← 本棚へ戻る
ファンタジー・冒険

冬眠係の、寝坊した朝

冬眠係、初日から寝坊。迎えに行くのは、峠の巨大な「冬守」。

読了目安
26分
長さ
短編
#わくわく#冬#冒険
冬眠係の、寝坊した朝のイメージ

あらすじ

町の眠りを守る新任のリツが、大事な迎えの日に正午まで寝坊した。眠れないホクトと、冬を見たくて眠りたくないユズハを連れて峠へ急ぐ。けれど巨大な冬守は、凍った鏡池の真ん中で昼寝中。日没までに連れ帰らないと、町は春まで寝不足になる。リツの背負い袋には、誰にも言えなかった冬の楽しみが入っていた。

一 正午の鐘

戸を叩く音が、夢の底まで届いた。

どん、どん、どん。少し間があって、こつ、こつ、こつ。拳の音と、指の関節の音。叩き方の違う誰かが二人いる。夢の中のリツは春の軒下で靴紐を結んでいて、その音をのんびりした雨だと思っていた。

「リツさん! 煙突から煙が出てない!」

煙が出ていないなら、留守だと思うのが普通ではないか。そう言い返そうとして口を開けたら、頬が枕に貼りついていた。

戸がきしんで開き、冷たい空気と一緒に、丸いものが二つ転がりこんできた。

「寝てる」

「寝てるね」

「冬眠係が」

「冬眠係が、寝てる」

寝台の脇に、栗色の顔とクリーム色の顔が並んでいた。どちらもリツの腰ほどの背丈で、樽みたいに丸い胴に短い脚、背中まで垂れる長い耳。ホロ族だ。栗色のほうは中町のホクトで、からし色のチョッキのボタンをひとつ掛け違えている。クリーム色のほうは郵便配達のユズハで、緑の帽子の穴から出した耳の先が、もうすっかり金色に光っていた。

「揺すれば起きるんだっけ」

「歌の眠りなら、起きるはず」

二人がかりで肩を揺すられて、リツはようやく体を起こした。窓の外が、やけに白く明るい。そのとき、町の鐘楼が鳴りはじめた。ひとつ、ふたつ……リツは指を折って数え、十まで来たところで、折る指がなくなった。鐘はそのあと二つ鳴って、やんだ。

「……いま、何時」

「いま鳴ったでしょう」とユズハが言った。「お昼」

リツは寝台から転げ落ちた。

今日は迎えの日だった。冬のあいだ町の眠りを守る冬守が、北の山から降りてくる日。冬眠係は夜明け前に町を出て、峠で迎え灯をともし、冬守を町まで連れて帰る。町には人間の家も少しあって、人間は冬も起きている。冬眠係は昔から人間の仕事だった。そしてこれは、リツが冬眠係になって最初の、いちばん大事な仕事だった。

机の上には、三度書き直した眠り帳が開いたままになっていた。四十一軒のホロ族の家の名前、寝つきの癖、好きな枕の高さ。書き終えたのは夜の十一時すぎだった。それから、どうしても気になって、日付が変わる少し前に、ねむり節を小声で練習したのだ。前任のガンジに「口の形がちがう」と言われたのを思い出して、暗い窓ガラスに映る自分の口もとを見ながら。

ねむり節は、冬眠を前にしたホロ族の体にある「眠りの扉」を、そっと開ける歌だ。人間には効かない。ただし窓や氷や静かな水面に向かって歌うと、歌は跳ね返って歌い手に戻ってくる。戻ってきた歌は人間にも効いて、半日ほど、誰かに揺すられるまで目が覚めない。

研修の初日に教わったことだった。小声なら平気だと思った。平気ではなかった。記憶は、一度目の途中で途切れている。

窓ガラスには、ゆうべの自分の息の跡が、丸く白く残っていた。

「冬守、来てないよね」

リツが言うと、ホクトがうなずいた。

「来てない。いつもなら昼には北の尾根に頭が見えるんだ。朝にも二回来たんだけど、返事がないから、もう峠に行ったんだと思って帰った」

「どうして二回も」

「耳が」ホクトは自分の垂れ耳を両手で持ち上げてみせた。金色なのは先っぽだけで、爪の先ほどしかない。「金にならないんだよ。今夜の歌を聞いても、たぶん眠れない。だから先に何か、こう、特別なやり方がないかと思って」

