一 平服とは何か
兄からのメッセージは、日曜の夜九時すぎに届いた。
〈十一月十四日の土曜、正午から食事会をします。場所はさくら台ボウルの二階、洋食グリル・ピンデッキ。両家だけ、全部で七人。ご祝儀はなし。平服で〉
沢渡衿子は、洗濯物をたたむ手を止めて、その文面を三回読んだ。三回目には、仕事のときの目になっていた。印刷会社で校正の仕事をして十二年になる。誤字を探す目で読むと、どんな文章にも引っかかりが見つかる。
ご祝儀はなし。これはわかる。両家だけ。これもわかる。ボウリング場の二階というのは少し意外だが、店の名前があるのだから店はあるのだろう。
問題は最後の四文字だった。
平服で。
衿子は床に座ったまま、部屋の奥のハンガーラックを見た。古着屋で買ったワンピースが、季節も年代もばらばらに十一着かかっている。そのうちの一着、一九七〇年代の深い緑のワンピースは、買ってから二年、一度も外に出ていない。胸元に小さなくるみボタンが並び、裾がふわりと広がる。着ていく場所がないまま、ずっと何かを待っている服だった。
兄の結婚の食事会。待っていた場所としては、申し分がない。
ただ、平服と書かれている。
検索すると、平服とは普段着のことではない、という記事が上から順に並んだ。略式の礼服のこと、ジーンズは避ける、いや最近はカジュアルでも、会場の格に合わせて、主催者の意図を汲んで。読めば読むほど、汲むべき意図が増えていく。
衿子は兄に電話をかけた。
「なに」
三コールで出た兄の声の後ろで、テレビの野球中継が鳴っていた。
「平服って、なに」
「普段の服」
「普段の何」
「普段の、服」
「お兄ちゃんの普段は、首のよれたトレーナーでしょう。あれで来られたら困るの、こっちは」
「困るのはお前じゃなくて澄香だろ」
「澄香さんは困らないかもしれないけど、お母さんが困るの。お母さんが困ると、わたしに電話がくるの」
兄の航平は三十八歳で、市の水道局に勤めている。地図の上の水道管の位置ならだいたい頭に入っているのに、自分の言葉が人にどう伝わるかには、昔からあまり興味がない。
「とにかく、普通でいいんだよ。かしこまるなって意味」
「かしこまらない程度に、ちゃんとした服ってこと?」
「お前、それ自分で言ってて意味わかってる?」
「わからないから聞いてるの」
電話の向こうで、兄が誰かに「衿子が平服で詰まってる」と言った。少し遠くで笑い声がした。澄香の声だった。
「じゃ、そういうことで」
「待って、まだ何も――」
切れた。
衿子はスマートフォンを床に置き、緑のワンピースを見た。普通。かしこまらない。でも、ちゃんとした。言葉の上では、このワンピースは三つとも満たしている気がした。
翌日の昼休み、衿子は会社の非常階段の踊り場で、店に電話をかけた。主催者の意図がわからないなら、会場に聞けばいい。校正でも、原稿の意味が取れないときは書いた本人か、せめて資料に当たる。
「はい、洋食グリル・ピンデッキです」
明るい男性の声だった。
「十一月十四日に、沢渡の名前で予約が入っていると思うんですけど、その出席者の者です。服装のことでお聞きしたくて」
「沢渡様、正午から七名様の個室ですね。はい。当店はドレスコードは特にございません」
「そうですよね」
「ただ」
衿子はペンを持ち直した。
「お食事のあと、一階のレーンを二つ、一時半からご予約いただいてますので、靴はこちらで履き替えていただきます。スカートですと、投げるときに少しお気になさる方もいらっしゃるかもしれません」
「レーン」
「ボウリングの、です」
「全員ですか」
「七名様で一ゲーム、と承っております」
衿子は礼を言って電話を切り、踊り場の手すりにもたれた。
