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友情・日常ミステリー

同窓会には、遅れて行く

一分の近況リレーを避けた二人に、「見えてるからね」と連絡が来る。

読了目安
27分
長さ
短編
#謎解き#友だち#くすっと笑える
同窓会には、遅れて行くのイメージ

あらすじ

卒業25周年の同窓会。近況を一分にまとめられない早苗は、リレーが終わる時刻を計算し、駅前の喫茶店で待っていた。そこへ来たのは、昔クラスを笑わせていた柴崎。同じ時刻に遅れて行くつもりの二人だったが、恩師の電車が遅れて計画は崩れる。雨の改札へ先生を迎えに行き、運ぶことになった大きな額には、二十五年前の字が残っていた。

読みやすく、好きなところから。

目次・4章

一 喫茶ベルの窓際

戸川早苗の計画は、手帳の付箋一枚に収まっていた。

〈18:00受付 18:15乾杯 18:30近況リレー(一人一分×二十一人+入れ替え)→終了見込み18:58 到着19:05〉

柳町駅北口の角にある喫茶ベルの窓際カウンターからは、改札も、商店街のアーケードの入口も見える。白樺はアーケードを抜けた先にあって、歩いて六分。十八時五十九分に席を立てば、ちょうどいい。

ブレンドは四百八十円だった。メニューの「ブレンド」の「ド」の濁点がにじみ、「ト」に見えるのが気になった。それでも早苗は赤ペンを出さなかった。今日は休みだ。休みの日に、人の店のメニューを直してはいけない。

幹事の野々村千晶には、三日前に連絡してある。〈仕事の都合で十九時ごろになります。会費は着いてからお支払いします〉。

嘘なのは「仕事の都合」のところだけだった。土曜は休みだ。送ってから三日間、その五文字が喉の奥に小骨のように引っかかっている。

近況リレーが嫌だった。一人一分。二十五年ぶりの同級生の前で、自分を六十秒にまとめる。早苗は時刻表の校正をしている。同じ会社で十五年同じ仕事をして、同じアパートに住み、同じ金魚を飼っている。金魚は十一歳になった。それを言えば五秒で終わる。残りの五十五秒をどうすればいいのか、わからない。

人の文章なら直せる。自分の一分には、直すもとがない。

十八時二十五分、ドアのベルが鳴った。

入ってきた男は窓際のカウンターを見渡して、早苗から二つ空けた席に座った。紺のジャケットは肩のところが少し窮屈そうで、背中に黒い大きなリュックを背負っている。リュックを下ろすとき、床に置く前に一度、底を手で払った。

「ブレンドを。あ、一万円でもいいですか。お釣り、千円札を多めにいただけると助かります」

「大丈夫ですよ」

男はお釣りの九千五百二十円を受け取ると、千円札を一枚ずつ数え、六枚だけ別の封筒に入れた。

早苗は自分の鞄の封筒を思い浮かべた。中にはちょうど六千円が入っている。

男がスマートフォンを出した。早苗も手元の画面を見た。通知が鳴ったのは同時だった。

〈坂ノ下中3-2 25周年〉

男の画面の上にも、同じ緑の吹き出しと、同じ集合写真のアイコンが出ていた。三年二組の卒業写真を誰かがスマートフォンで撮ったもので、斜めに光が映り込んでいる。

〈乾杯しました!🍻 十九時以降の人も気をつけて来てね〉

男がこちらを見た。早苗も男を見た。

「……三年二組の」

「戸川です」

「柴崎です」

柴崎航。名前を聞いたとたん、二十五年前の教室の後ろのほうが、早苗の頭の中で明るくなった。文化祭で校長先生の朝礼を真似して、体育館を揺らした男子だ。卒業制作の版画で「の」が裏返しに刷られたとき、「俺だ俺だ、鏡の国から来ました」と手を挙げた男子でもある。それからしばらく、彼は「鏡の柴崎」と呼ばれていた。

