一 控え札は「一」
カーテンの下から小さな木札が差しこまれる音で、目が覚めた。
堀井千鶴子は寝台の上で体を起こし、枕元の灯りをつけた。腕時計は四時十二分。夜渡り号は、まだ海の上を走っている。車輪の音はとろりとしていて、線路の継ぎ目を踏むたび、遠くで水を叩くような響きが混じった。
日暮れに海へ浮かび、日の出のあとには少しずつ沈んでいく線路を、潮道という。昨夜九時四十分に灯ヶ崎を出た列車は、朝六時五十分に朝凪港へ着く。途中で長居も引き返すこともできない、と乗車案内にはあった。
木札は手のひらに収まるほどの大きさだった。表には焼き印で「十二号車 下段 四番」とあり、その下に墨で太く「一」と書いてある。
「一?」
千鶴子は鞄を探って老眼鏡を出し、かけてからもう一度見た。やはり一だった。
裏返すと、乗車のときに渡された注文票と同じ品書きが、小さく刷ってあった。
一 灯ヶ崎の朝 白飯、焼き鯵、わかめの味噌汁
二 霧の谷の朝 黒パン、溶かしチーズ、温めた牛乳
三 砂の国の朝 豆の煮込み、薄焼きパン、ミントの甘い茶
四 雪の北の朝 そば粉の焼き菓子、すぐりのジャム、燻製の魚
五 運河の朝 揚げ菓子、濃い珈琲、オレンジ
その下に、決まりが三行あった。
札の取り替えは二号車の札窓口にて、変更票に記入のうえ五時まで。
乗客同士の譲り合いは、配膳の五時四十分まで自由。
印のない札は、お乗りの車両の朝といたします。
千鶴子は額に手を当てた。昨夜、乗ってすぐに車掌が鉛筆と票を配りに来た。眼鏡は鞄の底にあり、寝台は暗かった。面倒になって「上から三つ目」と数え、丸をつけた。そのつもりだった。品書きの上から数えたのか、決まりの行の下から数えたのか、今となっては分からない。
「灯ヶ崎の朝って、うちの朝じゃないの」
灯ヶ崎は、千鶴子が六十七年住んでいる岬の町だ。白飯と焼き鯵と味噌汁なら、昨日の朝も食べた。夫の正造が縁側で盆栽に水をやっている横で。
給食センターで三十八年働いて、退職してから三年がたつ。ようやく一人で、海の向こうの朝凪港まで朝市を見に行く旅なのに。しかもこの車両なら、印をつけずに寝てしまっても一だったのだ。
窓の覆いを少し上げた。
そこに映っているのは、外の海ではない。夜渡り号の車両はどれも、遠い土地の古い線から譲られてきたもので、窓はいまも、生まれた線で覚えた一日の朝を、毎日その土地の時刻で映している。乗車案内にそう書いてあった。
十二号車は、灯ヶ崎の古い寝台車だった。窓の向こうには見慣れた灯台が立ち、光の帯がゆっくり回っている。沖から漁船の灯が三つ、港へ戻ってくるところだった。灯ヶ崎の四時は、まだ夜だ。
「窓まで、うちの町」
千鶴子がつぶやくと、頭の上で、ぐう、と大きな音がした。
荷物棚から、白い頭がのぞいた。
「あんた、それ、一?」
カモメだった。大きさは、千鶴子の膝より少し高いくらい。灰色の翼をたたみ、紺色の毛糸のチョッキを着ている。首から真鍮の小さな札入れが下がり、黄色いくちばしの先には赤い点がひとつあった。
昨夜乗ったときから、棚の上で丸くなっているのは見ていた。荷物棚席という、鳥や小さな種族のための安い席がある。運賃は人間の四分の一で、朝食はつかない。
「一よ。間違えたの」
「焼き鯵だ」カモメは棚の縁まで出てきて、首を伸ばした。「焼いた魚だよ。炭の上で、皮がぷつぷついうやつ。生のは毎日食うけど、焼いたのは一回も食ったことがない」
「そう」
「いらないならくれ。骨も頭も残さない。鯵なら骨ごといける」
「いらないとは言ってないでしょう」千鶴子は札を胸に抱えた。「これは私の朝ごはん。間違えたけど、私の。私が食べたいのは三なの。砂の国の豆の煮込み」
「豆」カモメは、まるで分からないという顔をした。「魚があるのに、豆?」
