一 東口の時計の下
十月の終わりの月曜日、午前七時五十五分。中央駅東口の大時計の下に着いたとき、沢口千景はやっぱり自分の荷物は多いのだと、まわりの通勤客の鞄と見比べて思い知った。
生成りの帆布のトートバッグは、肩にかけると底が腰のあたりで揺れる。中には折りたたみ傘、手ぬぐいが二枚、替えの靴下が一足、ビニール袋が三枚、絆創膏、ウェットティッシュ、文庫本、水筒。それから、ほかの誰にも見せるつもりのないものが少し。
「ちか」
声のほうを向くと、江波律子がオリーブ色のコートのポケットに両手を入れて立っていた。肩にかかっているのは黒い革の小さなショルダーバッグだけだ。長財布がやっと収まる大きさで、文庫本ならまず入らない。
「律子さん、それだけですか」
「それだけ。日帰りだもん」
「日帰りでも雨は降りますよ」
「降ったら濡れればいいのよ」
律子は四十六歳で、千景より二つ上だ。二十代のころ、二人は同じ印刷会社にいた。律子は校正部、千景は営業事務。律子が会社を辞めてフリーの校正者になり、千景が市民体育館の事務室に移ってからも、年に何度か会っては、どちらかの家の近くで長いお昼を食べてきた。
二人で泊まりがけの旅行に行ったのは、八年前の温泉が最後だ。夜中の三時までしゃべって、翌朝は二人とも朝ご飯の時間に起きられなかった。それからは、どちらかが「また行こうね」と言い、もう一人が「行こうね」と返して、そこで話が終わる。
今度の旅を言い出したのは律子だった。泊まりでなくていい。日帰りでいいから、ちゃんと電車に乗って、知らない町へ行こう。
「ちょっと見せて」
律子が遠慮なくトートの口をのぞきこんだ。止める間もなかった。外ポケットから白い細長いケースが半分はみ出していて、律子はそれをつまみ上げる。
「歯ブラシ」
「……念のためです」
「日帰りなのに、歯ブラシ」
律子はケースを目の高さに掲げて、記念写真でも撮るように眺めた。
「泊まる気だったの?」
「泊まりません。明日は九時から体育館の改修の打ち合わせがあるので」
「私も明日の十時締め切りのゲラがある」
「じゃあ、日帰りです」
「日帰りなのに、歯ブラシ」
二回目は、ほとんど歌っていた。千景はケースを取り返して外ポケットに押しこみ、その上に手ぬぐいをかぶせた。
八時五分発の快速、葦原行き。向かい合わせの席に座ると、律子は小さなバッグから四つに折った紙を取り出した。広げると、色の褪せた雑誌のページだった。
「覚えてる?」
白い灯台の写真の隣に、白い椅子の並んだテラスが載っている。見出しは「岬の上の小さな喫茶室 白い椅子」。ページの端に、二〇〇七年の号だと印刷されていた。
「残業の夜に、律子さんが持ってきたやつ」
「そう。ここ行こうって二人で言って、行かなかったやつ」
十九年前だ。千景は二十五で、律子は二十七だった。その号は二人で回し読みして、律子がページを切り取った。そこまでは覚えているのに、どうして行かなかったのかは、どちらも思い出せない。
「今日の私の目的はここ。灯台の下でコーヒーを飲む」
「私の目的はこっちです」
千景はスマホを出して、メモの画面を見せた。潮戸銀座商店街の食べ歩きリスト。たこ天、焼きはまぐり、みかん大福、ちくわパン、いか焼き、塩ソフト、干物の炙り。
「七つ」
「七つです」
「胃は大丈夫なの、四十四歳」
「気持ちのほうは、二十五歳なので」
律子が声を立てて笑い、前の席の会社員が少しだけ振り返った。
九時二十分、葦原駅に着いた。乗り換えまで十二分ある。律子は改札の脇の売店に吸いこまれ、紙袋を二つ提げて戻ってきた。
「葦原あんぱん。ここの名物なんだって。売店のおばさんが言ってた」
一つを差し出され、千景は手を伸ばしかけて止めた。
「あとでいただきます」
「お腹すいてないの?」
「お昼に響くといけないので」
紙袋は、トートの水筒の横に収まった。
