一 しおりは四ページ
午前七時五十八分、柳瀬駅の改札前に着くと、祖母はもう腕時計を見ていた。
「野々村ちはるさん。二分前」
「間に合ってるよね」
「遠足は、五分前行動です」
祖母の富子は、つばの広い帽子にからし色のウィンドブレーカーを着て、小さなリュックを背負っていた。首からひもで名札を下げている。白い厚紙に、マジックで「引率 野々村」。
「はい、これ」
渡されたのは、ホチキスで留めた紙の束だった。表紙には色鉛筆で湖と白い船が描かれ、その上に丸い字で「三ツ木湖 秋の遠足 しおり」とある。続いて名札がもう一枚出てきた。「二年 ちはる」。
「なんで二年」
「はじめて三ツ木に連れていったとき、あんた二年生だったでしょう」
「それ、二十一年前だよ」
「いいから、かけなさい。今日は先生と呼ぶように」
ちはるは二十九歳で、小さな会社で経理をしている。月末までに使わないと消える有給が一日残っていて、それを母に話したら、二日後に祖母から電話がかかってきた。
「火曜日、空けときなさい。遠足です」
説明はそれだけだった。
ちはるは名札を首にかけ、しおりをめくった。全部で四ページ。一枚目が表紙、二枚目が日程、三枚目が「もちもの」と「きまり」、四枚目は「メモ」と書いてあるだけの白紙だった。
日程は分刻みだった。
八時十二分 柳瀬発 普通 三ツ木行き
九時三十一分 三ツ木着 トイレ休けい(十分)
九時四十五分 駅前 町営バス 湖まわり線
十時二分 桟橋前
十時二十分 遊覧船みずすまし丸
十時五十分 見晴らし下 休けい(ベンチ)
十一時五分 見晴らし台へ(ゆっくり)
十一時三十分 お弁当
十三時十分 郷土資料館 見学
十四時四十分 お土産(駅の売店)
十四時四十八分 三ツ木発
十六時七分 柳瀬着 解散 家に帰るまでが遠足です
三ページ目は、こうだった。
もちもの 水とう、ハンカチ、ちり紙、雨具、おやつ(三百円まで)
※お弁当は先生が作ります
きまり
一、寄り道はしない
二、ふたりでならんで歩く
三、先生の言うことをきく
一番だけ、鉛筆で何度もなぞって太くしてあった。
「寄り道禁止だけ、太字なんだけど」
「大事だから」
「おやつ三百円って、まだそれやるの?」
「出しなさい。レシート」
ちはるは鞄の外ポケットから、コンビニのレシートを出した。駅前の店で、どちらの飴にするか五分迷った結果がそこに印字されている。チョコ菓子が百五十八円、塩あめが百四十円。
祖母は老眼鏡をかけ、レシートを人差し指で一行ずつなぞった。
「二百九十八円。よろしい」
「先生は?」
「干しいも。三百円ちょうど」
祖母は誇らしげに、リュックのポケットをぽんと叩いた。それから自分のしおりの四ページ目を開き、短い鉛筆で何か書いた。のぞき込むと、「ちはる」の横に横棒が一本引いてあった。
「なにそれ」
「おやつ選びで、遅刻しかけた。一回」
「遅刻してないよ」
「しかけた」
正の字の一画目だった。
八時十二分の普通列車は二両編成で、平日の朝なのに空いていた。祖母は迷わず、進行方向右側の向かい合わせの席に座った。
「湖が見えるのは右。帰りは左」
「よく覚えてるね」
「下見したもの。しおりを書く前に、時刻表で」
電車が動き出すと、ちはるはスマホを出して、届いていたメールをもう一度開いた。
――三ツ木ガラス舎 とんぼ玉体験 十三時三十分〜 二名様
――当日のキャンセルは、十二時までにお電話ください。
先週、祖母の電話で「三ツ木」と聞いたとき、町の名前で検索して見つけた工房だった。湖の色のガラス玉を、バーナーの火で自分で作れるらしい。午後には自由時間くらいあるだろうと思って、二人分予約した。
