一 雨の汐見ヶ崎
バスの窓を、雨がななめに流れていた。
「降水確率九十パーセントって、ほとんど約束よね」
隣の席で佐和子が言った。膝の上には銀色の小さなカメラがある。十年前に買ったコンパクトカメラで、角の塗装がすり減って、地の金属がのぞいている。
「約束なら、破られることもある」
「今日まで、一回も破られてないけどね」
稔は返事のかわりに、曇ったガラスを指の腹でぬぐった。灰色の海と灰色の空があって、その境目が見つからない。
江藤稔、四十八歳。造園会社に勤めて二十五年になる。仕事の半分は脚立と高所作業車の上で、残りの半分は枝を切ったあとの掃除だ。汐見ヶ崎の笠松を見に行こうと言い出したのは稔で、天気予報を見ても日にちを動かさなかったのも稔だった。二日続けて休むために、三週間前から現場の段取りを組み替えてきたのだ。いまさら雨くらいで――と思っていられたのは、駅を出るまでだった。
「笠松って、どのくらい大きいの」
「海のほうへ枝が一本、長く伸びてるのが有名だった。写真でしか見たことがない」
「だった?」
「十二年前の台風で折れたらしい。それでも見たいんだよ。折れたあとの手当てがいいって、聞いたから」
佐和子は「職人さんの観光ね」と笑って、カメラの電源を入れたり切ったりした。
佐和子は五十歳で、駅前の歯科医院で受付をしている。医院では毎年十一月、職員の「旅の一枚」を待合室の壁に並べ、患者さんに丸いシールを貼ってもらう。一位には院長から図書カード三千円。佐和子は三年続けて二位だった。
「今年こそ、と思ってたんだけどなあ」
「雨の写真で一位を取ればいい」
「雨の写真はね、去年、歯科衛生士の三橋さんが出したの。紫陽花で。強いのよ、あの子」
バスは九時五分に駅を出て、十時すぎに岬の手前の集落で停まった。佐和子はからし色の雨合羽のフードをかぶり、稔は紺の雨合羽の前を首まで閉めた。
最初に寄ったのは、木工の店だった。「かもめ堂」という手書きの看板が軒先で揺れていて、ガラス戸の中には木の匂いがこもっていた。棚に並んでいるのは、どれも翼を広げたカモメの木彫りだ。手のひらにのるくらいのものから、両手で抱えるくらいのものまである。
稔は一羽ずつ持ち上げては、翼の先を眺めた。刃の跡を残した彫り方で、羽根の一枚一枚までは彫っていない。そのかわり、風を受けている角度がどれも少しずつ違う。
「それ、仕事場に置くの?」
「詰所の机に置く。昼に眺める」
選んだのは、左の翼が少し持ち上がった一羽だった。千八百円。白っぽい木地に、目だけが黒く焼いてある。腹に小さな穴があいていて、店の人によると、付属の細い棒と小さな木の台を使えば、立てて飾れるのだという。
「棒はなくしやすいので、二本つけておきますね」
稔は棒と台の入った小袋と一緒に、カモメを雨合羽の下の上着の内ポケットにしまった。十時二十分だった。
岬のバス停から遊歩道を二百メートルほど歩くと、展望所に出る。崖に沿って木の柵があり、その手前に屋根つきの東屋がひとつ。東屋のすぐ左手、崖のふちに、笠松は立っていた。
雨で、幹は黒く見えた。
傘のように広がった枝ぶりは写真のとおりだったが、海側だけが寂しい。太い枝の切り口が、灰色の空に向かって丸く残っている。稔は柵ぎりぎりまで寄って、その切り口を見上げた。
「……いい切り方だ」
「折れたとこでしょ」
「折れたままにしてない。付け根のふくらみを削らずに残してある。それに、ほら、そのすぐ下の枝。あれを残して、育ててきたんだろうな」
指さした先に、腕ほどの太さの枝が、まだ遠慮がちに海のほうへ伸びていた。佐和子は「ほんとだ」と言ってカメラを構えた。シャッターの軽い音が、雨音にまぎれる。右手の遠い岬の先には、白い灯台がかすんで立っていた。
東屋に入ると、屋根を打つ雨の音が急に大きくなった。ベンチが二つあり、奥の壁には横長の写真が掛かっている。透明な板の内側に入った、大きな風景写真だった。上の端に「晴れた日の汐見ヶ崎」とある。天井には蛍光灯がひとつ、昼なのに白く点いていた。
稔は横目でそれを見て、鼻を鳴らした。
「看板で晴れを見せられてもなあ」
「見せてくれるだけ親切じゃない」
「本物が見たくて来たんだよ」
