一 一塁側、十五列目
改札を出たところで、父はもう左手にグローブをはめていた。
「お父さん、ここ、まだ駅だよ」
「慣らしだ。十年ぶりだからな」
森下昭夫は七十六歳だ。紺の帽子のつばには、白い糸で牛の角が縫い取ってある。高嶺ブルズの帽子だった。グローブは飴色に焼け、親指の付け根の革紐だけが新しい。ゆうべ自分で結び直したのだと、電話で自慢された。
青田朋絵は、自分の首にかけた黄色いタオルを見下ろした。白いペリカンが三羽、くちばしをそろえて並んでいる。港南ペリカンズの応援タオルだ。キャップは父と同じ紺色だが、つばの横についているのはペリカンの横顔だった。
「並んで歩くと、どっちの味方かわからないね、私たち」
「わかるだろう。俺がブルズで、お前が間違ってる」
「ここ港南だからね。間違ってるのはお父さんの帽子のほう」
九月最後の土曜日、午後五時十分。港南球場へ向かう坂道は、黄色いタオルと黄色いTシャツで埋まっていた。ところどころに紺の帽子が混じっていて、見つけるたびに父は小さく顎を上げた。相手もたいてい、同じように顎を上げ返した。
母の律子は、今朝から町内会の仲間と一泊の温泉に出かけている。出がけに朋絵へ電話があった。
「お父さん、ひとりにしておくと、テレビの前でずっと審判に文句言ってるから。悪いけど、どこか連れ出してくれない?」
ちょうど今夜はペリカンズ対ブルズの試合で、朋絵は一か月前に一塁側の席を一枚だけ取っていた。慌ててサイトを開くと、運よく隣の一枚が残っていた。十五列目の九番と十番だ。
「一塁側か」と父は言った。「三塁側は取れなかったのか」
「取らなかったの。私の隣が空いてたから」
「ペリカンの巣のどまんなかで、ブルズを応援しろってのか」
「静かにね」
「静かな応援なんてあるか」
朋絵は四十四歳で、港南市水道局の漏水調査係にいる。車の通りが減った夜の道路にしゃがみ、音聴棒という長い金属の棒を消火栓などに当てて、耳をつける。つながった水道管にひびがあると、水の漏れる音がかすかに伝わってくるのだ。しゅう、とも、ちりちり、ともつかない細い音。先週は三晩続けて夜の路上にいた。だからこの土曜日は、久しぶりにまるごと自分のものだった。
入場口では、ボランティアのジャンパーを着た年配の男性がチケットを読み取り、「ファウルボールにお気をつけて」と言った。父はグローブを持ち上げて見せた。
「気をつけてるよ。このとおり」
「グローブはお席でお使いください。通路で追いかけないでくださいね」
「わかってる、わかってる」
わかっている人の返事ではなかった。
十五列目は、一塁ベースを少し後ろから見下ろす高さにあった。ネットの向こうの、まだ誰もいない芝生に、夕方の光が斜めに伸びている。朋絵は通路側の十番に、父は内側の九番に座った。父の手提げは、二人の足もとのあいだに置いた。
朋絵は鞄からスコアブックと鉛筆を出した。鉛筆は三本、家で削ってきた。三十歳のころから、球場に来るたびに書いている。表紙の裏には、これまでの観戦数が正の字で並んでいる。今夜で七十二試合目だった。
「まだそんなもの書いてるのか」と父が覗きこんだ。
「まだって、お父さんに見せたことあった?」
「正月に、こたつで書いてただろう。テレビの試合を」
「あれは練習」
「書いてたら試合が見えんだろう」
「見てるから書けるの」
スタメンの発表が始まり、朋絵は一人ずつ名前を書きこんでいった。ペリカンズの六番、捕手、大槻。三十四歳で、肩はもう全盛期ほど強くない。それでもピンチになると必ずマウンドへ歩いていき、投手の帽子のつばを軽くつまむ。朋絵はその仕草を見たくて球場に来ているようなものだった。
ブルズの三番、三塁手、八代の名前が呼ばれると、父が「よし」と言った。周りの黄色いタオルの何人かが、こちらを振り向いた。