潮戸線は一両きりの電車だった。窓が大きく、座席の青い布は日に焼けて、ところどころ水色になっている。九時三十二分に動きだすと、律子は自分のあんぱんを袋から半分出してかじった。
「おいしい。こしあん。あとで食べるの、もったいないよ」
「あとで食べるから、おいしいんです」
「なにそれ」
窓の外で、稲を刈り終えた田んぼが続き、やがて片側だけに海が開けた。光が水面で細かく割れている。律子は窓に額を寄せて、口の端にあんこをつけたまま「海だ」と言った。千景はウェットティッシュを一枚抜いて、黙って渡した。
二 月曜と火曜は休み
十時十分、潮戸駅に着いた。木造の小さな駅舎で、改札の先に赤いポストが一つ立っている。
岬への道は、駅の裏手から坂になっていた。家々の屋根の向こうに白い灯台の頭がのぞき、坂を上るにつれて少しずつ大きくなる。律子の焦げ茶のショートブーツが、舗装の継ぎ目を一定の調子で鳴らした。千景の白いスニーカーは春に買ったもので、水色の紐はまだ新しい。
「ほら、見えてきた」
坂を上りきったところに、白い平屋の建物があった。写真で見たとおりの、海に向かって張りだしたテラス。ただし、白い椅子は四脚ずつ重ねられ、テラスの隅に寄せてあった。
ガラス戸に、手書きの札がかかっていた。
定休日 月曜・火曜
律子はしばらく札を見ていた。それから自分のスマホを見て、今日が月曜日であることを確かめるような顔をした。確かめるまでもなく、平日の人の少なさを狙って千景は有休を取り、律子は仕事の予定を空けたのだ。
「……十九年前の雑誌で、営業日を確かめた気になってた」
「私も確かめればよかったです。律子さんの担当だと思って」
「ちかは悪くない。校正者が日付を見落とすって、職業的にかなり恥ずかしい」
律子は笑ったが、笑い声はいつもより一拍短かった。ガラス越しに中をのぞくと、カウンターの奥に白いカップが伏せて並んでいた。十九年前の写真に写っていたのと同じ形のように見えたけれど、千景にはわからなかった。
「まあ、いいや」
律子はガラス戸から一歩下がって、灯台を見上げた。
「灯台は休まないし」
二人で灯台の白い壁の前に立って、写真を一枚だけ撮った。律子は札の文字が写りこまない角度を、かなり時間をかけて選んだ。
坂を下り、十一時十分に潮戸銀座商店街に入った。アーケードはなく、海側に向かって低い店が並んでいる。リストの一つ目、「丸八」のたこ天は、店先の鉄板の上で丸い衣がきつね色になっていた。三個入りを一つ買う。
「ちょっと、お手洗いに行ってきます」
千景は紙袋を律子に預け、商店街の端にある公衆トイレへ急いだ。個室に入り、トートの内ポケットから青い小さなケースを出す。上の歯、下の歯。透明な薄いマウスピースを外して、ケースにぱちんと収めた。
戻ると、律子が防波堤のベンチで待っていた。たこ天はまだ湯気を立てていた。
「熱っ。ちか、二個食べて。リストの人だから」
「一個ずつで、最後の一個は」
「私は一個でいい。お昼を食べたいから」
たこ天は外がかりっとしていて、中から大きなたこが出てきた。歯に何もつけずに噛むのは、千景にとっては何時間ぶりかのことだった。思わず目を閉じると、律子が「そんなに」と言った。
食べ終わると、千景はまた立ち上がった。
「すみません、もう一回お手洗いに」
「さっき行ったよね」
律子の声が、少しだけ低くなった。
「具合悪いの? 朝からちょっと変だよ。あんぱんも食べないし」
「具合は、悪くないです」
「じゃあ何」
千景はトートを膝に抱え直した。防波堤の向こうで、小さな漁船がゆっくり港に入ってくる。隠しておくほどのことではない。それはわかっていた。わかっていたから、余計に言い出しにくかった。
内ポケットから青いケースを出して、蓋を開けた。透明なマウスピースが二枚、重なって入っている。
「マウスピース矯正です。春から」
律子は身を乗りだして、ケースの中をじっと見た。
「歯の?」
