一 十三時五十二分の座卓
土曜日の十三時五十二分。宮下千波はテレビの前の床に膝をついて、低いテーブルの上をもう一度見回した。
ない。
ゆうべまでただの座卓だったそれは、今朝のうちに布団をかぶって、こたつになっていた。千波が寝ているあいだに、五つ下の弟の航が押し入れから布団を出して掛けたのだ。茶色の格子柄の布団の上に、四角い天板。その上にあるのは、みかんが三つ入った木の器と、昼の焼きそばに使ったソースのボトル、それに白いエアコンのリモコンだけだった。
テレビのリモコンは黒い。裏側に黄色いマスキングテープが貼ってあって、千波の字で「テレビ」と書いてある。エアコンのリモコンと取り違えないように、引っ越してすぐに貼ったものだ。四年たって、テープの角は少しめくれている。
それが、ない。
「航。テレビのリモコン、知らない?」
台所でフライパンを洗っていた航が、水を出したまま振り返った。白いTシャツの上に、千波の紺色のカーディガンを羽織っている。肩が少しきつそうだ。昼に焼きそばを食べながら「寒っ、パーカーどこ置いたっけ」と言うので、千波が貸したのだった。
「知らない。そこにない?」
「ないから聞いてるの」
「ソファのクッションのすきまは?」
「見た」
航は「そっか」と言って、フライパンを水切りかごに立てた。
「二時からだっけ。だし巻きの」
「『ふわとろ だし巻き選手権』。決勝。生放送」
八週間、毎週土曜の夜に見てきた番組だった。全国から集まった料理人が、だし巻き卵だけで勝ち抜いていく。最初は四十八人いた。今日まで残ったのは三人。
ホテルの厨房で働く二十四歳の小柴陸。港町で定食屋を営む堂本さん。そして、離島と本土を結ぶフェリーで三十年、乗組員と乗客の食事を作ってきた三ツ谷春代さん、六十八歳。
千波は三ツ谷さんを応援していた。準々決勝で、三ツ谷さんは焼き上がっただし巻きを切る前に、まな板の上のそれをしばらく黙って見ていた。審査員が「どうしました」と聞くと、「揺れないところで焼いたのが久しぶりで」と答えた。たったそれだけのことで、千波はその週の残りを機嫌よく過ごした。
決勝は、審査員の点数に視聴者投票が加わる。番組が始まって一時間後、十五時から十分間だけ、リモコンのdボタンを押して、色のボタンで投票できる。青が三ツ谷さん。赤が小柴さん。緑が堂本さん。
だから、リモコンがいる。見るためだけでなく、押すために。
「ちくわは?」
千波が言うと、航は首をかしげた。
「ちくわが、なに」
「ちくわが持っていったんじゃないかな」
ちくわは、千波の飼っているキジ白の猫だ。六歳。しっぽにだけ、くっきりとした茶色の輪がいくつも並んでいる。保護団体の譲渡会で初めて見たとき、その模様がちくわの断面に見えた。
そのちくわが、今はどこにも見当たらない。窓辺の段ボールにも、本棚の上にも、千波の部屋のベッドにもいない。こういうときにいる場所は、だいたい決まっていた。
「こたつの中?」
「朝からずっと入ってる。掛けたら、すぐ入った」航はタオルで手を拭きながら言った。「出てきたのは昼に一回だけ。水飲んで、また戻った」
千波はこたつ布団の端を見た。かすかに盛り上がっているような気もするし、布団の厚みのせいのような気もする。
時計が十三時五十五分になった。
「とにかく、テレビをつけたい」
「本体にボタンあるだろ」
「どこに」
「どこかに」
航はこたつを大回りしてテレビの横にしゃがみ、画面の裏の縁を指先でなぞった。自転車屋で整備の仕事をしている航は、知らない機械を前にすると、まず裏と下を触る。
「あった。電源、入力、チャンネル、音量」
「見ないで分かるの」
「出っぱりの数で」
画面が明るくなった。映ったのは、知らない町の商店街を歩く旅番組だった。航が「上、上、上」と言いながらボタンを三回押し、四チャンネルに変わったのは十四時三分だった。
「――それでは、決勝の調理を始めていただきましょう!」
司会者の声に合わせて、三人の料理人が卵を割りはじめていた。千波はこたつに足を入れかけて、やめた。中にちくわがいるかもしれない。それに、見ながら探さなければならない。
「十五時まで、あと五十七分」
「数えるなよ」
「数えないと、探せない」
二 犯人は、たぶん猫
「ゆうべ、最後にリモコンを持ってたのは私」
