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ファンタジー・冒険

風船屋は、地下二階

空へ逃げていく町で、地べたに座る風船を探す。

読了目安
23分
長さ
短編
#わくわく#冒険#不思議な町
風船屋は、地下二階のイメージ

あらすじ

砂袋さえ軽くなり、焼きたてのパンが浮かぶ上り町。風に流されて降りた気球郵便のハルネは、明日の昼までに谷向こうへ手紙を届けたい。重しを探して地下二階の風船屋へ行くが、頑固な職人は気球乗りには貸さないという。重い風船を高い所から落としてほしくない職人と、飛びたい配達人。それぞれの決まりを抱えたまま始まる小さな冒険。

読みやすく、好きなところから。

目次・5章

一 砂袋が、枕より軽い

砂袋を持ち上げたとたん、ハルネは後ろへよろけた。
 中身は十キロの川砂だ。気球郵便の仕事について九年、毎朝のように積んでは下ろしてきた重さだから、腰の入れ方は体が覚えている。その覚えたとおりに力をこめたのに、袋は枕ほどの手応えしかなく、勢いあまった両腕が空へ跳ね上がった。
「だから言ったろうに」
 広場番のマツさんが、番小屋の窓から首を出した。吐いた白い息が、ためらいもなく真上へのぼっていく。この町では、息まで上へ行く。
「上り町の上じゃ、物は重さの十のうち九を空に預けるんだよ。砂でも鉄でも、地べたに残るのは一だけ」
「聞きました。昨日の夕方、体で」
 ハルネは軽すぎる砂袋を籠の縁へ戻した。
 石畳の広場の真ん中で、彼女の気球ツグミ号が、杭に結んだ四本の綱を張りつめさせている。火は入れていない。冷えたままの布が勝手にふくらみ、勝手に上へ行こうとしている。散歩の途中で座りこんだ犬が、逆に飼い主を空へ引っぱろうとしているみたいだった。
 風石(かざいし)、と町の人は呼ぶ。この台地の下に一枚岩のように広がっている石で、自分から物を遠ざける。地面より上にある物は上へ押し、下にある物は下へ押す。石や砂の重さが十分の一になるのとは別に、紙や布のように薄くて広い物は、面でも強く押される。
 だから気球の布は、火がなくても浮く。籠に積んだ砂袋は、重しの役をほとんど果たさない。
 昨日の夕方、ミナギへ向かう途中で強い南風に流され、ハルネはこの台地の真上へ入りこんでしまった。とたんに籠ごと突き上げられ、布の天辺の弁を開けて空気を逃がし、ほとんど落ちるようにして、どうにかこの広場へ降りたのだった。
 ハルネは籠から吊り秤を出し、四本のうち一本の綱に掛けて、残りの三本は手の届くところに残し、力が掛からないところまでゆるめた。籠には自分と郵便鞄が乗っている。針がふるえて、二十六キロのあたりで止まった。
「何を量ってるんだい」
「どれだけ足りないか」
 この台地の上空には、渦を巻く風がいる。高く上がれば巻きこまれて、どこへ運ばれるかわからない。東の門まで一・二キロ、屋根より少し上、十二メートルほどを這うように飛んで、台地の縁を越えたい。そのためには、この町でも重さを失わない何かに、二十六キロぶん、籠を下へ引いてもらう必要がある。
 郵便鞄の留め金が、かちりと鳴った。中の手紙が蓋を押し上げようとしている。ハルネは鞄を膝で押さえつけ、革紐をもう一巻きした。
「明日の昼までに、ミナギの郵便局。手紙が百十四通と、小包が三つ」
「明日の昼? 寝言かい」
「仕事です」
 ミナギは東の谷の向こうだ。空を行けば三時間、谷を回って歩けば三日かかる。そして、籠と布を担いで三日歩く気球乗りは、もう気球乗りではない。
 マツさんが窓から皿を差し出した。丸いパンがひとつ、木の洗濯ばさみで皿の縁に留めてある。
「朝飯。昇りパンだよ。焼きたてほど上へ行くから、はさみを外したら、すぐかじりな」
 言われたとおりにはさみを外すと、パンは皿からふわりと浮いた。ハルネは慌てて端に噛みついた。甘くて、ほとんど空気でできているような軽さで、三口で消えた。おいしかったが、腹にたまった気がまるでしない。
「重い物が欲しいなら、下へ行くことだね」
 マツさんは、広場の隅の石段を顎で示した。地面にぽっかり口を開けて、下へ下へと続いている。
「上り町は、上が市場で、下が職人町。下へ行くほど物は重くなる。地下二階に、風船屋がある」
「風船?」
「重い風船さ。沈め屋っていう。……ただ、あそこの親父さんは、気球乗りには売らないよ」
 ハルネは、今朝借りたばかりの重り靴の紐を締め直した。鉛を詰めた木の箱みたいな靴で、一日二十リン。これを履かないと、歩くたびに体が浮いて、ひと蹴りで三歩ぶん飛んでしまう。
「売ってもらいます」
「みんなそう言って降りていくんだ」

