一 三枚つなぎの進行表
二月の第二土曜、夜の九時すぎ。宮坂陽介が実家の玄関で靴を脱いでいると、居間のこたつの上に、白い紙が一枚立ててあるのが見えた。
〈寝正月中 起こさないでください 菜摘〉
紙は医療用の白いテープで、こたつに載せたみかんの箱に貼りつけてあった。その向こうで、妹の菜摘がこたつ布団を肩まで引き上げて眠っている。自分で持ってきたらしい水色の枕に、寝癖のついた頭が半分沈んでいた。
「まだ正月じゃないだろ」
陽介が小声で言うと、台所から母の千鶴が顔を出した。
「前夜祭なんだって。六時に着いて、六時十分にはもうその状態」
「前夜祭で寝るのか」
「夜勤明けの人は寝るのが仕事です」
菜摘は二十七歳で、夜間救急の動物病院で看護師をしている。大晦日の夜も元日の夜も、熱を出した猫や、何かを飲みこんだ犬と、その飼い主たちのそばにいた。
陽介のほうは、三十三歳になった今年も、ホテルのフロントで年を越した。十二月二十九日から一月三日まで、ロビーの鏡開きの時刻や初詣の送迎バスの出発時刻を、宿泊客に何百回も案内した。母はラジオ局の技術部で、年越しの特番と元日の朝の番組の音を調整していた。父の修は路線バスの運転士で、正月ダイヤのハンドルを握っていた。
家族のグループに菜摘が〈今年、全員正月いなくない?〉と書いたのは、十二月の半ばだった。〈じゃあ二月にやろう〉と母が返し、父がスタンプを一つ押し、陽介がカレンダーを見て〈第二日曜〉と打った。決まったのはそれだけで、そこから先、誰が何をやるかは、それぞれが勝手に考えてきた。
居間の隅で、父がポリバケツをのぞきこんでいた。紺色の作業用ジャンパーを、家の中でも着ている。
「おかえり」
「ただいま。それ、何」
「もち米。一升。朝まで水に浸ける」
バケツの横には、白くて四角い機械が置いてあった。ふたのところに、説明書のコピーが布のガムテープで貼ってある。
「餅つき機?」
「リサイクルショップで二千八百円」
父は少し胸を張った。「二升用だ」
「四人だよ」
「一升なら余裕だ」
陽介が言いたかったのは、そういう意味ではなかった。
陽介はリュックから、たたんだ紙を取り出した。A4を三枚、縦にテープでつないで、蛇腹に折ってある。広げると、こたつの端から畳の上まで垂れた。
〈わが家の正月 進行表〉
五時四十五分 伊達巻焼成(陽介)
六時三十分 初日の出(二階物干し)
七時三十分 新年のあいさつ・雑煮(父)
八時三十分 おせち(母)
十一時 坊主めくり
十二時 昼食(餅)
十四時 凧揚げ(母)・河川敷
十六時三十分 撤収
十八時 夕食・団らん
二十一時 解散
母が身をかがめて読んだ。
「団らんにも時間があるんだ」
「決めとかないと、誰も団らんしないだろ」
「するよ、普通に」
「普通にしてたら、正月っぽくならない」
言ってから、陽介は少し理屈っぽかったかと思った。けれど、毎年フロントで「元日のご案内」を手渡してきたのだ。客たちはあの紙を見ながら、ちゃんと正月をしていた。自分の分を一度くらい、あの紙のとおりにやってみたかった。
「凧揚げは決定なんだ」
「決定。半額だったから」
母は押し入れから細長い袋を出してみせた。絵付け用の、白い角凧。竹ひごと和紙と、紙のしっぽが二本。正月の売れ残りを、文房具店で見つけたのだという。
「おせちは?」
「任せて。ちゃんと準備してある」
母はそう言って、なぜか目をそらした。
陽介は持ってきた卵十個とはんぺん二枚を冷蔵庫に入れ、ついでにコップに氷を入れようと冷凍庫を開けた。引き出しが途中で止まった。平たい大きな箱が、斜めに引っかかっている。
「それ、明日の主役だから。触らないで」
母に言われて、陽介は氷をあきらめた。
こたつで菜摘が寝返りを打った。紙がぱたりと倒れた。陽介はそれを立て直して、テープを指で押さえてやった。
