一 十二時の蓋
青柳ビルの管理人室の冷蔵庫には、二段目の右側に「宮下」、左側に「柏木」と書いたマスキングテープが貼ってある。貼ったのは宮下透子で、三か月前に柏木陸が入ってきた最初の日に、説明より先に貼った。
十月も終わりの金曜日、十二時。受付窓口の小さなガラス戸を半分開けたまま、透子は冷蔵庫から自分の弁当箱を取り出した。薄緑の、一段の箱。保冷剤をはずし、机の上のいつもの位置に置く。箸箱を右に。お茶の水筒を左奥に。
「いただきます」
蓋を開ける。
左の三分の一に、黒ごま塩をふったご飯。右上に卵焼きが二切れ、その下に、ほうれん草のおひたしを入れた紙カップ。隅にミニトマトが二つと、たくあんが二枚。
そして右下の、いちばん広い区画に、カニクリームコロッケが一個。
衣の上には、ゆうべのうちにかけた中濃ソースがすっかりしみこんで、色を変えている。透子はそれを見て、誰にも見えない角度で、ほんの少しだけ口の端を上げた。
「あっ」
向かいの机で、柏木が声を出した。ちょうど自分の弁当箱――黒くて大きい、運動部の高校生が持っていそうな箱――の蓋を開けたところだった。
「宮下さん、それ、丸八のですか。木曜限定の」
「そう」
「うわあ」
柏木の箱の中身は、透子の席からも見えた。唐揚げが四個。半分に切ったゆで卵が二切れ。ブロッコリーが三房。きゅうりを詰めたちくわが二本。ご飯の真ん中に梅干しが一個。
唐揚げは、月曜から毎日入っている。日曜に二キロ揚げ、小分けに冷凍したのだと、月曜の昼に本人が誇らしげに言っていた。前の晩から冷蔵庫で解凍して、朝、中心までしっかり温め直し、冷ましてから詰めているらしい。今日は金曜日だ。保存の問題ではない。同じ味が、月曜から五日続いている。
「宮下さん」
「なに」
「交換しませんか」
来た、と透子は思った。思っただけで、顔には出さなかった。ミニトマトを一つ口に入れ、噛んで、飲みこんでから答える。
「しない」
「唐揚げ一個と、コロッケ半分」
「しない」
「僕の唐揚げ、生姜が利いてておいしいですよ。月曜に宮下さんも、においだけでおいしそうって言ってくれましたよね」
「月曜にはね」
「金曜の唐揚げは、だめですか」
「五日連続の唐揚げを、交換材料にしないで」
柏木は唇をとがらせた。それから、交渉に出した唐揚げを一つ、自分の口に入れた。
「……おいしいのに」
「なら、自分で食べなさい。いま食べたでしょう」
「はい。残り三個です」
透子はご飯をひと口食べ、卵焼きを一切れ食べた。甘くない、だしの卵焼き。おいしい。おいしいけれど、今日の主役ではない。
柏木の前の職場は引っ越し会社で、昼になるとトラックの荷台に腰かけて、皆でおかずを交換するのが決まりだったらしい。「交換すると、一回のお昼で四種類くらい食べられるんですよ」と、入社初日に彼は言った。悪い文化ではない。ただ、青柳ビル管理人室の文化ではない。
それに、柏木は必ず先に訊く。三か月のあいだ、一度も人の箱に勝手に箸を入れたことはない。最初に断ったときは、すぐに引いた。次の昼、透子のほうが「今日は何を出すの」と聞いたのが始まりだった。今では、彼がおかずを挙げ、透子が短い返事で退ける、小さな遊びになっている。本当にやめてと言えばやめる相手だと、三か月で分かった。交換だけは、一度も成立していない。
「ちなみに、なんで最後まで取ってあるんですか、コロッケ」
「好きだから」
「好きなら最初に食べません?」
「好きだから、最後に食べるの」
「わからないなあ。僕、好きなものから食べます。途中で地震が来たら損じゃないですか」
「地震が来たら、コロッケより先に避難誘導」
「それはそうです」
透子がおひたしのカップに箸をのばしかけたとき、受付窓口のガラス戸が、こんこんと叩かれた。
二 墨汁と見張り番
窓口の向こうに、二階で書道教室をひらいている小田切先生が立っていた。白髪をきっちりまとめ、紺の割烹着を着ている。その裾に、黒い点々がついていた。