「ないです」とリツは言った。「歌は扉を開けるだけだから。扉ができてない体には効かない」

「知ってる。知ってるけど、聞くだけ聞きたかった」

リツはユズハを見た。ユズハの耳は先から根元まで金色で、もういつ眠ってもおかしくない。それなのに目はぱっちり開いていて、首から下げた水筒から、焦げた草のような苦い匂いがした。

「ユズハさんは」

「わたしは、今夜はわたしに歌わないでって頼みに来たの」ユズハは真面目な顔で言った。「ホクトさんに頼まれて道案内してきたのはついでで、ついでのほうが本題」

リツは口を開けて、また閉じた。二人の頼みを足すと、ちょうど正反対になる。考えている時間はなかった。

外套掛けの鉤から、真鍮の迎え灯を外す。取っ手に、ガンジの書き置きが紐で結んであった。三日前、湯の里へ冬の湯治に出かける朝に、彼が置いていったものだ。何度も読んだので、もう覚えてしまっている。

――迎えは夜明け。灯は係の息でしかともらん。

――冬守は目が弱い。いちばん明るい光についてくる。光は近いほど強い。

――冬守は日が沈んでから、最初に眠った場所で冬を越す。

――追伸 窓に向かって歌うな。わしは若いころ三回やった。

リツは書き置きをにらんだ。三回もやったのなら、もっと大きな字で書いておいてほしかった。

日が沈むまでに冬守を町へ連れてこられなければ、冬守は峠で冬を越す。峠からでは、眠り霧は町まで届かない。ホロ族は歌で眠りに入れても、霧に包まれなければ、半日ごとに目を覚ましてしまう。それで死ぬわけではない。ただ、四十一軒ぶんの寝不足と不機嫌が、春まで続く。

「迎え道で峠まで二時間」とリツは言った。「冬守を連れて戻るのは、もっとかかる。日の入りは四時四十分」

「近道があるよ」ユズハがすぐに言った。「鈴の木の林を抜けて、鏡池の上の尾根を通る道。郵便で使うの。一時間半で峠が見える」

「案内してくれる?」

「その代わり、連れてって。冬守が歩くところ、見たいの」

「おれも行く」とホクトが手を挙げた。「家で、寝られないのを待ってるより、歩いて食べてたほうが耳にいい」

眠る前のホロ族を二人、峠まで連れていく。研修でそんな話は一度も聞かなかった。もっとも、寝坊する冬眠係の話だって、ガンジの三回のほかには聞いたことがない。

リツは外套をはおり、赤い毛糸の手袋をはめ、革の背負い袋をつかんだ。持ち上げると、底のほうで重いものがごとりと動いた。七日前から入れっぱなしの、あれだ。出している暇はない。リツはそれを見なかったことにして、袋の口を締めた。

二 鈴の木の林

町の北の外れから、ユズハは迷わず細い道へ入っていった。

鈴の木の林は、白い幹がまっすぐに並んだ林だった。秋の終わりになると、鈴の木の葉は枝についたまま薄く凍る。風が吹くたびに、何千枚もの小さな氷の葉が触れあって、ちりちりと鳴った。遠くの鈴、近くの鈴、頭のすぐ上の鈴。リツは生まれてから二十六年この町に住んでいるが、冬眠係の見習いになってからは、こんな奥まで来たことがなかった。

「郵便、こんなとこまで来るの」

「この先に炭焼きの小屋が二軒あるの。手紙は少ないけど、待ってる人はすごく待ってるから」

ユズハは短い脚をくるくる動かして、先へ先へと進んだ。ホロ族の歩幅はリツの半分ほどしかないのに、ちっとも遅れない。ときどき立ち止まって水筒の茶をすすり、そのたびに顔じゅうをしわくちゃにした。

