一 鳥だけは、動かせない
金曜の夜十一時、小野寺千春は台所のテーブルに絵を二枚並べて、腕を組んでいた。
どちらも同じ景色だ。自分の部屋のベランダ。物干し竿にタオルが二枚とシャツが一枚、手すりの脇にバジルの鉢。上には十月の薄い空。そして、どちらにも青い鳥が一羽いる。
違うのは、鳥の場所だった。
九月に描いた一枚目では、鳥は左にいて、バジルの鉢のふちに止まっている。十月に描き直した二枚目では、右端の物干し竿の上、洗濯ばさみの隣に止まっている。
「こっちは、やっぱり貼ったみたいなんだよね」
一枚目の鳥を指でつついて、千春はひとりで言った。鉢の上の鳥は、なぜか動きそうに見えない。シールみたいに、ぴたりと貼りついている。おまけに左上の空には、乾きかけのところに水を落としてできた、花のような滲みがひとつ、ぽこんと咲いていた。
油絵なら、鳥だけ塗りつぶして移せたのかもしれない。でも透明水彩は、一度紙に入った青をきれいには消せない。こするほど紙が毛羽立って、うっすら色が残る。だから千春は、景色ごと全部をもう一度描いた。同じ大きさの紙に構図を写して、ベランダの柵の本数も、シャツのしわも二週間かけてなぞり直し、鳥だけを右へ引っ越させた。
右の竿の鳥は、今にも飛び立ちそうだった。ウルトラマリンが紙のくぼみに沈んで、羽にざらりとした粒が出ている。これは狙ってもなかなか出ない。文具卸の会社で経理をしながら、休みの日に描きはじめて六年。千春が描いた中で、いちばん「鳥」だった。
隅には、いつもの小さなサインがある。C.Oと、描き上げた月の数字。一枚目は「9」、二枚目は「10」。二枚目の裏には、鉛筆で「洗濯日和 10/12」と書いておいた。描き上がった日だ。
日曜日は、町の公民館で開かれる「みなと台ひだまり作品展」の当日だった。区報の隅で募集を見つけて、締め切りの前日に申し込んだ。人に絵を見せるのは、職場の机にこっそり置いた絵はがき以来になる。
額は、職場の槙さんが引っ越しのときにくれたものだった。明るい色の木の枠に、アクリル板と白いマット。裏板は薄いベニヤで、留め具の金具は四つあり、どれも固くて回すたびに指が痛い。
二枚目をマットの裏に合わせて、裏板をあてる。すかすかだった。紙が中で泳ぐ。
「……当て紙、当て紙」
千春は一枚目を見下ろして、少し迷ってから、裏返しもせずに二枚目の後ろへ重ねた。厚手の水彩紙は、ちょうどいい詰め物になる。失敗作には、裏で支えてもらう。表に出るのは、右の鳥だけでいい。
留め具を四つ、指を赤くして回し終えたのは、日付が変わる少し前だった。千春はもう額の中身のことなど考えず、マットの窓からのぞく右の鳥だけを眺めて、歯をみがいて寝た。
二 準備の日
土曜日の午後二時。公民館の二階の集会室は、脚立と段ボールと、知らない大人たちの「これ、どっちが上ですかね」でいっぱいだった。
壁の上には細いレールが走っていて、そこから下げたフックに額のひもを掛ける。出品者は十四人。水彩、色鉛筆、切り絵、写真に刺繍。会期は日曜の十時から四時までの一日だけだ。
「小野寺さんはここね。窓から三番目」
ネームプレートの束を抱えて歩き回っているのが、主催の田辺弥生さんだった。六十代の後半で、黄色いエプロンのポケットにはマスキングテープとメジャーと飴が入っている。
「照明は、皆さんが帰ってから私が脚立で直しておくから。全部吊ってからじゃないと、どこが暗いか分からないのよ」
壁の上には、クリップで挟む小さなライトがいくつも並んでいた。田辺さんはそれを見上げて、「この脚立、ちょっと揺れるのよねえ」と笑った。
千春は額を壁にあてて、ひもの長さを何度も調整した。決めていた高さがある。右の鳥が、ちょうど自分の目の高さに来るところ。見る人の目と鳥の目が、まっすぐ合うように。
ひもの余りはくるくると巻いて、青いマスキングテープで留めた。紙を板に貼るときにいつも使っている、少し太めのテープだ。