二 地下一階では、パンが座る

石段の入り口には鉄の格子戸があって、札が下がっていた。
〈開門 朝四時 閉門 夜九時 鍵はパン屋「おもし」にて〉
 十段ほど降りると、靴が急に重くなった。いや、靴だけではない。膝も、肩の郵便鞄も、本来の重さをいっぺんに思い出したようだった。風石の板の真横を通っているのだ。そこに棚があって、重り靴がずらりと並んでいた。
〈重り靴は、ここで脱ぐこと。下で履くと、足が抜けなくなります〉
 ハルネは靴を脱ぎ、自分の革の長靴に履き替えた。さらに降りる。一歩ごとに、背中に誰かがゆっくり寄りかかってくるような感じが増していった。
 地下一階は、天井の低い通りだった。ランプが等間隔に灯り、店が並んでいる。鍛冶屋、漬物石屋、文鎮屋、鍋屋。上の市場が風船と凧と浮き提灯ばかりだったのと、まるで逆だ。どの看板も、鎖でまっすぐ下に垂れていた。
 その中に、焦げた小麦の匂いのする店があった。「おもし」と彫った看板の下で、十四、五歳くらいの少年が、黒っぽい平たいパンを網棚に並べている。
「いらっしゃい。沈みパン、焼けたとこ」
「沈みパン?」
「上へ持って上がっても、皿から逃げないパン。一個十五リン」
 ハルネは二つ買った。ひとつはその場でちぎった。ずっしりと手に重く、皮は硬く、中は湿って酸っぱく、くるみがごろごろ入っている。噛むたびに顎が働く。さっきの昇りパン三口ぶんが、この一口で追い越された気がした。
「おいしい」
「だろ。上の人はみんな昇りパンばっかり食べて、昼前に腹が減ったって言うんだ」
 少年はトビと名乗った。叔母さんの店を手伝っていて、朝四時に石段の格子戸を開けるのも彼の仕事だという。
 ハルネの飛行服と、肩に掛けた郵便鞄を見て、トビの目がきらりとした。
「お姉さん、広場の気球の人?」
「そう。沈め屋さんに行くところ」
 とたんに、トビは顔をしかめた。
「ソコベさんか。気球の人には売らないよ」
「どうして」
「ずっと前に、気球乗りが沈め風船を六つ買って、谷の上で捨てたんだって。かかしの頭に当たって、キャベツ畑がめちゃくちゃになって、ソコベさんが弁償したんだ」
「見たの?」
「生まれる前の話。でもソコベさん、毎年その話をするから、見たのと同じ」
 ハルネは残りのパンを鞄にしまった。
「ねえ、もし明日出られたら、籠の中、見せてくれる?」とトビが言った。
「出られたらね」