「それ、なに」

「目覚まし茶。苦木の根を三日煮出したの」

ユズハが水筒の口をこちらへ向けたとたん、後ろを歩いていたホクトが大きなくしゃみをした。二回、三回。鼻を押さえて、涙目で言う。

「ホロ族の鼻には毒だよ、それ」

「毒じゃない。目が覚めるだけ」

「覚めすぎる」

ホクトはといえば、歩きながら焼き栗の袋に手を突っこんで、殻をむいては口へ放りこんでいた。背中の荷物には、ほかに干し芋が三枚。それとは別に、膨らんだ布袋を肩から斜めに掛けている。

「それも食べもの?」

「これはちがう」ホクトはなぜか胸を張った。「じいちゃんの冬眠着」

去年の春、目を覚ましたあとで、箪笥の奥から見つけたのだという。青い毛糸で編んだ、頭からすっぽりかぶる袋のような寝間着で、胸に雪の結晶の模様が入っている。ホロ族は冬眠のとき、それぞれの家に伝わる冬眠着にくるまって眠る。

「すごくいいんだ。編み目がこまかくて、模様がきれいで。でも、小さくてさ」

「それで痩せたのよ、この人」とユズハが振り向いた。「秋じゅう。冬眠前の秋に。ホロ族が」

「着たかったんだよ」

「で、耳が金にならない」

「……そう」

ホクトは焼き栗をもうひとつ口に入れた。リツは思わず笑ってしまい、あわてて咳でごまかした。笑いごとではない。けれど、秋じゅう我慢していたホロ族が、峠への道で必死に栗をむいている姿は、どうしたっておかしかった。

しばらく行くと、林の中に小さな空き地があった。ユズハはそこで足を止め、水筒の茶をまたすすってから、リツを見上げた。

「歌わないでっていうのが、わがままなのはわかってる」

「……うん」

「でもね、ホロ族って、雪を見たことがないの。初雪の前に眠って、起きたら全部とけてる。寝返りの夜に一回起きるけど、真っ暗だし、窓は霜で真っ白だし、水を飲んだらすぐまた眠くなる。わたし、十九回も冬を越したのに、一回も冬を見てない」

リツは返事を探した。ホロ族の耳には、歌を入れないための結び方がある。耳を結べば、ねむり節は届かない。冬眠係がそれをやめさせる決まりはない。ただ、霧の中で眠らずにいれば、まぶたは重いのに眠りの扉は開かず、浅い眠りと寒さのあいだを、冬じゅう行ったり来たりすることになる。みんなが眠った町で、話し相手もいないまま。

そう説明すると、ユズハは「知ってる」とだけ言った。さっきのホクトと同じ言い方だった。

「リツさんは?」と、今度はホクトが聞いた。「冬、なにするの。町じゅう寝ちゃって」

「仕事」

「仕事だけ?」

「見回りと、雪かきと、眠り帳の記録と、寝返りの夜の水やり」

「寝返りの夜って、すごく腹が減るんだよな」ホクトがしみじみと言った。「一時間しかないのに、水甕まで行って戻ったら、もう終わりなんだ」

「冬じゅう、それだけ?」

ユズハが重ねて聞いた。リツは「それだけ」と答えて、背負い袋の肩紐を握り直した。

冬至のころには町の川も凍って、そのまま鏡池まで、一本の氷の道ができる。子どものころは、冬が来るたびにその道を滑った。見習いになった年から、行かなくなった。眠りを守る係が夜中に遊んでいるなんて、と思ったのだ。誰に言われたわけでもないのに。

林を抜けると、急な登りになった。尾根の上に出たとき、先を歩いていたユズハが、ふいに立ち止まった。

「……あ」

空から、白いものが落ちてきていた。

ひとつ、またひとつ。はじめは灰が舞っているのかと思うほどまばらで、それからだんだん数が増えた。ユズハは帽子を脱いで郵便鞄に挟み、両手のひらを上に向けた。クリーム色の毛の上にひとひら落ちて、すぐに消えた。