「前歯が、子どものころから少し重なってて。ずっと気になってたんですけど、四十三でやっとお金が貯まったので」
「一日に何時間つけるの」
「二十二時間です。食べるときは外して、食べたら歯を磨いてからつけるんです。磨かないと、中に汚れが閉じこめられるので」
律子の目が、ケースからトートの外ポケットへ動いた。白い細長いケースの端が、手ぬぐいの下からのぞいている。
「それで、歯ブラシ」
「それで、歯ブラシです」

律子はベンチの背にもたれて、空を向いて笑った。たっぷり笑った。漁船の上の人がこちらを見たような気がした。
「なんで言わなかったの」
「四十四で矯正って、ちょっと照れるじゃないですか。それに、何か食べるたびにトイレに行ってたら、律子さんを待たせるし」
「待つよ、別に」
「なので、リストは七つも無理だと思うんです。お昼だけちゃんと食べることにします。それなら一回で済むので」
律子が笑うのをやめた。
「七つ食べたいんでしょ」
「食べたいですけど」
「私の灯台は休みで、ちかの七つもやめるの? じゃあ今日、私たち何しに来たのよ」
責める声ではなかった。けれど、冗談で流せる声でもなかった。千景は返事をしないで立ち上がり、「磨いてきます」とだけ言って公衆トイレに向かった。
鏡の前で歯を磨きながら、千景は鏡のなかの自分の口に泡がついているのを見た。みっともない、と思う。けれど、たこ天はおいしかった。それも本当だった。
三 かもめ亭の潮見表
正午、商店街の外れの食堂「かもめ亭」に入った。のれんをくぐると、醤油と魚の煮える匂いがした。千景は刺身定食、律子は煮魚定食を頼む。
注文してすぐ、千景はまたトイレに立ち、マウスピースを外して戻った。今日二回目だ。律子は何も言わず、湯呑みにお茶を注いで千景のほうへ押した。
壁にはメニューの札と並んで、大きな手書きの貼り紙があった。上に印刷の潮見表が貼ってあり、その下に太いマジックで何か書いてある。律子は目を細め、首を伸ばし、それから椅子ごと少し後ろに下がった。
「……ちか、あれ読んで」
「老眼鏡は?」
「忘れた。今朝、玄関で、置いた場所まで覚えてる」
千景は読み上げた。
「鶴子島、砂の道。本日、十二時四十分ごろから十五時ごろまで、歩いて渡れます。満ち始めたら戻りましょう」
「砂の道?」
お盆を運んできた女将が、貼り紙を顎で示した。
「潮が引くとね、浜から島まで砂がつながるの。今日はよく引く日だから、ちゃんと出るよ。月曜は人も少ないし」
「歩いて、島まで」
律子の声が、坂の上で灯台を見つけたときの調子に戻った。
「ただ、靴は濡れるからね。くぼんだところに水が残るから。三時には戻ってきて。満ちてくるのは、思ってるより早いよ」
女将が厨房に戻ると、律子は千景を見た。
「渡ろう」
千景は自分の足もとを見た。白いスニーカー。水色の紐。
「この靴、春に買ったばっかりで」
「私なんか革のブーツよ」
「それはもっとだめじゃないですか」
「だめでも渡る」
刺身は厚く切ってあり、律子の煮魚には甘い煮汁がたっぷりかかっていた。千景はゆっくり食べた。食べながら、トートの中身を頭のなかで順番に確かめた。替えの靴下、一足。ビニール袋、三枚。手ぬぐい、二枚。
食べ終えて、またトイレで歯を磨いた。出発してから二回目。マウスピースをはめ、鏡のなかの自分に、これで終わりにしようか、と言いかけた。
席に戻ると、律子が湯呑みを両手で持って待っていた。
「考えたんだけど」
「はい」
「まとめて食べればいいのよ。リストの残り、持ち歩けるものは買っておいて、島でいっぺんに食べる。そうしたら、磨くのは一回」
千景は湯呑みを見下ろした。それから、さっきはめたばかりの歯の表面を、舌でなぞった。
「それなら」
「うん」
「島から帰ってくるまで、外しっぱなしにします」
律子が眉を上げた。
「いいの?」
「三時間ちょっとです。……それだと、言われた時間に足りないですね。今日はもう、足りないです。先生には、正直に話します」
