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コメディ・日常

わが家の正月は、二月です

進行表は赤ペンだらけ。それでも凧は、ちゃんと上がった。

読了目安
21分
長さ
短編
#くすっと笑える#家族#冬
わが家の正月は、二月ですのイメージ

あらすじ

年末年始は、家族四人とも仕事だった。だから二月の日曜に「わが家の正月」をやる。ホテルのフロント係の陽介は、日の出から解散までを三枚つなぎの進行表に書いて帰省した。父は中古の餅つき機に夢中、妹は寝正月、母はおせちについてなぜか目をそらす。焦げる伊達巻、ゼロ枚の坊主めくり、手描きの凧。定刻どおりにならない休日を、四人で面白がる家族コメディ。

一 三枚つなぎの進行表

二月の第二土曜、夜の九時すぎ。宮坂陽介が実家の玄関で靴を脱いでいると、居間のこたつの上に、白い紙が一枚立ててあるのが見えた。

〈寝正月中 起こさないでください 菜摘〉

紙は医療用の白いテープで、こたつに載せたみかんの箱に貼りつけてあった。その向こうで、妹の菜摘がこたつ布団を肩まで引き上げて眠っている。自分で持ってきたらしい水色の枕に、寝癖のついた頭が半分沈んでいた。

「まだ正月じゃないだろ」

陽介が小声で言うと、台所から母の千鶴が顔を出した。

「前夜祭なんだって。六時に着いて、六時十分にはもうその状態」

「前夜祭で寝るのか」

「夜勤明けの人は寝るのが仕事です」

菜摘は二十七歳で、夜間救急の動物病院で看護師をしている。大晦日の夜も元日の夜も、熱を出した猫や、何かを飲みこんだ犬と、その飼い主たちのそばにいた。

陽介のほうは、三十三歳になった今年も、ホテルのフロントで年を越した。十二月二十九日から一月三日まで、ロビーの鏡開きの時刻や初詣の送迎バスの出発時刻を、宿泊客に何百回も案内した。母はラジオ局の技術部で、年越しの特番と元日の朝の番組の音を調整していた。父の修は路線バスの運転士で、正月ダイヤのハンドルを握っていた。

家族のグループに菜摘が〈今年、全員正月いなくない?〉と書いたのは、十二月の半ばだった。〈じゃあ二月にやろう〉と母が返し、父がスタンプを一つ押し、陽介がカレンダーを見て〈第二日曜〉と打った。決まったのはそれだけで、そこから先、誰が何をやるかは、それぞれが勝手に考えてきた。

居間の隅で、父がポリバケツをのぞきこんでいた。紺色の作業用ジャンパーを、家の中でも着ている。

「おかえり」

「ただいま。それ、何」

「もち米。一升。朝まで水に浸ける」

バケツの横には、白くて四角い機械が置いてあった。ふたのところに、説明書のコピーが布のガムテープで貼ってある。

「餅つき機?」

「リサイクルショップで二千八百円」

父は少し胸を張った。「二升用だ」

「四人だよ」

「一升なら余裕だ」

陽介が言いたかったのは、そういう意味ではなかった。

陽介はリュックから、たたんだ紙を取り出した。A4を三枚、縦にテープでつないで、蛇腹に折ってある。広げると、こたつの端から畳の上まで垂れた。

〈わが家の正月 進行表〉
五時四十五分 伊達巻焼成(陽介)
六時三十分 初日の出(二階物干し)
七時三十分 新年のあいさつ・雑煮(父)
八時三十分 おせち(母)
十一時 坊主めくり
十二時 昼食(餅)
十四時 凧揚げ(母)・河川敷
十六時三十分 撤収
十八時 夕食・団らん
二十一時 解散

母が身をかがめて読んだ。

「団らんにも時間があるんだ」

「決めとかないと、誰も団らんしないだろ」

「するよ、普通に」

「普通にしてたら、正月っぽくならない」

言ってから、陽介は少し理屈っぽかったかと思った。けれど、毎年フロントで「元日のご案内」を手渡してきたのだ。客たちはあの紙を見ながら、ちゃんと正月をしていた。自分の分を一度くらい、あの紙のとおりにやってみたかった。