二 日の出と餅つき機
五時四十分にアラームが鳴った。陽介が台所に下りると、もう明かりがついていた。父がざるにもち米をあけて、水を切っていた。
「起きてたの」
「四時五十分に目が覚めた。体が勝手に起きる」
三十年以上、始発のバスを運転してきた体だった。
陽介は母のエプロンを借りて、ミキサーにはんぺん一枚と卵五個を入れた。砂糖とみりんと白だし。アパートで三回練習して、三回目はちゃんと巻けた。オーブンは百八十度で二十分。アパートの小さなオーブンでは、それでちょうどよかった。
実家のオーブンレンジは、陽介が高校生のころからある白い箱だった。生地をこし、角皿を探して予熱を待つうちに、六時十五分になっていた。角皿に生地を流し、上の段に差しこみ、百八十度と二十分を押した。ブーンと低い音がした。
「六時半だ」
陽介はエプロンのまま二階に上がった。父もついてきた。物干し場の窓を開けると、冷たい空気が顔を打った。屋根と屋根の向こうに鉄塔が並び、その奥の空が、白からオレンジに少しずつ変わっていく。
菜摘は起きてこなかった。母も起きてこなかった。進行表の「初日の出」は、二人で見ることになった。
「お父さんは、毎朝見てるか」
「見てるな。信号待ちで」
父はジャンパーの襟を立てた。「でも、止まって見るのは、あんまりない」
鉄塔のあいだから、太陽の縁がのぞいた。二人は黙って、それが丸くなるまで見ていた。陽介はスマホで一枚撮り、もう一枚撮った。
「餅、蒸し始めないと」
父が言ったのと、陽介が鼻をひくつかせたのは、ほとんど同時だった。
台所には、甘くて焦げたにおいがこもっていた。オーブンレンジを開けると、伊達巻の表面は真っ黒だった。けれど角皿を引き出して端を持ち上げると、裏側はきれいな黄色だった。
「上の段、ヒーターに近いんだよ、それ」
父が言った。
「先に言ってよ」
「おれも今知った」
六時五十八分、父が餅つき機のスイッチを入れた。シューッと湯気が上がり、台所の窓が白く曇った。父は説明書のコピーを指でたどった。
「蒸し、約四十分」
「つくのは?」
「そのあと、約十分から十五分」
陽介は進行表を開き、七時三十分の「雑煮」を見て、ペンを持ったまま止まった。
七時四十分。機械の音が変わった。ゴウン、ゴウン、と底の羽根が回りはじめ、白い箱がまるごと揺れた。父は両手で機械を押さえた。脱水中の洗濯機を押さえる人の姿勢だった。
「押さえてないとだめなの、それ」
「わからん。でも押さえたい」
居間のふすまが開いた。菜摘が、こたつ布団を肩にかけたまま立っていた。
「なに。工事?」
「餅」
「餅?」
菜摘は台所に入ってきて、透明なふたの中をのぞいた。白い塊が、ぐるん、ぐるんと回って、自分で自分を折りたたんでいく。
「……え、すごい。生きてるみたい」
彼女は布団を床に落とし、父の横にしゃがみこんだ。それから五分間、誰も何も言わなかった。三人で、回る餅を見ていた。

菜摘は一度居間に戻り、こたつの上の紙に、ボールペンで書き足した。
〈寝正月中 一時中断〉
餅がつき上がると、父はそれを片栗粉を敷いたまな板に移した。湯気がもうもうと上がる。
「熱いうちに丸めないと固くなる」
三人で手に片栗粉をつけた。陽介の餅は、どうしても平べったくなった。父の餅は大きさがばらばらだった。菜摘だけが、ちぎって、手のひらで二回転がして、ぽんと置く。同じ大きさの白い玉が、まな板にきれいに並んでいった。
「なんでそんなに早いの」
「毎晩、怖がって暴れる子を、そうっと押さえてるから。手の中のものを素早く扱うのは得意」
「それ関係ある?」
「ある」
小さな丸餅が二十四個できた。残りで、父が鏡餅を作った。下の段は大きすぎて、上の段は小さすぎ、全体が少し右に傾いた。
八時二十分、母が起きてきた。パジャマの上にカーディガンをはおり、鼻をくんくん動かした。
