一 十一時の揚げたて
土曜日の十時五十分、秋津佐和子はひばり通り商店街のアーチの下で、四つ折りの紙を広げた。
A4のコピー用紙に、水性のボールペンで今日の予定が書いてある。十一時集合。たい焼き。お茶屋で試飲。昼は軽く、おにぎり一個。古本屋。神社で休憩。そして、いちばん下に、二重丸で囲んだ一行。
十六時半、たけむら、コロッケ。
佐和子は四十四歳で、駅向こうの編集プロダクションで校正をしている。他人の原稿の「てにをは」を直し、数字の食い違いを拾い、ページの最後まで誤植が潜んでいないかを確かめる仕事だ。最後まで確かめるのは得意だった。最後にいちばんいいものを置くのも、好きだった。
「おはようございます。もう、いい匂いしますね」
振り向くと、戸張菜央が大きなトートバッグを肩にかけて立っていた。三十四歳、同じ会社でDTPを担当している後輩で、背が高く、歩くのが速く、昼休みにはいつも佐和子より先に弁当箱の蓋を閉めている。
「おはよう。早いね」
「十分前行動です。というか、駅からここまで、匂いにつられて早足になりました」
菜央は鼻をひくひくさせた。醤油の焦げる匂い、甘い餡の匂い、どこかで焙じている茶葉の匂い。その奥に、ほんの少し、油の匂いが混ざっている。
先週の昼休み、佐和子が「土曜にひばり通りへ行く」と話したとき、菜央は箸を止めて「私も行っていいですか」と言った。春にこの沿線へ引っ越してきたのに、まだ一度も商店街を歩いていないのだという。
「予定、あるんですよね。秋津さん、そういうの絶対作る人だから」
「作った」
佐和子が紙を見せると、菜央は上から順に指でなぞり、最後の二重丸で指を止めた。
「コロッケが最後なんですか」
「最後。いちばん好きなものは、最後」
「なんで最後なんですか」
「最後にいちばんを置くと、それまでが全部、前置きになるでしょう。前置きって楽しいのよ。本文がいいって分かってるから」
菜央は少し考えてから、「校正の人っぽい」と言った。
五年前まで、佐和子の会社はこの商店街の中ほど、文房具店の二階にあった。毎週金曜日、仕事を終えて駅へ向かう途中、佐和子は精肉店「たけむら」でコロッケを一個買い、紙に包まれたそれを食べながら坂を下った。三年間、ほとんど欠かさなかった。事務所が駅向こうのビルへ移ってから、商店街を通る理由はなくなった。
行こうと思えば、いつでも行けた。けれど、わざわざ行くなら、ちゃんとした日にしたかった。ちゃんとした日を待っているうちに、五年が経った。
「じゃあ、行きましょう。まず、たい焼き」
「その前に、たけむらの前を通るけど」
「えっ」
「通るだけ。買わない」
アーチをくぐって三軒目に、その店はあった。赤い庇、ガラスのショーケース、白い三角巾の女性。ショーケースの上には揚げ物を並べるバットが置かれ、その脇に手書きの札が貼ってある。
揚げたて 十一時・十四時・十六時半ごろ
ちょうど十一時だった。奥のフライヤーから、きつね色の楕円がいくつも網ですくい上げられ、バットに並べられていく。油のはぜる細かな音と一緒に、湯気が庇の下へふわりと広がった。
佐和子は息を止めた。
「秋津さん、顔、すごいことになってます」
「通るだけだから」
「あ、見てください、あれ」
菜央が指さしたのは、レジの横の、もう一枚の札だった。マジックの丸い字で、こう書いてある。
コロッケは最後に買ってね 袋の中で泣いちゃうから
菜央は声を出して笑った。「秋津さんのこと書いてある」
「違う。あれは、湿気るって意味」
「分かってますけど。一個ください、ふつうのやつ」
佐和子が止める間もなく、菜央はショーケースの前に立っていた。三角巾の女性が「ここで食べる?」と聞き、菜央がうなずくと、コロッケは袋ではなく、半分に折った白い紙に挟まれて出てきた。
店の脇には、木の長椅子が一つ置いてある。菜央はそこに腰かけ、紙の端をめくった。
「一口いります?」
「いりません。最後なので」
「最後にもう一個食べればいいのに」
「それは最後じゃなくて、二回目」
菜央は肩をすくめ、かじった。さくっ、と、思ったよりも大きな音がした。それから「あつっ」と言って口を半開きにし、白い息のような湯気を吐いた。断面から、粗くつぶしたじゃがいもと、細かい挽き肉と、透き通った玉ねぎがのぞいた。衣のかけらが一つ、菜央の膝に落ちた。

