一 キイと鳴る
北村写真館の風見鶏を屋根から下ろしたのは、月曜の午後だった。
軸の付け根が錆びていて、風が吹くたびにキイ、キイと鳴る。九十年近く回り続けてきた銅の鶏は、近ごろ強い風の日にしか向きを変えなくなっていた。修理を頼んできた店主の北村郁也さんは、写真館の前で手を合わせて言った。
「七五三の撮影が始まる前に、すうっと回るようにしてほしいんです。土曜の朝には、着物の子たちがあの下に並ぶから」
土曜の朝八時までに戻す。それが契約だった。屋根に空いた軸の穴には仮の雨よけ蓋をかぶせてきたので、今夜雨が降っても写真館の天井が濡れることはない。
鳴海透は町でただ一人の屋根板金屋で、駅裏の古い倉庫を作業場にしている。下ろした風見鶏は、東西南北の文字が付いた方位の十字と鶏の本体とに分け、作業台に並べて寝かせた。羽の縁は緑青で青白く、尾羽には昔の雹が当たったらしい小さなへこみがある。
夜の九時。帳面をつけ終えて、天井の電気の紐に手を伸ばしたときだった。
「おい」
鳴海は紐をつかんだまま固まった。
「おい、そこの。おれを外したの、お前だろう」
作業台の上で、銅の鶏が首だけこちらへ回していた。くちばしは動かないのに、声はそのあたりから聞こえてくる。年季の入ったやかんのような、かすれて少し甲高い声だった。
「……疲れてるな、俺」
「疲れてるのは知らん。聞け。名前はキイ。軸が鳴るから、北村の先代の、そのまた先代がそう呼んだ」
鳴海は紐から手を離し、作業台までそろそろと歩いていって、鶏を見下ろした。キイはまた首を回して、鳴海の顔を見上げる。
「しゃべる風見鶏なんて、聞いたことがない」
「しゃべっても誰にも聞こえないからな。おれの声が届くのは、屋根の軸からおれを外した手の持ち主だけだ。屋根に戻されたら、また誰にも届かなくなる。四十年前に外されたときも、そのときの職人と話した。ろくに返事をしない男だったが」
「四十年前の職人と、俺を比べないでくれ」
「比べてない。お前はよくしゃべる。いいことだ」
鳴海は丸椅子を引き寄せて腰を下ろした。夢でも疲れでも、とりあえず話は聞いてみようと思った。屋根の上では、変わった音がしたら確かめずに通り過ぎない。それが癖になっている。
「それで、何の用だ」
「頼みがある。一度でいいから、北へ行きたい」
キイはそう言うと、くちばしを窓のほうへ向けた。北向きの窓ではなかったが、本人にはどうでもいいらしい。
「秋の終わりになると、北から冷たい風が来る。その風にいろんな匂いが乗ってくるんだ。木の粉の匂い。桜の木を燻したような煙。甘酸っぱい何か。それから雪の前の、鼻の奥がつんとする匂い。九十年、北を向いて嗅いできた。北には風の住処があるんだろう。そこへ行ってみたい」
鳴海は少し考えてから首を振った。
「いや、北に風の住処はない。北風っていうのは、北から吹いてくる風のことだ。お前の頭は、風が来るほうを向く。だから北風の日は北を向く。でも南風の日は南を向いてるだろ」
「南風の日は、潮の匂いと駅弁の匂いだ。あれは知ってる。駅のほうから来るし、海もあっちだ」
「じゃあ、北の匂いも、どこかから来てるだけだ」
「だから、その『どこか』へ行きたいと言ってる」
キイは翼の先を、方位の十字に付いたNの文字へ向けた。
「おれの下の文字は動かない。Nはいつも同じ場所にあって、回るのはおれだけだ。北風の日は、何千回とNのほうを向いた。でもNの向こうには給水塔と丘があって、何が見えたことも一度もない」
鳴海はNの文字に目をやった。真鍮の文字は、九十年分の雨を浴びて丸く磨り減っている。
「歩けるのか、お前」
「風があればな」
鳴海は立ち上がって、裏の小窓を開けた。夜風が細く入ってくる。と、作業台の上でキイの体がくるりと回って窓のほうを向き、細い脚で台の上をカシャン、カシャンと二歩進んだ。