口に出してみると、思っていたより子どもっぽい声になった。佐和子はそれには何も言わず、ベンチの上でカメラのレンズを拭いている。
濡れた雨合羽の下で、背中が冷えてきた。
「あったかいもの買ってくる。駐車場に自販機があった」
「いってらっしゃい。あ、そのカモメ、ちょっと貸して。あなたのポケット、湿ってるでしょう」
稔は内ポケットからカモメと小袋を出して渡した。十一時八分。東屋を出るときに振り返ると、佐和子はもう海に背を向けて、奥の壁のほうを向いていた。風よけにしているのだろう、と稔は思った。
駐車場の自販機までは、思ったより遠かった。コーンスープとほうじ茶を一本ずつ買い、ついでに土産物屋の軒先で笠松の絵はがきを眺めて、戻ったのは十一時二十分ごろだった。缶はすっかり雨に濡れていた。
「おかえり」
佐和子はなぜか、ひどく機嫌がよかった。カモメと小袋を稔の手に返すと、缶を両手に持った稔をそのまま一枚撮った。
「なんで今撮る」
「濡れた缶を持った、濡れた人。いい顔してる」
昼は集落に戻って、小さな食堂で海鮮丼を食べた。午後になると雨はさらに強くなり、二人は予定していた灯台への道をあきらめて、三時前に宿へ入った。
二 一枚だけの青空
民宿「なぎ屋」は、岬から歩いて十五分ほどの坂の途中にあった。二階の六畳間からは、晴れていれば海が見えるらしい。今は窓ガラスに雨の筋が見えるだけだった。
夕飯は金目鯛の煮付けと刺身と、名前を聞きそびれた貝の味噌汁だった。七十代くらいの女将が「明日の朝は干物ね。うちの人が自分で干してるの」と言うと、厨房の奥で誰かが小さく咳払いをした。
部屋に戻ったのは七時四十分。稔が座卓でカモメに棒を差して立ててみていると、佐和子がカメラを差し出してきた。
「ねえ。今日の写真、見て」
小さな画面に、雨の岬が映っていた。濡れた笠松、かすんだ灯台、柵の上の水滴。佐和子がボタンを押すたびに、灰色の写真が一枚ずつ送られていく。
「一枚だけ晴れてるの、気づいた?」
次の一枚で、稔は身を乗り出した。
青い空だった。
画面の真ん中を、白いカモメが一羽、左の翼を少し持ち上げて飛んでいる。その奥に海がひろがり、波の上に光の粒が散っている。左手には笠松。崖のふちの遊歩道は白く乾いて明るく、松の根元には黒々とした影が落ちていた。右手の遠い岬の先には、灯台がくっきり立っている。
稔は座卓のカモメを見た。それから、画面のカモメを見た。左の翼の角度が同じだった。
画面の隅に、撮影時刻が出ている。十一時十四分。
「……おれが自販機に行ってたときか」
「そう」
「どうやった」
「当ててみて」佐和子は膝を抱えて笑った。「当たったら、明日の朝の干物、半分あげる」
「全部じゃないのか」
「全部はあげない。干物、好きだもの」
稔はカメラを受け取り、画面に顔を近づけた。何を見て晴れだと思ったのか、ひとつずつ数えてみる。空が青い。海が光っている。松に濃い影がある。地面が乾いている。

「晴れ間があった、ってことはないよな」
「あなた、自販機までの道で、晴れた?」
「降ってた。缶もびしょびしょだった」
「でしょう」
それに、と稔は画面の地面を指でたどった。朝から降り続けた雨のあとで、遊歩道が十分やそこらでこんなに白く乾くはずがない。水たまりもひとつもない。晴れ間説は、そこで消えた。
「前に来たときの写真か」
「わたし、汐見ヶ崎は初めてよ。それに、そのカモメ、今朝買ったんでしょう」
そうだった。今朝の十時二十分まで、このカモメはかもめ堂の棚にいた。
では、背景だけが古いのか。稔は笠松を見直して、思わず声を出した。
「枝がある」
画面の笠松には、海のほうへ長く伸びた大枝がちゃんとついていた。今日、稔が見上げた切り口のところから、太い枝が空に向かってゆるやかに弧を描いている。
「十二年前に折れた枝だ。これは、少なくとも十二年より前の松だよ」
「へえ」
「カモメは今日で、松は十二年以上前。……つないだのか。あとから」
「そのカメラで?」
佐和子は首をかしげた。言われてみれば、十年ものの小さなカメラに、そんな器用な機能があるとは思えない。
「スマホでやって、戻したとか」
「わたし、スマホの写真を横向きにするのも、あなたに聞くでしょう」