「三十年前に、時刻表の裏の広告で見たのよ。朝から豆を煮て、薄いパンですくって食べるんですって。それからずっと、どんな味だろうと思ってたの」
千鶴子は鞄から布表紙の手帳を出して見せた。表紙には自分の字で「よその朝ごはん」とある。中には四十一の朝食が、日付と場所と、ひとことの感想つきで書いてあった。四十二番目は、海の上で食べる豆にすると決めていた。
「それとね、六時半ごろ、海から日が昇るでしょう。それを見ながら食べたかったの」
カモメはくちばしを鳴らした。「それなら、なおさら十二号車じゃだめだ。ここの窓は灯ヶ崎しか映さない。本物の海が見えるのは、最後尾の展望と、二号車の食堂車だけ。食堂車は新しく作った車両だから、窓が何も覚えてないんだ。日が出るのは六時三十一分、左側」
「詳しいのね」
「港から港へ手紙を運んでる。秋から春は夜の海風がきついから、この列車に乗れって組合が言うんだ」カモメは胸の札入れを翼の先で叩いた。「ムギ。渡り便配達のムギ」
「堀井です」
千鶴子は時計を見た。四時十九分。二号車まで十両ある。歩けば十五分もかからない。
眼鏡を畳んで鞄へ戻した。寝台から降りて靴をはくと、ムギも棚から飛び降りた。床に着くとき、少しよろけた。
「ついて来なくていいわよ。一本道でしょう」
「窓口が開いてるか見に行くだけ」ムギは目をそらした。「それに、着く前にあんたの気が変わって、鯵をくれるかもしれないし」
「変わりません」
「おれ、食堂車には入れないんだけどね」
「どうして」
ムギは少し黙ってから言った。「三週間前、皿の上に揚げ菓子が落ちてた」
「皿の上にあるのは、落ちてるって言わないの」
千鶴子は通路へ出た。後ろから、爪が床を叩く小さな音がついてきた。
二 雪の車両は、扉が重い
十一号車は、寝息しか聞こえない車両だった。並んだカーテンの間を、千鶴子は肩をすぼめて歩いた。ムギは床すれすれを、翼を半分ひろげて、滑るようについてくる。
十号車の扉を開けたとたん、水の匂いがした。
窓の向こうは運河だった。石の岸にはさまれた緑色の水の上を、細長い舟がゆっくり進んでいく。舟には籠が積まれ、焼いたばかりの丸いパンが湯気を立てていた。岸の家の窓が開き、寝間着の人が紐で籠を下ろす。舟の人がパンを入れると、籠はするすると上がっていった。
十号車は運河の街の路面電車を改造したものらしく、座席は木の長椅子で、天井には吊り革が残っていた。乗客はまばらで、窓際の老夫婦が舟を指さして何か言い合っている。
ムギは窓ガラスにくちばしを押しつけていた。
「届かないわよ」
「分かってる」そう言いながら、ムギは離れなかった。「分かってるけど、あの籠、下りてくるとき一回揺れるんだ。ほら」
本当に、籠は二階の高さで一度くるりと回った。千鶴子は思わず手帳を出し、運河のパンを小さく描いた。食べていないものには番号をつけないと決めているから、余白の隅に。
「行くわよ」
九号車を抜けた。八号車の扉の前で取っ手を引いたが、動かなかった。
「あれ」
両手で引いても、扉はきしと鳴っただけだった。取っ手が冷たい。ガラスの縁に白い霜がついている。
「雪の北の車両だ」とムギが言った。「寒い朝は扉が張りつくんだ。いつもは中の人が開けてくれる」
千鶴子がガラスを叩くと、すぐに大きな影が近づいてきて、向こうから扉を押し開けてくれた。
冷たい空気が顔に当たった。
八号車の窓は、どれも青白い雪原だった。見渡すかぎり起伏のない白が続き、遠くに黒い針葉樹の帯がある。まだ日は出ておらず、空は薄い藍色だった。窓は景色を映すだけだと分かっているのに、車内は本当に冷えていて、吐く息が白かった。
扉を開けてくれたのは、毛皮の帽子をかぶった大柄な老人だった。七十は越えているだろう。頬が赤く、湯気の立つ水筒を手にしている。
「ありがとうございます」
「この車両の暖房は、生まれた土地の人間に合わせてある」老人は笑った。「つまり、ほとんどない」
