一 十二時五十八分の西アーチ
戸川七緒は、軽バンのエンジンを切る前にスマートフォンを見た。
十二時五十八分。
それからフロントガラス越しに上を見た。ひばり通り商店街の西アーチ。緑に塗られた鉄の門の真ん中に、丸くて白い時計が掛かっている。黒い数字に黒い針。長針は一の目盛りから少し進んだところにあった。
十三時七分。
「はい、九分」
膝に置いた手帳を開く。配達ルートの時刻を書くための薄い手帳で、最後のページにだけ仕事と関係のない表がある。
〈西アーチ 月・木 スマホ/アーチ〉
三週間前の月曜から、ここに車を停めるたびに書いてきた。十三時四分と十三時十三分。十二時五十一分と十三時ちょうど。十三時十分と十三時十九分。どれも差は九分で、今日で七回目になる。
「針の進み方がおかしいなら、ずれが広がっていくはずなんだけどな」
独り言を言いながら、表に七行目を書きこんだ。
荷さばき場は西アーチの外側、住宅地へ抜ける道の角にある。商店会が借りている、白線を三本引いただけの場所だ。七緒はバックドアを開け、台車を下ろした。福引券の段ボールが二箱、各千枚。パン屋の紙袋が二束、各二百五十枚。時計店の修理伝票が三冊入った封筒。薬局の割引券がひと包み。いちばん上には、クリアファイルに入れた寄付チラシの校正とタブレットを置いた。
アーチをくぐって振り返る。内側から見上げると、そこにあるのは「ひばり通り」の名板と、四角い換気グリルだけだった。時計の顔は外を向いている。商店街の中を歩く人には見えない。
知っていたはずのことなのに、七緒は今日になって初めて、それを面白いと思った。
アーチの時計の真下には、横断幕が渡してある。
〈秋のひばりまつり 土・日 福引は朝十時から〉
二週間前にミナト印刷が刷って、七緒がこの台車で運んだものだ。幕の端から、日に焼けた白い板の角がのぞいている。幕を掛ける前も、残った文字は下からほとんど読めなかった。
台車を押して東へ向かう。藤巻時計店の前を過ぎ、二軒先の久我乾物店に着いた。店先には干し椎茸と昆布が並び、奥の階段の上が商店会の事務所になっている。
「ミナト印刷です。福引券、お持ちしました」
「上だ」
声だけが降ってきた。会長の久我敬一郎は、事務机に老眼鏡を押し上げて待っていた。七十歳。祭りのたびに紺の法被を着る人だが、今日はまだカーディガン姿だった。
「二千枚、二箱です。番号は〇〇〇一から二〇〇〇まで、箱の側面に書いてあります」
「ん」
会長は箱を一つ開け、束の一番上をめくって番号を確かめ、ふたを閉じた。それから、七緒が差し出した校正をひったくるように受け取った。
〈西アーチの時計を新しくします 九分進む時計に、さようなら ――電波時計設置のための寄付のお願い〉
見出しの下には、白黒の写真を一枚入れてある。会長が貸してくれたアルバムからスキャンした「昔の西アーチ」だ。今より塗装が明るく、アーチの前を自転車の男の人が横切っている。
「写真、下を切ったな」
「はい。ご指示どおり、時計の下の看板みたいなところから下は切りました」
「ごちゃごちゃするからな。それでいい」
会長は赤ペンを持ったまま、しばらく紙をにらんでいた。
「去年な」と、紙から目を上げずに言う。「福引を十時に始めたら、九時五十一分からもう並んでるんだ。あの時計が十時を指してるってな。『まだか』『時間だろ』と、子どもまで言う。あんな時計があるせいで、商店会がだらしなく見える」
「九分進んでるの、わざとじゃないんですか」
「誰がわざとあんなことをする」
「遅刻しないように、とか」
「なら五分にしとけ」
それは七緒も同じことを思っていた。
「判はいつ押していただけますか。今夜刷るので、うちの工場は十六時で版を締めます」
「二時五十分に来い。三時十二分の電車で市役所に行く。祭りの書類を出しにな。出る前に押す」
「二時五十分。わかりました」
七緒は手帳にそう書いた。同じページの欄外には、小さく〈15:00 ことり〉とも書いてある。それは会長には見せなかった。
二 三つの説と、紙袋五百枚