「校正者なら黙っておけるけど、歯の先生には黙ってちゃだめか」
「それ、関係あります?」
「ない」
千景はスマホを出して、十四時二十分にアラームをかけた。女将の「三時には戻ってきて」から、島から浜まで歩く二十分を引き、念のためもう二十分引いた数字だ。律子はそれをのぞきこんで、「そういうところ」とだけ言った。けなしているのか褒めているのか、千景にはわからなかった。たぶん両方だった。
店を出て、千景は公衆トイレで、さっきはめたばかりのマウスピースをもう一度外した。青いケースは、今度は内ポケットのいちばん奥にしまった。
十二時五十五分、柑月堂でみかん大福を二個。隣の汐風ベーカリーでちくわパンを一個。いか焼きと塩ソフトは持ち歩けないので、あきらめた。干物の炙りは、そもそも炙る場所がない。
商店街の角に、炭火の煙が上がっている店があった。「浜焼き 小松」。網の上で、はまぐりが口を開けかけている。看板には小さく「ラストオーダー15:45 16:00閉店」と書いてあった。
千景の足が、勝手に遅くなった。
「焼きはまぐり」
「リストの二番」
「これは、その場で食べるものなので」
「帰りに寄ろう」
「間に合えば」
「間に合わせる」
律子は千景のトートから紙袋を一つ取って、自分の手に提げた。みかん大福の袋だった。
四 砂の道
十三時十五分、鶴子浜に着いた。
浜の先の海に、灰色がかった茶色の帯が一本、まっすぐ延びていた。帯の先に、松の生えた丸い小島がある。帯の表面には細かい波の跡が刻まれ、ところどころで水たまりが空を映している。八百メートルくらいだろうか、と千景は見当をつけた。犬を連れた年配の人が一人、島のほうからこちらへ歩いて戻ってくるところだった。
「本当に道だ」
律子はその場でブーツを脱ぎはじめた。靴下も脱いで、黒いワイドパンツを膝までまくり上げる。
「裸足で行くんですか」
「ブーツで行ったら、ブーツが死ぬ」
脱いだブーツを持ったまま、律子は自分の小さなバッグを見下ろした。どう見ても入らない。千景は黙ってトートからビニール袋を一枚出して、口を広げた。律子はブーツを二本そろえて入れ、袋の持ち手を手首にかけた。
「その鞄、何でも出てくるね」
「念のためなので」
千景はスニーカーのまま、砂の道の乾いて盛り上がったところを選んで歩きはじめた。砂は思ったより固く、足跡がくっきり残る。律子は裸足で、ためらいなく水たまりの縁を踏んでいく。
「冷たっ。十月の海、冷たっ」
「だから靴がいいって」
「でも気持ちいい。足の裏が、全部わかる」
振り返ると、浜がもう小さかった。左手の海は穏やかに光り、右手には遠く岬が見え、その上に灯台が立っている。風に潮の匂いがした。千景は、自分が海の真ん中を歩いているのだと思った。舟にも橋にも頼らず、自分の足で。
十三時三十五分、島に着いた。
島は、ぐるりと歩いても十分かからないくらいの大きさだった。岩場の上に松が数本、斜めに生えている。浜側の砂地に、太い流木が一本横たわっていた。誰かが腰かけるために置いたのか、波が勝手に置いていったのか、ちょうどいい高さだった。
「ここにしよう」
流木に並んで座り、千景はトートから紙袋を出した。
葦原あんぱんは、替えの靴下と水筒のあいだで一日ぶん押されて、すっかり平たくなっていた。
「せんべいになってる」
「あとで食べるから、おいしいんです」
「朝の発言、撤回しないんだ」
平たいあんぱんは、こしあんが端まで均一に伸びていて、どこを噛んでも甘かった。律子が汐風ベーカリーの袋からちくわパンを出して、真ん中で割る。ちくわの穴にツナマヨネーズが詰まっていた。最後に律子が柑月堂の袋を開けて、みかん大福を一個、千景の手のひらにのせた。白い求肥から、みかんの橙色がうっすら透けている。
