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日常ミステリー

額縁の外の、青い鳥

きのうは右にいた。けさは左にいる。

読了目安
18分
長さ
短編
#謎解き#趣味#前向き
額縁の外の、青い鳥のイメージ

あらすじ

休みの日に水彩を描いて六年。初めて町の作品展に出した千春の絵で、青い鳥が前日と反対側に止まっていた。熱心に写真を撮っていた隣の出品者を、思わず問い詰めてしまう。けれど彼は、自分の写真を見せて「調べましょう」と言った。絵と額のまわりを普通の観察で確かめる、趣味の楽しさを描く日常ミステリー。

一 鳥だけは、動かせない

金曜の夜十一時、小野寺千春は台所のテーブルに絵を二枚並べて、腕を組んでいた。

どちらも同じ景色だ。自分の部屋のベランダ。物干し竿にタオルが二枚とシャツが一枚、手すりの脇にバジルの鉢。上には十月の薄い空。そして、どちらにも青い鳥が一羽いる。

違うのは、鳥の場所だった。

九月に描いた一枚目では、鳥は左にいて、バジルの鉢のふちに止まっている。十月に描き直した二枚目では、右端の物干し竿の上、洗濯ばさみの隣に止まっている。

「こっちは、やっぱり貼ったみたいなんだよね」

一枚目の鳥を指でつついて、千春はひとりで言った。鉢の上の鳥は、なぜか動きそうに見えない。シールみたいに、ぴたりと貼りついている。おまけに左上の空には、乾きかけのところに水を落としてできた、花のような滲みがひとつ、ぽこんと咲いていた。

油絵なら、鳥だけ塗りつぶして移せたのかもしれない。でも透明水彩は、一度紙に入った青をきれいには消せない。こするほど紙が毛羽立って、うっすら色が残る。だから千春は、景色ごと全部をもう一度描いた。同じ大きさの紙に構図を写して、ベランダの柵の本数も、シャツのしわも二週間かけてなぞり直し、鳥だけを右へ引っ越させた。

右の竿の鳥は、今にも飛び立ちそうだった。ウルトラマリンが紙のくぼみに沈んで、羽にざらりとした粒が出ている。これは狙ってもなかなか出ない。文具卸の会社で経理をしながら、休みの日に描きはじめて六年。千春が描いた中で、いちばん「鳥」だった。

隅には、いつもの小さなサインがある。C.Oと、描き上げた月の数字。一枚目は「9」、二枚目は「10」。二枚目の裏には、鉛筆で「洗濯日和 10/12」と書いておいた。描き上がった日だ。

日曜日は、町の公民館で開かれる「みなと台ひだまり作品展」の当日だった。区報の隅で募集を見つけて、締め切りの前日に申し込んだ。人に絵を見せるのは、職場の机にこっそり置いた絵はがき以来になる。

額は、職場の槙さんが引っ越しのときにくれたものだった。明るい色の木の枠に、アクリル板と白いマット。裏板は薄いベニヤで、留め具の金具は四つあり、どれも固くて回すたびに指が痛い。

二枚目をマットの裏に合わせて、裏板をあてる。すかすかだった。紙が中で泳ぐ。

「……当て紙、当て紙」

千春は一枚目を見下ろして、少し迷ってから、裏返しもせずに二枚目の後ろへ重ねた。厚手の水彩紙は、ちょうどいい詰め物になる。失敗作には、裏で支えてもらう。表に出るのは、右の鳥だけでいい。

留め具を四つ、指を赤くして回し終えたのは、日付が変わる少し前だった。千春はもう額の中身のことなど考えず、マットの窓からのぞく右の鳥だけを眺めて、歯をみがいて寝た。

二 準備の日

土曜日の午後二時。公民館の二階の集会室は、脚立と段ボールと、知らない大人たちの「これ、どっちが上ですかね」でいっぱいだった。

壁の上には細いレールが走っていて、そこから下げたフックに額のひもを掛ける。出品者は十四人。水彩、色鉛筆、切り絵、写真に刺繍。会期は日曜の十時から四時までの一日だけだ。

