一 入港届
神社の境内に並ぶ骨董市は朝八時に始まり、昼前にはもう値札の数字が崩れはじめる。宇野徹は八時五分に鳥居をくぐり、十時半には紙袋をひとつ提げて帰ってきた。中身は、手のひらに収まる魚の形の豆皿だった。藍で目とうろこが描いてあり、尾が少し欠けているぶん、三百円だった。
「また買ったの」
晴美がソファから顔だけ上げた。
「三百円だよ。尾が欠けてる」
「欠けてるから買ったんでしょう。あなた、そういうの好きだもの」
徹は返事をせずに台所へ行き、電気ケトルに水を入れてスイッチを押した。買ってきた器は、まず茶を一杯淹れてから棚に収める。五十三になる徹が、四十を過ぎたころから続けている土曜の決まりだった。
食器棚はガラス戸の四段で、幅は九十センチある。上の段に湯呑とグラス、二段目に小皿と小鉢、三段目に深皿と大皿、いちばん下に土鍋と重箱。先週数えたときは四十六個だったから、今日の豆皿も入れて、器は全部で四十七個になる。そのうち毎日使うのは、六つか七つだ。
ケトルがかちりと鳴った。湯呑を取ろうとガラス戸を引いたところで、徹は手を止めた。
三段目の藍の深皿に、水が張っていた。
水というより、海だった。縁から五ミリほど下まで青く澄んだ水が満ちていて、表面に細かなさざ波が立っている。潮の匂いがした。その真ん中に、緑の船体に白い操舵室を載せた船が一艘、浮いていた。全長は徹の人差し指より少し長いくらいだ。
「手を入れるな!」
甲高い笛の音と一緒に、声が飛んできた。
操舵室の屋根に、人が立っていた。親指ほどの背丈で、麦わら色の髪を後ろでひっつめ、紺の作業着に橙色の救命胴衣を着ている。腰には巻尺と笛を下げていた。顔はよく日に焼けていた。
「その手、あと五センチこっちに入れたら大波だからね。入港したばっかりなんだ、揺らさないで」
徹は宙に止めていた手を、ゆっくり引っこめた。
「……どちらさまですか」
「はまゆう丸の船長、タキ。この棚に港を開く係」
タキは屋根から甲板へ飛び降りた。船べりから藍の深皿の縁へ渡した細い板を歩いて棚板に立ち、作業着の胸ポケットから切手くらいの紙を出して、両手で差し出した。
「入港届。棚主さんに渡す決まりだから」
徹は老眼鏡をかけ、引き出しからルーペを出してきて、その紙を読んだ。米粒に書いたような細かい字が、きちんと箇条書きになっていた。
一、港は、この食器棚の内側に限る。船乗りは棚の外へ出ない。
一、海水は、潮の満ちはじめに扉の閉まった棚にある、空の器にのみ張る。食べ物の入った器、蓋をした器、伏せた器には張らない。
一、器の水深は、その器が近ごろどれだけ使われたかによる。
一、潮は、この家の台所で湯が沸いたときに満ちはじめ、およそ一時間続く。船の出入りは潮のあいだに限る。
一、船の泊まった器を棚から出すと、水は消え、船は棚板に乗り上げる。
一、棚主の手は大波となるので、船の近くに入れないこと。
「湯が沸いたとき」
徹はケトルを振り返った。注ぎ口からまだ湯気が細く立っている。
「そう。いまのが今日の昼の潮。あんたがお湯を沸かしたから、うちの船が入ってこられたの」タキは得意そうに言った。「いい潮だったよ。迷わずまっすぐ来られた」
「どこから」
「よその棚から。町じゅうの食器棚は、潮のときだけ水でつながるの。うちは胡麻とか米粒とか、塩の粒とか、ボタンとかを運んでる」
晴美がいつのまにか後ろに来て、徹の肩ごしに棚をのぞきこんでいた。