藤巻時計店のガラス戸を開けると、時計の音がいっせいに耳に入ってきた。壁に掛かった時計が十いくつ、柱時計が二台。どれも十三時二十五分を指している。七緒はスマートフォンと見比べた。合っている。
「ミナト印刷です。修理伝票、三冊です」
藤巻芳枝はルーペを額に上げて、封筒を受け取った。六十代の、背筋のまっすぐな人だ。中身を一冊ずつ出し、表紙の店名の刷り色を蛍光灯にかざして確かめてから、ようやく「はい」と言った。
「藤巻さん。西アーチの時計って、こちらで見てらっしゃるんですよね」
「そうよ。毎月一回。停電があったらその日のうちに」
「九分、進んでますよね」
藤巻の眉がわずかに上がった。
「進めてあるの。私が合わせてる」
「わざと、なんですね」
「父がそうしろって。『西のは九分』って。店を継いだとき、それだけは何度も言われた」
「理由は」
「聞かなかった」
藤巻はルーペを下ろして、作業台の上の腕時計に目を戻した。
「遅刻しないように、でしょ。昔の人はよくやったのよ、家の時計を進めておくの。……あんた、会長の味方? チラシ作ってるんでしょ。『さようなら』って」
「作ってるのは、頼まれたからです」
「機械はね、壊れてないのよ。月に何秒もずれない。九分は、九分のまま」
「それは記録とも合ってます」と七緒は言った。「三週間、六回とも九分でした。今日で七回」
藤巻が顔を上げ、少しのあいだ七緒を見た。
「そんなの記録してるの」
「気になったので」
「暇なのね」
「暇じゃないです」
七緒はそう言いながら、手帳の表を閉じた。針の進み方は正常らしい。一定の差だけで合わせ間違いまで消せるわけではないが、藤巻が意図して合わせていることはわかった。では遅刻防止なのか。それなら、やはり五分か十分のはずだ、と思う。九分という数は、誰かが決めた数というより、誰かが測った数に見えた。けれど、何を測ったのかがわからない。
パン工房ことりは、通りのちょうど真ん中にある。ガラスケースの上で、黄色い札が揺れていた。
〈三時のクリームパン 十五時焼き上がり お一人さま二個まで ご予約はお受けしていません〉
「紙袋、五百枚です。二束」
「わあ、ありがとう。今回、鳥の絵ちょっと大きくしたでしょ。かわいい」
小野寺楓は束を一つ抱えて奥へ運び、戻ってきてもう一つを抱えた。四十代で、粉のついたエプロンのまま喋りつづける人だ。
「楓さん、西アーチの時計って」
「九分ね。知ってる知ってる。あれ、昔の駅の時計に合わせたんだって」
「駅の」
「昔は駅の時計が九分進んでて、みんなそっちを信じてたから、商店街もそれに合わせたの。豆腐屋のおじさんが言ってた」
「駅の時計が何十年も九分ずれてたら、電車が困りませんか」
「困るかも」楓は少しも困っていない顔で笑った。「でも私、あの時計ほとんど見ないもん。二階に住んでるし、表はあっち向きでしょ。外から来る人の時計よ、あれは」
外から来る人の時計。七緒はその言葉を、手帳ではなく頭の中に書き留めた。
「それで、三時のクリームパンなんですけど」
「予約はやってないよ」
「わかってます。三時にここに来られれば」
「並べばいいの。並んだ人のもの。二十個しか焼かないから、二時五十分くらいから並ぶ人もいる」
二時五十分。会長の判の時刻だった。
ドアベルが鳴り、ベビーカーを押した男の人が入ってきた。三十代くらいで、ベビーカーには二歳くらいの女の子が乗っていて、手に持ったパンの絵本を振っている。楓が「新田さん、いらっしゃい」と言った。
ベビーカーの前輪がドアの段差に引っかかった。七緒は手を伸ばして押し戸を支えた。
「すみません」
「いえ」
新田は食パンを一斤頼み、待つあいだに、楓と七緒の話の続きを拾った。
「西アーチの時計の話ですか。僕らは好きですよ、あれ。毎朝あっちから来るので」
彼は住宅地の方角を親指で示した。
「母が言うんです。あの時計を見てから歩き出すと、電車にちょうどいいって。僕は走っちゃうから、いつも早く着きすぎてホームで待つんですけどね」
「ちょうどいい、というのは」