「それ、かわいいですね」
声をかけられて振り向くと、隣の区画の青年が立っていた。二十代の後半くらいで、紺のパーカーを着て、首からスマホを下げている。プレートには「瀬川遼」とあった。彼の絵は、坂の途中に青い自転車が停めてある水彩だった。自転車の青はまっすぐできれいで、少しだけ平たい。
「テープじゃなくて」と、瀬川さんは千春の絵を指さした。「鳥の青です。これ、粒が出てますよね。何の絵の具ですか」
「ウルトラマリン。普通のです。乾く前に紙をちょっと傾けると、くぼみに溜まって」
「あ、傾けるんだ」
瀬川さんはそう言って、スマホを構えた。「撮ってもいいですか。近くで」
「どうぞ……?」
彼は額に顔を寄せ、右の鳥にスマホを近づけて何枚も撮った。角度を変えて、さらに一枚。熱心すぎて、千春は思わず一歩下がった。
その数分後、三時十二分に、千春も自分のスマホで絵を撮った。額の正面の、二メートルほど離れたところからだ。窓の光がアクリルに少し映りこんでいるけれど、鳥ははっきり写っている。右端、竿の上、洗濯ばさみの隣。
ネームプレートには、題名の「洗濯日和」と名前が入った。それを見て、千春は胸のあたりがむずむずした。自分の名前が、壁に貼ってある。
帰り際、廊下で、田辺さんが脚立を引きずってくるのとすれ違った。
「明日は九時半から開けてるからね」
「はい。よろしくお願いします」
階段を下りながら、千春は撮ったばかりの写真をもう一度見た。家に着くまでに、たぶん四回は見た。
三 朝の鳥は、左にいた
日曜日、九時二十五分。千春は開場の三十分以上前に公民館へ着いた。早すぎるのは分かっていた。でも、家にいても鳥のことしか考えられなかった。
集会室の扉は開いていて、田辺さんが受付の机で、感想ノートにボールペンをひもで結びつけようとしていた。
「あら、早い。どうぞどうぞ」
会釈して入る。窓から三番目。
足が止まった。
鳥が、左にいた。
バジルの鉢のふちに、青い鳥が止まっている。右端の物干し竿にはタオルと洗濯ばさみがあるだけで、何もいない。
千春は瞬きをした。もう一度した。それから早足で近づいた。
額は槙さんのものだ。マットも同じ。ネームプレートには「洗濯日和 小野寺千春」とある。絵のタッチも、シャツのしわも、柵の本数も、自分の手だった。少なくとも、そう見えた。
なのに、鳥だけが引っ越している。
スマホを出して、昨日の写真と見比べた。写真の中の鳥は右。目の前の鳥は左。指先が少し冷たくなった。

九月の一枚目と、同じ場所だ。一瞬そう思った。けれど一枚目は、固く閉めた額の裏にいる。ひとりでに表へ出てくるはずがない。その「はず」に引っかかったまま、千春の考えは別のほうへ跳んだ。
誰かが。
最初に浮かんだのは、その言葉だった。誰かが私の絵を写して、すり替えた。あるいは、上から何かをした。
次に浮かんだのが、紺色のパーカーだった。近くで、何枚も、角度を変えて。
九時四十八分、その瀬川さんが入ってきた。自分の自転車の絵の前で立ち止まって、曲がったプレートを直している。
千春はそこへ歩いていって、自分でも驚くほど硬い声を出した。
「昨日、私の絵をたくさん撮ってましたよね」
瀬川さんが顔を上げた。「はい。……すみません、だめでしたか」
「あの写真、何に使うんですか」
「何にって」彼は千春の顔を見て、それから千春の絵を見た。そして、ぽかんと口を開けた。「え。鳥、そっちでしたっけ」
「そっちじゃなかったんです」
言いながら、千春は自分の声が尖っているのが分かった。分かっていて、止められなかった。
「昨日は右にいたんです。今朝来たら、左にいるんです。誰かが――」
その先を言う前に、瀬川さんがスマホを差し出した。
「見てください。昨日のです」
画面には、右の鳥を大きく写した写真があった。竿の上、洗濯ばさみの隣。羽の粒まで写っている。撮影時刻は土曜の十五時八分から十分までで、全部で七枚。