いま、そのしおりが膝の上にある。十三時十分から十四時三十分まで、郷土資料館の見学。
ちはるはメモアプリを開いた。「プランB:資料館を早めに切り上げる」「プランC:おばあちゃんが資料館にいるあいだに一人で行く」。書いてから、Cを消した。二名様で予約したのに、一人で行っても意味がない。
言うなら、早いほうがいい。それは分かっていた。
八時五十分ごろ、電車は花井という小さな駅に停まった。ホームの柵の向こうが一面のコスモス畑で、「花井町コスモスまつり 開催中」の黄色い旗が並んでいる。
祖母の顔が窓に寄った。
ドアが閉まり、電車が動き出しても、祖母の首は花畑のほうへ回ったままだった。ホームの端を過ぎ、花が線路脇の草に変わるまで、ゆっくり、ゆっくり回っていった。
「降りたかった?」
「まさか。寄り道禁止です」
「すごい見てたよね」
「車窓の見学です」
祖母は前を向き、帽子のつばを直した。ちはるはメモアプリに新しい行を足した。
――先生の寄り道(未遂) ①コスモス
二 見るだけは、寄り道か
九時三十一分、三ツ木駅に着いた。しおりのとおり、トイレ休憩は十分。
駅舎の中の売店に、「名物 湖まんじゅう」の幟が下がっていた。ガラスケースの中で、湖の形を模した平たいおまんじゅうが、薄い紙に一つずつ包まれて並んでいる。六個入り七百八十円。
祖母がケースの前で止まった。
一分、動かなかった。
「おじいちゃんのお土産は、帰り。十四時四十分」
ちはるに言ったのか、自分に言い聞かせたのか分からない声だった。
「今のは?」
「下見」
ちはるのメモに②が増えた。
駅前の広場では、白いテントが五つ六つ並んで、火曜市をやっていた。野菜、漬物、古着、それから一番端のテントで、黒い鉄鍋が石を転がしていた。焼き栗の甘い匂いが、風に乗って広場じゅうに流れてくる。
今度は、二人とも止まった。
ちはるが先に気づいて横を見ると、祖母も鍋を見ていた。二人の目が合った。
「九時四十五分」
祖母はちはるの袖を引いて、バス停へ歩き出した。歩きながら、片手でしおりを開いて、鉛筆で一本足した。
「今のは、先生もでしょ」
「あんたが先に止まった」
「同時だったよ」
祖母は聞こえないふりをした。ちはるは③と打ち込んだ。正の字の二画目と、未遂の三つ目。今日はまだ、二時間も経っていなかった。
町営バスの湖まわり線は、ちはるの記憶よりずっと小さかった。客は二人のほかに、大根を抱えたおじいさんが一人。祖母は運転席のすぐ後ろに座り、停留所を一つずつ、声に出さずに口だけで数えていた。
十時二分、桟橋前で降りた。
桟橋の切符売り場はまだ窓口が閉まっていて、十時十分開始と札が下がっていた。料金表を見ると、遊覧船みずすまし丸は片道、大人九百円、六十五歳以上七百円。
「年齢の分かるものをお見せください、だって」
「持ってきてます。しおりの持ち物には書かなかったけど」
祖母は、それが自慢らしかった。
窓口が開くのを待つあいだ、祖母は桟橋の手すりのほうへ歩いていった。
手すりの先の浅瀬に、白いアヒルの形をした足こぎボートが十艘、ロープでつながれて並んでいた。どれも頭に黄色い冠をかぶっていて、一艘だけ、冠が少し右に傾いている。小屋の看板には「貸しボート 三十分 一艘千円」。
祖母は手すりに両手をかけて、アヒルを見ていた。

コスモスより長く、まんじゅうより長く。
「乗りたいの?」
「あれは、こぐのが大変なの。膝にくる」
祖母は、さらっとそう言った。
「だから、見るだけ」
「見るだけは、寄り道じゃないの?」
祖母は手すりから手を離して、ちはるのほうを向いた。先生の顔になっていた。