それも本当だった。先月、医院の暑気払いの写真を横向きのまま送ってきて、院長に首を傾けさせたのは佐和子だ。でも、それだけで合成していない証拠になるわけではない。
稔は写真を一枚戻し、また一枚送った。画面の隅のファイル番号に、ふと目がとまる。雨の東屋の写真が0143。その次の晴れた写真が、0153。
「番号が飛んでる」
「そうね」
「九枚、消しただろう」
「消したわね」
佐和子はあっさり言った。それが、なぜか稔の気に障った。
「何を消した」
「失敗したやつ」
「何の失敗だ」
「それを言ったら、答えになっちゃう」
稔は画面から顔を上げた。佐和子はまだ笑っていたが、さっきほど楽しそうではなかった。
「これ、医院のに出すつもりか」
「出すつもり」
「反則だろう、それは」
口が先に動いた。
「晴れてない日に、晴れてる写真で票を取るのは。三橋さんは本物の雨の紫陽花で勝ったんだろ」
部屋の中で、雨の音だけが続いた。
佐和子は膝から手をほどいて、ゆっくり立ち上がった。
「反則かどうかは、解いてから言って」
タオルと浴衣を抱えて、彼女は風呂へ降りていった。障子が閉まる音は、いつもより少しだけ静かだった。
ひとりになって、稔はもう一度画面を見た。
怒っていいのか、謝るべきなのか、まだ分からない。ただ、分からないことを分からないまま口に出したのは自分だ、ということだけは分かった。
画面の中のカモメを、じっと見る。
カモメには、松にあるような濃い影がなかった。白い木地は、くもりの日の窓辺に置いたように、どこもぼんやりと同じ明るさだった。それなのに、すぐ奥の笠松の根元には、真昼の濃い影が落ちている。同じ一枚の中に、二種類の光がある。
それから、空の左上に細く白い線が一本、横に走っているのに気づいた。飛行機雲にしては短く、まっすぐすぎる。
晴れた日の写真を、今日どこかで見た気がした。どこで見たのかは、思い出せない。頭に浮かぶのは、濡れた缶の冷たさと、切り口の丸い形ばかりだった。
風呂から戻った佐和子は、「おやすみ」とだけ言って布団に入った。稔は「おやすみ」と返し、天井の木目を数えながら、屋根の雨を聞いていた。
三 もう一度、同じ場所へ
目が覚めたのは六時すぎだった。雨は、昨日よりいくらか細くなっている。
佐和子は布団の中で丸くなっていた。窓辺には、棒の上に立ったカモメ。座卓の上には、カメラ。
稔はしばらく迷ってから、宿の便箋に書いた。
「岬まで行ってくる。カメラとカモメを借りる。七時半までには戻る。稔」
書いてから、「借りる」が自分のカモメにもかかっているのが少しおかしくて、そのままにした。
玄関では、女将がほうきで土間を掃いていた。
「あら、お早い。お散歩?」
「笠松まで」
「雨の朝の松はきれいよ。うちの人も昔は、あそこばっかり撮ってた」
「写真をなさるんですか」
「昔はね。今は干物ばっかり」
女将は笑い、稔が深くかぶったフードを見て、「足もと、気をつけて」と言った。
坂を下り、バス停を過ぎて遊歩道に入る。誰もいない。昨日と同じ柵、同じ水たまり、同じ切り口。東屋の蛍光灯は、朝の暗さの中で今日も白く点いていた。
稔は東屋の入口で立ち止まり、奥の壁を見た。
横長の、大きな写真。「晴れた日の汐見ヶ崎」。
青い空。光る海。左手に笠松。その松には、海のほうへ長く伸びた大枝がある。白く乾いた遊歩道と、根元の濃い影。右手の遠くに灯台。
写真の右下の隅に、小さな文字で「撮影 波多野修二」とあった。
「……これか」
声に出すと、自分でも笑ってしまうほど簡単だった。昨日、自分はこれを横目で見て、看板で晴れを見せられても、と言ったのだ。そして佐和子は、稔がいなくなるとすぐ、海に背を向けてこの壁のほうを向いた。風よけではなかった。
確かめずにはいられなかった。
稔はベンチの前に立ち、カモメから棒を抜いて、左手の指でつまんだ。右手でカメラを構え、腕を伸ばして、壁の写真とカメラのあいだにカモメを浮かべる。小さな画面の中で、木彫りのカモメが晴れた岬の上を飛んだ。
空の左上に、細く白い線が一本走っている。顔を上げると、天井の蛍光灯が、写真を覆う透明な板に映っていた。ゆうべ見た白い線の正体だった。