鳴海が窓を閉めると、三歩目に上げた脚が宙に浮いたまま止まった。
「……ほら、これだ」
固まった姿勢のまま、声だけがした。いや、と鳴海は気づく。完全には止まっていない。倉庫の隙間風が、まだわずかに入ってきている。
「風がないとしゃべれないのか」
「まったくの凪になれば、ただの銅だ。声も出ない。人に運ばれて受ける風では動けない。吹いている風が要る。それと、首だけ振って見回すことはできるが、胴が向くのも歩けるのも、風の来るほうだけだ。風に背中を向けて歩くことはできない。押されて転ぶだけだ」
「つまり、北へ歩けるのは北風の日だけか」
「そういうことだ。それに、帰る。これは先に言っておく。土曜の朝、子どもらが着物を着て、おれの下に並ぶ。千歳飴の袋を振り回して、親に怒られる。あれを見るのが一年でいちばんいい日だ。それには必ず間に合わせる」
鳴海は腕を組んだ。
「お客さんの物を、勝手に連れ出すわけにはいかない」
「なら北村に聞け」
それはもっともだった。鳴海が答えに困って視線をそらすと、キイの首がその先を追った。壁に貼った町の地図が目に入ったらしい。
「あの地図の、上のほうの丸は何だ。×が三つ付いてる」
「町の北の端にある標柱だ。町境の石の柱」
「×は」
「三回行こうとして、三回とも引き返した」
「なぜ」
「迷ったから」
キイは、カチカチと金属を打ち合わせるような音を立てた。笑っているらしかった。
「屋根屋が迷うのか」
「屋根の上なら迷わない。棟がどっちに走ってるか、雨がどっちへ流れるか、上から全部見える。地面は駄目だ。道が曲がってるし、塀が高いし、同じような角が続く」
「おれは北へ行きたい。お前も北の端へ行きたい。一緒に行けばいい」
鳴海は返事をしないで、電気の紐を引いた。暗くなった作業台から、「聞けよ、北村に」という声がもう一度だけした。
二 写真館の許可
水曜の昼、鳴海は帆布の道具袋にキイを入れて、北村写真館へ出かけた。袋の口から鶏の頭が出ていて、駅前の風に吹かれるたびにくるくる向きを変える。そのたびに袋の中で銅がカチャカチャ鳴った。
「静かにしろ」
「風に言え」
写真館の扉を開けると、北村さんはスタジオで背景布にアイロンをかけていた。棚の上の小さなテレビが、天気予報を流している。
「あれ、鳴海さん。もう直ったんですか」
「いえ、軸受けは金曜に届きます。今日はお願いがあって」
鳴海は袋ごとキイを抱え直した。どう言えばいいか、来る途中ずっと考えてきた。結局、いちばん短い言い方しか残らなかった。
「明日一日、この鶏を外に連れ出させてもらえませんか。この鶏が、北へ行きたいって言うので」
北村さんはアイロンを置いて、鳴海の顔をまじまじと見た。それから吹き出した。
「鳴海さんも冗談言うんですね。初めて聞いた」
「いや、冗談では」
「いいですよ、いいですよ」
北村さんは、袋から出ているキイの頭を指でつついた。カチャン、と音が鳴る。
「ほら、返事した。外で風に当てて、回り具合を見るってことですよね? 土曜の朝に戻してくれるなら、うちは構いません。そのかわり」
北村さんはカウンターからメモ用紙を一枚ちぎった。
「北のほうへ行くなら、写真を一枚撮ってきてください。この子が、どこか遠くにいるところ。窓に飾りたいんです。『風見鶏、ただいま出張中』って」
「出張」
キイが袋の中で言った。
「悪くない」
テレビの気象予報士が、指し棒で地図をなぞっている。
「明日、木曜日は寒冷前線の通過後、朝から北風が強まります。午後は西寄りの風に変わり、夕方には弱まるでしょう」
キイの首がぴくりとテレビへ向いた。
「午後は西だと」
「聞こえてる」
鳴海は小声で答えた。北村さんが「え?」と顔を上げたので、「いや、明日は北風だなって」とごまかす。
「北の端まで行くんですか」