「ごめんなさいね、お昼に。廊下で生徒さんが墨汁の瓶を倒しちゃって。わたしたちでも拭いてるんだけど、床の溝に入りこんじゃって」
金曜の昼の部は、大人の生徒さんばかりの教室だ。
「すぐ行きます」
透子は立ち上がり、掃除用具入れからモップとバケツと雑巾を出した。廊下の床は古い石張りで、溝がある。墨汁が入りこんだら、早いうちに拭かないと跡が残りやすい。
階段を半分のぼったところで、透子は足を止めた。
弁当の蓋を、閉めていない。
モップとバケツを抱えたまま駆けおりるには、階段が急すぎた。小田切先生が上から「宮下さん?」と呼んだ。透子は息を吸い、管理人室に向かって声を張った。
「柏木くん!」
「はい!」
「わたしのお弁当、触らないで!」
「触りません!」
「見るのもだめ!」
「それは無理です、正面なので!」
返事の元気さに、小田切先生が小さく笑った。透子は笑わずに二階へ上がった。
墨汁は、思っていたより広がっていた。廊下の真ん中に、黒い湖のような形ができている。生徒さんが三人、ティッシュの箱を抱えて立っていた。透子はバケツの水で雑巾を絞り、溝に沿ってこすった。一度ではとれない。二度目でうすくなる。三度目で、ようやく石の灰色が戻ってくる。
「宮下さん、手際がいいわねえ」
「墨汁は、初めてじゃないので」
「去年もうちの教室だったわね」
「おととしもです」
小田切先生は、ごめんなさいね、と三回言った。透子は三回とも、大丈夫です、と答えた。答えながら、頭の半分は一階にあった。
コロッケは無事だろうか。柏木くんは触らないと言った。言ったなら、触らない。三か月見てきて、そこは信じている。けれど、蓋の開いた弁当の前で五日連続の唐揚げを食べている二十七歳の気持ちを考えると、信じていても落ち着かない。
最後の溝を拭き終えたのは、十二時二十分だった。
管理人室に戻ると、透子の弁当には蓋が閉まっていた。
「……閉めたの?」
「閉めました。蓋だけです。箸は使ってません。指も中に入れてません」
柏木は両手を上にあげてみせた。

「埃が入るといけないと思って。あと、見てると食べたくなるので、自分のためでもあります」
透子は蓋をそっと開けた。
トマトが一つ、卵焼きが一切れ、おひたし、たくあん二枚、ご飯。コロッケは一個、右下の区画の真ん中に、十二時のときと同じ向きで横たわっていた。蓋の内側にソースもついていない。
「ありがとう」
自分でも思ったより小さい声が出た。それから、思ったより大きい声で付け足した。
「……さっきは、ごめん。大声出して」
「いいえ。宮下さんの『触らないで』、階段に響いてかっこよかったです」
「かっこよくない」
透子は手を洗って席に戻り、おひたしのカップを取った。柏木はその様子をしばらく見ていて、それから咳払いをした。
「宮下さん。改めまして」
「しない」
「まだ何も言ってないです」
「言う前からしない」
「唐揚げ二個と、コロッケ半分」
「しない」
「倍ですよ」
「同じ唐揚げが二個になっただけ」
柏木は、唐揚げを一個口に入れた。これで残り二個だ。
「では、唐揚げ二個に、ゆで卵半分もつけます」
「つけなくていい」
「ゆで卵、きのうの夜に茹でたやつです。新しいです」
「新しさの問題じゃないの」
透子は卵焼きの二切れ目を食べた。
「じゃあ、何の問題なんですか」
透子は箸を置いた。言うつもりはなかった。言えば、余計に欲しがられる気がした。けれど、蓋を閉めておいてもらった借りがある。
「三週間前にも、丸八のコロッケを買ったの。木曜に二個。一個はその夜に温めなおして食べて、もう一個は冷ましてソースをかけ、蓋をして冷蔵庫へ。朝、冷たいままお弁当に入れて、保冷剤をつけて持ってきた」
「今日と同じですね」
「そう。冷えたコロッケにソースが一晩しみるとね、中の白いところと、外の茶色いところが、なんていうか……仲直りするの」
「仲直り」