平服で。
なるほど、と思った。意図は汲めた。普段の服、かしこまるな、という兄の言葉は、ボウリングができる服、という意味だったのだ。最初からそう書いてくれれば、昨夜一時間も記事を読まずにすんだ。
緑のワンピースで、ボウリングの球を構える自分を想像してみた。裾が広がる。くるみボタンがひとつ飛ぶ。母が「だから言ったでしょう」と言う。まだ何も言っていないのに。
衿子は兄に一行だけ送った。
〈ボウリングなら、最初からそう書いて〉
既読は昼休みが終わる直前についた。
〈書いたら、お前が練習するだろ〉
衿子は、返事を打たなかった。練習するに決まっているからだ。
二 古着屋のシャツ
衿子がボウリングで兄に勝ったことは、一度もない。
最初の記録は十歳のときだ。家族で行った国道沿いのボウリング場で、衿子は三十八点を出した。その一ゲームだけで、六投がガターだった。十四歳だった兄は百十二点で、帰りの車の中でずっとその数字を口にしていた。母は「衿子は初めてなんだから」とかばい、父は「ガターも経験だ」と言った。どちらも慰めにはならなかった。
それ以来、家族でボウリングに行くたびに、衿子は負けた。二十代になってからは、そもそも家族でボウリングに行かなくなった。勝てないまま、勝負の場が消えた。
それが今、兄の結婚の日に戻ってくる。
衿子は家族のグループトークを開いた。
〈食事会のあと、ボウリングだって。知ってた?〉
最初に返事をくれたのは父だった。
〈知ってる。グローブを新調した〉
父の康夫は六十八歳で、去年まで地元の工務店で現場監督をしていた。新調したグローブの写真が続けて届いた。手首を固定する、本格的なやつだった。
続いて母の道代。
〈お父さんは先週から素振りしてるのよ。廊下で。それより衿子、挨拶はどうするの? 澄香さんのほうは、お母さんが乾杯されるんですって。こっちは誰がやるの?〉
〈お兄ちゃんは、挨拶はなしって言ってた〉
〈なしって言っても、一言くらいはあるでしょう。お父さんは嫌だって言うし、私は泣くから、衿子が〉
〈なしって言ってたってば〉
〈一応よ。一応考えておけば、なかったら使わなければいいんだから〉
母の「一応」は、たいてい本番になる。衿子は〈考えとく〉とだけ返して、トークを閉じた。
十月最初の土曜日、衿子はさくら台駅で電車を降りた。
下見のつもりだった。店の場所と、駅からの道と、ボウリング場の雰囲気と。当日になって迷うのも、会場に着いてから想像と違ったと慌てるのも嫌だった。
さくら台ボウルは、駅から商店街を抜けた先にあった。四角い三階建てで、屋上に、赤いピンの形の大きな看板が立っている。ピンの塗装は少し褪せていて、近くで見ると首のところに補修のあとがあった。自動ドアの中から、球の転がる低い音と、ピンが弾ける乾いた音が聞こえた。
二階に上がる階段の横に、ピンデッキのメニューが貼ってあった。ハンバーグとエビフライ、オムライス、ナポリタン。いちばん下に、写真つきで「名物 プリンアラモード」とある。固めのプリンの周りに、缶詰のさくらんぼとメロンと、生クリームが盛られていた。
衿子はその写真を撮って、駅へ戻る道で、古着屋の看板を見つけた。
〈古着 ロバの耳〉
通り過ぎるつもりだった。ボウリングができる、普段の、ちゃんとした服を探すなら、駅ビルで紺のパンツを買えば済む。わかっていて、足が止まった。古着屋の前で足が止まるのは、衿子の体質のようなものだった。
店の中は狭く、ラックの間を横歩きで進まなければならなかった。レジの奥で、丸い眼鏡の店主が文庫本を読んでいた。
奥のラックの端に、それはかかっていた。