三 沈め屋の、二つの決まり

地下二階へ降りる階段は、地下一階のときよりさらに長かった。
 最後の段を降りたとき、ハルネは自分の体が二人分になったように感じた。腕を上げるのも、水の中で動かすようにゆっくりになる。郵便鞄の革紐が肩に食いこんだ。
 通りの突き当たりに、灯りのついた店がひとつあった。
〈沈め屋〉
 戸を開けると、床いっぱいに風船が座っていた。
 そう、座っていた。灰青、鉛色、苔色、煉瓦色。西瓜くらいのもの、林檎くらいのもの。どれも地べたにぺたりと腰を落ち着け、短い紐を上へ立てている。紐の先は、ほんの少しだけ持ち上がって、また垂れていた。いくつかの風船には、色の違う布のつぎあてがしてあった。
 奥の作業台で、背の低い老人が、大きな足踏みふいごに片足をかけていた。分厚い眼鏡を額に押し上げ、ふいごの管を風船の口に差しこみ、何かを数えている。
「……十八、十九、二十」
 ふいごを止め、口を紐で縛り、風船を床に置く。それが、ずん、と音を立てて座った。
「沈め屋さん」
「ソコベだ。何だ」
「沈め風船を、いくつか。上の広場で、気球の重しにしたいんです」
「帰んな」
 老人は顔も上げずに次の袋を取った。
 ハルネは壁を見た。黄ばんだ紙が二枚、釘で留めてある。
〈一、売るのも貸すのも、買う人が自分の手で一度に持って上がれる数だけ〉
〈一、うちの風船を、高い所から落とすな〉
「重しは、いざとなったら捨てるもんだろう」とソコベは言った。「砂袋みたいに」
 ハルネは嘘をつこうかと一瞬考え、やめた。気球乗りの決まりは、空の上での命綱だった。
「はい。空で捨てるための重しは、借りません。捨てられない物を載せるなら、そのほかに砂を残す。それが私の決まりです」
「うちの決まりは、捨てるな、だ」
 ソコベはふいごを踏み始めた。
「台地の外へ出ると、沈み気は半日で抜ける。ただのしぼんだ袋になって、どこかの畑に落ちてる。拾いに行けもしない。……ここで作った物は、ここへ戻ってくる。戻ってくるから、空気を詰め直して、次の人に貸せる。そこの苔色は三十一年目だ」
 床の苔色の風船には、つぎあてが四つあった。
「戻ってこない物は作らん」
「戻します。必ず」
「空で困ったら捨てるんだろ」
 ハルネは黙った。砂なら捨てる。だから、この風船を砂の代わりに積むわけにはいかない。
 代わりに、一度に持って上がれる数、の決まりのほうを訊いた。ソコベは踏みながら答えた。
「階段で手を離したら、転がり落ちる。前に子どもが一人、すねを割った。持てない数を持たせて、うちの子に人を傷つけさせるわけにいかん」
「大きいのは、ひとつで何キロですか」
「上の町で、八キロ下へ引く。ここでも、どこでも、台地の中なら同じだ。小さいのが四キロ」
 二十六キロ。大きいのを三つでは二十四キロで、わずかに足りない。四つなら三十二キロで、籠が地べたを引きずる。そもそも手は二本しかない。
「二つなら、貸してやらんでもない。上まで持って上がれたらな」とソコベは言った。「足りないなら、足りないまま帰んな」
「持って上がってみます」
 意地だった。ハルネは大きいのを二つ、左右の手に一つずつ下げた。灰青と鉛色。紐が指の付け根に食いこみ、腕がまっすぐ下へ伸ばされた。水を満たした桶を二つ下げているようだった。
 ソコベはふいごから足を下ろし、黙って後ろについてきた。「客を見てるんじゃない。うちの子を見てるんだ」と、聞かれてもいないのに言った。
 階段には手すりがあるのに、掴めなかった。両手がふさがっているからだ。ハルネは一段ずつ、膝で体を押し上げた。風船が段の角にこつんと当たる。上から漬物樽を背負った男が降りてきて、ハルネは壁に背中をつけ、両腕を前に引き寄せてやり過ごした。男は「重そうだねえ」と笑った。樽の重さのせいか、笑い声までゆっくりしていた。
 踊り場の手前で、右手の紐がずるりと滑った。

鉛色の風船が段に落ちた。ハルネは息を呑んだ——が、風船は転がらなかった。段の上にぺたりと座っただけだった。紐はまだ指に引っかかっている。そして右手が、急に軽くなった。