「町境の標柱まで。それと、けむり舎って燻製屋さんに寄りたいんです。去年の朝市で燻製りんごを見かけたんですけど、目の前で売り切れて。お店でなら、まだ買える日があるって聞いたので」
「けむり舎なら、北の果樹園の奥ですよ。うちの母がよく行ってました。あそこ、店は四時半で閉まりますから」
北村さんはメモ用紙に『北端口 17:30』と書いた。
「帰りは、この停留所からバスでも戻れます。最終の一本前だから、乗るなら五時半に」
それから、思い出したように付け加えた。
「明日は木曜ですよね。鳴海さん、木曜って休みでしたっけ」
「本当は、見積もりを書く日です」
「じゃあ休みにしてください。鳴海さんが休むところ、見てみたい」
北村さんはそう言ってから、「燻製りんご、私の分もお願いできます?」と財布を出した。鳴海は千円札を一枚受け取って、袋の内ポケットにしまった。
帰り道、キイはずっと首を回していた。
「お前、休んだことないのか」
「雨の日は休んでる」
「それは休みじゃなくて、雨だ」
鳴海はすぐには言い返せなかった。
その夜、鳴海は壁から地図を外して作業台に広げた。駅裏の作業場から北へ、商店街を抜けて鴨江川に出る。川沿いの遊歩道を上流へたどると、製材所、果樹園、それから峠の手前の坂の上に、小さな丸。これまでの三回とも、遊歩道を外れてから先がわからなくなった。
「今度は迷うなよ」
作業台の端から、キイが言った。今夜も窓を少しだけ開けてある。
「迷ったら、お前は前にしか歩けないんだぞ。道を探すのは俺だ」
「だから、迷うなと言ってる」
鳴海は方位磁石を紐で首から下げ、地図を丸めて袋に差した。屋根の上では携帯を見ない癖がついていて、外を歩くときも地図は紙に限る。
三 北風の日
木曜の朝十時、作業場のシャッターを上げると、冷たい風が正面から吹き込んできた。
キイを地面に下ろした途端、銅の体がくるりと回って、くちばしがまっすぐ北を指した。鳴海は首から下げた磁石を確かめる。針とくちばしが、ほとんど同じ方角を向いていた。
「北風だ」
キイの声は弾んでいた。
「行くぞ」
カシャン、カシャン、カシャン。細い脚が交互に出て、キイは駅裏の路地を歩き出した。思っていたより速い。風が強いぶん、足取りも速くなるらしい。鳴海はほとんど早足で後を追った。
商店街に入ると、通りの人たちが振り返った。銅の鶏が、アーケードの下をまっすぐ歩いていく。八百屋の前で、小さなリュックを背負った男の子がお母さんの袖を引っ張った。
「ロボット!」
「最近のおもちゃはすごいねえ」
キイは胸を張って、一段と脚を高く上げた。
「おもちゃだと思われてるぞ」
「九十年、写真に写り続けてきた。見られるのは慣れてる」
ところが商店街の出口で、キイは急に左へ寄った。道はそこで右に折れて、橋のほうへ回り込んでいる。キイの正面にあるのは、民家の生け垣だった。
「おい、そっちは人の家だ」
「北はこっちだ」
「道はこっちだ」
キイは生け垣にくちばしを突っ込んだまま、脚だけをカシャカシャ動かしている。鳴海はため息をついてキイを抱え上げ、道が折れたところで地面に戻した。下ろされた途端、キイはまた北を向き、橋への道を少し斜めに歩き出した。
「人間の道は、曲がりすぎだ」
「だから俺は迷うんだよ」
鴨江川に出ると、ようやく道と北が揃った。川は北の山から町を縦に貫いて、南の海へ流れていく。遊歩道は上流へ、つまり北へまっすぐ延びていた。川面に風が白い筋を立てている。
キイは脚を速めた。鳴海は頬を刺す風に襟を立てながら、その少し後ろを歩いた。ジョギングの人が追い越しざまにキイを二度見して、首を振りながら走っていった。
「なあ、鳴海」
「なんだ」
「お前は、なぜ北の端に行きたい」
鳴海はすぐには答えなかった。