「いいですか。足が止まっても、予定が止まらなければ、寄り道じゃない」
「じゃあ、予定を止めない寄り道ならいいってこと?」
「屁理屈」
窓口が開いた。祖母は財布から七百円を出し、ちはるは九百円を出した。切符は薄い水色で、船の絵が刷ってあった。
十時二十分、みずすまし丸は小さく汽笛を鳴らして桟橋を離れた。四十人乗りくらいの船に、客は二人を入れて七人。祖母は船室の窓際に座り、ちはるもその隣に座った。
湖は、思ったより広かった。対岸の山の斜面が赤と黄色に色づいていて、その一番上に、小さな屋根が見える。あれが見晴らし台らしい。
「ねえ、おばあちゃん」
「先生」
「先生。なんでそんなに寄り道禁止なの」
祖母は窓の外を見たまま、少し黙った。船のエンジンの音だけが続いた。
「あんた、夏祭りのこと覚えてる? ここの」
「金魚すくい」
「それ」
祖母は膝の上でしおりを閉じた。
「二年生の夏。三ツ木湖の夏祭りに、おばあちゃんが連れてきたの。あんたが金魚すくいで一匹もとれなくて泣いたから、もう一回、もう一回って、三回やらせた。三回目でやっと一匹」
「ポンちゃん」
「そう、ポン。それで気がついたら、最終のバスが出ていた。十九時四十分」
「えっ」
「駅までタクシー。六千八百円」
祖母は、その金額だけ妙にはっきり言った。
「柳瀬に着いたのは十時過ぎ。恵子が駅のベンチで待ってて、おばあちゃん、改札で叱られたの。自分の娘に。お母さん、子ども連れて寄り道ばっかりして、って」
ちはるは思い出そうとしてみた。金魚の袋の重さと、水の中で光る赤は覚えている。タクシーも、改札で母が怒っていたことも、何も覚えていなかった。
「タクシー乗ったの、全然覚えてない」
「あんた寝てたもの。金魚の袋を抱えて」
祖母は少しだけ笑った。
「ポンは長生きしたね」
「九年」
「それで、あれから、おばあちゃんの遠足は寄り道禁止」
叱られた話のはずなのに、祖母の声は悔しそうだった。叱られたことが悔しいのか、予定を守れなかったことが悔しいのか、ちはるには分からなかった。
船が湖の真ん中に出ると、ちはるはデッキに出て写真を撮った。水面に山が逆さまに映って、その中を船の白い波がまっすぐ切っていく。何枚撮っても足りない気がして、祖母が船室の窓を叩いて呼んでいるのに、しばらく気づかなかった。
戻ると、祖母はしおりの四ページ目を開いていた。
「デッキに出たまま、呼んでも戻らなかった」
正の字の三画目だった。
三 見晴らし台、十二時まで
十時五十分、見晴らし下の桟橋に着いた。
しおりのとおり、ベンチで十五分休憩する。祖母は水筒のお茶を一口飲み、ちはるにもカップを差し出した。ほうじ茶だった。
十一時五分、見晴らし台へ向かって歩き出した。
道は舗装されたゆるい坂で、両側にもみじが植わっていた。最初の五分、祖母はちはるより先を歩いた。次の五分で、並んだ。その次の五分で、祖母の歩幅が半分になった。
十一時二十分ごろ、坂の途中に小さな東屋があった。しおりには載っていない東屋だった。
祖母は何も言わずに東屋に入り、ベンチに座った。
「寄り道?」
「休憩は、寄り道じゃない」
祖母は右の膝を手のひらでゆっくりさすった。
「大丈夫?」
「大丈夫。坂が、しおりを書いたときより長いだけ」
「坂は伸びないよ」
「地図で見ると短いの」
七分座って、祖母はまた立った。ちはるは腕を出したが、祖母は「まだいい」と言って一人で歩き出した。
見晴らし台に着いたのは、十一時四十二分だった。予定より十二分遅れた。
丘のてっぺんは芝生の広場になっていて、さっき船で渡ってきた湖が一枚の鏡のように見下ろせた。向こう岸の桟橋も、小さく見える。祖母はもみじの下のベンチを選び、リュックから保冷袋を出して、保冷剤と二段の弁当箱を取り出した。
