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日常ミステリー

図書館の地図に、池がある

池はない。そのはずなのに、地図には青い楕円がある。

読了目安
21分
長さ
短編
#謎解き#散歩#友だち
図書館の地図に、池があるのイメージ

あらすじ

図書館の町の地図に、知らない池がある。縮尺から測れば運動場ほどの大きさなのに、司書も散歩好きの隣人も「そんな池はない」と言う。校正者の透子は誤植だと決めかけるが、隣人の朔は「見に行ってからにしたら」と誘う。定規と歩数を頼りにする人と、猫や匂いで寄り道する人。秋の町を二人で歩いて確かめる、地図の小さな謎。

読みやすく、好きなところから。

目次・4章

一 青い楕円

霞台町立図書館の玄関ホールには、町の地図が掛かっている。

横幅は大人が両腕を広げたくらい、高さは槙野透子の背丈より少し低い。厚いボードに印刷された案内図で、家々の屋根や商店街のアーケード、駅のホームまでが、色鉛筆のような柔らかい線で描かれていた。右下には「霞台まちあるきマップ」とあり、今年の春に改訂したと書き添えてある。

透子は、返す本を胸に抱えたまま、その前にもう五分も立っていた。

引っ越してきて半年になる。図書館にはほとんど毎週来ていて、この地図も毎週見ていた。見ていたはずだった。けれど今朝、目の高さより少し上に青い楕円があることに、初めて気づいたのだ。

楕円は、図書館から上へまっすぐ進んだあたりにあった。周りに細い草の線がいくつも描かれ、水面には小さな鴨が一羽、のんきに浮かんでいる。名前は書いていない。

「池……」

声に出してみると、ますます妙だった。透子の知るかぎり、霞台に池はない。

透子は鞄のポケットから、十五センチのステンレスの定規を出した。仕事柄、いつも持ち歩いている。学習参考書の校正をしていると、図版の矢印が一ミリずれているだけで、川が山を登ってしまうことがあるのだ。

まず左下の縮尺を見る。一対四千。横の目盛りでは、百メートルが二・五センチ。定規を青い楕円に当てる。長いほうが二センチ、短いほうが一センチと少し。

「八十メートルの、四十……四十四メートル」

小さな池ではない。運動場くらいある。

図書館の赤い星印、「いまここ」から楕円の中心までは九センチ。三百六十メートル。歩いて五分の距離に、運動場ほどの池がある。そんなものがあれば、半年のうちにどこかで目に入るはずだった。

透子はスマートフォンの地図アプリを開いた。図書館から北へ三百六十メートル。そこには寺の印があるだけで、水色はどこにもない。指で画面を少し動かしてみたが、町のどこにも、池と呼べるような水色は見当たらなかった。名前のない薄い緑の四角が、ところどころにあるくらいだ。

「誤植ね」

小さく言ったとたん、胸の奥が少しだけ得意になったのが、自分でもわかった。

返却カウンターで本を返し、そのままレファレンスの机へ行く。眼鏡を頭に乗せた司書が顔を上げた。名札には「塩見」とある。

「すみません、玄関の地図のことで伺いたいんですが。図書館の上のほうに、池が描いてありますよね」

「ああ、鴨の」

塩見さんはすぐにわかったらしく、笑った。

「かわいいですよね。でも、霞台に池はないんです。昔はため池がひとつあったそうですけど、もう何十年も前に埋め立てられて、今はスーパーの駐車場になっています」

「そのため池の場所が、あそこですか」

「どうだったかな。古い地形図がありますから、見てみます?」

塩見さんは書庫から大判の複製を一枚持ってきて、机に広げてくれた。昭和の半ばの地形図で、田んぼの記号がびっしり並んでいる。等高線のあいだに、「蛙池」と小さく書かれた水色があった。

透子は定規を当てて、玄関の地図と頭の中で見比べた。古い地図の縮尺は一対一万。目盛りを読み替え、駅と線路の位置を手掛かりに重ねていく。

「蛙池は、図書館から西へ六百メートルくらいですね。玄関の池は、上へ三百六十メートル。方向も距離も違います」

「あら、ほんとだ」

塩見さんは眼鏡を下ろして、地形図をのぞき込んだ。

「じゃあ、昔の池を描き写したわけでもないんですね。地図のもとになった役場の都市計画図なら行政資料の棚にあるんですけど、ちょうど今月は、役場の展示に貸し出していて」