佐和子はそれを、横目で見ていた。見ていないふりをして、全部見ていた。
「おいしい?」
「おいしいです」
「どういうふうに」
「えっ、えーと。甘いです。玉ねぎかな。ソースなしでいけます」
ソース。そういえば、自分はソースをかけていただろうか。佐和子は一瞬考えたが、すぐに打ち消した。どうせ十六時半に分かる。
「先にいちばん好きなのを食べちゃうんだね、戸張さんは」
「いちばんお腹がすいてるときに、いちばん好きなのを食べたいんです。あとのことは、あとの私が考えます」
菜央は最後の一口を口に放り込み、紙を小さく畳んで、店先のくず入れに入れた。
二 一口だけ、の計算
たい焼きの「小波」は、アーチから七軒目にある。焼き型が並ぶガラス越しに、店主が鉄の型を返すたび、かしゃん、と軽い音がした。
佐和子は小倉を一つ。菜央は小倉とカスタードを一つずつ。
佐和子は頭からかじり、菜央はしっぽからかじった。
「しっぽから食べる人、初めて見た」
「しっぽって、カリカリでしょう。いちばん好きなとこなので」
「ああ、そういう」
「秋津さんは、頭から食べて、しっぽを最後にするんですね」
「しっぽは、あんこが少ないから。最後はちょっと物足りないくらいがいいの」
「最後がいちばんじゃないんですか」
「たい焼きは別」
自分で言って、自分で少し首をかしげた。菜央はそれ以上追わず、カスタードのほうに取りかかった。
たい焼きは一つで十分だった。皮が薄く、餡がしっぽの手前までぎっしり詰まっている。佐和子は、ちょうどいい、と思った。予定どおりだ。
次は、お茶屋の「香月園」。店先に焙煎機が出してあって、ドラムの中で茶葉がからからと回っている。商店街の匂いの、香ばしい部分はここから来ていた。
「よかったら、どうぞ」
店の女性が、小さな紙コップに焙じ茶を注いでくれた。佐和子は両手で受け取り、湯気を顎に当てた。十月の終わりの、曇った朝だった。指先がじんわり温まる。
「これ、おいしいですね。たい焼きのあとにちょうどいい」
菜央は一口で飲み干し、「百グラムください」と言った。袋に入った茶葉がトートバッグに収まる。佐和子は財布を出しかけて、やめた。家にはまだ、去年買った茶葉が残っている。
十二時を少し過ぎたころ、菜央が足を止めた。
「秋津さん、餃子」
中華料理店「福来」の前に、黒板が出ている。ランチ、焼き餃子六個、ライス付き。換気扇から、にんにくと胡麻油の匂いが、遠慮なく道へ流れ出ていた。
「私はこのあと、おにぎり」
「予定ですもんね。じゃあ、ちょっと座っててもらっていいですか。一人で中華に入るの、まだ緊張するんです」
カウンターの端に並んで座った。菜央は餃子のランチを頼み、佐和子は烏龍茶を頼んだ。厨房で鉄鍋が鳴り、ほどなく、羽根のついた餃子が六つ、皿に並んで出てきた。
「一個、どうぞ」
「いい」
「焼きたてですよ」
「……一個だけ」
佐和子は、頭の中で帳簿をつけ始めた。たい焼き一つ。お茶一杯。餃子一個。まだ大丈夫。コロッケまで、四時間以上ある。
餃子は、皮の底がぱりっとして、中から熱い汁が出た。佐和子は思わず目を閉じた。
「もう一個」
菜央が、皿をこちらへずらした。
「一個って言った」
「秋津さんの顔が、もう一個って言ってます」
佐和子は二個目を食べた。帳簿に一行足した。餃子、二個。
菜央は残りの四つとライスを、とても機嫌よく平らげた。最後の一個に酢醤油をたっぷりつけてから、「これ、二番目に好きなやつだったかも」と言った。
「二番目?」
「いちばん好きなのは、最初の一個です。羽根がいちばん大きかったから」
おにぎりの「むすび屋」は、福来の三軒先にあった。
ガラスケースに、海苔を巻いたおにぎりが行儀よく並んでいる。佐和子はケースの前に立ち、梅を指さした。
「梅を一つ、ください」
それから、商店街の真ん中に置かれたベンチに座り、ラップを外した。海苔がしっとりしている。一口かじると、米がほろりとほどけ、真ん中から梅の酸っぱさが来た。
おいしかった。でも、最初の一口ほど、二口目はおいしくなかった。三口目を口に入れたとき、自分がそれほど空腹ではないことに、佐和子ははっきり気づいた。