「さあ。母はゆっくりなんで。この子と歩くときもゆっくりで、そうするとちょうどいい、って」
女の子が絵本をベビーカーの外へ落とした。七緒が拾って渡すと、女の子は受け取ってから、なぜか七緒に一回だけ頭を下げた。
店を出ると、七緒は手帳を開いた。
〈仮説1 針の進み方の故障 → 記録と店の点検では正常〉
〈仮説2 遅刻防止 → 九分は半端〉
〈仮説3 昔の駅の時計 → ?〉
その下に、少し迷ってから書いた。
〈外から来る人の時計。ゆっくり歩くと、電車にちょうどいい〉
三 切り落とした看板
薬局に割引券を納め終えたのは、十四時十二分だった。
七緒は荷さばき場に戻り、運転席でおにぎりの包みを開けた。昆布と梅。ひと口かじってから、助手席のタブレットを膝に載せる。
切り落としたのは、自分だ。
会長に言われたとおり、校正の写真は時計の下で切ってある。けれど、切る前のスキャンデータはタブレットに残っていた。アルバムから写真を外してもらい、六百dpiで読みこんだ元のデータだ。七緒はそれを開いて、指で広げた。

緑色のアーチ。丸い時計。その下に、細長い白い板が付いている。琺瑯だろうか、縁が少し欠けている。
さらに広げると、写真の粒が浮いてきた。それでも文字は形を残していた。
〈この時計は 駅のホ……着の時刻です〉
その下に、一回り小さな字。
〈ゆっくり歩いて〉
続きは、自転車の男の人の帽子に隠れていた。
七緒はおにぎりを持ったまま、しばらく動かなかった。
ホームに着く時刻。
今の時刻ではない。ここから歩いて駅のホームに着いたときの時刻を、先に出している時計。それなら、文字盤が住宅地のほうを向いている理由がわかる。駅へ向かう人は住宅地から来て、このアーチの前で時計を見上げ、そこから歩きはじめる。商店街の中にいる人には、そもそも用のない時計だ。
九分という半端な数も、時計を合わせる人が決めた数ではない。道が決めた数だ。
「……でも、写真の看板だけじゃね」
これは七緒の癖だった。誰かが言ったことも、どこかに書いてあることも、一度は自分で確かめないと気が済まない。印刷物の色を、見本ではなく刷り上がりの紙で確かめるのと同じことだ。
十四時二十八分。会長との約束まで二十二分ある。
七緒はおにぎりの残りを口に押しこみ、車を降りた。西アーチの外側、文字盤の真下に立つ。スマートフォンが十四時三十分になった瞬間、見上げた。
十四時三十九分。
歩き出す。藤巻時計店、久我乾物店、ことり。ガラスケースの向こうで楓が天板を運んでいた。東アーチをくぐり、跨線橋の階段を一段飛ばしで上る。改札の横の券売機で入場券を買うとき、少し考えて二枚にした。
「あとで、もう一回来るので」
聞く人もいないのに口に出していた。
二番線ホームの柱に、丸い時計が付いている。七緒が階段を降りきったとき、その長針は七の目盛りを二分ぶん過ぎていた。
十四時三十七分。
スマートフォンも同じだった。アーチの時計が「着く」と言った時刻より、二分早い。
「早足だと、七分」
ゆっくり歩いて、と板には書いてあった。新田の母はゆっくりで、新田は走るから早く着きすぎる。
七緒は自分の足を見下ろした。配達用の、底の厚いスニーカー。この靴で、七緒はいつも予定より早く着く。それが自慢だった。
ホームの端から、電車の来ない線路を眺めて一分だけ立っていた。それから改札を出て、早足で商店街を戻った。
十四時四十四分。久我乾物店の前に着いた。
約束の六分前だった。
四 ホームの時計
十四時五十分。事務所の会長は、もう印鑑ケースを机の上に出していた。
「来たな。押すぞ」
「ここを出てから、十二分ください」
会長が老眼鏡越しに七緒を見た。
「何だ」
「西アーチの時計は、故障でも遅刻防止でもないと思います。ホームに着く時刻を出している時計です。そこからゆっくり歩いて、駅のホームに着いたときの時刻です」
七緒はタブレットを差し出した。広げた写真の、白い板の文字を見せる。会長は眼鏡を額に上げ、目を細め、また下ろした。
「……こんなもん、あったか」