「あら。かわいい」
「かわいくない。船長」とタキが言った。
「失礼しました、船長さん」晴美は真顔で頭を下げた。「宇野晴美です。こっちは徹」
「よろしく、晴美さん。徹さん」
徹はもう一度、藍の深皿を見た。直径二十一センチ、深さ四センチ。十二年前にこの同じ骨董市で、四千円で買った皿だ。徹の器のなかでいちばん高く、いちばん気に入っている。毎週金曜の夜は、この皿でカレーを食べると決めていた。
「あの、その皿なんですが」
「いい皿だね」タキはうなずいた。巻尺をしゅっと伸ばしてみせる。「この棚でいちばん深い。三センチ二ミリある。ほかは浅瀬ばっかり。奥の緑の鉢なんか四ミリしかないよ。あれじゃ小舟でも腹をこする」
「金曜に、カレーを食べる皿なんです」
「ふうん」
「ふうん、じゃなくて」
「今日は土曜でしょう。金曜はまだ先だよ」
タキは船に戻り、操舵室の扉を閉めた。話はこれで終わり、という閉め方だった。
徹は魚の豆皿を二段目の隅に置き、湯呑を出してガラス戸を閉めた。茶は少しぬるくなっていた。
二 麻婆丼の夜
日曜の朝六時半、ケトルの湯が沸くと、食器棚の奥の板がうっすら曇った。
ガラス戸ごしに見ると、曇りの向こうは夜明け前の沖のように暗く青い。そこから小さな舟が三艘、順番に出てきた。いちばん大きいものでも、徹の小指の先ほどしかない。潮のあいだは器と器、段と段のあいだにも薄い水の筋が通るらしく、舟はその筋をたどって二段目の小鉢や醤油皿へ滑りこんでいった。
「朝も潮が来るのか」
「お湯を沸かせば、いつでも」タキは棚板の縁に腰かけて、舟の数を指で数えていた。「徹さん、毎朝コーヒー飲むでしょ。助かるよ」
「なんで知ってる」
「ゆうべ、棚の中まで匂いがしたから」
徹はコーヒーを淹れながら、舟がどの器に入ったかを目で追った。二段目の小鉢がふたつと、醤油皿がひとつ。どれも、普段から使っている器だった。
月曜、徹の勤める営業所では、運転士の急な休みが二件重なった。配車係の仕事は、バスと運転士と時刻表を一枚の表の上でつなぎ合わせることだ。誰かが抜ければ、その人の行路を三人に少しずつ割り振り、決められた休憩を確保しながら組み直す。徹はこの組み直しが得意で、得意なぶん、自分の予定が崩れるのは苦手だった。
家に着いたのは七時過ぎだった。晴美からは、事務所の残業で遅くなると連絡があった。冷蔵庫に豆腐と挽き肉があったので、麻婆豆腐にすることにした。
小鍋に湯を張って火にかけ、豆腐を下ゆでする。湯が沸いたところで、白い中鉢を出そうとガラス戸を開けた。
中鉢の中に、舟がいた。
全長三センチほどの黄色い舟だった。甲板では、白髪の小さな男女がふたりがかりで舫い綱を結んでいた。
「こがね丸さん。塩の粒を運んでるの」三段目からタキが声をかけた。「さっき入ったとこ」
「この鉢、いまから使うんですが」
「出したら座礁するよ。入港届に書いたでしょ」
こがね丸の夫婦がそろって徹を見上げ、ぺこりと頭を下げた。徹もつられて頭を下げた。
その夜の麻婆豆腐は丼に盛った。下にご飯を敷いたので、正確には麻婆丼になった。帰ってきた晴美は「おいしい」と言って、ひと粒残さず食べた。
「丼でいいじゃない」
「中鉢で食べたかったんだ」
「中鉢でも丼でも、味は変わらないでしょう」
「変わる」
晴美は少し笑って、それ以上は何も言わなかった。