いまの柴崎は首が日に焼け、髪を短くして、ずいぶん静かな声で話した。

「戸川さんも、遅れて行く人?」

「十九時ごろと伝えてあります」

「俺も。……理由、聞いていい?」

早苗は少し迷ったあと、付箋を見せた。

柴崎は顔を近づけて、声に出して読んだ。

「十八時三十分、近況リレー、一人一分かける二十一人、プラス入れ替え。終了見込み十八時五十八分。到着十九時五分」

「入れ替えは一人十五秒で見ています。マイクを渡す人と、立つ人と、拍手の分」

「拍手まで入れてる」

「拍手は止まらないので」

柴崎は笑った。たぶん昔と同じ笑い方ではなかった。昔はもっと大きな声だったはずだ。いまのは、鼻から短く息が抜けるだけの笑いだった。

「俺は、映画一本分って考えた」

「映画」

「乾杯から映画一本分くらい経てば、リレーは終わってるだろうって。十八時十五分に二時間足して……二時間は長いなと思って、一時間十分引いて」

「なぜ四十五分」

「なんとなく」

「それで、何時に」

「十九時五分」

早苗は付箋に書いた自分の字を見た。十九時五分。

「同じ答えになるの、嫌ですね」

「計算は全然違うのにね」

柴崎はリュックを少し開けて、小さいノートを出しかけ、やめた。早苗は見ないふりをした。リュックの口から、緑色の養生テープと軍手がのぞいていた。

「仕事の帰りですか」

「いや、休み。これはいつも入ってる。引っ越し屋なんだ。班長。持ってないと落ち着かない」

「同窓会に、軍手」

「同窓会に赤ペン持ってくる人に言われたくないな」

いつの間にか、早苗の赤ペンはカップの横に出ていた。いつ出したのか覚えていない。

「戸川さんは、なんでリレーが嫌なの」

「一分も、話すことがないんです。同じ会社で、同じ仕事で、金魚が十一歳です」

「金魚が十一歳って、けっこう話すことだと思うけど」

「五秒で終わります」

「俺は逆。話すことを三週間考えた」

「三週間」

「みんな、柴崎は何か面白いことやるだろうって顔で待つだろ。待たれたら、やるしかない。で、考えたら全然面白くない。三週間かけて面白くないってわかったから、その時間はいないことにしようと思って」