地下の石段で、左手に灰青の重い風船を下げ、右手の鉛色の風船を段に座らせて驚くハルネ。ソコベが後ろで見守る。

ハルネは、段に座った風船と、自分の指とを見比べた。
 左手の灰青も、一段上にそっと下ろしてみた。腕が楽になる。紐を少し持ち上げると、風船が段から浮いて、その分だけ重さが戻ってくる。下ろすと、消える。
「何をしてる」とソコベが二段下で言った。「遊ぶな」
「ソコベさん」ハルネは振り返った。「誘導索って、ご存じですか」

踊り場に風船を二つ座らせ、ハルネは埃の積もった床に指で絵を描いた。籠、そこから垂れる長い綱、綱に並んだ丸。
「一本の綱に、小さいのを間をあけて結んでいくんです。先は地面を引きずる。籠が高く上がると、地面から浮く風船が増えて、重くなる。低くなると、地面に座る風船が増えて、軽くなる。勝手に釣り合うところで、籠が止まる。訓練の教本に、誘導索として載っていた方法です。砂袋六つは、そのまま別に残します」
 ソコベは眼鏡を鼻へ下ろして、床の絵をにらんだ。
「先は、いつも地べたについてるのか」
「ついていなきゃ、意味がないんです。全部浮いてしまうほど上がったら、それは私の操縦の失敗です」
「捨てるときは」
「籠の側で綱をほどきます。でも綱の先はずっと地面の上。落ちるのは、籠の真下の数メートル分だけ」
「数メートルでも、落ちる」
「なら、ほどくのは籠が地面まで降りたときだけにします。東の門で。下で誰かが受け取ってくれれば、一つも落ちません」
「誰かってのは」
 ハルネはソコベを見た。ソコベは嫌な顔をした。
「わしに上へ行けってのか。上は胃が浮く。三年行ってない」
「それに」とハルネは続けた。「数をごまかすつもりはありません。十二なら十二です。でも、綱の端を自分で握って、一度に上まで運べます。後ろの風船は段に座らせたまま。引くのは、先の二つか三つ分だけ。途中で離しません」
「屁理屈だ」
「はい」
 ソコベは鉛色の風船を拾い上げ、灰青も拾い、両手に下げて黙って階段を降りていった。
 ハルネは踊り場に一人残された。腕がまだ震えていた。
 しばらくして、下から声がした。
「小さいのを十二。綱は麻で二十メートル。まず、あんた一人で運べるところを見せろ。わしは後ろで見張る。結び目は、わしがやる」
「籠の側と輪っかは、私が結びます」
「わしの結びが信用できんのか」
「私の籠です」
 下から、ふん、と鼻を鳴らす音がした。