隣で鮭のおにぎりを買った菜央は、それをトートバッグにしまい、佐和子の手元をのぞき込んだ。
「それ、食べたいんですか」
「予定なので」
言ってから、佐和子は自分の声を、校正するみたいに聞き直した。予定なので。原稿に書いてあったら、たぶん鉛筆で小さく「?」をつける言葉だ。
それでも、最後まで食べた。梅干しの種を、ラップの上にそっと置いた。
「戸張さん、それは食べないの」
「これは、おやつです」
「おにぎりが?」
「あとの私のために取っておくんです。秋津さんの真似」
菜央はトートバッグを軽く叩いた。焙じ茶の袋が、かさりと鳴った。
三 にじんだ十六時半
古本屋の「ひばり書房」は、アーチから数えて二十軒目、商店街の奥のほうにある。一時過ぎに入って、均一棚から奥の棚まで見て回るうちに、窓の外の空がだんだん暗くなってきた。
佐和子は文庫の背を指でたどり、何冊か抜いては戻した。菜央は奥の棚で、手のひらほどの『きのこ図鑑』を見つけ、うれしそうに買った。
店を出たのは、二時四十分ごろだった。
ぽつ、と、佐和子の手の甲に水が落ちた。次の瞬間には、アスファルトに黒い点が一面に散って、ざあっと音が変わった。
「走ります?」
「あそこ」
二人は向かいの焼き鳥屋「とり政」の庇の下へ駆け込んだ。持ち帰り用の小窓があって、その奥で串が炭の上に並んでいる。煙が雨に押し戻され、庇の下にこもった。たれの甘い匂いが、濡れた服にまで染みてきそうだった。
佐和子はコートのポケットから予定の紙を取り出した。走ったときに、ポケットの口から雨が入っていたらしい。四つ折りの角が湿っている。広げると、水性のインクが、いちばん下の行だけ、ぼんやりにじんでいた。
十六時半、たけむら、コロッケ。
二重丸が、雨の染みと混ざって、輪郭のない灰色の輪になっていた。
「あー」と菜央が言った。
「大丈夫。覚えてるから」
「つくね、二本ください」
菜央は小窓に向かって言い、佐和子のほうを振り向いた。
「雨宿り代です。店の前、借りてるので」
それはそうだ、と佐和子は思った。庇を借りて何も買わないのは、少し気が引ける。
焼き上がったつくねは、照りのあるたれをまとい、軟骨がところどころ混ざっていた。菜央が一本を差し出す。佐和子は受け取り、一つ目の玉をかじった。こりっ、と歯に当たり、たれの甘辛さが口に広がった。

おいしい。おいしいのだけれど、帳簿の欄がもういっぱいだった。
菜央はつくねを食べ終えると、トートバッグから鮭のおにぎりを出し、雨を眺めながら食べ始めた。
「おやつ、もう?」
「あとの私が、今だって言ってます」
佐和子は笑った。笑うと、おなかが少し苦しかった。
雨は二十分ほどで上がった。三時を回ったころ、庇の端から落ちる雫がまばらになり、商店街に人が戻ってきた。
佐和子はつくねの串を店の串入れに返し、深く息を吸った。それから、もう一度、吸った。
「戸張さん。私、おなかがいっぱい」
「ですよね」
「ですよね、って」
「たい焼き、餃子二個、おにぎり、つくね。わりと食べてます」
菜央に数え上げられると、余計に重く感じた。
「神社まで歩く。予定にもあるし」
「休憩の予定ですよね、あれ」
「歩いて休憩する」
商店街を抜けた先に、小さな神社がある。鳥居をくぐり、玉砂利を踏んで、佐和子は拝殿のまわりを歩き始めた。一周、二周。雨のあとの境内は土の匂いがして、銀杏の葉がまだ緑と黄色のあいだで迷っていた。
菜央は石のベンチにハンカチを敷いて座り、買ったばかりの『きのこ図鑑』を開いた。
「秋津さん、ヌメリスギタケモドキ」
「なに」
「きのこの名前です。モドキって、ひどくないですか」
三周目の途中で、佐和子はたけむらのコロッケを思い浮かべようとした。
金曜日。紙の包み。坂の途中の街灯。そこまでは、はっきり見える。けれど、肝心の味が、ぼやけていた。甘かったのか、しょっぱかったのか。ソースをかけていたのか、いなかったのか。そもそも、ふつうのコロッケだったのか、牛肉コロッケだったのか。たけむらには、ほかにもかぼちゃや、カニクリームや、メンチカツがあったはずだ。
五年間、大切にしまっておいたはずのものが、取り出してみたら、雨に濡れた二重丸みたいに輪郭をなくしていた。