「凧揚げは決定なんだ」

「決定。半額だったから」

母は押し入れから細長い袋を出してみせた。絵付け用の、白い角凧。竹ひごと和紙と、紙のしっぽが二本。正月の売れ残りを、文房具店で見つけたのだという。

「おせちは?」

「任せて。ちゃんと準備してある」

母はそう言って、なぜか目をそらした。

陽介は持ってきた卵十個とはんぺん二枚を冷蔵庫に入れ、ついでにコップに氷を入れようと冷凍庫を開けた。引き出しが途中で止まった。平たい大きな箱が、斜めに引っかかっている。

「それ、明日の主役だから。触らないで」

母に言われて、陽介は氷をあきらめた。

こたつで菜摘が寝返りを打った。紙がぱたりと倒れた。陽介はそれを立て直して、テープを指で押さえてやった。

二 日の出と餅つき機

五時四十分にアラームが鳴った。陽介が台所に下りると、もう明かりがついていた。父がざるにもち米をあけて、水を切っていた。

「起きてたの」

「四時五十分に目が覚めた。体が勝手に起きる」

三十年以上、始発のバスを運転してきた体だった。

陽介は母のエプロンを借りて、ミキサーにはんぺん一枚と卵五個を入れた。砂糖とみりんと白だし。アパートで三回練習して、三回目はちゃんと巻けた。オーブンは百八十度で二十分。アパートの小さなオーブンでは、それでちょうどよかった。

実家のオーブンレンジは、陽介が高校生のころからある白い箱だった。生地をこし、角皿を探して予熱を待つうちに、六時十五分になっていた。角皿に生地を流し、上の段に差しこみ、百八十度と二十分を押した。ブーンと低い音がした。

「六時半だ」

陽介はエプロンのまま二階に上がった。父もついてきた。物干し場の窓を開けると、冷たい空気が顔を打った。屋根と屋根の向こうに鉄塔が並び、その奥の空が、白からオレンジに少しずつ変わっていく。

菜摘は起きてこなかった。母も起きてこなかった。進行表の「初日の出」は、二人で見ることになった。

「お父さんは、毎朝見てるか」

「見てるな。信号待ちで」

父はジャンパーの襟を立てた。「でも、止まって見るのは、あんまりない」

鉄塔のあいだから、太陽の縁がのぞいた。二人は黙って、それが丸くなるまで見ていた。陽介はスマホで一枚撮り、もう一枚撮った。

「餅、蒸し始めないと」

父が言ったのと、陽介が鼻をひくつかせたのは、ほとんど同時だった。

台所には、甘くて焦げたにおいがこもっていた。オーブンレンジを開けると、伊達巻の表面は真っ黒だった。けれど角皿を引き出して端を持ち上げると、裏側はきれいな黄色だった。

「上の段、ヒーターに近いんだよ、それ」

父が言った。

「先に言ってよ」

「おれも今知った」

六時五十八分、父が餅つき機のスイッチを入れた。シューッと湯気が上がり、台所の窓が白く曇った。父は説明書のコピーを指でたどった。

「蒸し、約四十分」

「つくのは?」

「そのあと、約十分から十五分」

陽介は進行表を開き、七時三十分の「雑煮」を見て、ペンを持ったまま止まった。

七時四十分。機械の音が変わった。ゴウン、ゴウン、と底の羽根が回りはじめ、白い箱がまるごと揺れた。父は両手で機械を押さえた。脱水中の洗濯機を押さえる人の姿勢だった。

「押さえてないとだめなの、それ」

「わからん。でも押さえたい」

居間のふすまが開いた。菜摘が、こたつ布団を肩にかけたまま立っていた。

「なに。工事?」

「餅」

「餅?」

菜摘は台所に入ってきて、透明なふたの中をのぞいた。白い塊が、ぐるん、ぐるんと回って、自分で自分を折りたたんでいく。

「……え、すごい。生きてるみたい」

彼女は布団を床に落とし、父の横にしゃがみこんだ。それから五分間、誰も何も言わなかった。三人で、回る餅を見ていた。

父とエプロン姿の陽介、妹の菜摘が、白い餅つき機の中で折り返される餅を黙って見つめる。

菜摘は一度居間に戻り、こたつの上の紙に、ボールペンで書き足した。

〈寝正月中 一時中断〉

餅がつき上がると、父はそれを片栗粉を敷いたまな板に移した。湯気がもうもうと上がる。

「熱いうちに丸めないと固くなる」

三人で手に片栗粉をつけた。陽介の餅は、どうしても平べったくなった。父の餅は大きさがばらばらだった。菜摘だけが、ちぎって、手のひらで二回転がして、ぽんと置く。同じ大きさの白い玉が、まな板にきれいに並んでいった。