かじると、果汁が求肥の内側からあふれた。千景は口を押さえて、何も言えなくなった。歯にマウスピースがないこと、食べたらすぐトイレを探さなくていいこと、隣で律子が同じものを食べていること。それが一度にきて、目のまわりが少し熱くなった。
「泣くほど?」
「泣いてません。みかんが、目に」
「目には入らないでしょ」
食べ終わると、律子はバッグからハガキを一枚取り出した。切手はもう貼ってある。細いペンのキャップを口にくわえて外した。
「それ、誰に出すんですか」
「自分」
「自分?」
「フリーになってから、どこかに出かけるたびに、その町から自分宛てに一枚出してるの。一行か二行だけ書いて。帰ってから届くと、その日がもう一回来るみたいで面白いのよ」
「知りませんでした」
「言ってなかったもん。四十六で自分に手紙って、ちょっと照れるじゃない」
千景は笑った。律子も笑った。
律子は膝の上でハガキを書いた。老眼鏡がないので、字がいつもの倍くらい大きい。千景がのぞこうとすると、律子はハガキを胸に伏せた。
「着いてから読むの。自分が」
「私は読めないんですか」
「ちか宛てじゃないから」
島の北側の岩場に回ると、潮だまりがいくつも残っていた。のぞきこむと、小さなヤドカリが三匹、底の砂の上をもぞもぞ動いている。律子が「右の、速い」と言い、千景が「真ん中のほうが、やる気があります」と言い、二人でしゃがんで、どちらが先に岩の陰に着くかを見守った。どれも途中で向きを変え、勝負はつかなかった。
顔を上げると、海の向こうに岬が見えた。灯台の白い塔の足もとに、白い平屋がある。テラスの隅に、重ねた椅子の白い塊が、豆粒ほどの大きさで見えた。
「あそこだ」
律子が指さした。
「閉まってるね、ここから見ても」
「閉まってますね」
「十九年前に行ってたら、ここには来なかったかな」
「来なかったと思います。たぶん、テラスでコーヒーを飲んで、満足して帰ってました」
律子は岬のほうをしばらく眺めていた。それから、ふっと息を吐いて立ち上がり、ワイドパンツの膝の砂をはたいた。
「コーヒーより、ヤドカリのほうが面白かったかも」
「それは、今日だからです」
そのとき、千景のトートの中でアラームが鳴った。十四時二十分。
「戻りましょう」
「もう?」
「女将さんが、思ってるより早いって」
浜側に回ると、砂の道は来たときより細くなっていた。両側の水が、音もなく縁を少しずつ削っている。真ん中の盛り上がった部分はまだ乾いていたが、低いところには、さっきまでなかった水が溜まりはじめていた。
二人は足を速めた。律子はブーツの袋を手首で揺らしながら、ずんずん進む。千景は乾いたところを選んで、跳ぶように歩いた。
浜まであと百メートルほどのところで、道が浅くくぼみ、そこが一面、水に覆われていた。幅は二メートルくらい。律子は裸足のまま、くるぶしまで水に入って渡り、向こう側で振り返った。
「ちか、もう靴でいいよ。いっそ入っちゃえ」
「跳べます」
「跳べないって」
千景は助走をつけて跳んだ。左足は、向こう側の砂に届いた。右足は届かなかった。
くるぶしの上まで、冷たい水が一気に靴の中へ流れこんだ。水色の紐が、みるみる濃い青になる。
二人とも、しばらく声が出なかった。それから律子が笑い出し、千景も笑い出した。笑いながら最後の百メートルを歩いた。右足が一歩ごとに、ぐしゅ、ぐしゅ、と鳴った。
十四時三十八分、浜に戻った。振り返ると、砂の道はまだつながっていた。さっき跳んだくぼみだけが、細く光っていた。
五 二本目
浜のベンチで、千景はトートを広げた。
手ぬぐいを一枚、律子に渡す。律子は足の裏の砂を払い、指の間まで丁寧に拭いた。それからビニール袋からブーツを出して、靴下と一緒に履いた。千景は右のスニーカーを脱ぎ、濡れた靴下を脱いで、二枚目のビニール袋に入れて口を縛った。替えの靴下を履く。もう一枚の手ぬぐいを丸めて右の靴の中に押しこみ、しばらく置いて水を吸わせてから、抜いて履き直した。
「その鞄、全部使ったね」