「この町で生まれて、この町で屋根を直してきた。南の端は海で、東の端は鉄橋だから、子どものころに行った。西の端は、仕事で何度も通ってる。北だけ行ったことがない。屋根に上がると、北の丘がいつも見えてる。見えてるのに、行ったことがない」
「おれと同じだ」
「お前は、そもそも動けないだろ」
「お前は動けるのに、三回引き返した」
鳴海は、言い返す言葉を探すのをやめた。
正午少し前、二人は製材所の前に着いた。トタン屋根の大きな建物から機械の唸りが聞こえてくる。入り口の脇には、丸太を切った長いベンチが置いてあった。
キイが急に止まった。風は相変わらず北から吹いているのに、脚を上げたまま、くちばしを製材所のほうへ伸ばしている。
「この匂いだ」
「木の粉か」
「そうだ。北風の、最初の匂いだ。毎年、いちばん先に来る」
キイの声が、いつもより小さかった。
「こんなに近かったのか。屋根から、歩いて二時間もない」
鳴海はベンチに腰を下ろして、おにぎりの包みを開いた。キイはベンチの端に乗せてやった。そのとき町のほうから、正午のサイレンが長く鳴りはじめた。
「おい、見ろ」
キイが首だけ下へ向けた。
「昼の鐘のころ、屋根の上のおれの影は、だいたいNの字のほうへ伸びる。九十年、見てきた」
ベンチの横の地面に、鶏の形の影が落ちていた。影はくちばしの先から細く伸びて、遊歩道の上流のほうを指している。鳴海は磁石を出して並べてみた。針と影が、ほとんど重なった。
「大まかには合ってる。磁石も目安になるな。ちゃんと川上へ向かってる」
「当たり前だ」
キイはそう言ったが、自分の影を眺める首の角度は、どこか満足げだった。
「おにぎり、何が入ってる」
「梅と、鮭」
「どんな味だ」
「梅は、すっぱい。お前の言う甘酸っぱいとは違う。もっと、口がきゅっとなるやつだ」
「きゅっと」
キイは真面目な声で繰り返した。
「覚えておく」

四 風が変わる
遊歩道は、製材所から二十分ほど行ったところで、黄色い柵にふさがれていた。
「堤防工事のため通行止め 迂回路→」
矢印は、川から離れて丘の住宅地へ上がっていく坂道を指していた。鳴海は柵の前で立ち止まって、看板を見上げた。
「……ここだ」
「何がだ」
「前の三回とも、ここから先がわからなくなった。去年もおととしも工事してた。坂を上がると、道がくねくねして、袋小路ばかりで」
「上がらなきゃ北に行けないなら、上がれ」
キイは迂回路の坂を、斜めに歩きはじめた。鳴海はその後に続いた。緑ヶ丘という住宅地だった。似たような白い塀に、似たような屋根。鳴海は無意識に家々の屋根を見上げては、「あそこは谷樋が詰まってるな」とつぶやいてしまう。
一時半をまわったころだった。
前を歩いていたキイの体が、くるりと左へ回った。上げかけていた脚が、そのまま空中で迷うように止まる。
「……西だ」
鳴海の頬に当たる風も、向きが変わっていた。正面からではなく、左の横顔に冷たい。
キイは西を向いたまま、北へ脚を出そうとした。けれども体は風上を向いて動かず、脚は西へしか出ない。二歩、三歩と、ブロック塀に向かって進んでしまう。
「止まれ止まれ、塀にぶつかる」
鳴海はキイを抱え上げた。腕の中でも、キイの首はぐいぐい西へ回ろうとする。
「予報どおりだな」
鳴海は坂の途中の、小さな公園の柵にもたれた。地図を広げてみる。今いるのがどこなのか、もうよくわからない。北の丘の方角は磁石でわかる。でも、そっちへ延びる道がない。
「今日はここまでにしようか」
言ってしまってから、鳴海は自分の声を聞いた。三回とも、同じ場所で同じことを言った気がした。
「西風じゃ、お前は北に歩けない。暗くなる前に、川沿いまで戻って」
「四回目か」
腕の中から、キイが言った。
鳴海は黙った。
「おれは引き返さないぞ」
「歩けないだろ」
「歩けなくても、引き返さない。そもそも引き返し方を知らない。風のほうへしか行けないんだ、おれは。九十年、そうやってきた。お前は、どっちへでも歩けるくせに、迷いそうになるとすぐ回れ右をする。迷ったって屋根から落ちるわけじゃないのに」