「なんでそんなに早いの」

「毎晩、怖がって暴れる子を、そうっと押さえてるから。手の中のものを素早く扱うのは得意」

「それ関係ある?」

「ある」

小さな丸餅が二十四個できた。残りで、父が鏡餅を作った。下の段は大きすぎて、上の段は小さすぎ、全体が少し右に傾いた。

八時二十分、母が起きてきた。パジャマの上にカーディガンをはおり、鼻をくんくん動かした。

「焼き芋?」

「伊達巻」

陽介が黒い面を見せると、母は「あらまあ」と言った。それから冷凍庫の前で、急に動かなくなった。

「……あ」

母は平たい箱を引き出した。二段の冷凍おせち。一月四日に、スーパーで半額になっていたという。箱の側面に、解凍方法が書いてあった。

〈冷蔵庫で約二十四時間かけて解凍してください〉

「昨日の朝、冷蔵庫に移すつもりだったの」

母は箱を抱えたまま言った。「移すつもりだったのは、覚えてるの」

八時四十分、おせちは冷蔵庫の棚に入った。冷凍庫に、ようやく隙間ができた。

陽介は進行表を開いた。「八時三十分 おせち(母)」に赤ペンで線を引き、横に「翌朝九時」と書いた。「七時三十分 新年のあいさつ・雑煮」にも線を引き、「九時十五分」と書いた。紙が少しずつ、赤くなっていった。

鏡餅は、こたつの上に置かれた。母がみかんの箱から一つ取って、てっぺんにのせた。傾いた鏡餅の上で、みかんも少し傾いた。

三 伊達たたみと坊主めくり

父の雑煮は、澄んだ汁だった。鶏のもも肉と小松菜と、かまぼこを二切れ。焼いた餅ではなく、つきたての丸餅をそのまま椀に入れて、汁を張る。

「うちの雑煮は、これ」

父の母がそうしていたのだ、と父は言った。母の実家の雑煮は白味噌だったが、母は「つきたてなら、これがいちばん」と言って、何も足さなかった。

塗りの椀は五客そろいで、一客だけ縁が欠けている。それが毎年なんとなく父の前に置かれる。今日もそうなった。

九時二十分。進行表には「新年のあいさつ」と書いてあったが、誰も言わなかった。菜摘はまだ半分寝ていたし、父は餅を椀に入れる係で忙しく、母はおせちの箱のことで少しうなだれていた。陽介は言うつもりだったが、気づいたときには四人とも箸を持っていて、言いそびれた。二月に「あけまして」と口にするのが、なんとなく照れくさくもあった。

つきたての餅は、箸で持ち上げると、どこまでものびた。菜摘は箸で持ち上げた端を、天井のほうへ伸ばしていた。

「やめなさい」と母が言った。

「もうやめる」

菜摘は餅を椀に戻し、小さく切ってから食べた。

菜摘は四つ食べた。父は三つ。陽介と母は二つずつ。まな板の上の丸餅は、十三個になった。

食べ終わると、陽介はすぐ台所に立った。卵はあと五個、はんぺんはあと一枚。二回目の分だった。

「今度は下の段。百六十度で二十五分」

自分に言い聞かせるように言って、スイッチを押した。

今度は焦げなかった。表面は淡い金色で、裏もきれいな薄茶色だった。中まで火が通ったのを確かめた。陽介はほっとして、鬼すだれの上に返した。ところが巻こうとしたとたん、ぴしっと音がした。もう一度巻こうとすると、別のところが割れた。生地が厚すぎたのだ。実家の角皿は、アパートの天板より一回り小さかった。

伊達巻は、三つに折れて重なった。

菜摘がのぞきこんで言った。

「伊達たたみ」

「やめろ」

「伊達たたみ、おいしそうだよ」

母が一切れつまんだ。「あ、甘い。おいしい」

父は一回目の黒焦げのほうを、包丁で焦げた表面を削いで、端っこから食べていた。

「焦げたところが好きなんだ」

「それ、削ったあとの焦げてないところ食べてるよ」

陽介はそう言いながら、二回目の伊達たたみを、自分でも一切れ食べた。口の中で、だしと砂糖の味がふわっと広がった。形のわりに、ちゃんと伊達巻の味がした。

十一時、母が押し入れから百人一首の箱を出してきた。輪ゴムが何重にも巻いてあって、一本は切れていた。

「坊主めくり。宮坂家ルール」

母は札を裏返して、こたつの真ん中に山を作った。

「順番に一枚ずつ引く。普通の男の人は自分のものにする。坊主が出たら、持ってる札と引いた坊主を全部、場に出す。お姫様が出たら、引いた姫と、場にある札を全部もらう。山がなくなったとき、いちばん多い人の勝ち」