「熱いと、別々の味なの。クリームはクリーム、ソースはソース。でも一晩おくと、境目がなくなる。それを最後に、ご飯と一緒に食べるのが、いちばんおいしい……はずだった」
「はずだった?」
「三週間前のその日、最後の一口の直前に、五階のトイレの水が止まらなくなった」
柏木は口を開けた。
「わたしはコロッケを一口で押しこんで、走った。味なんか、覚えてない。水道の元栓の場所しか覚えてない」
「それは……」
「だから今日は、ちゃんと最後に、ちゃんと味わって食べたいの。半分にしたら、真ん中がなくなる。真ん中が、いちばん仲直りしてるところなのに」
柏木は、ゆで卵を半分、黙って自分の口に入れた。ゆっくり噛んで、飲みこんで、言った。
「……それ聞いたら、ますます食べたくなりました」
「だから言いたくなかったの」
三 プリンは別腹にしない
十二時二十八分、窓口のガラス戸がまた叩かれた。四階のデザイン事務所の浜野さんだった。眼鏡を額にのせ、首から社員証のストラップを下げている。
「すみません、うち宛ての荷物って届いてません? 午前中に来るはずなんですけど」
「届いてます!」
柏木が立ち上がった。
「十一時五十分に来ました。棚に……あれ」
棚の「4F」の札の下は空だった。柏木の顔が少し青くなり、それから「3F」の札の下を見て、赤くなった。
「すみません、三階のところに置いてました」
「ちょっと、柏木くん」
「四と三、伝票の字が似てて……いや、似てないです。僕の見間違いです」
柏木は段ボール箱を両手で抱えて窓口まで運び、受け取りのサインの欄を指でさした。浜野さんは「三階の人に持っていかれる前でよかった」と笑ってサインをし、箱を抱えて階段のほうへ行った。
柏木は席に戻ると、肩を落として、ブロッコリーを一房食べた。
「宮下さん、いま僕、落ちこんでます」
「見ればわかる」
「落ちこんでる人には、優しくしてもいいと思いませんか」
「コロッケで優しくする気はない」
「ですよね」
透子は、二つ目のミニトマトを口に入れた。残りは、たくあん二枚と、ご飯が少しと、コロッケ。順番は決めてある。たくあんで口をさっぱりさせて、それから、コロッケとご飯で終わる。
十二時三十六分、三度目のノックがあった。
今度は、一階の喫茶店「ルル」の蒔田さんだった。エプロンのまま、小さな紙の箱を持っている。
「ふたりとも、お昼中にごめんね。来月から出そうと思ってる、かぼちゃのプリン。試作なんだけど、感想ちょうだい」
箱の中には、ガラスの小さな器に入ったプリンが二つと、木のスプーンが二本入っていた。
「ありがとうございます!」
柏木の声が、ぱっと明るくなった。落ちこんでいたのが嘘のようだった。蒔田さんは窓口からプリンを一つずつ机に置き、スプーンを添えた。
「味の濃さとか固さとか、遠慮なく言ってね。三時ごろに器だけ返してくれればいいから」
蒔田さんが店へ戻ると、柏木は自分の前のプリンと、透子の弁当箱を、交互に見た。
透子は嫌な予感がした。
「宮下さん」
「しない」
「プリン一個と、コロッケ半分」
「それはあなたのプリンじゃなくて、蒔田さんがあなたにくれたプリンでしょう」
「いただいた時点で、僕のプリンです」
「感想を言うためにもらったんでしょう。わたしが二個食べたら、あなたは感想が言えない」
「宮下さんが二個分の感想を言ってくれれば」
「言いません」
柏木は、ううん、とうなって、それから、あっさりプリンのふたを開けた。
「じゃあ、食べます」
「切り替えが早い」
「プリンは、交換しなくてもおいしいので」
彼は木のスプーンでひとすくいし、目を閉じた。
「……うまっ。かぼちゃだ。かぼちゃが濃い」
透子は自分の前のプリンを見た。ガラスの器の中で、オレンジ色がつやつや光っている。食べたい。けれど、ここで食べたら、最後の一口がコロッケではなくなる。
「宮下さん、食べないんですか」
「三時の休憩で食べる」