さっきのノートのことだ、と早苗は思った。

二人はしばらく黙ってコーヒーを飲んだ。窓の外で、細い雨が降り出した。アーケードの入口の照明が、濡れた敷石ににじんでいる。

十八時四十一分、また通知が鳴った。

〈多田先生、東尾駅で車両点検にあって遅れてます! 近況リレーは先生が着いてからにします。十九時半ごろスタート予定🙏〉

早苗は付箋を見ながら、頭の中で予定の線を引き直した。十九時半に始まって、二十一人と先生と入れ替え。終わるのは二十時を少し過ぎる。

「十九時五分に着くと」

「ど真ん中だね」

「……ど真ん中の手前です。始まる前に着いて、全部聞くことになります」

柴崎は天井を見上げた。

「じゃあ、二十時過ぎまでここにいる?」

「集合写真が十九時半でした。それも後ろにずれるはずです。たぶん、リレーのあとに」

「写真には入りたいんだよな」

「入りたいです」

口に出してから、早苗は自分でも少し驚いた。入りたかったのか。

二 十九時二分の各停

十八時五十二分。

〈柳町駅の近くにいる人いますか? 先生が十九時二分着の各停で来ます。大きい荷物があるそうです。改札まで迎えに行ってくれる人いたらお願い🙏〉

二人の画面に、同じ文が並んだ。

改札は窓の向こう、三十メートル先にある。

「近くにいる人」

「います」

「いるね。俺たちが一番近い」

柴崎の指が、返信欄の上で止まった。早苗の指も止まっていた。

返信すれば、駅前にいることがわかってしまう。「仕事の都合で十九時ごろ」と書いた人間が、十八時五十二分に駅前の喫茶店にいるのだ。

「柴崎くんは、遅れる理由をなんて送ったんですか」

「『ちょっと遅れる』」

「理由は」

「書いてない」

「ずるいです」

「ずるくない。書かないのは嘘じゃない」

そのとき、早苗の画面にだけ、もう一つ通知が出た。グループではなく、野々村からの個別のメッセージだった。

〈戸川さん、ベルの窓際にいるよね? 柴崎くんと並んで〉

早苗は息を止め、柴崎に画面を向けた。柴崎の画面にも、同じ時刻に個別の通知が届いていた。

〈柴崎くん、ベルの窓際。見えてるからね〉

二人は同時に窓の外を見た。改札の前にも、アーケードの入口にも、野々村らしい人影はない。

「いつ見られたんだろう」

「……隣のコンビニかもしれません」

ベルの隣にはコンビニがある。その前を誰かが通れば、窓際は丸見えだ。急に、自分の座り方がまっすぐすぎるように思えて、早苗は恥ずかしくなった。

柴崎がグループに打った。〈行ける〉。三文字だった。

早苗も打った。〈行けます。改札にいます〉。それから個別の画面に戻り、少し考えて打った。〈仕事の都合というのは嘘でした。すみません。会費は着いたら払います〉。

既読はすぐについた。返事は〈あとで〉だけだった。

十八時五十八分に席を立った。カップの縁から転がりかけていた赤ペンのキャップを拾った。会計で、早苗は四百八十円を払った。先に支払った柴崎は、封筒の六千円をもう一度確かめていた。

「会費のお釣りが出ないようにしたかったんでしょう」

「野々村の案内に書いてあっただろ。なるべくお釣りのないように、って」

「書いてありました」

「一万円札しか持ってなかったんだよ。だからコーヒー」

「コーヒーは両替だったんですね」

「半分はね。もう半分は、ここで隠れたかった」

改札前は、土曜の夜の人出で少し混んでいた。雨の匂いがする。電光掲示板の各停の欄には「遅れ 約2分」と出ていた。

「二分」と早苗は言った。「十九時四分」

柴崎は、改札の幅を目で測るように見た。

「大きい荷物って、なんだろう」

「多田先生、美術の先生でしたよね」

「イーゼルとか持ってきたらどうする」

「持てますか」

「持てる。たいていのものは持てる」

十九時四分、各停が入ってきた。十九時六分、人の流れの最後のほうに、茶色いツイードのジャケットとハンチング帽が見えた。

多田正巳先生は七十四歳になっていた。白くなった眉の下で、眼鏡が少しずり落ちている。右手には黒い長傘と紙袋。左腕には、紺の風呂敷に包んだ平たくて横に長いものを抱えていた。先生の肩幅より広い。先生は体を斜めにして、改札の扉の間を通り抜けた。

「先生」

先生は早苗の顔を見て、三秒ほど考えた。

「……戸川。戸川早苗。字がきれいだった」

「ありがとうございます」

「それから……」先生は柴崎を見た。「鏡の」

柴崎の口の端が、ほんの少しだけ固まった。

「柴崎です」

「そうだ、柴崎だ。大きくなったな」

「四十なんで」

先生は、抱えていた風呂敷包みを持ち直した。

「これを持ってきたのよ。年末に娘のところへ越すんでね、置き場所がない。クラスに返そうと思って」

「なんですか」

「卒業制作の版画」

早苗と柴崎は、同時に包みを見た。

風呂敷の結び目から、木の額の角がのぞいていた。横は八十センチくらい、縦は三十センチほど。外は雨で、駅前の横断歩道を渡ってアーケードに入るまでの二十メートルには屋根がない。

柴崎がリュックを下ろした。今度は底を払わず、そのまま床に置いた。

「先生、それ、ちょっと貸してもらえますか」

リュックからは、四十五リットルのゴミ袋が三枚出てきた。柴崎は一枚目を額の右から、二枚目を左からかぶせ、真ん中で重ねて、緑の養生テープを二周巻いた。テープは歯を使わず、指先でぴっと裂いた。角のところだけ、テープを三角に折って重ねる。