「焼き芋?」
「伊達巻」
陽介が黒い面を見せると、母は「あらまあ」と言った。それから冷凍庫の前で、急に動かなくなった。
「……あ」
母は平たい箱を引き出した。二段の冷凍おせち。一月四日に、スーパーで半額になっていたという。箱の側面に、解凍方法が書いてあった。
〈冷蔵庫で約二十四時間かけて解凍してください〉
「昨日の朝、冷蔵庫に移すつもりだったの」
母は箱を抱えたまま言った。「移すつもりだったのは、覚えてるの」
八時四十分、おせちは冷蔵庫の棚に入った。冷凍庫に、ようやく隙間ができた。
陽介は進行表を開いた。「八時三十分 おせち(母)」に赤ペンで線を引き、横に「翌朝九時」と書いた。「七時三十分 新年のあいさつ・雑煮」にも線を引き、「九時十五分」と書いた。紙が少しずつ、赤くなっていった。
鏡餅は、こたつの上に置かれた。母がみかんの箱から一つ取って、てっぺんにのせた。傾いた鏡餅の上で、みかんも少し傾いた。
三 伊達たたみと坊主めくり
父の雑煮は、澄んだ汁だった。鶏のもも肉と小松菜と、かまぼこを二切れ。焼いた餅ではなく、つきたての丸餅をそのまま椀に入れて、汁を張る。
「うちの雑煮は、これ」
父の母がそうしていたのだ、と父は言った。母の実家の雑煮は白味噌だったが、母は「つきたてなら、これがいちばん」と言って、何も足さなかった。
塗りの椀は五客そろいで、一客だけ縁が欠けている。それが毎年なんとなく父の前に置かれる。今日もそうなった。
九時二十分。進行表には「新年のあいさつ」と書いてあったが、誰も言わなかった。菜摘はまだ半分寝ていたし、父は餅を椀に入れる係で忙しく、母はおせちの箱のことで少しうなだれていた。陽介は言うつもりだったが、気づいたときには四人とも箸を持っていて、言いそびれた。二月に「あけまして」と口にするのが、なんとなく照れくさくもあった。
つきたての餅は、箸で持ち上げると、どこまでものびた。菜摘は箸で持ち上げた端を、天井のほうへ伸ばしていた。
「やめなさい」と母が言った。
「もうやめる」
菜摘は餅を椀に戻し、小さく切ってから食べた。
菜摘は四つ食べた。父は三つ。陽介と母は二つずつ。まな板の上の丸餅は、十三個になった。
食べ終わると、陽介はすぐ台所に立った。卵はあと五個、はんぺんはあと一枚。二回目の分だった。
「今度は下の段。百六十度で二十五分」
自分に言い聞かせるように言って、スイッチを押した。
今度は焦げなかった。表面は淡い金色で、裏もきれいな薄茶色だった。中まで火が通ったのを確かめた。陽介はほっとして、鬼すだれの上に返した。ところが巻こうとしたとたん、ぴしっと音がした。もう一度巻こうとすると、別のところが割れた。生地が厚すぎたのだ。実家の角皿は、アパートの天板より一回り小さかった。
伊達巻は、三つに折れて重なった。
菜摘がのぞきこんで言った。
「伊達たたみ」
「やめろ」
「伊達たたみ、おいしそうだよ」
母が一切れつまんだ。「あ、甘い。おいしい」
父は一回目の黒焦げのほうを、包丁で焦げた表面を削いで、端っこから食べていた。
「焦げたところが好きなんだ」
「それ、削ったあとの焦げてないところ食べてるよ」
陽介はそう言いながら、二回目の伊達たたみを、自分でも一切れ食べた。口の中で、だしと砂糖の味がふわっと広がった。形のわりに、ちゃんと伊達巻の味がした。
十一時、母が押し入れから百人一首の箱を出してきた。輪ゴムが何重にも巻いてあって、一本は切れていた。
「坊主めくり。宮坂家ルール」
母は札を裏返して、こたつの真ん中に山を作った。
「順番に一枚ずつ引く。普通の男の人は自分のものにする。坊主が出たら、持ってる札と引いた坊主を全部、場に出す。お姫様が出たら、引いた姫と、場にある札を全部もらう。山がなくなったとき、いちばん多い人の勝ち」