緑のシャツだった。深い、少し青みのある緑で、襟と胸ポケットに、白いパイピングが入っている。開襟で、生地はしっかりしたレーヨン。胸ポケットの上に、白い糸の筆記体で「Toshi」と刺繍がある。
裏返すと、背中いっぱいに、チェーンステッチの刺繍があった。
ボウリングのピンが二本と、その間を転がる球。上に弧を描くように〈SAKURADAI BOWL〉、下に〈土曜リーグ 1978〉。

「それ、この辺のボウリング場のですよ」
店主が文庫本から顔を上げずに言った。
「去年、近所の方がまとめて持ってきてくれた中の一枚で。刺繍、手でやってあるでしょう。今は機械ばっかりだから」
衿子は鏡の前でシャツを当ててみた。緑は、衿子がいちばん好きな色だった。あのワンピースと、ほとんど同じ緑だった。
ボウリングができる。普段の服というには主張が強いが、かしこまってはいない。ちゃんとしているかと言われると困るが、少なくとも首はよれていない。
値札は三千八百円だった。
「これ、ください」
紙袋を提げて駅へ歩きながら、衿子は少しだけ笑った。兄に勝つための服ではない。ただ、これを着て投げたら楽しいだろうと思った。それは、ワンピースを着ていく場所を探していた二年間とは、少し違う気分だった。
三 進行表は、ない
それでも、母の「一応」は衿子の中でちゃんと育っていた。
十月の半ば、衿子は会社の昼休みに、A4一枚の進行表をつくった。正午、着席。十二時五分、乾杯(森下和枝様)。十二時十分、食事。十二時五十分、沢渡家より一言(衿子)。十三時十分、デザート。十三時半、一階レーンへ移動。十四時五十分、終了、記念撮影。十五時、解散。
挨拶の原稿も書いた。兄は昔から几帳面な人で、で始まる四百字。几帳面かどうかは怪しかったが、挨拶とはそういうものだと思った。
十月十八日の日曜、衿子はその二枚を鞄に入れて、兄と澄香の住むマンションを訪ねた。表向きは、結婚祝いを届けるためだった。古着屋で見つけた、北欧の古いテーブルクロス。二人が使うかどうかはわからないが、自分で選んだものを渡したかった。
「わあ、いい柄」
森下澄香は、テーブルクロスを広げて、窓の光にかざした。三十九歳。歯科技工士で、細かいものを見る仕事のせいか、気に入ったものに顔を近づける癖がある。髪を短く切りそろえていて、笑うと目尻にきゅっと線が入る。
「この縁の糸、ほつれてるとこ、私直していい? こういうの直すの好きなの」
「どうぞ。好きにしてください」
「好きにする」
澄香は即答して、テーブルクロスをきれいにたたんだ。航平は台所でお茶を淹れていて、湯呑みを三つ並べるのに、なぜか二回やり直していた。
衿子は鞄から進行表を出した。
「一応、つくってみたの。当日の流れ。お店の人にも見せられるように」
澄香は紙を受け取って、またぐっと顔を近づけた。航平が後ろから覗いた。
二人は同時に笑った。
「なに」
「いや、ちゃんとしてるなと思って」と航平。
「ちゃんとしてるの、だめなの?」
「だめじゃないよ」澄香が紙をテーブルに置いた。「ただね、衿子さん。進行は、ないの」
「ない」
「強いて言えば、ボウリング場の人。一時半になったら、レーンの準備ができましたって呼びに来てくれる。それまでは食べてしゃべる。それだけ」
「でも、挨拶は」
「なし。乾杯だけ、うちの母が言いたいって。母は一言しか言わないから、すぐ終わる」
「沢渡家からの一言は」
「なし」航平が言った。「俺が言うと絶対に照れて変になるし、親父がやると長くなるし、お前がやると、それ、四百字くらいあるだろ」
衿子は鞄の中の原稿を、手で押さえた。
「なんでわかるの」
「お前の進行表、一言に二十分取ってる」
言われてみれば、十二時五十分から十三時十分まで、二十分あった。母が泣くかもしれない時間を、無意識に足していた。