「早いですね」

雨の駅の改札前で、黒い袋をかぶせた横長の額に緑の養生テープを巻く柴崎。早苗と、長傘を持った多田先生が見守る。

「毎日やってるから。食器棚とか、額とか」

「ゴミ袋は、いつも三枚ですか」

「三枚。二枚だと足りないことがある」

先生は感心したように、袋に包まれた額を見下ろした。

「ずいぶん頼もしくなったな。昔はほら、校長の真似ばっかりで」

柴崎は返事をせずに、額を両手で持ち上げた。早苗は紺の折りたたみ傘を開いて、額と柴崎の頭の上にさしかけた。先生は自分の長傘を開き、紙袋を提げて、二人の後ろについた。

「先生、白樺は二階です」

「知ってるよ。前に一回行った」

「階段です」

「知ってるよ」

早苗は野々村へ、先生と合流したことと、額を包んでから向かうので十九時十五分ごろになると送った。

三 アーケードの「の」

アーケードの中は乾いていた。両側の店は半分ほどシャッターが下りていて、開いているのは焼き鳥屋と薬局と、遅くまでやっている文房具屋くらいだった。屋根の下に入ると、早苗は傘を閉じた。

十九時十三分、アーケードのちょうど真ん中あたりで、ばり、と小さな音がした。

「あ」

柴崎が足を止めた。額の右下の角が、ゴミ袋を突き破って顔を出している。早苗はもう一度野々村へ、包み直すので十九時二十五分ごろになると送った。返事は〈了解。気をつけて〉だった。

「角が尖ってる。木の額は、角に力が集まるんだ」

「三枚目」

「三枚目」

ちょうど、シャッターの閉まった洋品店の前に、木のベンチが一つあった。柴崎は額をベンチに寝かせ、破れた袋のテープを剥がしはじめた。破れた一枚を外して畳み、リュックへしまうと、版画の右半分が、アーケードの白い照明の下に現れた。

先生は「おい」と言いかけて、やめた。

早苗は、二十五年ぶりにそれを見た。

和紙に黒で刷られた、三段の字だった。一字が七センチ四方の板一枚分で、一段に十字ずつ並んでいる。

それぞれの道をゆこう
ときどきふりむいてね
おなじ空の下で会おう

この言葉は、三十人の多数決で選んだ。卒業制作にこれを彫ると決めたのは、二学期の終わりだった。ちょうど三十字だから、三十人で一字ずつ。くじで字を引き、どの字を誰が彫ったかは最後まで秘密にする。「みんなの字にしよう」と言い出したのは多田先生だった。

一月の終わり、家で彫った板を集めて、先生が三段に並べて刷った。教室の後ろに貼り出された日、誰かが気づいた。

三段目の「空」の次の「の」が、裏返っていた。

早苗はその字を見た。左右が逆になった「の」は回る向きが反対で、知らない国の字のように見えた。

「これ」と柴崎が、その隣を指さした。「『空』。これが俺の」

「柴崎くんが彫ったのは、『空』なんですか」

「うん。ほんとは」

先生が、ハンチングのつばを指で触った。

「ほんとは、ってなんだ」

柴崎はテープを指に巻きつけたまま、少し黙った。

「あのとき俺だって言ったけど、俺が彫ったのは『空』です。あなかんむりが難しくて、二回やり直した。だから覚えてる」

「なんで名乗ったんですか」と早苗は訊いた。

「野々村の顔が、真っ白だったから」

早苗は思い出そうとした。貼り出された版画の前で、誰が何を言ったのか。誰かが「誰だよ」と言い、誰かが「下書きは裏返して描けって先生言ってたじゃん」と言って、教室に嫌な空気が流れた。そこで柴崎が手を挙げ、みんなが笑った。覚えているのはそれだけだった。

「『の』のくじは二枚あったんだよ」と柴崎は言った。「一段目と三段目。くじには字しか書いてないから、自分の『の』がどっちに並んだかは、彫った本人にもわからない。野々村は『の』を引いたって、あとで女子に話してたらしい。だから、自分のだと思ったんだと思う」