火曜は晴美のほうが先に帰っていた。玄関を開けると台所から魚の焼ける匂いがして、晴美の白い楕円皿がもう調理台に出してあった。
「お湯を沸かす前に、使う器を出しておけばいいのよ」晴美は味噌汁の鍋を火にかけながら言った。「潮が来てからじゃ遅いんだから」
食器棚をのぞくと、棚板の上に懐紙が敷かれ、削り節がひとつまみ載っていた。タキがそれを両腕いっぱいに抱えて、船へ運んでいるところだった。
「晴美さんは話がわかる」タキは徹に向かって言った。
味噌汁が煮立つと、ガラス戸の中で、湯気が立ちのぼるように潮が満ちてきた。藍の深皿のはまゆう丸が少し浮き上がり、舫い綱がぴんと張る。タキは甲板に戻ると、操舵室の窓から顔を出した。
「それでね、ふたりに知らせがあるの。金曜の夕方の潮で、あさぎりが試しに寄ってくれることになった」
「あさぎり」
「定期船。全長十五センチ。この町の棚をぐるっと回ってる。あさぎりが寄ってくれたら、この棚は定期の港になれる。たまに舟が迷いこむんじゃなくて、毎週決まった日に荷が来るようになるの」
タキの声が、だんだん高くなった。
「ただ、あさぎりは船底が深いから、水深が三センチないと入れない。この棚で三センチあるのは」
タキは自分の船の下の、藍の深皿を指さした。
「金曜です」と徹は言った。「金曜は、それでカレーを食べます」
「一回くらいいいでしょう。はまゆう丸はどこかに移すから」
「どこに。ほかは浅瀬なんでしょう」
タキは口をとがらせた。「だから困ってるんじゃない」
「こっちも困ってる。土曜からずっと、その皿には触れてもいない」
「徹さんはほかの皿でも食べられるでしょ。カレーなんて、丼でも」
「丼じゃない」
思ったより大きな声が出た。晴美が菜箸を持ったままこちらを見た。タキは操舵室の窓をぴしゃりと閉めた。
徹は焼き魚を食べるあいだ、ずっと口をへの字にしていた。
翌朝、徹はケトルを使わなかった。マグカップに水とインスタントコーヒーを入れて、電子レンジで温めた。沸騰させなければ潮は来ない。潮が来なければ、舟は動かない。金曜まで潮を止めておこうと決めたわけではなかった。ただ、自分の家の台所で沸かした湯が、自分の知らないところで何かを動かしていることが、その朝は面白くなかった。
その夜、帰ってガラス戸を開けると、タキが棚板の縁に仁王立ちしていた。
「港を干すな!」
笛が三回鳴った。
「こがね丸さんは、けさの潮で出るはずだったの。三丁目の棚に塩を届けて、それで今週の稼ぎなんだよ。それが、まる一日足止め」
二段目の中鉢の中で、白髪の夫婦が並んで座り、徹を見上げていた。怒った顔はしていなかった。そのほうがかえってこたえた。
「……すみません」
徹はケトルに水を入れて、スイッチを押した。
三 浅瀬の理由
湯が沸くと棚の奥がまた曇り、潮が満ちた。こがね丸の夫婦は手を振りながら、奥の霧の中へ消えていった。
徹は空になったケトルを持ったまま、流しの前に立っていた。晴美が隣に来て、棚をのぞいた。
「ねえ。あの子、浅瀬ばっかりって言ってたでしょう」
「言ってた」
「浅いのって、どのお皿」
タキが巻尺を伸ばして、二段目と三段目を順に指した。「奥の緑の鉢が四ミリ。その横の角皿が二ミリ。二段目の蕎麦猪口が、五つとも一ミリ。片口が三ミリ。土鍋は……ほとんど乾いてる」
晴美は徹の顔を見た。
「それ、全部、使ってないお皿じゃない」