「そうですか」

「でも、池はないと思いますよ。わたし、霞台で生まれ育ってますから」

その言い方には、意地悪さもいいかげんさもなかった。自分の町をよく知っている人の、まっすぐな言い方だった。透子はうなずいて、お礼を言った。

ホールのベンチに戻り、置いてあった「ご意見カード」を一枚取る。ボールペンで丁寧に書いた。

――玄関の地図、図書館の北、三百六十メートル付近に池が描かれていますが、実在しないようです。ご確認ください。

書き終えたところで、自動ドアが開いた。

「透子さん、ごめん、遅れた」

木下朔が、紙袋を揺らしながら入ってきた。同じアパートの二階に住んでいて、透子より四つ下だ。和菓子屋で働いていて、休みの日も遅番の日も、とにかくよく歩く。道を決めずに歩く。決めないから、待ち合わせにはたいてい遅れる。

「十時半の約束。今、十時四十二分」

「猫がね、塀の上で寝てて」

「それは理由?」

「理由だよ」

朔は悪びれずに紙袋を持ち上げた。

「豆大福、二個。お店の、ちょっと形が崩れたやつ」

今日は朔が午後三時から店番に入る日で、それまで図書館で過ごす約束だった。透子が地図帳を選ぶあいだ、朔は絵本の棚を眺める。いつもの土曜日になるはずだった。

透子は朔を玄関の地図の前に連れていき、青い楕円を指さした。

「これ。知ってる?」

「池?」朔は首をかしげた。「ないよ、そんなの。このへん、ほとんど歩いたもん」

「でしょう。誤植だと思うの。カードに書いたところ」

透子がカードを見せると、朔はそれを読み、地図の鴨を見て、またカードを見た。

「出すの、見に行ってからにしたら?」

「ないものを、どうやって見に行くの」

「ないのを見に行くの。三百六十メートルでしょ。散歩じゃん」

「散歩じゃなくて、調査」

「どっちでもいいよ」

朔はもう、自動ドアのほうへ歩き出していた。透子はカードを手帳に挟み、スマートフォンで玄関の地図を一枚撮ってから、あとを追った。

二 北はどっち

図書館の前の通りは、ゆるい坂になっている。透子は門を出たところで立ち止まり、スマートフォンのコンパスで北を確かめた。

「北へ三百六十メートル。わたしの歩幅が七十センチだから、だいたい五百十四歩」

「数えるの?」

「数える」

「すごいね」

朔は本気で感心したように言い、それきり歩数のことは忘れたらしかった。透子が「三十一、三十二」と口の中で数えるあいだに、朔は八百屋の店先で柿の値段を見て、電柱の迷い猫の貼り紙を読み、角の家の金木犀に鼻を寄せた。