「それで、代わりに」

「代わりってほどのことじゃない。笑ってもらえば終わると思った。終わらなかったけど」

鏡の柴崎。三年生の三月まで、それから成人式でも、たぶん今日も、そう呼ばれる。

早苗は額の上にかがみこんだ。

一段目の「の」と三段目の「の」は、ちょうど上下に並んでいる。どちらも左から五番目だ。一段目の「の」は普通の向きで、三段目の「の」が裏返っている。

それから、早苗は別のことに気づいた。

「柴崎くん、ここ」

刷られた字のまわりには、どれもうっすらと四角い枠が出ている。板の縁にもインクがついて、紙に写ったのだ。一段目と二段目の四角は、十個ともきちんと同じ大きさで並んでいる。三段目の「の」の四角だけが、ほかより少し大きい。角も、ほかは直角なのに、「の」だけが丸い。

そして、その「の」の右にある五字、「下で会おう」が、全部ほんの少し右にずれていた。

「三ミリくらい、ずれてます」

「三ミリ?」

「字送りがずれています。一段目と二段目の右端に、三段目の右端がそろっていません。私の『会』もずれています」

「戸川さん、『会』なんだ」

「『会』です。ひとやねが、少し左に傾いています」

柴崎は仕事の顔になって、額の縁と版画の右端を見比べた。指を一本ずつ当て、目で測っている。

「ほんとだ。三ミリ。……この『の』だけ、板が大きいんだ」

「学校で配られた板は、全部同じ大きさでした。シナベニヤの七センチ角です」

「そう。角が四角くて、裏に学校のハンコが押してあった」

「この『の』の板は、角が丸いです。誰かが自分で切った板です」

早苗は頭の中で、可能性を並べていった。

柴崎ではない。柴崎は「空」を彫った。

野々村でもない。野々村の板なら学校の板だから、この大きさにはならない。

では、ほかの誰かか。配られた板をなくして、自分で別の板を用意した生徒がいたのだろうか。ありえなくはない。でもそれなら、同じ大きさに切ろうとするはずだ。七センチの板と七センチ三ミリの板は、並べればわかる。並べた人なら気づいたはずだ。

並べた人。

「先生」と早苗は言った。「三十字だから、くじは三十枚でしたよね」

「……そうだったかな」

「横井くんは、十二月に転校しました」

柴崎が顔を上げた。

「あ。横井。お別れ会やった」

「くじを引いたのは一月です。クラスは二十九人でした。くじは三十枚だから、一枚余ります」

先生は黙って、長傘の先を見ていた。傘の先から、雫が一つ敷石に落ちた。

「余った一枚は、誰が彫ったんですか」

先生はしばらく何も言わなかった。焼き鳥屋の換気扇の音が聞こえた。

「……朴の木だよ」と先生は言った。「美術準備室にあった。ベニヤの残りが足りなくてな。目で測って切った」

柴崎は口を少し開けたまま、先生を見た。

「先生が」

「先生がだ。美術の教師がだ。生徒には、下書きは裏返して描けと三回言った。三回言ったその手で、表のまま彫った」

先生はハンチングを脱いで、白い頭をかいた。

「刷った瞬間にわかったよ。わかって、言えなかった。美術の教師がだぞ。そうしたら柴崎が手を挙げて、みんな笑って、ああ助かったと思った。助かったと思ったまま、二十五年だ」