徹は入港届を出してきて、ルーペで三行目を読み直した。
一、器の水深は、その器が近ごろどれだけ使われたかによる。
「……使えば、深くなるのか」
「そりゃなるよ」タキはあっさり言った。「言わなかったっけ」
「書いてはある」
「書いてあるなら、言ったのと同じでしょ」
「同じじゃない」
緑の鉢は三年前、同じ骨董市で二千八百円で買ったものだ。内側で緑の釉が溜まり、底のほうだけ色が深くなっている。いい鉢だと思って買った。いい鉢だから、使って欠けたらもったいない気がして、一度も使わないまま棚の奥にしまってあった。角皿は形が気に入って買ったが、角がとがっていて盛りつけにくい。蕎麦猪口は五客そろいで安かったから買った。片口は何に使えばいいのかわからない。土鍋は去年の三月から出していない。
四十七個のうち、毎日使う六つか七つ以外は、みんなこんな具合だった。
「なあ、タキさん」
「船長」
「船長。あさぎりが入るには三センチだったな。はまゆう丸は」
「二センチあれば泊まれる」
「器を一回使ったら、どれくらい深くなる」
タキは腕を組んだ。「器によるけど、洗ってちゃんと棚に戻せば、次の潮でぐっと来るよ」
徹は時計を見た。夜の八時十分。晴美も自分も、夕飯はまだだった。
「肉じゃがにする」
「え?」と晴美が言った。
「緑の鉢に盛る」
じゃがいもと玉ねぎを切った。煮ているあいだに鍋の湯が沸くので、棚の中ではまた潮が満ち、タキが「出入りの舟、なし!」と誰に言うでもなく叫んでいた。
緑の鉢を棚から出すとき、徹は一瞬だけ手が止まった。二千八百円で買って、三年間、一度も棚の外の明かりに当てたことのない鉢だった。
台所の電灯の下で見ると、緑は棚の中で見るより明るかった。肉じゃがの茶色がよく映えた。
「あら」と晴美が言った。「いいじゃない」
「いいな」と徹も言った。
食べ終えると、緑の鉢を洗って拭き、三段目に戻した。
翌朝は木曜だった。六時半にケトルが沸いてからガラス戸を開けると、タキが緑の鉢の縁に立って巻尺を伸ばしていた。
「二センチ六ミリ」
タキは振り返った。顔がほころびかけて、あわてて真面目な顔に戻った。
「はまゆう丸、泊まれる」
「よし」
徹は鞄から紙を一枚出した。営業所で使う行路表の裏紙だ。縦に器の名前を、横に曜日と朝・夜を書いていく。一枚に収まらなかったので、二枚をセロハンテープでつないだ。
「何それ」
「運用表。どの器を、いつ使うか」
木曜朝、角皿に卵焼き。木曜夜、土鍋で鍋。片口にぽん酢。蕎麦猪口五客を鍋の取り皿に。金曜朝、緑の鉢にサラダ。
その下に、入出港の欄を作った。
木曜夜の潮で、はまゆう丸は藍の深皿から緑の鉢へ移る。金曜夕、藍の深皿は十八時から使い、十八時四十分に棚へ戻す。同時刻に湯を沸かす。あさぎりは土鍋に入港。
「土鍋」とタキが言った。「あそこ、乾いてるよ」
「今夜、鍋をする。木曜の夜に使えば、金曜の夕潮に間に合うだろ」
タキは紙の前を行ったり来たりして、欄をひとつずつ読んでいった。親指ほどの人が大きな表に沿って棚板を歩いているところを営業所の誰かが見たら何と言うだろう、と徹は思った。
「……蕎麦猪口を鍋の取り皿にするの、ちょっと小さくない?」
「小さい。何回もよそう」
タキは笑った。それから少し黙って、言った。
「浅瀬ばっかりって言って、悪かった。器が浅いんじゃなかったね」
「使ってなかったのは俺だ」
