一 じゃがいも十四個
ベランダで土の袋を逆さにすると、乾いた音といっしょにじゃがいもが転がり出た。

「出た。出た出た」
津田圭吾は軍手の手で、新聞紙の上に広がった土をかき分けた。ピンポン玉ほどのもの、鶏の卵ほどのもの、ひとつだけ握りこぶしに近いもの。拾うたびに数を口にする。
「十二、十三……十四」
「十四個」
ガラス戸の内側で、穂波がマグカップを両手で包んだまま言った。十一月最後の土曜日、午後三時を少し過ぎたところだった。日差しはあるのに風が冷たくて、穂波はベランダに出てこない。
「八月の終わりに種芋を二つ植えて、十四個。七倍だね」
「七倍って言われると、急に投資っぽいな」
「土と袋で、いくらだっけ」
「千二百円」
「スーパーなら三百円ぐらいかな」
「言うなよ、そういうこと」
圭吾は袋の底まで手を入れて、取りこぼしがないのを確かめた。軍手に土の匂いがしみている。この三か月、出勤前に水をやり、台風の日には袋ごと部屋の中に入れた。路線バスの早番の日は五時に起きるから、水やりはそのついでだった。
穂波がキッチンから、はかりを持ってきた。仕事で毎日グラム単位のものを扱っているせいか、家でもすぐ量りたがる。歯科技工士の穂波は、石膏を練る水を目分量で決める人を信用しない。
新聞紙ごと部屋に運び入れて土を払い、ボウルに移して量る。
「六百八十グラム」
「それは、何人分?」
「肉じゃがなら、二人で二回分ぐらいかな」
その一言で、今夜の献立が決まった。
冷蔵庫の扉には、ホワイトボードの当番表が貼ってある。平日は早く帰れたほうが作る。土曜は圭吾、日曜は穂波。今日の欄には、圭吾の字で「?」とだけ書いてあった。
「土曜だから俺の番なんだけど」
圭吾は「?」を消して「肉じゃが」と書き、少し考えてから、横に「二人」と書き足した。
「俺のじゃがいもだから、二人でやろう」
「それ、理屈になってる?」
「なってない。手伝ってほしい」
穂波は笑って、マグカップを流しに置いた。
「いいよ。私、簡単な作り方知ってる。こないだ保存しといたの」
「俺も見つけた。すごく簡単なやつ」
「見せ合う?」
二人は顔を見合わせた。結婚して五年。映画の感想で二時間、引っ越し先のカーテンの色で一週間、議論したことがある。
「見せ合うと長くなるよな、俺たち」
「なるね。分担だけ決めよう」
圭吾がじゃがいもとにんじん、穂波が玉ねぎと肉。肉は穂波が昼に買ってきていた。牛こま切れ肉、二百グラムのパックが二つ。特売だったので、一つは冷凍しておくつもりだという。
「あ、それと、五時から七時のあいだに荷物が来るから」
「何?」
「お酒。ひやおろしの小瓶。肉じゃがで飲もうと思って」
穂波の顔が、少しだけ得意げになった。圭吾はうなずいた。
「俺は煮てるあいだに、ベランダ片付けるわ。土、出しっぱなしだし」
それぞれの楽しみが、それぞれの段取りに収まった。少なくとも、そのときの二人はそう思っていた。
二 簡単なほう
四時半に穂波が米を二合研いで炊飯器をセットした。四時四十五分、二人は狭いキッチンに並んだ。
二口コンロと、まな板を二枚置けばいっぱいになる調理台。並ぶと肘がぶつかるので、圭吾が流し側、穂波がコンロ側に立った。
圭吾は大きいものから皮をむいていった。十個むいたところで手を止める。残った四つは、どれもピンポン玉ぐらいだった。
「ちっちゃいのは明日、素揚げにする。塩振って」
「いいね。それはいい」