「場に出したのは、そのまま?」
「お姫様が来るまで、そのまま」
二周目で、陽介は坊主を引いた。持っていたのは一枚だけだったので、被害は小さかった。三周目では父が姫を引いて、場の三枚を取った。父は札を手の中で、釣り銭を数えるときのようにきちんとそろえた。
「お父さん、真剣すぎない?」
「真剣にやらないと、坊主に失礼だ」
「坊主に?」
陽介の手札は、増えては消えた。七枚ためたところで坊主。十二枚ためたところで、また坊主。母は大笑いしながら、その直後に姫を引いて、陽介の十二枚を全部持っていった。
「お母さん、さっきからタイミングがおかしい」
「おかしくない。運です」
菜摘は静かだった。坊主をほとんど引かず、姫を二回引き、気づくと手元に分厚い束ができていた。
山が残り数枚になったとき、陽介の手には九枚あった。最後から二枚目を、陽介が引いた。頭を丸めた法師が、穏やかな顔でこちらを見ていた。
「あー……」
陽介の九枚と、引いた坊主が場に出た。最後の一枚は菜摘が引いた。ただの男の人だった。場の札は、誰のものにもならないまま残った。
数えると、菜摘が三十一枚、母が二十四枚、父が十九枚、陽介はゼロ。場に二十六枚。
「足すと百」
父が確かめた。
「確かめなくていいよ」
陽介は進行表を開き、「十一時 坊主めくり」の横に、小さく「十一時〜十一時四十分 〇枚」と書いた。
「そういうのも書くんだ」
菜摘が笑った。
「記録だから」
四 凧に描くもの
昼は、丸餅を四つ、魚焼きグリルで焼いた。醤油をつけて海苔を巻き、一人一つずつ。残りは九個になった。
十二時四十分。母が新聞紙をこたつの上に広げ、白い角凧を置いた。縦が六十センチ、横が四十五センチ。竹ひごの骨組みに、真っ白な和紙が張ってある。
「四人で描く。一人、四分の一ずつ」
「何を描くの」
「何でも」
押し入れから、菜摘が小学生のころに使っていた絵の具セットが出てきた。ふたを開けると、チューブはどれもかちかちだった。黄色と青と赤と白だけ、どうにか中身が出た。母は書道セットから、墨汁と太い筆を出した。
父は左上にバスを描いた。正面から見たバスだった。フロントガラスが大きく、ライトが二つ。上の行き先表示に、几帳面な字で「わが家」と書いた。
「行き先、それなんだ」
「回送よりいいだろ」
菜摘は右上に鏡餅を描いた。傾いた二段の餅に、黄色いみかん。それから、餅の下の段に目と口を描き足した。
「なんで顔があるの」
「今日の鏡餅、ちょっと表情あったじゃん」
陽介は右下に何を描くか、しばらく迷った。それから丸い時計を描いた。針は二時を指している。進行表の凧揚げの時刻だった。時計の下に、小さく「定刻」と書いた。
「ホテルの人だ」
母が言った。
「ホテルの人だよ」
母は最後に筆を取った。左下に何か描くのかと思ったら、墨をたっぷりつけて、凧の真ん中に大きく「風」と書いた。最初の一画が父のバスのタイヤを越え、最後のはらいが、陽介の時計の上を斜めに横切った。
「あ」
陽介の時計は、長針の先が墨に沈んだ。
「ごめん。勢い」
「四分の一ずつって言ったの、お母さんだよね」
「言った。でも、風は真ん中にないと」

母は真顔だった。年越しの生放送で、音を一つも落とさなかった人の顔だった。菜摘はこたつに突っ伏して笑い、父はバスのタイヤを指でなぞって「轢かれたな」と言った。
それから、乾かすのに時間がかかった。墨は重く、和紙はなかなか乾かない。陽介が洗面所からドライヤーを持ってきた。温風を当てると、和紙は乾いた端から波打って、凧全体が少し反った。
「反ったけど、飛ぶ?」
「飛ぶ。たぶん」
母は凧を窓の光にかざした。「反ってるほうが、風をつかむ気がする」
「根拠は」
「ない」
時計を見ると、二時二十分だった。陽介が描いた時計の針より、もう二十分過ぎていた。