「それで、記念撮影は」
「それはやりたい」と澄香。「でも、ボウリングのあと。スコアが出てから」
「デザートは」
「デザートは、絶対にボウリングの前」
澄香の声が、少しだけ強くなった。
「あそこのプリンアラモード、私、初めて食べたとき感動したの。で、ボウリングのあとに食べると、勝った人と負けた人で味が変わるでしょう。だから、全員が同じ味のうちに食べてほしい」
「そこは譲れないんだ」
「そこは譲れない」
航平が、湯呑みを衿子の前に置いた。
「つまり、お前は何もしなくていい。普通に来て、食べて、投げて、帰る」
「何もしなくていい、って言われると、何かしなきゃいけない気がするの」
「知ってる。だから言ってる」
衿子は進行表を半分に折った。折った紙の角を見ながら、少し考えた。
「じゃあ、服は? 二人は何着るの」
「俺らは、いつもの格好」と航平。
いつもの格好。兄のいつもの格好は、首のよれたトレーナーだ。さすがに結婚の日にそれはないだろうから、きっとセーターか何かだろう、と衿子は思った。澄香は、と見ると、澄香は湯呑みを両手で持って、楽しそうに頷いていた。
「衿子さんは? 何着てくるの?」
「秘密」
衿子は言った。言ってから、自分でも驚いた。秘密にする理由は特になかった。ただ、緑のシャツのことを、当日まで自分だけのものにしておきたかった。
「秘密かあ」澄香はうれしそうに言った。「いいね。じゃあ、私たちも秘密にしとこ」
「俺らのは秘密じゃなくて、いつものだろ」
「いつものも、衿子さんにとっては秘密だよ」
その会話の意味を、衿子はそのとき、深く考えなかった。
帰りの電車で、家族のグループトークに報告した。
〈挨拶はなし、進行もなし。乾杯は澄香さんのお母さん。デザートはボウリングの前。以上〉
母からすぐに返事がきた。
〈わかった。一応、短いのを考えておくね〉
〈なしって言ってるでしょ〉
〈だから、短いのよ〉
父からは何もなかった。何もないのが、少し気になった。
その翌週の土曜、衿子は会社の近くのボウリング場で、ひとりで三ゲーム投げた。七十一点、八十四点、九十六点。九十六点は、人生の最高記録だった。手の皮が少しむけた。その後も週末に一ゲームずつ通ったが、九十六点は越えられなかった。会の二日前にもつい寄ってしまい、また手の皮をむいた。兄には、どれも言わなかった。
四 投げる前に一言
十一月十四日は、よく晴れた。
衿子は十一時四十五分にさくら台ボウルに着いた。緑のシャツの上に、ベージュのトレンチコートを着て、紺のパンツを穿いていた。一階のレーンからは、土曜の昼らしい、子どもたちの歓声が聞こえた。
二階のピンデッキの個室には、もう両親が来ていた。父は紺のブレザー、母は落ち着いた藤色のセーターに、真珠のネックレスをしていた。父の胸ポケットが、四角く膨らんでいた。
続いて、澄香の母の森下和枝と、弟の樹が来た。和枝は七十歳で、白髪をきっちりまとめ、背筋がまっすぐだった。樹は三十六歳、カメラを首から下げていて、挨拶の声が小さかった。
「主役は?」と母。
「下で靴、見てるって」と樹。「すぐ来ます」
そのとき、個室の扉が開いた。
「お待たせしました」
航平と澄香が並んで入ってきた。
二人とも、ボウリングシャツを着ていた。
紺地に、クリーム色のパイピング。胸ポケットの上に、航平は〈KOHEI〉、澄香は〈SUMIKA〉と刺繍がある。澄香がくるりと背中を見せると、そこには〈水曜リーグ ストライク食堂〉の文字と、フォークとナイフを交差させたピンの絵が縫いつけてあった。左袖には、小さく〈11.14〉。