四 十二の小さな重さ

沈め屋の床には、丸い蓋のついた穴があった。ソコベが蓋をずらすと、ひやりとした空気が足首にまとわりついた。
「沈み井戸だ。台地でいちばん重い空気がたまってる。これをふいごで吸って、袋に詰める」
 小さな沈め風船は、ひとつ詰めるのにふいごを三百回踏む。二十分かかる。十二個で四時間。
「踏め。あんたの足のほうが若い」
 ハルネは踏んだ。地下二階の重さの中では、ふいごの板は石の扉のようだった。百回で太ももが熱くなり、二百回で数を数える声がかすれた。ソコベは横で、ふくらんでいく袋の首を指でつまみ、張り具合を見ている。
「二百九十八、二百九十九、三百」
「止め」
 ソコベが口を縛る。小さな風船が、ずん、と床に座る。
 一つ目は灰青、二つ目は苔色。ソコベは棚から、つぎあてのある古い袋ばかり選んで出してきた。
「新しいのは使わないんですか」
「古いのは、どこまで伸びるかわかってる。新しいのは、わからん」
 十二個目は煉瓦色で、つぎあてが三つある袋だった。
「これは何年目ですか」
「二十二年。上の洗濯屋が、物干しの重しに毎年借りていく。……返してもらわにゃ困る」
 代金は、ハルネが自分で数えた。小さい沈め風船の貸し賃が一日一個三十リンで、十二個で三百六十。麻綱が五十。それに預かり金が千。ハルネの財布には、今朝の重り靴代と沈みパン二つを払ったあとで千四百五十リンあった。作業台に硬貨を積むと、手もとに四十リン残った。
「破れたら、修繕代は一袋百二十まで、預かりから引く」とソコベが言った。ハルネはうなずいた。
 ソコベは受取書を書いた。
〈小沈め十二、綱一、預かり千。返すとき、数える〉
 それから、結び方の喧嘩になった。
 ソコベは風船の首に、沈め屋に代々伝わるという、平たくて小さな結び目をこしらえた。ハルネは綱に、一・五メートルおきに輪を作った。籠の側から三・五メートルのところに一つ目、そこから一・五メートルずつ、二十メートルの綱の先端にちょうど十二個目。
「それは何結びだ」
「もやい結び。私が使い慣れた結びです。輪の形を保って、荷を下ろせばほどきやすい。結んだら点検します」
「そんな都合のいい結びがあるか」
「あります」
 ソコベは自分の結び目とハルネの輪を、天井の鉤に吊るして片っ端から引いた。どちらもほどけなかった。ソコベは不満そうに「あんたのはでかい」とだけ言った。
 夕方、トビが盆を持って降りてきた。沈みパンと、豆とベーコンの煮込みの鍋。地下一階で作ったものを一階分の重さを増しながら運んでくるのは大仕事らしく、トビは肩で息をしていた。
「叔母さんが、ソコベさんが客と晩飯なんて三十年で初めてだって」
「客じゃない。貸し出し先だ」
 三人で作業台を囲んで食べた。煮込みはとろりと重く、匙からなかなか落ちなかった。地下二階では、何でもそうなのだ。
「お姉さんは、家どこ」とトビが訊いた。
「ない。籠と、郵便局の二階の貸し部屋」
「荷物、少ないの」
「籠に載る分だけ。重いと飛べないから、いらない物はすぐ捨てる」
 ソコベが匙を止めた。
「うちには袋が三百十二ある」
「全部わかるんですか」
「つぎあてで、わかる」
 ハルネは床の風船たちを見回した。どれも座っていて、どれも少しずつ色が褪せていて、どれも、ここへ戻ってきた物だった。
 別にうらやましくはなかった。三百十二個の風船を持っていたら、ハルネは一歩も飛べない。ソコベのほうも、籠ひとつで暮らしたいとは思っていないだろう。それでいい、とハルネは思った。今夜大事なのは、明日の朝、十二個がちゃんと戻ってくることだけだった。
 その夜、ハルネはパン屋「おもし」の長椅子で眠った。地下一階の重さの中では、毛布が体にぴったりと寄りそい、寝返りを打つ気にもならなかった。九年間でいちばん深い眠りだった。