「朔さん、そっちは路地」

「いい匂いがしたの」

「金木犀なんて、どこにでもあるでしょう」

「どこにでもあるけど、ここのは甘いよ」

透子は二百歩目で数がわからなくなりかけ、百ごとに指を一本折ることにした。朔は振り返って、その指を不思議そうに見た。

五百歩を少し過ぎたところで、道の右手に古い山門が現れた。石柱に「円照寺」と刻まれている。門は開いていて、参道の脇に「境内参拝自由」の札が立っていた。

「ほら」

透子は門から中をのぞいた。本堂の手前、石で囲まれた小さな池がある。睡蓮の葉が浮かび、赤い鯉がゆっくりと動いていた。

「池あるじゃん」と朔が言った。

「ある。でも、小さすぎる」

透子は参道の端まで進んで、池の大きさを目で測った。差し渡し四メートルもない。

「あの地図だと、八十メートルと四十四メートルの楕円なのよ。この池なら、地図の上では一ミリにもならない。鴨の絵のほうが大きいくらい」

「じゃあ、鴨だけ描いたのかも」

「鴨のための地図なんて、聞いたことない」

本堂の前で手を合わせてから、二人は山門の脇の小さな児童公園へ移った。ベンチに座ると、朔が紙袋から豆大福を二つ出し、ひとつを透子に渡して、ひとつを自分でかじった。

「やっぱり誤植ね」透子は大福を持ったまま言った。「下書きで描いた池を消し忘れたのかもしれない。印刷の前に、誰も現地を見なかったのよ」

言いながら、少し苦い気持ちになった。誤植を見つけるのは好きだ。けれど、誰も見なかったと決めつけるのは、校正者として褒められたことではない。

「写真見せて」

朔が手を出したので、透子はスマートフォンを渡した。朔は玄関の地図の写真を拡大し、自分の体の向きを少し変え、それからスマートフォンをくるりと回した。

「朔さん、地図は回さないの。上が北なんだから」

「上、北なの?」

「普通は」

「でも、このお寺、地図だと図書館の左上にあるよ」

透子は、大福をかじりかけたまま固まった。

朔の指が写真の上を滑る。図書館の赤い星。そこから左上へ斜めに上がったところに、確かに小さな山門の絵があって、「円照寺」と書いてある。

「わたしたち、図書館からまっすぐ北に来て、ここに着いたでしょ。なのに地図だと左上。てことは、この地図の上は北じゃないんじゃない?」

朔はさらに写真を拡大した。地図の右上の隅、建物の絵の陰に隠れるようにして、小さな方位記号があった。Nの文字のついた矢印は真上ではなく、左上へ斜めに傾いている。

「ほら。北、こっち」

透子はしばらく何も言えなかった。縮尺は確かめた。凡例も見た。改訂の時期も見た。それなのに、方位記号だけは見ていなかった。地図の上は北。そう思い込んでいたからだ。

秋の公園のベンチで、豆大福を手にした透子に、スマートフォンの地図を回して見せる朔。

「……駅前通りを、縦にまっすぐ描きたかったのね。駅は図書館の北東だから、北東が上になってる」

「透子さん、怒ってる?」

「自分に怒ってる」

透子は大福を一口で半分食べた。粒あんの甘さの奥に塩気があって、豆がこりっと歯に当たった。口の中が甘くなると、頭が少しだけ冷えた。

「朔さん、いつも地図を回すの?」

「うん。歩いてる向きに合わせないと、わかんないもん。道順は覚えられないけど、向きなら体でわかる」

「わたし、回すのは邪道だと思ってた」

「邪道ってなに」

「正しくない道」

「回したら正しくなったよ」

朔は笑って、大福の最後のひとかけを口に放り込んだ。

透子は手帳を開いて図を描いた。図書館を点にして、北東へ三百六十メートル。今いる円照寺は、図書館の真北へ三百六十メートル。

「池があるはずの場所は、ここから東へ二百五十メートルくらい、それから南へ百メートルちょっと。だいたい東南東に、三百メートル弱ね」

「東南東ってどっち」

透子がコンパスで示すと、朔はその方向を見て、ああ、とうなずいた。

「あっち、下り坂のほうだ。パン屋さんの裏の」

「パン屋?」

「名前は知らない。メロンパンが大きい店」

朔は腕時計を見た。十一時二十分。三時の店番までは、まだ時間がある。

「行こ。道は知らないけど、方角はわかる」

それは半分本当で、半分は本当ではなかった。朔は最初の角を迷わず曲がり、二つ目の角でも迷わず曲がり、三つ目の路地の奥でブロック塀に突き当たった。

「行き止まり」

「行き止まりだね」

朔はちっとも残念そうではなかった。塀の上で、さっきとは違う茶トラの猫が伸びをしていた。透子はため息をつきかけて、やめた。地図を回さなかった自分に、ため息をつく資格はあまりない。

二人は路地を戻り、今度は透子のコンパスと朔の鼻を半分ずつ頼りにした。メロンパンの甘い匂いのする角を過ぎると、道はゆるやかに下りはじめた。

三 階段を降りる原っぱ

坂を下りきったところで、道の左側が急に開けた。

フェンスの向こうに、広い草地があった。ただし、地面が道より低い。人の背丈の倍近くある。コンクリートの壁でぐるりと囲まれた四角い窪みの底に、芝と雑草のまじった原っぱが広がっていた。両端に少年用のサッカーゴールが一つずつ。揃いの青いビブスを着た子どもたちが、ボールを追って走り回っている。