「これが、いつもの格好」と航平が言った。「水曜リーグのチームシャツ。俺ら、そこで知り合ったから。袖のとこだけ、澄香が今日のために縫い足した」
「かわいいでしょう」と澄香。
母が「まあ」と言い、和枝が「この子、夜なべしてたのよ」と言った。
衿子は、コートのボタンに手をかけたまま固まっていた。
いつもの格好。秘密。いつものも、衿子さんにとっては秘密だよ。
「衿子、コート脱いだら? 暑いでしょう」
母が言った。
脱がないわけにはいかなかった。衿子は覚悟を決めて、コートを脱いだ。
緑のボウリングシャツが現れた。胸に〈Toshi〉。
個室が、一瞬、静かになった。
「かぶってる!」
最初に声を上げたのは母だった。遠慮というものを、この人は四十年前に実家に置いてきたらしい。
「あんた、なんで新郎新婦と揃えてくるの。しかもトシって誰」
「揃えてない、揃えてないの! 知らなかったの、これは古着で、たまたま」
「たまたまでボウリングシャツは着ないでしょう」
「ボウリングするって聞いたから!」
衿子はコートを着直そうとした。主役と服がかぶってはいけない。どの記事にも書いてあった。白を避けろ、主役より目立つな、主役と揃えるな。三つ目はさすがに書いていなかったかもしれないが、書いていなくても常識だろう。
その腕を、澄香がつかんだ。
「待って。背中、見せて」
「え」
「背中」
澄香は衿子をくるりと回し、背中の刺繍にぐっと顔を近づけた。
「チェーンステッチだ。手刺繍。うわ、ピンの首のとこ、糸の色を一段変えてる。これ、すごく手間かかってるよ」
「あの、澄香さん、ごめんなさい、知らなかったんです」
「なんで謝るの。これ、ここのリーグのシャツでしょう。SAKURADAI BOWL、土曜リーグ、1978」
澄香は顔を上げて、航平を見た。
「ねえ、衿子さんのほうが、うちのチームより年季入ってる」
「負けてるな、俺ら」と航平が言った。
樹がカメラを構えた。
「三人で並んでください。紺二枚と緑一枚」
「並ばない」
「並ぼう」と澄香が言った。
結局、衿子は二人の間に挟まれて、写真に収まった。シャッターの音を聞きながら、主役と揃えるな、という幻の記事の一文が、頭の中で少しずつ薄くなっていった。
席は、窓側に和枝、澄香、航平、父が並び、通路側に樹、衿子、母が座った。衿子の正面には、ちょうど澄香と航平がいた。
飲み物がそろうと、和枝が立った。手には何も持っていなかった。
「森下家の決まりを、ひとつだけお伝えします」
全員が和枝を見た。
「うちでは、ボウリングのとき、投げる前に必ず一言、何か言います。一投につき一文。長くても一文。それが今日の挨拶の代わりです。それでは、二人の結婚に、乾杯」
「乾杯」
グラスが鳴った。和枝はすっと座った。本当に一言だった。
衿子は、ジンジャーエールを飲みながら、母の顔を見た。母は笑顔のまま、膝の上でハンドバッグの口をそっと閉じていた。それから父を見た。父は胸ポケットに手をやって、その手をゆっくり下ろした。
一投につき、一文。
衿子は頭の中で、鞄の中の四百字を数えた。
食事は、温かいかぼちゃのポタージュから始まった。サラダ、それからハンバーグとエビフライの盛り合わせ。ハンバーグは厚くて、ナイフを入れると肉汁がにじんだ。エビフライの尻尾まで、母はきれいに食べた。
「衿子はね、十歳のとき、三十八点だったのよ」
ハンバーグが半分になったところで、母が言った。
「お母さん」
「ガターが六回。一回なんか、球が後ろに飛んだの。お父さんの足の上に」
「それは言わなくていい」
「航平は、それから三日、三十八、三十八って言い続けて」
「言ってない」と航平。
「言ってたわよ。衿子が泣いて、あんたのプリン取って食べたじゃない」