「お父さん」
「名前を聞いただけだ」
前の十四列目には、小学校の二、三年生くらいの男の子と、父親らしい男性が座っていた。男の子は黄色い子ども用のグローブをはめて、何度も拳を打ちこんでいる。それを見た父も、自分のグローブに拳を打ちこんだ。振り向いた男の子は父の帽子に気づいて、少し顔をしかめた。
「ブルズだ」
「そうだよ」と父は胸を張った。
「負けるよ、今日」
「言ったな」
朋絵が塩焼きそばとビールを買って戻ってくると、父は男の子を相手に、どっちの外野手の肩が強いかで言い合っていた。
午後六時、試合が始まった。
一回は、両チームとも三人で終わった。二回表、ブルズは先頭打者が二塁打で出て、内野ゴロで三塁へ進み、犠牲フライで一点を取った。父は控えめに、少なくとも本人の中では控えめに、グローブを頭の上で二回叩いた。前の男の子が振り向いて「ずるい」と言った。
「ずるくない。野球だ」
朋絵はスコアブックに一点を書きこみ、ビールをひと口飲んだ。焼きそばの紅しょうがが、少し多かった。
二 二ボール一ストライク
三回表、一死一塁で八代が打席に入った。
父が身を乗り出し、グローブを胸の前に構えた。朋絵は鉛筆の先を八代の欄に置いた。
初球は外角の直球を見送ってボール。二球目、低めの変化球を空振り。三球目はまた外れてボール。二ボール一ストライクになった。
「狙ってるぞ」と父が言った。「次、来る」
「宝くじみたいに言わないで」
四球目は内角の速い球だった。八代のバットが、少し遅れて出た。
かつん、と鈍い音がした。芯ではなく、根もとに当たった音だ。ボールは一塁側スタンドの上へ、高く、後ろ向きに上がっていった。
場内のあちこちで、係員の笛が短く鳴った。
「来る」
まず耳が、いつもの快い打球音との違いを拾った。夜の路上で、細い水音に気を留めるときと似ていた。顔を上げると、白い球がこちら側の空にあった。
朋絵はスコアブックを頭の上にかざし、通路側で体を縮めた。隣で父がグローブを高く掲げた。前の席の父親は、息子の肩を抱き寄せて頭を低くさせた。
ボールは十七列目の、まだ客の来ていない座席の背もたれに当たった。がん、と硬い音がして、跳ね返った球は階段に落ち、一段、二段と弾みながら勢いをなくして転がってきた。
朋絵はとっさに両足を上げた。
球は通路から十五列目に入り、浮かせたままの彼女の白いスニーカーのつま先に当たった。こつん、と向きを変えて座席の下へ転がり、父の手提げの底にぶつかって止まった。
父のグローブは、まだ空に向かって開いたままだった。
周りの人たちが、一斉にこちらを見た。朋絵は上げていた足をそっと下ろし、身をかがめて座席の下に手を伸ばした。
ざらりとした縫い目が指に触れた。
拾い上げると、思っていたより重かった。白い革の一か所に、灰色のこすれた跡がついている。背もたれに当たったところだろう。赤い縫い糸が一本だけ、少し毛羽立っていた。
「お客様、お怪我はありませんか」
オレンジ色のジャンパーを着た若い女性の係員が、手すりにつかまって一段ずつ階段を下りてきた。
「大丈夫です。私も、父も」
「前のお客様も、大丈夫ですか」
前の席の男性が「平気です」と手を上げた。男の子は父親の腕の下から、目だけを出していた。
係員は十七列目の背もたれも見上げて確かめてから、朋絵に向き直った。
「当球場では、客席に入ったファウルボールは、拾われたお客様にお持ち帰りいただけます。記念にどうぞ。ただ、次の打球もありますので、前を見ていてくださいね」
「ありがとうございます」
そこで父が、グローブを下ろして口を挟んだ。
「いや、ちょっと待ってくれ。今のは俺の鞄に当たって止まったんだ」