「ありました。今は横断幕の裏です。うちが刷った幕です」
「で、十二分ってのは」
「西アーチまで行って、そこから駅まで一緒に歩いてください。三時十二分の電車なら間に合います。判は、ホームで押していただければ」
「遠回りだ。駅は東だぞ。わざわざ西に戻って、また東に歩けってのか」
「はい」
「馬鹿らしい」
「さっき、一人で歩いてきました。早足で七分でした。時計の言う時刻より二分早かったです。会長の歩き方で測りたいんです」
「俺が遅いってのか」
「商店街の人に挨拶しながら歩かれるので」
会長は黙った。机の上の印鑑ケースを指で一度叩き、カーディガンのポケットに入れた。それから椅子の背の上着を取った。
「十二分だな」
十四時五十二分に事務所を出た。西アーチまでは二分。会長はアーチの外に出て、腕時計と時計を並べて見上げた。
十四時五十四分。アーチの時計は、十五時三分。
「九分だ。いつもどおり」
「ここから、です」
会長は歩き出した。最初の一歩から、確かにゆっくりだった。藤巻時計店の前でガラス越しに手を上げる。藤巻が作業台から顔を上げ、二人が並んで東へ歩いていくのを、怪訝そうに見送った。乾物店の前では店番の奥さんに「留守頼む」と言い、豆腐屋の前では「明日も油揚げ取っといてくれ」と言った。
ことりの前には、もう六人並んでいた。十四時五十八分。ガラスの向こうで、楓が天板にずらりと並んだ丸いパンの照りを見ている。行列の先頭の人が、首を伸ばして中をのぞいていた。
七緒は一度だけ行列の最後尾を見て、そのまま会長の半歩うしろを歩いた。
「並ばんのか」
「判が先です」
「ふん」
東アーチを抜けると、跨線橋の階段がある。会長は手すりを持って、一段ずつ上った。七緒も一段ずつ上った。手すりの冷たさが、指の腹から伝わってきた。
改札で会長はカードをかざし、七緒は二枚目の入場券を通した。十五時二分。
二番線への階段を降りる。ホームのコンクリートに会長の靴が着いたとき、柱の丸い時計の長針が、十二の右にある、三分の小さな目盛りに乗った。
十五時三分。
会長は腕時計を見た。それから、首をひねるようにして、西の方角を振り返った。ここから西アーチは見えない。屋根と電線と、柳瀬台の空が見えるだけだ。
「……九分か」
「九分です」
「おふくろが言ってたな。あれを見て出れば、汽車に乗り遅れんって」
会長はベンチに座った。印鑑ケースを出し、七緒の差し出した校正を膝に置く。
「赤、貸せ」
七緒は自分の赤ペンを渡した。会長はそれを持ったまま書かずに、口で言った。
「題。『西アーチの時計を新しくします』、消す」
「書いてくれ」と、会長は赤ペンを七緒に戻した。七緒は横から、校正の余白に赤字を書いた。
「『西アーチの時計は、九分先のホームの時刻です』」
「はい」
「『さようなら』も消す。寄付の目的。『電波時計設置』じゃなくて、『銘板を作り直すため』。それから、写真」
「下まで入れますか」
「看板まで入れろ。九分は目安だとも入れろ。それと一番下に、一行足せ。『福引は、駅の時計で十時から』」
七緒は書き、読み上げた。会長はうなずいて、朱肉を開けた。
「何て押すんだ、こういうときは」
「直しを入れて、それで刷っていいということなら、責任校了です。『責了』と書いて、判を」
七緒が赤ペンを返すと、会長は四角くはみ出しそうな字で〈責了〉と書き、赤ペンを七緒へ戻してから、その横に判を押した。押してから、携帯電話を出した。

「……ああ、芳枝さん。久我だ。いや、今ホームだ。あんたの親父さん、測ったんだな。……測ったんだよ、九分。駅まで。……知らん、俺も今知った。……時計は替えん。替えんと言ってる。……ああ。看板だけ作る。それでいいな」
電話の向こうの声は、七緒には聞こえなかった。会長は電話を切ると、それをしまいながら言った。
「怒ってた」
「藤巻さんがですか」
「なんで今まで聞かなかったんだ、ってな。聞かなかったのは向こうも同じだろうに」
電車の到着を知らせる放送が流れた。十五時十二分。会長は立ち上がり、カーディガンの上の上着を引っぱって直した。