「小野寺さんはここね。窓から三番目」

ネームプレートの束を抱えて歩き回っているのが、主催の田辺弥生さんだった。六十代の後半で、黄色いエプロンのポケットにはマスキングテープとメジャーと飴が入っている。

「照明は、皆さんが帰ってから私が脚立で直しておくから。全部吊ってからじゃないと、どこが暗いか分からないのよ」

壁の上には、クリップで挟む小さなライトがいくつも並んでいた。田辺さんはそれを見上げて、「この脚立、ちょっと揺れるのよねえ」と笑った。

千春は額を壁にあてて、ひもの長さを何度も調整した。決めていた高さがある。右の鳥が、ちょうど自分の目の高さに来るところ。見る人の目と鳥の目が、まっすぐ合うように。

ひもの余りはくるくると巻いて、青いマスキングテープで留めた。紙を板に貼るときにいつも使っている、少し太めのテープだ。

「それ、かわいいですね」

声をかけられて振り向くと、隣の区画の青年が立っていた。二十代の後半くらいで、紺のパーカーを着て、首からスマホを下げている。プレートには「瀬川遼」とあった。彼の絵は、坂の途中に青い自転車が停めてある水彩だった。自転車の青はまっすぐできれいで、少しだけ平たい。

「テープじゃなくて」と、瀬川さんは千春の絵を指さした。「鳥の青です。これ、粒が出てますよね。何の絵の具ですか」

「ウルトラマリン。普通のです。乾く前に紙をちょっと傾けると、くぼみに溜まって」

「あ、傾けるんだ」

瀬川さんはそう言って、スマホを構えた。「撮ってもいいですか。近くで」

「どうぞ……?」

彼は額に顔を寄せ、右の鳥にスマホを近づけて何枚も撮った。角度を変えて、さらに一枚。熱心すぎて、千春は思わず一歩下がった。

その数分後、三時十二分に、千春も自分のスマホで絵を撮った。額の正面の、二メートルほど離れたところからだ。窓の光がアクリルに少し映りこんでいるけれど、鳥ははっきり写っている。右端、竿の上、洗濯ばさみの隣。

ネームプレートには、題名の「洗濯日和」と名前が入った。それを見て、千春は胸のあたりがむずむずした。自分の名前が、壁に貼ってある。

帰り際、廊下で、田辺さんが脚立を引きずってくるのとすれ違った。

「明日は九時半から開けてるからね」

「はい。よろしくお願いします」

階段を下りながら、千春は撮ったばかりの写真をもう一度見た。家に着くまでに、たぶん四回は見た。

三 朝の鳥は、左にいた

日曜日、九時二十五分。千春は開場の三十分以上前に公民館へ着いた。早すぎるのは分かっていた。でも、家にいても鳥のことしか考えられなかった。

集会室の扉は開いていて、田辺さんが受付の机で、感想ノートにボールペンをひもで結びつけようとしていた。

「あら、早い。どうぞどうぞ」

会釈して入る。窓から三番目。

足が止まった。

鳥が、左にいた。

バジルの鉢のふちに、青い鳥が止まっている。右端の物干し竿にはタオルと洗濯ばさみがあるだけで、何もいない。

千春は瞬きをした。もう一度した。それから早足で近づいた。

額は槙さんのものだ。マットも同じ。ネームプレートには「洗濯日和 小野寺千春」とある。絵のタッチも、シャツのしわも、柵の本数も、自分の手だった。少なくとも、そう見えた。

なのに、鳥だけが引っ越している。

スマホを出して、昨日の写真と見比べた。写真の中の鳥は右。目の前の鳥は左。指先が少し冷たくなった。

展示室で、千春がスマホの前日の写真と壁の水彩画を見比べる。壁の絵の青い鳥は左のバジル鉢に止まり、右の物干し竿にはいない。

九月の一枚目と、同じ場所だ。一瞬そう思った。けれど一枚目は、固く閉めた額の裏にいる。ひとりでに表へ出てくるはずがない。その「はず」に引っかかったまま、千春の考えは別のほうへ跳んだ。