係員が困ったように、手提げと朋絵を見比べた。
「お父さん」
「事実を言ってるだけだ」
「その前に私の靴に当たってる」
「靴は通り道だろう。止めたのは鞄だ」
「その鞄、お母さんのでしょ」
父がちょっと詰まった。係員は笑いをこらえる顔で言った。
「ご家族でお話しいただければ……。拾われた方に、というのが当球場の決まりですので」
それで十分だった。係員は会釈して、階段を上っていった。
「拾ったのは、私」
朋絵は球を両手で包んだ。父は空のグローブを膝に置き、声を低くした。
「打ったのは八代だぞ」
「打ったのは八代。来たのは十五列目の十番」
「ブルズの球は、ブルズのファンが持つのが筋だろう」
「ペリカンズのピッチャーが投げた球でもあるけど」
父は前の列に向けて顎をしゃくり、さらに声を落とした。
「それに、ほら。ああいうのは子どもにやるのが、球場の作法ってもんだ」
男の子が振り向いて、こちらを見ていた。目が朋絵の手もとにくぎづけになっている。
朋絵は、ほんの一秒だけ迷った。それから言った。
「あげません」
自分でも思ったより、はっきりした声が出た。
「七十二試合目で、初めて来たの。あげません」
父が何か言い返そうとしたとき、男の子が口を開いた。
「それ、八代の?」
「うん。八代のファウル」
「じゃあ、いらない」
男の子は、きっぱりと首を振った。
「ブルズのボールだもん。ぼく、大槻のがいい」
前の席の父親が吹き出した。肩を震わせながら「すみません、こいつ頑固で」と朋絵に頭を下げる。
「いいえ。大槻、いいですよね」
「いい」と男の子は言った。「でも、ちょっとだけ、さわってもいい?」
朋絵は球を差し出した。男の子は黄色いグローブを外し、素手で受け取った。両手のひらで転がし、縫い目を親指でなぞる。
「かたい。テレビよりかたい」
「でしょう」
「ここ、汚れてる」
「背もたれに当たったとこ」
男の子は球を顔に近づけて、においをかいだ。それから大事そうに、朋絵の手のひらへ戻した。
「ありがとう。ブルズのだけど、いいボールだった」
「こちらこそ、ありがとう」
隣で父が、うなるような声を出した。
「なんで俺が悪者みたいになってるんだ」
「なってないよ。自分から寄っていってるだけ」
朋絵は球をハンカチでくるみ、鞄の内ポケットに入れてファスナーを閉めた。それからスコアブックを開き直して、手が止まった。
電光掲示板の三回表のところに、ゼロが入っている。グラウンドでは、ペリカンズの選手たちが一塁側のベンチへ駆け戻ってくるところだった。
八代の欄は、「2-1」と書いたところで途切れていた。
三 記録料
「お父さん」
「なんだ」
「八代、どうなった?」
父はグローブをはめ直し、ゆっくり腕を組んだ。
「見てなかったのか」
「見てなかった。ボール拾って、係の人と話して、男の子にさわらせてたから」
「俺は見てた」
「だから聞いてるの」
「教えてやってもいいが」父はグラウンドに目をやったまま言った。「記録料がかかるな」
「いくら」
「その球」
「高すぎる」
「じゃあ、帰りのタクシー代」
「電車で帰るよ」
「なら、その残りの焼きそば」
朋絵は、紅しょうがの多い焼きそばのパックを父の膝にのせた。父は割り箸を割ってひと口食べ、もったいぶってから話しだした。
「その客席へ入った球で、二ボール二ストライク。その次の、落ちる球を空振り。三振だ。次の四番は初球を打って二塁ゴロ。それでスリーアウト」
「空振り三振」
「見事な空振りだった」
朋絵は八代の欄に、ファウルの印と三振の印を書きこんだ。それから、ファウルの印を鉛筆で小さく丸で囲んだ。
「お父さん」
「なんだ」
「じゃあこの球、八代の三振の、一個前の球だね」
父の箸が止まった。
「……縁起でもないことを言うな」