「傘と文庫本は、まだです」
「使い切らなくていいのよ、そこは」
律子は空になったビニール袋を一枚たたんで、千景に返した。千景はそれを、三枚目の袋と重ねてしまった。
十五時二十分に浜を出た。右足はまだ少し湿っていたが、歩けないほどではなかった。
十五時三十八分、浜焼き小松の前に着いた。網の上はもう寂しくなっていて、店のおじさんがちょうど炭をならしているところだった。
「まだ、大丈夫ですか」
「ラストオーダーまで七分あるよ」
「焼きはまぐり、四個ください」
網にのせられたはまぐりが、少しして、ぱかりと口を開けた。汁がふつふつと泡立つ。千景はトートの内ポケットに手を入れ、青いケースの位置を確かめた。これを食べたら、磨いて、はめて、電車。出発してから三回目の歯みがきだ。
「ちょっと待ってて」
律子が言い残して、店の隣の「潮戸薬局」に入っていった。何か足りないものでもあったのだろうか、と千景が考えているうちに、はまぐりが焼き上がった。紙皿に四つ。醤油がひと垂らし。
律子が戻ってきた。手に、透明な袋に入った歯ブラシを一本持っていた。柄はオレンジ色だった。
「ピンクとオレンジしかなかった」
「……律子さん、それ」
「私も磨く」
「矯正してないですよね」
「してない。でも、ちかが一人で磨いてる間、外で待ってるの、つまんないもの。今日、何回も待ったんだよ」
「磨くのは、次で三回目です」
「数えてたの」
「数えてました」
はまぐりは熱く、身はふっくらしていて、貝殻に残った汁まで飲めた。二人で二つずつ、無言で食べた。最後の汁を飲み干したところで、律子が言った。
「リスト、いくつ行った?」
千景は指を折った。
「たこ天、焼きはまぐり、みかん大福、ちくわパン。四つです」
「七分の四」
「あと、リストにない葦原あんぱん」
「じゃあ七分の五」
「分母は変わらないんですか」
「校正者は勝手に分母を変えません」
十六時五分、潮戸駅に着いた。
木造の駅舎の外、トイレの脇に、古いコンクリートの手洗い場があった。蛇口が二つ、並んでいる。
千景は白いケースから緑の歯ブラシを出し、小さな歯みがき粉を絞った。律子が袋を破ってオレンジの歯ブラシを出し、千景のほうへ差し出す。千景はそこにも歯みがき粉を絞った。
二人は並んで、蛇口の前で歯を磨いた。

夕方の光が駅舎の屋根を斜めに照らし、手洗い場の水を金色にしていた。律子の歯みがきは雑で速く、千景のは丁寧で遅い。律子は先に終わって口をゆすぎ、千景の横で、手持ちぶさたに歯ブラシの柄をくるくる回して待った。
改札から、若い駅員が顔を出した。二人を見て、ほんの少し目を丸くした。
「……歯磨き、ですか」
律子が口をぬぐって、きっぱり答えた。
「日帰りなので」
駅員は「そうですか」と言って引っこんだ。納得したのかどうかはわからなかった。千景は泡をつけたまま吹き出しそうになって、あわてて口をゆすいだ。
最後に、千景は青いケースを開け、マウスピースを上、下とはめた。ぱちん、と歯に収まる小さな音がした。三時間とちょっとぶりの、いつもの感触だった。
ホームの時刻表を見上げて、律子が言った。
「十七時四十分のもあるね」
「ありますね」
「夕日、浜で見ていく?」
千景は時刻表と律子の顔を見比べた。
「律子さん、明日十時締め切りですよね」
「……そうだった」
「十七時四十分だと、中央駅は七時半過ぎです。そこから帰って、ご飯を食べて、ゲラ」
「無理。十時に眠くなる」
「私も九時から打ち合わせです」
「じゃあ十六時三十一分」
「十六時三十一分です」
二人とも、それを残念だとは言わなかった。律子は「夕日は電車から見る」と言い、千景は「窓が大きい電車でよかったです」と言った。
律子は駅前の赤いポストの前で立ち止まり、ハガキを出して、ポストの上でペンのキャップを外した。何かを一行書き足している。千景がのぞこうとすると、またハガキを胸に伏せた。
「着いてから」