千波はテレビの横に立ったまま言った。画面の中では、三ツ谷さんが卵焼き器に油をなじませている。
「十一時ごろ、準決勝の録画をもう一回見たの。見終わって、座卓の上に置いた。そのとき、ちくわがテレビの前に座ってて、画面のほうを向いてた」
「よくやるよな、あいつ」
「だから、ちょっとどかしたの。抱っこして、ソファに」
「それで?」
「そしたら、ちくわが私を見た。こう」
千波は目を細めて、首を少し後ろに引いてみせた。航が噴きだした。
「それは眠かっただけだろ」
「違う。あれは、覚えておくって顔」
「猫はそんなに根に持たないって」
「持つ子もいるかもしれないでしょう」
どちらも、ちくわ本人に聞いたわけではない。千波にもそれは分かっていた。分かっていても、十四時六分の頭は、ちくわを犯人にしたがっていた。そうすれば、探す場所が決まるからだ。
それに、ちくわには前科があった。千波のヘアゴムが、ときどき消える。消えて、しばらくするとソファの下から出てくる。ちくわは床の小さなものを前足で転がして、ソファの下に入れてしまうのだ。こちらは推理ではない。千波が何度もこの目で見た、ちくわの遊び方だった。
「ソファの下」
千波は床に頬をつけ、スマートフォンのライトでソファの下を照らした。からし色のスウェットの胸に、ほこりがつく。暗がりの向こうに、黒い輪が見えた。手が届くところまで、腕を伸ばす。
一本目、黒。二本目、黒。三本目、紺。四本目は、夏のあいだずっと探していたピンクのヘアゴムだった。

「ほら」
「ヘアゴムじゃん」
「前科四犯」
「リモコンは?」
千波はもう一度ライトを向けた。手の届く範囲には、もう何もない。ソファの奥のほうは暗くて、壁際までは見えなかった。
四本のヘアゴムを、千波は台所の棚にある、ふたつきの缶にしまった。ちくわがこれを口に入れたことは一度もない。それでも、床に落ちていないほうがいいものだ。
「でもさ」と航が言った。「ヘアゴムとリモコンは違うだろ」
「なにが」
「重さ。リモコンって、みかん一個ぶんくらいあるぞ」
航は器からみかんをひとつ取って、手のひらで軽く上下させた。
「これを前足で転がして、ソファの下まで?」
「……転がせなくはない」
「転がせなくはないけど、楽しくはないだろ。ヘアゴムは飛ぶから楽しいんだよ」
「なんで航に、ちくわの楽しいことが分かるの」
「分かんないけど。姉ちゃんにも分かんないだろ」
それは、そうだった。航はみかんを器に戻した。
画面の中で、小柴さんの卵焼き器から細い湯気が上がった。審査員が身を乗り出している。千波はテレビに背を向けた。
次は窓辺の段ボール。通販で買った炭酸水の箱を、ちくわが気に入ってしまい、もう半年そこに置いてある。中には毛布が一枚敷いてあり、めくると、丸めたレシートが一枚と、羽のおもちゃから抜けた青い羽が一本出てきた。
「レシートは、ちくわかもしれない」
「リモコンじゃないな」
冷蔵庫と壁のすきまは、ライトで照らして見るだけにした。ほこりと、輪ゴムが一本。ちくわが入れる幅ではない。洗面所の脱衣かご、ない。トイレ、ない。玄関の靴箱の上、ない。
十四時二十一分。番組は一回目の試食に入っていた。
千波は台所の入り口で立ち止まり、こたつの横であぐらをかいている航を見た。航は、千波のカーディガンの袖を引っぱりながら、テレビを見ていた。
ゆうべの会話を思いだす。夕飯のあと、航はこたつ布団の入った押し入れを開けて、満足そうに言ったのだ。「明日の楽しみは、こたつの初日に昼寝すること。それだけ」。千波は「二時からテレビ、大きい音で見るからね」と答えた。航は「えー」と言った。
「……航」
「ん」
「リモコン、隠してないよね」
航がゆっくりとこちらを向いた。
「なんで俺が」
「昼寝したいから。私がテレビつけなければ、静かでしょう」
「本体のボタン見つけたの、俺だけど」
「それは、見つけてあげるふりをして、疑いを晴らすため」
「推理小説の読みすぎ」
航が立ちあがった。カーディガンの袖が、肘のあたりまでずり上がる。
「そっちこそ、寝る前に部屋に持っていったんじゃないの。録画見たあと、ベッドで続き見ようとして」
「ベッドからテレビは見えない」
「じゃあ、スマホと間違えて」
「黒いってだけで間違えない」