柴崎は何か言おうとして、テープの端を指でいじった。

「……俺は別にいいですよ。もう慣れたし」

「慣れたって顔はしてなかったぞ。さっき、改札で」

柴崎は黙った。

「戸川」と先生は言った。「これは黙っといてくれんか。額だけ渡して、帰りたい」

早苗は赤ペンを握っていた。いつ出したのか、また覚えていなかった。

乾いたアーケードのベンチで、袋を外した版画の額をのぞき込む早苗と柴崎。少し離れて多田先生が立っている。

校正の仕事では、直すかどうかを決めるのは早苗ではない。早苗は鉛筆で疑問を出す。「ここ、ずれていませんか」と書く。直すかどうかは、書いた人が決める。

「決めるのは先生です」と早苗は言った。「私は、ずれていると思ったので言いました。それだけです」

「冷たいな」

「仕事なので」

「今日は仕事じゃないだろう」

「……仕事の都合で遅れると、伝えてあるので」

柴崎が吹き出した。先生もつられて、少し笑った。

柴崎は三枚目のゴミ袋を額の右半分にかぶせ、破れた角のところだけテープを三重に巻いた。版画は袋の中に隠れた。

「野々村は、知りたいかもしれないけど」と柴崎はテープを裂きながら言った。「知りたくないかもしれない。俺にはわかんないです」

先生は返事をしなかった。ハンチングをかぶり直し、紙袋を持ち直した。

十九時二十一分、三人はまた歩き出した。

四 一分は、六十秒

白樺の階段は狭かった。柴崎は額を縦に持ち替え、壁にも手すりにも当てずに二階まで運び上げた。早苗は先に上がって、ドアを開けて押さえていた。

十九時二十五分。

会場の奥の壁には、「祝 卒業25周年 坂ノ下中3年2組」の横断幕が、端だけ白いガムテープで留めてあった。テーブルには料理の大皿が並び、半分ほど減っている。二十人ほどの四十歳が、いっせいにこちらを向いた。

「先生!」

拍手が起きた。先生は帽子を取って受付の机に置き、照れくさそうに手を振った。その後ろで、柴崎は額を壁に立てかけ、早苗は受付の机へ向かった。

受付には野々村がいた。黒いパンツスーツ姿で、「幹事」と書いた名札を首から下げている。机の上には会費の封筒を入れる箱と、名簿と、ボールペンが三本あった。

早苗は封筒を出した。

「六千円です。……すみませんでした」

野々村は封筒の中を確かめて、名簿の「戸川」の横に丸をつけた。

「十八時三十五分ね。テープを買いに出たら、ベルの窓に二人並んでた。横断幕が落ちたのよ」

「はい」

「遅れるのはいいの」と野々村は言った。ボールペンを置いて、早苗をまっすぐ見る。「でも理由はいらない。時間だけ、本当のことを書いて。料理は、来てる人数を見て出す順番をお店と決めてるの。今日は迎えを助けてもらったから、そのあとの変更はわかってる。でも、次は最初から見込みを教えて。仕事の事情より、何時に来るかが要るの」

「……はい」

「それと」

野々村は名簿の端をとんとんとそろえた。

「リレーが嫌なら、嫌って言って。言われても、やるけど」

「やるんですね」

「やる。先生が来るのを、みんな待ってたんだから」

柴崎が後ろから来て、封筒を出した。六千円。

「柴崎くんの『ちょっと遅れる』は、ずいぶん長いのね」

「一時間二十五分」

「細かい」

野々村は丸をつけた。それから、壁に立てかけてあるゴミ袋の塊を見た。

「何それ」

「先生が持ってきた。卒業制作」

野々村の顔が、一瞬だけ動いた。早苗はそれを見ていた。白くはならなかった。でも、口の端に力が入った。

十九時二十八分、遅れて来た先生のために、もう一度だけ乾杯のグラスが回った。久保がマイクを持って、「それでは先生、ひとことお願いします!」と叫んだ。

先生はマイクを受け取った。早苗は壁際の席に座り、隣の椅子に柴崎が座った。

「えー、遅れてすみません。電車が止まりまして。……みなさん、四十だそうで。私は七十四です」

笑いが起きた。

「今日は、返すものを持ってきました」

先生が柴崎に目で合図した。柴崎は立ち上がり、壁の額からゴミ袋をテープごとゆっくり剥がした。二枚の袋が床に落ちた。柴崎はリュックから先ほどの破れた一枚も出して重ね、端へまとめてから、額を両手で持って、みんなのほうへ向けた。

「おお」と誰かが言った。「鏡の『の』だ」

何人かが柴崎を見て笑った。柴崎は額を持ったまま、笑わなかった。

「その『の』ですがね」と先生は言った。

会場が少し静かになった。

先生は、マイクを持っていない方の手を頭へやりかけて、止めた。ハンチングのつばを触ろうとしたのだ、と早苗は思った。帽子は受付の机の上だった。

「あれは、私です」

一秒、誰も何も言わなかった。

「くじが一枚余りまして。横井が転校したでしょう。余った『の』を、私が準備室の朴の木で彫りました。表のまま彫りました。美術の教師が。刷った瞬間にわかって、言えなくて。そうしたら柴崎が手を挙げてくれて、ああ助かったと思ったまま、二十五年です」