むいた十個を、圭吾は半分に切った。特に大きいものは四つに。スマホの画面には「じゃがいもは大きめに切ると崩れにくい」と書いてある。
隣で玉ねぎを切っていた穂波が、ちらりと見た。
「大きくない?」
「大きいほうが崩れないんだって」
穂波のスマホには「一口大に切る」と書いてあった。けれど穂波は何も言わなかった。崩れないならいいか、と思ったのだ。
穂波が玉ねぎを一個くし形に切り終えると、圭吾が言った。
「玉ねぎ、もう半分いる」
「そんなに?」
「甘くなるんだって」
穂波は首をかしげながら、もう一個を半分に切った。残りの半分はラップに包んで冷蔵庫に戻す。
にんじんを三分の二まで乱切りにすると、圭吾はコンロ下の棚から赤い鋳物ホーローの鍋を引っぱり出した。去年の誕生日に穂波が自分で買った鍋で、蓋だけでも片手では持ちにくいほど重い。圭吾のレシピには「厚手で蓋の重い鍋で」と書いてあった。
鍋の底に、穂波の切った玉ねぎを隙間なく敷きつめる。
流しでまな板を洗っていた穂波が振り返った。
「油、そこにあるよ」
「いらない」
「……そういうやり方もあるか」
穂波のレシピの一行目は「鍋に油を熱し、牛肉を炒める」だった。けれど料理の手順なんて家ごとに違う。炒めない肉じゃががあってもいい。穂波は二つ目のパックの肉を、冷凍用の袋に移しはじめた。
玉ねぎの上に、じゃがいもとにんじんを重ねる。
「肉、ちょうだい」
穂波から一つ目のパックを受け取ると、圭吾は肉をほぐして、いちばん上に広げた。
「肉、上なの?」
「上。肉の味が下に落ちていくんだって」
圭吾は小さな器に、酒大さじ三、砂糖大さじ一と半分、醤油大さじ二と半分を量って混ぜ、肉の上から回しかけた。重い蓋をして火をつける。弱火。時計は五時三分だった。
「あとは二十五分、放っておく。ここが簡単なとこ」
そう言うと圭吾は軍手をはめ直し、ベランダへ出ていった。ガラス戸が閉まる。
穂波は冷凍用の袋の口を閉じながら、コンロの上の赤い鍋を見た。
蓋をして、弱火。肉は炒めていない。水も入っていない。
蒸し焼きにしてから水を入れる手順なのかもしれない。穂波は蓋を少しだけ持ち上げて、中をのぞいた。玉ねぎ、じゃがいも、にんじん、肉。肉の表面に茶色い汁が少し光っていて、醤油の匂いがした。
醤油を先に少しだけ入れる人もいる。穂波の母がそうだった。
そのとき、チャイムが鳴った。
「来た」
小さな箱を抱えて戻ってくると、穂波はそれを冷蔵庫の前に置いて、もう一度鍋をのぞいた。底のほうから、かすかにちりちりと音がする。水のない鍋に火がついている、と頭のどこかが言った。
穂波は自分のスマホを見た。
――水四〇〇ミリリットルを加え、煮立ったらアクを取る。砂糖大さじ二、みりん大さじ二、醤油大さじ三を加え、落とし蓋をして中火で十五分。
ベランダに目をやると、圭吾は土の袋をたたむのに夢中で、こちらに背中を向けていた。
せっかく二人で作るんだから、ここからは私の番だ。穂波は計量カップに水を量った。
四百ミリリットルを鍋の縁から注ぎ、火を強める。煮立つと、肉のまわりに灰色のアクが寄ってきた。お玉ですくって捨てる。それから砂糖、みりん、醤油を量って入れ、アルミホイルを鍋の大きさに切り、真ん中に穴を開けて具の上にかぶせた。重い蓋は流し台の横に置いた。中火。時計は五時十四分。
レシピ通りだった。穂波は満足して、酒の小瓶を冷蔵庫の一番いい場所にしまった。
三 レシピ通りに
五時二十分、圭吾がベランダから戻ってきた。手を洗いながら、鼻をくんと動かす。
「お、いい匂い――」