おにぎりが四つ、アルミホイルに包んである。
「鮭が二つ、梅が二つ」
下の段には、黄色い卵焼きとウインナー。卵焼きは甘い味だった。ちはるが子どものころから変わらない、少し焦げ目のある甘さだった。
「みかんは」
祖母はリュックから、みかんを二つ出した。
「みかんは、おやつに入りません」
ちはるは鮭のおにぎりをかじりながら、スマホの時計を見た。十一時四十八分。
また見た。十一時五十分。
「さっきから、時計ばっかり見てる」
祖母が梅のおにぎりを持ったまま言った。
「先生、遅れてるの気にしてるんでしょう。大丈夫、お弁当は十二時二十分まで。そこは削らない」
「そうじゃなくて」
ちはるは、包みのアルミホイルごとおにぎりを膝に置いた。
十一時五十二分だった。
「午後、予約してるの。ガラス工房。とんぼ玉を作る体験。十三時半から、二人分」
画面を祖母のほうに向けた。祖母は老眼鏡をかけ直して、メールを読んだ。読み終わってから、しおりの日程のページを開いて、その横に並べた。
「資料館は?」
「ガラス舎、資料館の隣なの。駅から歩いて六分」
「隣でも、見学は見学です」
祖母はしおりを閉じた。
「予約したなら、どうして先に言わないの」
「言ったら、寄り道禁止って言うでしょ」
「言う」
即答だった。
「十二時までに電話しないと、キャンセル料がかかるんだって」
「あと八分じゃない」
「だから、いま言ってるの」
祖母は鼻から長く息を吐いた。ちはるは引かなかった。スマホのメモを開いて、祖母の前に突き出した。
「これ見て。先生の寄り道、今日の分」
①コスモス ②湖まんじゅう ③焼き栗 ④アヒルボート
祖母は黙って読んだ。それから自分のしおりの四ページ目を開いて、ちはるの前に突き出した。「ちはる」の横に、書きかけの「正」の三画が残っている。
「あんたは三回」
「先生は四回」
「先生のは未遂でしょう」
「わたしのも未遂だよ。焼き栗、買ってないし」
二人はしばらく、互いの記録をにらみ合った。広場の端で、鳩が一羽、首を傾げてこちらを見ていた。
十一時五十五分。
祖母が、ぽつりと言った。
「資料館はね、映像室の椅子がいいの」
「椅子?」
「ふかふかで、背もたれが高いの。十五分の映画を、何回でも続けて見ていい。誰も何も言わない。八十分、座っていられる」
ちはるは、しおりの日程を見直した。十三時十分から十四時三十分。見学、と書いてある。
「……休憩だったの、あれ」
「見学って書いておけば、休んでるのが分からないでしょう」
「誰に?」
「あんたに。恵子に。おじいちゃんに」
祖母は膝の上で、しおりの角をそろえた。
「午前中に船と坂でしょう。午後はもう、座っていたいの。帰りの電車で寝てしまわないように」
ちはるは、今朝からのしおりを思い出した。ベンチで十五分。トイレ休憩十分。乗り物に乗っている時間が、きっちりと間に挟まっている。寄り道禁止の一日は、祖母が自分の足と相談して組んだ一日だった。
「ガラスもね、座ってするんだよ」
「え」
「バーナーの前に椅子があるって、サイトに書いてあった。四十五分。ずっと座ってる」
祖母は、黙った。
十一時五十七分。
祖母はしおりの四ページ目、ちはるの正の字の下の余白に、鉛筆を立てた。
「きまりを足します」
そして、一画ずつ確かめるように書いた。
寄り道のきまり
一、座ってできること
二、ふたりとも「いいね」と言うこと
三、十四時四十八分の電車は動かさない
「三番はなんで?」
「暗くなる前に、柳瀬の坂を上がりたいの。この季節は、一本遅らせたらもう暗い」
ちはるは三つを読んで、言った。