久保が「先生かよ!」と叫び、会場は割れるように笑った。拍手まで起きた。先生は「申し訳ない」と頭を下げた。

笑っていない人が、一人だけいた。

野々村が、受付の椅子から立ち上がっていた。

「先生」

「はい」

「私、あのとき、自分の『の』だと思って三日泣いたんですけど」

会場の笑いが、少し引いた。

「下書きはちゃんと裏返して描いたのに、どこで間違えたんだろうって。三日、家で」

「……すまん」

「二十五年分の胃薬代、請求していいですか」

一拍おいて、今度はさっきとは違う種類の笑いが起きた。野々村も少しだけ笑っていた。笑いながら、柴崎のほうを向いた。

「柴崎くんも」

「俺?」

「なんであのとき名乗ったのよ。あなたが手を挙げたから、余計に、私のかもって言えなくなったじゃない。言ったら、柴崎くんを嘘つきにするでしょう」

柴崎は額を持ったまま固まった。

「……そうか」

「そうよ」

「ごめん」

「いいけど。よくないけど」

野々村は座って、名簿を一枚めくった。それで終わりだった。

早苗は柴崎の横顔を見た。助けたつもりのことが、誰かの口をふさいでいることもある。柴崎は額をそっと壁に立てかけ直して、席に戻ってきた。

「俺、二十五年、勘違いしてた」と小声で言った。

「半分は、合っていたと思います」

「どこが」

「笑ってもらえば終わると思った、のところです。終わらなかったけど、あのときの教室の空気は終わりました」

柴崎は、鼻から短く息を抜いた。

十九時三十五分、近況リレーが始まった。出席番号順だった。

一番の相川から、マイクが回っていった。保育士になった人、二回転職した人、去年から犬を飼っている人。一分のはずが三分しゃべる人もいて、早苗はひそかに、頭の中の時刻表を書き換えていった。

柴崎は九番だった。

立ち上がってマイクを受け取ると、誰かが「待ってました!」と言った。柴崎のリュックに三週間分のノートが入っていることを、早苗は知っていた。

「柴崎です。引っ越し屋で、班長をやってます」

少し間があった。

「今日は額を運びました。角は無事です。モノマネはしません。以上です」

「えーっ」と久保が言った。「校長は?」

「やらない」

「じゃあ俺がやる」

久保が立ち上がり、二十五年前の校長の朝礼を真似しはじめた。ひどく似ていなかった。その似ていなさに、みんなが笑った。席に座りながら、柴崎も笑っていた。さっきより、少しだけ大きい声で。

十三番が戸川だった。

マイクは思ったより重かった。早苗は立ち上がり、二十人の顔を見た。知っている顔と、半分知っている顔と、まったくわからない顔があった。

「戸川です。時刻表の校正をしています」

「時刻表って校正するの?」と、どこかから声がした。

「します。電車が遅れると、私の仕事が合っていたのかどうか、わからなくなります。今日もわからなくなりました。以上です」

二十秒だった。

「それで、残りの四十秒ですが」と早苗は続けた。「遅れの回収に使ってください。野々村さん、集合写真は二十時十分でどうでしょうか。中締めを二十時四十五分にすれば、たぶん間に合います」

会場が、妙な感じに静かになった。久保が「短っ」と言った。誰かが「事務連絡になった」と言った。

受付の野々村が手を挙げた。

「助かる。採用。写真は二十時十分ね」

早苗は座った。柴崎が拍手の代わりに、テーブルを指で二回叩いた。

リレーが終わったのは二十時二分だった。写真は二十時十分に撮った。額は前列の真ん中に置かれ、先生はその横に帽子をかぶらずに座った。早苗は三列目の端で、柴崎はその隣だった。