「冷たい」とユズハは言った。「冷たいのに、軽い。これが、そう?」

「そう。初雪」

ユズハは黙って空を見上げた。口が少し開いていた。ホクトも隣で同じように上を向き、舌を出して雪をひとひら受け止めてから、

「味がしない」

と、残念そうに言った。

初雪の尾根。クリーム色のユズハが両手で雪を受け、栗色でからし色チョッキのホクトが舌を出す。後ろで三つ編みのリツが見守り、灯はまだついていない。

三 鏡池の小山

尾根の向こうに、峠が見えた。

大きな岩が二つ並び、そのあいだが鞍のようにくぼんでいる。迎えの峠だ。冬守がいれば、遠くからでもわかるはずだった。二階家の屋根ほどの高さがある、灰色の小山のような体なのだから。

峠には、何もいなかった。

「帰っちゃった……?」とホクトが言った。

「冬守は帰らない。冬が来たら、どこかで眠る」

そう言いながら、リツは自分の声が上ずっているのに気がついた。谷の下から、二時の鐘がかすかに聞こえた。

「あそこ」

ユズハが下を指さした。郵便配達の目は、遠くの家の表札を読むのに慣れている。

尾根の下に、鏡池があった。浅くて、谷でいちばん早く、いちばん厚く凍る池だ。氷はまだ雪をかぶりきっておらず、黒い鏡のように空を映している。その真ん中に、白い島がひとつあった。島は、ゆっくりと上下していた。島の端から、白い息が細く立ちのぼっていた。

峠から池まで、雪の斜面に大きな足跡が続いていた。洗い桶ほどの丸いくぼみが、六つずつで一組になって。

――いちばん明るい光についてくる。

夜明けの峠で、冬守は迎え灯を待ったのだ。誰も来なかった。やがて日が昇り、低い朝日が鏡池の氷に当たって、谷じゅうでいちばんまぶしく光った。冬守はそれについていった。そして池の真ん中で、光の上に寝そべってしまった。

「まだ昼寝だ」とリツは言った。「日が沈むまでは、冬の眠りじゃない。起こせば連れて帰れる」

三人は斜面を駆けおりた。ホクトは途中で、転がったほうが速いと気づいたらしい。丸くなって転がっていき、池の岸で雪だるまのようになって止まった。

近くで見る冬守は、思っていたよりずっと大きかった。横に長い体は灰白色の長い毛に覆われ、毛先に霜がびっしりついていて、本当に雪の積もった丘に見えた。六本の短く太い脚は、体の下に折りたたまれている。平たい顔の上で、大きな丸い目が二つ、まぶたを閉じていた。鼻息がもれるたびに白い霧が氷の上を低く流れ、岸まで来るとほどけて消えた。

岸から冬守まで、二百歩はあった。

「迎え灯を、目の近くで光らせればいいんだよね」とユズハが言った。

「そう。近くの光ほど強い」

「じゃあ行こう」

ユズハより先に、ホクトが氷に足を乗せた。一歩、二歩。三歩目で、短い脚が左右に分かれた。ホクトは丸いお腹から氷に着地して、そのままくるくる回りながら十歩ほど滑っていき、止まった。手足をばたつかせても、その場で回るだけだった。

「戻れない」

「動かないで」

ユズハが郵便鞄の肩紐を外して投げ、ホクトがそれにしがみつき、二人がかりでようやく岸まで引き戻した。ホクトは息を切らしながら、焼き栗を一粒食べた。

リツは氷を見た。歩いていけないことはない。けれど、連れて帰るとなると話が違う。迎え灯を冬守の目の前に保ったまま、岸まで、それから峠道まで導かなくてはならないのだ。灯が離れれば、冬守は西へ傾きはじめた日が氷に作る照り返しのほうを向いてしまうだろう。転びながら歩く係を、冬守は待ってくれない。