佐和子は四周目に入らず、菜央の隣に座った。
「戸張さん。私、何が食べたいのか、分からなくなった」
「コロッケじゃないんですか」
「コロッケなんだけど。どのコロッケか、分からない」
菜央は図鑑を閉じた。
「そもそも、何が好きだったんですか」
佐和子は口を開き、閉じ、もう一度開いた。
「……金曜日」
言葉にしてみると、それがいちばん正確だった。一週間の仕事を終えて、ゲラを全部返して、肩が軽くなって、坂を下りながら熱いものをかじる。あの時間が好きだった。コロッケは、その真ん中にあった。
菜央はしばらく黙っていた。それから、真面目な顔で言った。
「今日、土曜日ですね」
「知ってる」
「金曜日は、たけむらでも売ってないと思います」
佐和子は噴き出した。噴き出したら、また少しおなかが苦しかった。
境内の時計は、十六時十分を指していた。
四 コロッケは、最後に買う
十六時二十五分、たけむらの前には、すでに三人並んでいた。
部活帰りらしいジャージの男子高校生、エコバッグを提げた年配の女性、作業着の男性。佐和子と菜央は、その後ろについた。
揚げたての札の「十六時半ごろ」の「ごろ」に、三角巾の女性が指を添えて、「ごめんなさいね、油があと十分くらい」と言った。誰も文句を言わなかった。高校生はスマートフォンを見て、年配の女性はショーケースのメンチカツを眺めていた。
佐和子は、ショーケースの上に掲げられた品書きを見上げた。
ふつうのコロッケ。牛肉コロッケ。かぼちゃコロッケ。カニクリームコロッケ。メンチカツ。
五つの文字列を、端から端まで読んだ。校正のときのように、一字ずつ。誤植はなかった。けれど、どれにも赤い丸はついていなかった。
おなかは、まだいっぱいだった。
ここで、どれか一つを買う。買ったら、食べる。食べたら、今日が終わる。五年分の「いつか」が、たった一個の揚げ物で終わってしまう。それがもし、思っていたほどではなかったら。
フライヤーの奥で、かすかに油の音が立ちはじめた。
「お待たせしました。揚がりますよ」
列が少しずつ動く。高校生が牛肉コロッケを二つ買い、年配の女性がメンチカツを四つ包んでもらい、作業着の男性がふつうのコロッケを一つ買って、その場でかじりながら去っていった。
佐和子の番が来た。
「何にしましょう」
佐和子は口を開いた。何も出てこなかった。後ろには、いつの間にか、ベビーカーを押した若い夫婦と、自転車を停めたばかりの男性が並んでいた。
「すみません、ちょっと迷っていて。お先にどうぞ」
佐和子は列の横へ一歩ずれて、後ろの夫婦に順番を譲った。菜央も何も言わずに一緒に下がり、二人で列のいちばん後ろへ並び直した。
「ごめんね、戸張さん」
「いいですよ。並び直すの、けっこう好きです。二回並べるので」
菜央はそう言って、品書きをのんびり見上げた。
そのときだった。奥のフライヤーから、網いっぱいのコロッケが引き上げられた。
油が、しゃあっと鳴った。きつね色の衣の表面で、細かな泡がぷつぷつと弾け、消えていく。湯気が立ちのぼり、庇の下で渦を巻き、雨上がりの冷えた空気の中を、まっすぐこちらへ流れてきた。
じゃがいもの、ほくほくした甘い匂い。揚がった衣の、香ばしい匂い。ひとつまみの胡椒。
佐和子のおなかは、いっぱいのままだった。それなのに、喉の奥が、きゅっと動いた。
思い出したのは、味ではなかった。手のひらの感覚だった。白い紙越しに熱がじわじわ伝わってきて、持ち替えないと指が痛いくらいだったこと。一口目で、上あごを少しやけどしたこと。それでもかまわず二口目をかじって、坂の途中で、衣のかけらをコートの胸元に落としたこと。
あれは、ふつうのコロッケだった。
そう分かった。理屈ではなく、鼻で分かった。
列が進み、佐和子の番がもう一度来た。
「ふつうのを、一個。ここで食べます」
三角巾の女性はうなずき、バットから揚げたてを一つ取って、半分に折った白い紙に挟んだ。それを差し出しかけて、ふと、佐和子の顔を見た。
「あら。あなた、前に金曜日に来てた人じゃない?」
佐和子は、紙を受け取る手を止めた。
「……五年くらい前ですけど」
「やっぱり。ソースいらない人でしょ。毎回、袋もいらないって言って」