「いいね」
祖母は少し間を置いてから、小さな声で言った。
「……いいね」
十一時五十八分、ちはるはガラス舎に電話した。
「本日十三時半の野々村です。予定どおり、二名で伺います」
電話を切ると、祖母は立ち上がって、広場の端のほうを見ていた。
そこに、望遠鏡が二台あった。一台は大人が立って覗く高さで、もう一台はそれより低く、前に石のベンチが据えてある。座って覗けるようになっているのだった。「百円 二分」。
祖母の手が、財布のほうへ動きかけて、止まった。
「先生。あれ、座ってできるよ」
「……いいね、と言いなさい」
「いいね」
「いいね」
祖母は自分の財布から百円玉を出し、ベンチに座って望遠鏡に入れた。かちゃん、と音がして、レンズの蓋が開いた。
祖母はしばらく、黙って覗いていた。
「アヒルがいる」
「桟橋の?」
「冠が曲がってるのが一艘いる。右に」
それはちはるも見ていた。祖母が二分間ずっと何を見ていたのかは、聞かなかった。
ちはるはメモに⑤を書き足して、その横に「(許可済み)」と付けた。
十二時二十分、二人は坂を下り始めた。
最初の二歩、祖母は一人で歩いた。三歩目で、ちはるの腕につかまった。
四 座ってできる寄り道
十二時四十五分、見晴らし下のバス停から湖まわり線に乗り、十三時五分に三ツ木駅前で降りた。
駅前の火曜市はもう片付けが始まっていて、焼き栗の鉄鍋は火を落としていた。祖母は一瞬だけそちらを見て、何も言わなかった。
ガラス舎まで、祖母の足で八分かかった。古い商店を直した細長い建物で、隣の白い二階建てが三ツ木町郷土資料館だった。
まだ十三時十三分だった。ちはるは予約メールをもう一度開いた。四十五分の下に、小さく「冷却時間別途」とある。そこを読まずに予約したのだった。郵送の案内もある。あとで聞こうと思い、スマホをしまった。
「先生、十五分ある」
「資料館のロビーに、ソファがあるの」
祖母は資料館の自動ドアを抜けて、ロビーの茶色いソファに座った。受付の人が「映像室は十三時半からの回です」と声をかけてくれたので、祖母は「今日は、ロビーで」と答えた。
それから目を閉じた。眠ってはいない。ちはるが隣でスマホを触ると、そのたびに「いま、何分」と聞いた。
十三時二十七分、二人は隣の建物へ移った。
ガラス舎の中は、外より暖かかった。作業台が四つ、それぞれにバーナーと、背もたれのある丸椅子が置いてある。奥から、焦げ跡だらけのエプロンをした人が出てきた。
「宇佐見です。今日はよろしくお願いします。最初に温度の話をします」
宇佐見は、あいさつより先に温度の話をした。バーナーの炎の、どこが一番熱いか。ガラス棒は先から溶かすこと。溶けたガラスを巻き取る芯棒は、ずっと同じ速さで回し続けること。
「止めると、下に垂れます。焦っても垂れます。ゆっくりすぎても垂れます」
「全部垂れるんですね」
ちはるが言うと、宇佐見は真顔でうなずいた。
「ガラスは、下に行きたいんです」
宇佐見に言われて、帽子と首の名札を鞄にしまい、ちはるは髪も後ろで結んだ。保護眼鏡をかけ、丸椅子に座った。祖母は椅子の背もたれを手で確かめてから座り、満足そうに小さくうなずいた。
色見本の箱から、ガラス棒を一本ずつ選ぶ。ちはるは迷わず、湖の青を取った。そこに白の細い棒を合わせて、水玉を入れるつもりだった。
祖母は、赤とも橙ともつかない色の棒を取った。
「その色?」
「金魚の色」
祖母は、それ以上は言わなかった。
バーナーに火が入ると、ガラス棒の先がゆっくりと赤く光り、蜂蜜のように柔らかくなった。宇佐見の手が一度だけ祖母の手に添えられ、芯棒の回し方を見せた。