「場に出したのは、そのまま?」

「お姫様が来るまで、そのまま」

二周目で、陽介は坊主を引いた。持っていたのは一枚だけだったので、被害は小さかった。三周目では父が姫を引いて、場の三枚を取った。父は札を手の中で、釣り銭を数えるときのようにきちんとそろえた。

「お父さん、真剣すぎない?」

「真剣にやらないと、坊主に失礼だ」

「坊主に?」

陽介の手札は、増えては消えた。七枚ためたところで坊主。十二枚ためたところで、また坊主。母は大笑いしながら、その直後に姫を引いて、陽介の十二枚を全部持っていった。

「お母さん、さっきからタイミングがおかしい」

「おかしくない。運です」

菜摘は静かだった。坊主をほとんど引かず、姫を二回引き、気づくと手元に分厚い束ができていた。

山が残り数枚になったとき、陽介の手には九枚あった。最後から二枚目を、陽介が引いた。頭を丸めた法師が、穏やかな顔でこちらを見ていた。

「あー……」

陽介の九枚と、引いた坊主が場に出た。最後の一枚は菜摘が引いた。ただの男の人だった。場の札は、誰のものにもならないまま残った。

数えると、菜摘が三十一枚、母が二十四枚、父が十九枚、陽介はゼロ。場に二十六枚。

「足すと百」

父が確かめた。

「確かめなくていいよ」

陽介は進行表を開き、「十一時 坊主めくり」の横に、小さく「十一時〜十一時四十分 〇枚」と書いた。

「そういうのも書くんだ」

菜摘が笑った。

「記録だから」

四 凧に描くもの

昼は、丸餅を四つ、魚焼きグリルで焼いた。醤油をつけて海苔を巻き、一人一つずつ。残りは九個になった。

十二時四十分。母が新聞紙をこたつの上に広げ、白い角凧を置いた。縦が六十センチ、横が四十五センチ。竹ひごの骨組みに、真っ白な和紙が張ってある。

「四人で描く。一人、四分の一ずつ」

「何を描くの」

「何でも」

押し入れから、菜摘が小学生のころに使っていた絵の具セットが出てきた。ふたを開けると、チューブはどれもかちかちだった。黄色と青と赤と白だけ、どうにか中身が出た。母は書道セットから、墨汁と太い筆を出した。

父は左上にバスを描いた。正面から見たバスだった。フロントガラスが大きく、ライトが二つ。上の行き先表示に、几帳面な字で「わが家」と書いた。

「行き先、それなんだ」

「回送よりいいだろ」

菜摘は右上に鏡餅を描いた。傾いた二段の餅に、黄色いみかん。それから、餅の下の段に目と口を描き足した。

「なんで顔があるの」

「今日の鏡餅、ちょっと表情あったじゃん」

陽介は右下に何を描くか、しばらく迷った。それから丸い時計を描いた。針は二時を指している。進行表の凧揚げの時刻だった。時計の下に、小さく「定刻」と書いた。

「ホテルの人だ」

母が言った。

「ホテルの人だよ」

母は最後に筆を取った。左下に何か描くのかと思ったら、墨をたっぷりつけて、凧の真ん中に大きく「風」と書いた。最初の一画が父のバスのタイヤを越え、最後のはらいが、陽介の時計の上を斜めに横切った。

「あ」

陽介の時計は、長針の先が墨に沈んだ。

「ごめん。勢い」

「四分の一ずつって言ったの、お母さんだよね」

「言った。でも、風は真ん中にないと」

新聞紙を敷いたこたつで、母が四人で描いた角凧の真ん中へ大きく風と書き、父と子どもたちが笑ったり驚いたりする。

母は真顔だった。年越しの生放送で、音を一つも落とさなかった人の顔だった。菜摘はこたつに突っ伏して笑い、父はバスのタイヤを指でなぞって「轢かれたな」と言った。

それから、乾かすのに時間がかかった。墨は重く、和紙はなかなか乾かない。陽介が洗面所からドライヤーを持ってきた。温風を当てると、和紙は乾いた端から波打って、凧全体が少し反った。