角皿の卵焼きは、焼き目が少し濃くついた。徹が端を切り落としていると、ガラス戸の内側からタキが呼んだ。
「その焦げたとこ」
「これか」
「荷役料。もらう」
徹は土曜に買った魚の豆皿に焦げた端をひとかけら載せて、二段目に置いた。食べ物の入った器には水が張らないから、豆皿はただの小皿のままだ。タキは船から降りてきて豆皿の縁に腰かけ、自分の頭ほどもある卵焼きのかけらにかじりついた。
「甘い」
「甘いのが嫌なら」
「甘いのがいいの。焦げたとこがいちばんおいしい」
タキは口のまわりを手の甲でぬぐい、しばらく黙って食べていた。港の話をひとつもしないタキを見るのは、これが初めてだった。

木曜の夜は寄せ鍋にした。こんろの火で土鍋の底が温まると、八か月ぶりにぐつぐつと音を立てた。棚の中では潮が満ちた。徹はガラス戸ごしにタキと声をかけ合いながら、はまゆう丸が藍の深皿から緑の鉢へ、水の筋を伝って移っていくのを見守った。手は一度も入れなかった。
蕎麦猪口は、やはり小さかった。晴美は四回よそい、徹は五回よそった。
食べ終えると、残りは浅い保存容器に小分けし、手早く冷まして冷蔵庫へしまった。空になった土鍋は、まだ洗わずに蓋をしてこんろに置いておいた。朝に洗って棚に戻せばいい、と徹は思った。
四 金曜の夕潮
金曜、徹は四時四十五分に起きてカレーを作った。早番の日は六時半までに営業所に入らなければならない。玉ねぎを炒め、肉を入れて水を足す。煮込んでいるあいだに棚の中で朝の潮が満ちたが、来る舟はなかった。火を止めると、カレーを浅い容器に小分けし、底を冷水に当てて手早く冷まし、冷蔵庫へ入れた。時計を見て、あわてて家を出た。土鍋のことは、門を出てから思い出した。帰ってから洗えば間に合う、と思った。
営業所では、その日は誰も休まなかった。徹は昼休みに運用表の写しを見直した。十八時、カレーを電子レンジで温めて藍の深皿によそう。湯は沸かさない。十八時四十分までに食べて洗い、棚に戻す。それからケトル。タキの話では、あさぎりは潮が満ちてから二十分ほどで着き、三十分ほど荷を下ろして、潮が引く前に次の棚へ向かう。七時までに湯が沸かなければ、あさぎりはこの棚を素通りする。
五時四十分に家に着いた。台所の電気をつけて、徹は流しの前で足を止めた。
土鍋が、流しの中で水に浸かっていた。
のぞきこむと、底一面に米が焦げついていた。冷蔵庫の扉に、晴美の字のメモが貼ってあった。
〈冷蔵庫の鍋の残り、土鍋で温めて雑炊にしました。おいしかった! 焦がしたので浸けてます。ごめん〉
「……ごめん、じゃない」
ガラス戸の向こうでは、タキが棚板の縁から身を乗り出していた。
「土鍋! 土鍋がいない!」
「いる。流しにいる」
「なんで流しにいるの」
「雑炊になった」
徹はスポンジで底をなでた。焦げは薄い膜のように張りついていて、なでたところの色がわずかに変わるだけだった。強くこすれば傷める。水を張って火にかける手も浮かんだが、煮立たせれば潮が来る。土鍋が棚にないまま潮が来れば、あさぎりの入る器がない。
「給湯器のお湯は?」徹はガラス戸に向かって訊いた。
「沸かしてないなら、潮にはならない」
給湯器を四十五度に設定し、湯を土鍋に張った。木べらで底をなでる。少しずつ、焦げの端がめくれてきた。
六時を過ぎた。運用表どおりなら、もうカレーを食べはじめている時刻だった。