千鶴子は笑い返して、通路を急ごうとした。そのとき、後ろで、ぶつりと何かがちぎれる音がした。
振り向くと、ムギが茶色い魚をくわえていた。老人の座席の荷物かけに紐で吊るしてあった燻製の魚の、一尾だった。
「ムギさん!」
ムギは自分でも驚いた顔で、魚をくわえたまま固まった。老人の手が伸びて、毛糸のチョッキの襟をつまみ上げた。ムギの足が床から浮いた。
「ご、ごめんなさい」千鶴子は財布を出した。「おいくらですか。私が払います」
「あんたの鳥か」
「違います。いえ、連れです。今だけ」
ムギは魚をそっと座席に置き、小さな声で言った。「ぶら下がってたから」
「ぶら下がってたら、食っていいのか」
「……だめです」
老人はしばらくムギを眺めていた。それから、ふっと手をゆるめ、ムギを自分の膝の上に下ろした。
「イェルムだ。雪の北から、朝凪の娘のところへ行く」と老人は言った。「金はいらん。代わりに、五分そこにいろ。おまえ、温かそうだ」
ムギは千鶴子を見た。千鶴子は時計を見た。四時三十八分。
「五分だけよ」
ムギはイェルムの膝の上で羽をふくらませ、丸くなった。イェルムはその背中に両手をのせて、大きく息を吐いた。
「朝は手がかじかむ。木を彫る手でな。娘の家で、孫の椅子を直してやる約束をしてる」
千鶴子は向かいの席に浅く腰かけた。急いでいるのに、座ってみると窓の雪原がよく見えた。白い中を、何か小さなものが跳ねていく。
「狐」
「よく見つけた」とイェルムが言った。「この窓の狐は、毎朝あそこを通る。四十年前もそうだった」
狐は雪に鼻を突っこんで何かを探り、また跳ねた。尻尾の先だけが黒かった。千鶴子は窓に額を寄せて、狐が針葉樹の帯に消えるまで目で追った。

「この車両の方は、四の札ですか」
「印をつけなきゃ四だ。そば粉の焼き菓子と、すぐりと、燻製の魚」イェルムはムギの頭をちょんとつついた。「その魚は、わしが自分で燻したやつだ。列車のより旨い」
膝の上で、ムギが喉を鳴らした。
四時四十三分。千鶴子は立ち上がった。「ありがとうございました。帰り道に、また寄ってもいいですか」
「扉が重いぞ」
「押してもらいます」
ムギは名残惜しそうに膝から降りた。イェルムは魚の紐を結び直しながら、「豆か」と言った。「三が欲しいなら、六号車をのぞいてみな。札市が立ってる」
三 五時の鎧戸
七号車を抜けると、六号車からざわめきが聞こえてきた。
六号車は談話車だった。丸い卓が並び、天井の灯りの下で、二十人ほどの乗客が札を手に声を上げている。
「五、五ないか。揚げ菓子の五」
「二あるよ、二。チーズ」
「一と四なら替えてもいい」
まるで魚河岸だ、と千鶴子は思った。卓に札を並べている人もいれば、指の間にはさんで高く掲げている人もいる。五の揚げ菓子が人気らしく、五を掲げた若者のまわりに人だかりができていた。
「三、ありますか」千鶴子は近くの男に聞いた。
「三?」男は肩をすくめた。「三なら砂の車両の人がみんな持ってるけど、あそこの人たちは札市に来ないよ。自分の車両のを、そのまま食べる人が多いから」
千鶴子は時計を見た。四時四十九分。ここで三を探して見つからなかったら、窓口に間に合わない。窓口なら確実だ。
「窓口に行きます」
「おれ、ここで一を欲しがってるやつを探しとこうか」とムギが言った。
「探さなくていいの」
五号車に入ると、空気が乾いて温かくなった。窓の外は砂丘だった。なだらかな砂の背がいくつも重なり、その向こうから橙色の光がにじみはじめている。砂の国の朝は、灯ヶ崎よりずっと早いらしい。荷を積んだ獣の列が、砂丘の稜線をゆっくり越えていく。
座席のひとつで、若い女性が札を指先でくるくる回していた。三十代くらいで、髪を布でまとめている。膝の上には帆布の束と、太い針の刺さった革の針刺しがあった。