言いかけて、コンロを見て止まった。
蓋がない。アルミホイルの下で茶色い汁がぐつぐつと泡を立てていて、鍋の中を汁が満たしていた。
「蓋は?」
「そこ。落とし蓋にした」
「水、入れた?」
「入れたよ。四百」
圭吾は濡れた手のまま、しばらく鍋を見下ろしていた。
「これ、無水なんだけど」
「むすい?」
「水を入れない。玉ねぎと野菜から出る水分だけで煮るやつ。だから玉ねぎを一個半、下に敷いたんだよ」
穂波はアルミホイルを見て、それから圭吾を見た。
「醤油、先に入ってたよね」
「入れたよ。俺のレシピの分量」
「私も入れた。私のレシピの分量」
二人は同時にスマホを出して、そこで初めて画面を並べた。
圭吾のレシピの見出しは「鍋に重ねて待つだけ! 水を使わない肉じゃが」。
穂波のレシピの見出しは「どんな鍋でも失敗しない、基本の肉じゃが」。
穂波が指を折って数えた。
「醤油が二・五と三で、大さじ五・五。砂糖が一・五と二で、三・五。みりん二、お酒三、水四百」
「どっちのレシピでもないな」
「どっちのレシピでもないね」
穂波が火を止めて小皿に汁を取り、ふうふう吹いて冷ましてからなめた。眉が寄る。小皿を受け取って、圭吾もなめた。同じ顔になった。
甘くて、しょっぱい。いつもの肉じゃがの汁を、もう一度煮詰めたような味だった。
鍋の前で、二人は口々に言いはじめた。
「なんで黙って水入れるんだよ」
「なんで何も言わずにベランダ行くの」
「二十五分放っておくって言っただろ」
「『弱火で、蓋を開けずに』まで言ってよ。途中から私が続けるつもりでいたんだから」
「だから、そういうレシピなんだって。『あとは待つだけ』って書いてある」
「こっちには『どんな鍋でも失敗しない』って書いてある」
「失敗したじゃん」
「足したからでしょ!」
少し大きな声が出て、二人とも黙った。火を止めた鍋の中で、汁がまだぷつぷつ言っている。
圭吾は鍋の中を見た。大きめに切ったじゃがいもが、三か月水をやった芋が、濃い汁に半分沈んでいる。
「……俺さ、じゃがいもの味がする肉じゃがが食べたかったんだよ。今日は。自分で育てたやつだから」
穂波は少し間を置いてから言った。
「私は、汁があるのが食べたかった。ご飯にかけたいの。肉じゃがって、最後に汁をご飯にかけるところがいちばんおいしいでしょ」
「それはわかる」
「わかるんだ」
「わかるけど、今日は芋の日なんだよ」
「お肉は私が買ったんだけど」
「それは、ありがとう」
穂波が吹き出しかけて、こらえた。
それで、どうするかという話になった。全部捨てるのは論外。水を足して薄めれば、汁が増えて鍋からあふれる。
穂波がお玉を手に取った。
「汁、半分抜こう。抜いたぶんは瓶に取っておいて、明日何かに使う。残りに水を足せば、ちょっと濃いめの普通の肉じゃがになる」
「それは、お前の肉じゃがだろ」
「そう。こっちは私のレシピで続ける。私のはどんな鍋でもできるから、片手鍋に移す。赤い鍋はあなたが使って」
圭吾は顔を上げた。
「俺のは何で作るんだよ。芋、全部そっちに入ってる」
「ちっちゃいのが四つあるでしょ」
圭吾は流しの横にある、皮つきの四つを見た。明日の素揚げ。塩を振るつもりだった四つ。
「……玉ねぎは」
「半分残ってる。にんじんの端っこも。お肉は」穂波は冷凍用の袋を持ち上げた。「冷凍庫に入れる前でよかった。半分使っていいよ」
「いいの」
「その代わり、明日の素揚げはなしね」
「それ、俺が損してない?」
「私も冷凍のお肉、半分損してるよ」