五 大通りを、風船が歩く

朝四時、トビが格子戸の鍵を開けた。
 まずハルネ一人で、籠の側の端を両手で握った。ソコベは後ろからついてくる。先端までの十二個は、段の上に一列に座っていた。ハルネが一段上がると、すぐ下の風船が一つ浮いて、ひとつ上の段に座り直す。ぽすん、ぽすん。まるで風船たちが、自分の足で階段を上っているようだった。
「手を離すなよ」
「離しません」
 問題は、風石の板の横の靴棚だった。重り靴を履かなければ、ここから上は歩けない。だがハルネは、引くために両手を綱にかけている。
「トビ」
「はいはい」
 トビは灯りを床に置き、まずハルネの足もとにしゃがんで長靴を脱がせ、重り靴を履かせて紐を締めた。それからソコベにも重り靴を履かせ、一足に二枚ずつ鉛板を足した。
「そんなに?」
「上は胃が浮くと言ったろう」
 石段を出ると、空はまだ藍色で、大通りの上には浮き提灯の一本も残っていなかった。上り町の市場は夜中の零時に店じまいし、提灯の綱をすべて巻き取る。夜明け前のこの時間だけ、大通りの上の空がからっぽになるのだ。それも計算のうちだった。
 ソコベは地上に出たとたん、顔を青くした。それでも後ろを離れず、広場に着いたところで、ようやく綱の先を受け取った。
「持って上がったのは、あんた一人だ。数は十二」
 マツさんが番小屋から出てきて、杭の綱をほどく支度を手伝ってくれた。ハルネは籠の金輪に、自分の手で綱を結んだ。もやい結び。端を二度引いて確かめる。籠に乗り、重り靴を脱いで、マツさんに返した。
「靴代は、昨日の朝もらったね」
「払いました」
「よし。生きて帰ってきな」
「帰りません。ミナギに行くんです」
「口の減らない」
 トビが籠の縁に手をかけて、背伸びして中をのぞいた。吊り秤、砂袋六つ、郵便鞄、火口。
「狭い」
「でしょう」とハルネは答えた。
 午前五時十五分。
 最後の杭の綱を、マツさんがほどいた。
 ツグミ号はふわりと浮いた。籠の真下で、一つ目の灰青が石畳から離れた。二つ目、三つ目。籠が上がるほど、下へ引く重さが一つずつ増えていくのが足の裏でわかった。六つ目が浮き、七つ目が浮きかけたところで、籠はぴたりと止まった。屋根の少し上。十二メートル、ちょっと。
 残りの風船は、石畳の上に一列に座っていた。
 朝の西風が吹いた。ツグミ号は東へ、大通りに沿って、ゆっくりと流れはじめた。
 ぽすん。ぽすん。
 地べたに座った風船たちが、綱に引かれ、石畳の上を跳ねながらついてくる。前の一つが浮けば、後ろの一つが座る。座れば、また跳ねる。

店の鎧戸を開けていたパン屋の主人が、手を止めた。凧屋の二階の窓から、寝間着の子どもが顔を出した。上り町の人たちは、上へ逃げていく物を見送るのには慣れている。地べたを跳ねながらついていく物は、たぶん見たことがない。

夜明けの大通りを、十二個の小さな沈め風船をつないだ綱とともに進むハルネの気球。ソコベが地面の最後尾について歩く。

ソコベは最後尾の煉瓦色から三歩離れて、鉛板を足した重り靴で、がしゃん、がしゃんと歩いてきた。顔は青いままだった。
 大通りの半ばに、噴水広場がある。
 マツさんが言っていた。噴水の下だけは、風石が地面に顔を出していると。
 籠がそこへ差しかかったとたん、下からどんと突き上げられた。七つ目が浮く。八つ目、九つ目。ハルネの体に重さがのしかかるが、籠は止まらない。十。十一。
「先が浮くぞ!」
 ソコベの声がした。
 十二個目の煉瓦色が、石畳を離れかけた。
 ハルネは考えなかった。天辺の弁の紐を、思いきり引いた。布の頭がぼこりと開き、ふくらみがしぼむ。押される面が減る。籠ががくんと沈んだ。
 煉瓦色は浮かなかった。代わりに、跳ね返った勢いのまま、噴水の縁の鉄の飾りにぶつかった。
 ぶしゅ、と音がした。
 破れた袋から、目に見えない重い空気がこぼれ落ちた。噴水の水面に、ちょうど手のひらで押したようなくぼみができ、輪になって広がって、消えた。
 ハルネは振り返った。ソコベが噴水の縁に駆け寄り、しぼんだ煉瓦色の袋を拾い上げていた。表情は、遠くて見えなかった。
 籠は噴水広場を抜けた。突き上げが弱まり、十一個のうち六つが浮き、七つ目が少し浮きかけ、残りは石畳に座る高さに戻った。
 東の門は、台地の縁ぎりぎりに立っている。門の向こうには低い柵があって、その先は何もない。谷だ。
 ハルネは弁を細かく引いて、籠を下ろしていった。十個、九個と風船が座り、籠の底が門の内側の石畳をこすった。籠が座ると、綱がゆるんだ。ハルネは門の内側の杭へ、短い係留綱を掛けた。
 ソコベが追いついてきた。しぼんだ袋を前掛けのポケットに押しこみ、片手で籠の縁をつかむ。
「ほどけ」
 ハルネはもやい結びの輪を押し返した。力の抜けた結び目は、すぐにほどけた。綱の端をソコベに渡す。ソコベは両手で受け取って、そのまま石畳に腰を落とした。手もとの沈め風船が下へ引く重さと、鉛板を足した重り靴とが、彼を地べたに座らせた。
 籠の縁から、ソコベの手が離れていた。
「預かり金」とハルネは言った。
「返せん。手がふさがってる」
「次に通るとき?」
「次はいつだ」
「わかりません」
「なら、送る。留め先は」
「ミナギの郵便局。ハルネ宛てで。空の便で?」
「地べた便でだ」
 ハルネは笑った。それから火口へ小さく火を入れ、弁を閉じた。しぼんだ布が、少しずつ張りを取り戻す。ハルネは門の杭の係留綱を外して籠へ引き上げた。ツグミ号は、台地に突き上げられた。
 十メートル、二十メートル。西風が籠を東へ押す。門の上を越え、柵の上を越えた。
 とたんに、突き上げが消えた。
 籠の中の砂袋六つが、一斉に本来の重さを思い出した。一つ一キロだったものが十キロ。合わせて五十四キロ分急に重くなった籠は、谷へ向かって落ちはじめた。胃が持ち上がる。ハルネは閉じた弁を確かめ、火口をさらに開き、炎を布の中へ吹き上げた。熱い空気が布を満たすまでの数秒は、九年分の経験の中でもかなり長かった。
 足りない。
 ハルネは砂袋のひとつの口を切り、谷底を見下ろした。人のいない白い河原が、朝日の色に染まりはじめていた。半袋ぶん、さらさらと砂をこぼす。籠の沈みが止まった。
 これは捨てるための重さだ。そのために積んでいる。
 ハルネは顔を上げ、台地の縁を振り返った。東の門の内側に、座りこんだ小さな人影が見えた。手を振ってはいなかった。振れないのだ。両手で綱を抱えているから。その足もとに、十一個の点が座っていた。