佐和子は目を丸くした。
「私、ソース、いらなかったんですか」
「いらなかったわよ。かけましょうかって聞くと、いつも、このままで、って」
隣で菜央が、口元を押さえて肩を震わせていた。
「本人より、お店の人のほうが覚えてる」
「いいのよ、そういうもんよ。食べる人は食べるのに忙しいんだから」
女性は笑って、紙ごとコロッケを佐和子の手のひらに載せた。
熱かった。
白い紙越しに、熱がじわじわ伝わってくる。佐和子は思わず左手へ持ち替えた。五年前と同じだった。
長椅子に腰かけ、紙の端をめくる。衣は細かく、ところどころ角が立って、まだ表面で小さな音を立てていた。
一口、かじった。
さくっ。
上あごに熱が当たって、佐和子は「あつ」と小さく言った。口の中に湯気がこもり、はふはふと息を吐いた。衣が砕け、その下から、ほくほくのじゃがいもが崩れてくる。粗くつぶしてあって、ところどころ小さな塊が残っている。挽き肉の脂がじゃがいもに染みて、玉ねぎがやわらかく甘い。あとから胡椒が、舌の端でぴりっとした。
ソースは、いらなかった。
記憶の中のコロッケより、ほんの少ししょっぱかった。たぶん、記憶のほうが五年かけて甘くなっていたのだろう。思い出は、しまっておくと、勝手に砂糖を足してしまうらしい。
でも、今口の中にあるほうが、おいしかった。熱いからだ。今日のだからだ。
おなかはいっぱいだった。だから、昔のように坂を下りながら一気に食べることはできなかった。佐和子は一口ずつ、ゆっくり食べた。かじるたびに湯気が少しずつ細くなり、紙の上に衣のかけらがたまっていった。急がずに食べるコロッケは、急いで食べていたころには気づかなかった味がした。じゃがいもの皮の近くの、わずかな土の香りとか。衣の端の、少し濃く揚がったところの香ばしい苦みとか。
最後の一口を飲み込んで、紙の上のかけらを指でつまんで食べた。
「どうでした」と菜央が聞いた。
「おいしかった」
「どういうふうに」
朝、自分がした質問だった。佐和子は少し考えて、答えた。
「しょっぱかった。熱かった。ソースは、いらなかった」
「全部、知らなかったやつですね」
「知ってたはずなんだけど」
菜央はうなずき、それからショーケースの前に立った。
「牛肉コロッケを一つ、持ち帰りでお願いします」
三角巾の女性が、レジ横の札をちらりと見た。コロッケは最後に買ってね。袋の中で泣いちゃうから。
「持ち帰ったら冷蔵庫へ。明日は中までしっかり温めてね。トースターを使うと、衣も泣きやむから」
「明日の朝ごはんにします」
菜央は紙袋を受け取り、焙じ茶の袋と『きのこ図鑑』のあいだに、そっと立てて入れた。
「食べないの」と佐和子は聞いた。
「さすがに入りません。それに」
菜央はトートバッグの口を閉めながら言った。
「今日、初めて、いちばん好きそうなのを最後に取っておくんです。明日の私が、どんな顔するか見たいので」
駅へ向かう坂は、五年前と同じ傾きだった。街灯がひとつ、またひとつと点いていく。雨に洗われたアスファルトが、その光を薄く映していた。
佐和子はコートのポケットから、にじんだ予定の紙を取り出した。それから、肩掛けバッグの内ポケットから、いつも持ち歩いている赤のボールペンを抜いた。
いちばん下の、灰色の輪の横に、小さく書き込む。
ソースなし。ここで食べる。
少し考えて、上のほうの「昼は軽く、おにぎり一個」に線を引き、横に「トル」と書いた。不要な文字を削るときの、校正の記号だ。
「赤字、入れてるんですか」と菜央がのぞき込んだ。
「次の版のために」
「次、あるんですね」
「あるよ」
佐和子は紙のいちばん上の余白に、もう一行足した。
次回。たけむら、十一時。
「えっ、最初に買うんですか」
「分からない。おなかがすいてたらね」
菜央は、トートバッグの中の紙袋を、外からそっと押さえた。
「明日の朝、写真送りますね。泣きやんだやつ」
「楽しみにしてる」
言ってから、佐和子は、それが本当に楽しみだと気づいた。誰かのコロッケの、明日の朝の顔。
坂の下で、電車の入ってくる音がした。佐和子は赤ペンのキャップを閉め、紙を四つに折り直して、ポケットにしまった。指先に、まだ少し、揚げ物の熱の名残があった。