澄香が、両手で口を押さえて笑った。
「プリン取ったの?」
「取りました」と衿子は言った。もう開き直るしかなかった。「三十八点の恨みです」
「じゃあ今日のプリンアラモードは、取らないでね」
「今日は、ボウリングの前ですから」
「そう。前だから、みんな同じ味」
澄香はうれしそうに頷いた。
十三時十分、プリンアラモードが七つ運ばれてきた。写真と同じ、固めのプリンに缶詰のさくらんぼ、メロン、生クリーム。澄香は最初のひと口を食べて、目を閉じた。
「これ。これが食べたかったの」
衿子も食べた。卵の味が濃くて、カラメルが少し苦い。甘いものは、確かに、勝ち負けが決まる前のほうがおいしい気がした。
十三時半ちょうどに、エプロン姿の店員が個室の扉を叩いた。
「沢渡様、レーンの準備ができました」
五 来年も着られる服
一階の受付には、白髪の痩せたおじいさんが座っていた。名札に〈大槻〉とある。七人分の靴を出しながら、大槻は衿子のシャツに目を留めた。
それから、受付の台に手をついて、身を乗り出した。
「お嬢さん、ちょっと、背中」
衿子は、本日二度目、くるりと回った。
「――トシのだ」
「え」
「それ、俺のシャツだよ。大槻敏夫。トシ」
大槻は、胸の〈Toshi〉を指さして笑った。
「去年、娘が俺のタンスを勝手に片付けてね。古いのはもういいでしょって、まとめてどこかに持ってったんだ。駅前の古着屋か。そうか、あそこか」
「あの、お返ししたほうが」
「いらないいらない。着てもらったほうがいい」大槻は手をひらひらさせた。「一九七八年の土曜リーグ、うちのチームは最下位だった。十二チーム中、十二位。だから、そのシャツは一回も勝ってない」
「一回も」
「一回も。今日、勝たせてやってくれ」
背後で、航平が吹き出した。
「無理ですよ、大槻さん。こいつ、俺に勝ったことないんで」
「お兄ちゃん」
「三十八点」
「言った! 今言った!」
レーンは七番と八番だった。
組み分けは、澄香が事前に決めていた。七番に航平、衿子、父、樹。八番に澄香、母、和枝。
「兄妹対決は、隣で見たいから」と澄香は言った。「私、こういうの見るのがいちばん好きなの」
モニターに名前が並んだ。KOHEI、ERIKO、YASUO、ITSUKI。隣はSUMIKA、MICHIYO、KAZUE。
最初に投げたのは航平だった。球を構え、レーンの前で、少しだけ考えてから言った。
「今日、ターキー出したら、一生分の運を使い切ってもいい」
八本倒れた。
「一文目から縁起でもない」と和枝が言った。
次が衿子だった。十三ポンドの球を持ち、レーンの前に立つ。何を言うか、決めていた。原稿の一文目だ。
「兄は、昔から几帳面な人で」
投げた。七本。二投目で、二本。九本。悪くない。
戻ってくると、航平が言った。
「几帳面じゃないだろ」
「挨拶はそういうものなの」
三番目は父だった。新しいグローブを手首に巻きつけ、ゆっくりと胸ポケットから便箋を出した。三枚あった。
「本日は、お日柄もよく」
投げた球は、まっすぐガターに落ちた。
八番レーンでは、母が球を持っていた。母はしばらく黙って立っていた。それから、はっきりと言った。
「澄香さん、航平は小さいころから靴下を片方だけなくす子で、どこでなくすのかついに家族の誰にもわからないままでしたが、それも含めて面白がってくれる人が来てくれて、私はとてもうれしいです」
「面白がります!」と澄香が答えた。
和枝が言った。
「一文ね。ぎりぎり」
「ぎりぎり一文です」母は言い張った。
六本倒れた。
衿子は、腹を抱えて笑った。母は「一応」の短い挨拶を、全部読点でつないで、一文に押し込むことにしたらしい。
ゲームは、思っていたよりずっと騒がしく進んだ。