「迷って、日が暮れて、帰れなくなったら」
「帰りはバスがある。北村が言ってた。北端口という停留所があるんだろう」
鳴海は、あ、と思った。テレビの横で北村さんが地図を指して、そんなことを言っていた。帰り道は、歩いて戻らなくてもいい。
「……重いぞ、お前」
「九十年分の銅だ。軽いわけがない」
鳴海は道具袋の口を大きく広げて、キイを中に入れた。頭だけが外に出て、相変わらず西へ西へと回ろうとする。歩きはじめると、そのたびに銅の頬が鳴海の耳に当たった。
「痛い」
「風に言え」
緑ヶ丘の道は、本当にくねくねしていた。
北へ向かうつもりで角を曲がると、東へ下る坂に出る。引き返して別の角を曲がると、行き止まりの車庫の前に出る。三度目の行き止まりで、鳴海は肩の袋を担ぎ直した。肩に紐が食い込んでいる。
「さっきの角を、右だったんじゃないか」
キイが言った。
「お前、西しか見てないだろ」
「西を見ながらでも、道は覚えてる」
三時を過ぎたころ、風がだんだん弱くなってきた。キイの首が回る勢いも落ちて、ときどき止まりかけては、思い出したように少し動く。
「鳴海」
「ん」
「凪が来る。もうすぐおれは止まる」
「わかった」
「止まっても、お前は」
そこで声が途切れた。
三時二十分。電線が一本も揺れていなかった。袋の中のキイは、首を半分ひねったままで固まっていた。鳴海が軽く揺すってみても、銅がカチャンと鳴るだけだった。
住宅地の真ん中に、鳴海はひとりで立っていた。
正確に言えば、四キロの銅の鶏と一緒にいた。でも、もう誰も「右だ」とも「北はこっちだ」とも言わない。
地図を広げた。磁石の針が北を指す。その先には、白い塀が続いているだけだった。
前の三回なら、ここで帰っていた。
鳴海は地図を畳んで、袋の中の動かない鶏を見下ろした。風上にしか歩けない鶏。前にしか進めない鶏。
風がないなら、と鳴海は思った。
風の代わりになるもの。いつも同じ向きに流れてくるもの。
「……川だ」
鴨江川は、北の山から下ってくる。水は必ず、北から南へ流れる。キイが風に向かって歩くように、川の流れに逆らって歩けば、それがそのまま北になる。地面の上で道に迷っても、川の向きだけは迷わない。屋根の上で雨水の流れを見るのと同じことだった。
鳴海は耳を澄ませた。車の音も風の音もない午後の住宅地で、坂の下のほうから、かすかに水の音がする。
鳴海は、坂を下る道を選んだ。北から離れていくように見える道だった。それでも、水音がだんだん近くなる。家と家のあいだの、市が管理している細い階段を見つけて下りると、目の前がぱっと開けた。
鴨江川だった。工事の柵は、ずっと下流のほうに小さく見えている。迂回路は、ここで川へ戻るように作ってあったらしい。鳴海は前の三回とも、その手前で引き返していたのだ。
川の水は、左から右へ流れていた。
鳴海は袋を担ぎ直し、流れに逆らうほうへ、左へ歩きはじめた。
二十分ほど歩いたところで、匂いが変わった。
最初は、誰かが焚き火でもしているのかと思った。けれども、もっと甘い。木の皮を炙ったような、少し花の香りが混じった煙だった。その奥に、もうひとつ、鼻の奥がくすぐったくなるような甘酸っぱい匂いがある。
「キイ」
鳴海は袋に向かって言った。返事はない。わかっていたが、言わずにいられなかった。
「たぶん、これだ。お前の言ってた、桜の煙と、甘酸っぱいの」
遊歩道の先で、川沿いの斜面が一面の果樹園に変わった。枝という枝に赤い実が下がっている。その奥に、小さな煙突から細い煙を上げている木造の小屋が見えた。軒先に、手書きの看板が掛かっている。
けむり舎。
腕時計は、四時十分を指していた。
五 北端の標柱