写真のあと、三人が早苗の席に来た。一人は保育士の相川で、「時刻表の校正って、何を見るの」と訊いた。一人は去年から犬を飼っている男子で、「うちの路線、毎朝二分遅れるんだけど、あれは戸川さんのせい?」と訊いた。早苗は「私のせいではありません」と答えた。それから、二分遅れる理由として考えられることを三つ話した。犬の男子は「そんなに話せるんじゃん」と言った。

自分は一分では話せないけれど、一人に向かってなら十分でも話せる。早苗はそれを知った。知ったからといって、どうということもなかった。ただ、ウーロン茶がおいしかった。

二十時四十五分に中締め、二十一時に閉会した。

額はクラスに返されることになった。クラスというのは、つまり幹事のことだった。

「うちのマンション、壁に穴を開けられないんだけど」と野々村が言った。

「立てかけとけばいい。棚の上とか」と柴崎が言った。「来週の日曜は休みだから、持っていくよ。自分の車で」

「今日タクシーで帰るから、今日持って帰る」

「じゃあ、包む」

お店の人が、ワインの箱をばらした段ボールを一枚くれた。柴崎はそれを額の大きさに折り、残りの養生テープで留めた。それでテープは使い切り、芯だけになった。

包む前に、先生が早苗を呼んだ。

「戸川、赤ペンを貸してくれ」

先生は額を裏返し、裏板の端に早苗の付箋を一枚貼って、そこに赤ペンで書いた。

〈三段目五字目 彫り手・多田正巳〉

「こういうのは、校正では何というんだ」

「……書き込み、です。疑問ではなくて、確定の」

「そうか。確定か」

先生は満足そうにペンを返した。ペン先が少しつぶれていたが、早苗は何も言わなかった。

野々村は段ボールの包みを受け取って、タクシーに乗った。窓を開けて、早苗に言った。

「次の進行表、作ってくれる? 戸川さん」

「……次は、定刻に行きます。受付の手伝いもします」

「進行表は?」

「近況リレーを一人三十秒にしてもいいなら」

「考えとく」

タクシーが走り出した。

先生の帰りの各停は二十一時十八分で、三人で駅まで歩いた。雨は止んでいた。アーケードの真ん中のベンチには、もう誰も座っていなかった。

改札の前で、先生は帽子を取った。

「柴崎」

「はい」

「二十五年、ありがとうな」

「……次からは、自分で言ってください」

「言ったろう、今日」

「遅いです」

「遅れて行くのは、お前たちも同じだろう」

先生は笑って、改札を抜けていった。もう体を斜めにしなくても通れた。

ホームへ上がる階段の手前で、柴崎がリュックを開けた。

「戸川さん。これ」

小さいノートだった。表紙に〈同窓会 一分〉と書いてある。

「三週間の」

「読んでほしいわけじゃないんだけど。いや、読んでほしいのかな。赤ペン持ってるし」

早苗はノートを開いた。一ページ目から引っ越しの話だった。人生の荷物は段ボール何箱、というところから始まり、途中で校長の朝礼の話になって、最後にもう一度段ボールに戻ってきていた。

早苗はペン先のつぶれた赤ペンで、二か所に線を引いた。

「ここと、ここ。オチが二回あります。どちらかにしてください」

「どっちが面白い?」

早苗は少し考えた。

「どちらも、少し」

柴崎は、今日いちばん大きな声で笑った。昔の声に少し似ていた。でも、同じではなかった。

二人の電車は反対方向だった。早苗の各停は二十一時二十四分、柴崎のは二十一時二十六分だった。

「次は何分遅れる?」と柴崎が訊いた。

「遅れません。受付です」

「じゃあ俺は、額の係」

「それは係ではなくて、柴崎くんの仕事です。頼まれたら」

「頼まれたらね」

早苗の電車が来た。乗ってからドアの窓越しに見ると、柴崎はホームのベンチに座ってノートを開き、どちらのオチを消すか考えているようだった。

ドアが閉まった。早苗は手帳を出して、新しい付箋に書いた。

〈次回 受付17:45着〉

書いてから少し考えて、その下にもう一行足した。

〈ベルには寄らない〉

最後まで読んでいただき、ありがとうございました。

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