言い合いながら、二人は千波の部屋に入った。ベッドの上、枕の下、掛け布団のあいだ、サイドテーブル、床に積んだ雑誌の山。ない。航がベッドの下を覗きこんで、「片方だけの靴下」と言った。千波は靴下を取りあげた。
ない、と分かって、二人ともしばらく黙った。
十四時三十二分。リビングから、試食した審査員の「ほう」という声が聞こえてきた。
「……ごめん」と千波は言った。「隠してないね」
「隠してない」と航も言った。「俺も、ごめん。姉ちゃんの部屋にはなかった」
謝り合うと、少しだけ落ちついた。落ちついてみると、まだ探していない場所がはっきりした。
三 ソファのうしろ
「こたつ」
千波がそう言うと、航はこたつと千波のあいだに、さりげなく体を入れた。
「ちくわ、寝てる」
「見るだけ」
「見るだけって言って、見るだけで済んだためしがない」
「私の猫だよ」
「だから寝かせてやれって」
航は、自宅の浴室工事が終わるまで、十日間泊まることになっている。まだ四日目なのに、ちくわに甘い。毎朝千波より先に起きて、ちくわのお皿の前で「おはよう」と言っている。ちくわのほうは、まだ航と少し距離を取っている。それでも航は、毎朝うれしそうだった。
それに、と千波は思った。航が守っているのは、たぶんちくわの眠りだけではない。こたつそのものもだ。朝からきちんと布団を掛けて、天板をのせて、昼寝の時間を待っている、こたつ。コードは、まだコンセントにつながっていない。今日は布団だけでも十分だと、航が言ったのだ。
「端をちょっとめくるだけ。それでいなかったら、すぐ閉める」
「……ちょっとだけな」
千波はテレビと反対側の端に膝をつき、こたつ布団をそっと持ちあげた。
中は、薄い赤茶色だった。部屋の光が格子の布越しに届いて、なにもかもが同じ色に沈んでいる。敷いてあるラグの奥のほうに、丸いかたまりがあった。ちくわだ。しっぽの輪が見える。眠っている猫らしい、ゆっくりとした上下があった。
そのちくわの下に、何か灰色っぽいものが敷かれているような気がした。けれど、暗い布団の中では灰色も茶色もあてにならない。ラグの影か、布団の裏地が折れているのかもしれなかった。
リモコンの黒い角は、見えなかった。
ちくわが片方の耳だけ、こちらへ向けた。目は開かない。
千波は布団を下ろした。
「いた?」
「いた。寝てた。リモコンは見えなかった」
「な」
「なにが、な」
十四時四十分。
「あと、見てないところ」航が指を折った。「ソファの奥。手が届かなかったとこ」
「ソファ、動かす?」
「動かそう。二人なら動く」
二人掛けのソファは、西側の窓の前に置いてあった。床まである大きな窓だ。引っ越してきたとき、ほかに置き場所がなくてそこにした。おかげで窓の下半分はソファの背にふさがれ、カーテンを開けることもほとんどなかった。夏の西日は暑かった。七月のある日に閉めて、それきりになっていた。
「せーの」
ソファの脚が床をこする音がした。思ったより軽く、二人掛けは半回転しながら部屋の真ん中へ出てきた。
ソファのあった場所には、四年分のほこりと、百円玉が一枚、それから羽のおもちゃの、羽が抜けた棒が落ちていた。
リモコンは、なかった。
「……ない」
「ないな」
千波は床に座りこんだ。画面の中では、二回目の試食が終わろうとしていた。十四時四十六分。
「暗いな、ここ」
航がつぶやいて、何の気なしにカーテンを引いた。
光が入ってきた。
窓の形をした大きな四角い日なたが、床の上に倒れていた。午後の、少しだけ黄色い光だった。ほこりが舞って、金色の粉のように光る。ソファの脚の跡が四つくっきり残った床板が、ぬくもりを吸いこんでいくのが見えるようだった。
千波は、その四角の中に手のひらをのせた。
温かかった。
「……こんなところ、あったんだ」
「あったんだな」
「四年も住んでたのに」
「ソファの裏だったからな」
航は日なたの縁に腰をおろして、目を細めた。カーディガンの紺色が、光の中で少し明るく見える。
千波は百円玉を拾ってテーブルに置き、もう一度日なたを見た。それから、テレビを見た。
十四時五十一分。三ツ谷さんが最後の一本を巻いていた。卵焼き器を傾ける手つきが、船の揺れを知っている人のものに見えた。気のせいかもしれなかった。
スマートフォンが震えた。大学の同級生の真琴からだった。
〈もうすぐ投票だね! 三ツ谷さんに入れる準備OK?〉