「ここ、ここ。あたし、ここ好き」

朔の声が弾んだ。

「降りると空が四角いんだよ。壁で周りの家が見えなくなって、空だけになるの」

透子はフェンスに手をかけて、窪みを見下ろした。四隅のうち二か所に、下へ降りる階段がついている。手前の入口には「霞台キッカーズ」と書かれた横断幕が結んであった。

「スマホの地図で、名前のない薄い緑だった場所ね」と透子はつぶやいた。「北しか見てなかったから、気にも留めなかった」

「池じゃないね」と朔が言った。

「池じゃない」と透子も言った。「でも、大きさを測らせて」

透子はフェンス沿いの歩道を、長い辺の端から端まで歩いた。今度は朔も一緒に数えた。朔は途中で一度数を飛ばしたけれど、透子の数はちゃんと続いていた。

「百十四歩。八十メートル弱」

角を曲がって、短い辺を歩く。

「六十三歩。四十四メートル」

透子は立ち止まり、スマートフォンの写真の楕円と見比べた。地図の青は楕円で、ここは四角い。けれど、あのイラスト地図では、建物も公園も角を丸めて描いてある。駅前のロータリーだって、実際よりずっと丸い。

「大きさと位置は、ぴったり合う」

「でも、池じゃない」

「そう。そこが問題」

ちょうど、ジャージ姿の男の人が階段を上がってきた。首から笛を下げ、胸に「キッカーズ」と刺繍のあるジャンパーを着ている。透子は少し迷ってから声をかけた。

「すみません、練習中に。このあたりに、池はありますか」

「池?」男の人は目を丸くして、それから笑った。「いつも水のある池なら、ないですよ。わたし、ここで十年コーチやってますから」

「そうですよね」

「ここはグラウンドです。まあ、ちょっと変わったグラウンドですけどね。雨の次の日はぐちゃぐちゃで使えないから、練習が休みになる。子どもらは喜ぶけど」

羽田と名乗ったコーチは、転がってきたボールを足で止め、階段の下へ蹴り返した。

「どうして、雨の次の日はぐちゃぐちゃなんですか」

「低いからでしょうね。周りの水が、みんなここに集まってくる」

羽田さんは当たり前のことのように言って、子どもたちに呼ばれて階段を降りていった。

透子は窪みをもう一度見た。周りより低い。周りの水が集まる。

「朔さん、雨の次の日にここへ来たこと、ある?」

朔は少し考えた。考えるとき、朔は顎を上げて空を見る。四角くない、いつもの空を。

「ある。去年の秋かな。すごい雨の次の日。ここ一面、大きい水たまりになってた」

「一面?」

「うん。ゴールが半分沈んでて、白い鳥が一羽立ってた。脚の長いやつ」

「それ……どうして最初に言わなかったの」

「だって池じゃないもん。水たまりだもん。その日の夕方に通ったら、もうほとんど引いて、原っぱに戻ってたし」

朔は窪みの角を指さした。コンクリートの壁の下のほうに四角い大きな口が開いていて、鉄の格子がはまっている。

「あと、あそこ。雨の上がった日に、向かいの坂から水が出てるのを見たの。穴のほうには近づかなかったけど、遠くからでも滝みたいだった」

透子は、朔の顔と四角い口を交互に見た。

道順は覚えない。店の名前も覚えない。けれど、雨の日に傘をさしてここに立ち、滝のような水を眺めていた人がいる。その人の頭の中には、紙には描けない種類の地図があるのだと、透子は思った。

「入口、反対側にもあったよね。行ってみよう」

窪みの外周を回って、もう一つの階段の上に出た。脇の植え込みで萩がこんもりと枝を垂らしていて、その陰に白い看板が半分隠れていた。透子は萩の枝をそっと手で押さえて、文字を読んだ。

――霞台東調整池(多目的広場)
この広場は、大雨のときに雨水を一時的にためて、川へ一度に流れ込まないようにする施設です。雨の日や水がたまっているときは、危険ですので立ち入らないでください。 霞台町

「ちょうせいち」と、朔がゆっくり読んだ。「池って書いてある」

「書いてある」

透子が手を離すと、萩の枝が戻って、また「池」の字を半分隠した。

「地図は、間違ってなかったのね」

役場の都市計画図をもとに描いたのなら、ここは水をためる施設として載っていたはずだ。描いた人は、それを青く塗ったのかもしれない。凡例の水色には「池・川」の一行しかなかった。ふだんは緑だということが、そこから抜け落ちている。