カモメに濃い影がないのも、当たり前だった。カモメを照らしているのは、東屋の外の雨空と、この蛍光灯だけだ。晴れているのは、壁の写真の中だけなのだから。
シャッターを押す。画面を見る。カモメの下に、自分の指が二本、太い枝みたいに写っていた。
もう一枚。今度はカモメが傾いて、墜落していくように見えた。
もう一枚。板に自分の顔がうっすら映りこんだ。
「九回か」
稔はつぶやいた。指を隠すには、どうすればいいのか。腹の穴を思い出し、作業着の胸ポケットにいつも差している鉛筆を探して雨合羽の上から叩いてから、置いてきたのに気づいた。休みの日にまで差していなくていい、と佐和子に言われて、今回は家に置いてきたのだ。
かわりに、カモメに付いていた棒を使った。腹の穴に差し、棒の端をつまんで、カモメの胴体の真後ろに隠れるように角度を合わせる。四枚目で棒が翼の陰に入り、五枚目でようやく、板の映りこみが空の端に寄った。
画面の中で、カモメが晴れの空を飛んでいる。昨日佐和子が撮った一枚に、だいぶ近い。
稔は失敗した四枚を、消さずに残すことにした。番号を飛ばさないためというより、佐和子に見せたかった。指が写った一枚は、特に。
東屋を出て、本物の笠松を見上げる。雨は霧のように細くなり、幹の黒さが少し和らいでいた。切り口の下の若い枝の先に、新しい葉が密に集まっている。
写真の中の大枝と、目の前の若い枝。どちらも同じ松から、同じ海のほうへ伸びている。
「看板で晴れを見せられても、か」
同じ言葉を、昨日とは違う声で言ってみた。それから、宿へ急いだ。七時十分だった。
四 晴れの代役
食堂に降りると、佐和子はもう窓際の席に座っていた。湯のみを両手で包み、稔の置き手紙を、部屋から持ってきたらしく湯のみの横に置いている。
稔は向かいに座る前に、立ったまま言った。
「ゆうべは悪かった」
佐和子が顔を上げる。
「解く前に、ずるだって決めつけた。三橋さんまで持ち出して。ごめん」
「……解けたの?」
「解けた。でも、先に謝りたかった」
佐和子は湯のみを置いて、ふうっと息を吐いた。それから、向かいの椅子を指でとんとんと叩いた。稔は座った。
「東屋の壁の写真の前に、カモメを浮かべた」
稔はカメラを卓に置き、今朝の写真を一枚ずつ送った。指が二本写った一枚で、佐和子が吹き出した。
「それ、わたしもやった。三回やった」
「晴れに見えたのは、空と海と、松の影と、乾いた道だった。でもそれは全部、壁の写真の中のものだ。手前のカモメだけが、雨の日の東屋の光で写ってた。だから影が薄い。左上の白い線は、蛍光灯が板に映ったやつ。それと、松の大枝。あの写真が十二年より前に撮られたものだから、枝がついてる」
「番号は?」
「失敗作。指が写ったり、カモメが落ちたり、板に顔が映ったり」
「全部当たり」佐和子は指を折った。「わたしの九枚は、指が三回、カモメが逆立ちしたのが二回、わたしの顔が映ったのが一回、あとの三回はピンぼけ。最後はね、ボールペンの先をカモメのおなかの穴に差したの。手帳の」
「棒でよかったのに」
「棒、なくしそうだったんだもの。二本しかないのよ」
稔は、小袋に入ったままのもう一本の棒のことを思った。
「それとね」
佐和子はカバンから小さな手帳を出して開いた。昨日の日付の下に、ボールペンの字で書いてある。
――「晴れの代役」
――雨の日、汐見ヶ崎の東屋に掛かっていた、晴れた日の写真の前で。撮影協力・夫のカモメ。
「お昼、海鮮丼を待ってるあいだに書いたの。あなた、トイレに行ってたでしょう」
稔は手帳の字を、しばらく見ていた。
「最初から、種を明かして出すつもりだったのか」
「当たり前でしょう。待合室の人たち、こういうの好きなのよ。治療の前って、退屈だし怖いし。ちょっと首をかしげて、下の説明を読んで、なあんだ、って笑ってもらえたら、それでいいの。シールはおまけ」
「おまけの三千円」
「おまけの三千円は、欲しい」
佐和子は真顔で言ってから、笑った。稔もつられて笑った。ゆうべから胸のあたりに引っかかっていたものが、湯のみの湯気と一緒にほどけていくようだった。
「それにね、あなたが看板の前で、本物が見たくて来たんだって言ったでしょう。あんな顔、現場の写真でも見たことない。だから、晴れたところを見せてあげたくなったの。……半分はね」