「えっ。冷蔵庫で待たせるんですか」
「最後に食べるのはコロッケって決めてるから」
「プリンは別腹じゃないんですか」
「別腹にしない。別の時間にする」
透子はプリンを箱に戻し、立ち上がって、冷蔵庫の二段目の右側、「宮下」のテープの下にしまった。席に戻り、たくあんを一枚食べた。
柏木はプリンを最後のひとさじまで食べきり、器を水でゆすいで箱に戻した。それから唐揚げを一つ食べた。残りの唐揚げは、一個。
十二時四十二分、柏木は姿勢を正した。
「宮下さん。最後の交渉をさせてください」
「最後なら、聞くだけ聞く」
「唐揚げ一個。ブロッコリー一房。ゆで卵はさっき食べてしまったので……」
「半分残ってるでしょう」
「これは僕が食べたいので出しません」
「正直ね」
「それから、自販機の缶コーヒー一本。百三十円。僕のおごりです。それと、僕の誠意」
「誠意は、いくら?」
「プライスレスです」
透子は二枚目のたくあんを食べ、ゆっくり噛んだ。ぽりぽりという音が、管理人室にやけに大きく響いた。それから、お茶をひと口飲んだ。
「しない」
「ですよね」
柏木は、出していた唐揚げを食べ、残りのブロッコリー二房を食べ、ゆで卵の残り半分を食べた。ちくわきゅうりを二本続けて食べ、最後に梅干しのまわりのご飯をかきこんだ。黒い大きな箱は、空になった。
「ごちそうさまでした」
それから両手を膝に置いて、透子のほうへ向き直った。
「では、見届けます」
「見届けなくていい」
「見届けさせてください。三週間前の分まで」
透子の弁当箱には、ご飯がちょうど三口分と、コロッケが一個、残っていた。時計は十二時四十五分だった。
四 最後の一口
透子は、箸でコロッケを三つに分けた。
衣に箸を入れても、さく、という音はしなかった。しっとりと、すっと割れた。中の白いクリームが、断面から少しだけ顔をのぞかせる。その白は、外側に近いところほど、うすい茶色に染まっていた。
右端と、左端と、真ん中。真ん中がいちばん大きくなるように分けた。
「おお……」
柏木が身を乗り出しかけて、自分で椅子を引いて戻った。
透子は、右端をご飯の一口分と一緒に口に入れた。
冷たい。冷たいのに、とろりとしている。ソースの酸っぱさがもう角をなくして、クリームの甘さの中に溶けている。カニの身が、ほんの少しだけ舌に当たった。
「どうですか」
「……仲直りしてる」
「うわあ」
左端を、二口目のご飯と一緒に。こちらは衣がやや多くて、ソースの味が濃い。それもいい。
残りは、真ん中のいちばん大きなひと切れと、最後のご飯の一口。
透子は箸を持ちなおした。
電話が鳴った。
窓口の横の、黒い電話だった。柏木が「僕、出ます」と立ち上がりかけたが、透子は手で止めた。この時間の電話は、たいてい業者だ。業者の電話は、透子が出ないと話が進まない。
箸を置き、受話器を取る。
「はい、青柳ビル管理人室です」
『いつもお世話になってます、昇降機点検の大塚です。来週の定期点検の日程の確認で』
エレベーターの点検業者だった。
「はい、木曜の……」
『木曜の十五時から、ということで。今回は扉の動きも詳しく点検しますので、少し長めにお時間いただくかもしれません』
「何時ごろまでになりますか」
『十六時半には、たぶん。たぶん、です』
「たぶん」
『ええ、たぶん』
透子は受話器を耳に当てたまま、弁当箱を見下ろした。真ん中のひと切れが、白い断面を上にして、じっと待っている。柏木も、そのひと切れを見ていた。見ているだけで、手は膝の上だった。

「立ち会いは、わたしがします。テナントさんへの貼り紙は、こちらで出しておきます」
『助かります。では、来週木曜十五時に』
受話器を置いたのは、十二時五十二分だった。
透子は座りなおし、窓口のガラス戸を閉めた。もう誰も叩かない、はずだ。叩かれても、あと一分だけ待ってもらう。
箸を取り、深く息を吸った。
真ん中のひと切れを、最後のご飯と一緒に、口に入れた。