父の便箋は、一投ごとに一行ずつ読まれた。「両家を代表いたしまして」で四本。「若い二人は」で、隣の澄香が「若くないです」と言い、父は真顔で「若い二人は」と読み直して、スペアを取った。三枚目に入るころには、父は便箋を見なくなっていた。「澄香さん、航平の水道管の話は聞き流していいです」と言って、ストライクを出した。
樹は、毎回「撮ってから投げます」と言い、本当に撮ってから投げた。ほとんどガターだったが、本人は気にしていなかった。
和枝の一言は、いつも短かった。「よし」「次」「まだ」。それで着実に倒した。
澄香は、投げる前に必ず七番レーンのほうを見た。
「衿子さん、今、何点差?」
「聞かないでください」
衿子の一言は、四百字の原稿から、順番に一文ずつ取り出された。
「兄は、昔から几帳面な人で」
「几帳面ではないです、訂正します」
「兄は、昔から、わたしのプリンを先に食べる人でした」
「それはお前が先に取ったからだろ」と航平。
「投げる前の一言に、返事しないで」
五フレーム目を過ぎたころには、原稿は残っていなかった。残っていないことに、衿子は気づいていた。それでも、球を持てば、何か言いたくなった。
「お兄ちゃん、六フレーム目でスプリット出せ」
航平は、出さなかった。
「お兄ちゃん、小学校の作文で、将来の夢を水道って書いたの覚えてる?」
「お前、それ一文じゃなくて質問だろ」
「質問も一文」
そのフレーム、衿子はスペアを取った。
七フレーム目で、衿子はストライクを出した。
ピンが全部弾けた瞬間、八番レーンから澄香が両手を上げた。父がグローブの手で拍手した。樹が撮った。大槻が、受付の台の向こうで、こぶしを小さく握るのが見えた。
衿子は、振り向いて、自分の背中を見ようとした。見えるわけがなかった。それでも、トシのシャツが一回勝った気がした。
九フレームが終わって、モニターの数字は、衿子が八十七。航平は八フレームまでで百二十一だった。九フレーム目の欄にはスペアの印が入り、次の一投を待っていた。
勝てない。もう、計算するまでもなかった。
けれど、十フレームを残して、先月の自己最高の九十六まで、あと九本だった。
航平が、最後のフレームの前に立った。九フレーム目はスペアだった。ターキーを出すなら、十フレーム目で三つ続けてストライクを取るしかない。
八番レーンの三人も、投げるのをやめてこちらを見ていた。
航平は球を構えた。そして、レーンではなく、八番レーンのほうを見た。
「澄香、毎年ここで一ゲームやろうな」
投げた。ストライク。
航平の九フレーム目の点が確定し、そこまでの合計が百四十一に変わった。
澄香が「やる!」と叫んだ。
航平は、戻ってきた球をもう一度構えた。
「来年は、衿子にハンデをやらない」
ストライク。
「もともともらってない!」と衿子は叫んだ。
三投目。航平は、少し長く立っていた。肩が上がって、下がった。
「――緊張してる、今」
投げた。球は少し右に流れて、ポケットに入った。十本のピンが、順番を待っていたように、一本残らず倒れた。
ターキーだった。
航平は、両手を突き上げたまま振り返った。澄香が八番レーンから駆けてきて、兄に体当たりするように抱きついた。母が泣いた。結局、母は泣いた。父がグローブを外して拍手した。和枝が「よし」と言った。樹は、撮っていた。
最終スコアは、百七十一だった。

衿子の十フレーム目が残っていた。
球を持って、レーンの前に立った。後ろで、まだ兄が澄香と騒いでいた。モニターには、八十七の数字。勝てない。でも、ここで倒せば、人生でいちばん倒した日になる。