千波は少し考えてから、返事を打った。
〈リモコンが行方不明。たぶん、こたつの中の猫の下〉
すぐに返事がきた。
〈起こしなよ!〉
千波は画面を伏せた。
「航」
「ん」
「ちくわ、起こさないことにする」
航がこちらを見た。
「いいの?」
「いい。投票しなくても、三ツ谷さんのだし巻きが減るわけじゃないし」
「減らないけど」
「それに、リモコンがちくわの下にあるって決まったわけでもないし」
自分で言いながら、千波は少し笑った。一時間前の自分なら、ちくわが根に持って隠したのだと決めつけていた。今は、何も決まっていない。ちくわは、ただ寝ているだけかもしれない。こたつの初日、布に囲まれた自分の場所で。
「……そっか」
航は、なぜか少し居心地が悪そうに、カーディガンの袖をまた引っぱった。
十四時五十八分。画面に「まもなく視聴者投票」の文字が出た。
四 青いボタン
十五時ちょうど、テレビの右上に「dボタンで投票!」という表示が出た。
千波はこたつの横に座り、テレビを見た。三人の料理人が、それぞれの皿の後ろに並んで立っている。三ツ谷さんのだし巻きは、ほかの二人のものより少しだけ色が濃かった。準決勝のとき、三ツ谷さんは「うちのは、船の人が食べるから」と言っていた。
十五時一分。
こたつ布団の端が、もぞりと動いた。
千波と航は、そろって息を止めた。
布団の下から、まず白い前足が出てきた。続いて頭。耳が片方ずつ、外の空気を確かめる。ちくわはゆっくりと全身を引っぱりだすと、床の上で前足を突っぱって、背中をうんと伸ばした。あくびをひとつ。それから台所の水入れまで歩いていき、しばらく水を飲んだ。
「……起こしてないよね」
「起こしてない」
千波も航も、まばたきさえ控えめにしていた。
ちくわは水を飲み終えると、口のまわりを舐めて、こたつのほうへ戻りかけた。そこで足を止めた。
窓のほうを見ていた。正確には、床の上の、四角い日なたを。
ちくわは、こたつと日なたを一度ずつ見比べた。それから迷わず日なたへ歩いていき、真ん中でくるりと一周して、横になった。しっぽの輪が、光の中で一本ずつ浮かびあがった。
「……」
「……」
千波はこたつ布団をめくった。今度は遠慮なく。
ちくわのいた場所に、灰色のものが平たく伸びていた。布団を大きく開けたので、さっきよりはっきり分かる。布だ。フードがついている。袖が二本ある。
「パーカー?」
千波が言うより先に、航が「あ」と言っていた。
航はこたつの中に腕を入れ、それを引っぱりだした。灰色のパーカー。背中一面に、ちくわの毛がうっすらとついている。航が持ちあげると、前のポケットのあたりが重たげに揺れて、カチッと何かがぶつかる音がした。
航はポケットに手を入れた。
出てきたのは、黒いリモコンだった。裏返すと、角のめくれた黄色いマスキングテープに「テレビ」。続いてボールペンが一本、航のリップクリームが一本。
リモコンは、ほんのり温かかった。
「……俺だ」
航が言った。
「朝、こたつ出すときに、天板どけるだろ。上に載ってたもの、とりあえずポケットに入れたんだ。両手がふさがってたから。で、暑くなってパーカー脱いで、座卓の下に置いて、そのまま布団掛けて――」
「こたつの中に入れた」
「部屋へ持っていく前に、布団掛けちゃった」
「それで、忘れた」
「……忘れた。昼に寒くて、パーカーどこ置いたっけって言ったよな、俺」
言った。焼きそばを食べながら「寒っ、パーカーどこ置いたっけ」と言うので、千波は自分のカーディガンを貸したのだ。
十五時五分。
「押して」
航がリモコンを千波の手に押しつけた。
千波はdボタンを押した。画面の右側に、データ放送の画面がゆっくり広がりはじめる。白い枠、番組のロゴ、読み込み中の小さな輪。輪はいつまでも回りつづけた。
「遅い」
「電波か?」
「知らない、早く」
十五時七分。画面が切り替わった。三人の顔写真が並び、その下に色のボタンの案内が出た。
青、三ツ谷春代。
千波は青いボタンを押した。
〈投票を受け付けました。ご参加ありがとうございます〉
千波はリモコンをこたつの天板にそっと置いた。両手で顔をおおって、それから声を出して笑った。
「なに笑ってんの」
「だって。犯人、猫じゃなかった」
「俺だった」
「私、ちくわに、覚えておくって顔されたって言った」