リツは背負い袋を下ろした。口を開けて、底から、七日前から入れっぱなしのものを取り出した。

木の台に鉄の刃をはめた、古いスケート靴だった。紐は緑色で、片方だけ新しい。

ユズハとホクトが、同時にリツを見た。

「……なんで持ってるの」

「仕事が終わったら、滑ろうと思って」リツは早口になった。「鏡池は、初氷がいちばんいいの。町が全部眠った夜に、ひとりで、ちょっとだけ。見習いになってからずっと我慢してて、今年こそと思って、一週間前から袋に入れて……」

言えば言うほど、顔が熱くなった。ホクトが、こらえきれずに吹きだした。

「冬眠係が、寝坊して、スケート持ってきた」

「迎えに来たんです」

「スケートで」

「スケートで」

リツは岸の石に腰かけて紐を締めた。指が覚えていた。立ち上がり、氷に刃を乗せて、体重を移す。ひと蹴りすると、体は思っていたよりずっと素直に前へ出た。

氷は黒く澄んでいた。足もとを見ると、氷の中に閉じこめられた小さな泡が、星のように散らばっている。その上に、初雪が薄く粉を撒いていく。刃が氷を削る音が、しゃっ、しゃっ、と池の上に広がった。

二十六年生きてきて、この音がいちばん好きだった。それを思い出すのに、ひと蹴りで足りた。

冬守の顔の前で止まった。近くで見ると、閉じたまぶたは家の窓掛けほども大きい。鼻息が吹きつけてきて、リツの三つ編みが揺れた。湿った苔と、松やにのような匂いがした。

リツは迎え灯の蓋を開け、息を吹きこんだ。橙色の火が、ぽっとともる。それを冬守の目の前へ、まぶたに触れそうなほど近くまで差し出した。

まぶたが、ゆっくりと持ち上がった。

琥珀色の、大きな目だった。その丸い表面に、小さな橙の火と、小さなリツが映っていた。冬守は、遠くの鐘のような低い声で、ぼおん、とひと声鳴いた。

「おはようございます」とリツは言った。「遅れてすみません。冬眠係です」

リツは後ろ向きに、ゆっくりと滑りだした。冬守の頭が持ち上がって、灯を追う。六本の脚が一本ずつ伸びて、巨体が立ち上がった。氷がみしりと鳴ったが、割れはしなかった。鏡池は底まで凍る。子どものころから知っていることだった。

冬守は一歩、また一歩と、灯についてきた。

岸へ向かって大きく弧を描いている途中で、冬守の頭がふいに横を向いた。西へ傾いた日が、氷の上に長い光の帯を作っていた。リツは強く蹴って冬守の鼻先へ回りこみ、灯をぐっと近づけた。近くの光ほど強い。琥珀の目が、また灯に戻った。

同じことを三度くり返した。三度目には太ももが震えていた。それでも、後ろ向きに滑りながら、リツは自分が笑っていることに気がついていた。

冬守を岸に上げ、リツはスケート靴を脱いで革靴に履き替えた。刃を拭いて袋に戻してから顔を上げると、ユズハが青い毛糸にくるまっていた。

「寒くて眠くなってきたら、ホクトさんが貸してくれたの」

ホクトの、じいちゃんの冬眠着だった。ホクトには小さくても、ホロ族の中でも小柄なユズハなら、肩まですっぽり入る。

「それでね、手をあっためようと思って脇のところに入れてたら、ここが」

ユズハが、脇の縫い目のあたりをめくってみせた。生地が内側へ指二本ぶんほど折りこまれて、粗い糸でかがってある。その折り返しの裏に、色の違う糸で、小さな字が縫いとってあった。