言う一文を、考えた。四百字の原稿は、もう全部使ってしまった。几帳面で始まる挨拶は、靴下と水道とプリンに解体されて、レーンの上に散らばっている。
残っているのは、いちばん短い一文だけだった。
「お兄ちゃん、澄香さん、おめでとう。来年は勝つ」
「それ二文だろ!」と航平が言った。
「一文!」
投げた。九本倒れた。残った一本を、二投目で倒した。スペア。三投目は、七本。
最終スコア、百四。
人生の最高記録だった。父は九十七だったので、父にも勝っていた。父は「グローブのせいだ」と言った。新調したグローブのせいにするのは、ちょっと違う気がした。
八番レーンは、澄香が百四十八、和枝が百二十一、母が七十六だった。母は「挨拶に集中してたから」と言った。
十四時五十分、受付の前で記念撮影をした。
大槻が、樹のカメラを構えた。七人が並んだ。真ん中に紺のシャツが二枚、その横に緑が一枚。
「はい、ストライク」
大槻の掛け声で、全員が笑った。
撮影のあと、澄香は、印刷してもらったスコアシートを広げた。全員の名前と、十フレームの数字が並んでいる。澄香は鞄からペンを出して、ひとりずつにサインを頼んだ。
「これ、毎年とっておくの」
「毎年?」と衿子が聞いた。
「毎年。十一月十四日に、ここで一ゲーム。結婚記念日は、ボウリング」
澄香は、自分のシャツの左袖を指さした。小さな〈11.14〉の刺繍。
「だから、今日の服は、来年も着られる服がよかったの。礼服だと、一回着て終わりでしょう。平服って、そういうつもりで書いてもらった」
「そういうつもり、って書いてくれたら……」
衿子は言いかけて、やめた。書いてあったら、たぶん、もっと悩んでいた。来年も着られる服、という言葉で、さらに一時間記事を読んでいた。
「書いたら、お前が練習するだろ」と航平が言った。
「書かなくても練習したよ」
「知ってる。手、皮むけてるもん」
衿子は手を後ろに隠した。
澄香が、衿子のシャツの胸を見た。〈Toshi〉の筆記体。
「ねえ、衿子さん。来年までに、その下に小さく名前、入れていい? トシの下に、エリって。消すんじゃなくて、足すの」
衿子は、受付のほうを見た。大槻が、こちらに向かって親指を立てていた。
「いいです。好きにしてください」
「好きにする」
澄香は即答した。
十五時に解散して、帰りの電車に乗ると、車内は夕方の光でオレンジ色だった。
衿子は膝の上に、たたんだコートを置いていた。緑のシャツは、まだ着たままだった。脱ぐ理由がなかった。
スマートフォンが震えた。家族のグループトークに、樹から写真が何枚も届いていた。個室で、紺二枚に挟まれて、困った顔の緑。七フレーム目、両手を上げる澄香。ターキーのあと、抱き合う二人の後ろで、母がハンカチを顔に当てている。父の便箋が、ボールリターンの上に置かれている。
最後の一枚は、十フレーム目の衿子だった。球を放した直後で、背中の〈SAKURADAI BOWL 土曜リーグ 1978〉が、ちゃんと写っていた。
続けて、兄から個別にメッセージが来た。
〈今日はありがとう。来年も平服で〉
衿子は、少し考えて返した。
〈来年も、これ着ていく〉
既読がついて、すぐに返事が来た。
〈ハンデなしな〉
〈こっちのセリフ〉
家に帰ると、衿子は緑のシャツをハンガーにかけて、ラックの端に吊るした。隣に、緑のワンピースがかかっている。二年間、着ていく場所を待っていた服だ。
並べてみると、二枚はほとんど同じ緑だった。
ワンピースのほうは、まだ待っていてもらうことにした。シャツのほうには、もう行き先がある。来年の十一月十四日、十三時半、さくら台ボウルの七番レーン。
衿子は、手のひらのむけた皮を見て、それから、来年に向けてもう一度、近所のボウリング場の営業時間を調べた。