「言ってた」
「航は、私がベッドに持っていったって言った」
「言った。ごめん」
「私も、航が昼寝のために隠したって言った」
「言われた」
二人は、日なたで寝ているちくわを見た。ちくわは何も知らない顔で、お腹を少し上に向けていた。いや、本当に何も知らないのかどうかも、分からない。分からないままにしておこう、と千波は思った。
五 三時の席
結果発表は十五時二十五分だった。
審査員の点数と視聴者投票を合わせて、優勝は小柴陸さんだった。三ツ谷さんとの差はわずかだった。画面の中で、小柴さんは泣きながら頭を下げ、その隣で三ツ谷さんが、小柴さんの背中を二回、軽く叩いた。
「……負けた」
千波は言った。思っていたほど悔しくなかった。
「惜しかったな」
「入れたもん。一票」
「入れたな」
マイクを向けられた三ツ谷さんは、少し考えてから「おかげさまで、陸の上で焼けました」と言った。会場が笑い、千波も笑った。それが優勝した人の名前と同じ字だと気づいたのは、少しあとになってからだった。
スマートフォンが震えた。真琴からだった。
〈三ツ谷さん二位! 投票できた?〉
〈できた。リモコン、猫の下にあった〉
〈やっぱり〉
〈でも、弟のポケットに入ってた〉
〈どういうこと?〉
説明すると長くなりそうなので、千波は日なたのちくわの写真を一枚送った。真琴からは、猫の絵文字が三つ返ってきた。
番組が終わると、航はそわそわと、こたつと日なたを見比べた。
「昼寝、していいよ」
「いい?」
「静かにする。テレビも消すから」
航は予定どおりこたつに入るのかと思ったら、灰色のパーカーをちくわの毛ごと着こんで、日なたの、ちくわの隣に横になった。こたつの温かさと日なたの温かさを、比べてみたいらしかった。ちくわは片目だけ開けて航を見ると、また閉じた。逃げなかった。
それだけで、航はものすごくうれしそうな顔をした。
三分後には、寝息が聞こえはじめた。

千波はソファを元の場所に戻そうとして、やめた。日なたの角に、ソファの脚の跡が四つ、白く残っている。ソファは部屋の真ん中に、ちょっと間の抜けた角度のまま置かれていた。そこからだと、テレビも、こたつも、日なたも、全部見えた。
「ここで、いいのかもね」
誰にともなく言った。
日なたは、少しずつ形を変えていった。窓の四角は床の上で細長くなって部屋の奥へ伸び、反対側の壁を這いのぼって、十六時半ごろには壁の上のほうに薄い黄色の帯を残すだけになった。光が床から逃げていくと、ちくわは起きあがって伸びをし、航の足をまたいで、こたつのほうへ歩いていった。
ちくわは、こたつの中には入らなかった。ひょいと天板に跳びあがると、みかんの器をよけて、千波が置いたリモコンの真上で香箱を組んだ。
ピッ、と小さな音がして、テレビがついた。
映ったのは通販番組だった。ちくわの体の下で、どこかのボタンが押されたらしい。リモコンの先端だけが胸もとからのぞき、テレビのほうを向いていた。司会者が、羽毛布団の軽さを力説している。
千波はちくわを見た。ちくわも千波を見た。目を細めて、少しだけ首を後ろに引く。あの顔だった。
「……覚えておくって顔」
ちくわは返事をしなかった。リモコンの上からどく気配もなかった。
千波はテレビの裏に手を回し、指先で出っぱりを数えた。いちばん上が電源。押すと、羽毛布団は消えた。
リモコンは、そのままにしておいた。今日はもう、いらない。
日が落ちてから、千波は卵を四つ割った。三ツ谷さんが番組で話していたことを思いだしながら、だしを多めに入れた。うまく巻けなかった。三度目に箸を入れて、ようやく形を整えたそれを、目を覚ました航と、こたつで食べた。
「しょっぱくない?」
「いや、うまい」
「三ツ谷さんのは、もっと色が濃かった」
「じゃあ来週も焼けば」
「来週はもう、番組ないよ」
「番組なくても焼けるだろ」
ちくわは、まだ天板の上にいた。リモコンを体の下に、しっかりとしまいこんで。
航は、明日も日なたで寝ると宣言した。千波は、明日の三時にもう一度、ソファの位置を考えなおすつもりだった。窓の四角がどこまで届くのか。そこに何を置けば、ふたりと一匹がいちばん気持ちよくいられるのか。
リモコンは、たぶん明日の朝まで返ってこない。
それでいい、と千波は思った。