「この青の出し方が分からなくて、家で見ながら真似しようと思ってたんです。それだけです」瀬川さんは少しむっとした顔をしていた。「疑うのは、まあ、分かりますけど。でも僕が描き直したんなら、この写真は見せないですよね」
写真を見せてくれた。それだけで何もしていないと決まるわけではない。でも、写真を撮っただけで疑いを向けたのは、自分のほうだった。千春は唇をかんだ。
「……写して描いたのを、すり替えたのかもしれないし」
言ってから、ひどいことを言ったと思った。瀬川さんは怒るかわりに、眉を寄せて額のほうへ歩いていった。
「一晩で、これ描けます?」
「描けない、と思う」
「ですよね。僕、自転車一台に三週間かかりました」
受付から、「十時になりまーす」と田辺さんの声がした。扉の前には、もう三、四人のお客さんが待っている。
瀬川さんは振り返って言った。
「調べましょう。僕も、このままだと気持ち悪いので」
四 調べられることを、調べる
お客さんが入ってきても、二人は千春の絵の前から離れなかった。離れられなかった、というほうが正しい。
「まず」と瀬川さんが言った。「描き足したのか、消したのか」
千春はスマホのカメラをいちばん大きくして、右端の物干し竿を映した。
「水彩で鳥を消そうとしたら、こすらなきゃいけないんです。そうすると紙が毛羽立つし、青がうっすら残る。でも」
画面の中の竿は、きれいだった。紙の目はそろっていて、タオルの白は塗り残した紙の白のままだ。何かを洗い落とした跡も、上から白で塗った跡もない。
「最初からいない、って感じですね」
左の鳥も映した。羽に粒があった。ウルトラマリンが紙のくぼみに沈んだ、あのざらりとした感じ。昨日瀬川さんが撮った右の鳥と、同じ出方をしている。
「この粒、真似できます?」と千春が聞くと、瀬川さんは首を振った。
「できたら、昨日聞いてないです」
それで、千春の中の「誰かが上から描いた」は、ひとつ消えた。
「じゃあ、丸ごと別の絵ですね」と瀬川さんが言った。「誰かが写しを描いて、すり替えた」
「でも、それだと」千春は自分で言いながら考えた。「写すなら、右に鳥がいる絵を写すよね。わざわざ左に動かす理由が分からない。それに一晩で、こんなに似せられるかな」
「僕には無理です。でも、描く速さだけでは決められないですね」
千春はほかの出品者の顔を思い浮かべた。切り絵のおじいさん、色鉛筆の女子高生、刺繍の人。一晩でこの柵の本数とシャツのしわを、千春の手癖のまま写すのは、簡単ではなさそうだ。でも、そう思うだけでは、写しではないと決められない。
では、自分の記憶違いか。それもない。写真が二人分ある。
「絵の中に答えがないなら、絵の外ですね」
瀬川さんが言って、一歩下がった。千春も下がった。それで、気がついた。
「……低い」
「え?」
「高さが違うの。昨日、鳥が目の高さに来るように吊ったんです」
いまは、目の高さが絵の上寄りにずれている。千春は昨日の写真で、壁のレールと額の上端のあいだを見た。目の前のほうが、少し広い。額全体が三センチか四センチ、下がっているようだった。
二人は額の上を見上げた。レールから下がったフックに、ひもが掛かっている。ひもの余りは巻かれていなかった。結び目は見慣れない、きつく締まった固結びで、青いマスキングテープはどこにもない。
「テープ、昨日巻いてましたよね。僕、かわいいって言った」
「巻いた」
それから瀬川さんが、額の左下の角を指さした。アクリル板の隅に、昨日はなかった白っぽい擦り傷がある。爪の先ほどの、短い傷だ。
「これ、落ちた跡じゃないですか」
二人の頭の上のクリップライトも、昨日より少し左を向いていた。照明は、皆さんが帰ってから私が直しておくから。田辺さんの声が、千春の耳の奥でよみがえった。この脚立、ちょっと揺れるのよねえ。
「誰かが夜にライトを直していて、額に当たって落とした」と瀬川さんが言った。「で、ひもを結び直して掛けた。……でも、それで鳥は動かないですよね」