五 しっぽ
家を出たのは二時五十分だった。河川敷までは、歩いて十五分かかる。
父は紺の作業用ジャンパーに毛糸の手袋。母は赤いニット帽に、くるぶしまである黒いダウン。菜摘はベージュのもこもこしたジャケットに白いスニーカーで、寝癖をニット帽に押しこんでいた。陽介はグレーのウールのコートだった。街で着るぶんにはいいコートだったが、堤防に上がると、北西の風が裾から入りこんできた。足元だけは、父に借りた黒い長靴だった。コートのポケットには、進行表が蛇腹のまま入っている。家を出る前にも、陽介はそれを一度開いていた。
電線や高い木から離れた河川敷のグラウンドには、誰もいなかった。霜が溶けたあとの土は黒く湿っていて、ところどころに水たまりがあった。冬の空は高く、川面が細かく光っていた。
母が凧糸を結び、紙のしっぽを二本、下の角に貼った。
「わたしが走る」
母は走った。ダウンの裾をばたつかせて。凧は一度ふわりと浮き、くるりと回って、地面に頭から落ちた。
「走るんじゃなくて、風を待つんだって」
菜摘がスマホで調べて言った。
二回目は、陽介が凧を持ち、父が糸を持った。陽介が凧を高く掲げ、父が「いいか」と言い、風が来た瞬間に手を離した。凧はぐうっと上がった。
「おお」
そのとき、横で見ていた菜摘が、もっとよく見ようと後ろに下がった。スニーカーの踵が、垂れていた紙のしっぽを踏んだ。凧ががくんと傾き、しっぽは水たまりに落ち、そのまま引きずられて、ちぎれた。
凧はくるくる回りながら、また地面に落ちた。
「ごめん」
菜摘はしゃがみこんで、泥水を吸ったしっぽの切れ端を拾った。茶色くなって、指でつまむと崩れた。
「しっぽがないと、回っちゃうの」
母が凧を拾い上げた。「長くて、軽くて、紙みたいなもの。誰か持ってない?」
父がジャンパーのポケットを探って、レシートを一枚出した。短かった。菜摘はティッシュを出したが、風でたちまち飛ばされそうになって、あわててしまった。
それから三人は、なんとなく、陽介のコートのポケットを見た。陽介が一時間ごとにそこから紙を取り出していたのを、全員が知っていた。
「これは」
陽介はポケットを押さえた。「記録だから」
「知ってる」
母が言った。
「赤いとこばっかりだよ、もう」
菜摘が言った。
父は何も言わず、糸巻きを持って待っていた。
陽介は進行表を取り出した。三枚つなぎの紙を広げると、風にあおられて、ばたばた鳴った。五時四十五分、六時三十分、七時三十分。赤い線と、横に書いた新しい時刻。「〇枚」の字。十四時の凧揚げの行には、まだ何も書いていなかった。
陽介はそれを、母に渡した。
菜摘が、ジャケットのポケットから白いテープを出した。昨夜、こたつの紙を留めていたのと同じ、医療用のテープだった。
「いつも持ってるの、それ」
「仕事のくせ」
母と菜摘で、進行表の上の端を凧の下の角に貼った。三枚つなぎで、九十センチ近くある。紙の先が、地面の上で揺れた。
「重すぎない?」
「ちょうどいいと思う」
母は凧を持ち上げ、しっぽの紙を指で弾いた。「ちょうどいい重さ」
「陽介、糸」
父が糸巻きを差し出した。陽介は受け取った。母が凧を掲げた。四人で、風を待った。
川上のほうから、枯れ草がいっせいに倒れてくるのが見えた。
「今」
母が手を離した。
凧は上がった。今度は回らなかった。しっぽの紙がぴんと張り、白い三枚が、凧の下で一本の線になった。
「糸、出して。もっと」
母が言い、陽介は糸を出した。手のひらの中で、糸巻きがからからと回った。糸が引っぱられる。思っていたより、ずっと強い。腕ごと持っていかれそうになって、陽介は長靴で土を踏ん張った。
「引いてる。すごい引いてる」
「そりゃ引くよ」
「いや、思ってたのと違う。生きてるみたい」
菜摘が笑った。「それ、朝わたしが餅に言ったやつ」