圭吾はしばらく考えて、うなずいた。
穂波はジャムの空き瓶を洗って伏せ、まずは浅い保存容器にお玉で汁を移していった。二百五十ミリリットルほど。濃い茶色の汁が、容器の中で揺れた。
「手早く冷まして、瓶に移したら冷蔵庫ね」
それから鍋の中身を、具が崩れないようにそっと片手鍋へ移した。二十センチの片手鍋には、どうにか収まった。そこへ水を百五十ミリリットル足し、鍋の縁にまだ余裕があるのを見て、アルミホイルをかぶせ直す。
「私のは、ここから落とし蓋で十五分。途中で触らない、混ぜない。崩れるから。レシピにそう書いてある」
「俺のも開けない。蒸気が逃げるから。二十五分」
圭吾は空になった赤い鍋をざっと洗って拭き、小さなじゃがいも四つの皮をむいた。穂波のはかりに載せる。
「百六十五グラム」
「元のレシピがじゃがいも六百グラムで……四分の一ちょっとか。三分の一弱にしとくか」
酒、大さじ一。砂糖、小さじ一と半分。醤油のところで、圭吾の手が止まった。
「醤油、大さじ二・五の三分の一って」
「大さじ一が小さじ三だから、小さじ二と半分」と、穂波がすぐに言った。
「助かる」
玉ねぎの半分を薄く切って底に敷き、半分に切ったじゃがいも、にんじんの端、牛肉百グラムを重ねる。穂波は袋に残った百グラムの口を閉じ、冷凍庫へ入れた。汁の容器は別のボウルの冷水に底を当てて冷まし、粗熱が取れると瓶に移して冷蔵庫へしまった。量った調味料を回しかけて、重い蓋をした。弱火。
「時間は?」と穂波が聞いた。
「二十五分」
「量が少ないのに?」
「時間は量で割れないだろ。芋に火が通るかどうかは、芋の大きさで決まるんだから。大きさはさっきと同じだし」
穂波は少し考えて、それはそうか、という顔をした。
「じゃあ、ここからは」
「それぞれ、レシピ通りに」
「口出しはなしで」
「なしで」
五時四十二分。二つの鍋が、二つのコンロに並んだ。
四 開けない二十五分
口出しはなしと決めたのに、二人ともキッチンから出ていかなかった。
圭吾はベランダの片付けに戻るつもりだったのに、赤い鍋の前から動けなかった。片付けの続きは明日でもいい。
穂波は片手鍋の前に立って、アルミホイルの穴から上がる湯気を見ていた。
五時四十六分、穂波が菜箸でアルミホイルの端を持ち上げた。
「それ、触ってない?」と圭吾。
「味見」
「『触らない』って書いてあるんだろ」
「味見は、触るに入らない」
「箸、入ってるけど」
「口出し」
圭吾は口を閉じた。穂波は小皿に汁を取ってなめ、少し考えてから、水をあと五十ミリリットル足した。足した水をなじませようと、箸の先で鍋底をそっとなでる。じゃがいもが一つ、ころりと転がった。
五時五十分に二回目。五時五十三分に三回目。
「それ、三回目」
「数えないで」
三回目に箸を入れたとき、具のぎっしり詰まった鍋の中で、大きめのじゃがいもの角がほろりと崩れた。穂波は黙ってアルミホイルを戻した。
圭吾の鍋は静かだった。重い蓋の下から、ことことと小さな音がするだけだ。圭吾はときどき、蓋に耳を近づけた。
「音でわかるんだよ、こういうのは」
「何がわかるの」
「……煮えてるのが」
「それは私にもわかる」
五時五十七分、穂波の鍋の十五分が終わった。穂波は火を止め、竹串をじゃがいもに刺した。すっと通る。肉にも中心までしっかり火を通した。アルミホイルをかぶせたまま、鍋をコンロの奥へずらす。
「冷めるあいだに味がしみるんだって」
「それもレシピ?」
「これはお母さん」