動かない。落としたくらいで、絵の具は引っ越さない。
千春はもう一度、額に顔を寄せた。何かをまだ見落としている。左の鳥。バジルの鉢。その上の空。
左上の空に、滲みがひとつ咲いていた。
乾きかけのところに水が落ちてできた、花のような跡。
千春の背中が、すうっと冷たくなって、それから熱くなった。
右下の隅に目を移す。小さなサイン。C.Oと、月の数字。
「9」だった。
「……あ」
声が出た。瀬川さんがこちらを見た。
「これ、私の絵です」
「はい。だから、そう言って」
「そうじゃなくて」千春は額のふちをつかみそうになって、手を引っこめた。「これ、一枚目なんです。九月に描いて、失敗したほう。鳥が貼ったみたいになったから、全部描き直したの。右に鳥がいるのは二枚目で」
「一枚目は、どこにあったんですか」
千春はゆっくりと、額の裏を思い浮かべた。金曜の夜、すかすかの裏板。当て紙、当て紙。
「この中」
瀬川さんはしばらく黙っていた。それから、こらえきれなくなったように笑った。
「自分で入れたんですか」
「詰め物のつもりで……裏返しもしないで……」
顔が赤くなるのが自分で分かった。でも、まだ全部は分からない。誰が額を開けたのか。なぜ一枚目が前に来たのか。
感想ノートの置かれた受付の机で、田辺さんが黄色いエプロンのポケットを押さえて、こちらを見ていた。目が合うと、そらした。
五 額縁の外
「田辺さん」
受付へ行くと、田辺さんのほうが先に立ち上がった。
「ごめんなさい。いま、言おうと思ってたの。ほんとに」
「額、落ちましたか」
「落としたの」田辺さんは小さくなって言った。「昨日の夜、ライトを直してて、脚立が揺れて、肘が当たって。床で角を打って、裏の金具がひとつ外れて。残りも開けて裏板を外したら、中の紙が、ずるって」
千春は、昨日の夜の集会室を思い浮かべた。誰もいない部屋で、ひとりで脚立から下りて、散らばった紙を見下ろしている田辺さん。
「紙が二枚、出てきたでしょう」
「出てきた。上に、絵が上を向いてるのが一枚。下に、裏向きの白い紙が一枚。裏に鉛筆で何か書いてあったから、私、当て紙だと思ったのよ。絵のほうを前に入れて、白いほうを後ろにして、金具を閉めて……ひもも、巻いてあったのがほどけちゃったから、結び直したの。傷もついちゃったし、朝いちばんに謝ろうと思ってた。そしたら、ノートのペンのひもが見つからなくて、名札も足りなくて」
裏に鉛筆で書いたのは、千春だ。「洗濯日和 10/12」。
「……鳥の場所が変わってたの、気づきませんでした?」
「昨日、ちゃんと見てなかったのよ。十四人分あって。鳥がいるな、とは思ったんだけど、どこにいたかまでは」
田辺さんはそこで言葉を切って、頭を下げた。
「勝手に開けて、黙ってて、ごめんなさい。直さなきゃって、そればっかりで。持ち主に聞かなきゃいけなかったのに」
千春は少しのあいだ、何も言えなかった。悪気がなかったのは分かる。ひとりで脚立に上って、十四人分のライトを直していたのも分かる。
でも、それとこれとは別だった。
「田辺さん。私、今朝、ほんとに怖かったんです」千春は、できるだけゆっくり言った。「自分の絵が、知らないうちに別のものになってて。落としたのは、しょうがないと思います。でも、開けたなら、その場で電話してほしかった。申込書に番号を書いてあるので」
「そうよね。そうだわ」
「次からは、お願いします」
田辺さんはうなずいて、もう一度頭を下げた。傷の分は弁償する、とも言った。千春は、アクリル板のことは槙さんに聞いてみます、と答えた。弁償の話は、それでいったん保留になった。
それから千春は振り返った。
瀬川さんは自分の自転車の絵の前に戻って、所在なさそうに立っていた。
千春はそこへ歩いていって、頭を下げた。さっきの自分の尖った声を思い出しながら。