「同じ速さで。はい、そのまま」
祖母は真剣だった。口をきゅっと結んで、芯棒を回した。回し続けた。
でも、少し、ゆっくりすぎた。
赤橙のガラスは芯棒の下側へとろりと流れて、片方にふくらみ、片方に尾を引いた。まん丸にはならなかった。
「あっ」
「まあ、こういう形の玉もあります」
宇佐見は慰めるふうでもなく、事実として言った。
祖母はバーナーの火の外に出したガラスを、首を傾けて眺めた。片側がふくらんで、反対側がひらりと細くなっている。
「これは、寄り道した形」
ちはるは笑いそうになって、自分の芯棒を回す手が止まりかけた。宇佐見がすかさず「止めない」と言った。
ちはるの玉は、丸くはできた。ただ、白い水玉を入れるのが楽しくなって、一つ、もう一つ、と足しているうちに、青より白のほうが多くなってしまった。
「湖じゃなくて、雪」
祖母が言った。
「水玉です」
「水玉が九つ。数えた」

「数えないで」
十四時十五分、二つのガラス玉は、灰色の粉のような断熱材の中へ埋められた。
「ゆっくり冷まさないと割れます。この大きさなら、少なくとも四十分。取り出してからも、私が確かめてお渡しします」
宇佐見が壁の時計を見た。
「早くても十四時五十五分ですね」
祖母も時計を見た。ちはるも見た。メールの小さな一行は、四十分だったのか。
十四時四十八分の電車には、間に合わない。
祖母の目が、断熱材の箱に止まった。一分、二分。ちはるには、祖母が何を考えているか分かった。次の電車は十五時四十八分。それで帰れば、玉を手のひらに載せてから帰れる。
祖母がちはるのほうを向いて、口を開きかけた。
ちはるは先に、しおりの四ページ目を開いて見せた。三番の行を、指で押さえた。
祖母は口を閉じた。しばらくして、ふう、と息を吐いた。
「……先生が決めた、きまりだからね」
「郵送もできますよ」
宇佐見が言った。
「送料は三百七十円です。四、五日で着きます」
「お願いします。送り先は、わたしの家で」
祖母は財布から三百七十円を出した。
「先生の経費」
ちはるが体験料を払おうとすると、祖母が財布を開いたまま手を伸ばした。
「わたしの分は」
「これは、わたしの予定だから。一人千八百円、二人で三千六百円。二年生の自腹です」
「二年生は、そんな大金持ってません」
「二十一年分、お年玉を貯めたの」
祖母は財布を閉じた。
外に出ると、十四時十八分だった。祖母は迷わず、隣の資料館の自動ドアへ向かった。
「十二分ある」
ロビーのソファに座るかと思ったら、祖母は壁のパネルの前で足を止めた。「三ツ木湖 むかしの夏まつり」という古い写真の展示だった。浴衣の人、提灯、ずらりと並んだ屋台。その端に、「金魚すくい」と書かれた水色の幕が写っていた。
年代を見ると、ずっと昔の写真だった。あの夏のものではない。
それでも、祖母はしばらくその前に立っていた。立ったまま、口の端がゆるんでいた。
「座らなくていいの」
「これは、座らなくていいの」
ちはるはメモに何か書こうとして、やめた。
十四時三十分、資料館を出た。駅まで、祖母の足で八分。十四時三十八分に駅舎へ入り、祖母は今度は迷わずに売店の前に立った。
「湖まんじゅう、六個入りを一つ」
七百八十円。しおりのとおりのお土産だった。
五 家に帰るまでが
十四時四十八分の普通列車は、朝より少し混んでいた。それでも、進行方向左側の向かい合わせの席が空いていた。
「帰りは左」
「湖が見えるから」
電車が動き出すと、祖母はようやくリュックから干し芋の袋を出した。ちはるもチョコ菓子の箱を開けた。
祖母が、干し芋を一切れつまんで差し出した。
「交換」
「おやつの交換は、禁止じゃないの?」
