。いや、好かれてもないですけど。窓のときと全然ちがうから、私、窓の向こうでだけ何か勘違いしてたのかなって、今ちょっと思って。でも、普通に無視されたので、普通に安心しました」

頼子は何と言えばいいかわからなかった。小さな喜びが、急に居心地悪くなった。

「……あの子、私が帰ってきても、廊下で尻尾を一回床に打つだけなんです」

「一回」

「一回。それで目を半分閉じる。それが最大級」

「えっ、いいなあ」

坂巻さんは本気の声で言った。

「家の中で、一回。いいなあ」

頼子は箱の中のあられを見た。あられは眠っていた。少なくとも、眠っているふりをしていた。

四時半、坂巻さんは帰ることになった。玄関で靴をはき、「モンブラン、ごちそうさまでした」と頭を下げ、ドアを開けて通路へ出た。

一〇二号室の玄関まで、三メートル。

頼子がドアを閉めようとしたとき、リビングで、とん、という音がした。箱から跳び出た音だった。続けて、キャットタワーをのぼる、とん、とん、という音。

頼子は振り向いた。

あられが、タワーのいちばん上で立ち上がっていた。尻尾はまっすぐ、先がくるりと曲がり、額は窓ガラスに押しつけられている。目は細く、ひげは前へ。

窓の外を、坂巻さんが歩いていた。三メートルの、帰り道。

「んるる」

坂巻さんが、窓の向こうで足を止めた。ガラスの中のあられを見て、目をまんまるにした。それから、ものすごくうれしそうな顔になって、両手を胸の前で小さく振った。

あられはガラスに額をつけたまま、坂巻さんが一〇二号室のドアの中へ消えるまで見ていた。

ドアが閉まった。あられはタワーを降り、空き箱へ戻り、縁にあごをのせた。

頼子は玄関で、長いあいだ立っていた。

「……近いのは、だめなんだ」

声に出すと、笑いがこみあげてきた。一人で、玄関で、靴箱に手をついて笑った。

窓の向こうの人。三メートル先の人。毎朝同じ時間に、ガラスの向こうを通っていく人。部屋に入ってきてモンブランを食べる人とは、たぶん、別の人なのだ。少なくとも、あられにとっては。理由はやっぱり、わからなかったけれど。

頼子は、二年前の春のことを思い出した。柳町ボウルに三輪プロがエキシビションで来て、投げ終わったあと、握手の列に並んだ。順番が来て、手を握られて、何か言おうとして、何も言えなかった。家に帰ってから、その日の動画を三回見た。動画の三輪プロのほうが、よく見えた。握手した手より、画面の向こうでまっすぐ伸びている右腕のほうが、ずっと。

三輪プロとモンブランを食べたいと思ったことは、一度もない。

「推し、か」

空き箱の中で、あられの耳が片方だけ動いた。

「わかった。わかったよ」

頼子は言った。

「わかったけど、悔しいのは悔しいからね」

あられは何も言わなかった。

五 木曜日のレーン

次の木曜日の朝、頼子は窓のカーテンを、いつもより大きく開けた。

七時三十八分、あられがカリカリを残して立ち上がる。尻尾はまだ下がっている。タワーをのぼり、いちばん上に座る。

頼子はトーストをくわえて、キッチンの陰からそれを見ていた。陰から見る必要はないのだが、なんとなく、そこが自分の席のような気がした。

七時四十分。きゅ、きゅ。

尻尾が立つ。先がくるりと曲がる。額がガラスにつく。

「行ってきます、あられさん」

「んるる」

坂巻さんの声とあられの声が、ガラス越しに重なった。頼子はトーストを置いて、窓に向かって小さく言った。

「行ってらっしゃい」

誰に言ったのか、自分でもよくわからなかった。

足音が遠ざかる。あられがタワーを降り、尻尾を床すれすれに下げてカリカリへ戻ってくる。頼子の足もとを通るとき、ほんの少しだけ、ふくらはぎに体がこすれた。たぶん、通り道が狭かっただけだ。頼子はそれ以上の意味を考えないことにした。