「でも、塩見さんも、羽田さんも、朔さんも、池はないって言った」

「言ったね」

「みんな正しかったのよ。ふだんは、ないんだもの」

透子は手帳を開いた。挟んでおいたご意見カードが、端を少し折って顔を出した。

――実在しないようです。ご確認ください。

破ろうか、と一瞬思った。けれど透子は、カードを手帳に挟み直した。自分がどう間違えたのか、あとで見られるように。

「透子さん」

「なに」

「見たいんでしょ。池になってるとこ」

透子は答えるかわりに、スマートフォンで天気予報を開いた。月曜の夜から火曜いっぱい、雨。火曜は大雨になるところもある、と書いてある。

「火曜の夜にやんで、朝には警報も通行止めもなくなってたら、水曜に。外の歩道からね」

「あたし水曜は遅番。朝なら行ける」

「わたしは九時に家を出れば間に合う」

「じゃあ六時半。アパートの前」

「遅れないでね」

「猫がいなければ」

階段の下で、羽田さんの笛が鳴った。子どもたちが一斉に、四角い空の下を走り出した。

二時半になると、朔は「着替えなきゃ」と言って坂の上へ戻っていった。透子は一人で、もう一度窪みの外周を歩いた。今度は歩数を数えなかった。

四 雨の翌朝

雨は予報どおり、月曜の夜に降りはじめた。

火曜日、透子は会社で、中学生向けの理科の参考書を校正していた。「流れる水のはたらき」の章だった。川の曲がり角の外側が削られ、内側に砂がたまる図。どの矢印も正しい向きを向いていて、透子は一つも赤字を入れなかった。窓の外では、昼過ぎから雨脚が強くなった。

帰りの電車の窓を、雨粒が斜めに流れていった。透子は、霞台の屋根や道路に降った水が坂を下り、あの四角い窪みへ集まっていくところを思い浮かべた。壁の下の四角い口から、滝のように。

雨は、夜の十時過ぎにやんだ。

水曜日の朝、六時二十五分。透子は町の情報で警報と周辺の通行規制が解除されたのを確かめてから、アパートの前の自動販売機で、温かい缶コーヒーを二本買った。十月の朝の空気はひんやりしていて、濡れたアスファルトの匂いがした。

六時三十八分、二階の扉が開いた。

「ごめん、寝癖が」

朔の前髪が、一束だけ空を向いていた。

「八分」

「猫じゃなかったから、許して」

「許すかどうかは、池を見てから決める」

透子が缶コーヒーを一本渡すと、朔は両手で包んで、あったかい、と言った。

今日は、透子が道を決めなかった。朔の歩くほうへついていく。朔は金木犀の角で一度だけ鼻を寄せ、メロンパンの店がまだシャッターを下ろしているのを残念がり、それから迷わず坂を下った。土曜日より、少しだけ迷わなかった。

坂の下が近づくと、空気の匂いが変わった。草の匂いと、土の匂いと、水の匂い。

フェンスの前に立って、透子は息をのんだ。

窪みの底が、端から端まで水に覆われていた。

壁の高さの半分より少し下まで、茶色がかった水が満ちている。土曜日に子どもたちが走っていた原っぱはどこにもなく、二つのゴールは上のほうだけを水面から出していた。風がないので、水面は静かだった。淡い朝の空が映り、その中を電線が何本も横切っていた。

階段の入口には鎖が渡され、「閉鎖中」の札が下がっていた。

「池だ」と朔が言った。

「池ね」と透子も言った。

向かいの階段の下、水に沈んだ段の浅いところに、白い鳥が一羽、細い脚で立っていた。首を縮めて、じっと水面を見ている。

「ほら、白い鳥」朔が声をひそめた。「去年と同じ子かな」

「わからない。でも、鴨じゃないわね」

「地図の鴨、はずれだったね」

「そこはたぶん、描いた人の趣味」

二人はフェンス越しに、しばらく黙って池を見ていた。缶コーヒーの温かさが、手のひらから少しずつ逃げていった。

雨上がりの朝、缶コーヒーを一本ずつ持ち、公共歩道の柵の外から雨水をためた調整池を眺める透子と朔。階段の入口は鎖で閉じられている。

透子は写真を何枚か撮った。それから手帳を出して、窪みの形と、水の届いている高さと、白い鳥の位置を簡単に描いた。描きながら、玄関の地図の楕円のことを考えた。八十メートルと四十四メートル。この町の、雨の翌朝の形。