「交換禁止とは、どこにも書いてない」
ちはるはしおりの三ページ目を確かめた。書いてなかった。チョコを一粒、祖母の手のひらに載せた。
干し芋は、噛むほど甘かった。
十五時半ごろ、電車は花井に停まった。午後の光が低くなって、コスモス畑はピンクと白が朝よりずっと淡く、透けるように見えた。
祖母の顔が窓に寄った。朝と同じように、首がゆっくり回った。
ちはるはメモに⑥と打った。
「今のは、寄り道じゃなくて、来年の下見」
祖母は前を向いたまま言った。
それからしばらくして、祖母は窓に頭をもたれさせ、目を閉じた。今度は本当に眠っていた。膝の上のしおりは、四ページ目が開いたままだった。
ちはるは祖母の鉛筆を借りて、「寄り道のきまり」の下に、小さく書き足した。
――本日の寄り道 望遠鏡、ガラス、資料館の写真。全部、いいね。
十六時七分、柳瀬駅に着いた。西の空が橙色に染まっていて、駅前の街灯がひとつ、点いたところだった。
改札を出ると、祖母はしおりを胸の前で閉じた。
「解散」
「家まで送るよ」
「家に帰るまでが遠足です」
「だから、送るんだよ」
祖母は少し考えてから、名札を外さないまま歩き出した。
柳瀬の坂は、三ツ木の坂より急だった。祖母は最初からちはるの腕につかまり、ちはるも何も言わずに、祖母の歩幅に合わせた。坂の上の家に着いたのは、十六時半を少し過ぎたころだった。まだ、空は明るかった。
玄関の戸が内側から開いて、祖父の源三が顔を出した。
「おかえり。まんじゅうは」
祖母が紙袋を渡すと、祖父はその場で箱を開け、指で数えた。
「六つ。よし」
「おじいちゃん、今日、先生ね、五回も寄り道したそうだったんだよ」
「六回でしょう。花井の帰りを入れたら」
祖母が自分で訂正した。祖父は二人を見比べて、何のことか分からないまま、まんじゅうを一つ取った。
四日後の土曜日、ちはるは祖母の家に呼ばれた。
居間のテーブルに、小さな箱が置いてあった。差出人は三ツ木ガラス舎。祖母は、ちはるが来るまで開けずに待っていたらしい。
蓋を開けると、白い綿の中に、ガラス玉が二つ並んでいた。
湖の青に、白い水玉が九つ。
その横に、赤橙の、片側がふくらんで反対側がひらりと細い玉。
二つを並べて、窓の光にかざすと、青い玉の向こうに赤い玉が透けて重なった。
「金魚が、湖にいる」
ちはるが言うと、祖母は少し得意そうな顔をした。
「寄り道した形だから、泳いでるように見えるの」
祖母は青い玉を手に取った。
「これ、おばあちゃんがもらってもいい?」
「先生、でしょ」
「今日は遠足じゃないから、おばあちゃん」
「じゃあ、わたしは金魚のほう」
二人は玉を交換した。
それから祖母は、テーブルの下から、ホチキスで留めた紙の束を出してきた。表紙には色鉛筆で、桜の木と、白いアヒルのボートが描いてあった。
「三ツ木湖 春の遠足 しおり」
「もう?」
「下見は済んでます」
めくると、ページが五枚あった。表紙、日程、もちものときまり、メモ。その間に、新しいページが一枚挟まっていた。
寄り道のきまり
一、座ってできること
二、ふたりとも「いいね」と言うこと
三、帰りの電車は動かさない
その下に、もう一行。
寄り道候補 アヒルボート(三十分) こぐ人:二年 ちはる
「わたしがこぐの」
「先生は座って、かじを取ります。座ってできる」
「冠が曲がってるやつ?」
「それは当日、空いてたら」
ちはるは、しおりの「二年」の字を指でなぞった。
「そろそろ、三年に上げてよ」
祖母は老眼鏡の上から、ちはるを見た。
「寄り道の数で、留年です」
ちはるは笑って、言った。
「いいね」
祖母も、今度はすぐに言った。
「いいね」