けむり舎の戸を開けると、煙の匂いがいっそう濃くなった。棚には燻製のチーズや卵、ナッツの袋が並んでいる。いちばん端の籠に、燻製りんごの袋が二つだけ残っていた。
「いらっしゃい。今日はもう、それでおしまいなんです」
前掛けをした早瀬さんが、奥の燻製室から顔を出した。鳴海は二つとも籠から取った。
「二つください。一つは頼まれ物で」
「ちょうどよかった。桜のチップで燻してます。りんごはうちの畑のですよ」
早瀬さんは袋を紙に包みながら、鳴海の肩の道具袋に目をやった。銅の鶏の頭が、首をひねったまま突き出ている。
「立派な風見鶏ですね」
「北村写真館のです。修理中で、ちょっと出張に」
「出張」
早瀬さんは笑ってから、ふと思い出したように言った。
「北風の日は、うちの煙が町のほうまで流れていくらしいんですよ。駅のほうの人に、煙の匂いでりんごの時期がわかるって言われたことがあります」
鳴海は、袋の中の固まった鶏の頭を、そっと手のひらで包んだ。
「標柱って、この近くですか。町境の」
「ああ、北端の。そこの坂を上がったところです。日が沈む前に行くなら、急いだほうがいいですよ」
坂の上には、腰ほどの高さの四角い石の柱が立っていた。
正面に、彫り込んだ文字が並んでいる。町の名前と、「北端」の二文字。苔の生えた側面には、昭和の年号が刻まれていた。
四時四十分。鳴海は柱の前に立って、しばらく動けなかった。
それから手を伸ばして、石のてっぺんに触れた。ひんやりしていて、ざらついている。屋根の瓦と似た感触だった。
「……着いた」
道具袋を下ろして、キイを取り出した。柱の根元に立たせてみる。首を半分ひねったままの鶏は、だいぶ間の抜けた格好だった。それでも鳴海は携帯を出して、柱と鶏と、その向こうの空が入るように一枚撮った。北村さんの窓に飾る、出張中の写真だ。
西の空が橙色になって、果樹園の向こうの山の稜線が濃い影になっていく。
そのとき、首筋にすうっと冷たいものが当たった。
山のほうから、坂を下るように風が吹いてきた。日が落ちると、山から谷へ冷えた空気が流れ下りてくる。北の山から吹く、夕方の風だった。
カシャン、と足元で音がした。
キイの体がくるりと回り、くちばしが北を向いた。
「……ここは、どこだ」
「標柱だ。北の端」
「着いたのか」
「着いた。お前が止まってるあいだに、川をさかのぼって」
キイは首をめいっぱい伸ばして、北を見た。標柱の向こうで、道は峠へ向かって下っていく。その先には隣町の灯りがぽつぽつと見えはじめていて、さらに奥には、山がいくつも重なっていた。いちばん高い山の頂だけが、うっすらと白い。
「あれは」
「初雪だな。たぶん今朝の前線で降った」
キイは長いあいだ黙っていた。風が尾羽に当たって、銅がかすかに鳴った。
「雪の前の匂いは、あそこから来てたのか」
「たぶん」
「遠いな」
「遠い」
「木の粉は、製材所だった。煙と甘酸っぱいのは」
「けむり舎。桜のチップで燻してるって。りんごはそこの畑のだ。ほら」
鳴海は包みを開いて、燻製りんごの袋をキイのくちばしの前に近づけた。キイはしばらく黙ってから、ため息のような音を出した。
「これだ。九十年、これだった」
「あそこまで行くか」
鳴海は白い山を指した。
「行かない」
キイはあっさり言った。
「土曜だからな。子どもらが並ぶ」
それからキイは、標柱の脇まで歩いていった。カシャン。柱と並ぶ。
「鳴海。一歩だけ、向こうへ行っていいか」
「行けよ」
キイは脚を上げた。北風に向かって、まっすぐ前に。カシャン、と銅の足が、町の外の地面を踏んだ。
「北へ行った」
キイはそう言うと、満足したように胸を張った。それから、少し困った声になった。
「戻れない」
「だろうな」

鳴海は笑って、キイを抱え上げた。腕の中で、キイの首はまだ北の山を向いていた。