誰かが。

最初に浮かんだのは、その言葉だった。誰かが私の絵を写して、すり替えた。あるいは、上から何かをした。

次に浮かんだのが、紺色のパーカーだった。近くで、何枚も、角度を変えて。

九時四十八分、その瀬川さんが入ってきた。自分の自転車の絵の前で立ち止まって、曲がったプレートを直している。

千春はそこへ歩いていって、自分でも驚くほど硬い声を出した。

「昨日、私の絵をたくさん撮ってましたよね」

瀬川さんが顔を上げた。「はい。……すみません、だめでしたか」

「あの写真、何に使うんですか」

「何にって」彼は千春の顔を見て、それから千春の絵を見た。そして、ぽかんと口を開けた。「え。鳥、そっちでしたっけ」

「そっちじゃなかったんです」

言いながら、千春は自分の声が尖っているのが分かった。分かっていて、止められなかった。

「昨日は右にいたんです。今朝来たら、左にいるんです。誰かが――」

その先を言う前に、瀬川さんがスマホを差し出した。

「見てください。昨日のです」

画面には、右の鳥を大きく写した写真があった。竿の上、洗濯ばさみの隣。羽の粒まで写っている。撮影時刻は土曜の十五時八分から十分までで、全部で七枚。

「この青の出し方が分からなくて、家で見ながら真似しようと思ってたんです。それだけです」瀬川さんは少しむっとした顔をしていた。「疑うのは、まあ、分かりますけど。でも僕が描き直したんなら、この写真は見せないですよね」

写真を見せてくれた。それだけで何もしていないと決まるわけではない。でも、写真を撮っただけで疑いを向けたのは、自分のほうだった。千春は唇をかんだ。

「……写して描いたのを、すり替えたのかもしれないし」

言ってから、ひどいことを言ったと思った。瀬川さんは怒るかわりに、眉を寄せて額のほうへ歩いていった。

「一晩で、これ描けます?」

「描けない、と思う」

「ですよね。僕、自転車一台に三週間かかりました」

受付から、「十時になりまーす」と田辺さんの声がした。扉の前には、もう三、四人のお客さんが待っている。

瀬川さんは振り返って言った。

「調べましょう。僕も、このままだと気持ち悪いので」

四 調べられることを、調べる

お客さんが入ってきても、二人は千春の絵の前から離れなかった。離れられなかった、というほうが正しい。

「まず」と瀬川さんが言った。「描き足したのか、消したのか」

千春はスマホのカメラをいちばん大きくして、右端の物干し竿を映した。

「水彩で鳥を消そうとしたら、こすらなきゃいけないんです。そうすると紙が毛羽立つし、青がうっすら残る。でも」

画面の中の竿は、きれいだった。紙の目はそろっていて、タオルの白は塗り残した紙の白のままだ。何かを洗い落とした跡も、上から白で塗った跡もない。

「最初からいない、って感じですね」

左の鳥も映した。羽に粒があった。ウルトラマリンが紙のくぼみに沈んだ、あのざらりとした感じ。昨日瀬川さんが撮った右の鳥と、同じ出方をしている。

「この粒、真似できます?」と千春が聞くと、瀬川さんは首を振った。

「できたら、昨日聞いてないです」

それで、千春の中の「誰かが上から描いた」は、ひとつ消えた。

「じゃあ、丸ごと別の絵ですね」と瀬川さんが言った。「誰かが写しを描いて、すり替えた」

「でも、それだと」千春は自分で言いながら考えた。「写すなら、右に鳥がいる絵を写すよね。わざわざ左に動かす理由が分からない。それに一晩で、こんなに似せられるかな」

「僕には無理です。でも、描く速さだけでは決められないですね」

千春はほかの出品者の顔を思い浮かべた。切り絵のおじいさん、色鉛筆の女子高生、刺繍の人。一晩でこの柵の本数とシャツのしわを、千春の手癖のまま写すのは、簡単ではなさそうだ。でも、そう思うだけでは、写しではないと決められない。

では、自分の記憶違いか。それもない。写真が二人分ある。

「絵の中に答えがないなら、絵の外ですね」

瀬川さんが言って、一歩下がった。千春も下がった。それで、気がついた。

「……低い」

「え?」

「高さが違うの。昨日、鳥が目の高さに来るように吊ったんです」

いまは、目の高さが絵の上寄りにずれている。千春は昨日の写真で、壁のレールと額の上端のあいだを見た。目の前のほうが、少し広い。額全体が三センチか四センチ、下がっているようだった。

二人は額の上を見上げた。レールから下がったフックに、ひもが掛かっている。ひもの余りは巻かれていなかった。結び目は見慣れない、きつく締まった固結びで、青いマスキングテープはどこにもない。

「テープ、昨日巻いてましたよね。僕、かわいいって言った」

「巻いた」

それから瀬川さんが、額の左下の角を指さした。アクリル板の隅に、昨日はなかった白っぽい擦り傷がある。爪の先ほどの、短い傷だ。

「これ、落ちた跡じゃないですか」

二人の頭の上のクリップライトも、昨日より少し左を向いていた。照明は、皆さんが帰ってから私が直しておくから。田辺さんの声が、千春の耳の奥でよみがえった。この脚立、ちょっと揺れるのよねえ。