「また三」と彼女はつぶやいていた。「印をつけ忘れたら、また三」
千鶴子の足が止まりかけた。
「……あの」
「はい?」
「いえ、あとで」と千鶴子は言った。四時五十三分だった。「急いでるので。あとで、もしかしたら」
女性はきょとんとしたまま、手を振った。
四号車を抜け、三号車に入った。三号車は霧の谷の客車で、窓という窓が乳白色の霧に覆われていた。ときどき霧の切れ目から、首に鈴をつけた牛の背中が見える。鈴の音まで聞こえる気がした。千鶴子は牛を横目に通路を急ぎ、ムギは足音を消すように床を歩いた。
二号車の扉の手前で、千鶴子は振り向いた。
「ここで待ってて」
「うん」
扉を開けると、焼いた油と、炭と、煮える豆の匂いが一度に押し寄せてきた。
食堂車は、ほかの車両より窓が大きかった。外は真っ暗な海だった。こちらは本物の夜だ。水平線の端だけが、ほんの少し紺色に薄らいでいる。
入ってすぐ右に格子つきの小さな窓口があり、その上に柱時計がかかっていた。四時五十八分。窓口の奥では、白い前掛けの女性が、鍋をかき回しながら札を仕分けていた。五十代くらいで、まくった腕が太い。厨房の奥では若い料理人が二人、炭を足したり皿を並べたりしている。
「取り替えをお願いします。一を三に」
千鶴子が格子から札を差し入れた、そのときだった。後ろで扉が開いた。
「あんた、窓口の右に鉛筆が――」
ムギだった。追いかけてきて、何か言おうとしていた。
厨房の女性が顔を上げた。
「そこのカモメ!」
声が車両の端まで響いた。ムギは飛び上がり、翼を広げたまま、どちらへ逃げるか迷って窓口の棚にぶつかった。棚の上の札箱がひっくり返り、何十枚もの木札が床に散らばった。
「三週間前の揚げ菓子!」
「ご、ごめんなさい!」
ムギは千鶴子の足の後ろに隠れた。料理人の一人が箒を持って飛び出してくる。千鶴子は札を拾いはじめた。女性も窓口から出てきて床にしゃがみ、三人で散らばった木札を集めた。
柱時計が五つ鳴った。
女性は最後の一枚を札箱に戻すと立ち上がり、窓口の上の鎧戸をがらがらと下ろした。
「五時です」
「でも、さっき差し入れて」
女性は千鶴子の札を拾い上げ、表を確かめてから返した。「受け取る前に、箱がひっくり返ったんでね。決まりは決まり。うちは今から百二十食焼くんです」
それだけ言って、女性は厨房へ戻っていった。前掛けの背中に「食堂車長 マルタ」と縫い取りがあった。
千鶴子は札を握ったまま扉の外へ出た。三号車の霧の窓の前で、ムギがうなだれて立っていた。
「待っててって言ったわよね」
「鉛筆が」ムギは小さな声で言った。「窓口の右に、取り替え用の鉛筆が紐で下がってて、それで変更票を書かないと受け付けてもらえないんだ。それを言いに行こうと……」
「それなら先に言ってくれればよかったのよ」思ったより大きな声が出た。「あなたが入ってこなければ、間に合ってたの。それとも本当は、間に合わないほうがよかった? 一のままなら、鯵がもらえるかもしれないものね」
ムギは顔を上げた。くちばしが開いて、何も言わないまま閉じた。
ムギはくるりと背を向けて、四号車のほうへ歩いていった。爪の音がだんだん遠ざかっていった。
千鶴子は霧の窓に寄りかかった。牛の鈴が鳴っていた。言い過ぎた、と思った。思ったけれど、すぐには追いかけなかった。
四 骨まで、海の朝
五時十二分。千鶴子は五号車の扉を開けた。
砂丘の上には、もう日の縁が出ていた。橙色の光が車内を斜めに横切り、さっきの女性の帆布を金色に染めている。
「あの。さっきの」
女性が顔を上げた。「『あとで』の人」
「『あとで』の人です」千鶴子は札を見せた。「一です。灯ヶ崎の朝。白飯と焼き鯵と味噌汁。三と替えていただけませんか」
女性の目が、札と千鶴子の顔を行ったり来たりした。