噛む。
噛む。
とろり、とクリームが広がる。茶色い境目は、どこにもない。ソースも、衣も、カニも、白いところも、ご飯の甘さも、全部ひとつになって、ゆっくり喉を通っていった。
目を開けてから、透子は自分が目を閉じていたことに気づいた。
「……ごちそうさまでした」
「おめでとうございます」
柏木が、ぱちぱちと小さく拍手をした。
「拍手しないで」
「三週間越しなので」
「……ありがとう」
透子は弁当箱に蓋をし、箸を箸箱にしまった。時計は十二時五十五分だった。
柏木は空の自分の箱を見て、それから透子の閉じた箱を見て、長いため息をついた。
「僕も食べたいなあ。丸八のコロッケ」
「買えばいいじゃない」
「木曜限定でしょう? 僕、木曜は遅番なんですよ。十九時まで。終わってから行ったら、とっくに売り切れてます」
「四時から、十二個だけだからね」
「宮下さん、いつも買えてるんですか」
「早番の日は四時半に上がって、四時三十五分に着く。たいてい、まだ残ってる」
「取り置きって、やってないんですか」
「貼り紙に、『お電話でのお取り置きはできません』って書いてある」
「お電話でなければ?」
「……そういう屁理屈は、言わないの」
柏木は首をかしげた。それから壁の勤務表を外して、木曜の欄を指でなぞった。
「僕、四時から十五分、休憩ありますね」
「あるね」
「丸八まで、歩いて三分」
「三分」
「行って、買って、戻って、十分くらい。いけます」
「休憩中に何をしてもいいけど、四時十五分には窓口に戻ってね」
「戻ります」
柏木は勤務表を壁に戻し、自分の弁当箱を流しで洗いはじめた。その背中が、妙にうきうきしていた。
透子は思った。これで来週から、金曜のたびにこの人の視線を気にしなくてすむ。親切で教えたわけではない。自分のコロッケを、自分のために守っただけだ。
昼の当番で中断したぶんは、そのあと交代で休憩を取り直した。
三時の休憩で、透子は冷蔵庫からかぼちゃのプリンを出して食べた。冷えていて、なめらかで、かぼちゃが濃かった。器を返しに行くと、蒔田さんに「柏木くんは、うまっ、しか言わなかったよ」と言われた。透子は「固さはちょうどいいです。カラメルは、もう少し苦くてもいいかもしれません」と答えた。蒔田さんは、それをメモに書いた。
五 翌週の金曜日
翌週の木曜日、エレベーターの点検は十六時半には終わらなかった。
予定していた点検のあと、四階の扉の閉まり具合に業者が首をひねり、確認と調整にもう三十分かかった。透子は最後まで立ち会い、点検済みの貼り紙を各階に貼って回り、管理人室で報告書に判子を押した。延びた勤務の時間も、勤務表へ書き入れた。
丸八に着いたのは、十七時十五分だった。
ガラスケースの「木曜限定 カニクリームコロッケ」の札の前には、空のバットが一枚、置かれているだけだった。
「ごめんねえ、今日は早くてね」
店主の八木さんが、申しわけなさそうに言った。透子はメンチカツを一個買って帰り、清潔な包丁で半分に切った。片方を夕食にし、もう片方は冷まして蓋付きの容器で冷蔵庫へしまった。
翌日の金曜日、十二時。
透子の弁当箱には、黒ごま塩のご飯、卵焼き二切れ、おひたし、ミニトマト二個、たくあん二枚、それから、ゆうべ残しておいたメンチカツの半分が入っていた。悪くない。メンチカツもおいしい。けれど、ソースは、一晩おいてもかけていない。
向かいの机で、柏木が黒い箱の蓋を開けた。
唐揚げは入っていなかった。二キロの唐揚げは、先週で食べきったらしい。かわりに、焼いた鮭が一切れ、ほうれん草の胡麻和え、半分に切ったゆで卵が二切れ、ご飯の真ん中に梅干し。
そして、右の隅に、ソースのしみたカニクリームコロッケが一個。
「……買えたの」
「買えました。四時三分に着いて、十二個のうちの七個目と八個目でした」
柏木は胸を張った。
「一個は、ゆうべ温めて食べました。もう一個は、宮下さんの真似をして、冷ましてからソースをかけて冷蔵庫へ。朝、保冷剤をつけて持ってきました」