「事実を言ってるだけ」
父は黙って焼きそばを食べ終え、パックを輪ゴムで丁寧に閉じた。それからしばらく、球の話はしなかった。朋絵は笑いをこらえて、ビールの残りを飲んだ。
四回裏、ペリカンズは二死から、二人続けて四球を選んだ。大槻が打席に入ると、一塁側スタンドが波のように立ち上がった。
「大槻ー!」
朋絵も立ち上がり、黄色いタオルを両手で頭の上に張った。前の男の子は、子ども用のグローブを振り回している。父は座ったまま腕を組んでいた。
大槻は二球目を見送り、三球目を流し打った。打球は一、二塁間をゴロで抜けて、ライトの前へ転がった。二塁走者が三塁を回り、ホームへ頭から飛びこんだ。
一対一。
スタンドが揺れた。朋絵は前の男の子とハイタッチをして、そのまま反対の手を父に差し出した。父はしばらくその手を見ていたが、やがてグローブの面で、ぱん、と軽く叩き返した。
「今のは、ブルズのライトの守備位置が悪い」
「大槻がうまく打ったの」
「位置が悪い」
一塁ベースの上で、大槻がヘルメットを外して汗をぬぐい、ベンチに向かって小さく拳を見せた。朋絵はスコアブックに、いつもより濃く打点の印をつけた。
六回表、ブルズは先頭の二番打者がしぶとくセンター前に落とした。八代の進塁打で走者が二塁へ進み、四番のタイムリーで勝ち越した。二対一。父は今度こそ遠慮なく立ち上がり、グローブを頭の上で三回叩いた。周りの黄色いタオルからため息が漏れ、二、三人の笑い声もそれに混じった。
「お父さん、座って」
「八代が送ったんだぞ。三振の一個前の球なんて言われた男が、ちゃんと仕事したんだ」
「進塁打は、記録の上ではアウトです」
「記録なんかどうでもいい」
「記録料を取った人が言わないで」
七回裏の攻撃前、スピーカーからペリカンズの応援歌の前奏が流れはじめた。一塁側から外野まで、黄色いタオルがいっせいに頭の上で回りだす。朋絵も立ち上がってタオルを回した。この時間のために、毎年、新しいタオルを一枚だけ買っているのだ。
ふと隣を見ると、父も立っていた。タオルの代わりに、グローブをはめた左手を肩の高さでくるくる回している。
「なにしてるの」
「座ってたら前が見えんだろう。周りに合わせてるだけだ」
「ブルズファンなのに」
「ブルズファンは礼儀正しいんだ」

七回裏、ペリカンズは一死二塁のチャンスを作った。代打で出た左打者が初球をレフト線に落とし、二塁走者が一気に還ってきた。二対二。
朋絵はタオルを振り回して跳ねた。前の男の子も跳ねた。父は座り直して、「あそこはレフトの守備位置が悪い」とつぶやいた。
「今日は守備位置の悪い日だね、ブルズ」
「うるさい」
後続の二人が倒れて、七回裏は終わった。朋絵はタオルを首に戻し、鉛筆を握り直した。ビールはもうなかった。そのとき、スコアブックの紙の上に、ぽつりと丸い染みができた。
四 雨のあいだ
八回表の途中、一死二塁のところで、雨は本降りになった。
審判が両手を広げて試合を止め、グラウンドキーパーたちが内野に駆けだして、大きな防水シートを広げた。場内アナウンスが「ただいま降雨のため、試合を中断しております」と繰り返す。午後八時四十分だった。
朋絵は鞄を胸に抱えて、空を見上げた。
「雨合羽……」
「持ってきてないのか」
「天気予報は見たの。夜から降水確率四十パーセント。だから入れた。別の鞄に」
父は勝ち誇った顔で、母の手提げを開けた。ビニール袋に入った雨合羽が二枚出てきた。一枚は紺色で、もう一枚は透明だった。
「母さんが入れた。二枚」
「お母さんが、ね」
「持ってきたのは俺だ」
父は紺色のほうを朋絵に差し出した。
「こっちにしろ。ペリカンの黄色を隠しとけ」
「透明のほうでいいよ」