穂波は冷蔵庫から小瓶を出してラベルを眺め、また戻した。食べるときまで我慢するらしい。
六時。圭吾の鍋は、あと七分。
穂波が鼻を鳴らした。
「なんか、香ばしくない?」
「香ばしいのは、うまいってことだろ」
「焦げる手前の匂いだと思う」
「レシピに開けるなって書いてある。開けたら蒸気が逃げて、そこで水分が足りなくなるんだよ」
「でも、鍋の大きさは同じなのに、水分の元になる玉ねぎは三分の一しか入ってないよね」
圭吾は言い返そうとして、言葉に詰まった。穂波も、はっとしたように口を押さえた。
「ごめん。口出しだった」
「……いや」
圭吾は火のつまみを見た。もう最小になっている。これ以上は弱くできない。開けるか、開けないか。スマホの画面には太字で「途中で絶対に開けない」と書いてある。
圭吾は開けなかった。蓋のつまみをにらんだまま、残りの七分を待った。
六時七分。圭吾は布巾を当てて、重い蓋を持ち上げた。
湯気がふわっと上がる。いちばん上の肉はつやつやした茶色で、じゃがいもは角が立ったまま、表面がうっすら透き通っていた。甘い匂いがする。そしてその奥に、はっきりと焦げの匂いがあった。
木べらで底をそっと探る。玉ねぎが鍋底に張りついていた。端のほうは飴色だが、真ん中は焦げ茶色で、ところどころ黒い。
「……違った」と圭吾は言った。
「何が」
「時間も。同じままじゃ、だめだった」
「違ったね」
穂波は笑わないように頑張っている顔をしていた。圭吾のほうが先に笑ってしまった。
黒くなった玉ねぎは木べらでこそげ取って、別の小皿に分けた。竹串を刺すと、じゃがいもはすっと通った。肉にも中心まで火を通してから、皿へ移した。
「私も白状すると、四回触った」
「三回だろ」
「あなたが蓋に耳を当ててるときに、もう一回」
赤い鍋の底には、焦げが茶色い輪になって残っていた。
「それ、金たわしはだめだからね。ホーローが傷つくから」
「じゃあ、どうするの」
「この鍋の説明書、取ってあるから。冷めたら、あれを見て落とそう。食べたあとでいいよ」
「俺がやる」
「当然」
五 二つの皿と、翌朝の瓶
六時二十分。小さなダイニングテーブルに、器が二つ並んだ。
穂波の肉じゃがは深い鉢に入っていた。汁がたっぷりあって、崩れたじゃがいもの角が溶け出し、汁が少しとろりと濁っている。
圭吾の肉じゃがは平たい皿に、小さなじゃがいもが八切れ。汁はほとんどなく、皿の底に茶色いたれが少し光っている。焦げた玉ねぎは除けてあった。
ご飯を二膳よそうと、穂波が冷蔵庫から小瓶を出してきた。小さなグラスを二つ並べて、少しずつ注ぐ。
「飲む?」
「一口だけ」
圭吾は酒にあまり強くない。グラスの縁をなめるように飲んで、うん、と言った。冷たくて、ほんの少し甘い。
最初に、圭吾は自分の皿のじゃがいもを箸で割った。湯気といっしょに、黄色っぽい断面がのぞく。口に入れると、ほくほくしていて甘かった。醤油の味の奥に、ちゃんとじゃがいもの味がある。三か月、袋の土の中にいた味だ――と口に出したら大げさすぎるので、圭吾は黙ってもう一切れ食べた。

穂波も、圭吾の皿から一切れ取った。
「……じゃがいもの味がする」
「だろ」
「ちょっと、焦げの匂いもする」
「それは言わなくていい」
「でも、お酒には合う」
穂波はもう一切れ取って、酒を一口飲んだ。それからご飯に箸を伸ばしかけて、止まった。
「ご飯は進まないね。汁がないから」
「……それはそう」