「誰かが夜にライトを直していて、額に当たって落とした」と瀬川さんが言った。「で、ひもを結び直して掛けた。……でも、それで鳥は動かないですよね」

動かない。落としたくらいで、絵の具は引っ越さない。

千春はもう一度、額に顔を寄せた。何かをまだ見落としている。左の鳥。バジルの鉢。その上の空。

左上の空に、滲みがひとつ咲いていた。

乾きかけのところに水が落ちてできた、花のような跡。

千春の背中が、すうっと冷たくなって、それから熱くなった。

右下の隅に目を移す。小さなサイン。C.Oと、月の数字。

「9」だった。

「……あ」

声が出た。瀬川さんがこちらを見た。

「これ、私の絵です」

「はい。だから、そう言って」

「そうじゃなくて」千春は額のふちをつかみそうになって、手を引っこめた。「これ、一枚目なんです。九月に描いて、失敗したほう。鳥が貼ったみたいになったから、全部描き直したの。右に鳥がいるのは二枚目で」

「一枚目は、どこにあったんですか」

千春はゆっくりと、額の裏を思い浮かべた。金曜の夜、すかすかの裏板。当て紙、当て紙。

「この中」

瀬川さんはしばらく黙っていた。それから、こらえきれなくなったように笑った。

「自分で入れたんですか」

「詰め物のつもりで……裏返しもしないで……」

顔が赤くなるのが自分で分かった。でも、まだ全部は分からない。誰が額を開けたのか。なぜ一枚目が前に来たのか。

感想ノートの置かれた受付の机で、田辺さんが黄色いエプロンのポケットを押さえて、こちらを見ていた。目が合うと、そらした。

五 額縁の外

「田辺さん」

受付へ行くと、田辺さんのほうが先に立ち上がった。

「ごめんなさい。いま、言おうと思ってたの。ほんとに」

「額、落ちましたか」

「落としたの」田辺さんは小さくなって言った。「昨日の夜、ライトを直してて、脚立が揺れて、肘が当たって。床で角を打って、裏の金具がひとつ外れて。残りも開けて裏板を外したら、中の紙が、ずるって」

千春は、昨日の夜の集会室を思い浮かべた。誰もいない部屋で、ひとりで脚立から下りて、散らばった紙を見下ろしている田辺さん。

「紙が二枚、出てきたでしょう」

「出てきた。上に、絵が上を向いてるのが一枚。下に、裏向きの白い紙が一枚。裏に鉛筆で何か書いてあったから、私、当て紙だと思ったのよ。絵のほうを前に入れて、白いほうを後ろにして、金具を閉めて……ひもも、巻いてあったのがほどけちゃったから、結び直したの。傷もついちゃったし、朝いちばんに謝ろうと思ってた。そしたら、ノートのペンのひもが見つからなくて、名札も足りなくて」

裏に鉛筆で書いたのは、千春だ。「洗濯日和 10/12」。

「……鳥の場所が変わってたの、気づきませんでした?」

「昨日、ちゃんと見てなかったのよ。十四人分あって。鳥がいるな、とは思ったんだけど、どこにいたかまでは」

田辺さんはそこで言葉を切って、頭を下げた。

「勝手に開けて、黙ってて、ごめんなさい。直さなきゃって、そればっかりで。持ち主に聞かなきゃいけなかったのに」

千春は少しのあいだ、何も言えなかった。悪気がなかったのは分かる。ひとりで脚立に上って、十四人分のライトを直していたのも分かる。

でも、それとこれとは別だった。

「田辺さん。私、今朝、ほんとに怖かったんです」千春は、できるだけゆっくり言った。「自分の絵が、知らないうちに別のものになってて。落としたのは、しょうがないと思います。でも、開けたなら、その場で電話してほしかった。申込書に番号を書いてあるので」

「そうよね。そうだわ」

「次からは、お願いします」

田辺さんはうなずいて、もう一度頭を下げた。傷の分は弁償する、とも言った。千春は、アクリル板のことは槙さんに聞いてみます、と答えた。弁償の話は、それでいったん保留になった。