「瀬川さん、ごめんなさい。写真を撮ってたからって疑って、すり替えたとまで言って。失礼でした」
「いや」瀬川さんは頭をかいた。「僕も、ちょっと撮りすぎました。顔、近かったですよね」
「近かった」
「すみません」
二人で、少しだけ笑った。
田辺さんに立ち会ってもらって、額を壁から下ろした。机の上にタオルを敷いて、千春は裏の金具を自分の指で回した。相変わらず固い。四つ目で、爪の先が少し欠けた。
裏板を外すと、白い紙の裏が見えた。鉛筆で「洗濯日和 10/12」。
ひっくり返す。
右端の物干し竿の上、洗濯ばさみの隣に、青い鳥がいた。
ちゃんといた。ひと晩、真っ暗な額の中で、裏を向いていただけだった。
「よかった」と、瀬川さんが千春より先に言った。
二枚目を前に、一枚目を後ろに。今度は一枚目を裏返して、白い裏どうしを合わせた。二枚の紙が、白い背中を合わせた。金具を閉めて、ひもを掛け、右の鳥が自分の目の高さに来るまで、千春は三回結び直した。余りを巻いて、ポケットに残っていた青いテープで留める。
一歩下がる。
鳥と、目が合った。
昼過ぎ、お客さんが少し落ちついたころ、千春は受付の感想ノートをめくった。出品者は見てもいいことになっている。
自分の名前の欄に、午前中の誰かが書いていた。
〈小野寺さん 洗濯日和 鳥が鉢植えに寄り道しているのがかわいい。バジルのにおいがしそう〉
千春はしばらく、その一行を見ていた。
十時から、鳥が戻った十時四十分ごろまでのあいだに来た誰かだ。その人は九月の鳥を見た。千春が「貼ったみたい」と言って、裏へ押しこんだ鳥を。
その下に、午後の字で、もう一行あった。
〈洗濯日和 青がざらざらしてきれい。いまにも飛びそう〉
「この人たち、どっちも同じ絵だと思ってますよ」
いつの間にか横に来ていた瀬川さんが、ノートをのぞきこんで言った。
「うん」
千春は、ちょっと悔しかった。失敗作がほめられたのが悔しいのか、二枚目だけをほめてもらえなかったのが悔しいのか、自分でもよく分からない。でも、その悔しさは、楽しいのと少し似ていた。誰かが自分の鳥を見て、何かを書いていった。それが二羽分あった。
「ねえ、瀬川さん」
「はい」
「青を傾けるの、教えます。あとで」
瀬川さんの顔が、ぱっと明るくなった。「ほんとですか。あの、自転車、来年描き直したいんです」
「全部描き直すことになりますよ。水彩だから」
「分かってます。三週間、またやります」
三時半ごろ、小学生くらいの男の子が、おじいさんの手を引いて千春の絵の前に来た。男の子は額を見上げて、首をかしげた。
「朝は、こっちにいたのに」
左のバジルの鉢を指さしている。千春は思わず、男の子の横にしゃがんだ。
「朝も来てくれたの?」
「おじいちゃんの切り絵を見に来た。二回目」男の子は、窓ぎわの切り絵のほうを親指でさした。「鳥、動いた?」
千春は少し考えてから言った。
「朝はね、寄り道してたの。いまは、自分の場所に帰ってきた」
男の子は、納得したような、していないような顔でうなずいて、おじいさんに「動くんだって」と報告した。おじいさんが、千春に向かってすまなそうに笑った。
四時に展示が終わって、千春は額を抱えて家に帰った。
台所のテーブルで、今度は落ちついて金具を回す。爪の欠けたところが、少し痛い。
二枚目は額に戻した。来年も、また出すつもりだ。いや、来年はもっといい鳥を描いて、それを出す。
一枚目は、額に入れなかった。
冷蔵庫の扉に、マグネットを四つ使って留める。バジルの鉢の上で、九月の鳥が、相変わらずシールみたいにぴたりと止まっている。左上の空には、花のような滲み。

貼ったみたい、と思っていた。いまも少し、そう思う。
でも、知らない誰かがこの鳥のことを「寄り道」と書いた。バジルのにおいがしそう、と書いた。
それから千春は、麦茶を出そうと冷蔵庫を開けるたびに、その鳥と目が合うようになった。額縁の外で、寄り道したままの青い鳥と。