次に圭吾は、穂波の鉢から崩れかけのじゃがいもを取り、汁ごとご飯にのせた。じゃがいもは汁を吸って、中まで薄茶色になっていた。箸の先でほろりと崩れて、ご飯の上で汁と混ざる。少し濃い。でもそのせいで、ご飯が止まらない。
「うまい」
「でしょ」
「汁だけでご飯一杯いける」
「いけるでしょ」
「でもこれ、俺のじゃがいもかどうか、わかんないな」
「わかるよ。大きく切ってあるもん。私ならもっと小さく切る」
「そこかよ」
穂波が箸を置いた。
「どっちがおいしかったか、せーので指さす?」
「やめとこう」
「なんで」
「勝ったほうが、次から作り方を決める感じになるから」
「勝つ気だったくせに」
「お前もだろ」
結局、せーので指さした。
圭吾は穂波の鉢を指していた。穂波は圭吾の皿を指していた。
二人はしばらく、互いの指先を見ていた。
「……これ、どういう結果?」
「相手の勝ちが二つ。だから、引き分け」
「次からどうする?」
「鍋は二つ」
「レシピも、先に見せ合う」
「見せ合ったら長くなるよ」
「長くなってもいい。鍋に火をつける前なら、いくら長くてもいい」
圭吾は笑って、ご飯をおかわりした。穂波の鉢の汁は、底が見えるところまで減った。圭吾の皿は、穂波が酒といっしょに、ほとんど一人で片付けた。
食べ終わると、圭吾は冷めた赤い鍋の説明書を開き、手入れの方法を確かめた。穂波は残った自分の肉じゃがを浅い容器に小分けして手早く冷まし、先にしまってあった汁の瓶の隣へ入れた。瓶にはマスキングテープが貼ってあって、油性ペンで「けんかの汁 11/28」と書いてあった。
圭吾は当番表の「肉じゃが 二人」の下に、小さく書き足した。
――鍋は二つ。口出しは味見のあと。
それを読んだ穂波がペンを取って、さらにその下に書いた。
――味見は四回まで。
「多いよ」
「四回は、私の実績だから」
翌朝、日曜日。当番表では穂波の番だった。
八時すぎに穂波が起きてキッチンへ行くと、圭吾が先に起きていて、片手鍋の前に立っていた。
「当番、私だけど」
「瓶の汁、そのまま使ったら絶対しょっぱいから」
「それはそう」
圭吾は瓶の汁を半分だけ鍋に入れ、同じくらいの水を足したところだった。穂波が小皿で味を見る。
「もうちょっと水」
「レシピは?」
「ないよ、こんなの。けんかの汁だもん」
水を足して、昨夜の残りの肉じゃがを入れ、ぐつぐつ煮立つまで温める。穂波が卵を二つ溶き、圭吾が冷蔵庫の青ねぎを刻んだ。肘がぶつかったけれど、どちらも何も言わなかった。
溶き卵を回し入れ、半熟になったところで火を止めて、ご飯の上にすべらせる。青ねぎを散らす。
肉じゃがの卵とじ丼。昨夜のじゃがいもは、ひと晩たってさらにやわらかくなっていた。
「これ、どっちのレシピ?」
「どっちでもない」
「どっちでもないのが、いちばんうまかったりして」
穂波はちょっと考えてから、首を横に振った。
「ううん。昨日の、あなたのじゃがいものほうが好き。今日のは、今日の」
圭吾は丼を持ったまま、少しだけ得意そうな顔をした。
食べ終わって、圭吾はベランダに出た。空になった袋が、たたんで隅に立てかけてある。今日は穂波もマグカップを持って、ガラス戸を開けて出てきた。
「次は何を植えるの」
「じゃがいも。春に」
「また?」
「今度は種芋を四つ植える」
「四つ」
「鍋、二つ分」
穂波は笑って、空の袋を指で数えるふりをした。
「千二百円が、二千四百円だね」
「言うなよ、そういうこと」
冷蔵庫の瓶に残った半分は、今夜の煮物に使うことになった。どちらのレシピで作るかは、まだ決まっていない。