――肥えたら ここをほどけ 婆より

「じいちゃんも、太ってたんだ」

ホクトは笑っていた。笑いながら、鼻をすすっていた。

「ほどけば、ちゃんと着られる。最初から、太ってもいいように編んであったんだ。おれ、秋じゅう何やってたんだろうな」

そう言って背中の荷物から干し芋を一枚出し、豪快にかじった。耳の金色は、もう半分ほどのところまで上がってきていた。

四 日没の坂

冬守を連れて峠道へ上がったのは、三時の少し前だった。

迎え道は、峠から町まで、尾根をなでるようにして下っていく。冬守の足で一時間半。日の入りまでは、一時間四十分ほどしか残っていない。余裕はなかった。

困ったのはホロ族の脚だった。ホクトとユズハの歩幅では、冬守の一歩に十歩かかる。

「乗っていい?」とユズハが冬守の脇腹を見上げた。

ガンジの書き置きに、乗るなとは書いていなかった。乗れとも書いていなかった。リツが迷っているうちに、冬守のほうが、長い毛に覆われた脇腹をゆっくり地面へ寄せてきた。灯を持ったリツが立ち止まったので、ひと休みするつもりで体を傾けただけかもしれない。それでも、どう見ても「乗りなさい」という形だった。

二人は長い毛をつかんで、綱のぼりの要領で背中へ上がっていった。ホクトは三回ずり落ちて、四回目にユズハに引っぱり上げてもらった。

リツは迎え灯を掲げて先を歩いた。後ろで、冬守の六本の脚が、雪をきゅっ、きゅっと踏んでついてくる。

雪は本降りになっていた。

「リツさん!」頭の上から、ユズハの声が降ってきた。「町が見える!」

振り返ると、冬守の背中の毛のあいだから、クリーム色の顔と金色の耳がのぞいていた。

リツのいる場所からは、木立のあいだに町の屋根がわずかに見えるだけだ。けれど冬守の背中の高さからなら、谷じゅうが見渡せるはずだった。白くなりはじめた屋根、煙突から上る細い煙、凍りかけた川、鈴の木の林、その向こうの鏡池。ホロ族が毎年眠ってやりすごしてきた、冬の最初の景色。

「きれい?」

「わかんない」とユズハは言った。「わかんないくらい、きれい」

その隣で、ホクトが二枚目の干し芋をかじっていた。

「最後の一枚は?」

「とっとく。寝返りの夜のぶん」

鈴の木の林のそばまで下りてきたとき、冬守の足が止まった。

日はもう、西の尾根にかかりかけていた。冬守は北の山から夜通し歩いてきて、峠で待ち、池まで下り、また登ってきたのだ。六本の脚が、一本ずつ折りたたまれていく。大きな体が、雪の上へ沈んでいく。

「だめ、まだ」

リツは灯を目の前に近づけた。琥珀の目は灯を見た。見て、それから、とろりとまぶたを下ろした。光は届いている。届いていても、眠気のほうが重いのだ。

日が沈めば、ここが冬守の冬の寝床になる。町まで、あと少しなのに。

「ユズハ!」背中の上で、ホクトが叫んだ。「茶! その茶!」

ユズハは一瞬きょとんとして、それから首の水筒をつかみ、毛の上を鼻先のほうへ這っていった。蓋を開けて、残っていた目覚まし茶を、冬守の大きな鼻の穴の前でぐるりと振る。

焦げた草の、あの苦い匂いが広がった。

冬守の鼻が、ひくりと動いた。もう一度、ひくり。それから、谷じゅうに響くようなくしゃみをした。背中の雪がいっせいに舞い上がり、鈴の木の葉がいっせいに鳴り、ホクトが毛の中に埋まった。

琥珀色の目が、ぱっちりと開いていた。

「ホロ族の鼻に毒なら」ホクトが毛の中から顔を出した。「でかい鼻には、もっと毒だと思ったんだ」

リツは笑う暇もなく、灯を掲げて歩きだした。冬守はぶるっと首を振り、立ち上がって、ついてきた。

町の北側を弓なりに囲む土手を、寝床の輪と呼ぶ。冬守の先頭の脚がその土手を踏んだのと、日の縁が西の尾根に触れたのは、ほとんど同時だった。

冬守は輪の上をゆっくり歩き、体を長く伸ばして、町の北半分を抱えこむように横たわった。ユズハは青い冬眠着を脱いでホクトに返し、二人は背中から滑りおりた。日が沈んだ。