「わかってます」
ハガキがポストの口に吸いこまれた。十六時二十分だった。
それから律子は、使い終わったオレンジの歯ブラシを自分の小さなバッグに入れようとした。財布の横に差しこむ。入らない。斜めにする。柄の先が三センチ、口から飛び出した。蓋が閉まらない。
「……ちか」
「はい」
「預かって」
千景はトートの内ポケットを開けた。緑の歯ブラシの入った白いケースの隣に、オレンジの歯ブラシを、軽く水を切ってから元の空き袋に戻して差しこんだ。内ポケットは、それでちょうどいっぱいになった。
十六時三十一分、一両の電車が潮戸駅を出た。
しばらく走ると、海側の窓いっぱいに夕日が広がった。水平線の少し上で、橙色の丸がゆっくり沈んでいく。律子は窓に額を寄せて「みかん大福の色」と言い、千景は「焼きはまぐりの汁の色です」と言い張った。どちらも譲らないうちに、日は沈んだ。
十七時九分、葦原に着いた。十七時二十分の快速に乗り換えると、向かいの席の律子は五分で眠った。千景も、窓に映る自分のトートを眺めているうちに、少しうとうとした。目を覚ますと、中央駅の一つ手前だった。
十八時四十分、東口の大時計の下。朝と同じ場所で、二人は向かい合った。
「楽しかった」
と律子が言った。
「灯台は休みだったし、七つも食べられなかったけど」
「五つです」
「七分の五」
「楽しかったです」
と千景も言った。律子は小さなバッグを肩にかけ直して、手を振り、地下鉄の階段へ降りていった。オリーブ色のコートが、人波の中に見えなくなった。
十九時半、家に帰った千景は、トートの中身を台所のテーブルに一つずつ並べた。
折りたたみ傘。文庫本。どちらも一度も開いていない。水筒。空。ウェットティッシュ。残り数枚。絆創膏。手つかず。たたんだビニール袋が二枚。口を縛ったビニール袋が一枚、中で濡れた靴下が丸まっている。湿った手ぬぐいが二枚。葦原あんぱんの空の紙袋。
最後に内ポケットに手を入れると、白いケースと一緒に、元の袋に入れたオレンジの歯ブラシが出てきた。
千景はしばらくそれを持ったまま立っていた。それからスマホを出して、律子にメッセージを送った。
「律子さんの歯ブラシ、持って帰ってきちゃいました」
返事は三分後に来た。もう寝ていると思っていたのに、ゲラの合間だったのかもしれない。
「次の日帰りまで預かってて。日帰り用だから」
千景はオレンジの歯ブラシを洗面所でもう一度洗い、よく乾かしてから、白いケースのもう一つの空いた溝に並べてしまった。トラベル用のケースは、二本入る作りだった。買ったときから一本ぶん余っていたことに、千景はそのとき初めて気がついた。
ケースはトートの外ポケットに戻した。トートは玄関の脇のフックにかけた。濡れた靴下だけは、洗濯機に入れた。
水曜日の昼、体育館の事務室で弁当を食べ終え、歯を磨きに立とうとしたところで、スマホが震えた。
律子から写真が一枚届いていた。郵便受けの前で撮ったらしい、一枚のハガキ。宛名は江波律子様。老眼鏡なしで書いた、いつもの倍くらいの大きな字が、ハガキの裏いっぱいに並んでいた。
灯台、月火休み。
島まで歩いて渡った。ヤドカリは勝負つかず。
ちかの右足、海に入る。
最後の一行だけ、字の傾きが少し違っていた。駅のポストの上で書き足した行だ。
日帰りなのに、歯ブラシ。二本。
写真の下に、短いメッセージが続いていた。
「次、どこ行く? 私は荷物、増やさないけど」
千景は事務室の窓から、体育館の屋根の上の秋の空を見た。それから「調べておきます。営業日も」と返した。
歯ブラシを持って洗面所に向かいながら、千景は、玄関のフックにかかったままのトートのことを考えた。外ポケットには、緑とオレンジが一本ずつ入っている。次に出かける日の朝、たぶん律子はまた、あれをつまみ上げて言うのだろう。
日帰りなのに、歯ブラシ。
今度は千景も、言い返すつもりだった。
二本ですよ、と。