谷を越えてから向かい風に変わり、ハルネは河原で一度、風待ちをした。空を行けば三時間の道だったが、待つ時間までは縮められない。ミナギの郵便局に着いたのは、十一時四十分だった。
 手紙百十四通と、小包三つ。局長は数を数えて受け取りに判を押し、ハルネの籠をのぞきこんで首をかしげた。
「砂が減ってるね」
「半袋。谷の河原に」
「上り町の上を通ったのかい。よく降りずに来られたね」
「二晩、降りてました」
 ハルネはそれ以上説明しなかった。説明しようとすると、風船が座る話から始めなければならない。
 預かり金の残りが届いたのは、四日後だった。
 谷を回ってきた徒歩の配達人が、くたびれた封筒を一通、局の窓口に置いていった。宛名は「気球のハルネ」とだけあって、裏に「沈め屋」とあった。中には硬貨が八百六十八リンと、紙が一枚。
〈小沈め十二のうち、戻り十一。破れ一、煉瓦色。つぎあて三つの袋。二十二年目。修繕代百二十を引く。
 綱一、戻り。結び目、ほどけず。
 地べた便代、十二リンを引く。
 差し引き八百六十八。数えること〉
 ハルネは数えた。八百六十八リン、ちゃんとあった。
 紙の端に、もう一行、別の濃さの字で書き足してあった。
〈破れには、つぎあてを当てた。四つ目。洗濯屋には今年も貸す。次に台地を越えるなら、先に地べた便で知らせろ。十二、詰めておく〉
 ハルネは窓口で便箋を一枚もらい、短い返事を書いた。
〈来月十四日、東の門。十二。もやい結びは、私が〉
 封をして宛名を書き、それから少し考えて、局長に渡した。
「これ、地べた便で」
「空じゃなくていいのかい。あんた、空の郵便屋だろう」
「この人には、こっちのほうがちゃんと届く気がするので」
 局長は首をひねりながら、封筒に「徒歩便」の判を押した。
 ハルネは鞄の底から、地下一階で買ったもう一つの沈みパンを出した。皮はすっかり硬くなっていたが、まだずっしりと重かった。半分にちぎって、局長に分けた。
 窓口の上の吊り看板が、まっすぐ下に垂れて、少しも揺れていなかった。この町では、それが当たり前だった。

最後まで読んでいただき、ありがとうございました。

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