「本当に? うちは毎朝豆なんですよ。母が煮て、姉が煮て、私も煮る。朝凪の工房に勤めてからも、自分で煮てる。せめて帰省の帰りくらい違うものをと思って、印をつけようとして、寝ちゃった」
「私は毎朝、鯵なの」
二人は同時に笑った。
「ナディです。朝凪の港で、帆を縫ってます」
「堀井です。灯ヶ崎で給食を作ってました。今は、食べてるだけ」
二人は札を交換した。木札は人の手の温度で、ほんのり温かかった。千鶴子の手の中で、三の字が急に立派な字に見えた。

けれどナディは一の札を見つめて、少し眉を下げた。
「ひとつ白状すると、骨のある魚って、あんまり上手に食べられないんです。前に喉に刺さったことがあって」
「骨の場所を見ながらほぐしましょう。食べるときに、一緒にやってみる?」
そう言いながら、千鶴子は「骨ごといける」という声を思い出していた。
「……それでも、もし残すところがあったら」
「はい?」
「頭も骨も、喜んで食べるお客がいるの。紹介していいかしら」
五時三十分。千鶴子が二号車の手前まで戻ると、食堂車の扉が少し開いていて、中から声が聞こえた。
「――三週間前の揚げ菓子の分です。銅貨三枚。それと、さっきの札箱、すみませんでした」
ムギの声だった。すき間からのぞくと、ムギが窓口の前の床に立ち、真鍮の札入れを翼の先で開けて、銅貨を一枚ずつ窓口脇の棚に並べていた。今月の配達の賃金から出しているのだろう。
鎧戸は下りたままだった。その横の通用口から、マルタが腕組みをして見下ろしていた。
「棚席の客に朝食はつかないよ」
「知ってます。食べに来たんじゃなくて」
「じゃあ何しに」
「入れないと、あの人の三の取り替えを、もう一回頼めないから」
マルタはしばらく黙っていた。
「五時を過ぎたら、取り替えはしない」
「……はい」
「でも、出入り禁止は今日で終わり」マルタは銅貨を拾い上げた。「座って食べるなら入ってよし。立ったまま皿に首を突っこんだら、また禁止」
千鶴子は扉を開けた。振り向いたムギが、千鶴子の手の中の札を見た。三と書いてある。
「替えられたの?」
「五号車の人とね。札市に来ない人もいるって、教わったでしょう」千鶴子はしゃがんで、ムギと目の高さを合わせた。「さっきはひどいことを言って、ごめんなさい」
ムギはくちばしをもごもごさせた。「おれも、入らなきゃよかった。鉛筆のことなんか、どうでもよかったのに」
「どうでもよくはなかったわ。書き直さないとだめだったんでしょう」
「うん」
「それとね、ムギさん。骨と頭、好き?」
ムギは首をかしげた。
五時四十分。食堂車の窓際の卓に、千鶴子とナディが向かい合って座り、卓の端にムギが止まった。二人は交換した札を配膳係に渡した。窓の外はまだ紺色の海だった。ただ、水平線が一本の白い線になりかけていた。
運ばれてきた盆は、思っていたより大きかった。
千鶴子の前には、深い土鍋に入った赤茶色の豆の煮込みが置かれた。刻んだ青い葉と、とろりとした白いものが一匙かけてある。皿には、布のように薄く、焦げ目のついた丸いパンが三枚。小さなガラスの杯では、緑の葉の沈んだ茶が湯気を立てていた。
ナディの前には、白飯の茶碗と、わかめの味噌汁の椀。それに皮に焼き目のついた鯵が一尾あって、皮の端がまだちりちりと音を立てていた。
「豆は、スプーンじゃないんです」とナディが言った。「パンをちぎって、こう、指でつまむみたいに包むの」
千鶴子は言われたとおりにパンをちぎった。薄いのに、意外と破れない。豆を包んで口に入れた。
熱い。それから、思っていたよりずっとやさしい味がした。豆はほくほくと崩れ、にんにくと、知らない香りの種と、何か酸っぱいものが後から来る。白いのはヨーグルトのような乳の味で、それが辛さを丸くしていた。パンの焦げたところが香ばしかった。
「……おいしい」