犬を連れたおばあさんが、後ろを通りかかった。

「あら、今日は池ね」

おばあさんはそう言って、犬に引っぱられるまま坂を上っていった。

透子と朔は顔を見合わせた。

「今日は池、だって」

「ここに住んでる人には、ちゃんと呼び方があったのね」

透子は少し笑った。地図の青が急に、間違いではなく、誰かの「今日は池ね」を写したもののように思えてきた。

「夕方には引いてるかな」

「朔さんの去年の話だと、そうでしょう」

「あたし、帰りに見てくる。写真送るね」

その日の夕方六時過ぎ、透子のスマートフォンに朔から写真が届いた。水は窪みの片隅に寄って、大きな水たまりくらいになっていた。濡れて寝た芝が、街灯の光でぬらぬらと光っている。ゴールは脚まで全部見えていた。

――原っぱに戻りかけ。鳥はいなかった。

続けて、もう一通届いた。

――ちょうせいち、店長に言ったら知ってた。くやしい。

透子は会社からの帰り道で、一人で笑った。

翌週の土曜日の朝、二人は図書館の玄関ホールに立っていた。今度は朔が五分早く着いて、透子を待っていた。

「猫がいなかったの」

「それは理由?」

「理由だよ」

地図は先週と同じ場所に、同じように掛かっていた。青い楕円も、のんきな鴨も、そのままだった。けれど透子にはもう、それが誤植には見えなかった。右上の隅で小さく傾いている方位記号にも、先週よりずっと先に目が行った。

透子はベンチでご意見カードを一枚取って、書いた。

――玄関の地図の、図書館から北東へ約三百六十メートルの青い場所は、霞台東調整池(ふだんは多目的広場)です。大雨のあとには、水をためることがあります(十月の水曜日の朝に見ました)。凡例に一行あると、初めて見る人にもわかりやすいと思います。それと、北が少し斜めなことも、もう少し目立つと嬉しいです。

書き終えて、手帳から先週のカードを出した。「実在しないようです」。二枚を並べて眺めてから、古いほうをまた手帳に戻した。

レファレンスの机で、塩見さんは新しいカードを読み、写真を見せてもらって、目を丸くした。

「調整池……。あそこ、キッカーズのグラウンドですよね。わたし、池はないって言っちゃいました」

「塩見さんは正しかったです。わたしも最初は、ないと思ってました。ふだんは、ないので」

「でも、雨の次の日には、あるんですね」

塩見さんは、水から突き出たゴールの写真をしばらく眺めていた。

「あの地図、中学校の美術部が、役場の図面をもとに描いてくれたんです。青く塗ったのはたぶん図面のとおりで……鴨は、どうしてでしょうね。今度、顧問の先生に聞いてみます」

「雨の次の日に見た子が、いたのかもしれません」

朔が言った。塩見さんと透子が、同時に朔を見た。

「だって、鴨じゃなくても、何か鳥がいたら描きたくなるもん」

「それは、聞いてみないとわかりませんね」

塩見さんは笑って、カードを丁寧にクリアファイルに挟んだ。

「凡例のこと、役場に伝えてみます。シールを一枚貼るくらいなら、すぐにできるかもしれません。『大雨のときに雨水をためます。ふだんは広場です』って」

「今日は池ね、でも――」と言いかけて、透子はやめた。それはあのおばあさんの言葉で、地図の言葉ではない。地図には地図の言い方がある。

玄関を出ると、空はよく晴れていた。透子は鞄の中の定規に指先で触れて、それから手を離した。

「今日はどこ行く?」と透子が聞いた。

「決めない」と朔が言った。

「じゃあ、わたしは歩数を数えない」

「数えてもいいよ。たまに教えて」

朔は門の前で左右を見て、金木犀の匂いのするほうへ歩き出した。透子はそのあとに続きながら、どっちが北なのか、今日は確かめないことにした。どうせ朔が、体で知っている。

最後まで読んでいただき、ありがとうございました。

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