凧はどんどん小さくなった。父が糸巻きの残りを見て、「百メートル巻きで、半分以上出てる」と言った。陽介はもう聞いていなかった。風が少し弱まると糸をたぐり、強くなると出した。凧が右に流れると、自分も右に三歩動いた。コートの裾が泥で汚れても、気にならなかった。
「お兄ちゃん、楽しそう」
「楽しいよ」
陽介は空を見たまま答えた。答えてから、自分でちょっと驚いた。
四時半を過ぎても、誰も「撤収」と言わなかった。陽介も言わなかった。
空がだんだん色を変えた。向こう岸の家並みの上へ、太陽が下りていく。凧の白い和紙が、オレンジ色に染まった。その下で、進行表のしっぽも同じ色に光っていた。ここからでは、字はもう読めない。けれど、赤い線がいくつも引いてあることを、四人とも知っていた。
母がスマホを取り出して、録音のボタンを押した。
「なに録ってるの」
「風の音。凧糸が鳴ってるの、聞こえる?」
耳をすますと、たしかに、ぴんと張った糸が、かすかに、ひゅうと鳴っていた。
「それから、誰か何か言って。今日の音」
母が言った。菜摘が少し考えて、スマホに顔を近づけた。
「あけまして、おめでとうございます」
父が、くっと笑った。
「そういえば、言ってなかったな」
「二月ですけど」
菜摘が付け足した。
父もスマホに向かって、「おめでとうございます。今年もよろしく」と言った。車内アナウンスのような、はっきりした声だった。母は自分でも小さく「おめでとう」と言った。
「陽介は」
陽介は糸を握ったまま、凧から目を離さずに言った。
「あけましておめでとうございます。本年も、宮坂家を、どうぞよろしくお願いいたします」
「フロントだ」
菜摘が言った。
「フロントだよ」
母が録音を止めて、「いい音」と言った。
太陽が向こう岸の屋根に沈んだのは、五時二十分ごろだった。陽介は糸を巻きはじめた。凧はゆっくり近づいてきて、最後は父が両手で受け止めた。
しっぽの進行表は湿って、しわくちゃになっていた。テープのところで少し破れかけていたが、三枚とも、ちゃんとついていた。陽介はそれを、凧からはがさずに持って帰ることにした。
家に着いたのは六時十分だった。
冷蔵庫のおせちは、まだ解凍の途中だった。母は箱の説明を読み直し、蓋を開けずに戻した。
「おせちは明日の九時。わが家の正月、二日目にします」
「栗きんとん、シャーベットみたいに食べちゃだめ?」
菜摘が箱の写真を見て言った。
「だめ。せっかく二月まで待ったんだから、もう一晩待とう」
母は少しくやしそうに言って、冷蔵庫を閉めた。
父がもう一度、雑煮を作った。澄んだ汁に、今度は焼いた丸餅を一つずつ。朝のつきたてとは違って、香ばしかった。陽介の伊達たたみの残りと、父が焦げた表面を削いだほうの残りも、同じ皿に並んだ。
食べ終わると、こたつの上に残ったのは、傾いた鏡餅だけになった。てっぺんのみかんは、いつのまにか誰かが食べていて、代わりに新しいのがのっていた。
「鏡開き、いつにする?」
母が言った。
「三月の第二日曜」と父が言った。
「それ、もうお正月じゃないよ」
菜摘が言い、それから「でも、来る」と付け足した。
母は、鏡餅は今夜のうちに二段を別々に包んで冷凍しておく、と言った。
陽介は凧ごと持ち帰った進行表を、こたつの端に広げて乾かした。凧の「風」の字の下で、しわくちゃの紙に「十四時 凧揚げ(母)・河川敷」の行があった。陽介はペンを取り、その横に「十五時二十分〜十七時二十分」と書いた。線は引かなかった。
二十一時の「解散」の行を見たときには、菜摘はもう、こたつにもぐって目を閉じていた。みかんの箱に立てた紙が、書き換えられていた。
〈寝正月 再開〉
まな板の上には、ラップをかけた丸餅が残っていた。陽介は冷凍庫へしまう前に、それを数えた。
餅は、あと五個ある。