「もう半分は」
「図書カード」
干物を運んできた女将が、二人の間のカメラをのぞきこんだ。
「あらまあ。それ、東屋の?」
「すみません、勝手に撮らせていただいて」佐和子が背筋を伸ばした。「あの写真、ご主人が撮られたんですか。撮影のところに、波多野さんって」
女将は厨房に向かって「修ちゃん」と呼んだ。前掛けで手を拭きながら出てきたのは、背の高い、無口そうな人だった。カメラの画面を見せられると、しばらく黙ってから、口の端だけで笑った。
「カモメが飛んどる」
「職場の写真の展示に、これを出してもいいでしょうか。写真の前で撮ったものだって、ちゃんと書きます。お名前も」
修二は少し考えてから、「二十年前の五月だ」と言った。「あの朝は風がなかった。枝がまだあって、海が鏡みたいでな。役場に頼まれて、看板にした」
「いい枝でした」稔は言った。「写真で見て、来たんです」
「折れたときは、もう見に行かんと思った」修二はぼそりと言った。「けど、植木屋さんが来て、ていねいに切ってくれてな。下に残ってた枝が育ってきた。今は、あれも悪くない」
それから佐和子のほうを向いて、「名前は、出してもらえるなら、ありがたい」と言い、厨房へ戻っていった。
佐和子は自分の干物を半分に分け、稔の皿へ足した。自分の一尾に半尾が加わり、稔の皿はにぎやかになった。ただし佐和子は「あなたが解いたのは九割。残りの一割はボールペンのおかげ」と言って、皮の焼けたところを少しだけ多く自分の皿に残した。
九時ごろ、雨がやんだ。空は白いままだったが、雲の下がほんのり明るい。帰りのバスは十時五十分。二人は荷物を宿に預けて、もう一度岬へ向かった。
遊歩道はまだ濡れていて、水たまりに白い空が映っていた。東屋の蛍光灯は消えている。壁の写真の中では、今日も大枝が海に向かって伸び、空が青い。
稔はその前を素通りして、柵のところまで歩いた。
笠松は、昨日よりずっとよく見えた。霧が引いて、幹の肌のひび割れや、切り口のまわりの盛り上がりまで分かる。
「ほら、あれ」
稔は若い枝を指さした。
「切り口の下に残って、海のほうへ伸びてる。あの枝を育てるつもりで、まわりの細かいのを間引いてあるんだ。誰がやったのか知らないけど、何年も通って面倒を見てる」
「あと何年で、写真の枝になるの?」
「ならない」稔は言った。「同じにはならない。でも、ちゃんと別の形になる。たぶん、おれが定年になるころには、いい枝になってる」
「じゃあ、そのころにまた来ようか」
「晴れてたらな」
「雨でもいいわよ。代役なら、もう用意の仕方を知ってるし」
佐和子は柵の前でカメラを構えた。若い枝を指さしている稔と、その上の笠松が画面に入る。
「指、もうちょっと上」
「こうか」
「そう。今度は、指が写ってるのが正解」

シャッターの音が、今度ははっきり聞こえた。稔はカメラを受け取って、佐和子と笠松を一枚撮った。白い空の下で、からし色の雨合羽の佐和子が、少し照れくさそうに笑っていた。
帰りのバスの窓際の席で、稔はカモメを膝にのせていた。
集落を抜けて海沿いの道に出たとき、沖の雲が一か所だけ薄くなり、海の上に手のひらほどの光が落ちた。遠すぎて、波のきらめきまでは見えない。ただ、灰色の海のそこだけが、白っぽく明るかった。
「あ」
佐和子が言ってカメラを持ち上げかけ、それから下ろした。
「撮らないのか」
「撮っても、ちっちゃい点になるだけ」
二人はしばらく黙って、その光を見ていた。バスがカーブを曲がると、光は岬の陰に隠れた。
「医院のは、どっちにする」稔が聞いた。「代役か、今日の松か」
「代役。一位は無理でも、二位は固いと思う」
「四年連続か」
「うるさい」
佐和子は肘で稔をつつき、カメラの画面を送った。雨の松、雨の灯台、濡れた缶を持った濡れた人。九枚ぶんの空白のあとで、晴れの岬を飛ぶ一羽のカモメ。その先に、今朝の稔の失敗作が四枚、消されずに並んでいた。
「これは残しておくのね」
「指が写ってるやつは、記念だ」
佐和子は笑って、指が二本写った一枚で、送る手を止めた。窓の外では、また細かい雨が降りはじめていた。