冬守がまぶたを閉じる。今度は、冬の眠りだった。大きな鼻息が、ひとつ、ふたつ。白い霧が土手からこぼれて、町の坂道をゆっくりと下っていった。

眠り霧が通りを満たすころ、ホロ族の家々の戸が開いて、みんなが戸口に出てきた。ねむり節を聞くために、耳をほどいて。

リツは三か所で歌う。上町の坂の上、中町の広場、川町の橋のたもと。ねむり節は一日に三度まで。四度目は声が出ない。そして一度歌うたびに、歌い手のまぶたも少しずつ重くなる。

上町で、一度目を歌った。坂の上の戸口で、金色の耳がうなずくように次々と垂れ、ホロ族たちは家の中へ戻っていった。

中町の広場には、凍った噴水がある。リツは噴水の前に立ちかけて、足を止めた。氷の面に、迎え灯を持った自分が映っている。リツはくるりと噴水に背を向け、何もない通りのほうを向いて歌った。

ホクトは広場の端で、じいちゃんの冬眠着の脇の縫い目をほどいていた。かぶってみると、ちゃんと入った。胸の雪の結晶が、少しだけ横に伸びた。耳はもう、根元まで金色だった。ホクトは歌の途中で大あくびをして、「おやすみ、係」と言い、自分の家へ入っていった。戸が閉まる前から、いびきが聞こえた。

残るは川町だった。ユズハの家がある。

橋のたもとで、ユズハは自分の耳を両手で握っていた。結んではいない。握っているだけだった。

「まだ、見足りない」とユズハは言った。

「うん」

「でも、眠い」

「うん」

リツの声は、もう少しかすれていた。まぶたも重い。ユズハの気持ちはわかった。今日見た雪も、冬守の背中から見た谷も、冬のほんの入り口の、数時間ぶんでしかない。

リツは、眠り帳の一行を思い出した。三度書き直したなかで、一度も書き換えなかった行だ。

――冬至。寝返りの夜。冬守が寝返りを打つ。霧が一時間薄れ、皆が一度目を覚ます。水を飲ませ、寝かしつける。

一時間。水甕まで行って戻ったら終わりだ、とホクトは言った。窓は霜で真っ白で、外は真っ暗だ、とユズハは言った。

でも、冬至のころには川が凍る。

「ユズハさん」とリツは言った。「寝返りの夜に、迎えに行く」

ユズハが顔を上げた。

「冬至のころには川が凍って、鏡池まで氷の道になるの。わたしがスケートで、そりを引っぱる。十五分で池に着くから、一時間あれば帰ってこられる。夜の冬を見せてあげる。星も、雪も」

「スケートで」

「スケートで」

「冬眠係が」

「冬眠係が」とリツは言った。「わたし、冬に滑るのがいちばん好きなの。今日、それを思い出した。だから、ついでじゃなくて、こっちも本題」

ユズハは少しのあいだ、リツの顔を見ていた。それから、耳から手を離した。

「約束ね。寝坊しないでね」

「目覚まし鈴を三つかける」

リツは橋の欄干に背を向けた。凍りかけた川面を見ないように、町の家並みのほうを向いて、三度目のねむり節を歌った。

ユズハは、歌の終わりまで起きていられなかった。リツはユズハをそっと抱えて家まで運び、寝台に寝かせて毛布をかけた。

自分の家に帰ると、リツは窓に布をかけ、目覚まし鈴を三つ巻いて、そのまま寝台に倒れこんだ。今日は一度も窓に向かって歌っていない。それでも、朝までぐっすり眠った。

五 寝返りの夜

冬至の夜は、晴れていた。

町は七週間、眠っていた。リツは毎朝見回りをし、雪をかき、四十一軒ぶんの寝息の様子を眠り帳に書きつけた。そしてときどき、夜に、凍りはじめた川の浅瀬で滑った。最初の夜は誰かに見られている気がしてそわそわしたが、見ているものといえば、寝床の輪で丸くなった冬守の、閉じたまぶたくらいだった。

真夜中を少し過ぎたころ、足もとの地面がゆっくりと揺れた。

北の土手で、冬守が寝返りを打っていた。雪をかぶった小山が、ずしん、と向きを変える。霧が、すうっと薄くなっていった。

リツはスケート靴を肩に掛け、そりを引いて川町へ走った。ユズハの家の戸を叩く前に、戸のほうが開いた。ユズハは自分の家の冬眠着――若草色の、袖の長いもの――にくるまって、目をこすりながら立っていた。