「でしょう」ナディは得意そうに言い、それから鯵を見た。「では、先生」
「先生はやめて」千鶴子は箸を取った。「まず、背中の線に沿って箸で押すの。それから尻尾のほうから身を外すと、骨が一枚で上がってくるから」
ナディがおそるおそる箸を動かすと、身がほろりと外れた。千鶴子は手を出さずに見ていた。ナディが中骨の端を箸でつまんで持ち上げると、骨は頭ごと、きれいにひとつながりで上がってきた。
「わあ」
「小骨が残っていないか、ひと口ずつ確かめてね」
ナディは箸先で身を確かめてからひと口食べ、目を閉じた。味噌汁をすすり、白飯を口に入れて、もう一度目を閉じた。「これを毎朝?」
「毎朝」
「ずるい」
ナディは頭のついた中骨を小皿に移し、ムギの前に置いた。「骨ごと食べるお客さま」
ムギは小皿の前で背筋を伸ばして座った。ちらりとマルタのほうを見てから、頭からひと飲みにした。ばりばりと音がして、ムギの目が丸くなった。
「焼いてある」
「焼いてあるわよ」
「頭に残った皮が、香ばしい。骨が、生のと違う」ムギは小皿をくちばしでつつき、何も残っていないのを確かめると、ナディに頭を下げた。「ごちそうさまでした」
「日の出はどっちから?」とナディが聞いた。
「左。六時三十一分」ムギは胸を張った。「あの柱時計を見てて。もうすぐだ」
千鶴子は茶を飲んだ。甘くて、口の中がすっとした。厨房では、マルタと料理人たちが休みなく鍋を振っている。若い料理人が重ねた皿を三枚落としかけ、マルタが体で受け止めた。千鶴子の手が、思わず膝の上で前掛けの紐を探すように動いた。
それから千鶴子は、その手で二枚目のパンをちぎった。
今日は、食べる側だ。
途中で、毛皮の帽子が食堂車に入ってきた。イェルムは千鶴子たちの卓に気づくと、燻製の魚を一尾、紐からほどいて黙ってムギの小皿に置き、自分の席へ歩いていった。ムギは今度はすぐに食べず、両方の翼を胸の前で合わせてから食べた。
柱時計が六時三十一分を指した。
窓の外で、水平線の白い線が、まんなかから膨らんだ。
最初は針の先ほどの赤だった。それが一呼吸ごとに大きくなり、海の上に細い光の道を伸ばしてきた。列車の下の潮道が光を受けて、薄く透けた。ああ、本当に海の上を走っているのだ、と千鶴子は思った。食堂車じゅうの客が手を止めて、左の窓を見ていた。マルタまで、鍋を持ったまま厨房の小窓から首を出していた。
千鶴子は最後のパンで、土鍋の底の豆をきれいにぬぐって食べた。
六時五十分、夜渡り号は朝凪港に着いた。
ホームに降りると、潮と、焼いた魚と、熟れた果物の匂いがした。駅の向こうに、朝市の天幕が並んでいるのが見える。振り返ると、列車の後ろで、さっきまで走ってきた潮道がゆっくりと海に沈んでいくところだった。
ナディは帆布の束を担ぎ、「工房に寄ったら、市場の豆屋を教えます。九時に、時計台の下で」と言って人波に消えた。イェルムは、孫らしい子どもに手を引かれていった。
ムギは改札の手すりに止まって、首の札入れを確かめた。中には手紙の小包と、銅貨が二枚だけ残っていた。
「帰りの便は?」とムギが聞いた。
「明後日の夜」
「おれも明後日。荷物棚、また同じかも」
「そうしたら、また朝ごはんの話をしましょう」
千鶴子は鞄から手帳を出し、ホームの柱にあてて四十二番目を書いた。海の上、夜渡り号の食堂車。豆の煮込み、薄焼きパン、ミントの茶。左から日の出。
それから少し考えて、余白の隅に書き足した。
帰りは四。眼鏡をかけて、丸をつける。
「四?」ムギがのぞきこんだ。「燻製の魚のやつ?」
「狐を見たから」
ムギはよく分からないという顔をしてから、翼を広げた。「じゃあ、魚の皮が残ったら」
「残りません」
ムギは笑うように一声鳴いて、朝の港の上へ飛んでいった。千鶴子は手帳を閉じ、眼鏡を鞄の一番上のポケットに入れ直して、朝市のほうへ歩き出した。