それから千春は振り返った。

瀬川さんは自分の自転車の絵の前に戻って、所在なさそうに立っていた。

千春はそこへ歩いていって、頭を下げた。さっきの自分の尖った声を思い出しながら。

「瀬川さん、ごめんなさい。写真を撮ってたからって疑って、すり替えたとまで言って。失礼でした」

「いや」瀬川さんは頭をかいた。「僕も、ちょっと撮りすぎました。顔、近かったですよね」

「近かった」

「すみません」

二人で、少しだけ笑った。

田辺さんに立ち会ってもらって、額を壁から下ろした。机の上にタオルを敷いて、千春は裏の金具を自分の指で回した。相変わらず固い。四つ目で、爪の先が少し欠けた。

裏板を外すと、白い紙の裏が見えた。鉛筆で「洗濯日和 10/12」。

ひっくり返す。

右端の物干し竿の上、洗濯ばさみの隣に、青い鳥がいた。

ちゃんといた。ひと晩、真っ暗な額の中で、裏を向いていただけだった。

「よかった」と、瀬川さんが千春より先に言った。

二枚目を前に、一枚目を後ろに。今度は一枚目を裏返して、白い裏どうしを合わせた。二枚の紙が、白い背中を合わせた。金具を閉めて、ひもを掛け、右の鳥が自分の目の高さに来るまで、千春は三回結び直した。余りを巻いて、ポケットに残っていた青いテープで留める。

一歩下がる。

鳥と、目が合った。

昼過ぎ、お客さんが少し落ちついたころ、千春は受付の感想ノートをめくった。出品者は見てもいいことになっている。

自分の名前の欄に、午前中の誰かが書いていた。

〈小野寺さん 洗濯日和 鳥が鉢植えに寄り道しているのがかわいい。バジルのにおいがしそう〉

千春はしばらく、その一行を見ていた。

十時から、鳥が戻った十時四十分ごろまでのあいだに来た誰かだ。その人は九月の鳥を見た。千春が「貼ったみたい」と言って、裏へ押しこんだ鳥を。

その下に、午後の字で、もう一行あった。

〈洗濯日和 青がざらざらしてきれい。いまにも飛びそう〉

「この人たち、どっちも同じ絵だと思ってますよ」

いつの間にか横に来ていた瀬川さんが、ノートをのぞきこんで言った。

「うん」

千春は、ちょっと悔しかった。失敗作がほめられたのが悔しいのか、二枚目だけをほめてもらえなかったのが悔しいのか、自分でもよく分からない。でも、その悔しさは、楽しいのと少し似ていた。誰かが自分の鳥を見て、何かを書いていった。それが二羽分あった。

「ねえ、瀬川さん」

「はい」

「青を傾けるの、教えます。あとで」

瀬川さんの顔が、ぱっと明るくなった。「ほんとですか。あの、自転車、来年描き直したいんです」

「全部描き直すことになりますよ。水彩だから」

「分かってます。三週間、またやります」

三時半ごろ、小学生くらいの男の子が、おじいさんの手を引いて千春の絵の前に来た。男の子は額を見上げて、首をかしげた。

「朝は、こっちにいたのに」

左のバジルの鉢を指さしている。千春は思わず、男の子の横にしゃがんだ。

「朝も来てくれたの?」

「おじいちゃんの切り絵を見に来た。二回目」男の子は、窓ぎわの切り絵のほうを親指でさした。「鳥、動いた?」

千春は少し考えてから言った。

「朝はね、寄り道してたの。いまは、自分の場所に帰ってきた」

男の子は、納得したような、していないような顔でうなずいて、おじいさんに「動くんだって」と報告した。おじいさんが、千春に向かってすまなそうに笑った。

四時に展示が終わって、千春は額を抱えて家に帰った。

台所のテーブルで、今度は落ちついて金具を回す。爪の欠けたところが、少し痛い。

二枚目は額に戻した。来年も、また出すつもりだ。いや、来年はもっといい鳥を描いて、それを出す。

一枚目は、額に入れなかった。

冷蔵庫の扉に、マグネットを四つ使って留める。バジルの鉢の上で、九月の鳥が、相変わらずシールみたいにぴたりと止まっている。左上の空には、花のような滲み。

帰宅後の台所。冷蔵庫の額なしの絵は四つのマグネットで留められ、青い鳥は左の鉢に。机には右の竿に鳥がいるもう一枚の絵を戻した木枠がある。

貼ったみたい、と思っていた。いまも少し、そう思う。

でも、知らない誰かがこの鳥のことを「寄り道」と書いた。バジルのにおいがしそう、と書いた。

それから千春は、麦茶を出そうと冷蔵庫を開けるたびに、その鳥と目が合うようになった。額縁の外で、寄り道したままの青い鳥と。