「そう」
透子はミニトマトを食べた。卵焼きを食べた。ご飯を食べた。そして、どうしても目が、柏木の箱の右の隅へ行った。
柏木は鮭から食べた。次にご飯、次に胡麻和え。ゆで卵。コロッケには、手をつけなかった。
「柏木くん、好きなものから食べるんじゃなかったの」
「今日は、最後にしてみます。仲直りしてるところを、確かめたいので」
透子はメンチカツを一口食べた。おいしかった。おいしかったけれど、口が、それではないものを待っていた。
自分の弁当箱を見た。卵焼きが一切れ残っている。だしの卵焼き。柏木は先月、この卵焼きを「料亭の味がしそう」と言った。
透子は口を開きかけた。
それから、閉じた。
「……言わない」
「言ってもいいですよ」
柏木が、にこにこして言った。
「断るので」
透子は思わず笑った。声を出して笑ったのは、ずいぶん久しぶりな気がした。
「そうよね。お弁当は、交換しない」
「しません」
「先週、わたしが言ったことだもんね」
「はい。僕、ちゃんと覚えてます」
柏木は、残ったご飯をちょうど二口分にそろえた。コロッケを箸で二つに分ける。先週の透子より、少しだけ不器用に。片方がやや大きくなった。
小さいほうを、一口目のご飯と一緒に。
彼は目を見開いた。何も言わなかった。言わないまま、大きいほうを最後のご飯と一緒に口に入れた。ゆっくり噛んで、飲みこんで、しばらく天井を見ていた。
「……仲直りしてました」
「でしょう」
「これ、三週間待たされたら、そりゃ叫びますね」
「叫んでない」
「先週、階段で叫んでました」
「あれは、連絡」
柏木は箱に蓋をして、両手を合わせた。それから作業着の胸ポケットから、小さく折りたたんだ紙を一枚取り出し、透子の机の端に置いた。
丸八のレシートだった。裏に、ボールペンで何か書いてある。
『来週木曜 カニクリーム 柏木様二個/宮下様二個 お取り置き』
透子はレシートを裏返して表を見て、また裏返した。
「……これ、何」
「きのう、お店で八木さんに訊いたんです。電話がだめなら、お店で直接ならどうですかって。そしたら、来週の分をその場で帳面につけるならいいよって。電話だと名前を聞きまちがえて揉めたことがあるから、電話はやめたんだそうです」
「お店で、直接……」
「宮下さん、いつもすぐ買えるから、訊いたことなかったでしょう」
なかった。貼り紙を読んで、それで全部だと思っていた。透子は、レシートの裏の、八木さんの丸い字をもう一度読んだ。
「わたしの分まで、頼んでくれたの?」
「また帰りが遅くなっても困らないようにと思って。あ、でも代金はもらいません。一個百八十円の二個で三百六十円、来週木曜にお店で、宮下さんが自分で払ってください」
「……もちろん払う」
「それと、これは交換じゃありません。予約です」
「わかってる」
透子はレシートを財布にしまった。それから、残っていた卵焼きの最後の一切れを、自分で食べた。だしの味がした。今日の最後の一口は、メンチカツではなく卵焼きになった。それも、悪くなかった。
窓口のガラス戸が、こんこんと叩かれた。小田切先生だった。
「ごめんなさいね、お昼に。また墨汁が……」
透子と柏木は顔を見合わせた。二人とも、弁当箱はもう空だった。
「行きます」
二人同時に立ち上がり、窓口に〈二階対応中〉の札を出して、透子がモップを、柏木がバケツを持った。階段をのぼりながら、柏木が言った。
「来週の金曜は、二人とも最後まで取っておくんですよね」
「そうね」
「そのときに墨汁がこぼれたら、どうします?」
「蓋を閉めてから行く」
「閉め忘れたら?」
透子は少し考えてから答えた。
「お互いに、見張り番」
「触らないで、見るのもだめ、ですね」
「正面だから、見るのはいい」
柏木が笑い、透子も笑った。二階の廊下では、今度は小さな黒い水たまりが、二人を待っていた。