六時十二分、大きな焦げははがれたが、底の隅にはまだ薄い膜が残っていた。徹は湯を張り替え、もう少しふやかすことにした。待つあいだに、先にカレーを食べてしまおう。
冷蔵庫のカレーをレンジ用の器に移してむらなく十分に温め、藍の深皿によそったのが六時十八分だった。
二口目を食べたところで、玄関の鍵が回った。
「ただいま。寒かった、お茶飲みたい」
晴美はコートを脱ぎながら台所に入ってきて、まっすぐケトルに手を伸ばした。
「待った!」
晴美の指が止まった。スイッチの一センチ上だった。
「いま沸かすと、土鍋がまだ棚にない。この潮には水が張らなくなる」
晴美はケトルと、徹の手元の藍の皿と、ガラス戸の向こうで両手を振り回しているタキを順に見た。それから、まだ流しで湯に浸かっている土鍋を見た。
「……わたしのせい?」
「雑炊はうまかったか」
「おいしかった」
「なら、いい。あと二十分待ってくれ」
晴美はケトルから手を離し、冷蔵庫から麦茶を出した。自分の分だけマグカップに注ぎ、沸騰させないようレンジで温めた。
徹はカレーを食べた。急いで食べると、スプーンの先から藍の深皿の底の模様が少しずつのぞいてくる。毎週見ている模様だった。急いでいても、カレーはうまかった。
六時三十六分に食べ終え、皿を洗って拭き、三段目に戻した。湯を吸った土鍋の焦げは、木べらでそっとなぞるとはがれた。徹がすすぎ、晴美が布巾で拭いた。六時四十分、土鍋も棚のいちばん下に戻す。蓋をした器には水が張らない。蓋は流しの横に伏せておき、ガラス戸を閉めた。
「どうぞ」
晴美がケトルのスイッチを押した。
六時四十四分、ケトルがかちりと鳴った。
棚の奥の板が、白く曇った。
その奥の暗い青が、少しずつ近づいてくるように見えた。耳の奥で小さな鈴を振ったような、細い汽笛が聞こえた。
七時四分、霧の中から、白い船体に青い線を一本引いた船が現れた。舳先と船尾に、米粒ほどの明かりが灯っている。甲板には六人の船乗りが並んでいた。あさぎりは棚の奥を伝う水の坂をゆっくり下りて、いちばん下の段の土鍋へ、舳先から静かに入っていった。土鍋の水面が明かりを映して揺れた。

タキが長く一回、笛を吹いた。はまゆう丸から小さな艀を下ろし、水の坂を滑って最下段まで下りていく。徹と晴美はガラス戸の前にしゃがみこんだ。膝が鳴ったが、どちらも何も言わなかった。
あさぎりの船長は、灰色の髪を短く刈った人で、タキより頭ひとつ背が高かった。サワラ、と名乗った。サワラは錘のついた糸を土鍋の水に垂らし、引き上げて目盛りを読んだ。
「三センチ八ミリ」
それからタキに手を出した。タキは作業着の胸ポケットから、入港届と同じ大きさの紙を出して渡した。徹の運用表の、入出港の欄だけを細かい字で写したものだった。いつのまに写したのか、徹は知らなかった。
「この棚の潮は、毎週金曜、七時までに満ちる。そう書いてあるが、確かか」
サワラが訊いた。タキは答えかけて口を閉じ、ガラス戸の向こうの徹を見上げた。
「棚主。確かですか」
徹は、タキが自分に訊いたことに少し驚いた。
「確かです」と徹は言った。「金曜のカレーは、六時にします」
「わたしは?」と晴美が言った。
「七時に、好きな皿で食べればいい」
「じゃあ楕円皿にする。カレーにも合うのよ、あれ」
サワラはうなずいた。「いい表だ。誰が組んだ」
「棚主です」とタキが言った。
「うちの棚主にも見せてやりたいね。あそこは湯を沸かす時刻がばらばらで、こっちは毎週走り回ってる」