「戸川さん」
「はい」
「パン、間に合うのか」
「たぶん、もうないです」
会長は鼻を鳴らした。笑ったのかどうか、七緒にはわからなかった。ドアが開き、会長は乗り、ドアが閉まった。
七緒は階段を一段飛ばしで駆け上がった。
十五時十七分。ことりのガラスケースには、黄色い札が裏返して置いてあった。
〈本日の三時のクリームパンは終了しました〉
「最後の一個、九分に出ちゃった」楓が言った。「七緒さん、三時ごろ前を通ったでしょ。会長と」
「通りました」
「並べばよかったのに」
「判が先でした」
「えらいけど、パンは並んだ人のもの」
「知ってます」
七緒は、焼き菓子の棚の端にあった最後のフィナンシェを一つ買った。車に戻って、エンジンをかける前にもう一度、西アーチの時計を見上げた。
十五時二十九分。
ホームにゆっくり着くなら、そのころだ。十五時二十分の今、ここを出る人にとっては。
七緒は手帳の表の下に、八行目を書かずにおいた。もう、測るものが違うと思った。それから吉野に電話をかけた。
「赤字、五か所。写真の差し替え一点。責了もらいました。四十五分には着きます」
五 三時のクリームパン
翌週の木曜日。十四時四十六分、七緒は荷さばき場に車を停めた。
横断幕は月曜に外されていた。時計の下には、新しい白い板が付いている。ミナト印刷の看板協力先に頼んだ、アルミの板にシートを貼った仮の銘板だ。寄付で正式な琺瑯の板ができるまでのつなぎで、文字は古い写真の板の書体に寄せて、七緒が版を作った。
〈この時計は、駅のホームに着く時刻の目安です。ゆっくり歩いて約九分〉
その下で、脚立を畳んでいる人がいた。
「藤巻さん」
「拭いたのよ、文字盤。十年ぶりくらい」藤巻はタオルで指を拭きながら言った。「父に電話したの。姉のところにいるんだけど、時計の話しかしないのよ、あの人」
「何て言ってました」
「『当たり前だ、測ったんだから』って。母と三回歩いたんだって。母はゆっくりだから」
「お母さまも、お元気で」
「元気よ。今も歩くの遅いの」
藤巻は脚立を肩に担いだ。
「土曜の福引、会長が腕時計を持って、十時ちょうどにガラガラ回したわよ。ちょっとでも早く並んだ人には、『あれはホームの時計だ』って、いちいち説明してた。誰も聞いてないのに」
「チラシ、効きましたか」
「寄付は今のところ、三十二件。一番最初は豆腐屋。二番目は私」
藤巻はそう言って、時計店のほうへ歩いていった。
七緒は文字盤を見上げた。
十四時五十五分。
これは今の時刻ではない。今ここから歩き出してホームに着く時刻だ。ことりは、西アーチから駅へ向かう道の途中にある。ゆっくり歩いて四分ほど。七緒の足なら三分。
今は十四時四十六分で、焼き上がりは十五時。並ぶなら、十分ある。
七緒は台車を下ろさずに、手ぶらで歩き出した。少し考えて、歩幅をいつもより半歩だけ狭くした。藤巻時計店のガラスの向こうで、柱時計が二台とも同じ時刻を指していた。
ことりの前には三人並んでいた。七緒は四番目に立った。前の人はベビーカーで、女の子が振り向き、七緒を見て、また一回だけ頭を下げた。
「あ、この前の」新田が言った。「看板、付きましたね。母が喜んでました。『やっと読めるようになった』って」
十五時ちょうど。ドアの内側で、楓が黄色い札をひっくり返した。
〈三時のクリームパン 焼き上がりました〉
「一個ください」
「二個までいいのよ」
「一個で」
楓が紙袋に入れた。鳥の絵が少し大きくなった、ミナト印刷の袋だ。七緒は百八十円を払い、まだ熱い袋を両手で受け取った。
店を出て、西へ戻る。アーチの内側には、名板と換気グリルしかない。時計は見えない。それでいいのだと思った。あの時計は、これから歩いていく人のために、外を向いている。
荷さばき場で袋を開けると、湯気が少しだけ上がった。七緒はひと口かじった。
時計を見上げなかった。今が何時かは、ポケットのスマートフォンがわかっている。
七緒はバックドアを開けて、次の配達先の箱を台車に下ろした。