「反ったけど、飛ぶ?」

「飛ぶ。たぶん」

母は凧を窓の光にかざした。「反ってるほうが、風をつかむ気がする」

「根拠は」

「ない」

時計を見ると、二時二十分だった。陽介が描いた時計の針より、もう二十分過ぎていた。

五 しっぽ

家を出たのは二時五十分だった。河川敷までは、歩いて十五分かかる。

父は紺の作業用ジャンパーに毛糸の手袋。母は赤いニット帽に、くるぶしまである黒いダウン。菜摘はベージュのもこもこしたジャケットに白いスニーカーで、寝癖をニット帽に押しこんでいた。陽介はグレーのウールのコートだった。街で着るぶんにはいいコートだったが、堤防に上がると、北西の風が裾から入りこんできた。足元だけは、父に借りた黒い長靴だった。コートのポケットには、進行表が蛇腹のまま入っている。家を出る前にも、陽介はそれを一度開いていた。

電線や高い木から離れた河川敷のグラウンドには、誰もいなかった。霜が溶けたあとの土は黒く湿っていて、ところどころに水たまりがあった。冬の空は高く、川面が細かく光っていた。

母が凧糸を結び、紙のしっぽを二本、下の角に貼った。

「わたしが走る」

母は走った。ダウンの裾をばたつかせて。凧は一度ふわりと浮き、くるりと回って、地面に頭から落ちた。

「走るんじゃなくて、風を待つんだって」

菜摘がスマホで調べて言った。

二回目は、陽介が凧を持ち、父が糸を持った。陽介が凧を高く掲げ、父が「いいか」と言い、風が来た瞬間に手を離した。凧はぐうっと上がった。

「おお」

そのとき、横で見ていた菜摘が、もっとよく見ようと後ろに下がった。スニーカーの踵が、垂れていた紙のしっぽを踏んだ。凧ががくんと傾き、しっぽは水たまりに落ち、そのまま引きずられて、ちぎれた。

凧はくるくる回りながら、また地面に落ちた。

「ごめん」

菜摘はしゃがみこんで、泥水を吸ったしっぽの切れ端を拾った。茶色くなって、指でつまむと崩れた。

「しっぽがないと、回っちゃうの」

母が凧を拾い上げた。「長くて、軽くて、紙みたいなもの。誰か持ってない?」

父がジャンパーのポケットを探って、レシートを一枚出した。短かった。菜摘はティッシュを出したが、風でたちまち飛ばされそうになって、あわててしまった。

それから三人は、なんとなく、陽介のコートのポケットを見た。陽介が一時間ごとにそこから紙を取り出していたのを、全員が知っていた。

「これは」

陽介はポケットを押さえた。「記録だから」

「知ってる」

母が言った。

「赤いとこばっかりだよ、もう」

菜摘が言った。

父は何も言わず、糸巻きを持って待っていた。

陽介は進行表を取り出した。三枚つなぎの紙を広げると、風にあおられて、ばたばた鳴った。五時四十五分、六時三十分、七時三十分。赤い線と、横に書いた新しい時刻。「〇枚」の字。十四時の凧揚げの行には、まだ何も書いていなかった。

陽介はそれを、母に渡した。

菜摘が、ジャケットのポケットから白いテープを出した。昨夜、こたつの紙を留めていたのと同じ、医療用のテープだった。

「いつも持ってるの、それ」

「仕事のくせ」

母と菜摘で、進行表の上の端を凧の下の角に貼った。三枚つなぎで、九十センチ近くある。紙の先が、地面の上で揺れた。

「重すぎない?」

「ちょうどいいと思う」

母は凧を持ち上げ、しっぽの紙を指で弾いた。「ちょうどいい重さ」

「陽介、糸」

父が糸巻きを差し出した。陽介は受け取った。母が凧を掲げた。四人で、風を待った。

川上のほうから、枯れ草がいっせいに倒れてくるのが見えた。

「今」

母が手を離した。

凧は上がった。今度は回らなかった。しっぽの紙がぴんと張り、白い三枚が、凧の下で一本の線になった。

「糸、出して。もっと」

母が言い、陽介は糸を出した。手のひらの中で、糸巻きがからからと回った。糸が引っぱられる。思っていたより、ずっと強い。腕ごと持っていかれそうになって、陽介は長靴で土を踏ん張った。