「透明だと、中のタオルが見えて目がちかちかする」
朋絵は紺色の合羽をかぶった。少し大きくて、袖が指先まで来る。父は透明の合羽を着て、グローブをいったん外してからフードの紐を結び、またはめ直した。合羽の袖口から出たグローブが、雨粒を受けて光っていた。
二人は階段を上がり、屋根のあるコンコースへ逃げこんだ。売店の前には列ができている。朋絵は肉まんを二つ買って、ひとつを父に渡した。父はグローブを外して脇に挟み、熱い肉まんを両手で割った。
スマートフォンが震えた。夫の健吾からだ。
〈そっち、雨すごい? テレビ中断してる〉
〈すごい。中断中〉
〈お義父さん、元気?〉
〈元気すぎる。あと、ファウルボール拾った〉
〈え、すごい! どっちの?〉
朋絵は少し考えてから打った。
〈私の〉
すぐに、笑っている猫のスタンプが返ってきた。
画面を覗きこんでいた父が、肉まんを飲みこんで言った。
「健吾くんは、球なんかいらんだろう」
「いらないと思う。棚に置くなら、ほこりは払ってねって言うと思う」
「なら、うちに置いたっていいじゃないか。母さんも見られる」
「お母さん、野球のボールに興味ないよ」
「ある。今日から持つ」
「勝手にお母さんを味方にしないで」
コンコースの窓の外で、防水シートの上に雨が白く跳ねていた。父はしばらくそれを眺めてから、少し声の調子を変えた。
「高嶺にいたころな。中学の時分は、友だちと三人で外野席に毎週のように通った。ボールなんか、一回も来なかった。こっちに出てきてからは、工場の草野球で、このグローブを三十年はめた」
父は脇に挟んだグローブを持ち上げてみせた。
「一回もだ。客席で、ボールに触ったことがない」
「知ってる」
「知ってるのか」
「お正月のたびに言ってるから」
父は口をとがらせた。
「六十年だぞ、六十年。お前は何年だ」
「十四年。七十二試合」
「七十二試合と六十年なら、六十年の勝ちだろう」
「年数で決めるなら、私、お父さんに一生勝てないじゃない」
父は何か言いかけて、やめた。肉まんの包み紙をたたんで、ポケットに入れた。
朋絵は鞄の内ポケットを、外からそっと押さえた。ハンカチ越しに、球の丸みが手のひらに当たる。
十四年前、職場で夜勤が続いた時期があった。夜明けの道を帰りながら、ふと、明るいところで大きな声を出したいと思った。それで、ひとりで球場に来た。最初の試合は九対一で負けた。それでも外野席で、知らない人とハイタッチをした。帰りの電車の中で、次の試合のチケットを取った。
そういうことを全部、父に説明する気はなかった。説明したところで、この球が自分のところに来た理由にはならない。転がってきたから、ここにある。それで十分だった。
「お父さん」
「なんだ」
「グローブ、濡れてるよ。拭いたら」
父はハンカチを出し、グローブの革を、指の一本一本まで丁寧に拭いた。
午後九時十八分、場内アナウンスが試合の再開を告げた。
雨は小降りになっていたが、やんではいなかった。スタンドの客は半分ほどに減っていて、残った人たちは合羽のフードの下で肩を寄せ合っていた。再開後、八回表のブルズは一死二塁から後続が倒れた。八回裏のペリカンズは三人で終わった。
九回表、二死一、三塁で八代の打順が回ってきた。
父が立ち上がった。合羽の中でグローブを胸に構え、口の中で何か唱えている。
一ボール一ストライクから、八代は外角の球に逆らわず打ち返した。ライト前。三塁走者がゆっくりとホームを踏んだ。三対二。
「よおし!」
父の声が、雨の一塁側スタンドに響いた。今度は誰もため息をつかなかった。前の席の父親が振り向いて「やりますね、八代」と言い、男の子は「ずるい」と言った。ブルズの攻撃は、次の打者が倒れて終わった。
父はグローブを朋絵に向けた。