五時半、北端口のバス停から最終の一本前のバスに乗った。乗客は鳴海のほかに、買い物袋を提げたおばあさんが一人だけだった。
車内には風がない。膝の上の袋の中で、キイはまた固まっていた。
鳴海は窓の外を流れていく果樹園の暗がりを眺めながら、袋に向かって小声で話した。製材所のサイレンのこと。迂回路のこと。川を下ってから上ったこと。早瀬さんが言っていた、煙が駅のほうまで流れていくという話。
返事はなかった。それでも、話しておきたかった。
おばあさんが、銅の鶏に話しかける鳴海を不思議そうに見ていた。目が合ったので、鳴海は会釈した。おばあさんも、にこりと会釈を返してくれた。
金曜の昼に、新しい軸受けが届いた。
鳴海は作業台で古い軸受けを外し、錆を落として、新しいものを取り付けた。試しに作業場の小窓を開けると、キイはするりと、音もなく窓のほうへ回った。
「鳴らないな」
キイが自分で言った。
「いい軸受けだからな。十年は鳴らない」
「名前が台無しだ」
「名前はそのままでいいだろ」
その夜、鳴海は小窓を細く開けたままにして、作業台の前に座っていた。キイが声を出せるのは、今夜が最後だった。
「鳴海。おれの下のNの向こうに何があるか、もう一度言ってみろ」
「製材所の木の粉。けむり舎の桜の煙と、りんご。それから、雪の山」
「よし。忘れるなよ」
「お前こそ」
「おれは毎年嗅ぐからな。忘れようがない」
キイは首を回して、壁の地図を見た。
「次はどこへ行く」
「東の標柱。子どものころに行ったのは鉄橋の手前までで、本当の端までは行ってない。それと、西の端も、通り過ぎたことはあっても、標柱の前で立ち止まったことはない」
「東なら、東風の日にしろ。東風は湿ってて重いぞ。ゆっくり行け」
「お前、ついて来られないだろ」
「だから言ってる」
鳴海は笑った。キイも、カチカチと笑った。
「またおれを外す用事を作れ」
「十年は壊れないって言っただろ」
「なら、十年後だ」
土曜の朝、七時半。
鳴海は決めておいたとおりに、仮の雨よけ蓋を外して、軸を据え、方位の十字を取り付けた。最後に、磁石でNの向きを確かめる。九十年前に誰かが合わせたのと同じ向きに、真鍮のNが戻った。
鶏の本体を軸に差す前に、鳴海は手のひらの中のキイを見た。朝の風が少しあって、キイの首がぴくりと動いた。
「じゃあな」
「ああ」
キイは言った。
「りんご、北村に渡しておけよ」
鳴海はキイを軸に据えた。
そのあとは、もう何も聞こえなかった。
屋根から下りると、北村さんが写真館の前で待っていた。鳴海は燻製りんごの袋と、千円札のお釣りと、携帯の写真を差し出した。夕焼けの空の下、苔むした標柱の横で、首を半分ひねった銅の鶏が立っている。
「うわあ」
北村さんは画面に顔を近づけた。
「本当に北の端まで行ったんだ。この子、ちょっと得意そうじゃないですか」
「固まってるだけです」
「いや、得意そうですよ。これ、すぐ焼いて窓に貼ります」
十時になると、写真館の前に着物の子どもたちが並びはじめた。千歳飴の袋を振り回して、親に「破れるよ」と叱られている。
その頭の上で、北から風が吹いた。
風見鶏は、キイとも鳴らずに、すうっと北を向いた。製材所と、けむり舎と、白い山のほうを。
鳴海は通りの向かいから、しばらくそれを見上げていた。写真館の窓には、北村さんが急いで焼いた写真が一枚、テープで貼ってあった。手書きの札が添えてある。
「風見鶏、北へ出張しました」
鳴海は作業場に帰って、壁の地図の前に立った。北の端の丸に付いた三つの×の上から、赤いペンで大きく◎を描いた。それから、東の鉄橋の向こうにある標柱に、新しく小さな丸をつけた。
作業台の上には、燻製りんごの袋が一つ。鳴海は一切れつまんで、口に入れた。桜の煙の匂いがして、それから甘酸っぱさが広がった。
鳴海は携帯を取り出して、週間予報を開いた。東風の日を探すためだった。