「引いてる。すごい引いてる」

「そりゃ引くよ」

「いや、思ってたのと違う。生きてるみたい」

菜摘が笑った。「それ、朝わたしが餅に言ったやつ」

凧はどんどん小さくなった。父が糸巻きの残りを見て、「百メートル巻きで、半分以上出てる」と言った。陽介はもう聞いていなかった。風が少し弱まると糸をたぐり、強くなると出した。凧が右に流れると、自分も右に三歩動いた。コートの裾が泥で汚れても、気にならなかった。

「お兄ちゃん、楽しそう」

「楽しいよ」

陽介は空を見たまま答えた。答えてから、自分でちょっと驚いた。

四時半を過ぎても、誰も「撤収」と言わなかった。陽介も言わなかった。

空がだんだん色を変えた。向こう岸の家並みの上へ、太陽が下りていく。凧の白い和紙が、オレンジ色に染まった。その下で、進行表のしっぽも同じ色に光っていた。ここからでは、字はもう読めない。けれど、赤い線がいくつも引いてあることを、四人とも知っていた。

母がスマホを取り出して、録音のボタンを押した。

「なに録ってるの」

「風の音。凧糸が鳴ってるの、聞こえる?」

耳をすますと、たしかに、ぴんと張った糸が、かすかに、ひゅうと鳴っていた。

「それから、誰か何か言って。今日の音」

母が言った。菜摘が少し考えて、スマホに顔を近づけた。

「あけまして、おめでとうございます」

父が、くっと笑った。

「そういえば、言ってなかったな」

「二月ですけど」

菜摘が付け足した。

父もスマホに向かって、「おめでとうございます。今年もよろしく」と言った。車内アナウンスのような、はっきりした声だった。母は自分でも小さく「おめでとう」と言った。

「陽介は」

陽介は糸を握ったまま、凧から目を離さずに言った。

「あけましておめでとうございます。本年も、宮坂家を、どうぞよろしくお願いいたします」

「フロントだ」

菜摘が言った。

「フロントだよ」

母が録音を止めて、「いい音」と言った。

太陽が向こう岸の屋根に沈んだのは、五時二十分ごろだった。陽介は糸を巻きはじめた。凧はゆっくり近づいてきて、最後は父が両手で受け止めた。

しっぽの進行表は湿って、しわくちゃになっていた。テープのところで少し破れかけていたが、三枚とも、ちゃんとついていた。陽介はそれを、凧からはがさずに持って帰ることにした。

家に着いたのは六時十分だった。

冷蔵庫のおせちは、まだ解凍の途中だった。母は箱の説明を読み直し、蓋を開けずに戻した。

「おせちは明日の九時。わが家の正月、二日目にします」

「栗きんとん、シャーベットみたいに食べちゃだめ?」

菜摘が箱の写真を見て言った。

「だめ。せっかく二月まで待ったんだから、もう一晩待とう」

母は少しくやしそうに言って、冷蔵庫を閉めた。

父がもう一度、雑煮を作った。澄んだ汁に、今度は焼いた丸餅を一つずつ。朝のつきたてとは違って、香ばしかった。陽介の伊達たたみの残りと、父が焦げた表面を削いだほうの残りも、同じ皿に並んだ。

食べ終わると、こたつの上に残ったのは、傾いた鏡餅だけになった。てっぺんのみかんは、いつのまにか誰かが食べていて、代わりに新しいのがのっていた。

「鏡開き、いつにする?」

母が言った。

「三月の第二日曜」と父が言った。

「それ、もうお正月じゃないよ」

菜摘が言い、それから「でも、来る」と付け足した。

母は、鏡餅は今夜のうちに二段を別々に包んで冷凍しておく、と言った。

陽介は凧ごと持ち帰った進行表を、こたつの端に広げて乾かした。凧の「風」の字の下で、しわくちゃの紙に「十四時 凧揚げ(母)・河川敷」の行があった。陽介はペンを取り、その横に「十五時二十分〜十七時二十分」と書いた。線は引かなかった。

二十一時の「解散」の行を見たときには、菜摘はもう、こたつにもぐって目を閉じていた。みかんの箱に立てた紙が、書き換えられていた。

〈寝正月 再開〉

まな板の上には、ラップをかけた丸餅が残っていた。陽介は冷凍庫へしまう前に、それを数えた。

餅は、あと五個ある。