「寝坊しなかった」

「三つかけたから」

ユズハをそりに乗せようとしたとき、通りの向こうから、青い毛糸の丸いものが転がるように走ってきた。ホクトだった。雪の結晶が横に伸びた冬眠着を着て、手に干し芋を一枚握っている。

「腹が減って起きたら、窓の外を係がそり引いて走ってった」

「一時間しかないですよ」

「だから急いで来たんだ」

そりは二人乗りだった。ホクトが乗ると、ぎりぎりの二人乗りになった。

リツは川岸でスケート靴を履き、そりの綱を腰に結んだ。凍った川に刃を乗せ、強く蹴る。そりが重たく動きだし、それから、すうっと軽くなった。

川の氷は、星明かりで青白く光っていた。両岸の雪がなだらかな白い壁になって、後ろへ流れていく。鈴の木の林の横を通ると、凍った葉が風に鳴った。昼間とは違う、細くて高い音だった。

ユズハは、ひとことも口をきかなかった。ホクトは干し芋を半分かじり、残りの半分を、少しためらってから、ユズハの手に握らせた。

十五分で、鏡池に出た。

池の氷は、雪をかぶっていなかった。風が吹き払ったのだろう。黒く澄んだ氷が、空をまるごと映していた。頭の上には冬の星がびっしりと出ていて、足の下にも、同じだけの星があった。

「下にも、星がある」とユズハが言った。

星を映す冬至の池で、若草色のユズハと青い雪結晶模様のホクトがそりに並び、赤い手袋のリツがスケートで弧を描く。干し芋の半分はユズハの手にある。

リツは綱をほどいて、そりのまわりを大きく一周した。それから、もう一周。今度は後ろ向きに。弧を描き、片足で回り、星の上を滑った。刃の音が、しゃっ、しゃっ、と池に広がった。

そりの上でホクトが手を叩いた。ユズハは冬眠着の袖から両手を出して、氷の上を走るリツの影を目で追っていた。三人分の息と、尾根の向こうに見える冬守の寝息の霧だけが、白かった。

「これが冬?」

「これも冬」とリツは言った。「明日の朝の雪かきも、冬」

「雪かきは、見なくていいや」

ガンジの懐中時計で、寝返りから三十分が過ぎたのを確かめ、リツはそりの綱を結び直した。帰りは下りだ。川の氷は行きよりもよく滑った。

町まであと少しのところで、ホクトの頭がかくんと前に落ちた。いびきが聞こえはじめる。ユズハはそりの縁につかまって、重いまぶたを一生懸命に持ち上げていた。

「リツさん」

「はい」

「来年も?」

「来年も。寝坊しなければ」

「しないで」

「しない」

答えたときには、ユズハはもう眠っていた。半分の干し芋を握ったまま。

町に着いたのは、一時間まであと五分というころだった。霧が、また濃くなりはじめていた。リツはユズハを抱えて家まで運び、それから、すっかり重たくなったホクトを、そりごと家の前まで引いていった。戸口から寝台までは、転がした。ホクトは途中で一度だけ目を開けて、「痩せなくてよかった」と言い、また眠った。

自分の家に戻ると、リツは机の引き出しから引き継ぎ帳を出した。いつか自分のあとで冬眠係になる誰かのための帳面だ。ガンジの書き置きの写しを貼った頁を開き、その下に書き足した。

――鏡池は底まで凍る。冬守が乗っても割れない。

――冬守が眠りかけたら、目覚まし茶。(苦木の根を三日煮出す)

――係も、冬に滑ってよし。

――追伸 窓に向かって歌うな。わたしは一回やった。

窓には布がかかっている。目覚まし鈴は三つ、きちんと巻いてある。

リツはスケート靴の刃を拭いて、背負い袋のいちばん取り出しやすいところにしまった。

明日の朝も、冬だ。