「見たか。今日のヒーローだ。その球は、ヒーローの球だ」
「三振の一個前の球だよ」
「それでもだ」
朋絵は八代の欄に、ライト前の線と打点の印を書きこんだ。濡れた紙に、鉛筆の先が少しひっかかった。
九回裏。ペリカンズは先頭打者が四球で出て、送りバントで二塁へ進んだ。次の打者が三振して、二死二塁。そして大槻が打席に向かった。
朋絵は立ち上がった。合羽のフードを後ろへはねのけ、首から黄色いタオルを引き抜いて、頭の上に張った。
「大槻ー! 一本ー!」
隣で父も立ち上がった。グローブは下ろしていた。
「お前、声でかいな」
「お父さんの娘なので」
大槻はファウルを二本打ち、ボールを二つ見送った。二ボール二ストライク。五球目、真ん中寄りの球を思いきり振った。
高い打球がセンターへ上がった。一塁側から、悲鳴とも歓声ともつかない声がわき上がる。センターは少し下がり、少し前に出て、両手でしっかりと捕った。
試合終了。三対二で、ブルズの勝ちだった。
朋絵はしばらく、タオルを張ったまま立っていた。グラウンドでは、大槻が一塁の手前でヘルメットを外し、一度空を見上げてからベンチへ戻っていく。
朋絵はタオルを下ろし、両手を口に当てて叫んだ。
「大槻、ナイスファイトー!」
前の男の子もまねをして叫んだ。
朋絵は座り、スコアブックの最後の欄にセンターフライの印を書いて、試合終了の線を二本引いた。それから表紙の裏の正の字に、一画を足した。
「負けたな」と父が言った。勝った人なりに、精いっぱい気の毒そうな声だった。
「負けた」と朋絵は言った。「楽しかった」
父が意外そうに娘を見た。
「本当に楽しかったの。七十二試合で、いちばん」
五 転がってきた人のもの
球場前の駅には、改札の手前まで人の列ができていた。中断で試合が遅くなったぶん、帰りの客が一度に押し寄せたのだ。駅員が拡声器で「ただいま入場を制限しております」と繰り返している。
「一つ先の駅まで歩くか」と父が言った。「十五分だ」
「お父さん、足は大丈夫?」
「草野球三十年の足だ」
川沿いの道は、雨上がりのにおいがした。街灯の下で水たまりが光り、黄色いタオルを首にかけた人たちが、ぽつぽつと同じ方向へ歩いていく。父は透明の合羽を脱いで丸め、手提げに押しこんだ。グローブだけは、まだ左手にはめていた。
「なあ」と父が言った。
「あげません」
「まだ何も言ってない」
「言う顔だった」
父は咳ばらいをした。
「勝った記念、というのがあるだろう。お前は負けた。負けた試合の球を、わざわざ棚に飾ることもない。勝った人間のところにあったほうが、球も浮かばれる」
「浮かばれるって、球は死んでないよ」
「たとえだ」
朋絵は鞄を肩にかけ直した。
「お父さん。この球のこと、八代の球だと思ってるでしょう」
「八代が打った球だ」
「打ったのは八代。でも八代は、三回の表に根もとで打ったファウルなんて、もう覚えてないと思う。投げたほうも、たぶん覚えてない」
父は黙って歩いた。
「覚えてるのは私。鈍い音がして、来るってわかって、足を上げたらスニーカーに当たって、拾ったら思ったより重かった。お父さんはグローブを上に向けてて、その下を転がっていった」
「そこは覚えてなくていい」
「覚えてる。男の子が、ブルズのだからいらないって言った。私は八代の三振を見逃して、お父さんから焼きそばで記録を買った。大槻が打って、お父さんとハイタッチして、雨で合羽を借りて、肉まんを食べて、最後に大槻がセンターフライを打った」
朋絵は息をついた。
「この球は、八代の球じゃなくて、私の今日の球なの。だから、あげません」
父はしばらく川のほうを見ていた。それから、ふん、と鼻を鳴らした。
「お前は昔から、言い出したら聞かん」
「お父さんの娘なので」