八時十五分、靴をはく。

「行ってきます」

押し入れの前で、尻尾の先が一回動いた。

「はい、どうも」

頼子は柚子のハンドクリームを鞄に入れて家を出た。結局、あれは自分で使っている。あられには不採用だったが、頼子には採用だった。

夜七時半、柳町ボウルの十四番レーン。

「今日は顔が違うね」

志保がレモンサワーの缶を開けた。

「猫と仲直りしたの?」

「喧嘩してない。最初から」

「隣の人は?」

「毎朝、うちの猫に行ってきますって言ってる」

「で、あんたは?」

「キッチンから見てる」

志保は笑って、缶を置いた。

「それ、推しの推し活を見守ってる人じゃん」

「そういう名前のついたものになりたくない」

頼子はボールを拭いた。十二ポンドの、ワインレッドのボール。三輪プロのモデルではない。三輪プロが使っているのは十五ポンドで、頼子には重すぎた。

一ゲーム目、百四十八。二ゲーム目、百五十五。悪くない。

三ゲーム目、頼子は余計なことを考えなかった。考えないようにしたのではなく、考えることが少なかった。助走の四歩。右腕を振りおろして、離して、そのまま前へ伸ばす。待ち受けの三輪プロの形を、頭の中の少し遠いところに置いておく。真似しようとせず、ただ見ている。

七フレーム目、ストライク。

八フレーム目、ストライク。

「おっ」と志保が言った。

九フレーム目、一投目で九本。右端のピンが一本残り、二投目でそれを倒してスペア。

十フレーム目、一投目、ストライク。二投目、ストライク。

頭上のモニターの数字が、ぱらぱらと増えていく。

三投目。ヘッドピンの右を、ボールが走った。ピンがはじけて、左端の一本だけがぐらりと揺れ、立ったままだった。

百八十九。

二百には届かなかった。自己ベストの百九十一にも、二点届かなかった。それでも今シーズンの最高で、モニターの数字を見たとき、頼子は思わず両手を握り、肩をすくめて、目を細めた。

「ちょっと」

志保がこちらを指さしていた。

「今の顔、なに」

「なにって」

「見たことないよ、その顔。二年いっしょに投げてて、初めて見た」

頼子は自分の頬に手をやった。頬はまだ上がったままだった。目も、細いままだった。

ああ、と思った。

たぶん自分にも、んるる、があるのだ。誰にでも出すわけではない声が。それが出る相手は、いつも一緒にいる誰かではなくて、少し遠くで、自分の好きな形でまっすぐ腕を伸ばしている何かなのかもしれない。

「秘密」

頼子は言った。

「なにそれ」

「猫と同じ」

志保はわけがわからないという顔をして、それから笑って、レモンサワーの缶を頼子の缶にこつんとぶつけた。

九時二十分、頼子はコーポ柳町に帰ってきた。

通路を歩いて、自分の部屋の窓の前を通る。カーテンの隙間から、キャットタワーのいちばん上が見えた。あられがいた。

一瞬、頼子は足を止めかけた。

あられは窓の外の頼子を見た。目を半分閉じた。尻尾は台の上に、平らに伸びたままだった。

「でしょうね」

頼子は小さく言って、鍵を開けた。

廊下の電気をつける。少しして、とん、とタワーを降りる音がした。あられが廊下のまんなかまで歩いてきて、座った。

とん。

尻尾が、一回、床を打った。

目が半分、閉じた。

「ただいま」

頼子がしゃがんで手を出すと、あられは額を、指の背に一度だけ押しつけた。ガラスに押しつけるときより、ずっと短く。それからすぐに立ち上がって、カリカリの皿の方へ歩いていった。尻尾は床と平行だった。上がってもいないし、下がってもいない。

「それね」

頼子は鞄を置いた。

「それでいいよ。……いや、よくはないけど」

明日の朝も、七時三十八分にあられは立ち上がるだろう。七時四十分に、きゅ、きゅ、と足音がして、行ってきます、あられさん、と声がして、んるる、と返事がする。頼子はキッチンの陰からそれを見て、少しだけ悔しくなって、トーストをかじる。

それから八時十五分に靴をはいて、行ってきます、と言う。押し入れの前で、尻尾の先が一回動く。

頼子はそれを、毎朝、数えている。一回ずつ。