あさぎりの船乗りたちが、胡麻の袋を八つ、米粒の俵を三つ、棚板に下ろした。最後に、小さな赤いボタンがひとつ。これは四丁目の棚の子ども用だから、次の舟で回してくれ、とサワラは言った。
それから、小豆ほどの真鍮の鐘をタキに手渡した。
「定期の港には、鐘がいる」
タキは鐘を両手で抱えたまま、しばらく何も言えなかった。やがて緑の鉢の縁から細い糸を渡して鐘を吊るし、ちりん、とひとつ鳴らした。
七時三十一分、あさぎりは明かりを灯したまま水の坂を上り、奥の霧の中へ戻っていった。
晴美は冷蔵庫のカレーを十分に温め直し、楕円皿によそい、麦茶のコップを並べた。ケトルの湯はとうにぬるくなっていた。徹はもう一度湯を沸かした。棚の中で、少しだけ潮が満ちた。
五 鐘の鳴る棚
それから一週間で、徹は四十七個の器のうち二十六個を使った。
蕎麦猪口には、ひとつにはプリンを、ひとつには胡麻和えを、ひとつにはヨーグルトを入れた。片口は、味噌汁をよそうと縁から少しこぼれたので、ドレッシング入れになった。角皿は盛りにくかったが、焼き鮭の切り身を斜めに載せると収まりがよかった。蕎麦猪口は一センチ二ミリまで深くなり、二度目にやって来たこがね丸は、そのひとつに泊まった。
はまゆう丸は緑の鉢に住むようになった。ただ、火曜と木曜の夜はタキが配達に出ているので、その晩だけ緑の鉢は徹の番になる。藍の深皿は、毎日、徹の皿に戻った。
次の土曜も、徹は八時五分に鳥居をくぐった。
三軒目の台に、白い輪花の皿があった。縁が花びらのように波打っていて、千五百円。手に取って、裏の高台を見て、光にかざした。いい皿だった。
何曜日に使う、と徹は自分に訊いた。
答えが出なかった。焼き魚は晴美の楕円皿だし、煮物は緑の鉢がある。輪花の皿に何を盛るのか、どの晩の食卓に置くのか、思い浮かばなかった。
「来週もありますか」と徹は店主に訊いた。
「売れなきゃね」
「じゃあ、売れなかったら」
徹は皿を台に戻した。その日は何も買わずに、甘酒を一杯飲んで帰った。何も買わなかったわりに、楽しい朝だった。
日曜の朝、徹は卵焼きを焼いて角皿に盛った。焼き目は、わざと少し濃くつけた。
焦げた端を魚の豆皿に載せて二段目に置くと、タキは操舵室から出てきたが、作業着ではなく、薄い水色のシャツを着ていた。
「今日は休み」タキは豆皿の縁に腰かけた。「日曜の朝の潮は、来ても誰も来ないよ。ほかの舟にも、休みだって伝えといたから」
「港長が休んでいいのか」
「港長じゃない、船長。それに、休みも運用表に書いてもらう」
冷蔵庫の扉には、つなぎ合わせた二枚の運用表が磁石で留めてあった。金曜の欄には徹の字で「十八時 カレー(藍)/十八時四十分 湯」と書いてあり、その下に晴美の字で「十九時 カレー(楕円皿)晴美」と足してあった。土曜の夜の欄には「焼き魚 楕円皿 晴美優先」とあった。
徹はペンを取り、日曜の朝の欄に書き足した。
「タキ 休み。卵焼きの焦げ。甲板で昼寝」
「それでいい」とタキは言った。
卵焼きのかけらを食べ終えると、タキははまゆう丸の甲板に寝ころんだ。ガラス戸ごしの朝日が、緑の鉢の水を明るく透かしていた。
徹はケトルに水を入れ、コーヒーのためにスイッチを押した。
湯が沸くと、棚の奥がうっすら曇って、吊るした真鍮の鐘が、潮に揺れてちりんと鳴った。甲板のタキは片目を開けて、また閉じた。