「それはさっき聞いた」
橋のたもとで、信号が赤になった。二人は並んで待った。
「そのかわり」と朋絵は言った。
「そのかわり?」
「来年の春、高嶺に行こう。ブルズの球場。三塁側で」
父がこちらを向いた。
「三塁側は、俺の席だぞ」
「だから三塁側。向こうでファウルが転がってきて、お父さんの足もとで止まったら、それはお父さんのもの。私は何も言わない」
「お前の足もとに来たら?」
「私の」
「ずるいな」
「あの子の言い方、うつってる」
信号が青になった。父は歩きだしながら、グローブに拳を一回打ちこんだ。
「十五列目な。三塁側の、十五列目」
「取れたらね」
「取れ。俺は通路側だ」
「なんで」
「転がってくるのは通路からだろう。今日、見て覚えた」
朋絵は笑った。いつのまにか父は、通路側の席を研究していたらしい。
次の駅の明かりが見えてきたところで、父が言った。
「駅まで、持たせてくれ」
「球?」
「持つだけだ。持って歩くだけ。客席の球に触ったことがないのは、本当なんだ」
朋絵は少し考えてから、鞄の内ポケットを開けた。ハンカチをほどいて、球を取り出す。灰色のこすれ跡が、街灯の下で見えた。
父は左手のグローブを、受け皿のように開いて差し出した。朋絵はそこに、球をそっとのせた。
ぽす、と小さな音がした。
父はしばらく何も言わなかった。それから、卵を包むようにグローブを閉じた。
「……いい音だな」
「十年ぶりでしょう」
「客席の球は、初めてだ」
父はグローブを胸の前に抱えて、残りの道を歩いた。ときどき指の隙間から中を覗いて、球がまだそこにあるのを確かめていた。すれ違った紺の帽子の男性が、父のグローブを見て顎を上げた。父も顎を上げ返した。中身のことは何も言わなかった。

電車は、ほどほどに混んでいた。二人はドアの横に並んで立った。父が降りるのは三つ目の駅で、朋絵の駅はそこからさらに二つ先だった。
三つ目の駅が近づくと、父はグローブを開いて、中の球を見つめた。
「返さないって言ったら、どうする」
「記録料を返してもらう」
「焼きそばは、もう腹の中だ」
「じゃあ、来年の高嶺のチケット代、お父さん持ち」
「それは最初からそのつもりだ」
電車が減速した。父は球を指でつまみ、朋絵の手のひらにのせた。それから思い出したように付け加えた。
「お前のだ。……打ったのは八代だけどな」
「知ってる」
ドアが開いた。父はホームに降りると振り向いて、グローブをはめた左手を軽く上げた。朋絵はタオルの端を持ち上げて応えた。ドアが閉まり、紺の帽子がホームの明かりと一緒に後ろへ流れていった。
家に着いたのは、十一時を過ぎてからだった。健吾はソファで、録画したニュースのスポーツコーナーを見ていた。
「おかえり。ボールは?」
朋絵は鞄から球を出して、彼の手のひらにのせた。健吾は男の子と同じように、両手のひらで球を転がした。
「かたいね」
「でしょう」
「ここ、汚れてる」
「背もたれに当たったとこ。そこがいいの」
健吾は笑って、球を返した。
「どこに置くの」
「スコアブックの棚」
朋絵は油性ペンを出して、白い革の縫い目と縫い目のあいだの狭いところに、小さな字で書いた。
三表 八代 二-一から F
その下に、もう少し小さく。
十五列 十番
十四年分のスコアブックが並ぶ棚の前に、球を置いた。転がらないように、ペリカンズのタオルを小さくたたんで台にした。
スマートフォンが震えた。父からだった。七十六歳の父が、自分から短いメッセージを送ってくるのは珍しい。
〈来年。三塁側。十五列目の通路側〉
朋絵は少し考えてから返した。
〈取れたらね。転がってきた人のもの〉
返事はすぐに来た。
〈わかってる〉
今度のは、わかっている人の返事だった。


